純の◆姫林檎◆日記(不定期でふ)


 エッセイ……というか、実家で病気療養中男の、ただの出不精Mac日記です。
 いちばん上のものが新しいです。
 思いつきで作ったコンテンツですので、ユーザーヴィリティがはちゃめちゃです。
 すみません、そのうちなにか良い方法を考えますです。(^-^;A

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対象外想定外*(2011.7.2)


「しかし、(現状の)反原発運動のなかには、飢餓国への輸出拒否の要求運動など存在していないのである。それは、汚染食品の飢餓国への輸出が明確に立証されないと、それを感じとることができないという想像力の決定的な欠如にも問題があるが、後に述べるようにおそらくこれまでの反原発運動が、「いわれのない被害を拒否する」という被害者意識にのみ立った運動であるからだと私は危惧してきたのである。反原発運動の原則は弱いものを踏み台にしないということにあったと思うし、そうであるならば、まず汚染食品の飢餓国への流入を阻止するという運動こそが、根源的な運動にならなければならない。運動は多元的であるべきだ。しかし、根源的な運動を欠如したままの運動は時に真に求めている目標と相容れないこともあるのである」

 〜小出裕章『放射能汚染の現実を超えて』〜


「ほかの道を作るべきである。オルゴレインもカルハイドもいまたどっている道をこれ以上進むべきでも退くべきでもない。別の道を進んで悪循環をたちきらねばならぬ」
  〜アーシュラ=K=ル=グウィン『闇の左手』〜



「さる6月11日の新宿における「素人の乱」による脱原発デモにおいて、差別撤廃を希求する「ヘイトスピーチに反対する会」が、民族派団体「統一戦線義勇軍」の針谷大輔氏の壇上アピールに対し圧力をかけたばかりか自陣営に対し批判した者のマイクを奪う」という事態があったのだそうだ。
『vanacoralの日記』さんから。

脱原発運動の先鋭化・偏執化を危惧する

「恥ずべき事件がありました」とvanacoralさんはおっしゃりつつ、「ヘイトスピーチに反対する会」に対して、
「貴方たちの独りよがりな行動こそが、これまで差別撤廃を希求する動き、及び脱原発の動きを、一部の運動家だけの行動であって自分たちには関わりが無いと一般の人たちに受け止めさせてしまったのではないでしょうか。自分たちの主張を受け入れてもらいたいのならば、ゼロベースから自分たちの行動を振り返るべきではないのでしょうか。」
と言葉を投げかけている。

しかしいっぽう、『法華狼の日記』さんによると、
「登壇することを要請もしくは挑発された「ヘイトスピーチに反対する会」が、実力によって排除されている。」模様が動画により確認できるのだそうだ。

こんな揉めかたをするくらいなら、最初からロフトプラスワンでやれば良かったのに

私はこの件に関しては、ほとんど何も知らない、という立ち位置にいる人間なので、事件について具体的なコメントはできない。
また、

マイクを奪った奪われたなどという生々しい話題

は、個人的にもまったく得意ではない。
とまあ、そういう前置きを書いておいて、私の興味は、「原発反対の一点で、我々は排外主義者と大同団結できるのか」という点にある。
「我々は」という部分を「私は」と、言葉を一人称に置き換えれば、

なにかしらを決定するような投票の際の数の見込み

以外の何も期待しないし、接近しようとも思わないし、手を結べるとも思わないし、むしろ機会があるごとに批判をしていくべき相手だと考えている。
理由は簡単で、レイシズムなど、唾棄すべき世界観だと信じているからだ。

『低気温のエクスタシーbyはなゆー』さんから
郡山市の朝鮮学校は「校庭の放射能汚染除去対策」をしてもらえない

「校庭の放射能汚染除去対策にも行政の支援は全くなく、財政的困難で児童生徒は今も新潟コリアンスクールに避難したまま」

「学校関係者からは「避難所を設営し、日本の方々も分けへだてなく受け容れたのに、なぜ、自分たちの学校は、たった一度、県から測定にきただけで、まわりの学校のようにグラウンドの表土撤去の話すらでてこないのか」と失望がひろがっている」

放射能の害を誰かに押しつけてそれで解決、それが私たちの反原発なのか。

そうだ、と応える人とともに歩むことなどできはしない。

最後にご紹介するのは、『Apes! Not Monkeys! 本館』さんから
「ヘイトスピーチに反対する会」有志の公開質問状を支持する

コメント欄の議論が熱い。





 

 



誰にも見えない匂いもない、逃げられもしない*(2011.6.29)


「「おふくろがぼくを妊娠中に、毒ガスを吸ったんだ。おふくろは無事だったが、ぼくの骨の成長には障害が残った」

「へえ。治療はしてくれなかったのか」
「そりゃ、したさ。ぼくは徹底治療のたまものなんだ。いまバケツに入れて運ばれもせずに、自分の足で歩いていられるのはそのおかげさ」」
 〜ロイス=マクマスター=ビジョルド『戦士志願』〜


「<この惑星の生命維持組織に加えるどんな傷もほとんど永久に治療不能である>という科学的事実を認識しておく必要があるでしょう。この惑星を傷つけておいて、あとからそれを治すふりをする人間は、まさしく偽善者だということになります」
 〜カート=ヴォネガット『パームサンデー』〜



7月4日に、熊取に行ってくる予定。
小出先生や今中先生の職場である、

京都大学原子炉実験所の見学会(?)

に参加するのだ。
私などが行って何かが大きくわかったり、何かが変わったりということはないかもしれないけれど、せっかくの機会だ。
何かの実感、というような漠然としたものを期待しているだけだが、とにかく、行ってきます。


『東電に入ろう(倒電に廃炉)』


『『誰にも見えない、匂いもない』by ランキン・タクシー』


誰にも見えない、匂いもない、なのにどうしてあなたは坑道のカナリアのごとく、こんなに騒ぐのか。
放射能は怖い、恐ろしい、大変なことになった、途方もないことになった、と。
それは風評被害ではないのか。パニックなのではないのか。
今回の放射能汚染でガンになる日本人は、いったいどれほどの数にのぼるのか。数百万人か。数十人か。
「今回の事故はたいしたことはありません、犠牲者の数は数十人」と学者が言うなら、ほっと胸をなでおろして、
「よかった、たいしたことがなくて」
とあなたは言うのか。
よかった、とはどういうことか、たいしたことがない、とは何なのか。
誰にも見えない、匂いもない。そして誰もが「逃げられない」。
放射能から誰もが逃げられない、という事実が重すぎて、あなたは
「よかった、たいしたことがなくて」
と言いたいと思う。
または願う。
「風評被害」、「パニックだ」と、自分自身をいさめようとする。
誰にも見えない、匂いもない。
そして逃げられない。





