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なかにし屋・日本一の画噺』(2004.4.9)

お世話になってばかりのあるかたから、とっても貴重な絵本集をお借りした。
幅7センチ、奥行き13.7センチ、高さ17.8センチの和紙仕立ての長方形の箱に、4冊の絵本が入っている。
本来は、この箱の中に6冊の絵本が入っていた。ところが、さまざまなひとの手をわたっているうちに、2冊が行方不明となり、今は4冊だけが仕舞われている。
絵本集のタイトルは、パッケージに記されている。
『日本一ノ画噺』だ。
パッケージに記された『ヤシニカナ』とは、右から呼んで、「なかにしや」と読む。現代語表記に無理に表記し直すと『なかにし屋・日本一の画噺』だ。
この絵本集は、大正時代に発行されたものを、当時のおもむきをそのままに、ぽるぶ出版さんが、昭和53年に再発行したものだ。
手にとると、不思議な温かみがあって、極厚で大判のカルタのような、独特の感触がある。この温かみは、表紙がpp加工(本のカバーのつやつやした感じ)されていないことからくるのかもしれない。
4冊の絵本のタイトルはそれぞれ、「カチカチヤマ」、「キヨマサ」、「アヒルトニワトリ」、あともう一冊は、これは何と読むのだろう?「ンガキヤウダイ」? むう。絵本とはいえ、そんな意味不明なタイトルはありえない。
これは「ン」じゃなくて「リ」か? 「ソ」か? そが……。
わかった「曽我兄弟」だ。
当時は、「キョウダイ」を「キヤウダイ」と表記したのだろう。
では、当時とは、いったいいつのことなのか。
この絵本の初版印刷日は、大正三年と記されている。「カチカチヤマ」は大正四年に初版印刷、「キヨマサ」は大正三年、「アヒルトニワトリ」はなんと、大正元年だ。
それぞれの絵本の、2色刷で構成された各ページの展開のさせかたに、感心させられる点が多い。
そうやって、大正時代に作り出された絵本を眺めていると、絵本自体は昭和に再版されたものなのだけれども、内容はそのままに再版という形で絵本が今日に残ったのと同時に、当時の子どもたちが、この絵本のどこかに、今もいるのではないかという気がしてくる。
ところどころ微妙に版ズレを起こした印刷、「カチカチヤマ」という文字。絵本の中で時間は止まり、それを読んでいた子どもたちの想いも、絵本の中に封印されているのではないか。
と、これは、感傷的に過ぎる言いかたになってしまった。
けれど、貴重な絵本を宝物のように大切にしながら読んでいる子どもたちの姿が浮かんで、不思議な安堵感を覚えたりは確かにするのだ。




フィリップ=K=ディックが好き(2004.4.8)

萩尾望都センセのまんが『バルバラ異界』の2巻の帯に、萩尾望都センセが好きなSF小説作家のリストが載っていた。
アイザック=アシモフ、フィリップ=K=ディック、ヘンリー=カットナー、ロバート=A=ハインライン、レイ=ブラッドベリの名前が挙がっていた。
へー!
レイ=ブラッドベリをご愛読なさっているのは予想がついたけれど、萩尾望都センセ、フィリップ=K=ディックが好きなんですね! ちょっと以外。
フィリップ=K=ディックは、私の大のご贔屓作家だ。
どうしようもないまでに惚れており、個々の作品の出来不出来を越えて、何もかもが好きで好きでたまらない。
彼の小説はときにプロットが破綻し、小説の冒頭とラストでは全然別の物語になってしまっていることすらあるけれども、そんなことでは、私の、フィリップ=K=ディックへの愛は変わらない。
(;^_^ A
ああ、こんなにもひとりの作家を愛する自分がいるなんて!
これが恋かしら(ナイナイ)。
何度もくり返すが、私はディックのことが、好きで好きでたまらない。
無垢で、純真で、弱虫で……手のひらに舞い降りてきたひとひらの雪のように貴重。
この無垢さは、人類全体への素晴しい贈り物で、小説書きとしてはドストエフスキー以来ではないだろうか? とまで、私はディックを買いかぶっている。
フィリップ=K=ディックは、生きているあいだは小説が売れなくて、狂人扱いされたまま、ヒボシ同然で死んでしまった。
ディックのような美しいひとを無視し、苦しめ、追いつめ、死なせてしまった、横暴で凶暴なアメリカという国を、私は許せない。
彼の死の直後に、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が、リドリー=スコットの手によって『ブレードランナー』というタイトルで映画化され、それ以後、彼の残した作品は少しずつ評価をあげて今日に至っている。
『ブレードランナー』は、素晴しい映画だった。
彼が生きている間に、せめて、この映画だけでも見せてあげったかったと、ディックが大好きな私は、今もせつなく思う。
彼の小説については、さまざまなことが語られているけれど、正直、首をかしげたくなるものが多い。
いや、偉ぶっているわけではないんだ。
幻視者だとか、ドラッグ小説だとか、悪夢と現実の境界線がどうしたとか、しかし、そんな難しい小説では、そもそもないと思うのだ。
彼の小説のテーマは
「現実とは何か?」
「人間とは何か?」
「愛とは何か?」
という三つの問いかけに集約することが出来る。
したがって、彼のSF小説なかには、偽物の現実、偽物の人間、そして、偽物の愛というガジェットが、頻出する。
偽物の現実、偽物の人間、という彼の原作に登場するガジェットは、特殊効果、いわゆるSFXを駆使したこのごろのハリウッド映画に注目され、最近になって頻繁に映画化されるようになった。
しかし、『ブレードランナー』を別にしたら、どの映画の出来もひどいものばかりだ。
いや、くり返すけれど、偉ぶっているわけではないのよ。
ひどいものは、ひどいとしか言いようがない。
最近の映像技術の進歩は、「現実とは何か?」、「人間とは何か?」というバーチャル世界を再現できるようにはなったものの、最後のテーマ、「愛とは何か?」という問いかけが、映画からはごっそりと抜け落ちてしまっている。
そもそも、主役に抜擢する俳優が、シュワルツネッガーとか、トム=クルーズとか、アメリカむきむきマッチョマンで、繊細きわまりないディックの登場人物には、まったくミスキャストだ。
私は秘かに疑っているのだが、ディックの小説のテーマが「愛」についてなのだということすら、映画関係者は気がついていないのではないだろうか?
これはじゅうぶんにありえる話だ。
日本での話しになるけれど、学校の卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱するさいに、起立しなかった教師200人を、東京都教育委員会が処罰するというニュースを聞いた。
国旗掲揚、国歌斉唱のさいに起立しないなどとは、子どもたちに愛国心を教育する立場にある教師にあるまじき行為だ、というのが処罰の理由だ。
愛国心なるものがいかなるものなのか、正直わたしにはよくわかならない。
しかし、この者たちがとんでもないアホウなのは、よっくわかる。
こんなニュースを聞いただけで、繊細なディックは卒倒してしまうのではないだろうか?
そもそも、“愛”国心を教育するってなんですか?
教師が国を愛さなかったら、処罰されるのですか?
もちろん処罰される。
国を愛さないことは、この国では、罪なのだ。
しかし、「愛」を強要することなど、誰にもできはしない。
腕づくで愛を手に入れたものなど、ひとりとしていない。
処罰を怖れ、周囲の目を気にしながら、教師も生徒も親たちも声をそろえて君が代を斉唱したところで、愛などというものはどこにも存在していない。
ところが、これが、私たちの知っている愛のすべてだ。
そのときどきの都合のようなものに無理無理に理由をつけて、納得できたりできなかったりしながら、何とか帳じりを合わせようとしている。
これが、私たちの愛の正体だ。
私たちのような者たちは、ディックに言わせれば、愛うんぬんと言う前に、もはや人間とすら呼べない存在だ。
ニセ人間だ。
私たちは人間として偽物のまま、愛について何も知らず、生きてもいないうちから死んでいくのだ。
いやだ! とディックは叫ぶ。
私は、その叫びを聞く。
彼の『流れよ我が涙と警官は言った』は、愛を正面から扱った、見事な傑作だ。
この小説で、彼は私たちの愛を徹底的に否定する。あれも嘘、これも偽物、それは所有欲、あれは逃避、といった調子で、完膚なきまでに私たちの愛はたたきつぶされる。
そして、最後の1ページ。
私はこの小説の最後の1ページを、京王線の新宿駅に停車した列車の座席で読み終えた。
内容は、言うまい。
あらゆる愛が否定されたあとの、小さな、小さな、愛とも呼べぬほどの、小さな出来事。
小さいゆえに当人ですら気がつかず、小さいがゆえに無垢で、無垢であるがゆえに……。
おっと、いけない、これから読むひともいるのだからね。
最後の1ページを読み終わり、顔をあげたとき、驚いたことに、世界がきらきらと輝いて私には見えた。陳腐な文学的比喩ではなくて、本当に輝いているのだ!
もちろん、小説に感動し高揚しきった精神が見せた、幻だ。
しかし、それは、宗教体験、神秘体験と呼んでもよいほどの美しいまぼろしで、きらめく光の一粒一粒が体感できる気さえした。
そして、あらゆる宗教体験がそうであるように、この場合もまた、主観的で個人的な恍惚体験でもあった。
この小説におけるディックの主張を私なりの言葉に短く言いかえれば、私は愛を知らず、人間ですらなく、芽吹くことすらままならないままの、種だ。
しかし種は、やがて芽吹き、いつか大きな木へと成長するだろう。……少なくともその可能性はある。
だとしたら、種が木の可能性なのだとしたら、種と木にどれほどの違いがあるだろう、とディックは主張する。
私は、いつの日にか花開く(かもしれない)愛の種子、いつの日にか人間へと成長する(かもしれない)産まれたばかりの赤ん坊だ。
だったら、木であるかどうかなど気にする必要などない。すべての偽物を抱きしめ、あらゆる種に狂喜しつつひざまずけ。
理由も条件もない、突然の全肯定、絶対的な許し。
ひざまずき、こうべをたれ、触れ、見たすべてのものが、世界を全肯定しつつ私を貫いた。
狂ってる!
もちろんだ。
否定はしない。
ディックは狂っていて、その狂気が私に伝染してしまったのだ。
その狂気は、私の個人的な宝物だ。




