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近況報告(2003.8.13)

普段はブラブラと暇しているのだが、こんな私の生活もときおり突発的に忙しくなるときがあって、今がちょうどその時期になる。
朝起きてからちゃんと夜寝るまで仕事をしていると、世間一般の人間に自分が仲間入りできたようで、それが瞬間的なものであったとしても、けっこう嬉しい。
ガーガー仕事をしている状態は、ときおり「ひー」とパニックを起こしながらも、実はけっこう、好き。
精神が、安定する。
(;^-^ゞ
一方でパニックを起こしながら、精神が安定するも無いものだが、人並みを達成しているという満足感がそういう感想を抱かせるのだろう。
まあ、忙しいといっても徹夜するわけでなし、一本三千円のドリンク剤のお世話になるわけでもなし、ちょっと寝不足といった程度の、いたって緩やかな忙しさ(?)だ。
これ以上忙しいと、「好き」なんて言っていられないが、これくらいがいい感じ。
ちょっと忙しいかな、というペースで今は仕事をすすめている。
さすがにこれからは、緩やかなどとは言っていられなくなる雲行きでもあるが、考えたら恐ろしくなるので、今は先のことを考えないでおこう(ム……先に延ばしてあとで泣くのお得意パターンか)。
(;^-^ゞ
ホームページの更新がちょっととだえ気味なのは、以上の理由によるもの。すなわち、今お読みのこの文章は、みなさんへの言いわけの日記なのだ。
これからしばらく、ちょいちょい更新がとだえてしまうかもしれませんが、本当にごめんなさい。
さて、言いわけだけでもあれなので、この一週間に買った本のリストなどを作ってみよう。
ジョン=D=マクドナルドのミステリー『金時計の秘密』、小林光恵さんのエッセイ『かんトモ!』
先崎学氏の『先ちゃんの順位戦泣き笑い熱局集』は将棋の本。
『パパのカノジョは』は、ずっと欲しかった絵本。
須藤真澄センセの『あゆみ』はまんがの短編作品集、雑誌『MOE』で掲載されていた『深海プリズム』、収録されていた〜!。
ひぐちアサせんせのまんが『家族のそれから』は、二冊目。
『Illustrator図表デザインマスターピース』と、『ヒロポンのオキラクデザインDTP SCHOOL』、『標準ウェブ・ユーザビリティ辞典』、『DTPフォント完全理解!』は、一応お仕事のために買った本ということになっている。読んでもさっぱりで、ぶたに真珠。
『MacPeople』『MacFan』はパソコン雑誌で、『DTPWORLD』はお仕事関係のちんぷんかんぷんな雑誌だ。
おっと、雑誌は、『将棋世界』も買っていたっけ……。
素晴しい7デイズ。
支払いはカードで一ヶ月先だ。
こんな私と、どうかこれからもお友だちでいてください。








消費税アップして『大陸漂流』が読めない(2003.8.2)

好きな本は2冊以上購入してしまうという癖を持つ私であるが、大好きな本なのに、うかうかと2冊目を買いそこねてしまったことも何度かある。
あっと気がつけば、お目当ての本が絶版、もしくは品切れになってしまっているのだ。
そうなると、本屋に注文しようが、出版社に手紙を書こうが、どうにもならない。手遅れというやつ。
復刊ドットコムという、復刊運動を請け負ってくれるホームページで復刊願いの票入れをしたりもするが、とりあえずは、泣き寝入りするしかない。
大量の書籍が、消費税導入の年と消費税率のアップの年に、品切れや版切れをおこしている。
税率が変わると、本の値も変わる。しかし出版社は、全商品の値札のシールの張り替えに、数億円もかけていられないのだ。
だから、泣く泣く、自社の商品の版を重ねることを断念してしまったのだ。
消費税をアップすると、生活がひっ迫するだけでなく、大量の本が版切れをおこし、読めなくなってしまうという問題もおきる。
こんなに素晴しいのに、あわれ版切れで、1冊しか手もとにない本。
そういう本は、何とも寂しい。何とも、悲しげだ。
どうしてぼくは1冊なの? と好きな本に責められているような気にもなって、申しわけないなあ、と思う。
ラッセル=バンクスの『大陸漂流』も、そんな本だ。
辞典のように分厚いが、その膨大なページ数に劣らず、内容も濃く、重厚な本格小説。
ニューハンプシャーに住むアメリカ白人男性と、ハイチの、極貧を通り越したような生活をしている黒人女性の人生が交互に語られて、物語は進行する。
黒人女性はアメリカへの不法入国を試みるため、白人男性はささやかなアメリカンドリームを夢見て、それぞれフロリダをめざす。
ささやかな希望を求める、ある意味ありふれてさえいるようなアメリカ的前進力に支えられて突き進む彼らの行動は、これまたありふれてアメリカ的な鬱憤と挫折を体験しながら、逃れようのない破局へと向かってゆく。
アメリカ式に人生を切り開いていこうとする主人公たちのそれぞれの人生がクロスするとき、そこに起こる悲劇は、ほとんど必然的なものだ。
アメリカという巨大なシステムが抱える根本的な矛盾が産み出す悲劇を、骨太に、これ以上ないくらいにリアルに書ききって、これは傑作小説と胸を張ってお勧めできます。
作家のラッセル=バンクスの力量は、これは本当に圧倒的。世界にはこれほどに、小説をうまく書ける人がいるのだと放心してしまうほどの力量。
完璧な小説を1冊あげろと言われれば、『大陸漂流』と答えておけば、少なくともどこからも異議が出ることはないだろう。

ともかく『大陸漂流』は絶版品切れなので、ラッセル=バンクスの別の小説『狩猟期』を購入する。
この小説は映画化もされているが私は未見だ。
『タクシードライバー』の脚本家、ポール=シュレイダー監督作品で、なかなか評判が良い映画のようだ。
まずは小説を読んで、そのあと映画も観てみようと思っている。








オマル=ハイヤームの『ルバイヤート』を2冊(2003.7.31)

注文しておいた本がぞくぞくと到着する。
オマル=ハイヤームの詩集『ルバイヤート』が第一陣だ。
『ルバイヤート』は、東京に住んでいたとき、仕事帰りに高円寺の古本屋で見つけたのが最初の出会いだ。
どうでも勝手にしてくれと言わんばかりに、カゴの中に無造作に詰め込まれた1冊50円のぼろぼろの文庫本群から、発掘した詩集だ。
まっ茶色に変色したトレーシングペーパーに包まれた岩波文庫。
ちなみにその日は、エヴァン=ハンターのスリラー『冬が来れば』も200円で購入して、なかなかの収穫だった。
『ルバイヤート』は、いま新刊で買うと400円だ。
じつは私は、気に入った本は、ついつい何冊も買ってしまうという困った癖がある。カート=ヴォネガットの本なんて、家中のあちこちの部屋に同じ本が散らばっている。
リチャード=アダムスの『ウォーターシップダウンのうさぎたち』は、少なくとも6冊以上買っているはず。読み終わっては人にあげたりもしているから、同じ本が私の手もとから行ったり来たりする。
人にあげては、また同じものを購入する。
『ルバイヤート』は、まだ2冊目だ。
オマル=ハイヤームの主張の中で、当時の私の胸にもっともストンと落ちてきたのは、「神が実在しているとしたら、そいつは念入りな悪意の塊だ!」というものだ。
(;^-^ゞ
むろんこれは私の解釈で、詩の理解の仕方として正しいのかどうかは、わからない。詩なんて、自分の世界観を強化するために読んでいるようなところがあるのかもね。
ただ、ワシだったらもちっとマシな世界を作ってみせるぜ、というふうに共感したのは事実。
(^◇^;)
古本屋で『ルバイヤート』と出会ったころの私は、心身ともに疲れ切っていた。とにかくだるくて、何をするにも面倒で、そのくせ夜は眠れないのだ。
仕事は休まず週6日ちゃんと働いていたけれど、それでも朝、仕事仲間に
「おはようございます」
と挨拶をするのがすでに、どうにもだるくて仕方がないという状態だった。
そんな当時の私にとって、この大昔の詩集は、ずいぶん救いとなった。

 知は酒盃をほめたたえてやまず、
 愛は百度もその額に口づける。
 だのに無情の陶器師は自らの手で焼いた
 妙なる器を再び地上に投げつける。

 せっかく立派な形に出来た酒盃なら、
 毀すのをどこの酒のみが承知するものか?
 形よい掌をつくってはまた毀すのは
 誰のご機嫌とりで誰への嫉妬やら?

