*Macユーザーのためのファニーな小冊子*(2005.5.26)
『Link Club』
というプロバイダーさんに、日々お世話になっている。
Macユーザーに非常に親切にしてくれるところが嬉しい。というか、
Macユーザーがまずは第一というファニーなプロバイダさん
だ。『Link Club』さんの敷地内では、我らMacユーザーは多数派としてくつろいで過ごせるのである。
しかも『Link Club』さんは、会員に毎月
『Link Club Newsletter』
という小冊子を送ってくれる。この冊子がまたファニーなのだ。
毎月の書籍の紹介コーナーを担当しているのが、南青山にある奇妙キテレツ(失礼)専門の書店として有名な、
『BOOK CULB KAI』
さんであったりする。
毎月、セレクトする本がやはり独特。私などはきゃいきゃいと喜んでいるが、
「なんなのですか、これは?」
と首をかしげてしまう方も確実にいそうなセレクトなのだ。
アウトサイダーだねえ。
書籍コーナーが奇妙なら、特殊記事もそうだ。
イラン映画のコーディネーターとして日本に25年在住なさっている、
ショーレ=ゴルパリアンさんのロングインタビュー記事
なんて、なかなか読めないよ。渋い人選だねえ。
このときの記事は
「イラン人女性の眼に映る日本という国、そしてイスラム」
がサブタイトル。
タイトルはずばり、
「戦車のボディに日本の国旗は似合いませんね」
だった。
日本という国に対する彼女なりのイメージを問われて、ショーレ=ゴルパリアンさんは
「あくまで私の私見ですが」
と断りつつ、
「自分たちの中で仲良くしたりあるいは戦争したりして、何もかも自分たちの中だけでやっている」
と看破なさっていた。
す、するどい。
とっくに見抜かれてたんだなあ。
「今まで何かを造りに来てくれていた日本が、自衛隊を派遣したことで今度は何かを壊しに来ると思ってしまいます。それは私たちの日本人に対するイメージとあまりにもかけ離れていたから」
私自身の日本人像とも大きくかけ離れておりました、ゴルパリアンさん。
(´▽`;)
今の日本政府は、国際社会において、極めて危険な存在だ。
他愛ない民族主義と世界第2位の武力をふりかざし、力でもってアジアを支配しようとたくらんでいる。
韓国や中国、シンガポールなどアジア諸国は、当然そうした日本のあり方に警戒心と不快感を示し、日本はすでにアジアの中で急速に孤立しつつある。
そして、現在の日本政府は、国の外側だけではなく内側に向かっても、極めて危険な存在として君臨している。
今号の『Link Club』には、
ジャーナリストの安田純平さん
のインタビューが掲載されている。
安田純平さんは、イラクで拘束され、帰国してからは例の自己責任論バッシングにさらされた方だ。
安田さんは一連の出来事を振り返って語っている。
「イラクにいて爆発で自分が吹っ飛ぶのは仕方がないじゃないですか。即死だったら苦しまないですし(笑)。でも日本だと、私がイラクで拘束されたことで、家族が責められてしまう。なんだか日本社会に家族を人質にとられているような感じです。だって、『自己責任』と言ってるひとたちが、当事者ではない私の家族を追求するんですよ」
「日本社会に家族を人質にとられている」
とは、現状をずばりと言い当てて、ハッとさせられる。
ファシズム体制特有の、残酷さをともなう奇妙な不自由さの感覚だ。
「今の日本はすでに平和などではなく、実は内戦状態なのだ」とおっしゃるかたもいる。
年間3万4千人以上も自殺者が出ている現実が、この地が戦場であることを如実に示している、というのだ。
目に見えぬ砲弾が、我々の暮らし、家や仕事、友人や家族を奪っていく。
自覚されない戦争だ。
*自律的労働者*(2005.5.25)
厚生労働省による「今後の労働時間制度に関する研究会」の第2回会合というのがあったのだそうだ。えらい人たちが集まって、何を研究するというのか。
なんでも、えらいひとたちには
「サービス残業は必要悪、しようないものという認識がある」
のだそうで、今回の会合で
「自律的な働きかたをする労働者の労働時間規制を適用除外することについてどう考えるか」
を熱心に議論したのだそうです。
だはは。
「自律的な働きかたをする労働者」に労働時間の規制をかけたり、企業が残業代を支払うのはおかしい、
というわけですな。
(´▽`;)
労働者が存分に働けるように、サービス産業やり放題の世界にしてさしあげなくてはならない! ……労働者に対する深い愛情に突き動かされ、1日23時間労働制の導入はすぐ目の前だい!!
いえー。
しかし、自律的な働きかたをする労働者って、なんだろうな。
あたま、おかしいんちゃうか。
サービス残業が必要悪なんじゃないの、 お金のために
仕事をすることそのものが必要悪だっての!
仕事ってのは、やらなくちゃならないからダラダラやらかしてるもんなの。それでいいの。
がりがり働いていったいどうなるよ? お金のために環境を破壊して、成績のために人間を苦しめて、出世のために仲間と競争して、最後に身体を壊しちまう。ろくなもんじゃないよ。
ダラダラやらかす仕事こそ、
地球と自分に優しい労働者じゃよ。
ダラダラ仕事する労働者に、企業は苦虫つぶしてイヤイヤお給料を払う。ざまあみろ。人類の未来は、このような世界観にかかっているのさ。
厚生労働省のおえらがたは、なんもわかってないね。まあ、連中は労働者の敵だかんな。敵としての振る舞いかたはよく理解しているのかもしれんね。
つーかさ、自律的労働者の模範を示して、厚生労働省のおえらがたが率先してサービス残業しろ。
明日からあんたら全員、ただ働きな。いっさいお金を受け取るなよ。
そしたらオイラも自律的にただ働きしてやるぜ。
話し変わって。
新聞によりますと。
アメリカ大統領夫人がエルサレム入りしたところ、
イスラエルとパレスチナの両陣営から猛烈な批判の声
を浴びせられてしまったのだそう。
なんとまあ……。
ブッシュ大統領夫人のおかげで、
イスラエルとパレスチナが手をつなぐ
ことになったりしてな。
(^_^;)
アメリカ合衆国が世界に貢献するようなときが来ようとは!!
……たぶん、そんなことにはならないけどね。
*危険なヴィジョン2005*(2005.5.21)
気がついたら、シオドア=スタージョンとアン=タイラーの新刊本が出版されていた。
なんだよ、知らなかったよ。
シオドア=スタージョンの新刊は、
『ヴィーナス・プラスX』
というタイトルの、ジェンダーをあつかったSF小説らしい。
いかにもSFらしい題材で、期待が膨らむなあ。さっそく書店に注文。
ジェンダーをあつかったSF小説と言われて思いだすのは、ル=グウィンの
『闇の左手』
キャロル=エムシュウィラーの短編
『ビーナスの目覚め』
あと、アンソロジー
『危険なヴィジョン』
に掲載されていた何とかという短編も面白かったけど、タイトル忘れました。
(;^-^ゞ
ともかく、いずれも傑作だ。
テーマがジェンダーということになると、スタージョン節が炸裂してそうで、読むのが楽しみ。
ジェンダーといえば、世界経済フォーラムがこのほど、女性の社会進出の度合いを順位付けした
「性差別指数」
を初めて発表した。
それによると、主要58カ国でもっとも差別が少なかったのが
スウェーデン。
予想通りのトップワンですな。
ついで
ノルウェー
アイスランド。
北欧諸国は女性の社会進出が進んでいる様子。
我らが民主主義の砦、アメリカ合衆国は
17位。
中国は
33位。
さらに下回って日本、
38位。
項目別に見ると、「政治的な権限付与」で54位、「労働機会均等」で52位と惨憺たるありさま。
58カ国ちゅう、54位ってなんですか。
日本に女性として産まれると、つくづく大変なんだなあ。
日本の女性は、みんなで
スウェーデンに亡命すべきだな。
ここ日本には、
「女性は大学などには行かず、男性にかしづくべきだ」
とか、
「女性の社会進出が、出生率の低下の原因だ」
とおっしゃる政治家さまがたがいる。
私は女性崇拝主義者だから、こういう意見を聞くと棒きれでひっぱたいてやりたくなる。
「女性の社会進出が、出生率の低下の原因だ」などと言うけれど、実は、差別の少ないスウェーデンは、出生率が落ちていないんだよね。
女性が大学卒業して、男性たちと同じように仕事して、それでいてなおかつ子どもを産み育ててるのよ。
日本のカップルよりも高確率で。
出生率の低下の原因は別にあるということだな。
結局、子どもを産むためには、女性、そして男性の両者の合意が必要なのな。子どもを産まないという決断は、女性だけがおこなっているものではないのよ。男性もまたそのように決断しているのだということを、右派議員どもは忘れている。
危険なまでに右傾化し、非人間化した社会の中で、それでも子どもを守っていくという親としての責任をふたりの男女が果たそうとするとき、「子どもを産まない」という究極の選択肢が選ばれうる。
この日本社会において、
子どもを守るために子どもを産まない、
と決断するカップルが、出生率の低下という現象を引き起こしている。
男性も、女性も
「女性は教育など受けずに、家で男性に尽くしつつ、子育てに専念すべし」
などと言う、くそたわけな議員さまがたには、けっして選挙で投票しないこと。
スウェーデンに亡命するというのでなければね。
まったく、現代ってSFだよな。
反ユートピア小説の世界だ。
*拡張子グランプリ*(2005.5.18)
毎月
『DTP WORLD』
というDTP専門誌を購読している。
ちなみに、DTPとはなにかを大ざっぱに説明すると、パソコンを使って、本や雑誌の組版(レイアウト)をすることだ。デスクトップパブリッシングほじゃほじゃ、の略だそうである。
カラーマネージメント(モニター上で見えている色と印刷したときの色を同じものにしようという絶望的な試み)で眠れないひとや、レイアウトソフトのバグで眠れないひと、馬鹿高いレイアウトソフトやOSの度重なるバージョンアップで眠れないひと、なにがなんだか原因すらわからんけど緊急事態で眠れないひとのための雑誌だ。
ちなみに、私が腸から出血して京都の日赤病院に入院したときは、何らかの原因で胃腸から出血して
入院していた患者さんの7割が印刷所関係にお勤めであった。
洗面所と便器が真っ赤な、せつない職場。
(´▽`;)
その血塗られた業界の専門雑誌『DTP WORLD』に、
「DTPに悪戦苦闘日記」
というタイトルの、これまた聞くだに嗚咽ものの連載がある。
OSなどの環境の違いで、フォルダやファイル名が文字化けしてしまう問題でひーひー涕泣しているオペレーターの悲哀が、今月号の泣かしどころだ(苦笑)。
古いMacは、ファイル名にいちいち拡張子を付けなくてもよいので、つくづく楽だった。拡張子とは、ファイル名の最後のほうについている、「.jpg」とか「.url」とか「.txt」とかいうへんちくりんな文字のこと。古いMacでは、ファイル形式の違いを、拡張子で判別するのではなく、
「このファイルはテキストファイルだな、あ、このファイルはPhotoshopで作ってるな」
と、OSの側で管理してくれるのである。ユーザーに変わって、リソースフォークという目に見えない妖精さんが、裏側で管理してくれているのだ。
ところが、ウインドウズや最近のMacは、拡張子がファイル名についていないと、OSやソフトが
「これなんのファイルかわかんないよ〜!」
と呆けたことを言いだす。
「swf」だの「png」だの、意味があるヨナないヨナ暗号じみたものを、
どうしてユーザーだけが背負わなくちゃいけないんですか。(←『ブラックジャックによろしく』の斉藤先生の雄叫びふう)。
拡張子ごときに振り回され、作業が滞る悲しみ。こういうものこそ、コンピューターが管理したらいいんじゃん。なあ?