水着作りの本とお化粧警察(2004.4.7)

『お化粧大研究』『ハワイアン・ロコガール流手作りビーチウェア』という2冊の本を買った。
『お化粧大研究』はおもに小学上級以上の女の子たちを対象にした、お化粧の入門書で、『ハワイアン・ロコガール流手作りビーチウェア』は、水着を自作するおもに若い女性たちのための本だ。
もちろん私は、お化粧をするつもりも、ビーチウェアを自作するつもりもまったくない。この2冊の本は「欲しい水着は自分で作る!」という女性たちの、心意気のようなものに興味をひかれて購入したものだ。
「実物大パターンDを使用。ビキニトップ・サイドを切り替え・裏布トップのパターンを写します。肩ひもは直線裁ちのため、布にじかに製図をして裁ちます」
とか、
「表衿の縫い代を折り、裏衿ぐりの縫い目に重ねて際を縫う」
などということ細かい解説に、よくわからないまま真剣に目をとおしていると、正直、ハンドメイドのビーチウェアへの道のりは何と遠く険しいのであろうかと、頭がくらくらしてくる。
しかし、これらの面倒くさい手順をひとつひとつ踏んでいかなければ、ビーチウェアは完成しない。
もういいよ。もうやめよう。観念しよう。お店で買えばいいじゃないか。などと私なら考えるだろうか。
しかし、いざ水着を作らんとする女性たちは、水着作りを、やらなくちゃいけないからイヤイヤやらかそうというわけではなくて、ハンドメイドのビーチウェアを着こなしてみたいとか、世界にたったひとつのビーチウェア作りに挑戦してみたいとか、そういうウキウキとした気持でこの本を手にとったはずだ。
私はそのウキウキとした気持を勝手に想像して、ひとりで楽しんでいる。ちょっと、品がない。
(;^_^ A
手作りとはいえ、出来上がった水着は、できの良いものもあれば、できの悪いものも当然ある。
作るのならば、少しでもできの良いものを作りたいと誰しもが思うだろう。だからこの本の最終章は、「きれいに仕上げる4つのコツ」となっている。
いっぽう、ビーチウェアというものに込められた工夫、--彼女たちを美しく演出しながら、ビーチや海のなかで快適に過ごすための最低限以上の実用性を実現する--にも、思いをはせる。
「願うことと、願いがかなうことによって沸き起こる喜び」を、私は、ビーチウェアにおけるさまざまな工夫のなかに、見る。
もう一冊、『お化粧大研究』は、小学生向けのお化粧の本というのがとにかく嬉しくて、手にとった。
「すてきな自分になるために」というサブタイトルがついている。
「すてきな自分になるために」とは、より厳密に言葉を使えば「すてきな自分を演出するために」という意味のはずだ。
子どもたちだってお化粧してみたい。奇麗になりたい。お化粧するお母さんの姿を毎日眺めてすごしながら、子どもたちは、強い興味を抱く。
ごく自然なことだ。
それを、子どもだから、などという理不尽な理由によって、お化粧を取り上げてしまうのは、悲しすぎる。
子どもは子どもをやめることなど不可能なのに。
そんなことを言う大人たちからは、遊ぶことも、テレビを観ることも、虫を捕ることも、花を摘むことも、ぜんぶ大人だからという理由で、ごっそり奪ってしまえばいい。
奇麗になりたいと願っている子どもたちが、親や教師の目を逃れて、こそこそお化粧しなくてはならないなんて、馬鹿げている。
私たちは、お化粧警察になど、なりたくない。
子どもたちの年齢にあわせたお化粧、自己の演出の仕方というものあるだろうから、こうやって、大人たちが意見や経験談を話してあげるほうが建設的だし、合理的だ。
なにより、平和的だよね。




ハヤカワ文庫の復刊リスト(2004.4.6)