 

 



ウォシュレット以外の革命*(2011.6.27)


「なぜ人間は偉大なのか?第二の天性を創りあげたからなのか? ほとんど宇宙的ともいえる力を制御したからなのか? ごく短期間に地球を征服し、宇宙への窓を開いたからなのか?」

  〜ストロガツキー兄弟『ストーカー』〜


「善が、悪ほどたびたび勝利をあげることができないというような理由は、どこにもない。勝利はすべて組織力の問題だ。もし、天使というようなものがいるとしたら、せめてマフィア程度の組織力は持ってもらいたい」
 〜カート=ヴォネガット『タイタンの妖女』〜



以前の日記でご紹介した田中三彦氏の衝撃の原発事故解析動画だが、音声や画像の状態がどうも悪く、その問題が足を引っ張る形で、内容が頭に入ってきにくい。
どうしたものかと思っていたのだが、どこかのパネルディスカッションにおいて、パネラーとしてお話している田中三彦氏の映像を発見したので、ご紹介しておこう。
内容の深さ、という点ではかなり落ちるが、実測データーの解析の方法論や推論の導かれ方、という部分を求めなければ、基本的な内容はほぼ同じもののはずだ。
日付は、アップされている動画のキャプションによると、6月21日となっている。
「神田香織さんの講談「チェルノブイリの祈り」の1時間を超える熱演の後、15分の休憩を挟んで」行われたパネルディスカッションだそうだ。
最初はもしかしたら退屈と感じるかもしれないが、ちょっと辛抱して観て欲しい。
私からのお願いだ。


「復興の先に視る日本」田中三彦、神田香織、山口正紀その1

「復興の先に視る日本」田中三彦、神田香織、山口正紀その2

「復興の先に視る日本」田中三彦、神田香織、山口正紀その3

「復興の先に視る日本」田中三彦、神田香織、山口正紀その4

「復興の先に視る日本」田中三彦、神田香織、山口正紀その5

「復興の先に視る日本」田中三彦、神田香織、山口正紀その6

「復興の先に視る日本」田中三彦、神田香織、山口正紀その7

「復興の先に視る日本」田中三彦、神田香織、山口正紀その8

「復興の先に視る日本」田中三彦、神田香織、山口正紀その9




お次は、原発テレビ報道からいくつか。
後藤政志さんが出演、これはTBSかな?
10分にも満たないが、なかなか良い番組。
浜岡原発の安全性についての取材と、後藤さんのコメントという構成だ。

緊急停止後の浜岡原発・原子炉建屋に入る!

浜岡原発・電源喪失の対策

何度も書いてきたけれども、そしてこういう言いかたは語弊があるかもしれないけれども、私は、後藤政志さんの個人的なファンだ。


お次は、報道ステーションに電話出演した小出先生。
遮水壁=地下ダム費用公表せず:債務超過懸念で先送り

 




 



10万年後無害*(2011.6.25)


「われわれにはひとつの義務があると思う―われわれを生みだした種族に対して、また、われわれがいまから生みだせるかもしれない子供たちに対して。つまり、最後まであきらめずに努力を続ける義務だ。
 諸君の大部分にとっては、生きつづけること、正気をたもちつづけること、それだけでいい。それでさえ、人間がこれまでに企てた中で最も困難な仕事だということは、わたしにもよくわかる。これからの航行に関係した専門分野に属する乗組員と科学者は、それに加えて、船内作業をつづけ、将来の事態に準備をしなければならない。なまやさしい仕事ではない」
  〜ポール=アンダースン『タウ・ゼロ』〜


「いやだ。おれは民衆を信じている。おれは虎になり果てるまでは、民衆の一員だった」
 〜アルフレッド=ベスター『虎よ、虎よ!』〜



鎌中ひとみ監督の原発映画を奈良県下で上映しようと考えております。
最新作の『ミツバチの羽音と地球の回転』だ。
上映を考えるだけなら簡単なのだけれど、実際に上映にまでこぎ着けるのは、なかなか大変。
まあ、がんばります。


『ミツバチの羽音と地球の回転』関係動画。

予告編
映画「ミツバチの羽音と地球の回転」予告編HD


監督インタビュー。
鎌仲さんインタビューその1

鎌仲さんインタビュー その2

鎌仲さんインタビュー その3


対談。
鎌仲ひとみ監督 トークライブ@シネマまえばしその1

鎌仲ひとみ監督 トークライブ@シネマまえばしその2

鎌仲ひとみ監督 トークライブ@シネマまえばしその3

鎌仲ひとみ監督 トークライブ@シネマまえばしその4

鎌仲ひとみ監督 トークライブ@シネマまえばしその5

鎌仲ひとみ監督 トークライブ@シネマまえばしその6

鎌仲ひとみ監督 トークライブ@シネマまえばしその7


おまけ。鎌中監督、その他の作品。

六ヶ所村ラプソディー ダイジェスト 菊川慶子 鎌仲ひとみ

ヒバクシャ〜世界の終わりに 鎌仲ひとみ監督作品



--☆---

大阪まで『100,000年後の安全』 を観てきた。
映画監督の海南友子さんが来ていた。
『100,000年後の安全』 予告編


この映画も、ぜひ奈良で上映したいと考えているのだが。

 

 

 



田中三彦氏による福島原発事故のすごすぎる解析*(2011.6.22)


「彼らは何を学習したいのだろう?」
 〜グレッグ=ベア『ジャッジメント・エンジン』


「願わくは、あなたがたの探検の動機が、たんに貯蔵槽として使える他の宇宙を探すことだけではなく、知識への要求、宇宙の息吹からなにが生まれるかを知りたいという切望であってほしい。なぜなら、たとえ宇宙の寿命が有限であっても、その中で育まれる生命の多様性には限りがないからだ。われわれが建てた建築物、われわれが送った人生---どれひとつとして、前もって予測することはできなかったはずだ。なぜなら、そのどれひとつとして、必然の結果ではないからだ。われわれの宇宙は、静かなしゅっという音だけを残して平衡状態に達したかもしれない。しかし、この宇宙がこれだけ豊富なものを生み出したという事実こそが奇蹟だ。それに匹敵するものがあるとしたら、あなたがたの宇宙があなたがたを生み出したという奇蹟くらいのものだろう。
 探検家よ、あなたがこれを読んでいるいま、わたしはとうの昔に死んでいるが、それでもわたしは、あなたに別れの言葉を贈ろう。存在するという奇蹟についてじっくりと考え、自分がそうできることを喜びたまえ。わたしにはそう伝える権利があると思う。なぜなら、いまこの言葉を刻みながら、わたし自身がおなじことをしているからだ」
  〜テッド=チャン『息吹』〜