『DTPに悪戦苦闘日記』にご登場の新米デザイナーさんは、ウインドウズ環境とのファイルのやりとりに拡張子が必要なことを知らず、
「よく知らないわ。適当につけたの。」
と言って、ファイル名の最後に
「.dtp」なる拡張子を自作なさっていた。
えらい! すごい! デーティーピーなる拡張子!
先入観に縛られていたマナコから、鱗がポロリとおちました。
DTPに使用するファイルの拡張子は、このさいみーんな「.dtp」にしたらどうか。PhotoshopファイルもIllustratorファイルもテキストファイルもいっさいがっさい。
つーかもう、
拡張子は、おのおの好きなモノをつけてもOKにすればいいと思う。
。('-'。)(。'-')。.wa-i
「.dtp」は傑作中の傑作として後世に語り継がれるだろう。
『DTPに悪戦苦闘日記』は最後に、
「今後、XMLやネイティブファイルへの対応などが進むと、すべての素材はオリジナルファイルをサーバーで共有し、リンクで配置して編集作業をするようになってくるだろう。」
と締めくくっていた。
ほんとかなあ。
「すべての素材はオリジナルファイルをサーバーで共有し、リンクで配置して編集作業を」行うって、アドビ社さんとしてはぜひともそうなって欲しいんだろうけど、実際どうかなあ。
環境の整備はもちろんのこと、編集作業に関わる関係者各位の教育とチームの方針を徹底的に強化しておかないと、プロジェクト自体が空中分解するだろし、じゃあ誰が関係者各位の教育とチームの方針を徹底的に強化するのかって問題が残るよね。オリジナルファイルを誰もが触れるって、怖いことでもある。
責任の所在と役割分担をきちっとしておかないと、大変なことになっちゃうよ。
そもそも、サーバーの管理は誰がするんだろう……。
ネット環境が、外部からの悪意ある介入にあまりにも脆弱な現実を考えても、どうだろうと思うわけです。
というか、これまでせっせと構築してきた、
ささやかな組版&印刷環境とそのノウハウ
なんだから、それで幸せに仕事しましょうよ。
新しい技術、新しいノウハウ。
「便利だ便利だ、さあ導入しろ」
って、いつまで新製品・新システムを導入したら終わるんですか、それ。
お金続きませんよ。
(´▽`;)
胃腸から出血しないように、仕事はほどほどに。
ジョージ=セルとクリープランド管弦楽団が東京で行なったライブのCDを購入。その名も
『LIVE IN TOKYO 1970』
2枚組で2520円。安いといえば安いんだけど、余計な出費といえば余計な出費。すごく悩んだよ。
ライブCDは、ウェーバーの『オベロン』序曲からはじまって、モーツアルトの交響曲40番とシベリウスの2番がメインだ。
私にとってのモーツアルトは、その口当たりのよさとはうらはらに、どうもつかみどころのない音楽だったのね。
このセルのモーツアルトは、いい意味での形式感にしっかり裏打ちされて、なんというか、
見た目も涼やかな水ようかんのよう。
って、また食いもんの例えで音楽を語る私……。
(;^-^ゞ食い意地はってますもので。
しかも、見た目が美しいだけでなく、口に入れるとびっくりするくらい味がしっかりしてる。そういう食べて美味しいモーツアルトだ。
お気に入りのモーツアルトの演奏を見つけた嬉しさにニコニコしてしまった。
お次のシベリウスの2番は、一転して燃えるような演奏。
こりゃ、すごい。
これはお奨め盤です。
しかし、マーラーとはまったく違うベクトルで、シベリウスは難解だなあ。
アプローチが違うんだよな。
音楽のなかに世界の事象の何もかもを詰め込んで、
「さあ、これはいったい何なのですか? 産まれて生きてそして死ぬ、これはどういうことですか?」
と叫んでいるのがマーラーなら、タマネギの皮をぜんぶ向いてしまって、空っぽの手を見つめて
「さあ、これはいったい何なのですか? “芯”すら存在しない、これはどういうことですか?」
と仏頂面してるのがシベリウスかと。
生きていくことは壊れていくこと
だけど、混とんとした世界の中心で秩序を“作りだそう”としたマーラーと、“見いだそう”としたシベリウス。
面白いね。
切ないね。
もちろん、私個人の単なる印象にすぎませんけども、私の耳にはそんなふうに聞こえたのでありました。
*ユーザービリティとそれ以前の問題*(2005.5.11)
ヤコブ=ニールセン氏という、ウエッブユーザービリティの権威がいらっしゃる。
その世界での最大権威、と言っても差しつかえないほど有名なひとだ。
私は個人的には、ヤコブ=ニールセン氏の各論賛成、総論反対という立場なのだが、この話は長くなるので、今日はやめておこう。
ただ、権威中の権威に私ごときが反論するのも気が引けるが、ウエッブブラウジングやアプリケーション操作などにおける
ユーザービリティやナビゲーションの改善を、企業のモウケとからめて啓蒙する
のは、いかがなものか。
ストレスを感じさせないユーザービリティ、マイノリティを阻害しないナビゲーションといったものをオープンな形で社会に根づかせることと、企業のあくなき成長とは奥深いところで決定的に対立しあっているのであり、ニールセン氏はおそらく意識的に、その矛盾から話題をそらせてしまっている。
それがどうにも納得いかない。
皮肉なことに、デジタル分野ではあらゆる素晴らしい技術がどこまでも複製可能なために、企業は少なくともある段階から、ひとびとを阻害せずにはおれなくなってしまう。資本主義のシステム上、それは不可避だ。デジタル技術はひとびとの必要をあまりにも完ぺきに満たすことが可能であるという、まさにその完ぺきさゆえに、企業はあの手この手を使って、デジタル技術が大衆のものとなることをゆるさない。
企業の成功という視点においては、ユーザービリティすら、独占し囲い込むべき対象なのだ。
まあ、とにかく。
ヤコブ=ニールセン氏の旧コラムを流し読みしていたら、
「Macintosh版Internet Explorer 5: ユーザに主導権を」
という5年前の記事に出くわした。
ニールセン氏はこの記事で、Macintosh版Internet Explorer 5のユーザービリティを高く評価している。
確かに、Macintosh版Internet Explorer 5のユーザーインターフェイスは、よくできているんだよね。
どういうわけか。
Macユーザーは皆(しぶしぶと)同意してくれるはずだ。
ニールセン氏もキツネにつままれたような面持ちだったようで、
「私は、Microsoftと、彼らのユーザビリティの欠如に関して、時につらくあたってきた。例えば、1997年には、ウェブ・ナビゲーションという観点から見ると、IE
4とNetscape 4はMosaic(1993年産)と大差ないと書いたりしている。公正を旨とする私は、
彼らが正しいことをやった時にはMicrosoftを誉めることもやぶさかではない。
Macintosh版のIE 5は、まさにこれに値する。」
と、あくまでもこれが例外なのだと言わんばかりの発言をなさってる。
思わず弟とふたりで大笑いしてしまった。
しかし、私もつねづね言い続けてきたように、Macintosh版Internet Explorer 5は、使い勝手という点では、非常によく出来ている製品だ。しかも、同じInternet
Explorer 5でも、ウインドウズ版はあいかわらずひどいインターフェイスのままなのである。Macintosh版だけにこのインターフェイスを採用してあるというのも、不思議と言えばなんとも不思議だ。
Netscapeの4.7や6、それに7と使い比べてみると、その差は歴然だ。icabやopera、safariも使ってみたけど、使い勝手のよさという点ではやはりMacintosh版のInternet
Explorer 5よりもはっきり劣ってる。
firefoxは、個人的にはずいぶんいい感じだと思ってるのだが、初期設定などの設定画面の振る舞いがどうにも合点がいかない。
何度も繰り返すが、マイクロソフト社製であるにも関わらず、Macintosh版Internet Explorer
5は、実によく出来ているのである。
何よりも、思い切って簡略化されたツールバーの
視認性の高いアイコン群
が素晴らしい。
MS製品特有の、ちまちまと小さくて判別しづらいアイコンがずらりと並んだインターフェイスじゃないんだよね。
また、ニールセン氏の言うように、「スクラップブック機能」(今見ているウェブページのスナップショットが保存できるというもの)、「切り替え可能なスクリーン解像度」も、非常に使い勝手がよかったりする。
ちなみに、ウインドウズでInternet Explorerを使ってウエッブ・ブラウジングするとき、例えば、
「フォントサイズ14・解像度72dpi」というふうに解像度の設定したければ、どうすればいいんですか? よく知らないもので。
(;^-^ゞ
フォントサイズを大・中・小で設定するなんて、何かの悪い冗談かとしか思えないんだけどね。なんか、方法あるんすか?