『ハヤカワ文庫・読者アンコールフェア』がはじまった。
「数々の名作を生み出してきたハヤカワ文庫で入手が困難になっていた数々の名作たち。その中から『SFマガジン』および『ミステリマガジン』誌上でのアンケートにおいて、読者の支持を集めた作品がこの度復刊!  この機会にぜひご購入を!」
なのだそうだ。
早い話が、読者アンケートの上位の作品を、復刻してくれるというありがたい企画だ。
アンケートの結果から、ようやく、復刻される作品群が決定したようだ。
レックス=スタウトの『腰抜け連盟』
ラリー=ニーヴン『悪魔のハンマー』
アーシュラ=K=ル=グィン『ロカノンの世界』
などが復刻されている。
つーか、『腰抜け連盟』も『悪魔のハンマー』も今まで絶版だったのね。驚いた。
もちろん、私もそそとアンケートを出していた。
私がお願いした作品は、
アーシュラ=K=ル=グィン『所有せざる人々』
ジョゼフ=ウォンボー『センチュリアン』
ラッセル=バンクス『大陸漂流』(文庫じゃないけど)。
だ。
残念ながら、どれも、復刻とはあいならなかった。
(;_;)
しかし、ふつう、ル=グィンで復刻版を出すなら、『ロカノンの世界』の前に、『所有せざる人々』ではないでしょうか。いえ、ル=グィンのファンの私は、キッチリ『ロカノンの世界』も買わせていただきますが。
そうやってインターネットで本屋さん巡りをしていると、面白いタイトルの本をいくつか見つけることになる。
『犬は勘定に入れません』
『号泣する準備はできていた』
『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』
などというタイトルを見ると、ついついタイトル買いをしてしまいそうになる。
危ない、危ない。
「せめて、文庫本になるのを待ってから。……買ってもいいから、文庫本になるのを待ってから、ね?」と自分をいさめる。
しかしどれも、カーヴァーやヘミングウェイのような、見事なまでに不吉なタイトルで、きわめて私好みです。
もう何年も前の話しなんだけれど、ある漫画雑誌に掲載されていた読み切り短編に、『明日また電話するよ』というタイトルがあったのを、ふと思い出した。
いや〜見事、いや〜不吉。
ここまで不吉だと、ほとんどホラー。
(;^-^ゞ
ストーリーのほうはほとんど覚えていないのに、タイトルだけは、ハッキリとお覚えている。



さて、これからもどんどんと本を買う予定なので、いらない本をさらに処分します。
もしも、欲しいかたがあれば、タダでおゆずりします。
取りに来ていただかないといけないけれど。
(;^-^ゞ
郵送でもいいんですけれど、送料等の実費はいただくことになるので、割に合っていないかもしれませんね。
どれも一冊ずつしかないので、早い者勝ちです。
以下、リストをあげます。

ミステリー&サスペンス&スリラー系

ディーン=R=クーンツ『狂った追走』
ディーン=R=クーンツ『夜の終わりに』
ディーン=R=クーンツ『ファンハウス』
ディーン=R=クーンツ『逃切』

ロバート=B=パーカー『レイチェル・ウォレスを捜せ』

コーネル=ウールリッチ『喪服のランデヴー』

ジョナサン=ケラーマン『大きな枝が折れる時』

ウイリアム=ベイヤー『すげ替えられた首』

マイケル=バ=ゾウハー『真冬に来たスパイ』

ジョン=ル=カレ『スマイリーと仲間たち』

ヴィクター=カニング『QE2を盗め』

SF

ディーン=R=クーンツ『ビーストチャイルド』

カート=ヴォネガット『猫のゆりかご』
          『スローターハウス5』
          『チャンピオンたちの朝食』

普通小説普通小説&純文学など

池澤夏樹『マリコ/マリキータ』

プラトーン『ソークラテスの弁明・クリトーン・パイドーン』

ファンタジー&系ホラー系

レイ=ラッセル『悪魔の見張り』
       『インキュバス』

ダン=シモンズ『カーリーの歌』

マイケル=スチュアート『モンキー・シャイン』



とりあえず、以上。
これからも、さらに発掘作業は続く予定。
カート=ヴォネガットの本を処分するとは、発狂したかと思われるかたもおられるでしょう。実は私は、好きな本は何冊でもくり返し買うというくせがあるので、カート=ヴォネガットの本は、同じものが何冊もころがっているのです。
ヴォネガットのお説教は、みんなのもの、まだ読んでおられないかたは、ぜひ、この機会に。
ディーン=R=クーンツは、逆に、私が大嫌いな作家で、あまりの嫌いさについつい買いだめてしまっていた(ナゼ?)ものを、今回処分することにした。
(;-_-ゞ
人間を襲う不定形の石油質の怪物が、
“我こそはゴータマ=ブッダのおっしゃっていた「無」じゃよ。形がないじゃろう?”などとふれまわる小説には、あきれるを通り越して、ずいぶん笑わせてもらったけど。
……東洋をバカにするな、この。(^_^;)




ひぐちアサせんせの新刊漫画(2004.3.31)

ひぐちアサせんせの新刊漫画を読む。
『おおきく振りかぶって』の第一巻だ。
私は、ひぐちアサせんせの『ヤサシイワタシ』の大ファンで、ついつい『ヤサシイワタシ』ばかり何冊も何冊も買ってしまう。とうとう我が家は『ヤサシイワタシ』だらけになってしまった。
以前私は、ひぐちアサせんせの作風、スタイルを「理解の作家」というふうに呼んだことがあるけれど、別の言いかたをすれば、せんせの作品のキーワードは、「気づき」だ。
そして私は、これはハッキリと自覚しているのだけれど、気づきの作家が大好きなのだ。
アン=タイラー、ボビー=アン=メイスン、シオドア=スタージョン、P=K=ディック、山田太一氏脚本のテレビドラマ、こうやってお名前を挙げていくだけで、気持が高揚してきてしまうほどに、大好きだ。
(;^_^ A
「この物語は、最後にはどうなるのですか?」
と問いかけてから、私は『ヤサシイワタシ』を読み返す。もちろん、結末はとうに知っているのだけれど、感銘そのものはいつまでも変わらない。
「この物語は、最後にはどうなるのですか?」
という問いかけは、センセの作品を読むうえで、もっともエキサイティングで、正しい問いかけのように私には思われる。
ひぐちアサせんせはどうやら、物語のラストシーンから逆算して、作品をお作りになられるようだから。
ラストシーン、エンディングシーンを物語の核心と位置づけ、それまでに積み重ねてきたストーリー上の葛藤や、日常のディテールの細かい描写によって生まれる説得力のようなものが、強烈な手ごたえと感銘、解放感と呼び変えても良いほどの“気づき”へと昇華される。
このような緩みのない作風は、しかし、雑誌の連載期間の短命化をも引き起こしている。
もちろん、『ヤサシイワタシ』のページ数が300枚だろうが、1500枚だろうが、その作品の完成度、素晴しさは変わらない。
変わるのは、作家の経済事情、知名度のほうだ。
漫画を読んでは忘れ、忘れたらまた新しく別のものを購入して読む、という、大量生産を支えるための大量消費を奨励するこの業界では、漫画作品は雑誌連載の終了とともにすぐに飽きられてしまわなければならないものだ。
駅のキオスクで購入されて、停車駅のごみ箱に投げ捨てられる漫画雑誌の冊数を見よ!
無惨の限りだ。
ともかく、漫画家のセンセたちも生活していかねばならず、生活していくためには、とにもかくにも連載を長期化させなければならない。
もしかしたら新連載の『おおきく振りかぶって』は、長期連載の可能な物語へのひぐちアサせんせの新しいチャレンジなのではないか? などとも、ふと思っている。
個人的には、『ヤサシイワタシ』や『ゆくところ』のような、ページ数は短くても強烈な印象の残るものがより好みなのだけれども、連載は始まったばかりだし、すべては私の単なる印象に過ぎない。
『おおきく振りかぶって』の登場人物たちもまた、ひとつひとつ小さな気づきをくり返し、積み重ねながら、私がまだ知らないラストへと向かって動き出している。
「この物語は、最後にはどうなるのですか?」
答えは、まだまだ先のようだ。