福島の原発事故の収束、という言い方そのものを、後藤政志氏は批判なさっていて、今回の原発事故においては収束などありえず、我々が直面しているのは、数百年という規模で行わなければならない

ある種の敗戦処理

なのだと、おっしゃっていた。
私たちが向き合わなければならない敗戦処理の中身について、胸を掻きむしられるような思いを抱きつつも、今日もまた追いかけよう。
20日の予定から21日に延期されていた田中三彦氏のIAEA報告書の解説放送の録画をご紹介。
後藤政志氏、そして上澤千尋氏も参加という豪華さだ。(後藤氏は今回はギャラリーの位置から参加)。
表現として問題があるかも知れないが、「スリリング」といっていいほどに、鋭く深い内容だ。
Ustream録画。

田中三彦さんによる福島原発事故解説その1(敵の陰謀により解説が一部失われましたが、再アップされました ←敵とか冗談っすよ (;^_^ A )

田中三彦さんによる福島原発事故解説その2


秘密主義の東電、そして国を相手にして、しかもなお、後藤政志さんや上澤千尋さんを生徒に鋭い指摘や的確な分析をしてみせる、という田中三彦さんのすさまじいまでの事故検証の能力に畏怖の念すら覚える。
まあ、ともかく。
今回の原発事故を、原子力発電所の構造、装置、技術的な側面からきっちりと見とおし、高い次元で推論を積み重ね、データーの解析し、今後を予期し、様相の全体を把握する、ということを私のような素人が到達点としてめざすならば、田中三彦氏や後藤政志氏の報告はただの一つもみのがせない。
見逃せないのだけれど、見逃せないから見逃さない、というもの以上の価値が、実は彼らのお話の中にはある。少なくても私にとってはそうだ。
見逃せない以上に見逃せないほどの価値、それは、

人としていかにあるべきか、という倫理的、美的な価値の、彼らは基準足り得ている、

という言い方にもなる。
そうした高い評価を、私は後藤さんや田中さんやそして小出先生の言動の中に、見ているということだ。


『たね蒔きジャーナル』のスペシャル版から。You Tube録音。

たね蒔きジャーナル スペシャル拡大版 小出裕章その1

たね蒔きジャーナル スペシャル拡大版 小出裕章その2

たね蒔きジャーナル スペシャル拡大版 小出裕章その3

たね蒔きジャーナル スペシャル拡大版 小出裕章その4

問題の解決を誰もが安請け合いするという日本の政治のありようを支えるということと、あとは、大量生産を支えるということのためだけに存在する日本という国のリアリティーにおいて、後藤さんや小出さんのような物言いは、ある意味ファンタジックですらある。
実際彼らは、「非現実にすぎる」、「妄想だよそんなものは」という揶揄や批判を、判で押したように誰もが、そして何度も受けたのではないだろうか。
この社会の全体へと広げずにはおかない見識や視野という世界観の性質の中にこそ、彼らのリアリズムはあるのだが、そんなものはすべて「非現実」という烙印を押されてそれっきりとなる。
むき出しの本音、というものを現実と呼ぶこの国では、彼らのような人々は「空想の世界」の住人なのだろう。

 



 



もしドラ後日譚*(2011.6.21)


「エンターテイメントは教育や啓発よりも、まさに人びとの要求に迎合している。それはただ金もうけのためである。エンターテイメントはカーニヴァルではない。恍惚状態や狂気を刺激しないし、イドを解放することもない。社会秩序を逆転させたり、権威に脅威を与えたりもしない。エンターテイメントは商品化された見せ物で、資本主義経済の裏側である」
 〜エド=デーンジェロ『公立図書館の玄関に怪獣がいる』〜


「したがって想像的通俗書の読者は、理解の向上、啓発はもちろん、楽しむ能力の向上さえ求めていない.想像上の登場人物や出来事のスリル、センセーション、快楽を、自分の出来事のように楽しむことを求めているにすぎない」
 〜エド=デーンジェロ『公立図書館の玄関に怪獣がいる』〜



『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』後日譚。
町山智浩さんのポッドキャスト『町山智浩のアメリカ映画特電』から

第107回『もしドラ』と『がんばれ!ベアーズ』を比べてみたら

このような映画について、これほどまでにリキを入れて解説しなければならない状況を自ら作り出した町山さんは、

本当にお馬鹿さん、

だが、映画を観るとはどういうことか、ずいぶんしっかりと語ってくれているので、かなり勉強になるのではないか、と思い、ご紹介しておきます。
私個人は、アイドル映画などに時間を割くほど物好きではないけれど、アイドル映画とはどのようなものか、非情に分かりやすく教えてくれている。

『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』予告編。


ごめん、これ、ドラッカーを読んだら『エイリアン』の間違いだった。

あらためて『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』予告編。


ごめん、これ、ドラッカーを読んだら『ドッグヴィル』の間違いだった。

ドラッカーを読んで真に受けた女子高生とその周囲の若者に襲いかかる運命という意味では、まあ、こういう感じでしょう。
真面目な話、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』などというタイトルの小説、もしくは映画は、ホラーでしかあり得ないのではないか。


「顧客って何?」なんて、台詞を耳にした日には、背筋が凍りつかずにはおれない。
私は恐怖のどん底に突き落とされる。
これは、本当にホラーだ。









 



最近買った本・マンガ・DVD*(2011.6.18)



「『積極的考え方の力』の出版社は、そうなることを早くも1950年代に見抜いていて、この本の広告にこう記していた。「エグゼクティブのみなさま。社員にこの本を配布しましょう。きっと利益になりますよ」。セールスマンならば、「自分の売りこむ商品や、所属する組織への信頼を新たにするでしょう」。また、この本によって、「内勤の事務員はずっと効率よく動く用になるでしょう。時計に目をやる回数がぐっと減るはずです……」。「モチベーション」をムチとして使用するようになったポジティブ・シンキングは、社員の従順さの証になった」
 〜バーバラ=エーレンライク『ポジティブ病の国、アメリカ』〜


「金をもらって書く推薦文、とくに専門家や自称専門家の書くものは、右も左も詐欺ばかりである。しかもこういう連中が消費者の知性をなめきっていることは、宣伝文句を見れば一目瞭然だ。こういう連中のせいで、大衆のなかに腐敗がもたらされ、科学的客観性に対する考え方にも看過できない悪影響が出るのである」
  〜『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』〜



町山智浩さんがツイッター上で小説『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』について毒づいたら、ちょっとした騒ぎになったというニュースを『男の魂に火をつけろ!』さんのところで知った。

腹を割って話そう

観てもいない映画に難癖をつける、というのは確かに褒められたものではないが、とそれは認めつつ、私も読んでもいない原作本についてあれこれののしってきた人間として、町山さんに心から共感する。

