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『アメリカの国家犯罪全書』という分厚い本が届いた。(2003.5.29)

今日、インターネット書店「BK1」から到着した本はヘヴィーな2冊。
1冊は辺見庸氏の『単独発言』
もう1冊はウイリアム=ブルムの417ページの大著『アメリカの国家犯罪全書』だ。
『アメリカの国家犯罪全書』というタイトルからもわかるように、アメリカの国家犯罪の歴史を、アメリカの公文書から掘り起こして解説を加えたのがこの本だ。
まず、手に取って、その分厚さに仰天する。
百科全書と呼べるほどの厚さだ。
ひとつの国家が、これだけの犯罪を犯しているなどということが、すぐには信じられない、そんな分量だ。
しかし、公文書とは、アメリカ政府の公的な書類のことであり、ということは、この本に書かれている犯罪はアメリカ政府自身が認めているということだ。
ホゲエ!
『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』もまだ読み終わっていないし、これだけの国家犯罪全書を読みきるのは大変だ。
まだ、全体の5ぶんの1程度までしか読み進んでいない。
読み終わったら、また、感想文を書いてみたい。
しかし、イラクや北朝鮮のことを「ならず者国家」と呼ぶ救済者アメリカの本当の姿を、これでもかというほどに書き連ねられている。
民主主義の名において、アメリカの政府、軍隊、CIAは、世界のあらゆる場所で、あらゆる犯罪をおこなってきたようだ。
テロ、拷問、洗脳、暗殺、盗聴、選挙操作、麻薬製造、毒ガス、生物兵器使用、虐殺、エトセトラの膨大な犯罪告発。
正直なところ、私は、この本を購入するかどうか少し悩んだ。
……値段が高いからじゃないよ。
『アメリカの国家犯罪全書』が、『日本の国家犯罪全書』とタイトルを変えても、本の厚さは同じような分量になるだろうと思ったからだ。
アメリカの犯罪行為をあれこれ批判するだけならたやすい。
しかし、我々の住むこの国の犯罪についても、同様に告発され、裁かれるべきだろうし、それは、日本に住む私たち市民の仕事だと思う。
アメリカと日本の違いはタダひとつ、アメリカはやりたい放題であるのに比べて、日本は、アメリカのお許しがでた範囲での犯罪行為だというだけだ。
「それくらいでやめておけよ」
と親分アメリカに言われれば、しぶしぶでも引き下がらなければならない。
それだけの違い。
著者は、本の前書きで、
「本書を、『チェーンソーによる連続幼児殺人犯たちと、彼らを愛した女性たち』という書名にしようかと考えた」
と述べている。(カゲキ〜!)(;^-^ゞ
「この女性たちは、切断された手足や頭のない胴体を見せられても、愛する人がそんなことをするとは信じない。もし信じたとしても、愛する男が真に善意からしたのだと心底から考える。(略)」
ん?
確かに口調は過激だけれども、私は、ウイリアム=ブルムのいうことがよくわかる気がする。
テロ、拷問、暗殺、麻薬製造、生物兵器使用、虐殺、などなどの犯罪者である息子、夫、恋人たちを我々は容認するばかりか、積極的に愛してきたのだから。
我々が嘆き悲しむのは、犯罪者である息子、夫、恋人たちが、銃弾に当たって死体になって帰ってくるときだけだ。
しかし、私たちは事実を認めることを拒否し、的をえた批判に反発する。
私たちが国家規模で行ってきた数々の虐殺によって、“ならず者国家”に住む多くの息子、夫、恋人、娘、妻、母親が殺されていった。
その損害額、人的被害の規模は空前絶後という形容詞がぴったりだろう。
我々の犯罪は、誰が裁くのか?
神はあてにならない。
神が実在するとしても、こやつは自分のしでかしたことに無責任なばかりか、あろうことか、入念な悪意の塊だ。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読むまでもない。
期待すべきは、人間である。
私たち自身以外は、誰もいないのだ。

もう1冊。辺見庸氏の『単独発言』には『私はブッシュの敵である』というサブタイトルがついている。
どしー!
辺見庸さん、今度のイラク戦について、すっごく怒ってらっしゃいます。
私はブッシュの敵である、と、自らの立場を真っ向から表明なさった勇気に、まず感服する。
本の帯には、黒々としたゴシック体で「戦争発動者+翼賛者への怒り沸々!!」と書かれてもいる。
戦争発動者がブッシュだとすれば、翼賛者とは、我々の住むこの国のことだ。
辺見庸氏の『単独発言』は、すでにもう、単独の発言ではない。
私たちは、真実を知りつつある。
真実を知って、なおかつ無関心でおれるだろうか?
我々は我々が作り出した地獄絵を、打ち砕こうとするだろう。







漫画じゃない本も読んでます。(2003.5.28)

今日もインターネット書店「BK1」から本が到着した。
今回は竹崎孜氏の『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』と、漫画本、須藤真澄センセの『振り袖いちま』だ。
私としては、漫画ばかり読んでいるわけではないのを立証しようとして(誰に対して?)、
お勉強本も混ぜて買ったつもりである。
竹崎孜氏の『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』は、そういうお勉強用の本だ。私は、スウェーデンの中学校教科書『あなた自身の社会』を読んで以来、スウェーデンという国に少しだけ注目している。
スウェーデンの中学校教科書は非常に実際的で、文字通り社会的で、子どもの勇気づけに注力するその姿勢に好感が持てた。ぜひともこのような教科書で、社会の授業を受けたかったものだと興奮してしまうほどのできだった。
社会の要請に応えるとはどういうことなのか、個人という立場とはいかなるものか、「この社会は、きみという個人の参加をこそ待ち望んでいた」と、この教科書はひとりひとりに語りかける。
自分たちが生きている場所を子どもたちにどう教えるか、教育プログラムを作るひとたちのさまざまなアイデアと知恵が存分に盛り込まれている。
スウェーデンの教育に対する情熱と、きまじめさが胸を打つ。
無知無学な私は何も知らないが、『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』と胸を張って述べるかぎりは、スウェーデンは生活大国ということなのだろう。スウェーデンの中学校教科書を読んだかぎりにおいては、その報告に納得がいく。
私たちは、日本という国を「経済大国」にはしたけれども、「生活大国」とはお世辞にも呼べない社会を作ってしまった。
むしろ、生活不安は増大し、国は福祉における公的責任を放棄しつづける。日本は生活貧国という呼称がぴったりなのではあるまいか?
むろん、私たちだって、豊かな生活を求めていたことに変わりはないはずだ。
ただ、やりかた、考え方を間違えたらしいのだ。
生活先進国スウェーデンに、我々の方針の問題点を正すためのヒントをもらい、真の生活大国をめざす道しるべとなってもらうのはどうだろう?と私は考えている。
目次を眺めているだけでも面白い。
第三章の「健康と労働が政策の基本」、四章の「消えた寝たきり老人」、など、ぞくぞくしてくるタイトルだ。
そのままSF小説のタイトルに使えるほどだ。
実際、ここ日本においては、スウェーデンの日常生活は、じゅうぶんSFになるのではないだろうか?
なんでも、スウェーデンには「福祉学」という研究分野が存在していないそうで、市民にとって福祉とは、単なる日常生活上の常識ないし知識でしかないそうだ。この時点ですでに、日本とは大きく差が開いていると言える。
スウェーデンにみられる社会正義と公正という社会理念は、日本では事実上機能していないだけでなく、そういう発想自体が、実現不可能なフィクションと一蹴されるような種類のものだろう。
いま読みふけっているところだが、なかなか勉強になる本だと思う。

