思い出はいらない
あの日、土砂降りの雨の中を
きみは傘を持って立っていた
「降ってよかった」
と、きみは小さく言った
「謝る口実ができたもん」
かわいそうに
思いつめたような顔つきで
しょんぼりとしてる
ひとりの時間
昨日のことをやたら大げさに考え過ぎて
ぼくの顔をちゃんと見ることもできなかった
駅の階段は水浸しで
無数の足跡がタイルを汚していた
「こっちが」
とぼくは言った
歩道の自転車を避けつつ
「こっちが、悪かったんだよ」
それは本当のことだと思った
きみの涙を見たのに、ぼくはやめなかったんだから
きみが洗濯カゴの中身を全部投げつけて
泣きじゃくっても
とことんまで、やめなかったんだ
だけど
気持ちを声にするのはひどく難しく感じられた
あまりにも人通りが多すぎた
だからぼくは
花屋の脇を折れたころ
雨のなかに手を伸ばして
コンビニエンスストアの明かりに照らされる
きみの髪に触れてみた
「ひゃ!」
と、きみは首をすくめた
ふりかえり、ぼくの表情を見てから
きみは短く笑った
「もう!」
傘を振り回すそぶりを見せて
「こら、突いちゃうぞ」
と言った
そんな思い出ももういらない
「ごめん、ごめん」
とぼくは謝った
「ごめん、ごめん」
傘を持たないほうの手できみは
冷えた髪を紙縒のようによってみせた
ん?と首をかしげる
こんなもの何が面白いんだろう?というような
生きているきみのしぐさ
しかし、たたきつけるような雨は
記憶の中のすべての景色を優しく
にじませる
路面いっぱいの信号機の青!
あのころは根拠も理由も存在しなくたって
いっしょに歩いているというだけでも
すべてのことがゆるされていると思い込んでいた
「いっしょにいる」
しばらく黙って歩いたあと
ぼくは
そう宣言した
うなずくきみ
「何も怖くない」
ほとんど何かに挑むような口調でぼくは言った
「何も怖くないよ」
言っておかねばならないことを
もう一度くり返した
「ほんと? うれしい」
ときみは微笑む
そのあときみは
「気が変わったら、言ってね」
なんて言う
みんないらない
消えていって
しまえ
雨はさらに激しかった
「靴下まで濡れてきたよ」
きみは言った
急いで部屋に帰ろう、と
あのとき、きっと
そうぼくに伝えたかったのに違いない
2003年5月30日
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