マイケル=ムーアの新刊(2004.3.30)

知らないあいだに、ひぐちアサせんせの漫画の新刊と、マイケル=ムーアの新刊が発売されていた。
amazonもbk1も普段、毎日のように、あれ買わないかこれ買わないかとメールを送ってくるのに、どうして教えてくれないのだろう?
マイケル=ムーアの新刊のタイトルは『アホの壁 in USA』だ。
この本は、ムーアが90年代後半に上梓した、いわば処女作だ。
映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』やベストセラー『アホでマヌケなアメリカ白人』の人気にあやかって、今ごろになって出版したものらしい。
したがって、書かれている内容は少しだけ古いけれども、古いと言ったって、10年前に比べて現代の社会問題のほうが事態はより深刻化しているというだけの違いなのだから、気にする必要はない(え?)
さて、おたちあい。
『アホの壁 in USA』の日本語版が2004年に出版されるにあたって、日本の読者にあてたムーアの熱いメッセージが序文に付いている。
このメッセージが、とにかく傑作だ。
引用の範囲にとどまるように気をつけながら、抜粋してみたい。

{ごきげんよう、「有志連合」の同志諸君! 君らは、選ばれた軍団の中に加わった。君らの参加に関しては、アメリカのおぼえもメデタいよ。
(中略)
いや、おめでとう! 善良なる日本人にとっては、身の程をわきまえているってことが大事なんだよな。--世界唯一の超大国が吠えれば、言われたとおりにしなきゃならんのだよな? 俺たちが吠えれば、君らは跳び上がる--それが決まりってもんだ。
(中略)
いったいどうしちまったんだ? 何だって諸君は、俺たちみたいになりたいんだ? そして、何だって俺たちのイカれた「有志連合」なんぞに入って、俺たちが行ったところでどうしようもない国々を侵略しようとしてるんだ? あんた方、俺たちのことをイカれた連中だと思っているんだろ--まあその通りなんだが--そんなところに憧れんなよ!
だって。
相変わらずの毒舌に、安心しました。(^_^;)
小泉首相にも、ちゃんとお言葉をいただいている。

ありがとうよ、小泉サン。あんたがいなけりゃ、ブッシュはひとりでイラク侵略は出来なかっただろう。
(中略)
本当にこの戦争を起こしたのは、あんたみたいな指導者さ。俺はこの戦争に対する責任という点では、ジョージ坊やよりもむしろ、あんたのほうが重いと思ってる。わかるだろ? ジョージの奴は、ありゃあただの、単なるアホだ。}
(強調・引用者)
あらら、私がたどたどしく日記で言ってきたことは、ムーアの新刊の序文に全部書かれてしまった。
(;^-^ゞ
さて。新聞によりますと、スペインなどが、
「イラクに大量破壊兵器なんてねーじゃねえか! ひでえ! わしらアメリカとイギリスにだまされた! もう派兵はやめだ〜」
なんてゴネ出してる今日このごろ。
だまされたって、なに言ってるんだかナ〜。
イラクに大量破壊兵器がないことなんて、日本のしがない一市民の私だって、想像ついたのに。
国連の監視団のみなさんが、あれだけ「無い」と言っていたのに。破壊するだけ破壊して、蹂躙するだけ蹂躙してから、なにとぼけたこと言ってんだろう。
そうそう。
テレビでたまたま国会中継を観ていたら、小泉首相が野党の誰かに、
「大量破壊兵器は出てこないじゃないか。どうなってるんだ」
と追及されていた。
出てこないからといって無いとは限らない、あるかもしれないじゃないか、というのが我が国の首相のお答えであった。
普通、出てこないものは無い、と考えると思うんだけどな……。我が国の文脈では、出てこないものは、いつか出てくるかもしれないという無期限の可能性のことらしい。
ある日、大量破壊兵器がひょっこり出てくるかもしれない……。とんでもない秘密の隠し場所があるのかもしれない。あなたは証明できますか? ……できませんよ。
もしかしたら、サンタクロースだって空飛ぶトナカイとともに、実在するかもしれないしね。サンタクロースの不在を私は証明できません!
ヾ(;´▽`A
だから、私たちはのんびりと、いずれ明らかになる(かもしれない)重大ニュースを待っていればいい。
イラクのひとたちも可哀想。彼等は永遠の容疑者だ。大量破壊兵器を持っていないことを証明するのは、金輪際不可能なのだから。
私たちは言う、絶対どこかにあるはずだ!

先日、『カンダハール』というイラン映画を観た。
実話をもとにして作られた映画だ。
カナダでジャーナリストの地位を得ているひとりのアフガニスタン女性が、妹の死をくい止めようと、タリバン政権下のカンダハールへ潜入を試みる。
極めて危険な旅だ。
無謀、と言ってもいい。
映画のオープニング、彼女は赤十字のヘリに便乗して、国境を越える。
ヘリは、荒れ地の中に孤立したように存在する集落の上空から、赤十字の救援物資を投下する。
白いパラシュートにぶら下がって落ちていくのは義足だ。
パラシュートで降りてくる義足、義足、義足。
そして、テントの中から跳びだしてくる人々はみな、脚がない!
脚は、地雷に吹き飛ばされたのだ。
松葉づえつきながら、我先にと、仮の脚を求めて駆けて行くひとびと。
ゆらゆらゆれながら降りてくる義足をカメラが静かに映しだすシーンは、残酷なことに、息を呑むほどの美しさだ。
しかしどれほど美しくとも、それはけっして、夢に見た奇跡ではない。過酷を極める環境下で、彼らの足は二度とは戻ってこない。
家も、財産も、家族も、二本の脚さえも吹き飛ばされて、現実はまったくゆるがない。どこまでも重く迫って、私たちを告発する。
この映画がクランクアップしたあと、私たちは圧倒的な軍事力で、タリバン政権を転覆した。
そして、アフガニスタンの社会事情は、急激に、もはや映画など物の数ではないほどに、見事なまでに悪化した。
加害者は、私たちだ。
そう、私。
告発する指の先には、私が立ってるの!
ひえええええええええええええええええ!
(TT; )( ;TT) オロオロ
彼女とデートするのに傘がない、などと頭を抱えながら、いっぽう、アフガンやイラクの子どもたちの足を不発弾でばんばん吹っ飛ばして、何食わぬ顔でいられる人間たちがこの世にいるなんて、信じられますか?
……信じられマスカ〜!
自分たち自身に、ひたすら絶句。
(T△T)




『アメリ』という映画の感想文(一部ネタバレあり)(2004.3.26)