須藤真澄センセの『振り袖いちま』は、『月刊MOE』という雑誌で、第一話ぶんだけ読んだことがあるマンガ作品だ。
須藤真澄センセの単行本は、『観光王国』しか持っていないが、それでもファンを自任していたりする私(なんちゅうファン)。
だからこれは2冊目の単行本になる。
『振り袖いちま』のあらすじは、主人公・女子高生(?)ゆきのところに、ひいおばあちゃんの形見の市松人形がやってくる。この市松人形の名前が、“いちま”だ。
ひいおばあちゃんに心から愛されていたためか、心を宿した人形はゆきと二人きりになると人語を喋り、ときおり人間に化けて見せたりもする。
この“いちま”は、自分ひとりではなにひとつできないくせに、居丈高で、傲慢で、ゆきを困らせてばかりいる。典型的な迷惑野郎。それが人形“いちま”だ。
しかし、“いちま”がゆきに全面的に依存するがゆえに、ゆきにとって“いちま”は、代替不可能のかけがえのない存在になってゆく。
ふたりの友情は、互いに依存することで成り立っている。しかし、そもそも友だちって、そういう関係なのではあるまいか?
“いちま”に必要とされすぎることの気苦労、骨折り、さまざまな迷惑は、親友がいることの代価なのだ。
所有欲は愛ではない、なんてキビシーことは言いっこなし!
ゆきと“いちま”がお互いに、相手にとって「一番」必要なのは自分だと思っていたくて、ちょっぴり悲しい気分を味わうのが、ほんのりせつない。
……私は、けっこうかわいいお話に目がないのだ。
f ^ ^ *)
……。お友だちって何だろう?と考えたとき、私はいくつかの漫画作品を思い出す。私は、小学生時代ずっといじめられっ子だったくせに、お友だちの存在に憧れつづけていた。むしろ、いじめられっ子だったからこそかも知れないね。
いっしょにお話したり、漫画を読んだり、テレビを見たり、お出かけしたり、そういうお友だちができることで、今までの自分の人生が、全部ひっくり返る日が来ることを夢見ていたのだ。
『アラベスク』のノンナとアーシャは、私の理想のお友だち同士だ。
『るきさん』のるきさんとえっちゃんもいい。
『ぼのぼの』の、ぼのぼのとシマリスくん。
『神戸在住』のお友だちたちも忘れちゃいけません!
お友だちがいるって、こういうことなんだなって、こどものころ、漫画を読んで勉強していた。
『星の王子さま』の語りべの飛行機のりは、だれもが友だちらしい友だちを持っているわけではないって言ってたよね。
ほんと、お友だちは大切にしましょう。







二冊の絵本の読書感想文。(2003.5.27)

さらに、インターネット書店「BK1」から本が到着した。
今回は二冊の絵本、ローラ=ジェフィ文・フェリシア=ボンド絵の『もしもねずみにクッキーをあげると』と、ペドラ=マザーズ作の『ロッティーとハービー/ドドさん結婚おめでとう』だ。
読み出してからわかったのだが、『ロッティーとハービー』は「シリーズもの」のようだ。ロッティーは擬人化された鶏、ハービーも擬人化されたアヒルか何かだ。
今回のロッティーとハービーはわき役にまわり、物語は、ふたりの友だちのドドさんの恋と結婚が主題のようだ。
そして、ふたりの友だちのドドさんは、ロッティーと同じ擬人化された鶏……なのかなあ?
(;^_^ A
鳥であるのは間違いないようだけれど。
ドドさんは、全身赤紫色(本人はピンク色のつもりらしい)、キュウリのように長い顔、靴べらのような形をした黒いくちばし、白目であるはずの部分は真っ赤!
怪獣のような色合いのヒロインである。
(;^_^ A
実は、表紙に描かれたドドさんのこの色合いに仰天して、ついついこの絵本を買ってしまったのだった。こういう大胆な配色って、私にはとうてい思いつかないと思ったから。
いかにもアメリカの絵本といった、七色のジェリービーンズのような配色の絵本だ。
さて、ドドさんは、結婚式前夜に入ったお風呂の入浴剤が原因で、今度は全身が深緑色になってしまう。
相手の彼はきっとピンク色のお嫁さんがほしかったのだろうに、と考え、ドドさんは思い悩んでしまう。しょんぼりとするドドさん。
たしかに、ものすごくゲバゲバしい色だ。
しかし、旦那さんになる彼は、赤紫だろうが、深緑だろうが、そんなことはいっさい気にしない。
ふたりはめでたく結婚式を挙げる。
仲間たちは彼らを祝福する。
赤紫色の女性と恋に落ち、深緑色に変色した彼女と結婚する。男の立場としては、実はぜんぜん悪い話じゃない。

『もしもねずみにクッキーをあげると』は、子どもたちに人気のベストセラー絵本のようだ。
お話は、単純だけれども本当に素晴らしい。これから読む人たちのために、あらすじはひかえておこう。
デニムのズボンをはいた、小さなねずみが絵本の中に出てくる。
このねずみが、ほんの少しだけ、小さいころの弟に顔が似ている。
じっと眺めていると、なんとなく笑ってしまう。
この絵本に出てくるねずみは、最初から最後まで、幸福そうだ。
読んでいると、私の子ども時代まで、ふと、こんなふうに幸福だったような錯覚を覚えてしまう。
……これも実はぜんぜん悪い話じゃない。