 時はお前のため花の装いをこらしているのに、
 道学者の言うことなどに耳を傾けるものではない。
 この野辺の人はかぎりなく通って行く、
 摘むべき花は早く摘むがよい、身を摘まれぬうちに。

私は、基本的にお酒は飲まない人間だけれども、詩に酔うことはできる。
『ルバイヤート』は酔っばらいの書いた詩だから(何かといえば酒、酒と出てくる詩だ)、それもむべなるかな。
無情の陶器師は、自らの手で焼いた器を再び地上に投げつけて、土くれに戻してしまう……。 
そういうやつなんだよ、創造主って(創造主で悪ければ、宇宙のコトワリでも何でもいいや)。
高円寺の古本屋で立ち読みしながら、私は力なく「ぬへら」と笑うしかなかった。
しかし、人生は確かにひっどい冗談でも、それでも冗談は冗談だ。クスリとでも笑わすことに成功して、無情の陶器師は、さぞかしご満悦だろう。

 人生はその日その夜を嘆きのうちに
 すごすような人にはもったいない。
 君の器が砕けて土に散らぬまえに、
 君の器は酒をのめよ、琴のしらべに。

へーい、へい。
こんなふうに歌われたら、ぐったり疲れきった私は、もう納得するしかないではないか。








イラク特措法案のビョウキ(2003.7.27)

イラク特措法案が国会で可決された。これ以上の長期間、数十万の軍隊をイラクに展開し続けるのはアメリカも大変なので、その一部を日本の自衛隊に肩代わりさせようと、まあ、そういう法案だ。
日本ではイラクでの戦争はとうに終わっていることになっているが、じつは今もドンパチ続いていて、アメリカ兵の死傷者も日々増加し続けている。
そこに、日本の自衛隊が鉄砲かついであらわれる。
アメリカ軍の仕事の肩代わり、ということは、この死傷者数の一部肩代わりも引き受けるということだ。これがどういうことなのか、日本の国民のほとんどが知らされていない。
では、はっきり申しましょう。我々は、イラクに対して、事実上、開戦するのだ。
すくなくとも、中東の人々の感情からすれば、そういうことになるはずだ。
自衛隊は、イラク国民に銃を突きつけることになる。悪魔のハンマーを手に、鉄槌をふるう。
某小泉首相によるとこれは、
「正当防衛」
なのだそうです。
……ハハ。
正当防衛を主張しに、わざわざ遠いイラクの地に赴く、我々って何者?
「イラクにいる悪いひとたちを皆殺しにして、イラクを素敵なよい国にしましょう!」
と、我々は嬉々として叫ぶ。
フセイン大統領のふたりの息子を殺したと言って、ブッシュ氏は大喜びだ。
ビンゴ! 爆弾が当たったよ!
しかし、ちょっと考えてみようや。
どこぞの超大国が、
「日本にいる悪いひとたちを皆殺しにして、日本を素敵なよい国にしましょう!」
と宣言し、ここに爆弾をばらばら降らしてきたらどうよ?
日本には悪い人はいない!……てなことはないだろう。
そもそも、いい悪いを決めるのは、超大国の側であって、私たちではない。
日本は瓦礫の山と化すだろう。私たちは家族や友人を失うだろう。
私たちは猛然と抗議するに違いない、イラクのひとたちのように。しかし、日本を素敵な国にしたがっている超大国は、けっして聞きとどけてはくれないだろう。
素敵な超大国に住んでいる素晴しい国民たちは、我々が抗議をしていることすら、ほとんど知らないままに日常を過ごしているはずだ。
我々の抗議は、ほとんど伝えられないからだ。伝えられるのは、おもに我々の憎悪、敵対心、自分と同じ気持ちを相手にも味合わせてやりたいという復讐心だ。
「おお、日本にはまだまだ悪いひとたちがいる、素敵な国になるには、まだまだ爆弾がたりない」
そして、爆弾を追加する。
……。
まあ、私がこんなところで日記を書いてみても、大勢は何にも変わんないだろう(体調が悪いので、いつになくペシミストモード)。
しかも、某小泉さんの支持率、アップしてるらしい(!)。
イラクのひとたちを銃の台座でこづいたり、はては引き金ひいたり、そういうことでこれから忙しくなるだろう。
向こうも撃ってくるだろう。我々の何人かは、負傷し、死ぬだろう。その何十倍、何百倍のイラク人たちが負傷し、死ぬだろう。
そういう単発的な交戦をくり返し、やがて、お互い引っ込みがつかなくなるまで憎悪を高めていくだろう。
そして、崩壊。
風呂の栓を抜いたみたいにぐるぐるうずまきながら、勝者も敗者も渾然一体となって、なだれ落ちる大破局だ。
墓碑銘は決まっている。
『我々は、バカだった』だ。








「籠の鳥が死ぬわけを知っています」の発見(2003.7.26)

実は最近、体調が悪い。
眠い、だるい、つらい、鬱ぐ、くじける、だれる……まるで日本経済のような症状を示している。
体調が悪いときには、本を買うくらいしかやることがないので、オンライン書店bk1で、どっさり本を注文した。先日の日記でみなさんにお伺いした

「籠の鳥が死ぬわけを知っています……
鳥たちと同じように、あたしも空にふれたから」

という、ノートに走り書きされた引用文の出所がわかったのだ。
どうやら、マイク=レズニックの『キリンヤガ』というSF小説らしい。
……覚えてないなあ。
(;^-^ゞ
タイトル聞いても、まだ、ピンと来ない。
どうなっているのだろう。
オムニバズ小説らしいから、どっかの雑誌に短編として載ったのを読んだのかなあ?
とにかく、購入。
シオドア=スタージョンの『海を失った男』も買物かごに。
ちなみに、スタージョンの『一角獣・多角獣』は、今では、5〜6万円で取引されているとか。
ぐはあ!
近所の本屋で千円は、安かったのねえ!
6万円なんて、そんな高値で取引されているくらいなら、ぜひとも再販してもらいたいものだが、スタージョンは人気があるのやらないのやら、よくわからない作家だ。
再販といえば、ロバート=F=ヤングのSFファンタジー『ジョナサンと宇宙クジラ』が、いつのまにか再発売されていた。
この3年ほど、古本屋に入るとかならず探していた本だ。思いがけなく出会えて、心から嬉しい。
実は『ジョナサンと宇宙クジラ』は、私の大好きな漫画『神戸在住』の主人公、辰木桂のお気に入り小説。桂ちゃんのことが上も下もなく大好きな私は、桂ちゃんがどんな本を読んで面白いと感じているのか、とにかく知りたくて仕方がない。
桂ちゃんのことを少しでも知りたいのだ。
しかし桂ちゃんは、私など足元にも及ばないほどの、とんでもない読書家だ。読書の好みも、SF、ミステリーから、絵本、少女小説まで、非常に幅広い。
桂ちゃんがリチャード=アダムスの『ウォーターシップダウンのうさぎたち』を熱心に読んでいるシーンを見つけたときは、本当に嬉しかったなあ。
ファンとしては、桂ちゃんと同じ本を愛読していたという事実が、何よりも嬉しい発見なのです。
桂ちゃんの『ウォーターシップダウンのうさぎたち』の読書感想を聞いてみたいと、そんなことを夢想している。
その他、漫画だ絵本だなんのかんのと買って、仕事に入り用なソフトウエア、プリンターのトナー、などなども別のお店で購入して、さてお代金は……。
12万円なり。
ふぎゃ〜!!!
しゃれならん金額やで、ホンマ(急に大阪弁)。
あわわわわ。
3ヶ月くらい、じっと家にとじこもっておこっと。








「籠の鳥が死ぬわけを知っています」
というノートの中の謎の言葉から
(2003.7.15)

こんな一文を古いノートの中に見つけた。

「愛の反対は憎悪ではありません」ゆっくりと言う。「無関心です」
 
どうやら、あるとき夢中で読んだSF小説から書き出したらしい。
らしい、というのは、何という小説からの引用なのかを、まったく覚えていないのだ。
ノートの同じページには「ベストSF」という走り書きがあるから、読んだのはきっとSF小説なんだろうな、とは推測できる。あとは、いくら思い出そうとしても、さっぱりだ。ヒントさえ思い出せない。
気になる。ものすごく、気になる。
こんなことってあるのだろうか? きっと、読んだ当時は、これほどきれいさっぱり忘れ去るとは思っていなかったのだろう。引用もとを記載し忘れるとは、何という落ち度だ。