女子高生がドラッカーをご都合主義とナイーブさ丸出しで読んで、内容を真に受けて、真に受けた内容を周囲に押し付けていく、などという小説の存在そのものが我慢ならない

という気持ちを、こうしたできごとをきっかけに、私は吐露してしまう。
ほおっておけばいいのに、という気持ちもあるにはあるのだが、我慢がならないということなのだから、ぽろっ、ぽろっと、言葉にしてしまう。
ということで(どういうことなんだか)、映画をちゃんと観た(原作も読んでいる)人の、ちゃんとした解説。
『映画評論家緊張日記』さんから
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら(2011)

☆☆☆☆☆
 ところでドラッカーを読んで高校野球をマネージメントしようとする主人公は、はっきり言って狂人である。だからこれを映画として成功させるにはその狂人ぶりを炸裂させるしかなかったのではないかと思うのだ。唯一、狂気のかけらが伺えるのは主人公が「プロセスなど問題ではない、結果(勝利)だけが重要なのだ!」と言い出すところなのだが(以下略)
☆☆☆☆☆

こんなものがベストセラーになってしまうこの国が怖くて仕方がない。
本当に恐ろしい。
ちなみに、『おお振り』はいま、休載中なんだったっけ。

***********☆


『おもひでぽろぽろ 愛蔵版』という漫画を買う。
高畑勲監督のアニメ映画が有名だが、それの原作漫画だ。
アニメと重ならないエピソードで、段ボール箱の中に捨てられた子犬の話がある。
これは素晴らしい。
こういうのはなかなか読めない、という、素晴らしい出来栄えの物語だった。

***********☆

私は、池澤夏樹氏が紹介してくれる世界のさまざまな書籍の水準の高さというものを全面的ではないけれどもかなり信用していて、『(完全版)池澤夏樹の世界文学リミックス』という本を購入し、楽しく読んだ。
ただ、ヘミングウェイの短編『ふたつの心臓を持つ大きな川』を

「青年の幸福」

を描いたものだと池澤氏がどうどうとのべているのには、かなり大きな角度で首をひねることとなった。
いや、実際のところは、首をひねるなどいうような程度ではなく、ちょっとした衝撃を受けた。
私がヘミングウェイの短編『ふたつの心臓を持つ大きな川』から受ける印象は、「喪失」、「つらさ」につきる。
これほども辛いということがありうるのだろうか、というほどに、つらい。そのつらさを、ヘミングウェイは見事に描ききった。
それは彼の文体(彼の文体を男性的と評する人は多いが、実は、あれは辛さというものを描くために苦心して作られた彼の技法だったと個人的に思う)のなせる技でもあったろうし、状況設定の見事さというものもあったろう。
ともかく。
この小説を「幸福」か「不幸」かで評価するとすれば、それは不幸のはずだ。
辛い、辛い、これほどまでに辛いということがあり得るのだろうかというくらいに辛い、『ふたつの心臓を持つ大きな川』はそういう小説の、傑作だ。
しかし、「青年の幸福」なのだと池澤夏樹ほどの者が言う。
私は、なぜなのか、どうしてこういうあり得ない勘違いが起きる(断言)のかについて、どこまでも思考を巡らせる。




最近購入した本リスト。
==================

・・『放射能汚染の現実を超えて』
・・『原発のウソ』
・・『TAP』(SF)
・・『アジャストメント ディック短篇傑作選』(SF)

・・漫画『三原順傑作選80s』
・・漫画『おもひでぽろぽろ 愛蔵版』
・・漫画『第七女子会彷徨1.2.3』
・・漫画『ぱじ愛蔵版』


・・雑誌『朝日ジャーナル 原発と人間』
・・雑誌『世界6月号』
・・雑誌『世界7月号』
・・雑誌『科学6月号』


==================












 



ショックドクトリンの冒険*(2011.6.11)


「新自由主義的思考の主な特徴は、個人の自由は市場と商取引の自由により保障されるという前提に立っていることである」
 〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜


「人間は自由市場経済学が信じているような「完全に利己的な主体」ではないからこそ、世界はいまも止まらずに動き続けているのである。わたしたちが設計しなければならないのは、「人間は利己的になりやすいということを認識しつつ、他の動機を最大限に利用して、最良の結果を引き出す」経済システムである。人間を最悪と設定してしまうと、最悪の結果しか得られない」
 〜ハジュン=チャン『世界経済を破綻させる23の嘘』〜



『デモクラシーナウ!ジャパン』から久しぶりナオミ=クライン。
3月9日に放送されたようだから、原発事故の二日前、ということになる。

究極の危機「気候変動」を利用して軍国主義が台頭


ショック・ドクトリンにご用心!組合つぶし法案と米国の火事場泥棒

ナオミ=クラインのショックドクトリン理論をもって、反原発運動への反論とする、というようなことが、ネット上で繰り広げられている事例をいくつも確認する。
石油か原子力か、などという二者択一論は論外として、不思議なほど説得力があるものとして受け止められているのが、この

「反原発を神経質に唱えている人々は、ありもしない恐怖にあおられて、悪い連中の悪巧み、クラインのいう火事場泥棒どもに利用されているのだ」

というような反論だ。
人間の経済活動を要因とする気候変動が引き起こす全地球的な危機、に、私たちはどう向き合うべきか。
この難題に向き合うさいに、原発推進派と反原発派を、あちらとこちらへ切り分けるひとつの壁として彼女のショックドクトリン論を持ち出すのは、これは無理がありすぎる。

これとあれは同じ問題の別の側面である

と、少なくともナオミ=クラインは語っているはずだ。
では、「これ」とは何で、「あれ」とは何なのか。
あれもが「これ」であり、これもまた「あれ」だろう。
さまざまな局面を持つ、一つの難題。つまり……、

「政治や経済の論争にはかかわりたくない大手の環境団体も、無限の成長をもとめる資本主義経済が問題なのだという事実に向き合わず、「環境資本主義によって現在の生活は維持できる」とごまかし、小手先の対策に賛同します。先進国が打ち出してくる気候変動対策は、欧米のライフスタイルを変えるのは無理で現在の生活水準を犠牲にすることはできないという前提に立っています」

「環境資本主義によって現在の生活は維持できる」という幻想が作り出す、無数の、大小の「あれ」「これ」だ。
そしてもう一つ理解しておかなければならないのは、火事場泥棒が嘘をついて回っているとしても、家事そのものがうそであるとは決まっていない、ということ。
今回の震災、そして原発事故は、まさしく未曾有の規模の火事場、だ。
だれが焼け太るのか。
どれほどの惨事に直面しても、結局は彼らが焼け太るようにできている、私たちの社会の問題をシステム論からひと言で語れば、こういうことになる。