『勇午』、『ブラックジャックによろしく』の読書感想文。(2003.5.23)

インターネット書店「BK1」からぞくぞくと本が到着する。
梱包材を開ける瞬間が、楽しい。
今日届いたのは漫画本『勇午(ユーゴ)』13.14.15巻、これまた漫画本の『ブラックジャックによろしく』4.5巻だ。
漫画本ばかり読んでいるようだが、まさしくその通り……というわけじゃないのよ、どういうわけか、漫画本が先に届くのよ。
『勇午(ユウゴ)』は成功率98%(だったっけ?)を誇る世界一の交渉人、不死身のヒーロー別府勇午が、世界各地でウルトラCの離れ業交渉をおこなう物語だが、なかでも13.14.15巻はシリーズ屈指の名作「インドシナ編」だ。
なんと、今シリーズの勇午は、物語冒頭、タイのバンコクで何者かに爆死させられてしまう。
がちょ〜ん!
いっぽう、世界の官憲を勝手に自任するアメリカ政府が、大がかりな国際陰謀をたくらんでいた。
大がかりな国際陰謀というと、昔ナチスドイツ、いまアメリカで、相当に無茶な設定でも、それっぽい国際陰謀ストーリーが1本できてしまう。
つーか、『勇午(ユウゴ)』に描かれているアメリカ政府のほうが、現実のアメリカ政府よりも理性的で穏当なのが笑える(ぃぇ、笑えなぃ……)。
さて。
勇午が死んでいる間に、アメリカ政府は、な、なんと、ベトナムにおける捕虜救出を名目に、いつのまにやらフィリピン沖に第7艦隊を展開。
「合衆国は全軍を挙げ、第三次インドシナ戦争に突入する!」
などと、決まり文句もすがすがしく、ベトナム政府を恫喝し、恐喝する。
どうなる世界。
勇午、死んでいる場合じゃないぞ!
(´▽`;)
う〜ん、このインドシナ編は、勇午史上、しびれるセリフが最も多く出てくる。
「現在世界でアメリカこそが正義だ!」
とかぬかすアメリカ人とか。
漫画で読むと笑っちゃうが、実際のアメリカ政府高官も、おんなじこと言うよね。
それに対する勇午(作者)の答え。
正義は勝者の勲章じゃない!正義とは悲しみから学ぶことだ 悲劇をくり返さぬ方法を!」
カッコイ〜!
他にも、「北村さん死んでください」とか(読んでない人にはこれはわかんないよね、ごめん)、かっこいい決め文句が頻出する、インドシナ編、おすすめです。

おっと、『ブラックジャックによろしく』4.5巻だ。
この作品は、研修医・斉藤英次郎が、その研修の中で日本の医療界の歪んだ現状に慄然とし、悩み、苦しみ、そして立ち向かっていく物語だ。
この漫画を読んだ者は、誰もが、日本の医療と病院の悲惨な現状に衝撃を受けるだろう。
例えば、最近密かに社会問題になっているのは、小児病院(病棟)の相次ぐ閉鎖だ。どこの病院でも小児科は赤字部門であり、子どもは金にならないのに手間がかかる、容体が急変しやすい、など、病院経営の観点から見たら割に合わないのだ。
あちこちの病院から受け入れ拒否され、救急車で息をひきとる子どもたち。朝から晩まで働きづめで、もはや根性や努力ではどうにもならないところまで来ている現場の医師たち。
「本当にどうする事もできなかったんですか!?」
と食い下がる斉藤。
これは漫画であるけれども、漫画ではない。今日の日本の現実なのである。
この漫画、是非とも某小泉首相に読んでいただきたいと思う。
小泉さんの言う構造改革のひとつの成果が、端的に描かれておりますよ。
「病気でない人が医者にかかったり薬をもらったりすることがないように、医療保険の本人負担をアップする」などという人だもんなあ。
病気でない人が医者にかかろうが、かかるまいが、どうしてそんな心配をするかなあ。
検査して病気じゃないことがわかって、めでたしめでたしでいいじゃないの。
それよりも病気なのに医者にかかれなくなる人が出てくることのほうが何倍も問題じゃないですか?
斉藤英次郎くん、きみの苦悩は深い。
『ブラックジャックによろしく』……名作です。







漫画『ちくちくウニウニ(全)』の読書感想文。(2003.5.22)