「籠の鳥が死ぬわけを知っています……
鳥たちと同じように、あたしも空にふれたから」

これも、ノートの走り書きから。別のSF小説からの引用のようだ。
ハッとする、素晴しい一節だ。
深い。……それに、美しい!
この一文をノートに見つけた瞬間、
「おっ」
と、小さく声が漏れてしまったほどだ。
もしかして、私のオリジナル? ……残念ながら、私の心が発した言葉ではないようだ。
く〜っ、こういうカッコいいセリフ、いっぺん言ってみたい。
ノートの終わりのほうに走り書きしてあるから、引用もとの小説は比較的最近に読んだのではないか? と、推測はしてみる。……しかし、それでも、何という小説からの引用なのか、どうしても思い出せない。
うわあ、なぜ思い出せないんだ。
誰か、これらの文章の出典元を知らないでしょうか? 知っていたら、お手数ですが、私に教えて下さい、お願いいたします。
(^人^)

「私は鉄郎をネジになんかしたくない!!」

これは、松本零士センセの漫画『銀河鉄道999』からの引用。2ヶ月前に読んだから、覚えてるよ、さすがに。
でも、ちゃんとノートにメモっておこう。
f ^ ^ *)
鉄郎とは、『銀河鉄道999』の主人公の少年の名前。彼は、銀河鉄道のSL列車に乗って、機械の身体を得るための旅に出ている。
マッチョなスペースマンの居並ぶ宇宙の旅路のただなかでは、鉄郎はあまりにも感じやすく、傷つきやすい少年だ。しかし、鉄郎は、傷つくことをけっして怖れない。鉄郎とともに宇宙を旅する謎の美女、メーテルは、そんな鉄郎を心から大切にしている。
旅の行き先も、自分の正体もけっして明かさないメーテルが、
「鉄郎!!」
と名前を呼ぶだけで、ある種の悲痛さが心を埋め尽くす。
他のあらゆることが謎のままで、ネジになんかしたくないと嘆いているメーテルの、けっして鉄郎を失えないという思いだけが、真実だ。
メーテルが鉄郎の名前を呼んでいるシーンだけを選び出し集めたとしたら、蒸留された切なさとそこから生まれる覚悟の、美しい結晶体のような本になるだろう、と感じている。

人間は、いまではあべこべに、自分のつくりだしたものの奴隷となり、それらのものによって骨抜きにされてしまったのだ。

これは、『ゴーリキー短編集』から。
SFからの引用のように思えるが、今から百年以上も前に書かれたロシアの普通小説だ。

私たちは自分の仕事をはげしく憎んでいた、だから私たちは自分の手でつくりだしたものを一度も口にしたことはなかった。

これもゴーリキー。
ロシアの文豪だけあって、こうして一部分だけ取りだしてみても、人間洞察の深さと鋭さを痛感させられる。
最後にレオ=レオニの絵本『あおくんときいろちゃん』から。

もう うれしくて うれしくて
とうとう みどりに なりました

何度読んでも(聞いても)、素晴しい。








シオドア=スタージョン
『たとえ世界を失っても』の読書感想文
(2003.7.14)

シオドア=スタージョンの『一角獣・多角獣』という絶版になったSF小説を一冊、持っている。
この本は世田谷に住んでいるころ、近所の古本屋で見つけて、悩んだ末に購入したのだ。古本に1000円以上もかけるなんて、と、当時、ホント悩みました。
ところが最近、ネットサーフィンしていて、この『一角獣・多角獣』を探している人たちが多いことに気がついた。
なかなか貴重な本らしい。今じゃあ、1000円なんて値段では、とてもじゃないけれど手に入らないだろう。
多くの人たちが探し求めている本を持っているということを知って、わたし何やら突然、得意げな気持ちになったわけ。
イイダロ〜。 (*^▽^*)
この『一角獣・多角獣』は、アメリカで出版されたスタージョンの短編集なのだが、日本語に翻訳されて早川書房から出版されるさいに、一作だけ選から漏れた短編があったそうだ。どうしてオリジナル短編集から外されたのかというと、ページ数などの都合などではなく、内容が過激すぎると当時、判断されたためだという。
いわば、いわくつきの短編で、こうなると、その短編を是非とも読みたくなるのが人情だ。
その『一角獣・多角獣』から外された短編が、河出文庫の年代別英米SFアンソロジー『20世紀SF2(1950年代)』に収録されていると聞いた。
その本なら、本屋で買ってきたきり、ページをめくりもせず本棚につっこんだまま、まだ未読なはずだ。
これはいけない。さっそく読んでみた。
『20世紀SF2(1950年代)』は年代別のアンソロジーだから、1950年代を代表する傑作だと選者が判断したSF作家たちの短編が、収録されている。
スタージョンについての話の前に、この『20世紀SF2(1950年代)』は、年代別のSFアンソロジーとして、粒のそろった素晴しい読み物だったことを、ひとこと申し添えておこう。
地球(人類)最後の1日の情景を描いたリチャード=マシスン『終わりの日』、鋭く切ないオチが胸をうつC=M=コーンブルース『真夜中の祭壇』は、新しい発見だった。
さて、スタージョン。
翻訳版の『一角獣・多角獣』から漏れた作品名は、『たとえ世界を失っても』だ。
これは、ぐいぐい読ませる小説だ。いかにもスタージョンらしい内容だ。
作品発表の経緯についての感想は、こんなものを過激がっていた時代もあったのかと、拍子抜けというか、少々驚いた。
この短編小説のテーマは、愛だ。
などというと「ははあ、きっと、ハードな性描写を過激と判断されたかしたのだろう」と、はやとちりするひともいるかもしれないけれど、この小説には、そのような描写は、いっさい、ない。
やはり、正面から愛をテーマに小説を書いたりすると、内容はどうしても過激にならざるをえない。
なぜなら、愛は、反社会的な現象だからだ。少なくとも……当時も今も……、我々の知っている社会においては、愛は、反社会的な現象だ。
当時の日本において、出版と配布を編集部が断念するほどには、『たとえ世界を失っても』の愛というテーマは反社会的なのだったと、言えるのではないだろうか。
愛という概念を世界ではじめて提唱したのはイエス=キリストだったと何かの本で読んだことがある。そして、そのキリストは、反社会活動の罪で獄門ハリツケの刑になった。
今でも、恋人たちは、その存在自体が、反社会活動家なのだ。
だから、遅かれ早かれ我々は、恋人たちから愛を取り上げてしまう。愛を取り上げるためのあれやこれやの策略を社会の中に張り巡らしている。
恋人たちが、愛を取り上げられないで暮らしていこうとすれば、それだけで途方もないエネルギーと注意深さが必要になってくる。
と、ここから本題に入る予定だったのだが、話してしまうと小説の重要なネタをほとんどばらしたことになってしまう。
しかし、出来うることなら、この小説は、スタージョンのファンとして、多くのひとに読んでもらいたい。だから、オチをばらしてしまって読書の楽しみを奪うことは避けたい。
中途半端だけれども、このあたりで口を閉じることにしよう。
うむ。
話題を『たとえ世界を失っても』から少しそらそう。
愛には形がない。定義することすら不可能だ。
そして、スタージョンの小説を読んでいると、「私という個人」の存在は愛という全体のいち機能なのだという主調を、強く感じる。
人体を例にとって説明すると、私(全体)が見るために眼が存在し、私(全体)が匂いをかぐために鼻が存在するのと同じに、私たちは、愛という全体が歌うためにここにいる。愛という全体における機能を個人個人が果たすとき、個性という言葉の本当の意味が明らかになる。
なかなか興味深く、そして、過激な主張だ。
ありゃ、これはスタージョンじゃなくて、P=K=ディック論かな。
(;^-^ゞ
いや、スタージョンにも通じる面はあるだろう。
愛などという思弁的なテーマを扱うには、SFというジャンルは最適なのだから、同じテーマを扱う作家が幾人もいるのは、納得できる。
スタージョン的視点で新聞の三面記事を読んでみると、最近、通りすがりの子どもや女性を襲う、奇怪な事件の多さに気がつく。
ほとんど、毎日と言っていいほどの頻度で事件が起きる。
お金目当てでも、いたずら目当てでもなく、たまたまそこにいたひとをとつぜん襲うパターンなのだ。
『キレル子どもたち』とか、『異常者』などという見出しを見るにつけ、何をもって異常と定義しているのか、わかって言っているのかなあ、と疑問に感じる。
『キレル子どもたち』なんて、内容のともなわない単なるレッテルでしかないヨ。
我々が、スタージョンを真面目にしっかりとりあげてこなかったために、世の中をこんなふうにしてしまった、と、少しだけ本気で思ったりする。
私の思考は、新聞記事からどんどんSF的飛躍をはじめる。
我々は、個人から愛を取り上げつづけてきた。
個人に対し、「そんなことを考えているのはおまえだけなんだぞ」と脅し、社会的に孤立させるように絶えず腐心してきた。
ヴォネガットやスタージョンたちが言うには、孤独は、人類にとって最もやっかいで重い病気なのだそうだ。
発声についての基礎からまったく何もかもを取り上げられて成長したひとたちは、歌を歌いたいという欲求、叫び声を聞きとどけてほしいという欲求だけを抱えて、生きていく。
我々の言う「愛」は、歌うものではなく、自分自身をすら騙しきってしまえるような微妙なやり方で他者を所有し、勝ち取るものだ。
そこには、もちろん負け組も存在する。
身ぐるみはがされて道端に放置されたままでいるような気持ちを味わいながら暮らす人々が、スタージョンの小説には多く登場する。そして、社会から敗者のらく印を押されたひとたちは、小説中において、奇妙に残酷だ。
スタージョンの『コズミックレイプ』という長編小説の冒頭で、町のひとたちから冷たく追い立てられる宿無し男が出てくる。
その男は、腹を空かした子犬が近づいてくるのを呼び寄せて、どうしたことか、ボコボコに殴りつける。骨を折り、内蔵を破裂させ、虫の息になったところを捨て置いてしまう。
忘れようとしても忘れられない、衝撃的なシーンだ。
この小説の冒頭シーンと、現実は、状況的に非常に酷似した世界なのではないだろうかと私は感じている。
……あ、この日記を読んだひとは、スタージョンってたいそう暗い小説を書くひとなんだろうなあと思ってしまうかな。
読んでみるとけっこう感動的だったりもするので、そんなに怖がらないでね。
う〜ん、スタージョンとレオ=レオニの類似点とかの話もしたかったけれど、次の機会にするわ。
(;^-^ゞ
そーそー。
スタージョンの新しい短編小説集が、近々発表されるそうだ。
『海を失った男』というタイトルで、値段が2500円。
高いなあ。本って、本当に高くなった。学術書や辞典ならいざ知らず、小説に2500円なる値段がつく時代が来ようとは。
しかし、買うんだろうなあ。