 



小出先生ロングインタビュー後藤さん解説*(2011.6.8)


「願わくば私に、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ」
 〜カート=ヴォネガット『スローターハウス5』〜


「本当の暴露行為とは、物事を説明するのに既存のものとは別のモデルがあるのではないかとさがすことから行われるものであって、ニヒリズムを行使することではない。別の説明モデルとは合理性そのものであり、道徳的な品位とかたく結びついている」
  〜マイクル=シャーマー『なぜ人はニセ科学を信じるのか』〜


「私はただの一人だが、人々の声である。彼らの心に何があるかを、私が話す。私はもう戦争を望まない。ただ、人間になりたいのだ」
 〜『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』〜



小出先生、再新ロングインタビュー。
前半10分ほどは音声の状態が悪くほとんど聞こえませんので、途中から。

110607小出裕章助教インタビュー

福島第一原発の運転を許可した個人、---原子力安全委員会の委員から内閣総理大臣まで---を刑務所に入れるべきだ、と小出先生は言った。

今日の日本国の法制度を尊重するなら、そうあるべきだし、そうでなければならない。
しかしであるにも関わらず、小出先生の発言に触れて、私たちは驚くのだ。



**********


後藤政志さんの会見もアップされた。
私は、一日一回、後藤さんの声を聞かないと寝つかれない体になってきた。
(;^-^ゞ

2011/6/7 CNIC Ust 福島原発解説 後藤政志氏

今回の事故だが、スクラム後10分までのデーターしかないって、どゆこと……。
データーがない、でてこないという状況では、さすがの後藤さんでも、また、田中三彦さんでも、解析のしようもない。
「1号機は逃がし安全弁が作動した証拠がない」「配管破断があったのではないか」 という言い方が、せいいっぱいだろう。
データーもない、誰かが原子炉の様子を見たわけでもない。そのような推測に推測を重ねる以外には誰にも何にも把握できない状況を利用する形で、責任を津波に押し付けてそれっきり、というご都合主義の結論づけがなされた報告書に対して、少しずつ後藤さんの怒りのエナジーが高まっていくようす全体を、とても好もしいものとして私は動画を眺めている。









 



理念なき政治、人格なき知識*(2011.6.5)



「ナンバー200のラットは、人間についてのある理論を持ってた。このラットのいうところでは、人間はあきらかに頭が大きく、手先や言語を驚くほど器用に操り、無生物から複雑な巣や飾りたてた建造物を組みたて、全般的な行動様式は宇宙に対するきわめて高いレベルの好奇心を示唆してるにもかかわらず、自分たちがなにをやらかしているかにまったく気づいていない」
 〜グレッグ=イーガン『悪魔の移住』〜


「20世紀になると資本主義は自律的になり、資本主義の外にあるいかなる道徳的真実に触れることなく、資本主義自体の語句で己を正当化している。19世紀までのリベラル派にとって、経済活動の究極目的は利潤ではなく道徳的向上にあった。実際、古典的なリベラル経済学者の理論によると、理想的な市場はほとんど、あるいはまったく利潤を生まない。小企業家で構成される完全に競争的な市場の場合、利潤は新しい生産者を市場に誘い込む。供給が増大すると、価格と利潤は低下する。その状態は低利潤がために新しい生産者が市場に参入しないという新しい平衡状態に達するまで続く。継続的に大きな利潤が可能なのは、市場への参入が制限されている場合に限る。換言すれば、利潤が可能なのは市場が自由でないとき、リベラルでないときである。したがって倫理リベラル派は、市場の目的は利潤ではなく道徳的向上にあると主張してきた。しかし20世紀になるとリベラル派は、市場は道徳的目的に奉仕できるという信念を喪失した。経済的交換の目的は、単にいっそう多くの経済的交換になってきた。」
 〜エド=デーンジェロ『公立図書館の玄関に怪獣がいる』〜



『村野瀬玲奈の秘書課広報室』さんのところから、
原発事故が露わにした日本国全体の過ち

「経済活動とは、貧しい人のお金をあらゆる手段で探し出して、それを金持ちの人に移し替える方法の総称」

と言い切る村野瀬玲奈さんの言葉に付け加えることなど何もない。
むき出しになった本音のみで社会が効率良く前進していく、その圧倒的な効率の良さというものを理想とよぶしかない、それが本音とたてまえのたてまえの部分だ、と言い張るしかない、他には何もない、という国が、日本だ。
これこそが豊かさなのだと言う人もふつうにたくさんいるわけだが、むき出しになった欲望以外に社会の推進力が何もない、という状態なのだとそういう見方もできる。
そういう見方にたてば、

この国には本当に何もないから、掲げる理想として、ぼろぼろになった旗を持ち出してくるしかない。

つまり、リーダーシップなどという権力愛や、日本人らしさとかいう自己愛に個人のちっぽけな理想を重ね合わせる。それもかなり無理をして。
日本人には日本人らしさが“当然求められる”のだとした上で、その日本人の未来を託すにたるような強烈なリーダーは、果たして誰なのか。
そういうどうでもいいような議論が、知識人たちのあいだで交わされ、その内容が、メディアを通じて、お茶の間の私たちの元へと届く。
民主党の小沢一郎が自民党や公明党と裏で話をつけて数合わせをしたのちに、カン政権を解散にまで追い込もうとしたが、失敗をこかした。しかし、カンは辞めるのだという。ではいつ辞めるのか……、小沢は新党を結成するらしいぞ、エトセトラ、エトセトラ。しかし、政局の勢力図の移り変わりやにらみあいになど、私はいっさい関心がない。
「小沢ならやってくれる」
「橋下のリーダーシップに期待しよう」
と考えるには、私は民主主義の理念というものを信じすぎている。
そして………………。
『kojitakenの日記』さんから
小泉純一郎に続いて小沢一郎も「脱原発」に転換、と思いきや

面の皮が厚い以外には何も持っていないこれらの人物の名前を出したり引っ込めたりする以外には本当に何もない国が、何もないがゆえに推測や期待というもので右往左往するしかない、という日常の一コマだ。
「万全を期する」「全力を傾ける」以外には何も出来ない人々が牛耳る、権力分布図の他には見通しも何もない国。


おまけ。

例の参議院行政監視委員会の模様が、『You Tube』にもアップされている。
原子力発電所が本質的に抱えている問題点について知りたければ、良い本がたくさんでているけれども、刻々と事態の変わる福島の状況をふまえて理解したければ、彼らの最新のコメントにアクセスのがいちばんだ。