弟に借金し、またまたインターネット書店「BK1」で本を注文してしまった。
「BK1」は、複数冊注文をしても、発送準備が整った本だけを逐次送ってくるので、一冊の洋書が見つからないがゆえに、すべての注文書籍が届かないということがなくて助かる。
まず届いたのは、吉田戦車センセの漫画本『ちくちくウニウニ(全)』だ。
これは昔、『ちくちくウニウニ』と『ちくちくウニウニ続』2冊に別れて発行されていた単行本が、一冊にまとめられて編集され、最近(全)として再発行されたものだ。
『ちくちくウニウニ続』のほうがまだ未読だったから、借金してまで買わせていただきました。
ゆるせ弟よ。
(;^-^ゞ
この物語の主人公は、ウニの子どもだ。ウニとは、海にすんでいる、トゲがいっぱいのあのウニだ。すごい設定……。
主人公のシンジは、小学生にもなっておしゃぶりをいつもくわえているウブなウニの子。おませなウニの子トモヤと友だちだ。とても仲がいいんだけれど、考え方が正反対に違う。
たとえば、シンジがワカメ出版の絵本『雀と犬』に感動して、
「1度でいいから空を飛んでみたいなあ」
と頬を染めて言えば、
「おれたちはウニだぜ、ウニ。無理にきまってんじゃん」
トモヤが否定する、そういう関係だ。
このシンジとトモヤのかけ合いが楽しい。
シンジは、とってもオープンマインドな子どもウニで、誰ともすぐ仲よくなってしまう。転んでひざ小僧をすりむけば、泣きべそをかいて、
「ばんそうこう、はってよう」
なんて、大人に平気ですがったりするし、知らないひとについて行ったりする。
だから、すし職人にミソをとられそうになったり、ときどき危ない目にも会う。
だけど、吉田戦車センセの漫画に出てくるひと(海産生物?)は、みないい人だ。
ミソが欠けてしまったために、覚えたての九九(くく)の八の段を忘れてしまったシンジを可哀想に思ったすし職人は、ちゃんとミソを返してくれる。
ミソがもどったシンジは、すし職人とお客さんに対して、九九(くく)の八の段を大きな声で暗唱してあげる。
「ハチニ ジュウロク! ハチサン ニジュウシ!……」
笑い声のこだまする店内。
得意そうなシンジの顔。
九九(くく)を危なっかしく披露して得意になっているシンジが可愛らしいし、笑っている大人たちも、お追従や子どもの機嫌を取るためじゃなくて、本当に心から喜んでいるところがおかしい。
あまり語られていないことだけれど、吉田戦車センセの漫画にはほとんど悪人が出てこない。悪党を描いてもそれが悪人にならない。
悪人が出てこないという部分は、もっと注目していい。
これは、描いているひとの資質だと思う。
善行だとか人を信じるとか単なる言葉ではなく、善人ばかりを描こうというわけでもなく、吉田戦車センセの無意識が世界をそんなふうに眺めているということなのだろう、きっと。
ちょっとうらやましい。
それと、吉田戦車センセの漫画では、女性や子どもが窮地に追いつめられても、かならず助けがやってくる。
これも、あまり語られていない特徴。
私が読んだ吉田戦車センセの作品のなかで最も悲しい物語『猫戦車の最後』ですら、誰かが独りぼっちのまま終わるということはない。
『ちくちくウニウニ』でも、要領の悪い大人の貝柱さんのことを
「あの人、とろいんだもん、いっしょに遊ぶのいやだよ」
とトモヤが馬鹿にしたとたん、いつもはおっとりとしたシンジがぷんぷん怒りだす。
「やさしいし、いい人だよ!」
むきになって言い張るシンジ。
「前はいつも遊んでもらってたじゃんか」
と言うシンジが、素晴らしい。とっても好きだ。
吉田戦車センセの漫画世界では、誰かが別の誰かのことを嫌いになるということがない。
これもあまり注目されていない吉田センセの特徴だ。
あくまでも、オープンマインド。
誰かが別の誰かを心底から嫌いになったりしない世界。
ありふれているようでいて、実は非常に貴重な作風だと思う。
『ちくちくウニウニ(全)』は、少年サンデーに連載された子ども向け作品なので、みなさん比較的安心して読めると思うです。







徳島県知事選の結果と子ども国連というアイデア(2003.5.19)

徳島県知事選の結果が出た。前知事の太田正氏の落選。
あー。
太田正氏が汚職のない県政を作ろうとしたら、「秘密が漏れる」と議会から不信任を突きつけられ、失職後の出直し選挙。その結果がこれ。
……。
自民党、保守新党、公明党の連合軍の数に押し切られちゃった感じだよね。
太田さんが作ろうとしていた汚職調査団もお蔵入りだろうなあ。
ははは。
いや、おかしくないんだけどね。
吉野川可動堰の反対運動への影響も心配だなあ。
でも、徳島県民を責めることはできないよね。
新聞は、選挙になるとかならず「争点なき選挙」って、言うしね。
面白いこと言うよね、あれ。
私、今の今まで「争点なき選挙」って見たことないんですが、新聞テレビって、どうしてそう言うんだろう?
“選挙の争点”に気がついてほしくないんだな、あれは。
しかし、そうしたマスコミの宣伝や一般的な印象とは裏腹に、市民運動は絶えず前進し続けてきた。
最も最近の例では、イラクに対する英米軍の侵略に対して、世界中の多くの人々が一斉に反対運動に立ち上がった!
こういうことは、人類史上初めてのことだと思う。
日本の小学生に対する世論調査では、約9割の子どもたちがイラク侵攻にNOといっていたそうな。
凄いぞ、小学生!
このさい、世界中の子どもたちが集まって、『子ども国連』を作ったらいいんじゃないだろうか?
現実にかぶれきったオトナどもに、ものの道理とはなんたるかを指導するのが子ども国連の役割だ。
子ども国連は、神戸の小学校で子どもたちを殺した殺人者を法が許さないように、イラクの子どもたちを爆弾で無法に殺した、ブッシュらのことも断じてゆるしはしないのだ。
「あれは戦争だから」
などという理屈になっていない理屈は、子どもたちのさらさらつやつやした脳には無用なのである。
子ども国連では、走って転んだり注射をうたれて泣くのは恥とはされない。涙は恥ではない。だが、ひとつしかない林檎を5人で分けるにはどうしたらいいかとか、もしかしたらどこかからあと4つの林檎を調達できるんではないかとか、そうした問題解決法を絶えず募集する。自分たちも算数のお勉強など、研究に余念がない。
子ども国連の会議では、美味しいお菓子がおやつに出てくるので、毎日が会議だ。
おやつの時間には、誰のいちごショートケーキのいちごが大きいだの、小さいだので、よくけんかになるが、会議のすべてを壊したりしたら誰もが二度とショートケーキが食べられなくなるのを知っているので、最終的には話し合いになる。
全体の利害を損ねると、その損害は勿論自分にも降りかかってくる。論理的な社会的結末を知っているからこそ、彼らは話し合いに赴く。
議事進行はより道、脱線がしょっちゅうで、子どもたちは会議を楽しむ。会議のないときは、大人たちの指導だ。
例えば
「○○のような子は、うちの子ではありません!」
などというような、反情緒教育的かつ事実に反する高圧的な脅し文句を廃するようにキャンペーンをはったり、思いやりや優しさのなんたるかを大人たちに教育する。
……。
なかなか面白そうじゃないですか?子ども国連。
問題は、親を中心とした大人たちの介入だ。
う〜む。
子どもは親に強く依存しているので、親子の関係はえてして一方的な上下関係になっているのが実情だし、それが子どもの権利侵害になっているという認識が大人たちにはそもそも欠けていたりする。
親による摂政政治化への危惧が子ども国連の理論的に弱いところだ。
この問題を解決できたら、実現可能じゃないだろうか?
子ども国連は、親教育に力を注げば、日の目を見るかも知れない(やっぱ無理かな)。







星ねずみ、スタージョンぶし(2003.5.18)