ま、MS社は使い勝手以前の道徳の部分で、実に問題なわけだけど。
例えば、イスラエル軍によるジェニンへの侵攻と虐殺が行われていた 2002年 4月、イスラエルのテルアビブ付近の高速道路脇に
「心からイスラエル国防軍への感謝を捧げます」
と書かれた広告を多数掲げたりしたんだぜ。
( ̄_ ̄|||)
こういう企業なんですよ、アレは。
我々は自分たちの生活の安全のために、マイクロソフト社とビル=ゲイツ氏について、もちっとお勉強しなくてはいけません。
私のおすすめは、外崎則夫氏のサイト
『N.TONOSAKI's
Personal Station』
の大人気コラム
『がんばれ!!ゲイツくん』
が、いちばん。
おなかを抱えて大笑いの、めちゃくちゃ面白いコラム記事が読めるよ。
最新号のタイトルは『MSフライトレコーダー』
なんでもMS社、
「トラブル調査だからと言って個人所有のPCの中身の情報までごっそり」持って行くというシステムを発表したのだそう。
(´▽`;)
なんでも「個人のメールの内容まで送信される」らしい。マジですか。
個人情報の保護って、本当はこういうことをこそ、取り締まらなくちゃいけないのデワ……。
WIN機をお使いのみなさま。
使うな、とは申しません。
ただ、日々WIN機をお使いだからこそ、よ〜くお勉強をしておかないと、そのうちシャレにならないような目にあうかもしれないですよ。
気をつけて、安全第一でおすごしくださいませね。
最後に。
日記をアップしてから寝ようと思って、ニュースサイトを閲覧した。そこで、Microsoftのプラットフォーム担当グループ副社長、ジム=オールチン氏というひとのインタビュー記事を読んで、死ぬほど笑った。
最近サーバ市場においてグングンのしてきているLinuxについて、ジム=オールチン氏は、こうおっしゃっているのだ。
「Linuxは、UNIXから受け継いだ血筋で勝者となるだろう。だが当社は満足だ。市場シェアを勝ち取っているのは当社なのだから」
(;´▽`A
サーバーのデキはLinuxだけど、売れているのはウチ
って、そんなこと自慢されてもなあ。
しこたま爆笑させていただきました。
*浮かぬかっぱくん*(2005.5.10)
外出先から帰宅した母が、疲れもいっさい見せず ぶつぶつと文句を言っている。
時間潰しに観たハリウッド映画があまりにくだらなかったので、怒り収まらずに家族にあたりちらかしているのだ。
元気だなあ。
そして、馬鹿だなあ。よりにもよってハリウッド映画なんか観るから……。そもそも、いい映画かどうかいちいち観ないとわからないとは、ほんとに馬鹿だよ。なんて挑発的なことを私も言うから、母もいよいよ怒髪天。
ぎゃーぎゃー親子で大声出して、弟がうんざりした顔でメシ食ってる。こういうときの弟の顔つきは、吉田戦車センセの漫画のキャラクター、浮かぬ顔した
かっぱくん
そっくり。
ははは。この日記を読んだら、弟、怒り狂うだろうな。母も怒るだろうな。
ともかく、良い映画とはいかなるものか、母も少しは知っておいたほうがいい(←またえらそう)。てなわけで、私自身は最近観たばっかりの
『僕のスウィング』
をDVDにて鑑賞させてあげもうした。
音楽の持つ肯定的な力を、見事に映画化した作品である。
音楽、音楽、音楽、ダンス、ダンス、ダンス。
理由も因果も時間すら越えて、音楽に酔っぱらってしまえ。
美しい音楽のドランカーたち。飲んで酔って、演奏者のいない音楽、踊り手のいないダンスが夜通し繰り広げられる。
愛の奴隷に身をやつせぬものは
その先の秘密を知る由もない
いい歌だ。
すんばらし。
母もおとなしく座って観てたから、きっと気に入ってくれたのだと思う。
さて。
いい映画を観たというのに、最近どうも調子が悪く、どうにも元気が出てこない。
どうやら私には、自分の体内に勇気を自力で生成する機能がそなわっていないらしいのだ。
ほおっておくと、捨て置かれた子ウサギか、はたまた塩をかけられたナメクジのようにどんどん元気を失って、いつのまにやら生きた屍と化してしまう。
勇気のドーピングを絶えずおこなっていないと、すぐにしおしお状態なのだ。
今は、ユウキが切れた状態なんだな。全身がねっとりと解け出したような感触。何するにもおっくう。
しかし、この世の何もかもが儚くとも、日本じゅうが発狂したように右傾化しようとも、死ぬまでは生きなくてはいかん。
そのためには、勇気、勇気が必要だ。ウは宇宙船のウ、スはスペースのス、ユは勇気のユだ。
勇気のキは、いキるのキ。気力のキ。基本のキ。
呼吸する死体にならないためには、意識して外部から勇気を注入してやらねばならい。
というわけで、勇気が足りなくなってくると、マイケル=ムーア監督の映画を私は観ることにしている。
100パーセント混じり気なしの勇気がたっぷり詰め込んであるから、効果満点、よく効くのよ。
は、はやくムーアを。はらほらひれひれ。
もっとマイケル=ムーアをくれ〜って、バタリアンじゃねえんだ、
と自分につっこみを入れつつ鑑賞。
今日は、
『アホでマヌケなアメリカ白人VOL.1』
だ。
そうだ、やっちまえ、
勝ち組という名の重犯罪者ども
を徹底的にぶちのめせ。
はあはあ。スカッとするなあ。
(;^-^ゞ
世界をより良く変えていくための、原動力としての気持ちのありよう。
大切ですね。
もいっかい、観よ。
*「ひぐちアサせんせスキスキ*(2005.5.9)
書店内をぶらぶらしながら、ふと、何かに導かれるように手に取った漫画雑誌『ぱふ』6月号。なんとはなしに表紙のあおり文を見たとたん、強烈な衝撃の不意打ちに、思わず奇声を上げてしまった。
「ぷぎゃ!!」
「巻頭特集 ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』」
どっぎゃ〜ん! 全身に鳥肌が立ちましたね、まじで。
私は、ひぐちアサせんせの漫画作品のファンだ。
好きだ。
愛してる。
そして、ひとりの漫画家さんの描く作品に、これほどまでに耽溺することのできる自分が何よりもたまらなく好きだ。
(;^_^ A
私がもっとも好きな『ヤサシイワタシ』は、何冊同じモノを買ったかわからない。
好きだから、何冊でも買ってしまう。まだまだ買うだろう。
とにかく、好きで好きでどうしようもない。
物語の題材など日常の中からいくらでも取り出すことができる、という繊細さに注目が集まりがちな作家さんだと思うけれども、実はその先の、ありきたりの日常の風景をふまえた上で、さらに、きれいごとの世界へと強く押し出していく、きらきらとした理想
主義的な作品を描くおひとだ。
ああ、素晴らしい。
ああ、大好きだ。
普段、書店でこの手の雑誌を手に取ることはめったにないし、『ぱふ』という雑誌があることも初めて知ったし、そもそも雑誌コーナーに立ち寄ることさえあまりない私が、
ひぐちアサせんせ特集になると手に取ってしまう不思議。
以前、別の雑誌で特集が組まれたときも同じことがあったな。
私のひぐちアサせんせに対する愛情が、ふか〜いふかすぎ〜る想いが、目に見えぬ赤い糸のように、私を導いてしまうのに違いない。
いや、間違いないっ!
