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コラム

『小出裕章 原発と憲法9条』出版にいたるまで

 

41年間一貫して「原子力をやめることに役に立つ研究」を行なっている専門家、小出裕章先生のお名前を知ったのは、3月11日の原発事故以降のことでした。
原子力発電というものに関する私個人の立場は、事故以前から明確な全面廃止ではあったのですけれど、とはいえそれは「原発は止めるべきという意見を持っている」という以上のものではありませんでした。
そんなわけですから、小出先生のお名前をすら、知らないといったありさまだったわけです。
今回の福島第一の原発事故が起きるまで、日本に原発が54基も存在しているなんて、そんな基本的なことも知らなかったのでした。
そのような、無知の上に成り立っていた私のささやかな日常も、3月11日の枝野官房長官(当時)の会見「最大限の努力をしております」によって、すべて吹き飛んでしまいました。
「最大限の努力」といっても、そんなことは当たり前で、そのような具体性のないかけごえのようなものをもって対応策とした時点で、事態のコントロールを失っていることの証左となっているのではないか。
そのような直感が戦慄となって、テレビを観ていた私の全身を貫いたことを覚えております。
それからは、もう、インターネットを通じての情報収集に不眠不休であけくれる、という状態が一週間は続きましたでしょうか。
そうしたなかで、小出先生のお名前を知ったわけです。
(小出先生は「先生」と呼ばれることを非常にいやがっておられるのですが、ご本人を前にしたときだけ「さん」と呼ばせていただき、ご本人のいないところではコソコソ(?)と先生と呼ばせていただいております)。
しかし、小出先生のお名前をすら知らなかった、「原発なんてなくなったらいいなあ」と他人事のように考えていただけで、なんら行動をしてこなかった、という自分自身のこれまでのありようというものが、小出先生に対する後ろめたさのような気持ちとなって、直接にご連絡させていただくことをためらわせておりました。
それに、小出先生の主張を本にして出版するのは、私のところのような超弱小出版などではなく、もっと大手の出版社からほうが良いのではないか、と思ったりもしました。
営業の力が違いますから、どこの書店でも棚差し、ヒラ積みとしていただけることでしょう。
小出先生の主張をひとりでも多くの方々のもとへと届けるためには、そのほうがいい、と思っておりました。
ところが、4月に小出先生のインタビューを敢行してラジオで放送した『FMわいわい』のキムチアキさんから、
「小出先生の本を出版したりはしないのですか?」
と言っていただき、すると今度はなにやらそれが自分たちの使命のような気がしてきたから不思議です。
電話とはいつだってぶしつけなものでしかないのですが、お忙しい小出先生の仕事場にお電話をして、書籍化のお話をさせていただいた次第です。
本のタイトルは、『小出裕章 原発と憲法9条』です。
原発事故が起きて、ようやく私にもわかってきたのですが、原発の問題とは、より普遍的には差別の問題です。
このことをふまえて、反原発運動は組織されなければならない。
そうした本にしたかったし、なったのじゃないかな、と思っております。
この本の中に、ほんの少しだけ、質問者として私が出てきます。
小出先生の仕事場におじゃまして(先生は京都大学原子炉実験所の会議室を用意してくれておりました)ほんとうに恥ずかしい質問をさせていただいたのですが、その質問がどれほどに恥ずかしいものかは本をご購入して確認していただくとして(笑)、小出先生のお返事を抜粋します。
(遊絲社 溝江純)

2011年10月31日・FMわぃわぃインタビュー(京都大学原子炉実験所・会議室にて)

 

小出 福島第一原子力発電所の事故は、事実として起きたのです。
そして、これも事実として、いまの膨大な汚染という事態もあるのですね。
そうした事実を見たくないというなら……見ないで過ごすこともできる。日本という国は―東京電力もそうですけれども―いま現に起きている事実を人々に見せないようにして情報を流しているのですよね。
でも私は、どんなに苦しい事実であっても、見ないよりは見たほうがいいと思っています。
ヴァイツゼッカーは『荒れ野の四〇年』のなかで、すでに起きてしまったことをなしにすることはできない、そして、過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目になる、と言っています。
歴史、あるいは事実に目を閉ざしてはならない。ちゃんとそれを直視した上で、考えるべきだというのですね。
3・11は起きてしまった。それをなかったかのようにふるまって、通り過ぎようとしたって、事実は変わらずそこにあるんだから、まず事実を見るということから始めるべきだと、私は思います。
まあ、誰だって、つらい事実は見たくないものです。福島の人たちだって、安全であってほしい、安心したい、大丈夫であってほしいと、みんな望んでいますよ。
安全だよ、安心だよ、大丈夫だよと言ってくれる専門家がいたら、その言葉にすがりたいという気持ちは、誰だってある。それくらい切実に願っている。
でも、それは、正しいあり方ではない。
危険があるという事実を受け入れた上で、次の……。未来はありますよ! 未来なんて必ずあるに決まっている。
そして、どんな未来を手に入れるかは、私たちの手にある。
若い人たちの手のなかに、未来はある。
ですから、ちゃんと事実と向きあった上で、どういう未来を作るかということを考え、そのために行動する。そういうことを私はやりたいと思うし、若い人たちもそうあってほしいと思います。

 

2012/1/1

 

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