風邪が治らないのでひき続きSF小説を読んでいる。
いま読んでいるのは、英米のSF短編小説を年代順に編んだアンソロジー集だ。
1940年代から1990年代まで、10年区切りで全6冊ある。まずは、1940年代の第1巻だ。
何という豪華な顔ぶれ。アーサー=C=クラーク、アイザック=アシモフ、レイ=ブラッドベリ! 早川文庫の松本零士氏の美人画がなつかしく思い出されるC=L=ムーア。きたきた、シオドア=スタージョン!
自分では、60年代から70年代初頭に台頭した鋭角的で多様な絢爛たるSF群が好きなつもりだったが(いや、好きなんだけれど)、こうしてみると、私の好きなSF作家って、けっこう40年代に活躍なさっていた人が多いのに気がついた。
この時代のSFは、物語がのびやかで、元気で、活気があって牧歌的で、これはもう、時代の空気というやつなのだろうと思う。
そういえば、最近ブラッドベリの名前をあんまり聞かないよ。
どうしてだろう?
私が中学生やってたころまでは、萩尾望都せんせが『ウは宇宙船のウ』を漫画化したりして、とにかく大人気だったけれど。
「ひとときはオハイオ州の冬だった」の書き出し(!)ではじまる『火星年代記』
世界でたった一匹生き残った海竜が、決して会えない仲間を求めて霧の海をさまよう『霧笛』
思いだすなあ。
小笠原豊樹さんの名訳が、なつかしいなあ。
……アンソロジーの話にもどろう。
フレデリック=ブラウンの『星ねずみ』
なんて可愛らしいタイトル。タイトルだけで、嬉しくなる。どういう物語なのだろうと、あれこれ想像してからでないと、ページがめくれない。
こういうタイトルで、絵本が作れないかなと思う。
知能を持ったネズミといえば、いまでは『アルジャーノンに花束を』のアルジャーノンみたいなやたらシビアな設定になってしまうのだけれど(悪いって言ってるんじゃないよ)、この星ねずみときたら、
おひしゃしぶりでしゅな、だいしぇんしぇい(お久しぶりですな、大先生)」
とか、
「うっチュー」
なんて言いながら、ミッキーマウスそっくりのコスチュームを着て悦にいっている。読んでいて、心から楽しい。
一点の曇りもなく、ひたすら楽しいSFというのも、なんとも嬉しいものだ。
当時のSFに出てくる人間はみな理性的で、善人で、お人よしばかり。
人間のことをよく知らない、別の銀河の宇宙人たちが書いたかのようだ。

このアンソロジーにはスタージョンの『昨日は月曜日だった』も収められている。
嬉しい。
私は、スタージョンの作品を集めていて、そんなむきになって集めているわけでないけれど、古書店などで見かければとにかく買うことにしている。
作品のデキ、不デキの差が大きい人だけに、大変だけど。
(;^-^ゞ
そうしたことが原因になってか、この作家サンは、日本であんまり人気がない。古本屋で探すのも骨が折れる。
ちなみに、カート=ヴォネガットの作中に何度も出てくるキルゴア=トラウトという名のSF作家は、シオドア=スタージョンの名をもじっているのではないかという説があるらしい。
あと、私が密かに怪しんでいるのは、漫画家の石森章太郎せんせのSF初期作品には、スタージョンの影響アリではなかろうか?
登場人物の自己不全感、なんらかの欠損をかかえた者たちが作る共同体。いかにもスタージョンぶしではありませんか?
あー、楽しい。
でも咳が止まんない。







核戦争の夢を見ました(2003.5.16)

アメリカがイラクに核ミサイルを落っことす夢を見た。いや、もしかしたらイラクでなかったのかも知れない。夢の中で、そこはシリアだったかも知れないし、もしかしたら北朝鮮ということもありえた。
夢の中のテレビニュースで、巨大なキノコ雲がいくつも上がっていた。
ノーム=チョムスキーは開戦の以前から、アメリカ政府は核兵器を使用したりはしないだろう(劣化ウラン弾を核兵器でないとして)とおっしゃっていて、彼によると核兵器はむしろ強力なプロパガンダとして使用されるものだとおっしゃっていたから、私もまんまとそのプロパガンダに乗せられてこういう夢を見たのだろう。
(;-_-ゞ
しかし、夢を見続けながら、私はその光景をリアルに信じた。
そして、私は泣いた。
顔を覆って泣いた。
すざまじいばかりの恐怖からだった。
目もくらむばかりの高い崖の上から、真っ逆さまに墜落し続けているような感覚だった。
そして、本当に、世界中の人々が真っ逆さまに墜落しはじめた。
落ちる、落ちる、まだ落ちていた。
とうとう、我々のすべてが、こうして落ち続けていた。
もはや、事実を回避する手だてはなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい、ゆるしてください。
私は叫んだ。
私のまわりで、人々が個々落下しながら、口々に叫んでいた。
無論、誰も聞きとどけはしなかった。
神々の哄笑すら存在しなかった。
ひたすら、落ちていた。
まだ落ちる!
まだまだ落ちる!
そのとき、私は、落下し続ける非現実感に気がつき、ああこれは夢なのだと悟った。
しかし、夢は終わらなかった。
ヴォネガットの言う『死よりも悪い運命』に接続されたまま、私は夢の中をさらに落下していた。
目を開けると、ここ日本では、有事法案の衆院本会議採決がなされていた。
あー。
どういう法案なのかをひとことで述べますと、
「まずは、よその国でドンパチしてはいけないという歯止めを外して、おおっぴらに武力行使してもいいことにすること。そして有事においては「戦争反対」とか、「戦争に協力したくない」などと言う国民がいたら罰しましょう
という法律だ。
まんが『はだしのゲン』のプロローグを思いだすね。第二次世界大戦中、竹ヤリ訓練をボイコットするゲンの父親に向かって、町内会長以下町の人々が白目をむき
「非国民め」「非国民め」
とつぶやく、あれ。
うんざりするほど馬鹿げているが、本気らしい。
この法案が見事参院を通ると、めでたくこの国は、“戦争に協力しない人間は犯罪者と規定される”国になる。
マジですか。
「国民の安全のために」「備えあれば憂い無し」などと我々はアホウなことを言う。
韓国の国会議員30人が日本の全衆院議員に対し書簡を送ってきた。
有事法案に反対して欲しいそうです。
「日本の国内法に隣国の国会議員が意見を差し上げるのは適切ではないという点はよく承知しているが、有事法制はその影響が日本国内に限定されるものではない」
とおっしゃってますよ。
日本の備えに、他の国は大いに憂いているということだね。
どこぞの国が気に入らないからといって「国民の安全のために」戦争をはじめちゃおうというような国が隣にいるというのは、そりゃあ、恐ろしいことだものね。
正直なところ、ここ日本は急速に、世界にとって手に負えない国になりつつある。
我々が北朝鮮政府を見るような目つきで、我々は他の国から見られているのよ〜。
お〜、こわ〜。
気が小さい私は、この空気を吸っているだけでどんどん消耗していくような気がするよ。