♪神様ありがとう〜お、ぼくを、ひぐちアサせんせ作品に出会わせてくれ〜て♪
(一拍ため)
♪ひぐちアサせんせ作品にあわせてくれて♪
♪ひぐちアサせんせ作品にあわせてくれて♪
♪ありがとお、ぼくの愛する ♪ひぐちアサせんせにあわせてくれ〜ええ〜て〜え〜♪
(;^-^ゞ
無神論者の私が、ルンルンと神に感謝する姿を、ぜひ皆さまも想像してみてくだされよ。
ずいぶん気味が悪いことであろう。
(;^-^ゞ
特集記事では、
ひぐちアサせんせのロングインタビューが掲載
されているのだが、
インタビューアーがひぐち作品をしっかり読み込んでいて、
非常によいインタビューだったのがうれしい。
インタビュー読んでいて思うのは、漫画家って、連載が雑誌に掲載されるそのたびごとに読者アンケートなどで淘汰される立場なので、じっくり物語を書き込むことがむずかしいくなっているのだなあ、ということ。
『ヤサシイワタシ』でも『おおきく振りかぶって』でも、変にせかせかしてしまう部分があるんだけども、予想はついてたけど、見せ場見せ場の連続で連載を書かなくちゃいけない裏事情があるんだよね。
細かい部分にとてつもない力量を発揮する作家さんなんだから、ゆっくりじっくり、細部にこだわった作品を描いてもらったほうが読者としても嬉しいのにね。
しかし、読者の要望すら置き去りにして、淘汰という無意味な競争が行われる。
つくづく、もったいない。
インタビューの中で気になった部分を、引用の範囲内に収まるように気をつけながらご紹介してみたい。
「おもしろいまんがを描くために、読者の想像力を利用しない手はナイと、常々思っているんですよ(略)
先の展開とか、深読みとか、想像力を使ってくれる読者さん相手だと、もう、勝負!ってなもんですね(笑)」
「読者の想像力を利用しない手はナイ」
つーあたりが、表現者として一筋縄ではいかんところ。
どうにもシビレるね、ファンとしては。
自分で言うのもなんだけど、かなりいい勝負できる読者だと思うよ、私(自画自賛)。
私、漫画でも小説でも映画でも読みごたえ、鑑賞ごたえを求めるほうで、作品ときっちり格闘していたいタイプの読者のつもり。
けど、作者さんに
「もう、勝負!」
って挑まれたのは初めて。
(;^-^ゞ 果し状だよ。
読者冥利
につきますな。ぞくぞくしちゃう。
しかし、ひぐちセンセ作品は、逆に見れば、「面白いモノをただ面白がるだけ、それが漫画だ」と思っているようなひとには、「なんですかこれは?」ということにもなるわけで。
わかりにくいということではないんだけど、でも、読者が積極的に作品と勝負しなくちゃいけないという部分で、わかりやすいというわけでもないんだな。
ある意味、とってもローカルな作家さんだと思う。
人気爆発中の『おおきく振りかぶって』は、まだしも読者を選ばない作品だけれど、やっぱり、読者と作者の勝負なんだよね。
(;^_^ A
私はね、ひぐちアサせんせの頭の中身に興味がある。
知りたい、触れたい、わかりたい。そういう欲求が猛烈にあるの。
インタビューアーが
「『ヤサシイワタシ』の弥恵(主人公)は結果的に(周囲に)否定されて、『おお振り』の三橋(主人公)は逆に(周囲に)肯定されてますが、この違いはどこから生まれるのでしょうか?」
と訪ねたときの「読んだ人の思った答えが正しいです」という前提をふまえてのセンセのお答え。
「弥恵さんは、周りを否定してましたからね。弥恵さんが周りに認めてもらいたいのと同様、周りの人間も、弥恵さんに、認めてもらいたかったんですよね。」
…………
人間は関係のなかにしか存在していない
ということを、実感として知ってらっしゃるんだな、と、今さらながら強い感銘を受けた。
複雑で立体的な陰影を持つ人間どうしの、入り組んだ関係の中で、死角に隠れているもの、光の当たっていないものが作り出すどうどうめぐり、軋轢や苦悩を、適切な角度や視点を見つけることによって理解の光にさらしてしまう。
この、適切な角度や視点を一瞬にして見つけてしまう能力は、おそらく天性のものなのではないか。
うらやましい。
こういう才能、ワシもほしかった。などとちょっと思う。
*「悲劇的」*(2005.5.6)
JR福知山線の大惨事は、事故車両の運転士があまりにもスピードを出しすぎたために、慣性抵抗が増大し、レールが列車の進行方向を制御しきれなくなったのが事故原因とされている。
常識外とも思えるスピードで猛然と突き進んだ列車は、車輪を支えたり進む方向を任意の方向に定めようとするレールの抵抗をいとも簡単に飛び超えて、そのままの勢いでマンションの一階部分に突っ込んでしまった。
なんとバカなことを。F1レーサーだって、コーナーを曲がるときはスピードを落とすのだ。運転士の自殺的とも思える無謀運転、と事故当時は報道された。
……が、である。この速度の出しすぎも、運転士の無謀運転ではなく、
どうやら会社の指示であった
ことが明らかになってきた。
列車の運行予定表、いわゆるダイヤを守るためには、どうしてもこれだけのスピードを必要とした。「これだけ」とは、列車が線路から飛び出してしまうのにじゅうぶんな速度を意味する。
ダイヤグラムの指し示す予定時間表をこなすために、列車の安全な運行は最初から切り捨てられていた。彼らは日々、
いずれ事故の起きることになるカーブに向かって、猛スピードで突っ込んでいたのだ。
コーナーでアクセルを踏むように強要されたレーサーのように。
JR福知山線を走行している列車は、繰り返し繰り返し、危険レベルを超えたスピードで運行されていた。運転士が1秒でもダイヤを遅らせようものなら、上司からの叱責が待っている。
安全面を無視したようなダイヤグラムであったとしても、それを一分の遅れもなくこなしていくのが列車の運転士の仕事である。JR福知山線の列車を運行させる者は、“それ”を実現させなくてはならない。
このような状況下では、大惨事を回避することは、ほとんど不可能であったろう。
JR西日本は、
私鉄会社とのスピード競争に勝つため
に、徹底的に列車を軽量化したうえで、運転士には危険な運行を強いた。
猛スピードを出して走るアルミ製の列車は、満員の乗客を乗せたまま、マンションにたたきつけられ、くにゃくにゃによじれ、無残につぶれた。
民営化された国鉄の過度な成長、無意味な成功を、列車の軽量車体もレールも支えきれなくなったとき、とてつもない大崩壊がひとびとを襲った。
資本主義システムの結果として、この大惨事がある。
淘汰の末に、より良いものが残っていく、というのが資本主義システムの喧伝する神話である。
永遠の成長、つきることのない成功。
いつまでも終わることのない淘汰のシステム。勝利者には休むことなく次の挑戦が待っている。敗北する瞬間まで、勝利し続けなくてはならない。無限に続く勝負。優勝フラッグを掲げたものは誰もいない。
そして大崩壊。
原因を遡れば、結局ここにたどりつく。結局、ありとあらゆる存在が
例外なく淘汰される運命にあるというカラクリ
のなかにある。
宇宙広しと言えども、
これほど狂った生き物はそうはいないのではないか。
人間が人間を食いものにしあうことで稼働している奇妙で残酷な社会だ。
「より良いもの」として、私たちが受け取るもの。
それはいつも、堪え難いまでの悲劇だ。
不思議なのだが、資本主義の競争原理が、なにかしら良きものをひとつでも後世に残した例を、私は寡聞にして知らない。
淘汰のシステムが、本当により良いものを我々に残していくというのなら、例えば、パソコン業界で、
ウインドウズOSが圧倒的シェアを誇るなど、絶対にあり得ないはずだ。
より良いものが駆逐されて、「成功」という名の屑が残る。これが、資本主義の神話の向こう側。真実の姿である。歴史を振り返れば、これは明白だ。
良きものが駆逐され、どうでもいいもの、危険な代物、犯罪的なおこないが「勝利」の凱歌を高らかに歌う。
パソコンでも、ホテル経営でも、ワイン作りでも、なんでもそうだ。
資本主義のシステムに頑固に背を向けている者(モノ)だけが、なんとか“良さ”を維持し続けている。
数少ないそれらも、ほとんど風前のともしびだ。
“淘汰”されつつあるのだ。
我々の社会における惨劇は、いつだって、資本主義システムの成功が生みだしてきた。
我々の言う成功は本質的にはすべて失敗
であり、必ずやなにかしらの惨劇を生みだす。
これは主義主張の問題ではなく、厳然とした事実だ。
しかし我々は、失敗から学ぼうとしない。
成長という悲劇、成功という失敗を、これからも繰り返し続けるだろう。
閑話休題。
すっかり右傾化してしまった日本の片隅で、しょんぼりうつむいて生きる現代人として、
マーラーの
交響曲6番『悲劇的』
のCDを聴く。
指揮者はテンシュテット。
すばらしい演奏だ。
こりゃすごい。
すさまじい説得力。
正直、びっくりだ。
バーンスタインのような
とんこつ味系
であるが、テンシュテットの場合、
スープだけでなく麺にも気を使ってます
という感じの演奏だ。
(;^-^ゞ (ごめんよう、音楽の難しい話ができなくて、感覚的に話してます)
第4楽章の、ハンマーが打ち鳴らされる暴力的な響き!
胸がつぶれそうになる。おぐっ。
もうな、思わず身につまされますよ。
現代人は、みなしてこのテンシュテットのマーラーを聴くべしだ。
*絵はがき作りました*(2005.5.2)
体調が猛烈に悪いので、映画を観る。
『僕のスウィング』
というフランス映画。
「『僕のスウィング』て、野球漫画みたいなタイトルだなあ」
と最初は気乗りがしなかったのであるが、弟が観たい観たい、というので観た。
結論。ものすごかった。
音楽が人間に及ぼすことのできる影響力を見事に映画化して、これは掘り出し物の映画だった。
弟よ、ありがとう。
世界的に著名なギタリストたちによる、ライブシーンがとにかく素晴らしい。
そして、描かれる女性たちがこれまた素晴らしい。もう、強烈なまでに。
音楽に身をゆだねる女性たちの、息を飲むばかりの神々しさよ。
アメリカ在住の、あこがれのあのひとに是非とも観てもらいたい映画だなあ、というのは私の個人的な感想。彼女のお姿・存在に私がひそかに見いだしている“輝き”を、映像化したら、きっとこういうシーンになるだろうなあ、という感じなのだ。
言語化し、共有化するのは、言うほと簡単じゃない。良くできた映画の場面は、それは魔法だ。
女性崇拝主義者を標榜する私であるが、音楽と女性に圧倒される喜びこそが、男性で在ることの真のだいご味なのである。
さてさて。
お知らせをば。
高山智津子・著、ルック出版発行の
『×(バツ)のついたカレンダー』
の絵はがきつくりました。
2種類あります。
これをクリックすると、新しいウインドウが開いて、見本が見れます。
AmazonやBK1などの
ネット本屋さんに書評を書いて
いただけますと、私からのありがとうはがきとして、お送りする手はずとなっております。
このはがき、宇治の絵本とおもちゃのお店、「ぱふ」さんで配ってみたところ、なかなか好評なので、気を良くしております。
書評書いたよお、はがき送れ〜、の申告先は
アドレス・karin@yuubook.com
です。
2種類のどちらかになりますからね。
それと、絵はがきを発送するには住所をお教えいただかなくてはならないです。
お忘れなく。
勢いに乗って、奥谷和夫著の
『大和ゴミ物語』
の絵はがきも作りました。
これをクリックすると、新しいウインドウが開いて、見本が見れます。
『大和ゴミ物語』の内容にあわないような、かわいらしい絵はがきですが、まあ、ゴミの絵はがきを作ってもさすがにみんな困るかなと思いまして。
これ、どうしよう?
『大和ゴミ物語』を、うちのサイトからお買い上げになってくださったかたにもれなくプレゼントいたしましょうか?
「こんなもん、いらねえや!」
と言われるかもな、とも思ったり。
(;^-^ゞ
お買い上げになってくださったときに
「絵はがき欲しい!」
と、おっしゃっていただかたに、プレゼントいたします。
評判が良ければ、また作りますね。
*洋書絵本数冊こうにゅう*(2005.4.28)
高山智津子・著、ルック出版発行の
『×(バツ)のついたカレンダー』
みなさん、もうお読みになっていただけたでありましょうか?