「彼ら」、の名前をもう一度書き出しておきます。
小出裕章先生。
後藤政志先生。
石橋克彦先生。

参議院で発言を許されたのは上記三名だけれども、プラス、田中三彦さん、肥田舜太郎先生のお話を私はたえずネットで追いかけている。


参院行政監視委員会・小出裕章参考人その1

参院行政監視委員会・小出裕章参考人その2



参院行政監視委員会・後藤政志参考人その1

参院行政監視委員会・後藤政志参考人その2



参院行政監視委:石橋克彦その1

参院行政監視委:石橋克彦その2







 

 



天国島より*(2011.6.2)


「人権宣言』なる訳語は完全な間違いで、これは正確には、『人及び市民の諸権利宣言』という日本語になります。そしてこの『宣言』は、市民権のみについての宣言ではあっても、すべての人の法の下での平等を本当には言っていません。もう少し言えば本当に平等な人権は『宣言』では主張されていません。確かに『宣言』第一条は「人間たちは自由なものとして、かつ権利においては平等なものとして生まれ、生きる」と書いてはいます。けれども、もっとも範囲の広いこの「人間」からでさえ、すべての女性が排除されているのです。そして、この『宣言』が言う「市民」とは、けっして現在の岐阜市民といった意味での市民ではありません。なぜなら、この「市民」とは男であって、一定額以上の私有財産の所有者だけを意味したのです」
 〜竹内章郎『哲学塾 新自由主義の嘘』〜


「永続に成功した全体主義社会はたぶん、常識的な法則が日常生活や若干の精密科学の場においては通用するけれども、政治家や歴史家や社会学者からはかまわず無視されるという、分裂症的な思想体型を組み立てるだろう。理科の教科書をゆがめることなどとんでもないと考えながら、史実を曲げるのを別に悪いこととは思わない人々が、すでに無数いるのである。」
 〜ジョージ=オーウェル『文学の禁圧』〜



学校の卒業式における国歌斉唱の事実上の強要は「合憲」とする判決で喜んでる人たちに囲まれて過ごす日常。
いや、「取り囲まれて」というのはやや大げさで、判決を受けて喜び、はしゃいでいる人たちが非常に目に付く、というのが正しい理解。私を囲むほどにも多数派というわけではない、というところあたりが現実だろう。
ただ、小さきハートを持つ私の側からこの日常を主観的に眺めれば、
「私の身の上に、このような恐ろしいことが降りかかるとは!」
というおわりなき不安と恐怖の体験、でしかないし、その不安と恐怖が高じて
「取り囲まれて」
というパラノイア的発言へとつがった。
しかし、取り囲んでいるかいないかは別にしても、この判決を心から喜びはしゃぎもしている現実の人間が、私の周囲に実際にいることも事実だ。
一人、二人、五人……。
私が知り得る人数はこのあたりまでだけれども、その向こう側には、百人、千人、数万という人々が喜び、はしゃいでいる。
正しい判決が出たと考え、喜んでいる人々は、いったいぜんたい、何がそんなに嬉しいのか。
ひと言で言えば、社会の健全化、を喜んでいる。
そしてその健全化を足がかりにして、更なる理想を追い求めていく、という明るい未来を想像して、はしゃいでもいる。
個人的な好き嫌いでいうと、日本らしさなどというあまりにも露骨な認知的下品さにはとても我慢が出来ないのだが、まあ、個人の趣味の話は脇に置こう。
「日本化」「日本らしさ」「日本の常識」「日本の秩序」という文化的受け売りが国の隅々にまでいきわたっている現状で、そうした価値観の復権、または構築のきざしというものを彼らは喜んでいるのだろう。
そうした価値観に対する、「内心の自由」という反論は、「どんな主張でもまかり通そうとするおかしな」言い分、ということになる……らしい。

底なしの自己肯定と精神的近視眼状態を「日本の常識」という文脈の上に走らせて、それをもって日本“民族”の要求だの課題だのと言い切る、

そんな社会だ。
どこにも行き着く場所がないというほどにクローズドなロジックだと思うし、正直言って知性の水準としていかかがとも思うが、それもまた「日本の秩序」の必要条件なのだとすると、まあ、あきれながらも納得はできる。
ともかく、「日本らしさ」というものに貢献したいと考える市民たちが信じている社会の健全性や、恒久平和というものがあるのだ。
それは、卒業式に参加した人間すべてが直立して国歌を歌い、国旗を仰ぎ見るという行為の中にある。
私からみればファンタジックなまでに理解不能な価値観だが、私のような人間から発せられる疑義は、「日本人らしさ基準」という物差しで測られたあげく、(疑義ではなく私個人が)水準以下だとみなされてそれっきりだ。
なんとなれば、これは日本らしさとそうでないものの市民的戦いだからだ。
日本人らしさ、日本の常識、日本の秩序に疑義を挟む、という行為自体が不健全、ということなのだ。

狂信的で極端な寛容主義者に戦いを挑み、勝利する

ことで得られる、「日本化」「日本らしさ」「日本の常識」「日本の秩序」、つまり、理解を越えた平和というものを、日本人である私たちは求めている、……求めるべきだ、……らしい。
この国はこのままいけば、「日本の秩序の要塞」となっていくだろう。
“日本人”の平和、“日本民族”の健全、そこから「日本」をはぎ取れば、なんのことはない単なる自己愛や権力愛というほどのものだけれど、私たちはそれでも、どこまでも内向きに自分たちの日常を要塞化しようとしている。
私たちはそれを望んでいる。
その要塞を外側から眺めればそれはどのような外観で、そこからどのような印象を受けるのか、私はファンタジックな妄想にふける。
それは、見えない放射能をかげろうのように漂わせる、不気味に傾いた一枚岩の要塞だ。



*******☆

おまけ。


この危機的時代のさなかにあって、映画監督マイケル=ムーアはなにをやっておるか。
映画評論ブログ『破壊屋』さんのところで、ムーアの最新の仕事が紹介されている。

神様が祝福してくれた広島と長崎と福島




*******☆

おまけ2。


愛川欽也さんの番組『パックインジャーナル』で、例の参議院行税監視委員会のことが語られていた。
歴代首相に原発問題をつきつけてきた元日本共産党・不破哲三氏についての話も。

原発問題 小出、後藤、孫氏らの参議院での発言その1

原発問題 小出、後藤、孫氏らの参議院での発言その2

原発問題 小出、後藤、孫氏らの参議院での発言その3

原発問題 小出、後藤、孫氏らの参議院での発言その4


ひとつだけ愛川欽也さんに
言いたいことがある。
「イデオロギーの時代は終わった」というのは
最新流行の“イデオロギー”ですよ。




 

 



縮みゆく人間*(2011.5.30)