風邪ひいた、ジョン=ヴァーリーを読んだ(2003.5.15)

風邪をひいてしまった。熱があるし、のどが痛い。本当に使えない身体だとうんざり。
(;-_-ゞ
布団の中で退屈なので、文庫本を読む。
昨晩はジョン=ヴァーリーのSF短編集『残像』を読んだ。
アメリカがイラクに侵攻してからこっち、SF小説ばかり読んでいる。
私なりに、人類の未来、自分の未来を心配しているんだろうな。

表題作の『残像』のあらすじを乱暴にひとことで説明すると、見えざる、聞こえざる、口がきけざるの三重苦の少女が、同じ三重苦の人々を集めて、まったく新しいコミューンを作り上げるという物語だ。
語りべの健常人(という言い方っておかしいのかな?)が、そのコミューンに紛れ込んで、そこで見てきたものを紹介するという形をこの小説はとっている。
目が見えない、耳が聞こえない、話せないという大きな制約を抱えているにもかかわらず、このコミューンは「かってこの不完全な世界で試みられたいかなる計画よりも健康で、合理的なあり方に近」いと健常人の訪問者は感じ、「戦争のない、最小限の政治しかない社会生活」に強く魅かれていく。
不可欠かつ強烈な相互依存関係、タッチングによる深いコミュニケーション手段……。
孤独という最もたちの悪い病気から無縁の生活を営んでいる彼ら。我々は全体に依存しなければ一秒たりとも生きてはいられないという事実を身体で知っているがゆえに、彼らは孤独ではありえない。また、忍び寄る孤独の影をあの手この手で排斥するシステムが生活のさまざまな営み、行事の中に入念に盛り込まれてもいる。つまり、民主的な共産主義によって機能している小さな共同体という、非常に過激なビジョンをこの小説は提示していた。
こういう過激さ、好きよ(ここ、アニメ映画『魔女の宅急便』の画学生ウルスラの声で読んでくだちゃい)。
単なる大人のおとぎ話だといえばそれまでだけれど、おとぎ話はおとぎ話として、楽しんで読んだ。
SFはこれまでも、孤独という病がいかに人類にとって危険であるかを、絶えず訴えてきた。
P=K=ディック、シオドア=スタージョン、カート=ヴォネガット(彼はSF小説はあまり書かないけれど)……。
そして、SFはその他のジャンルと違って、孤独撲滅のための代替案を提示してきた。
この、代替案の提示という部分が、私がSFを読む理由かも知れない。
現実にはけっして実現しない(できない)案だったとしても、それなりの価値はあると思う。
ということで、熱が上がってきたから、ここでもう寝ます。
(;^-^ゞ
今度はスタージョンでも読もうかな……。







『プロジェクトX』に菅谷昭さん登場(2003.5.13)

新聞のテレビ欄を見ていたら大変なことに気がついた。
午後9時15分からのNHKの番組『プロジェクトX』で、菅谷昭さんがお出になる。
タイトルは「チェルノブイリの傷・奇跡のメス」
菅谷昭さんは、もともと信州大学医学部にお勤めの、甲状腺の外科専門の立派なお医者さんだった。
菅谷さんは、医者としての多忙な日常の中で、医療への高いこころざし、病気で苦しんでいる患者さんをひとりでも多く助けるぞ!といった若き日の情熱をともすれば見失いがちになりながらも、日々を過ごされていた。
ところが一九八六年四月二十六日、チェルノブイリ原子力発電所の史上最悪の原子力災害が起きる。
そしてその事故が原因で、チェルノブイリに近いベラルーシ共和国が広範囲にわたって放射能に高濃度汚染され、同地の小児の甲状腺ガンが著しく増加していることを菅谷さんは知る。
すると菅谷さんは、突然職を辞してしまう。
そしてなんと、放射性物質で汚染されているベラルーシ共和国に自費でおもむき、癌で苦しむ子どもたちに手術を施しつつ、満足な医療器具もない現場の劣悪な環境にもめげず、正しい最先端の医療を同国の医師たちに伝える活動をなさった。
その活動は、退職金によって捻出された資金がつきるまで続けられた。
菅谷さんは、私のヒーローである。
菅谷さんの著作を読んでいると、勇気が湧いてくるのだ。
ひとりの人間が、ここまでできるのである。
菅谷さんは多くの子どもたちの命を救い、不十分で問題だらけのベラルーシの医療体制を少なからず変革し、ベラルーシと日本の国際交流にさえ、小さいながら貢献していく。
むろん、多くの協力者がいてのことで、すべてが菅谷さんの独力とは言わないけれど、しかし、彼の打算のかけらもない勇気と行動が、大きな力となったのは間違いない。
ある討論番組のテレビの司会者が、反戦活動をしている方に
「あんた達は何もできない、あんた達は何も変えられない」
と決めつけていたのを観たが、もちろんそれはデマだ。
そもそも、状況を変えられる、変えられないで行動するか否かを決めなきゃいけないのだろうか?という疑問も浮かぶが、それはいい(結果がわかってるんだったらどんな行動も無意味じゃんねえ)。
大切なのは、個人の力の大小が問題ではなくて、ようは勇気なのだ。
あせらず、気負わず、できることをやりましょう。小さなことでも、完璧でなくても、何もしないよりは誰かの助けになっているのだから。という意味のことを菅谷さんはおしゃってる(ちょっと意訳アリ)。
ええセリフやなあ。