(^-^;A
くどいようですが、私が表紙とさし絵を描いてます。
読んでいただけて、もしも面白いと感じてくださるのでしたら、そのお気持ちをAmazonやBK1などのネット本屋さんに書評として書いていただけますと、とっても嬉しかったりします。
くちこみで人気がでたりすると嬉しいなと思っていたりしますので。
「書評書いたよお」と申告していただきますと、私から「ありがとうの絵はがき」などが届いたりするかもしれません。
申告先はメールでお願いします。
私、スパムやウイルスメールとおぼしきメールは開かずにどんどん捨てちゃいますので、ごめんどうですが、タイトルに「絵はがきクレー」とかなんとか書いていただけるとすごくありがたいです。
絵はがきを発送するには住所をお教えいただかなくてはならないわけですが、それはいやじゃ、というむきには、ネットで添付ファイル、という形になります。
肝心の絵はがきの内容は、まだ作ってません。
だって、ひとつも書評つかなかったら、寂しいもん。
(^-^;A
ワシってさ、こう見えてすんごくナイーブなのよ。
さて。
近々うちの遊絲社のほうでも新刊がでます。
タイトルは
『イワクラ 巨石の声を聞け』
です。
著者は、イワクラ(磐座)学会のお歴々。
古代文明のロマンを追いかけるノンフィクションです。
「古来、秀麗な姿を持つ山には神が宿るとされ、人々はその山中の奇岩や巨石を神が降臨する岩、『磐座(イワクラ)』と呼んだ。いつしかイワクラは山を降り、『神社』の原形となり、そして……」
最新の古代の信仰や呪術・祭祀に関わる遺跡・遺物の調査から、
「イワクラ」「古代文化」の正体に迫る渾身のレポート。
どうぞ、こちらもご贔屓に。
閑話休題。
久しぶりに絵本を何冊か購入。
ED YOUNG
『THE LOST HORSE』
BARBARA LEHMAN
『The Red Book』
EVE SUTTON
『my cat likes to hide in boxes』
KEVIN HENKES
『Kitten's Full Moon』
の4冊の洋書絵本だ。
どれも、表紙絵に魅かれてネットで購入した本だ。
『THE LOST HORSE』は直訳すると、失われた馬。
In northern China there once lived a wise man called
Sai.
(北中国では、塞と呼ばれる賢人がひとり住んでいました。)
という書きだしから、これは塞翁が馬のお話を英訳したもののようだ。
塞翁が馬のお話が中国の北のほうの物語だと、実は初めて知った。
『The Red Book』は、文字どおり真っ赤な表紙の本だ。
表紙にはタイトル表記さえない。赤い本であることは、”The Red Book”と教えてもらわなくても、ひとめでわかる。だから、タイトルは必要ない。
2次元の赤い表紙の上を、女の子がひとり駆けていく。
駆けている女の子をそっと指で触れる。そうしているうち、やがて私は、この赤い表紙の中に吸い込まれていく。絵本という製品が魔法を発揮する瞬間だ。
『my cat likes to hide in boxes』
『Kitten's Full Moon』
はどちらも猫の絵本。
私は猫絵本を集めている。夢中になって買い集めている、というわけではないけれど、絶えず気にかけてアンテナを張り巡らせているつもりだ。
『my cat likes to hide in boxes』(私の猫は箱に隠れるのが大好きなの)というタイトルの絵本を見つけたときの喜び!
こういう絵本に出くわすと、瞬間的に嬉しくなる。
心にパッと明かりがともったようなおももちだ。
"o(^▽^)o
猫は、ダンボール箱や植木鉢というような、狭くるしいモノや場所で遊んだり眠ったりするのが好きだ。スーパーの袋などにもすぐに首を突っ込んで遊びたがる。
あれはどういう習性なのだろう。
ダンボール箱の中でドコドコとエキサイトして暴れてる姿を見る(箱の中で見えないけど)と、そばにいる幸せで胸がいっぱいになる。
猫が遊んでいる姿というのは、本当に素敵なものだ。
『Kitten's Full Moon』は、直訳すると“小猫ちゃんの満月”てな具合か。
満月を初めて見た小猫は、それをミルクのいっぱい入ったミルク皿だと思い込む。何とかしてあのミルクを飲みたい。
小猫はさまざまな工夫を凝らして満月であるミルク皿を手に入れようとする、というようなお話だ。
*999999*(2005.4.27)
外崎則夫氏のサイト
『N.TONOSAKI's
Personal Station』
の大人気コラム
『がんばれ!!ゲイツくん』
の最新号が出ておりました。
タイトルは
『Adobeのもたらす世界』
最近のアドビの、マイクロソフトじみた帝政主義に疑問を感じているのはワシだけではなかったと。
(^-^;A 私の日記での主張と基本的に同意見であったのが嬉しいね(ひとりぼっちじゃないっ!)。
『ゲイツくん』では、ポストスクリプトやPDFの問題にまで踏み込んで書いておられた。
あー、PDFなあ。
MacのG3機じゃあ重くてまともに動かんのよな。アドビリーダー。
ワシのように、いちおうDTPなどやっている身としては、ポストスクリプトやPDF、あとフォントの問題は避けて通れないわけでして。
ま、外崎氏のおっしゃるように、
「MSのドキュメントフォーマットが電子文書フォーマットのデフォルトで広まっていた可能性もありますし、
エクセルが電子帳票のスタンダードになっていた、
なんて世界だったかもしれません。」
なんてことになるよりはマシなわけですが。
(T◇T)
もうね、企業の都合に振り回される日々はあきあきしたよ。
いっそ、Linuxに乗り換えちまおうかなと思う今日この頃。
しかし、LinuxでDTPは、現実的じゃないしなあ。
さえんなあ。
などとぼやきながら。
漫画雑誌
『月刊アフタヌーン6月号』
を読む。
しかし、どんどん読むのが辛くなってきたな、あふたぬん。
しかし、ひぐちアサせんせの漫画が読めるのはアフタヌーンだけ!ということで、どんなに辛くても毎号買うのである。
カラスヤサトシせんせの漫画が読めるのもアフタヌーンだけ。つーか、カサスヤサトシせんせの作品、単行本化されるかなあ。
今号は、『ああっ女神さまっ』の等身大フィギアの広告に驚かされた。
等身大フィギアって、ギャグマンガのネタじゃないくて、あくまでも本気ですか。ccレモンむせちゃったよ。
『こち亀』の両さんが、
麗子の等身大ドール作った
のとおんなじ感覚なのな。
お値段は999999円。
上から1円玉落とすと、がっちり100万円。
!!(;〇o〇)
日本は、滅びますな。
確信した。
しかし、なんで女神さまなんだろ? どうせここまで馬鹿やるんだったら、女神さまより麗子の等身大フィギアのほうがシャレが効いてて面白いじゃん、つうか、
『神戸在住』桂っちフィギア
でいいよ、もう。
それが無理なら、
欄外漫画カラスヤサトシふぃぎあ
でもいいぞ。
いや、まじで。
カラスヤサトシせんせの漫画作品を何年も前から評価し、追いかけてきた私の慧眼をフィギア像として後世に残すのも良いかもしれん。ちなみに慧眼はけいがんと読むのだ。今の今まで「すいがん」と読んでいた。彗星の眼ですいがん。……以後気をつけよう。
こうして、漫画ばっかり読んでいる私。
しかし、けっして漫画だけを読んでいるわけではない。
グレッグ=パラストの
『金で買えるアメリカ民主主義』
を読み直してるんだけどね。
めちゃくちゃへこむんだよ、読んでると。
現行の民主主義制度の最大の問題点は、票でも民主主義の精神でもなんでも、金で買えてしまうことにある。すべての人間的価値を貨幣で推し量るということは、逆に言えば、すべては金次第になってしまうということだからね。
日本でも選挙の後に、あっちこっちの議員が捕まっているよな。公正な選挙なんて、夢物語。
我々の社会では、まるでゲームのように、
徳も美も力もなーんもかんもポイント制
だ。
もうな、絶望的なありさま。気分悪くなる。
ささくれだった心にさわやかな涼風を、ということで、
中川晶著
『心療内科医のメルヘンセラピー』
という心理学関係の本を購入。
心の問題なんて、素人が首を突っ込むと頭が裂けることになっているのだが、好奇心に打ち勝てませんでして。
(^-^;A
でもこれ、なかなか面白い。心理学ではなくて心理療法、つまり、臨床・治療に重点が置かれていて、好感が持てるの。
分析なんてどうでもいいじゃん、治療効果があればさ。
私も幸は薄いのに悩みは多い人生だもんで、こういう本もこっそり読んでいたりするのでありました。チャン、チャン。
*『ブラティスラヴァ世界絵本原画展』に行ってきました*(2005.4.25)
奈良県立美術館まで出向いて、
『ブラティスラヴァ世界絵本原画展-広がる絵本世界-』
を見てきた。
『ブラティスラヴァ世界絵本原画展』は、スロヴァキアの首都ブラティスラヴァで2年ごとに行われている絵本原画展で、ボローニャ(イタリア)の原画展と並ぶ世界規模の原画展、なのだそうだ。
絵本を絵本として楽しむのではなく、絵本のいち場面として描かれたもの、いわば切り取られた時空間として楽しむ。
それは例えば、映画の名シーンをつないでいったものを観ていくのにも似て、鮮烈な印象を残す場面だけが、いきさつも成り行きも前後の脈略も提示されないまま、どこまでも続いてゆく。
これがなんともミステリアスで、サスペンス小説の登場人物になったような奇妙なスリルがあるのだ。
個人的にもっとも大きな収穫は、スタシス=エイドリゲヴィチウスの原画に出会えたことだ。
エイドリゲヴィチウスの絵はシュールで、暗くて、不気味だ。
普通こういうシュールで不気味な絵は、たいてい子どもだましでしかなく、基本的に私は好きではないのだが、このひとの絵だけは、どういうわけか別格あつかいなのである。もう一歩踏み込めば下品になる、もう一歩退けば退屈になる、その微妙なバランスをけっして踏み外さない。
そこが魅力だ。
しかし、今日は体調がどうもすぐれず、2時間ほどで退散。
自宅で佐藤秀峰センセの
『ブラックジャックによろしく』
最新刊を読む。11巻だ。
こういうことを言うと自画自賛になってしまうけど、私がこの日記などでくりかえし述べてきた主張と、そっくりそのままな物語展開。
な〜? 佐藤秀峰センセも、ワシとおんなじこと考えてるのよ。
ネタバレしちゃうから、具体的な相似点はお話できないけど。
(;^-^ゞ
身も知らぬおっさんが、突然小学校に乗り込んで、刃物を振り回し、子どもを殺してしまう。
どうしてこういうことが起きるのか?