MacOSの悲しい歩み(2003.7.12)

MacOSの次期バージョンが発表されたそうだ。
そして、またもや、Finderの操作法が変わったという。webや雑誌等で見るかぎりは、Windowsのように、ウインドウですべてを管理しようとするやり方を、さらに推し進めた操作法のようだ。MacOSが本質的に、私の望んでいる方向とは正反対の道を突き進んでいることを、悲しみとともに確認した。
やっぱりな、と私は思う。今のアップルのOS開発陣には、コンセプトが感じられない。もちろん、使いやすいOSを彼らが作ろうとしているのは、その通りだろう。しかし、使いやすいOSとはそもそも何なのか、それが見いだせないでいるようだ。
行き当たりばったりの操作方法を新バージョンごとに取っ換え引っ換えして、小手先の便利さをアピールする。ったく、マイクロソフトじゃあるまいし(ボソッ)
こういうインタフェース開発のあり方は、実は、パソコンを使っているユーザーに、大きな負担を与えることになる。
子どものころ、お箸を使えるようになったり、字を書いたりするのを体得するのに、どれだけ苦労したかを思い出してみればいい。
日本語の平仮名は、微妙な曲線が多い。英語のアルファベットなどとは、わけが違う。子どもたちがこれらの字を書くことを覚えるのは、これは、本当に厳しい修業の道だ。
お箸を上手につかえるようになるのも、一朝一夕というわけにはいかない。なかなか大変な修業がいる。
私はサウスポーだったから、文字を書くことはさらに苦行だった。
何ヶ月たっても文字を書くことを覚えられず、ノートを涙でくしゃくしゃにしてばかりいた。
しかし、それらは、一度覚えれば、日本国の文化内における普遍的な技術として、定着させることができる。この私ですら、今ではほとんど機械的に、文字を書き、お箸を使うことが出来ている。
その鉛筆の使い方、文字の書き方、お箸の使い方などが、例えば一年ごとに、根こそぎ変更されてしまうようなことがあったとしたら、どうだろう?
「さらに便利な鉛筆の使い方が発明されました」と言われて、毎年新しい鉛筆の使い方を習得しなければならないとしてら……。
私はきっと、今も平仮名がまともに書けない人間だったに違いない。
勘違いしてはならないのは、我々は、けっして、パソコンの使い方を覚えたいのではないということだ。
鉛筆の使うために鉛筆を持つのではないのと同じことだ。
うん?
私たちは、文章を書いたり、絵を描いたり、表を作成したりするために、鉛筆を使用するんだよね。
「ヨシ!いま私は、鉛筆を使用している!」
などと、いちいち意識していないと字を書いたり絵を描いたりできないようでは、すでに道具として、失格なのだ。
Photoshop使いだとか、Excel使いだとか、そういう言葉があること自体、実は、ユーザーにとっては深刻な大問題なはずだ。
例えば素晴しい万年筆などは、手にしっくりとなじみ、紙の上を滑らかに動き、ユーザー個々の筆圧まで考慮されて作られているために、まったくと言っていいほどに使用感がない。だからこそ、自分の思考の流れにひたすら集中することができる。
良い道具とは、そういうものだ。
使いやすさとは、けっして語られることがない。なぜなら、意識されないから。語られるのは、使いにくさだけだ。
では、道具としてのMacOSは、どうか?
漢字トーク7(ふる〜いMac)しか使ったことがないひとに、突然、MacOS9を与えて使わせてみたら、どうなるか?
ほとんど何の違和感もなく、ヘビーな仕事にイキナリ使うことが可能だろう。
MacOSは、使い勝手という意味においては、漢字トーク7のころから基本的にすでに完成されていたと、まあ異論はさまざまあるだろうけれど、私はそう結論づけている。
MacOSにおけるインタフェースという一種の哲学の、その本質論的な意味において完成されていた使い勝手を、漢字トーク7から、OS8、OS9と、さらなるチューンナップという形態をとって、開発はつづいた。
しかし、資本主義社会のこの世界では、何事であれ、けっして立ち止まることはゆるされない。
永遠に走り続けなければならないシステムの中で、ユーザーが求めもしない便利さを、なかば押し付けるようにして、無理無理開発を進めてゆかなければならない。
アップルに限らず、それが、最近のこの業界のありさまだ。
「レガシーフリー」などと、さも素晴しいことのように言うけれど、ようは、今までの資産を新開発の技術、最先端の便利さとすべて引き換えにせよと、そういうことを言い聞かされているにすぎない。
そこにはもはや、企業の論理しか存在しない。
良いものが失われるのを見るのは、何とも無念なものだ。








図書館とドラえもんと私(2003.7.11)

買いたい本が山のようにある。しかし、軍資金がない。
図書館を利用すればいいじゃないか、とみなは言うのだが、私はどうにも図書館が苦手なのだ。小さいころから、変わらず、だ。
どういうわけだか、図書館で書籍を物色していると、お腹が痛くなるのであった。あれはどういう因果関係なのだろう。きまって、お腹が痛くなる。楳図かずお先生の『まことちゃん』じゃないけれど、とぐろ虫が「おはようしゃん」したがるのだ。
図書館が苦手ならば、図書館の蔵書も苦手だった。
古い本に染みついた何かの成分がいけないのかもしれない、などと半分本気で思ったりしたこともあった。
とにかく、本を借りるという状況自体が気に入らない。借りた、ということは、返さなければならないということなのだから、その本はいずれは自分の手もとから去っていってしまうのだ。ううむ、期日までに読み終えて、返却しなければならない本を手にしているという不愉快さ。
「もう期日までわずかだぞ。さあ読め、さあ読め」
と、本にせきたてられながら読書していると、どうにもこうにもやるせなく、本の世界に集中できない。
実は私には、本に対する強烈な所有欲があるらしい。気にいった本ならなおさらだ。“好きな本を所有する”なんて素晴しい響き。
だから、図書館から本を借りるとなると、自分がとうとうここまで身を持ち崩してしまったかと、悲しい気持ちになってしまう。
なんて幸薄い人生なのだろうと、生きているのが嫌になってくる。図書館での腹痛も、こうした精神的要因が大きいのかもしれないなあ。