DVDでフランス映画を観賞した。
『アメリ』だ。
2002年のアカデミー賞5部門ノミネートされ、 日本でもマイケル=ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』が塗り替えるまで、ミニシアター最高記録を打ち立てるほどのヒット作品だ。
ずっと興味があった映画なのだが、監督が『エイリアン4』と同じひとだと聞いて、これまでずっと不安だったのね。
(;^_^ A
『エイリアン』は、もう、続編は作らないほうがいいと思う。
話がそれた。
『アメリ』という映画は、アメリというひとりの女性が、彼女の周囲の人々を幸福にして歩く「癒し系」なのだと、ひとことで言えばそのようなうわさ話を聞いていたのだが、観てみると、けっしてそのような映画ではなかった。
さまざまな事情、いきちがいにより、子どもの頃から孤独に過ごしてきたアメリは、空想のなかに自分の居場所を見いだしている。
その孤独の、ひとをくったような事情、メルヘンチックな彼女の想像世界の、一風変わったユーモアのために、深刻さは全く感じることはできない。
孤独というものの陰うつなやりきれなさ、たえられないほどの胸の痛みといったマイナスな感情を、映画的に徹底的に味付けし直している。
それは、彼女の空想力のなせる技だ。
空想によって、彼女は自身の人生の孤独、疎外感に、肯定的な意味を付加している。
それは、極端に度の強い眼鏡を通して人生を眺めるのにも似て、何もかもが大きく片寄り、もしくはゆがんだ、彼女だけのメルヘン世界だ。
22歳になった彼女は、ある偶然をきっかけに、これまで彼女が過ごしてきた架空のメルヘンの世界から一歩踏み出し、奇妙なやりかたで、他者と関わろうとしはじめる。
その奇妙なやりかたとは、手の込んだいたずら、かわいいおせっかい、場合によっては犯罪行為と呼べるものかもしれない。
例えば、夜逃げした夫の手紙をこっそりねつ造して未亡人に送ったり、ある孤独な男女を引きあわせようと画策したり、といったような、本質的には善意のいたずらだ。
ともかく、彼女は彼女だけの奇妙な方法で、他者と関わることに夢中になる。
しかし、そのいたずらが善意を基礎にしていようが、おせっかいによってじっさい物ごとが建設的な方向に進もうが、手の込んだいたずらは、やはりいたずらでしかない。
彼女は、いたずらがいたずらとはわからないようなやりかたで、もしくは、このいたずらが誰によるものかけっして跡をたどれないような周到な策略によって、周囲を建設的な方向に向かわせようとする。
その行動は、他者に影響を与えたいという渇望、他者とつながっていたいという切望にささえられ、あくまでもメルヘンチックなままに、周囲の人々を巻き込んでいく。
企みがまんまとはまったときの彼女の満たされた思い、喜びは、じつに独りよがりだ。
だが、例え独りよがりであっても、他者に影響を与えたい、それも、できうることならプラスの、良い影響を与えたいという衝動を押しとどめることは、彼女にはできない。
彼女は、自分の行為にすっかり夢中だ。
このあたりは、『タクシードライバー』をちょうど正逆に位置させかたような、そんな印象さえ受ける。
路傍の片隅で寂しく咲いているだけの、名のない花であるようにも見える彼女は、地下では八方に根を張り巡らせ、見えないやりかたで周囲を操作し、幸福へと向かわせているという恍惚感を感じている。
彼女のメルヘン世界によって世界はたわみ、すべてがねじれている。しかし、そのねじれはときにユーモラスで、また小悪魔的に俗悪でもあり、周囲を幸福にしたいという他愛のない善意にあふれている。
やがて彼女は、ある男性に恋をする。
恋しい男に対しても、彼女は彼女の独特のメソッドで、相手に近づこうとする。
このあたりから、彼女のいたずらは、その立場を際どいものとしていく。
彼女は、身の危険を感じる。なぜなら、彼女のいたずらは、別の言いかたをすれば、おずおずとした臆病な接しかたでしかひとと関われない、彼女のナイーブな性質をあらわしているからだ。
現実の対人関係の維持のしにくさ、不確定さを、受けとめるだけの力が実は彼女にはない。
コントロールできないものを、彼女は怖れている。
しかし、怖れようが何しようが、実際に彼女は恋に落ちてしまった。
他人に影響を与えたい、自分の持っている何か良きものを周囲に与えたい、というアメリの渇望は、本人にはどうしようもないままに、恋する相手に向かってより集中し始める。
……と、このようにお話は続いていく。
私にとっては非常に新鮮な映画だった。
いわゆる、先進国と呼ばれる国々に暮らしている人々が心の内に抱えている孤独、疎外感というものをあつかった傑作映画といえば『タクシードライバー』を思い浮かべることができるけれども、それとはまたぜんぜん違ったアプローチを『アメリ』は披露してみせてくれた。
孤独感、疎外感、自己不全感といった感情、もしくは自己認識を、物語化するうえでいったん全面的に解体し、ばらばらに分解し、それをある方向に向けて再構成し直せば、例えばこのような映画も可能なのだ。




読み終わった本は、いりませんか(2004.3.25)

仕事が一段落ついて、2日間眠りに眠った。
まだ眠たい。
でも、もう起きなくては。
で、ひき続き部屋の掃除をしている。
本、本、本、どこまでも本だらけだ。
さすがに、いくら何でもこれではマズイと思いはじめた。
本に侵食されて、身動きできない。
いくつかの本を手放さなければならないと、覚悟を決めた。
以下にあげる本を、処分しようと思う。
もしも、欲しいかたがあれば、タダでおゆずりします。
取りに来ていただくのが大変なんだけれどね。


ミステリー&サスペンス&スリラー系

ディーン=R=クーンツ『殺人プログラミング』
ディーン=R=クーンツ『闇の囁き』

ロビン=クック『マインドベンド-洗脳-』
ロビン=クック『モ−タル・フィア-死の恐怖-』

ジェームズ=クラムリー『さらば甘き口づけ』

エド=マクベイン『ドライビング・レッスン』

アガサ=クリスティー『そして誰もいなくなった』
アガサ=クリスティー『ナイルに死す』

チャールズ=ウィルフィールド『マイアミ・ブルース』

パット=マガー『七人のおば』

P=シニアック『ウサギ料理は殺しの味』

ローレンス=ブロック『八百万の死にざま』

アシモフ他『ビッグ・アップル・ミステリー』(アンソロジー)

エラリー=クイーン編『世界傑作推理12選&ONE』(アンソロジー)

SF

フレデリック=ポール『ゲイトウェイ』

ヤン=ヴァイス『迷宮1000』

ヴォンダ=マッキンタイア『夢の蛇』


普通小説&純文学など

アーサー=ヘイリー『権力者たち』

アンダスン『ワインズバーグ・オハイオ』

E=コールドウェル『タバコロード』

ファンタジー&系ホラー系

シャーリー=ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』(ハードカバー)


とりあえず、以上。
これからも、発掘作業は続く予定。
処分本にアンダスン『ワインズバーグ・オハイオ』があがっているのは、すでに3冊持っているからだ。
人気のジェームズ=クラムリー、エド=マクベイン、クーンツの名前あり、SFではフレデリック=ポールの名前ありで、タダならそこそこというレパートリーでは?