「何か抗議の言葉ぐらいは出てきそうな成り行きとなった。しかし、ちょうどそのとき、まるで合図を受けたみたいに、羊たちが、みんなそろって、いきなり---「四本脚はよい。二本脚はもっとよい! 四本脚はよい。二本脚はもっとよい!」
  〜ジョージ=オーウェル『動物農場』〜


「こうした言い方を解読してみますと、次のようになります。つまり、私たちの価値観を問いただしたり、私たちの特権を脅かしたりするのをやめるべきだ、ということなのです。既成社会の効率を高め、不公正を曖昧にするような技術改良に関心を持てばよいのであって、根本的に異なる対案を構想しようとしたり、社会変革をもたらす試みに加担したりしてはいけないというわけです」
 〜ノーム=チョムスキー『教育論』〜


「しかし、警告は、ある種の楽観主義でもある。警告は、変化への可能性に対する信頼を含んでいるからである」
 〜ニルス=クリスティ『人が人を裁くとき』〜



You Tubeからマーラーの『大地の歌』。
いわゆるクラシック音楽だ。指揮はクレンペラー。
Klemperer - Mahler "Das Lied von der Erde"

「未曾有の」という言い方がけっして誇張ではない規模の地震と津波、そしてそれに続く福島第一原発で起きた途方もなく深刻な事故。
それらを一連の全体として眺めなおした上で、「国難」というコンパクトな言葉にまとめ上げ、オブラートに包んでごくりと飲み干す。飲み干して、受け止めて、立ち向かって、乗り越えるべきだと意を決する、というようなことが、とりあえず私たち日本国民に期待される役割ということのようだ。
いま私たちが直面している極めて深刻な事態を「国難」と呼ぶか呼ばないかなどは瑣末なことだけれど、国が滅びるかどうかという難題に私たちが向き合っているというのは、事実だろう。
“未曾有”で“想定外”の地震と津波は、人間などひとたまりもない、という容赦のなさと半端のなさで町を破壊し、とりあえず去っていった。
そして残ったのは、数十万年というスケールで汚染が繰り広げられるという原発事故の処理だ。
数十万年というスケールで生命体を傷つけ、空気や土壌を汚染する放射線や放射性物質に対して、私達人間には解決の手だてがない。手の施しようもない。それが現実だ。
どうしようもないのです、とは口が裂けても言えないという立場の東電も政府も、都合の悪い事実はひた隠す、というありさまだから、私たち国民にはわからないことも多いけれど、地震当日にはすでに1号機、2号機、3号機は冷却材を喪失し、日をまたぐかどうかという時点で、少なくとも1号機は炉心は空だき状態となり、メルトダウンを起こしたということのようだ。
2号機、3号機も、1号機のあとに続いて、メルトダウン状態へと突入していった。
格納容器の底は穴が開き、ことここにいたっては、政府も、東電も、保安委員も、ひたすら水で冷却をするという以外の有効な手段を持たず、事実上全面降伏をするしかなくなった。ばんざい。お手上げ、ということだ。
あとは、国民に対してどのような言い逃れをするか。いわゆる敗戦処理問題が残った。
全面降伏をするしかないという事態と、それをいかに隠しきるか、という、前にも後ろにも進めない状態をまさに「国難」と呼んで、あとは呆然自失となるしかなくなった。明るく、楽しく、愉快に生きるよう国民にお勧めする、けなげに生きることに努めるようお勧めする、ということを日本政府は国民に対してもごもごとした口調ではじめることとなった。
それは、原子力発電所そのものが本質的にもっている破局性や、手に負えなさの裏返しだろう。
ともかく日本政府は、国民に対し、「放射能から目を背け、ポジティブに、なおかつ健気に生きよ」と、テレビやパンフレットを通じて伝えている。
「そうだ、そのとおりだ。放射能から目を背け、ポジティブに、なおかつ健気に生きよう」と、政府の意見に自分のそれをぴったり寄り添わせる人は、私の周囲にもかなり多い。
かなり多い、という事実自体は、さほど驚かない。
私が少しだけ驚いたのは、政治的立ち位置を右か左で言えば自他ともにはっきりと左だ、という人が、今回の一連の政府発表とベクトルを同じくし、そればかりか、あなたもそうすべきだなどとこちら側に向かってお説教、もとい、レクチャーをしてくださることだ。
彼らの言葉をそのまま書き出せば、
「悲観主義を乗り越えるべきだよ」
「明るい未来を信じるべきだよ」
「そんなこと言ったってダメだよ」
「そんなこと言ったって無理だよ」
と、このような言葉の羅列になる。
なにがダメなのかというと、「原発は止められっこない」「放射能の危険性はわからない部分も多い」「放射能については学説もさまざまなのだから、危険をあおるのは」いけない、ダメなのだそうだ。
風評被害がいけないのだそうだ。事実を大切にしなければいけないのだそうだ。乗り越えなければいけないのだそうだ。

「まったく手に負えないという状態に突入した原発事故なのだから、その無数にあるディティールを堀りおこして、さらに問題を見つけてくるような作業はダメだよ」

というロジックだ。
日常の中からことさら問題を掘り起こすことにどのような利点があるのか、それよりも事実を大切に行動をすべきだ、という言葉を、まさに実際、やんわりと問題点を指摘されるというような風情で、私は左派と言われる立ち位置にいる人間からレクチャーを受けた。
原発事故についてある女性と話をしていたときに、その話に割り込む第三者という形でのレクチャーだ。
このレクチャーは、なんなのか。左派の人間にありがちな、大衆蔑視、つまり、大衆が大変だ大変だと騒ぐそのふるまいに自分の言動を重ねていくべきではない、ということを言っているのかとも思ったが、彼がまったく言っていないことをこちらが推測するのはよくないから、一方的な邪推としてとどめておく。では、なんなのか。
彼自身の言葉によると、
「事実を大切にするべきだ」
ということなのだそうだ。

しかし、リアリティとは何か?
民主主義の理念を信奉する私にとってのリアリティとは、「民主主義」や「自由」といった観念や理想の中にこそある。
と、こういうことを言うと、
「現実が理念の中にあるなどとは、おかしい!」
などと反論されて、不毛な議論に踏み込んでいくことになりがちだ。
平行線にしかなりようがないばかりではなく、最終的にはこちらがお説教をくらうという形でおわる議論に踏み込むほど物好きではないから、ああそうですか、よかったですねと私は引き下がる。

引き下がるけど、少しだけ頭にはきている。
その、いわゆる頭にきた状態のままで感情にまかせたような物言いをさせていただくとして「事実はファンタジーではなく絶対不変の“事実”なのだ」としながら、いっぽうで、