というわけで、図書館に行くことは出来ないから、我が家の物置にあるダンボール箱をいくつか持ち出してきて、ひっくり返し、本を発掘することにする。
ダンボールの中から『ドラえもん』が出てきた。弟が所有する漫画本だ。
藤子・F・不二雄先生の代表作。
裏表紙にサインペンで弟の名前が書いてある。ひらがなだ。やつが小学校に上がったかどうかのころの愛読書だ。
なつかしい。
ぼろぼろになっている。私も弟も、小さいころから本は比較的大切に読むほうだったと思うが、何度も何度も読み返すうちに、ページはあちこちはがれ、カバーもいたるところテープで補修してある状態だ。
1巻から10巻あたりまでを順を追って読む。
ドラえもんは、未来の国からタイムマシンに乗ってやってきたロボットだ。全体に丸みを帯びたずんぐりとした体つき。ネコ型ロボットというふれこみだけれど、まったくネコには見えない。見ようによっては、タヌキのような顔立ちをしている。つるつるのまるい頭には、本来、三角形の大きなネコ耳がふたつ、ついていたらしいのだが、ねずみにかじられて失ってしまったという。そういう設定なのだそうだ。
事故で耳を失ったとはいえ、何ともとんきょうなデザインのロボットである。これをネコ型ロボットなどと、ひとを食っているとしか言いようがない、と、にやにやしながら私は思う。頭と胴体の継ぎ目に鈴のついた紅い首輪をしているところと、左右の頬に三本ずつヒゲをはやしているところが、かろうじてネコなのだろうか、などと考えていくと、さらに楽しい。
このデザインを藤子・F・不二雄先生はどこで見つけてきたのだろうかと、私はそんなことも考える。
ドラえもんの大きな口は、うわくちびるがびょこんと突き出ていて、このうわくちびるを見ていると、ついつい模写したくなる。しかし、ドラえもんの模写は、実は、けっこう難しい。何度描いても、藤子・F・不二雄先生のドラえもんにならない。私が描いた、ばったもんのドラえもんにしかならない(駄洒落じゃないよ)。
のび太の模写はさらに難しい。のび太とは、『ドラえもん』に出てくる主人公の小学生の男の子だ。この“のび太”の顔は、何度描いても、似て非なる別人の絵になってしまう。
私には、ドラえもんやのび太のニセモノしか描けないようだ。
ドラえもんは、のび太を助けに、未来からやってきた。要領が悪くて、ドジで、気が小さくて、ひたすらひとがいい“のび太”は、このままではろくな人生を歩むことが出来ない。
だから、未来の世界からドラえもんが持ち込んだ秘密道具を駆使して、のび太を脇からサポートしようじゃないかと、そういう物語だ。
しかし、サポート役のドラえもんも、のび太に劣らず抜けてばかりのズッコケやさんで、未来の道具の運用方法を間違え、いつもきまって、とんでもない事態を招いてしまう。
未来の道具によって、ある極端からもう片方の極端へと振りまわされる登場人物たちを弟はさして、
「古典落語の研究のあとが感じられるよ」
と言う。
なるほど、ドラえもんは、落語なのかもしれない。これは気がつかなかった。『ドラえもん』の影に、落語あり、なのか。
それじゃあ逆にドラえもんのストーリーを、落語に書きなおしたら……。ううむ、なかなかおもしろそうだ。
実は、SFと落語は相性がいいのかもしれない。
さて。
のび太は困ったことがあると、きまってドラえもんの未来の道具をあてにするような子どもだ。トラブルがあるたびに、ドラえもんに泣いてすがって、助力を乞う。
そういうのび太とドラえもんの関係を見たある漫画家さんが、
「ドラえもんは、のび太をスポイルしている。のび太の成長を妨げている」
という意味のことをおっしゃっていたのを思い出した。
ふむ。
こうしてひさしぶりに読み返してみて、私は、そういう指摘は的外れではないのかもしれないけれど、『ドラえもん』を読んで、「スポイル」などというふうに感じるのはヤボとしか言いようがないなあ、という感想を持った。
ドラえもんは、子どもたちの夢を叶える存在なのだ。ドラえもんの未来の道具は、子どもの願望そのものだ。ドラえもんの道具に驚き、そして楽しむ。どんなに無茶だと思えるような望みも、ドラえもんなら叶えてくれる。
今日は学校に行きたくない、友だちと顔を合わしたくない、わからずやのお母さんをぎゃふんといわせてみたい。誰だって、子どものころ、そんなことを考えたことがあるだろう。
大人だったら、例えば仮病を使って会社を休むことが出来ても、子どもでは、なかなかそうもいかない。体温計で無理やり熱を計られて、大したことがないとわかれば、学校へでも友だちのところへでも、ムリムリ追い立てられてしまう。
「こういうとき、ドラえもんがいてくれたらなあ」
と、子どもたちが夢想するのは、無理からぬことだと思うのだ。
それに、のび太は弱虫かもしれないが、同時に、とっても鋭いところのあるやさしい子だ。
のび太は、もどかしいくらいぼんやりして、ひどく口下手だから、彼の内面の鋭さは、誰からも評価されていない。しかし、作品の登場人物にはわからなくても、読者である私たちには、じゅうぶん理解できるはずだ。
「はやくしなさい」
「遅れるでしょう」
「なにをしているの」
「こんなこともわからないの」
「ぐずぐずしないで」
「何度も忠告したはずです」
絶えずそんなふうに周囲に思われ、またことあるごとに言われている子どもは、実に大変だ。だから、初期の“のび太”は心なしか、どこか少しだけ寂しげで、かすかに元気なさげだ。
そんな“のび太”は、未来の道具で、ドラえもんと遊んでいるのだ。未来の道具は、結局のところ、ふたり(ひとりと一体?)の遊び道具、おもちゃだ。
毎日毎日、ふたりは、楽しく遊んでいる。のび太は、道具によって満たされているのではなくて、ドラえもんと一緒に楽しむことで、満たされているのだと、私は再確認した。
そして、のび太は、ドラえもんにまかせておけば、なにごとも万事だいじょうぶだと、そんなふうに思っているらしい。
自分にはドラえもんという未来から来たお友だちがいるのだから、これから何度か訪れる危機も、うまく乗り越えられる、と。のび太は、そんなふうに気軽に考えているらしい。
なら、いいではないか。
自分の幸運を信じることも、生きるうえでは大切なことかもしれないよ。








将棋の話(2003.7.10)

少し古くなった話題になるが、将棋の羽生善治氏が第61期名人になられた。
私は、羽生ファンだ。だから今回の名人復位は、嬉しい。
将棋というゲームは、子どものころ、病院のベッドの上で覚えた。小児科の婦長さんが、薬の瓶のフタ等を使って駒を作り、ボール紙にマスを書いてくれたのを覚えている。
東京に住んでいたころは、毎年春になると、新宿の名人戦無料解説会に足を運んだものだ。なつかしいなあ。大阪では、ああいう催しはないのだろうか?
私は、そこそこ熱心な将棋ファンのつもりなのだが、実力はと言うと、5手詰めの詰め将棋を何とか解けるかといった棋力だ。
その程度の棋力だと、残念なことに、プロ棋士の指す手の意味はまったくと言っていいほどわからない。楽譜の意味を理解していない者が、オーケストラのスコアを前にしているような感じだろうか? プロ棋士の棋譜の解説を聞いて、なんとなくわかった気になる、という塩梅だ。
大判解説をしているプロ棋士の解説を聞いていると、
「この局面は、10年以上前に1度指されています」
とか、
「この局面は15年前の中原VS米長戦で、はし歩のつきあいがない形で1度ありました」
なんてことを平気でおっしゃるのを耳にする。他人の対局を現在進行形で解説しているのだから、アンチョコがあるわけではない。ちゃんと、覚えているのだ。
15年前に誰かと誰かが1度だけ指した局面が、頭の中にしっかりインプットされている、プロ棋士とは、そういう種類の人間だ。
もしかしたらホラ吹いてるんじゃないか、と思えるのだが、そんなことはないらしい。
羽生名人の感想戦で
「この局面は、中学生のときの練習試合で一度指したことのある手順であるのを思い出しました」
という意味のことをおっしゃっているのを雑誌で見たことがある。
そもそも、人間の脳にはそんなことが可能なのか、と慄然とすらしてしまう。
こんなとんでもない頭脳の持ち主であるとはどういう気分のものなのか、と、そんなことを想像したりする。

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羽生名人は、非常に写真的なひとだ。
強さもさることながら、羽生名人の人気の秘密は、ここにあるのではないかと思っている。
羽生名人は、普段のたたずまいのスナップなど拝見しても、けっして目を引くような方ではないけれど、対局中の立ち居振る舞いは、極めて写真的だ。
和服を着て、苦しげに身をよじり、髪には散々にかきむしった跡がある。それに、眼が、なんともいえず素晴しいのだ。眼光鋭い、というより、眼がすわって、ほとんどやぶにらみという風情だ。頬の筋肉に緊張が走っている。
こういう写真は、狙って撮れるものではなくて、だからこそ写真的な価値が高まる。
なにか、ただならぬ勝負のさなかなのだという胸をうつような緊迫感は、将棋を知らなくても映像として伝わってくる。
羽生名人をはじめとするプロ棋士たちの、彼らの指し手の意味を理解するには、まず将棋の力量がこちら側にないと、どうしようもない。
しかし、将棋というゲームはとことん奥が深く、難解で複雑なゲームだから、プロ棋士の指し手の意味を理解し、感動できるまでに将棋の力量を上げるのは、これは私のような凡人には大変なことだ。
将棋を理解できない人たちに向かって、さまざまなテレビ映像や写真によって、羽生名人の写真的な魅力がひとり歩きし、浸透していく。
この現象をもう一歩だけ踏み込んで考察すれば、対局中のプロ棋士は(個人の差はあるだろうけれども)、多かれ少なかれ写真的なのではないかと、そういう推察も可能だ。
対局中のプロ棋士の鬼気迫る姿の映像を、もっと意識的に将棋普及に使えないかと、そんなことを思ったりもした。
これでは将棋連盟の普及になっても、将棋の普及にはならないのかなあ。