『ロード・オブ・ザ・リング〜王の帰還〜』観ました(ネタバレあり)
(2004.3.19)


先日、映画を観てきた。
『ロード・オブ・ザ・リング〜王の帰還〜』だ。
細かい感想は、いまは言うまい。
これから観る人もいるのだから。
しかし、がっかりしたとだけは言っておこう。
率直に言えば、腹を立てている。
基本ストーリーは原作に忠実であるにも関わらず、終わってみればアメリカの国策映画みたいになってしまった。
ハリウッド映画なんだから、まず何よりもアメリカ人が観て気持ち良くならなければならない、と言われればそうなのだろう。が、サム=ギャムシーが大立ち回りしたあげく、ジェームズ=ボンドみたいな決めぜりふを吐くにいたっては、失望もここに極まれりだ。
お決まりのハリウッドの文脈で、アメリカ人の観客を気持ち良くしようとするから、『007』も『指輪物語』も演出が同じになってしまう。
ニュアンスが微妙に、しかし確実に、横暴なのだ。
なんなんだろうな……。
そもそも、原作のホビット族ってこんなに好戦的だったか? ピピンやメリーも、周囲にやめろって制止されても戦闘に参加したがるし。
敵を刺し殺した直後のピピンの晴れやかな表情!
なんですか、これは。
これじゃあホビットじゃなくて、アメリカ人だよ。
『ロード・オブ・ザ・リング〜王の帰還〜』を観終わった弟が面白いことを言っていて、彼の言うには、
「アメリカ人って、自分たちこそガンタルフのような存在とうぬぼれているけれど、本当はゴラムなんだよね。そして、国家としては、対外的にはサウロンなんだ。諸外国に憎まれ、怖れられてる。日本? サウロンの手下のウルクハイってところじゃないの?」
とのことだ。
なるほどな〜。これだけのことを感じることができたら、1700円も高くないな。
あ。しゃべりすぎたかな。
(;^-^ゞ
だけど、あともういっこだけ、登場人物のガンタルフさんに言いたい。
メインキャラといわゆる雑魚キャラの、露骨な扱いの違いは、教育上よろしくないからやめていただきたい!
(*`ε´*)
メインと雑魚でここまで扱いが違うというのは、物語における、登場人物差別だっ!!
(*'へ'*)
それと、ゴンドールでのあれは、はっきり言って内政干渉ですよ。ネタバレになるからあんまり詳しく話せないけれど、私が言っていること、登場人物のあなたにはわかるでしょう。
どさくさに紛れて、国の代表を杖でぶん殴ったりして。
魔法使いのあなたが口出ししたほうがうまくいくって、そういうことですか?
そういう、いかにもアメリカ的手前勝手な考えかたは、賢者であるあなたは、ぜひともあらためていただきたいデス。
アメリカ人の観客は、気持いいのかもしれないけれど。
ともかく、『ロード・オブ・ザ・リング』3部作は完結した。
CGを駆使した、過剰な映画的見せ場の連続という演出法には、第1部からうっすらとした不安感は持っていたのだが、それでも、第2部のゴグリの描写が秀逸で、第3部に期待していたのに。
アメリカという国の持つ奇妙な押しつけがましさは、日々露骨なものになりつつある。そしてその傲慢さは、最近のハリウッド映画においても顕著で、ここは観客が興奮するシーン、ここは涙するシーン、ここは笑うシーン、うっとりするシーンと、当てどない見せ場の連続で、楽しみかたを強要してくる。
ものすごくはしたない映画の作り方だなあ、と私は思ってしまう。
ほら、最近テレビで観る、あおりたっぷりなスポーツ放送のナショナリズムと、似た感じ。
相手チームに対する敬意のカケラもなく、「絶対に負けられない」などという「絶対」不可能なスローガンを掲げる。何とも神経症的だ。
……。脱線した。
感想は、このあたりでやめておこう。
映画は、難波で観た。
そのあと日本橋によって、アッパス=キアロスタミ監督作品映画のDVDボックスを弟にねだって買ってもらった。
(;^_^ A
1万7千円なんて、そんな大金、持ってないのよ。
アッパス=キアロスタミ監督の撮った本物の映画を観て、『ロード・オブ・ザ・リング』から受けた心の傷をいやそう。
あ、映画『アメリ』のDVDも買った。というか、これも、弟におねだり。
持つべきものは、聞きわけのいい弟だナー(調子に乗りすぎ)。




タルコフスキー『ストーカー』をDVDでも(2004.3.18)

去年買ったままになっていたDVD映画数本を、このところ少しずつ観ていっている。
まずは、タルコフスキーの『ストーカー』だ。
これは、ヴィデオのほうで何回もくり返し観た映画だが、DVDでも購入してしまった。
観賞のためにパッケージを手にとってみて、ようやく気がついたのだが、タイトルロゴの上に、何か書いてある。
見知らぬサブタイトルだ。
DVDを販売している会社が、「ストーカー」だけでは物足りないと(?)考えて、勝手にサブタイトルを加えたようなのだ。
なになに……。「現代人を神秘に導く」だぁ〜?!
アホか〜〜〜〜!!!
!Σ(●◇●メ)
ハアハア。……、一瞬、我を忘れてしまった。
しかし、ふざけたタイトルをつけたもんだな〜。
「現代人を導く」ってなんダロー。
……はらほらひれひれ。(言語脳に加えられた衝撃のあまりの大きさに、文章がいまいち呆け状態になってしまっていますね)。
おそるおそる、パッケージのあおり文句も読んでみる。
“タルコフスキー監督独自の映画言語が語るサイコSFの頂点”なんだって。
ブヒー……。
サイコSFって、いったい(『ちびまる子ちゃん』のナレーション、キートン山田ふう)。
何でも言えばいいってもんじゃないよ。
現代人を神秘に導く、サイコSFの頂点の映画作品って、みなさん、どんな映画をイメージします? ぐあ〜……。
これはもう、タルコフスキーに対する、悪質な嫌がらせなんだろうか。
不当な嫌がらせ(?)を受けつつも、肝心の映画は、やはり素晴しい。
内容については、以前、長々と書いたことがあるはずなので、ここではくり返さない。
最後の一秒間まで、息をつかせない、名画中の名画だ。




今日の続きの夢(2004.3.12)

久しぶりに夢を見た。
夢の中で、私はパソコンの前に座ってお仕事をしていた。
机の上は、いろんなものが山と積まれている。
資料の本や雑誌、ゴミなのかそうでないのかもはや判別のつかない紙の束。
マグカップだの文房具だの。
キーボード、マウス。
せまいなあ、やりづらいなあ、と思いつつ、そのままにして作業を続けていると、案の定、机の上の何かを左肱が押し出して、それを床に落っことしてしまった。
「がちゃん!」
と、いやな音。
足元をのぞくと、落ちたのは、ビデオカセットテープだった。
「ああ、もう、何でこんなことろにビデオテープなんて置いているんだよ! もー! 落としちゃったジャンか!」
と悪態をつくが、落としたのが私なら、置いたのもきっと私なのだろう。と、夢の中で思い直す。
壊れなかったかなー。
私は、ビデオテープを裏返したり表返したりする。表面には、傷らしきものは見当たらない。整理整頓を心がけないから、こういうことになる。あー、ばかだばかだ、やになったよ。
夢の中で私は、自分が夢を見ていることを半ば自覚している。さえない夢だなあ、とため息をつくと、いよいよやるせない。
机の前に座って、ぽちぽちキーボードを打って、周囲は散らかり放題だとうんざりしてしまっている、これは現実そのままではないか、と、自分自身の夢見の、要領の悪さのようなものに、つい無念がってしまう。
どうせ夢なのだから、もっと「ガッ!」っと、調子よく、アクティブでいてもらいたい。聞こえますか? 自分よ。
不思議な出来事に巻き込まれるとか、望みがかなうとか。
などと、ここまで冷めてしまえば、夢はもうおしまいだ。夢見ている状態とは、とても言えない。
私は布団の中をもそもそと動く。
起きようか、どうしようか。
このビデオカセットテープは人から借りたテープだ。絵本についての講義が録画されてある。お願いしてお借りしたこのテープは、借りたっきりで、まだ返していない。そのことがずっと気にかかっていて、それでこんな夢を見たのだろう。