明るい未来を信じるべきだ、などというどうでもいいような個人的信念が「事実」に含まれているのだと主張する人がいること自体が私には理解できない。

「民主主義や自由という観念の中に「事実」があるのはそれはおかしい、むちゃくちゃだ」、などと言い張る人間と議論をするなど、考えただけで気が遠くなる。
気が遠くなりがなら、ああなるほどな、とも思う。

事実とは「気分、都合、気の持ちよう」というものの中にある

という世界観を前提にしている人たちがいるのだ。
この国では、いわゆるネットウヨとカテゴライズされる人々の思想的無残さがよく話題になるけれど、これはネットウヨ、それからサヨ、というより、日本社会のどうしようもないロジックの地盤沈下なのではないか。
気の持ちようというものがリアリズムの神髄だと言うなら、そんなものは民主主義以前の問題だ。自分の身のまわりを批判的に眺めることを通して、自分の視野が社会全体に広がっていく、という行為の中に、リアリズムはある。……などと、正面切った議論など、現状においてはすでに意味がないのかもしれない。
そんなことすら考える。
本当の問題は私たちの底なしのご都合主義にあり、事実だの未来だのという言葉をその場その場の都合に合わせて出したり引っ込めたりして恥ずかしいとも思わないその腐った根性のほうにある。
日々の日常の中から、あれも問題だ、これも問題だ、などと問題を掘り起こしていくという作業は不毛であり、「建設的とは言えない」という話に、全体の議論が流れていく。「私たちは事実を大切にすべきで、“今は”問題を掘り起こしていくべきではないんじゃないかなあ」となっていく。
そのような私たちの大切にすべき「事実」というものを、別の角度から眺めれば、それは、なんのことはない「そんなことはしたくない」という自分たちのご都合だ。


そして私は、クレンペラーと、テンシュテットと、バーンスタイン版の『大地の歌』を連続で聴く。
そういう気分なのだ。





 



参議院行政監視委員会その後*(2011.5.27)


「「ああ」緑の魔術師は真顔で言った。「地球はすべてそっくり地獄と化すんだ。現在の罪深い生き方を続けていれば、それは時間の問題さ」
 オッキエッティは無言だった。
「さて」緑の悪魔は言った。「科学的事実が確定したから、個々のポリシーの話をしよう! いくらくれるつもりだい!」
「なんだと?」」
 〜ブルース=スターリング『秘境の都』〜


「「ぜんぶ嘘なの。その嘘が私の歌になってて、みんなが共感し、信じてくれて。そのおかげで私が生きていける。つらいのよ。ステージでこのつらさをぶちまけ、聴いている人たち全員の許しをこう夢をよく見るわ」
「小説家が、きっとそうよ」
「小説は、嘘や虚構だけでは、もたないの。でも、歌は、嘘だけでもほんとらしくなってしまう」」
 〜片岡義男『アマンダはここに生きている』〜



小出裕章、後藤政志、石橋克人、孫正義が参考人として呼ばれ、発言した参議院行政監視委員会をMBSラジオ『たねまきジャーナル』の記者が取材し、その模様をラジオ放送にて報告した。
昨日の参議院行政監視委員会の記者レポート


小出先生と後藤先生の口からも、軽く触れるという形で、語られている。
ラジオ『たねまきジャーナル』での小出先生。

福島第一原発事故:小出裕章 2011.5.24

後藤さん。
メルトダウンについて

この国の中枢に位置する人々のあまりの無責任さ、不勉強さ、傲慢さ、日本民族などという小さな村の内部に閉じこもってのみ繰り広げることのできる狂信的楽観主義の醜悪さ、などなどへの強烈な危機感というものが、三名に共通した報告だ。

公共倫理というものを土着的民族主義と同義としながら、

そうした姿勢をあろうことか自明とした国会議員たちが、、小出先生や石橋先生に対する質問という形で、そうした無残さをどうどうと披歴する。
ラジオ番組『たねまきジャーナル』スタッフの驚愕は、個人的には今さらという感もあるけれど、気持ちはよくわかる。





 



われらなりに、テラよ、奉じるはきみだけ
(2011.5.24)


「とくに、『いかなる人の死もわれを傷つける。われもまた人類の一員なれば』ってところ。それを信じていた。信じていたという以上だ。人の死だけじゃない。どうしようもない愚かしさも僕を傷つける。自分もその一員だから」

 〜シオドア=スタージョン『ニュースの時間です』〜


「最近は、きみらの書くものしか読まない。きみらだけだよ、いま現実にどんなものすごい変化が起こっているかを語ってくれるのは。君らのようなキじるしでなくては、人生は宇宙の旅、それも短い旅じゃなく何十億年も続く旅だ、なんてことはわからない。きみらのように度胸のいい連中でなければ、未来を本当に気にかけたり、機械が人間をどう変えるか、戦争が人間をどう変えるか、大都市が人間をどう変えるか、でっかく単純な思想が人間をどう変えるか、とてつもない誤解や失敗や事故や災害が人間をどう変えるか、なんて事に注目したりしない。君らのようにおっちょこちょいな連中でなければ、無限の時間と距離、決して死に絶えることのない神秘、いまわれわれはこのさき何十億年かの旅が天国行きになるか地獄行きになるかの分かれ道にいるという事実---こういうことに心をすりへらしたりはしない 」
 〜カート=ヴォネガット『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』〜



小出裕章、後藤政志、石橋克彦、孫正義氏が、参議院行政監視委員会で参考人質疑に登場した。
放射能の専門家・小出裕章さん、
格納容器の専門家・後藤政志さん、
地震学の専門家・石橋克彦さん、
電田プロジェクト・孫正義さん、
すばらしいメンバーで、個人的には、ここに圧力容器の専門家の田中三彦さんがいれば、完璧に近いと感じる。
ロジックの水準の高さ、志の確かさ、論点の確かさ、正直さ、モラル意識のゆるぎのなさというものを学ぶという一点においても、ぜひ録画映像を観て欲しい。


『参議院USTREAM中継 脱原発への道』その1
http://www.ustream.tv/recorded/14906087




『参議院USTREAM中継 脱原発への道』その2
http://www.ustream.tv/recorded/14907869





3人の話の素晴らしさにくらべて、質議の時間の国会議員たちのもの知らず、中身のなさ、自己PRオンリーのあさましさ、ごう慢さというものがまた格別。
本当にひどいな、これは。
私の単なる私見にすぎないけれども、共産党の田村議員の質問以外は、質問にすらなっていなかった。
これがこの国の中枢部における議論の質、ということだ。

自分たちの不勉強さの上にあぐらをかく

というあり方があたりまえのなった人々が、小出先生や後藤先生や石橋先生の前で裸踊りをするという、げっそりとする光景に、私は最後まで付き合った。