お誕生日に見た夢(2003.7.2)

またもや夢を見た。
最近続けざまに見る。
今日は私の誕生日で、こういうお祝いイベントの数日前から、私は夢を見ることが多くなるようだ。
きっと、精神が不安定になるんだね(笑)。
夢の中で、私は15歳だった。
多くの者にとって、人生最悪の季節。夢の中の私も冴えない日々を送っていた。
私は、階段に腰掛けていた。
腰掛けているのは、コンクリート製の、長くて急な、無慈悲そうな顔つきの階段だ。錆びた手すりがついている。振り返って見上げると、感じようによっては何やら気味悪げでもある。禍々しげで、謎めいている。
階段は下へ下へとくだって、海へと続いていた。
この階段は、海の底へと、どこまでも続いているらしい。
というのも、この階段を降りていった者がいるからだ。
この階段を降りてゆけば、特別な器具を必要とせずに、海の底をいつまでもたどっていける、夢はそういう設定になっている。
私は、これまで何度もこの階段を降りようと試みてきたようだ。しかし、そのたびに溺れそうになって、海中探索を断念してきた。階段をくだって、海中のすみずみを歩きとおそうなんて、無茶もいいところだ、と、階段を海底まで歩き通せない私は思う。
夢の中で、私には、兄貴格の若者の知りあいがいる。歳の頃は20歳前半というところか。彼は、水中マスクや酸素ボンベなどなにひとつ身に付けずに例の階段を降りて、海の世界を旅して戻ってくる。
この若者には、同じ年ごろのガールフレンドがいる。彼女も、若者と同じに、階段を降りて旅することが出来る。彼女は、毎日のように海中を旅して歩く。何時間水中にいても溺れないし、真っ暗やみの深海を歩いても水圧でひしゃげたりしない。
しかし、帰り道を見失ったら? それは、じゅうぶんありえることだ、と彼女は言う。彼女は、自分が不死身の冒険者か何かだと思っている。
彼女は怖い物知らずだ。そして、選ばれた者だ。それを証明するために、確認するために彼女は階段を降りてゆく。
実際、ふたりは、何か特別な存在であるかのように、私には感じられた。彼らには勇気があった。確かに、彼らふたりは、何も恐れる必要がない人間に私には思えた。
「泳げない」
と私は言う。
「関係ない」
と若者は言う。
「歩きさえすればいい」
「危険な仕事よ」
と彼女は言う。
「でも、怖がっていては、絶対にダメ。わかる? 階段を恐れているから、うまくいかないのよ。わかる?」
「自分をゼロにするんだ」
と若者は言った。
「帳消しにしてしまうんだ。ゼロ。自分を消し去れ」
「ちょっと違うんじゃない?」
と彼女。
「いい? 自分を超えるのよ。自分が目に見えない光に包まれているとイメージしてみて」
私は、階段を降りた。これを乗り越えないと、自分の人生には未来がないのではないか、と漠然と感じていたのだ。
私は、頭まで海水に浸かり、さらに進んだ。
やがて、息が続かなくなり、階段から身体が浮き、水面近くまで上がってまた沈み、あがき、もがき、呼吸しようとして水を飲んだ。
自分をゼロにする、と私は念じた。自分を帳消しにする。そんなことは、出来っこない。私は溺れて、そして、あわてた。
夢の中で、大あわてになった。
このまま私は、溺れて、死んでしまうのか。それとも、死んだら、そのとき、ゼロになるのか? そんなことを、あわてふためきながら考えた。
このあたりで、私は夢から覚めそうになったが、目覚めるのを拒否した。
もう一度、夢の続きを追いかけるため、眠りに落ちた。
気がつけば、私は、陸の上にうつぶせに倒れていた。陸とは、階段の斜面のことだ。
私は、涙とよだれをぼたぼたと垂れ流しながら、髪から滴っている海水をぼんやりと眺めた。
私を助け上げてくれたのは、兄貴格の若者と、その彼女だった。ふたりは、私を無言で置き去りにした。
いや、だめだ。ふたりはそんな人間でなはい。
私は、夢の時間を少し巻き戻した。
「大丈夫か?」
「大丈夫?」
ふたりは交互に言った。
「無理するな。いつかは歩ける」
若者は言った。
「あなたが何か、劣っているというわけではないのよ。ぜんぜん」
彼女は言った。
で、私は、階段を上がっていった。しばらくすると、また現れて(翌日だろう)波をながめた。
この時だけ、夢は三人称になり、階段に腰を降ろす15歳の少年の姿を物語の主人公として私は視覚にとらえた。
世界は再び一人称になった。物語は、進展した。
やがて彼女は、階段を海底深く降りてゆく作業を、仕事にしてしまった(具体的にどういうビジネスなのかは、さっぱりわからない)。
あっというまに、彼女は、その道(?)のスペシャリストになった。
若者のほうは、階段を降りてゆく能力はあったけれど、ビジネスの能力がなかった。
彼は、道楽として、趣味を楽しむ者として、階段を降りた。
彼もまた彼女のように、職業的に成功したいと思っていたが、その望みはかなわなかった。
世間は、彼女にだけ注目した。彼は、注目される彼女に嫉妬した。
ふたりのあいだにけんかが絶えなくなった。ふたりはけんかしながら、互いに私を、自分の味方の側につけようとした。
彼は、全面的に彼女が悪いのだと私に言わせようとし、彼女も私に同情するようなふりをして、彼を責めた。
「あなたがそんなふうにすると、この子(私のこと)かわいそうじゃない」
と彼女は言った。私は、どうしていいかわからず、うろたえた。
ある日、決定的なけんかがあり、兄貴格の若者が私たちの前から去っていった。
そして彼女もまた、南の島の珊瑚礁で本格的な仕事をするために、姿を消した。
私はひとりになった。ひとりで、彼女の言葉を思い出していた。
「自分が目に見えない光に包まれているとイメージしてみて」
私は寂寞たる気持ちを抱えながら、あまりといえばあまりのなりゆきに呆然としつつ、夢の結論を探し求めた。
思い出の中で、いつも自信たっぷりだった彼女は、自分はけっして死ぬことがない、と本気で思い込んでいるように私には見えた。
しかし、それも、ふたりが目の前からいなくなった今、何もかもが急に不確かだった。
ふたりもまた、私のように、この世界のことをなにひとつ理解しているわけではなかったのではないか? という疑問。
ふたりとも何かを確信していたわけではなくて、私がふたりに理想を投影して、勝手に思い込んでいたのではないかという疑惑。
「自分が目に見えない光に包まれているとイメージしてみて、か……」
別のことも考えられる、と、私は気をとりなおす。
あのときは確かに輝いていた、今はなにも輝いていない。そういうことだって、あるはずだ。
あのとき何かを帳消しにしたと、そうはっきり確信できたとしても、次の瞬間、またいちから何かが積み上がってゆくのだ。
……end。
私は、以上で夢の区切りと決めた。ひとりごちるようなオチでしめるのが、私の好みなのだ。
私は夢を作る作業を終了させると、いったんその夢を最初まで巻き戻し、そこにセリフを加える。
独白を含めた夢の中のセリフは、ほとんどすべて、この段階で創作される。夢の中でのセリフ作りは相当に集中しないと、あっという間に全部かき消えてしまうから、気をつけねばならない。
ストーリーを再確認する作業も大切だ。作業次第では、最初のものとまったく違う夢になってしまうときもある。
記憶にとどめるにたる夢だから、念入りに、しっかりと記憶に焼きつける。
オチがやや意味不明なのがいただけないが、夢なのだから、こんなものだろう。
個人的には、夢の中で私が海中から助けあげられた直後の、前髪から海水が滴っているシーンが、非常にリアルで気に入っている。
といっても、この映像を誰にもお見せすることはできないのだが。
以上の経過をたどり、今度こそ私の夢の時間は終わる。
あとはその夢を、目を覚ましてからの時間の経過に数日さらしておけば、さらに物語としての完成度が自然に高まってくるだろう。