キレル子ども? 国民が日本民族の誇りを失ったから? 女性の社会進出が原因? 違うね。
原因は、我々の社会がメディアなどを通じて
そうなるようしむけているから。
そうなるようしむける、とは、ひとがひとを殺すように、ということだ。
市場経済という巨大なシステムを機能させるためには、人々は互いを恐れ、心に壁を築き、利用し、消費し、孤独にうちさいなまれ、ときには殺し合わなくてはならないのである。
そうでなければ、市場経済など3日もせずに崩壊してしまうことだろう。
これは、明白な事実である。
明白すぎるほど明白であるにも関わらず、私たちはこのシステムの中から一歩も出ようとはしない。
なんとなれば、私たちは互いを利用し、利用され、徹底的に消費しあう以外の生き方を知らないからだ。
私たちは無意識のままに、恋人、妻、夫、子ども、親、親友を
貨幣の排泄物として所有する。
しかもそれを愛と呼ぶのである。
しかたあるまい。誰もそんなものは見たこともが無いのだ。
「♪ 愛など存在は〜し・な・い・っ! ♪」
(↑byオーケン)。
あるのやらないのやらわからない愛とやらのために、所有している私財(配偶者、子どもetc.etc.)や消費する楽しみまで手放せるわけがない。
一文無しよりは、牛の糞でも掴まえておきたいという不思議な心理だ。
よって、私たちは今日も、悲しい犯罪者を社会の内側から産みだし続けることに同意する。
佐藤秀峰センセは、自作の登場人物にこう叫ばせる。
「読者をあおって、新聞を売りたいだけなんだろ…………!?」
「また同じような事件が起こるぞ………」
「今度事件が起こったときは…………
何も言わなかったマスコミの責任だ。」
メディアは、私たちひとりひとりに、
「おまえはひとりぼっちだ。おまえのような考えを持っている人間はひとりもいやしない。皆と同じ考えを持ているふりをしろ。……皆と同じ考えとはなにか? それはメディアの論調に首を縦に振る人間のことだ」
と教えるのだ。
そんなばかな、と皆さんはおっしゃるだろう。
“現実”に、そのような人心操作をしているメディアなど存在しないではないか、と。
ところが 実際は、そのような情報操作、市民教育は日常的である。あまりにも日常的なので、なにか“特別な”ことは、なにひとつ行われていないように感じられているだけである。
そう、それは日常なのだ。
そして、人間はあまりにも社会的な生き物であるために、この“脅し”はきわめて強力に作用する。社会から完全に孤立して生きていけるような人間は、万にひとりもいない。
貨幣の吐き出す毒に、私たちはしらずしらずに冒されてしまっているのだ。
*ロミオはロミオで、薔薇は薔薇*(2005.4.21)
「女性は男性にかしずくべし」などという条文を日本国憲法に盛り込もうという馬鹿げたアイデアに夢中な知識人or政治家のみなさまについて、今日も憤慨する。
「女性は男性にかしずくべし」なんて憲法、世界のどこにあるよ。
人間を--少なくても日本人を--、男性と女性というカテゴリーにわけ、その2種類の枠の中にぎゅうぎゅうと押し込めて、上から法律で縛り上げようというわけだ。
男性がいて女性がいる喜びを、こんなふうに台無しにしてしまう、こいつらはナニモノッ!?
女性という存在を、女性という人間カテゴリーだと思ってやがるのな。これじゃあ
血液型診断を日本国憲法に盛り込む
というようなゴタクと何にも変わらない主張だが、しかし彼らは本気も本気、大まじめなのだ。
つくづくすごい。
しかも、血液型診断のほうがまだいくぶんましなのがさらに涙を誘う。血液型は4種類あるもんな。
彼らのおっしゃるには、女性が男性にかしずくのは、それが女性の持って生まれた資質であり、女性の自然なありようそのものなのだそうだ。しがたってこれは差別ではなく区別なのだそうである。
へー、これが区別なのかあ!って、納得しませんよ、そんなもの。
「ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」
ジュリエットさんがせつなくささやいてますよ。
ロミオが例えシルベスター=スタローンという名前だったとしても、「差別」を「区別」と言い換えたとしても、中身はいっしょだっつーの。
(^_^;)
私がいちばん不思議なのは、どうして彼らはそれほどまでに
女性を恐れているのかということ。
それも、ちょっとやそっとの恐れじゃない。すっかりびびってしまってる。
女性を男性の下に置き、三つ指つかせ、男性が存在しなければかたときも生きていけないように女性をしばりつけることで、なんとか安心したいのだ。
女性をがんじがらめに縛りつけて、これが女性の本来の幸福だと、自分たちだけで納得してみせる。
男性と女性の“区別”を知っている者たちの、なんと哀れな姿か。
アーシュラ=K=ル=グウィンの
『ゲド戦記4巻 帰還』
に、こういう一文がある。
「もしも一方の強さがもう一方の弱さに支えられているのだとしたら、強い方もたえず不安を感じていなければならなくなる
」
それだ!! d(;^-^ )
結局、彼らは、自分たちの男性としての権威、“強さ”を失うのが恐ろしいのだ。
私たちはみな、男性の作った男性上位の社会になれすぎてしまって、本当に対等な男女関係とはどのようなものなのかを、想像することすら難しいと感じている。だから、こんな戯言にも自信をもって反論できないんだな。
女性の皆さん。もっと自信を持っていいよ。連中は声がやたらでかいだけで、内容なんてこれっぽっちもありはしない。平気、平気。
力にしか興味のない、他人を支配することでしか関係を築けない、醜い生き物なんだよ、連中は。
ちなみに、ゲド戦記4巻のテーマは、
女性や子どもに対する差別と暴力
のようだ。以前の3巻に比べ、フェミニズムの視点が前面に出、ずいぶん大人向きな内容になっている。
いったいぜんたい、女性とは何者なのか?
結局、男性も女性も、そもそも性別というもの自体、言葉が産みだしたものだ。
じゃあ、言葉の向こう側には何があるのか? やはり言葉だろう。ル=グウィン らしい、面白い主張だ。女性とドラゴンをイコールで結んでしまうラストは、少々唐突だとは思うけれど、女性崇拝主義者の私としては納得できる。
そして、言葉が産みだした産物としての男性陣営のひとりとして、私はゲドのセリフに賛同する。
つまり、
「男が立派になりうるとしたら、その底には恥の意識がある」
ということだ。
マイケル=ムーア監督も言ってるぞ。
「ブッシュ、恥を知れ!」
恥を知らぬ男ほど社会的に危険な生き物はない。
さて。
恥を知らぬ男どもへの侮蔑の意をさらにあわらすために、映画を鑑賞する。
モフセン=マフマルバフ監督の
『ギャベ』
だ。
モフセン=マフマルバフ監督は、キアロスタミと並んで、人類史上もっとも優れた映画を撮る映画監督である。
この『ギャベ』の物語もまた、女性の自由をテーマに描いた作品であった。
ラストのナレーションをどうとらえるかで印象も変わってくるだろうが、心に鋭い痛みの残る映画である。
男と女が、ふたりの愛を社会に取り上げられずに生きることの難しさ、日常の過酷さを乗り越えて自由でいることの難しさ、を、ラストシーンのどん詰まりのナレーションから、私は感じた。
このラストシーンは、そのまま
『ゲド戦記2巻 こわれた腕環』
へとつなげていくことも可能だろう。
この2巻は、光を求める男と女が、自由への扉を開くために、闇に閉ざされた迷路の中を手を取りあって脱出しようとする、全シリーズ中もっとも好きな物語だ。
ゲドはテーナーという名の少女にこう告げる。
「ひとりでは、誰も自由になれないんだ」
恋人たち、けっして互いの手を離さぬようにな。誰に何と言われても、現実という怪物から逃げて逃げて、逃げまくれ。
女性を男性の下に置こうとする右翼どもは、けっしてふたりを許そうとはしないだろう。
彼らは、
婚姻制度を奴隷制度として機能させたい
のだ。
家族という最小単位の奴隷制度の頂点には、もちろん、国家が君臨する。気づいたらいつの間にか、あなたは国家の飼い犬だ。
恋人たちよ。くじけるなよ。
改憲論者たちは、あんたたちの愛をぜんぶ取り上げようというのだ。あなたたちの手元に残るのは、互いの首に巻き付ける首輪だけ。
気をつけろ。とにかく注意が必要だ。
日々の暮らしは辛く、重く、恋人たちの想いを簡単に押し流す。
負けるな。
鎖を断ち切って、見事はばたいてくだされい。
閑話休題。
再度お知らせ。
高山智津子先生の新刊
『×(バツ)のついたカレンダー』
が発刊されました。
書店に並ぶのは21日ということで、もう並んでるかな。
Amazonやbk1ではもう置いてます 。
この本は、私が表紙など作ってます。
うえの画像は、帯なしバージョンです。
以上、宣伝でした。
*ぜんぶフリーソフトにしてしまえば*(2005.4.20)
ドヴォルザークの交響曲9番『新世界より』と、ドビッシーの交響詩『海』のCDを購入。
『新世界より』は、放課後の下校時間に流れていた、あの曲だ。
ケルテス指揮のものか、クーベリック指揮のものか悩みに悩んで、
結局バーンスタイン。
ドヴォルザークをセルで聴いたりバーンスタインで聴いたり、我ながらぜんぜん節操というものがない。
バーンスタインのこの『新世界より』は、ピチピチとしなやかな、若々しいドヴォルザーク。
『新世界より』は本来、虐殺されて家を焼かれて、ぼろぼろになりながら
身体を引きずるようにたどる『家路』
という表現であるべきなのかもしれないけど、まあ、指揮者変われば演奏も変わるということで。
チェコの歴史を考えたら、第2楽章の『家路』は、郷愁なんて甘いものじゃないのかもな。
ちなみに最終楽章だけど、『ジョーズのテーマ』はぜったいここからパクってるよね?