映画『タクシードライバー』の脚本家のポール=シュレイダーは、
「雑誌や新聞の表紙はいつも、連続殺人犯や大統領暗殺未遂犯、汚職議員らが飾るが、癌撲滅のために40年の歳月を捧げたような、真に人類に貢献した人物は表紙を飾ることはない。これは間違っていると思う」という意味のことをおっしゃっていた。
彼のそうした疑問が、『タクシードライバー』のあの衝撃のラストに繋がるのだろう。
雑誌の表紙を飾り、テレビニュースのトップを飾るのは、今日もトラヴィス(タクシードライバーの主人公)たちだが、我々は注目すべき人たちをいつも間違えているのである。
とにかく、番組は今日の夜9:15分からだそうです。
『プロジェクトX』という番組自体観たことがないので、どういう紹介のされ方をするのかよくわからないが、菅谷さんが菅谷さんであることに変わりはないだろう。
私ごときが菅谷さんを英雄に祭り上げるのは、むしろ迷惑でらっしゃるかも知れないけれど。
我々は社会的影響下においてしか生きてゆくことはできないし、となると、物語から良い影響を受けていくべきなのだから、菅谷さんも許してくれるだろう。
善とは何か、貢献とは何か、我々は人生という物語から学ぶ。







絵本『うまそうだな、ねこ』感想文(2003.5.10)

当ホームページはオリジナル絵本屋さんということになっているにもかかわらず、この姫林檎日記はマンガとSFと政治論に彩られておりまして、少しだけ申し訳なく感じております。
f ^ ^ *)
というわけで、今日は絵本の話をしませう。
しかし、絵本って、その思弁性において極めてSF的ではないかなあと思うのね。
……無理っぽい?
どうも言いわけっぽい?
(;^-^ゞ
しかし、レオ=レオニの『あおくんときいろちゃん』『スイミー』なんて、純粋にSFのいちジャンルと言えないですか?(SFはサイエンスフィクションの略なので、やっぱ無理かなあ)。
そういう目で見ると、新しい感動を覚えるんです、私。
レオ=レオニの絵本を眺めているといつも、シオドア=スタージョンのSF諸作品を思い出してしまう。
デヴィット=ウィーズナーの作品はどれもSF(的)だし、クロケット=ジョンソンの『はろるどとむらさきのくれよん』から、アンデルセンの『雪の女王』まで、絵本って、非常に思弁的かつSF的な要素が多いです。

最近読んで面白かった絵本に、松山美砂子さんの『うまそうだな、ねこ』がある。
これも極めてSF的な絵本なので、紹介したい。
副題には『しんかした さかなの おはなし』とある。
タイトルから判断するに、うまそうな猫と、なんらかの理由で進化した魚の物語らしいと推測できる(ほら、SFでしょ?)。
表紙の、背中を丸めて驚いている猫の絵が素晴らしく、内容を知らずインターネットで購入してしまったのだが、ストーリーも傑作絵本と言い切れる見事な出来栄えだった。
冒頭では、野原にある池に一匹の小さな魚が棲んでいる。
濃紺の水の中で、何やら浮かぬ顔つきの小さな魚の絵がまず見事だ。
毎日毎日、その小さな魚に、猫がいたずらをしにやってくる。魚のことをむげに水からひきずり出して、ほおずりして、いつか食べてしまうぞと歌まで唄う。
魚はいやでいやで仕方がない。
猫のことが嫌いで仕方がない。
魚は、進化することを決心する。水から出て陸に上がり、肺呼吸をはじめ、手足を獲得する。身体を巨大化させる。割れた口にも、ぎざぎざの三角牙を獲得する。
小さな魚が恐竜へと日々進化していく過程の絵は、恐ろしげというよりもどこかユーモラスで、読むたびに子どもたちは大喜びするのではないか。
こういう絵本は、読み聞かせをする大人にとっても、やりがいのある、楽しい体験になるような気がする。
やがて、とうとう完全に、猫と魚の立場は逆転してしまう。
恐竜化した魚は、逃げる猫を追い回す。
うまそうな、ねこ、と魚は舌なめずりする。
悲鳴をあげて逃げまどう猫。
ラストは……。
最後の1ページが素晴らしい。
ほほ笑ましいラスト、と言う人は多いと思う。
しかし私は、ほほ笑ましいなんてそんな生易しい形容詞以上の感動を覚えた。
非常に今的な、SF的メッセージの強いラストだと思う。
こういうビジョンを提示できることは素晴らしい。
つくづく、絵本の世界は奥が深いとため息をつく。







『フェスタin大阪』やってます。(2003.5.9)

やぶからぼうに宣伝です。
今日から三日間、「出版ネッツ関西」のメンバーによる『仕事の見本市』をやっております。
名付けて『フェスタin大阪』
何ですか、それは、と言うのも無理はない。
今日の今日に宣伝もないものだ、と自分で突っ込んでおいて。
(;^_^ A
出版ネッツ関西とは、関西出版業界で働くフリーランサーの組合でありまして、うちの遊絲社の玲子も加入しておるのであります。
この3日間は玲子も、立派な出版業界のかたがたに紛れ込んで、さも業界人であるかのように振る舞えるお祭り期間なのであります。
(;^_^ A

初日は、プロのカメラマンさんの『美しい人はさらに美しく』写真撮影会などもありました。


場所は、地下鉄谷町線・京阪電車「天満橋駅」を降りて徒歩五分、『エルおおさか』2階でございます。
純と玲子がふらふらさまよっておりますので、面白そうだなあと思ったかたは、ちょろりと遊びに来て下さいね。
そうすると、純にデジカメで写真を撮られてしまいます。
(;^-^ゞ
明日5月10日は、午前10:00から18:00まで。
明後日5月11日は、10:00から15;00までやってます。
そうだ、『エルおおさか』の住所は、大阪市中央区北浜東3-14
です。

美しさを際立たせるプロの腕。イラストレータさんや、ライターさんなど、ネッツ所属のプロの腕を見に来てみませんかあ。







『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』を観てきた。(2003.5.4)