女性専用車両が走っているということ(2003.7.1)

最近の電車は時間帯によって、女性専用車両というものがあったりする。その車両には、性的に成熟したとされる年齢の男性は乗車してはならないという約束になっている。
実際に男性が女性専用車両に乗車したとして、具体的なペナルティーがあるのかどうかは知らないが、専用車両というからには少なくとも、男性はいっさい乗車できないというのがたてまえなのだろう。
仮に、男性である私がうっかり女性専用車両に乗り込んでしまったとしたら、どういうことになるのだろうか。
うっかりなのだから、私には痴漢行為などの犯罪を冒す意図はもうとうない。けれども、公共の約束事に抵触してしまっているのは事実だ。したがって「気まずい思い」は覚悟しなければならないだろう。
ホームに立って列車を待ちながら、これから乗り込もうとしている列車の車両が男女共用のものか、はたまた女性専用のものなのかを、男性である私は毎回ごとに確認しなければならない。
ほんのかすかにだが、めんどうだな、という気持ちが私にはある。
じゃあ、どうして、女性専用車両などというものが作られたのかというと、「女性たちを専用車両に隔離し不特定多数の男性からその身の安全を確保するため」という理由によるもののはずだ。
移動中の列車内という一種の密室において、女性のための専用の空間を確保しなければならないほどに、男性は危険な存在と見なされているということなのだろうか?
答えは、イエスと言わざるをえない。
混雑した車両であるとか、周りがみな赤の他人であるとかが問題ではなく、同席する相手が女性なら車両の利用OK、男性ならNO、と、そう女性たちは判断し、社会に対して強く要望しているということらしい。
むろん、性的に成熟した男性のすべてが女性にとって危険だ、などと思っている人などひとりもいないと思うけれど、かといって、見も知らぬ男性たちと列車内で席を同じゅうするようでは、とうてい女性の身が安全であると言えない、と現実には見なされているということだ。
女性の身を守るために、女性のためだけの安全空間を別箇用意するという、私にとって少々気の重い、そして鉄道の運営会社としては極めて面倒な決断をあえて実現しなければならないような状況が、確かに存在している。
移動手段としてほぼ毎日利用している電車内で、数分から数時間ほどを過ごす時間が、まったく安全とは言えないというのでは、女性にとってこの事態は、とてつもなく深刻な問題だろう。
見も知らない殿方たちとは一緒に電車に乗りたくありませんと、相当数の女性たちが判断したというのなら、私たち男性陣にとって、悲しむべき出来事だ。
不幸、と言っていい。
最悪だ。
女性に仲よくしてもらえなくて、男たちはいったい誰と仲よくしたらよいのだ?
しかし、女性たちはある種の窮地に追い込まれている状況だったのだから、女性たちの決断に異議を唱えることはお門違いだ。
窮地というのは大げさだとしても、軽い恐怖心、嫌悪感、不安視というのは女性の側には確かにあるはずなのだ。
その気になれば男性は、女性に対して、とことん危険な存在になれる。
暴力に訴えてかまわないというのなら、男性は一対一の局面において、腕力によって実現できるあらゆることを、女性に無理強いすることが出来る。
しかし、それでは、支配し屈服させることが出来ても、仲よくなんてけっしてしてはもらえない。
だから、男と女が仲よくして暮らしてゆくには、男の側が
「腕っぷしの差につけこんで無理強いなどは、いっさいいたしません」
と約束し、それを完全遂行しなければならないはずだ。これは、犯罪行為だけを指して言っているのではない。
「隣に腰をおろしても怖いことなんてないよ、だから、楽しくお話をしましょ」
と言い、男たちはそれをどこまでも辛抱強く遂行するということだ。
それで、何とか仲よくしてもらおうじゃないか。
かといって、女性が男性に暴力を振るうのもよくないよ。
どういう次元においても、暴力で物事を解決しようとするのは、さらなる暴力を作り出す結果を生むだけで、最終的には関係性の破壊につながってしまう。
女性は女性だけでうまくやっていけるのだから、いまさら男たちと仲よくしたくなんて、ないと言われれば、それも素敵な世界だなあと納得してしまう私だけれども、男性である私は、それだとやはり少し寂しい。

話が少しそれるのだが、しつけだとか教育という理由で、子どもに無理強いしたり暴力を振るう大人がいる(これが多いんだ)。
しかし、結局彼らは、協調や対話による解決ではなく無理強いや暴力的手段によって自分の主張を押し通すやり方を、子どもに教えているに過ぎない。……と、思う。
子どもは、大人たちの言葉ではなく、行為そのものを学ぶからだ。子育ての、ここが怖いところだ。
私たちが親から学んだ暴力性を、さらに次の世代へと受け継いでいくのは、そろそろ終わりにしないといけないんではないだろうか。

……話題を、もとの男女の話に戻そう。
暴力は、暴力しか生み出さない。
だが、しかし、そう言いながらも、だ。
お互いが対等な大人同士というのが前提だが、女性が聞きわけのない男の頬をひとつふたつ張り倒すくらいなら、私は許してもいいんじゃないかと思ってる。
男が暴力を振るうのは、絶対ダメ(笑)。
シーンとして美しくないし、しゃれにもならないからね。
好きな女性に思いっきり平手打ち喰らって、この世の終わりが来たかのようにしょんぼりとしている男というのも、見ていていいもんだ。








早苗ちゃんの説教を聞く(2003.6.30)

私の見る夢には、ワンダーウーマンものなるジャンルが、確かに存在する。昨日見た夢は、久しぶりのワンダーウーマンものだ。
強い女性、美しい女性、謎めいた女性。とにかく、ありとあらゆる意味において私よりも優れた女性が姿を現し、私を魅了する。そして彼女たちは、最終的にはなんらかの形で、私にお説教をして夢は終わる。
2年ほど前には、早苗ちゃんという名前の女子高生に説教を食らったことがある。
早苗ちゃん、という名前がちゃんとついているのが、楽しい。
私の夢の世界の舞台裏には、夢のストーリーをなるべく筋のとおったものするための、物語監督が控えている。
この物語監督は、普段は姿をみせないが、見ている夢が面白そうだとなると、やおら起動し、ストーリーの方向性を模索しだす。そして彼は、現在進行形の夢の物語に、どんどん介入する。
物語の進行上、必要だと感じたら、監督は夢の中の時間を巻き戻すことも出来る。時間を何度でも巻き戻して、そのたびに改良された夢のエピソードをやりなおす。彼にとって不出来な世界、不毛な関係、行き当たりばったりの偶発事故に満ちた時間は、すべてひっくり返されてしまう。
ちょうど、不出来な陶器をたたき割って粘土に戻し、最初からこねはじめる陶芸家のようなものだ。
彼は、夢の中では、神だ。
監督が納得するまで、脚本は何度も練り直される。
私は、夢の世界で、この舞台裏の物語監督をはっきり意識していることがある。
一人称視点の出演者である私がそうであるように、この物語監督もやはり私自身だ。
何度も似た場面を繰り返しながら完成度を深めてゆく夢を、監督と出演者のふたつの役割をこなしながら私は同時に楽しむ。
起きるのがもったいないくらいに、スリリングで、創造的で、楽しい。
2年前の女子高生の夢の名前も、数回の巻き戻しの中で、彼女のヴィジュアルにもっとも似合う名前として、ひねり出されたものだ。
「女はケーキ屋、男は居酒屋」
と早苗ちゃんは私に言う。えらく小生意気な顔つきだ。
「女の子たちがケーキ屋で時間をかけてケーキを物色しているあいだに、男どもときたら、あらまー、居酒屋で性懲りもなく上司の悪口合戦に興じているの」
彼女は、男性という人間の片方の性に所属する人々を全部ひっくるめて、ひとまとめにして、それを一般化し、徹底的にさげすんでいるらしいことが、最初の言葉のニュアンスから、すでに伝わってくる。
私はしかし、彼女の挑戦的な言葉に不快感を感じるというよりも、他愛ない、というと言い過ぎだが、かわいらしい子供っぽさを感じた。
早苗ちゃんの年齢が、17.18の高校生に設定されているのは、彼女の唐突で攻撃的な発言に対して物語的な妥当性を見いだそうとする、神である物語監督の意識的な配慮なのだろう。
彼女は続けて、
「居酒屋で男が上司の悪口を言っている。その間に、女の子はケーキ屋で、チョコパフェにしようか、メロンパフェにしようか、楽しい選択に悩んでる」
と言う。
わかるかしら、という目で彼女は私を見る。男はバカな生き物だ、と決めつけきった顔つきだ。
「例えば、たったそれだけのことで、数年後には、こ〜んな差になってゆくのよ」
彼女は、両手をめいっぱいに広げて見せる。
「ね、ルーズソックスを履いて、スカートをはいて、爪を塗り、お化粧をし、
今日の髪にどんなピンをさすかを私は毎日考えるの」
ふ〜む。私はうなる。
「お化粧にちょっとした工夫を加えてみる、部屋の模様替えを考える」
あくまでも彼女は攻撃的だ。しかしその言葉には、なにかしら夢見るようなムードがある。
「あなたは何が欲しいの?」
彼女は不意に、私に尋ねてくる。
そう言われて、私はなにも答えられない。
彼女はゆっくりと、たたみかける。
「あなたは、朝起きて、まず、どんなことを考える?」
あー、もう朝になっちゃったかって考えるナー。
しかし毎日、
「なんてこったい、もう朝だ!」
と頭を抱えている、なんて答えたら、早苗ちゃんは鼻息も荒く勝ち誇るだろう。私は黙り込む。
しかし実際、当時の私にとって朝めざめるということは、昨日と似たり寄ったりの今日という悲しい出来事のプロローグに過ぎなかった。
そんなふうに考えてはだめだ、世界をそういう目で眺めてはだめだ、と自分に言い聞かせるが、ポジティブシンキングなんて、あざとい気休めとしか感じられない。
何事も気もちの持ちようだ、なんて、ことあるごとに自分自身にかけ声をかけても、とにかく元気がわいてこない。元気がわいてこないと、ふさぎ込みになりがちになる。
私にとっての現実とは、この目で見ている世界以外の何ものでもない。
こんな世界で、ほいほいとポジティブになんてやってられるか、と開き直ったり、逆に、陽気で元気で楽しい人間だというふりをしなければ、というあせりが、私の内部でわきおこる。
それが私の「朝起きてまず考えること」だった。
早苗ちゃんは、何でもお見通し、という表情で笑っている。
私はいまでは、すっかり劣勢だ。
もしかしたら彼女は、私以上に私のことを理解しているのではないか? などという疑惑がわいてくる。
早苗ちゃんは、ゆっくりと、歌でも歌うように、余裕たっぷりに問いかけてくる。
「あなたはたくさんのことを知っている。でも、あなたの知っていることって、あなたにとって何?」
……。
「どうして男をやっているの?」
彼女はいくつかの問いかけのあと、私が抱いている問題の核心を突いてくる。
「どうして、そんな思いまでして、男をやっているの?」
彼女は、私の手を握る。
私の手の中に一本の口紅が残る。
何というリアルな手触り!
私はそこで目覚めた。
しばし、ぼう然という状態だった。
夢の中の早苗ちゃんが性転換を迫っているとか、そういうふうには受けとらなかったけれども、彼女の最後のセリフのメッセージ性といい、手渡される口紅というオチといい、夢としては、最高とまでは言わないまでも、及第点とあげられるのではないか。
うむ、悪くない。