『幻のロシア絵本1920-30年代展』はすごかった(2004.3.10)

芦屋市立美術博物館に『幻のロシア絵本1920-30年代展』を観に出かけてきた。
子どものころの私は、ロシア・旧ソを始めとする東欧の絵本が苦手だった。
うっそうとした針葉樹の森は暗く、危険な香りがしたし、絵本に出てくる大人たちは、優しいお父さんお母さん然としていなくて、見知らぬおじさんおばさんたち、労働者の顔をしていた。擬人化された動物たちも、野生の動物の顔をしていた。
そして、なんというか、ロシアの絵本はどれも、塗られた色に重量があるように感じられるのだ。
それは、毛の深いじゅうたんのように威圧的で重厚で、手で触れるとふわふわしているのに、一歩引いて眺めると、ずっしりと重たく思えてくるのだった。
アメリカや西欧の絵本ともまた違うそれは、当時の私には、絵に描かれた世界が異質すぎたようなのである。
しかし、いまは、わりと好きだったりする。
絵本とは関係ないけれど、ロシア語の形そのものが、まず好きだ。
あの強靱かつシンプルなゴシック体で書かれた文字。地面にしっかと足を踏ん張って安定している、そんな文字たちだ。
ロシア語を使った洋書を見かけると、読みもしないのに、衝動的にほしくなってしまう。
……話が脱線気味だ、もとにもどそう。
『幻のロシア絵本1920-30年代展』に入ってまず感じたのは、絵本は子どもたちを教育するために存在するという、当たり前の事実だ。
絵本によって子どもたちは言葉や文字を覚え、世の中のしくみや、日常に出くわす動物達の名前を覚えていく。
その中でも特別に、子どもを教育するためだけにつくられた絵本というものが存在する。
例えば、あいうえお絵本とか、ABCブックなどは、子どもたちに言葉と文字を教えるためにつくられた絵本だ。
もちろん、旧ソ連にも、そのような教育を目的とした絵本が当然、存在したわけだ。
私は、この展覧会場の休憩所で、カラーコピーされたそれらのロシア教育絵本に出会うことができた。
展覧会全体としては、いわゆる芸術作品として観賞できるアートとしての絵本を多く陳列していたわけだけれども(そして私もそれを目当てに訪れたわけだが)、そこで観た旧ソの、教科書としての絵本のあまりのレベルの高さに、私は驚愕した。
絵本作りに関する様々な工夫と才能が、これでもかとばかりにちりばめられた絵本たちだ。
特に、子どもたちに社会主義思想を教育すること、並びに、科学教育・社会教育を子どもたちにほどこすためのジャンル絵本たちは、もはや傑作などという次元を越えて、圧巻のひとことだ。
『ドニェプル川の戦い』『ブジョーヌイ元帥の騎兵隊』『どのように町を造ったか』といった絵本に、私は震えた。
これらの絵本と肩を並べる絵本が、世界にいったい何冊あるのだろうか?
ロシアの地を離れてしまえば、おそらく、10本の指で足りないということはないような予感がしている。
ロシア、そしてソ連という、一時期でもアメリカと肩を並べたほどの強大な国家が、きまじめに、情熱をもって、持ちうるあらゆるものを動員して教育絵本を作ったならば、これほどまでに優れた絵本をつぎからつぎへと産み出すことができた。
傑出したデザイン力、抜群のページ展開、当時の社会が求めた道徳性と社会性……ここまで優れた絵本には、そうそう出会えるものではない。
もちろん、私たちの目から見れば、これらの絵本が主張しているテーマは、ときに気がかりだ。
自由、民主主義といった社会定義が通念化し、それが正義なのだとする立場の私たちからすれば、秩序や労働、連帯、社会主義の学習を、絵本によって、子どもたちに段階的に教育しようとする彼等に、奇異なものを感じないわけではない。
しかし少なくとも言えるのは、当時のソ連において、子どもたちの教育という重大な社会的機能の多くを、絵本たちが担っていたという事実だ。
それは、肯定的な意味においての凄みと、はっきりとした国家的意図によって、しっかりと支えられている。
すさまじい、としか、私には言いようがない。
休憩所で何時間も粘ったが、帰宅しないわけにはいかない。
ロビーには何冊かのロシア復刊絵本が販売されていた。しかし、いわゆる教育絵本は一冊もなかった。
『ブジョーヌイ元帥の騎兵隊』は、ぜひともほしかったのだが。
復刊されている中から3冊ほど選んで、購入した。
マグカップも購入して、これは割れてしまった神戸在住マグカップのかわりにしよう。




辰木桂ちゃんの読んでいる本(2004.3.7)

家の掃除をしているはずが、気がついたら漫画本を読んでいる。
これではいつまでたっても部屋は奇麗にならない、などと、自分自身に小言を言いつつ、小言を言ったことに満足してさらに読みふける。
ひぐちアサせんせの『ヤサシイワタシ』を3月ぶりに読んで涙し、その流れのままノンストップで、木村紺センセの『神戸在住』に手をつける。
私は、『神戸在住』の主人公の女子大生、辰木桂ちゃんの大ファンだ。
辰木桂ちゃんは、大変な読書家だ。
私など、足元にも及ばないくらい、本を読んでいる。
漫画の中で、彼女がどのような本を読んでいるか、ふと、探しだしてみる気になった。
1巻の第3話で彼女が読んでいるのは、『南仏プロヴァンスの12ヶ月』ピーター・メイルだ。
これ、買った覚えが確かにある。買って、そのまま読まずにどこかにかたづけてしまったはずだ。どこだろう? まさか、捨てたりはしていないはずだ。
掃除ついでに、探してみよう。
彼女は児童書や絵本も大好きで、ローラ・インガルス・ワイルダー『大きな森の小さな家』、灰谷健次郎さん『ワルのぽけっと』、2巻になると、やなせたかしさんの『アンパンマンとマグぼうや』が出てくる。
エリック・カールの『はらぺこあおむし』は、彼女が子どもの頃に持っていた絵本。
4巻で彼女が夢中に読みふけっているのはリチャード・アダムス『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』の下巻だそうだ。
言われてよく絵をのぞいてみると、小さく(下)の文字が、かろうじて確認できる。
電車待ちをしながら桂ちゃんは、傑作中の傑作『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』の下巻に引き込まれて、後から友だちたちが近づいてきているのに全く気がつかない。
ロバート・F・ヤング『ジョナサンと宇宙くじら』は、漫画の中から彼女に勧められて、私は読んだ。ファンタジー系のSF短編集だ。
司馬遼太郎氏の『新選組血風録』、チャールズ・ディケンズ『クリスマス・カロル』、妹尾河童さんの『河童のスケッチブック』『ブラックジャック』の9巻も出てくる。
『火垂るの墓』『赤毛のアン』『二十歳の原点』『ビートルズは語る』『ねこたま』『フロスト日和』『小泉八雲集』『斜陽』『猫と正造と二人のおんな』
……。
私がざっと目を通して気がついただけでも、これだけの本が出てくる。
まだまだ読んでいるだろう。
『フロスト日和』は読まなくちゃ、と思っているのだが、まだ読んでいない。
それどころか、私は、小泉八雲も読んだことがない。
こんなことでは、桂ちゃんの話にきっとついてはいけない。
がんばって、読んでみたいと思う。
p(´ ∇` )q
私は、漫画の作中人物である辰木桂というひとが、どこかで実在していてくれたらなあ、などという夢想を抱いていたりする。
“実在する辰木桂”というアイディアは、漫画作品とは別の、空想上のもうひとりの辰木桂ちゃんだ。
私は桂ちゃんに、たとえば、エドワード=ホッパーやリチャード=エステスの絵を彼女がどう感じているかについて、訊いてみたいと思っている。
我ながら、これはなかなか適切な質問のような気がしてきて、掃除もせずに部屋のまん中に座り込んだまま
「これは快心だ」などと、ひとり気分を良くする。
私の問いかけに空想上の桂ちゃんがどう応えるか、いろいろ想像してみようとするが、さすがにこれは、まったくわからない。
そこからさきは、当然のことながら私にとって、全く謎のままだ。
彼女に訊ねてみたいことがいくつかあるけれど、答えは永遠に謎のまま、というのも、ちょっとカッコいい。
質問をしたおかえしに私は、彼女が暮らしている架空の世界について、私がどう感じているかを彼女に話してみようとするだろう。
私は、彼女を尊敬しているのだ。漫画の世界に入り込んで、そのことだけでも、桂ちゃんに伝える方法はないものだろうか。