(^_^;)
ドビッシーは、私の大好きな作曲家。
ひとつひとつの音が繊細で好き。
ドビッシーというひとは、普段の日常生活から、私たちとはちがう音が聞こえていたんじゃないかな、と、彼の音楽を聴いていると思ったりする。
私たちとは耳が違うというか。
異能というか、天才なんだろうね。
閑話休題。
マクロメディアがアドビに買収されたという。
ちょっと驚いた。
正直なところを言うと、けっこう驚いた。
ネット関連アプリの熾烈なシェア合戦に勝利したのはマクロメディアだったからね。
しかし、シェア合戦に勝利したものの、肝心のネット事業が冷え込んでツンドラ地帯になってしまったのはなんとも皮肉。
インターネット市場は、氷河期に入っちゃったんだよね。
ネットでは何でも可能だという思い込みが激しかったぶん、ひとびとのインターネットに対する失望もまた大きかったんだろう。
アニメ制作ソフトのフラッシュだって、旧バージョンでやりたいことはたいていできちゃうし。
マクロメディアはある時期からプロシューマー路線に切り替えたけど、プロシューマーのほうが、お財布のひも、かたいんよねえ。
むちゃくちゃシビアに、本当に必要なものだけを購入するよう心がけてるからなあ。
軍備拡張合戦に血眼になったあげく、経済が破綻して国が滅びた旧ソ連の有り様を見るようですな。
フリーハンドやファイヤーワークスユーザーはどうなるんですかね?
ともかく、グラフィックソフトは、この買収で事実上アドビの寡占状態になる。
不安だなあ。
最近はアドビも、マイクロソフト社にならって、はなからユーザーを泥棒扱いし
「おまえら泥棒の疑いがあるんだから、少々の不便はこらえろやあ!」
などという所業に出ているので、ものすご、スカン。
ユーザーのハードディスクにインストールされているアドビ製品が正規版かそうでないかを、マイクロソフトまがいに、ネット経由でチェックしやがるんだそうだ。
高い商品を買った揚げ句、
「おまえは正規ユーザーだろうな?」
「泥棒じゃないだろうな?」
とねちねち疑われる。
対テロ戦争
と称して、向こうさんは、こちらのハードディスクを覗き見できるわけだ(してるかどうかはわからんけど、していてもおかしくない)。
隣人はテロリストかもしれません。
隣人は不正コピーユーザーかもしれません。
さー疑ってください、隣のひとを!
PhotoshopやIllustratorのユーザーは、この屈辱に堪え続けなくてはならないのな。
堪えられるかあ!
しかし、それでも、堪えなきゃいかんのよ。
仕事で必要だったりするからね。
仕事でアドビ製品を使っている方たち、そして、マイクロソフト製品を使っている方たちも、これらの会社の商品を使っているかぎり、ずーと泥棒予備軍扱い。
足もと見やがって。
私が使っているのは、古いバージョンのPhotoshopやIllustratorだから、そんな目にあわなくて済んでるけど。
古いMacユーザーだから、ウインドウズも使わずに済んでるし。ありがたい話です。
とにかくな。
不正コピー、不正コピーうるさいんだよ。
不正コピーをなくす、いちばんいい方法を教えちゃる。
よく聞け。
PhotoshopもIllustratorも、
フリーソフトにすればいいんだよ。
マジ、不正コピーなんていっこもなくなるさ。
コピーガードをくぐる必要がないんだからユーザーの不便もなくなって、不正コピーもなくなって、みんな幸せ。
じっさい、
コピーを防ぐよりも、コピーするほうが簡単なんだし。
ごんべが種まきゃカラスがほじくるで、セキュリティーの穴を突かれて不正コピーは止めらんない。しかし、でも、どうしてコピーガードしなくちゃいけないのよ。コピーすればいいじゃない。
健全な世の中になるよ。必要としているひとたちに、必要なだけ配付すればいいんだかんな。
コピーできるのにコピーしちゃいけない。必要としているのに、お金がないから手に入らない。
どう考えてもおかしいだろ。
コピーをあの手この手で禁止し、ひとびとが必要としているものをとりあげ、ユーザーを取り締まり、自分たちだけで独占し、囲い込む。
根本的にまちがってるだろ?
タダで配ったりしたら、市場経済のシステムが傾いちまうだと?
傾いちまえよ、そんなもん。
わしらは、経済システムの奴隷なのか?
違うだろ?
わしらがしあわせに暮らすために機能してこその、社会だろ?
言っておくけど、PhotoshopもIllustratorも簡単にコピーできるんだぜ?
リターンキーを押せばそれだけで。
それでこそのデジタルじゃんか!
断っとくけど私は、貸しCD屋さんからCD借りて、それをダビングしたことすらない人間だ。
音楽を聴くときは、CDを購入して聴いてるよ。
しかしCDを買うお金のないひとには、ただでコピーしてあげればいいじゃん、とも思う。
さらに閑話休題。
新種の昆虫が3種類見つかったのだそうだ。キノコムシという甲虫だ。
その3種類の昆虫に、
「自由と民主主義の原則に忠実であろうとする、困難で不人気な仕事を進んで行なっている3人の指導者を讚える」
ため、それぞれ
「ブッシュ」
「チェイニー」
「ラムズフェルド」
と名付けたそうだ。
それ
「不人気な仕事を進んで行なっている」
ところしかあっていないじゃん!
! ( ̄□ ̄;)
「大量破壊とファシズムの原則に忠実であろうとする」
の間違いじゃないですかね?
やつらのやっていることが民主主義だっつーなら、ヒットラーだってスターリンだってピノチェトだって民主主義者だよな。
こんな名前をつけられた昆虫が、なんともあわれでならない。
かわいそう。
「チョムスキー」
「ムーア」
「グラスナー」
という名前を、どうしてつけてやらなんだ。
(追記)
「ブッシュ」、「チェイニー」、「ラムズフェルド」という名前をつけられてしまったかわいそうな新種の黄金虫のお話をしたのだが、この件についてお友だちからメールをいただいた。
私もそのニュースをラジオで聞きました。
そのラジオのニュースでは、その3人の名前をつけたのは、結構皮肉って命名したと言ってました。(命名した方がその命名した理由を、決して本心から思っているのでなく批判的な意味を込めてという感じ)
実際、写真を見たわけではないですが、そのムシくんはかなりへんてこりんな風貌をしているみたいです。
お知らせくださって、ありがとうございます。
とっても助かりました。このままじゃあ、真意を誤解したままになるところでした。
いやあ、奈良新聞には批判的な意味が込められているという記述がひとつも書いてなかったんですよ。
そこんとこを書いていただかないと、命名した昆虫学者の
「自由と民主主義の原則に忠実であろうとする、困難で不人気な仕事を進んで行なっている3人の指導者を讚える」
という言葉に込めた意味が正反対になってしまうんですよね。
メディアリテラシーの取り組みが大切だと言うけれど、1行も書いていないんじゃあ分析のしようもない。
報道の恐ろしさをまざまざと感じる瞬間でありました。
まあ、昆虫学者ともあろうモノが、こんなアホウなことをマジメに言うはずがないと気づけばよかったのかな?
ご用学者の多い日本の地に住んでいるもので、どうも学者の言うことが当てにできませんで。
(;^-^ゞ
どっちにしても、こんな名前を付けられた虫さんこそ災難ですね。
私は
『ドウガネブイブイ』
というタイトルの詩集をだすくらいには黄金虫のことが好きなので、この黄金虫たちがふびんでなりません。
(ρ_;)
*ロックでSFな日本国憲法*(2005.4.18)
日本国憲法を改憲しようという動きが活発だ(ファシストどもって、なんでこう年がら年じゅう元気なんだろうな)。
改憲派の言うには、改憲できたあかつきには、なんでも新日本国憲法に
「日本女性は男性にかしずこうね」
という条文を付け加えたいのだそうだ。
く、狂ってる!
! ( ̄□ ̄;)
こういう条文を付け加えることによって、日本女性を讚えたいのだそうだ。
ひええ。
土着的民族主義を基礎とした差別意識で、頭の中がすっかりお花畑。
女性の皆さんも、黙ってたらアカンで。
こういう連中には、平手うちのいっぱつも食らわしたり。
私は非暴力主義者だが、この件に関する女性陣の彼らへの暴力については、喜んで認めます。
女性を讚えたいだと?
「女性は美しい! 女性はかっこいい!」
讚えるなら、これでええ。
( ̄个 ̄) コレデエエ
讚えるべきは讚えて、彼女たちがどのように生きるかは、彼女たちに決めてもらったらいい。
土着的民族主義者のしかも“男”が、カッコイイ彼女たちにあれこれ生き方を指図するなんて、とんでもないぜ。
頭にきたから、今日は、小森陽一さんと池田香代子さんの
『「九条の会」奈良・憲法講演会』
を聞きに行く。
場所は奈良県文化会館国際ホール。
ここで言う「九条」とは、日本国憲法第九条のことだ。
いわゆる、平和憲法である。
内容は、以下の通り。
1.私たちは、国際平和を心からマジメ〜に望み、また求めるのでありマス。
2.だからして、私たちは私たちの政府に対して、戦争することも、戦争する道具を持つことも禁じるのでありマス。
3.日本国の政府は、いつなんどきであろうとも、国民のこの禁止命令を反故にすることはできないのでありマス。
というのが憲法九条の内容である。
実にまっとう、かつ明りょうな声明である。
本当の文章は、もちっと難しく書いてある。
「日本国憲法第二章「戦争の放棄」第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
以上。
すんげえ、かっちょいいよな。
「国際平和を誠実に希求し」
なんて、よその国のひとたちに胸張って語れるよ。
「うちの憲法、かっちょいいだろ〜」
って。
なんせ、「希求」だぜ、おい。
未来を語ってるよ。
SFだよ。
ロックだよ。
なぜ誠実に希求しなくてはならないのか? そんなことをして何の得になるのか? 勝ち組論に毒された一部の若者は言うかもな。
あのな。得じゃねえんだよ、徳なんだよ。人間としてあるべき倫理観について、私たちが未来に望む社会のありかたについて、熱く語ってるんだよ。
ロック魂でな。
すげえぜ、日本国憲法!