夢の中のワンダーウーマン(2003.6.28)

一夜にして、すべての成人女性がワンダーウーマンになる。そんな夢を見た。
強い女性……社会的発言力ということではなくて、腕力ではとうていかなわない相手としての異性。片方の性である男性を、その気になれば力づくでねじ伏せてしまえる女性たちの世界だ。
女性の身長は、3メートル近くはあるだろうか?
こちら男性の側にしてみれば、小学生の低学年のころに女性教師を見上げていた、あの感覚にもう一度ひたることになる。
彼女たちが私の前に立つと、わたしはその影のなかにすっぽりと収まってしまう。
私は、とにかく、何をするにも、彼女たちを見上げるしかない。彼女たちはみな、大きく、力強い。
女性たちが、ひょいと腕を振り払っただけで、私は簡単に吹っ飛んでしまうだろう。
普段の何気ない会話を交わしていても、気持ちの片隅に、恐怖心がある。どことなくおもねってしまうような、おどおどとした気分がつきまとう。
一夜にしておきた現象に、私はなかなか適応できないでいるようだ。
もしかしたら、と私は思う。
昨日までの女性たちは、力づくではとうていかなわない相手としての男性に対して、ワンダーウーマンたちを前にいま私が感じているような気分を、これまでずっと味わってきていたのかもしれない。
協力と思いやりではなく、支配と操作による上下関係によって運営されている社会では、体力の差は、これは決定的なハンデなのだと痛感せざるをえない。
夢の中の女性たちが、私たち男性に対して腕力に訴えようと決意すれば、すべての局面で私たち男性陣は敗北するだろう。
腕力で屈服させられるというのは、いかんともしがたく、屈辱的だ。
そのとき、ふと私は、夢の中である人のことを思い出した。
この夢の世界の中で、私には、ある架空のお友だちがいるという設定になっている。
そのお友だちも、女性だ。
彼女は、自分の性別が女性であることを、心から悔やんでいる。ことあるごとに、男性に産まれたかった、男性になって、男性に復讐してやりたいと、そういうことを言っている女性、という設定になっている。
私は、彼女に電話する。彼女が自分の性を悔やみ、男性に敵愾心を燃やす理由は聞かされていなかったが、この事態を彼女がどういうふうに感じているのか興味があったのだ。
私は、会いたいと彼女に伝える。電話で彼女と待ち合わせの約束をする。
待ち合わせ場所に彼女が現れる。
彼女もやはりワンダーウーマン化して、大きい。巨大と言っていいほどだ。
胸を張って、大股で、力強く、さっそうとやってくる。
○○ちゃん、と私は声をかける。どうしても少し気押されてしまうのを友人として悟られたくないと思いながら、手を振る。
私は、彼女に、こういう事態になって嬉しく思うか? と訊ねる。
彼女は無言だ。私など眼中にないというふうに、絶えず私の後方2メートル先あたりに視点をあわせている。
彼女は、ニコッとほほ笑み、次の瞬間、駒のように体を半回転させる。
「バックハンドブロー!」
彼女は雄叫びをあげる。
気がつくと、彼女の右わきにそびえ立っていたブロック塀に、彼女のこぶしが、ボコッと飲み込まれていた。
コンクリートの白いほこりが、空気中にふわりとたちのぼった。
私は、あんぐりと口を開けたまま言葉もない。
「まわし蹴り〜!」
彼女が、コンクリート製の電柱にケリをいれる。
ズドーンという鈍い音がして、電柱が震える。
空に縦横に張り巡らされている電線がバシッ、バシッと上下に激しくたわみながら、先へと衝撃を走らせた。
「こうよ?」
と彼女は言った。女性が一夜にして得たパワーは、これほどのものなのよ、どう? という意味だったのだと思う。
私は、圧倒されて、逃げ出すわけにもいかず、軽いパニックに襲われながらとっさに彼女の顔を見た。
そして、私は、どういうわけか突然、まったく不意に、楽しくなってきてしまった。
プッと、吹き出してしまった。肩のあたりの筋肉をこわばらせたままに、どんどん笑い声は大きくなった。
彼女は、わけがわからずに、一瞬ムッとした表情を見せたが、やがて、私に対して苦笑にも似た笑みを返してくれた。
私は安心して、もう、大笑していた。
きっと、彼女は幸福なんだな、と、そのとき私は思ったらしい。
だったら、すべて良かったのだ、と、夢の中の私は、そう思うことに決めたらしいのだ。
お友だちが嬉しそうにしている、というのは、見ていて楽しいものだ。
ずっとずっと私は、嬉しそうにしているお友だちの姿を、いつか見てみたいと願ってきたのに違いない。
いま私は、安堵に近い気持ちを覚えていた。
女性のワンダーウーマン化という喜劇なのか悲劇なのかわからない一大事件も、お友だちの幸福という個人的な価値によって、ハッピーエンドなのだとひとりごちた。
私は、目覚めた。
この夢の出所は、これはけっこうはっきりしている。
自民党の太田誠一元総務庁長官というひとが、イベント企画サークルメンバーの早大生らが女子大生を集団暴行した事件について
「集団レイプする人はまだ元気があるからいい。まだ正常に近いんじゃないか」
と述べたという記事を寝る前に読んだからだ。
なんだ、こいつ? と私は思ったのだ。
集団レイプは、元気だからするものなのか?
記事を読んでまず感じたのは、体調に変調をきたしてしまいそうなほどに強烈な嫌悪感だ。
ああ、こういうセリフを引用しているだけで、胸のあたりにベットリとした汚れが付着してしまったような気分になる。
私は、夢の中で、ココよりマシな世界を生きなおす。
アノ夢とコノ現実が入れかわったら、これこそ本当のハッピーエンドなのに。

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