去年の『レアルVSバレンシア』を発掘(2004.3.5)

家の掃除をしていると、名無しのヴィデオテープがいくつも出てきた。
何らかのテレビ番組を録画したものなのは、わかる。
しかし、タイトルを記入したシールがパッケージに貼りつけられていないので、この名無しのヴィデオテープに何が録画されているのか、すっかり忘れて、もはや見当がつかなくなっている。
私って、こんなことばっかりやっているな。
(;^_^ A
ヴィデオデッキに差し込んで再生してみると、最初の一本目はスペインのサッカーのリーグ戦が録画されていた。
『レアル・マドリードVSバレンシア』だ。
いつこんなものを録画したのだろう?
世間で大人気のベッカム様は、まだレアルに加入していない。録画されているのは、去年の試合だ。
女の子に人気のベッカム様はまだいないけれど、レアル・マドリードには、ジダンというテクニックに優れた選手がいる。
うまい、すごい。
シール作成のために内容をちょっと確認するだけのつもりだったのに、ついつい見入ってしまう。
ピッチは雨で水びだしで、ひどくスリッピーな状態だ。
案の定、足を滑らせ、水しぶきをあげながら転んでしまうバレンシアの選手。
なのに、ジダンの足元にぴたりとボールが収まる。
でた〜! フェイントからの、ヒールパス!
ウアー、うまいナー。
ウアー……。
ヒャー……。
ジダンのプレイに、何度もため息がもれる。
とうとう、試合のすべてを観とおしてしまった。
90分間かけて、ジダンや、その他の世界的名選手のプレイを堪能した。
次のヴィデオ。
これも、どうやらサッカーだ。
Jリーグ、去年のファーストステージ『ジュビロ磐田VSジェフ市原』
の試合。
ひえ〜、こんなの録画していたんだ。
さわりだけ観ようと思っていたら、これがまた面白い!
よくもまあ録画していたものだ、と、自分自身を褒めたくなるほどに、いい試合だ。
ジェフの選手、走る走る。
長い距離を、休まず走り続ける。
ジュビロが、素早く細かいパス回しで、その走るジェフを振り回す。
面白いなあ、この試合!
ジダンのようなスーパースターはいないけれど、試合としては、レアル対バレンシアよりも、むしろこちらのほうがより面白いのではないか。
しかし、ジェフの選手の走る量は、これは尋常ではない。
走りながら、どんどんボールを前に運んでいく。
「がんばれー!、いけー!」
と、思わず声が出てしまう。
夢中で応援して、90分。
気がついたら3時間、ヴィデオでサッカー観賞して過ごしてしまった。
掃除をしているはずだったのに。
他のパッケージには何が録画されているのだろう?
確認したところ、聞いたこともないタイトルのフランス映画(いつ録画したのだろう?)、コスタ=ガブラスの『z』、スティーヴン=キングのインタビュー番組、NHK教育の水生昆虫の特集番組などが録画されていることがわかった。
まだ20本ほど残っている。
もうだめだ、降参だ。
掃除もヴィデオ観賞もこれ以上は無理だ。
すべては明日以降にして、今日はもう寝よう。




アメリカ政府による国家転覆の話(2004.3.4)

アメリカ軍による、ハイチの前大統領誘拐のニュースが飛び込んできた。
米軍によるハイチ大統領の拉致、誘拐、そしてクーデターという、一連の流れ。
アメリカ政府による、いつもの国家転覆の話だ。またかよ。
このニュースが事実だとして、アメリカ政府によって転覆させられた国家は、これでいくつになるのだろうか?
チリ、エルサルバドル、ギリシャ、パナマ……、だめだ、膨大なリストになって、とてもじゃないが書ききれない。いや、ほんと、マジでうんざりするほどのリストなのだ。
誘拐されたハイチの大統領は、かんかんに怒っている。
ハイチの議員たちも、かんかんに怒っている。
しかし、パウエル国務長官は、「馬鹿げた話しだ」と一蹴。
いや、まったく同感です。
私たちは、ハイチなどという国が、どこにあるかも知らない。
ハイチという国に、大統領なる役職があることも知らない。
そんな国の誘拐された大統領が何を叫ぼうが、何も聞こえない。おそらく一生、私は、ハイチ大統領の声を聞くことはないだろう。
結論、狼は生きろ、豚は死ね。……弱く、小さいって、悲しいね。
パウエル国務長官のお言葉だけをうかがって、今日のニュースは流れていく。
「馬鹿げた話しだ」、か……。
心にストンと落ちる、言葉だ。
ポルポトを支援し、ガタフィを支援し、ビン=ラディンを支援し、最終的にいつも飼い犬に手を噛まれるアメリカ政府は、馬鹿ばっかりやっていますね。
何百万ドルをつぎこんだビン=ラディンのテログループに、空前絶後の派手な自爆テロをかまされて。
手なずけられないくせに、こんな大きな犬を飼ってはいけません(笑)。
毒の種からは、毒の木が生え、やがて毒の実が採れる。
ビン=ラディンという、猛毒の果実だ。
アメリカの納税者のみなさん、ごくろうさまです。
あなたたちの納めた税金が、ビン=ラディンを一人前にしたのは、事実です。あなたたちはあなたたちでお困りなのは承知しておりますが、しかし、あなたたちの政府のでたらめで残忍なやり方には、世界中がほとほと困り果てているのです。お願いです、なんとかしてください。
(;_;)
しかし、世界唯一の超大国であるということは、なにをやっても、誰に対しても、なにひとつ謝る必要がないということと同義だ。
だから、アメリカ政府は、ハイチの人たちにも、中東の人たちにも、自国の国民たちにも、けっして謝らない。
アメリカ政府と一心同体を自負する日本政府も、もちろん、けっして誰にも謝ろうとしないだろう。
強固な意志と情熱をもって世界をハチャメチャにし、そのおこないゆえに、世界中から猛烈な憎悪をかっているという事実にすら、私たちは無自覚なままだ。

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