めちゃくちゃ前衛的だぜ!
池田香代子さんがお話になっていたのだが、この日本国憲法第九条を初めて読んだ若者が、
「なんだ、日本国憲法って、
ジョン=レノンの『イマジン』とおんなじなのな!」
とメールで書いてきたそうだ。
若者!いまごろ気がついたか!
「♪想像してみ? 国境なんて存在しないと
難しいことじゃないよ
殺す理由も
死ぬ理由もありゃしないとしたら?
宗教なんてものも存在しないとしたら?
想像してみ? すべての人々が
平和のうちに暮らしていると♪」
当時、私たちはそんなふうにイマジン(想像)し、そんなふうにイマジンした世界を単なる空想から現実のものとすべく、国家に対して行動したのである。
それが日本国憲法だ。
私たちは、
永久に戦争行為を放棄するように政府に対して命じた。
国家にしてみれば、実にイタイ、不自由な法律なのである。
いま、改憲議論が盛んだ。
改憲論者である彼らの本当の狙いは、この憲法九条にある。
この憲法第二章、第九条があるかぎり、日本国政府はおおっぴらに戦争できない。戦争することを放棄せよ、という私たちの命令を、日本政府は無効にしたいわけだ。
私たちは、もうイマジンすることをやめたのか?
国境なんて存在しない世界を夢見なくなったのか?
戦争のない平和な暮らしをもう望んでいないのか?
いんや!
バリバリに望んでいるよ。
世界中のひとびとと手をつなぎあうその日をな。
読売新聞がどれほど威かそうと。
コイズミが何と言おうと。
他国の脅威を彼らは吹聴するが、その前に、
おんどれらがいちばんの脅威
じゃよ。
人類を分断し、お互いを敵視するように仕向けてるおんどれらがな。
そりゃあ、政府としたら、戦争したくて仕方がないだろう。
世界第2位の武力でもって、ごり押し外交すれば、多くの小国をひれ伏させることができるもんな。
がたがた文句を言うやつは、ミサイルを見舞ってやればいい。アメリカという後ろ盾もいるし。やりたい放題ができるつーわけだ。
戦争ほどもうかる商売はない。
だが、しか〜し!
商売よりも、モウケよりも大切なもんがあるぜ。
お金のようには目に見えないけど、とっても大切な何か。
想像しよう、想像しよう。
「♪想像してみ? 所有なんて存在しないと
君にもそういう考えができるかい?
貧困になったり飢えたりする必要はないとしたら?
みんな兄弟なのだとしら?
想像してみ? すべての人々が
この世界を分かち合っているのだとしたら?♪」
私たちは人間だ。猿じゃない! 力だけがモノをいう猿山の猿たちのような暮らしから、いいかげんおさらばするんだ。
人間が人間を支配し、
所有する生き方はもうやめます!
アカでけっこう、めりけんこ。
好きな女の子のことは、やっぱり心から愛したいよ。所有なんてしたくない。自分の子どもが産まれたとして、対等な人間同士として向き合いたい。所有なんてとんでもない。
世界の3大共産主義者、
ゴータマ=ブッタ、
イエス=キリスト、
カール=マルクス
の名において、ファシストどもよ、タチサレイ!
(↑by『エクソシスト』)
この日記を読んだら、仏教徒もキリスト教徒もいっせいに怒り狂うだろうな。
(;^_^ A
怒るなら怒れ。
仏典には共産主義という言葉はひとつも使われてないけれど、だからどうした。大切なのは言葉じゃない。その言わんとする中身だ。
頭を剃ったからボウズというわけじゃないだろ?
その証拠に、
大仏はパンチパーマをかけてるぜ。
……。
何の話だったっけ?
あ、そうそう、憲法九条の話だった。
(;^-^ゞ
池田香代子さんは、
『世界がもし100人の村だったら』
を出版し、最近ではヴィクトール=E=フランクルの
『夜と霧』
の新訳を担当なさった方だ。
小森陽一さんは、「九条の会」事務局長であり、東京大学大学院教授。主な著書は
『漱石を読みなおす』
『日本語の近代』
など。
ちなみに、佐藤秀峰センセのチョー傑作漫画
『海猿』
の原案を担当なさった小森陽一氏とは
別人
であります。
奈良県文化会館国際ホールの1350席は満員御礼の大入り袋状態。
やっぱり、皆さん関心を持ってらっしゃるんだな。
話は、すっごく面白かったよ。
小森さんは、巧みに笑わせる話術ももってらっしゃるし。
知性という下地がないとユーモアは生まれないんだよね。
どうして改憲論などというものが巻き起こっているのか、アメリカ合衆国はどうして日本国憲法を改憲したがっているのか、そのからくりがよおく理解できた。
勇気ももらったし。
ファシストどもと戦う勇気ね。
「♪ボクのことを単なる夢想家だと思うかもしんない
でも ボクひとりだけじゃないんだ
いつの日か
君も仲間に加わってくれよ
そうすれば、この世界はひとつになってゆくだろう♪」
イマジンじゃよ、イマジン。
magine there's no heaven, it's easy if you try
no hell below us, above up only sky
imagine all the people living for today...
Imagine there's no countries, it isn't hard to do
nothing to kill or die for, no religion too
imagine all the people living life in peace...
you may say I'm a dreamer, but I'm not the only one
I hope someday you'll join us and the world will be
as one
Imagine no possessions, I wonder if you can
no need for greed or hunger, a brotherhood of man
Imagine all the people sharing all the world...
you may say I'm a dreamer, but I'm not the only one
I hope someday you'll join us and the world will be
as one
*日本の子どもって、本当にかわいそう*(2005.4.17)
悪名高い「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書では、太平洋戦争時の日本のアジア侵略について、
「アジアを奮い立たせた日本の行動」
としゃあしゃあと書いているそうだ。これって教科書というよりトンデモ本なんじゃあ……。
「日本を解放軍としてむかえたインドネシアのひとびと」
だって。奮い立ったのはいったいどこのアジア人だよ。
すげえよ。とにかく、ものすごい代物だ。
今の子どもたちは、こんなもん教わってるのか! よってたかってアホになるよう教育を受けているんだな。
毎日学校に通って、人生台無し。
まあ、ヨーロッパの人々もナチの行動に奮い立ったのかもしれん。当時のひとびとにアンケートとってたわけじゃなし、本当のところはわからんわな。なんせ、死人に口無しだもん。
口を塞いでおいて、異議はなかったと言い張るのだ。
強盗殺人のやったもん勝ちだっつーこったなあ。勉強になるなあ。
教科書を使って勉強する子どもたちは何にも知らないし。
40代なかばくらいの女性とお話ししていたら、
「え、日本ってアメリカと戦争していたんですか?」
と驚かれて、こっちが驚いた。
終戦記念日って、何の終戦だと思ってたんですか。
(^_^;)
つーか、終戦という言い回しも実に奇妙だよな。
正しくは、
敗戦記念日
じゃないですかね?
言葉じりをとらえて難癖つけてるわけじゃないのよ。
とにかく気が重いのはさあ、わしらの政府が、これからまた
アジアのひとびとにたっぷり迷惑をかけようと高い意気込みで臨んでいるその姿勢
な。
とにかく申し訳なくて。
こんだけ右傾化してしまったら、止まんないだろうなあ。
ごめんよう、アジアのみなさま。
謝っても許せないよなあ。
中国をはじめとするいくつかのアジア諸国のひとたちはブチきれて、日本大使館などに投石している模様。
マスコミがあおるから、国民間の感情が悪化の一途。政府としては、国民間の仲が悪くなったほうが都合がいいもんな。本当の巨悪に目がいかなくなるから。「野蛮で恐ろしい中国」つー図式で、全国ネットお茶のま報道中。
中国のひとたちも、罪を憎んでひとを憎まず、の精神でお願いしたいもんだ。投石しても事態は悪くなるばかりだよ? 暴力はいかん。
ま、うちらが火ーつけたわけだから、強いことは言えないけど。
「新しい歴史教科書をつくる会」の公民の教科書には、竹島問題について
「韓国とわが国で領有権をめぐって対立している」
という記述があるんだそうだが、これは、まあ、事実だ。
この記述に対して、文部科学省がこのほど
「わが国固有領土」
と書き直させたばかりではなく、
「韓国が不法占拠している」
という記述を加えさせたそうな。
わー……。
文部“科学省”ねえ……。
竹島問題の歴史を知らんのだろうか、彼らは。
いやもう、知っててこういう恥知らずな教科書を作ってるんだろな。
すげえよ、ほんと。
歴史って何だろうなあ……。
事実うんぬんは脇に置いておいてもだ。こんな居丈高で一方的な口調じゃあ、政府間の対話なんて成り立たんぜ。
ぶっちゃけた話、会話が成り立つ成り立たないじゃなくて、ケンカをふっかけたいんだよな。
ケンカ状態になればなるほど、日本国内のひとびとは相手国への恐怖心から判断力を失い、暴力をちらつかせた外交を支持するだろう。
おー! 良いことづくめ。
まずは子どもたちの教育から。
日本の子どもたちをすっかり馬鹿にしたてあげようという一大プロジェクト。
ファシストどもは忍耐強いよな。連中のこのド根性は、ほんとうにすごいと思う。
たしかにこんな教科書でお勉強すりゃあ、卒業するころにはすっかり馬鹿になってるだろうよ。
しかし、こんなことしてりゃあ国は必ず滅びるよ。
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