『ロード・オブ・ザ・リング/二つの搭』を観てきた。悩みに悩んだが、映画はやはり劇場で観るのが一番だろう。弟に返済無期限で借金して観た。
物語は、原作を読んでいるので知ってはいたのだが、第1部『旅の仲間』に較べて、ぐんとヘビーだ。
この映画は、合戦シーンのCG効果が世間ではよく取りざたされているようだけれど、時節柄、個人的にこういう戦争シーンに過敏になっていて、ヘルム峡谷での戦争をアメリカとイラクの戦争と重ね合わせる人たちが出てくるのではないかと、気になってしまった。
イラクの悪を打倒するために、我々はとうとい犠牲を払って闘っているのだとするプロパガンダに、映画が利用されるのではないかと。
しかし、この物語の主人公が、勇者アラゴルンや、賢者ガンタルフではなく、どうして善良なだけでなんの取り柄もないフロドの旦那なのか、その点を見逃すと、この物語の本質を見逃すことになってしまう。
物語の舞台である中つ国は、善と悪の闘いで深い傷を追う。第2部においては、善の側がさしあたっての勝利を得るものの、森林などの自然環境や人間(妖精)たちの内面も含めて、荒廃し、衰退し、復興しようにも何かが以前とは決定的に変わってしまう。
この瞬間、彼らの心にとどまるは勝利と歓喜でしかないのだが、彼らの支払う代償は、極めて高いものとなる。
極めてヘビーな物語だ。
まあ、あんまりしゃべると、第3部のネタ晴らしになってしまうから、あとは来年にとっておこう。
個人的には、映画の最後のほうで、サム=ギャムシーが、
「自分たちは語り継がれるべき物語のただなかを旅しているようで、いつか父が子にこの物語を聞かせるだろう」
という意味のことを言うあたりで、ぐっときた。
ゴラムの焼けつくような激しい葛藤とともに、第2部の見どころだと思う。

話は変わるけれど、この映画を一匹の三毛猫が観に来ていた。
座席と座席のあいだの細い廊下をまさに足音もなくスクリーンの方角に歩いてきて、私の前の席に座った。
弟はまったく気がつかなかったようだ。
座席の背もたれは、猫よりも随分高いので、猫がそこで本当に映画を観ているのか、それとも丸くなって寝ているのか、それはわからない。
しかし、映画館の廊下を歩いている猫の後ろ姿というだけで、何ともシュールだ。
どこから入ってきたのかわからないが、不思議な猫だ。
この猫が、首を伸ばして、一心に映画を観ているのだったら面白いのに、などと思ったりする。
すごく良いものを目撃してしまったような、そんな気持ち。

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今日の新聞。
国際緊急医療援助団体『国境なき医師団』は、英米軍がバクダッドの病院を機能させず放置しているとして告発した。
イギリスの調査期間によると、先の湾岸戦争、そして今回の戦争で使用された劣化ウラン弾によって、イラク国民の44パーセントが健康になんらかの影響を受けるだろうとの見解を発表した。
44パーセント。
イラクは人の住めない町になってしまった。
放射能障害は、成長期の子どもの細胞に最も深刻な打撃を与える。
ブライアン=W=オールディスのSF小説に『グレイベアド』という作品がある。
スターウォーズ計画(当時はそういう言葉はなかったが)の実験によって降り注いだ放射線によって、人類は子種を失い、世の中が老人だけの世界になる話がある。
我々のファンタジーだ。






西部劇『真昼の決闘』の闘い(2003.5.3)

ジョン=ウェインよりもゲーリー=クーパーが好きだ。
と、突然言ってもなんのことかわかんない。
f ^ ^ *)
純の好きな映画に、悪党一味との孤独な戦いを強いられて苦悩する保安官をクーパーが好演した『真昼の決闘』という西部劇があるのだが、この映画、あの小泉首相が大好きなんだそうです。
ホゲエ。
ブッシュ米大統領からポスターをもらって喜んでいたことがあったとか。
しらなんだ。
この映画の内容からかんがみて、非常に意外な感じ。
この映画の脚本家は、赤狩りと闘ってきたカール=フォアマンであります。
おろろ。
カール=フォアマンとフレッド・ジンネマン監督は、赤狩りを傍観した人々や、勇気を奮い起こすべき瞬間に臆病風に吹かれる人々への批判をこめて、この映画を撮っているフシがある。
覚えているかぎりのあらすじはというと、冒頭、クーパー演じる主人公は保安官の任期を終えて、新妻と新婚旅行に出かけようとしている。
新妻はグレース=ケリーだ。
ところがその矢先、かつて刑務所に送りこんだ無法者が復讐に来るとの報告を彼は受ける。
力をあわせ、ともに無法者たちを倒さんと、彼は町の人々に助けを乞う。しかし、彼等の反応は冷たく、彼は孤立する。
市民は、無法者たちを是とはしないが、暴力を恐れ、誰も彼を助けようとはしないのだ。オープニングから悪党との決闘が始まるまでの物語の時の経過と、劇中の経過時間をシンクロさせる斬新な演出が、サスペンスを盛り上げる!
コチコチと時を刻む時計のアップと、苦しむクーパーの表情。
やがて対決の時が来て、彼はたったひとりで、4人(だったか?)の無法者たちに立ち向かってゆく……。
国連憲章を無視し、国連を骨抜きにし、無法のかぎりを尽くす我々の同盟政府と、それを社会悪と知りながら声をあげない市民に対する、痛烈な風刺映画として鑑賞するべき映画なのね。
いたた、胸が痛い映画だなあ。
西部劇映画だから、ラストには無法者たちとのどんばち銃撃戦があるんだけれども、悪党どもを正義の銃でなぎ倒す、という部分に共感してらっしゃるのかなあ。
ちなみに、ジョン=ウェインはこの映画が大嫌いで、『真昼の決闘』のアメリカヒロイックふう改訂版として、『リオ・ブラボー』を撮ったとか。
ジョン=ウェインの拒絶は、これは私、よくわかる。
話変わって、今日の新聞によると、プエルトリコのビエケス島というところで、島民の反対運動により、アメリカ軍射爆演習場を撤去したそうだ。
劣化ウラン弾の使用による健康被害、誤爆による被害に島民たちは苦しめられてきたそうです。
プエルトリコってどこですか?
知ってます?
キューバの近く、というくらいしか私は知らない。ビエケス島なんて言われたらもう、ぜんぜんわかんない。
でも、なんとか射爆訓練をやめさせるところまで頑張ってきたんだね。
4月30日から5月1日にかけて、盛大なお祝いが催されたそうです。
素晴らしいお祭りだね。
なんか、涙ぐんじゃったよ。
『真昼の決闘』は、こういう人たちのために作られた映画だ。
ポスターを送ったあの人や、送られたあの人のための映画ではないはずだ。

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