前の日記1 / 前の日記2 / 前の日記3 / 前の日記4 / 前の日記5 / 前の日記6

 / 前の日記7 / 前の日記8 / 前の日記9 / 前の日記10 / 前の日記11

 / 前の日記12 / 前の日記13 / 前の日記14 / 前の日記15 / 前の日記16

 / 前の日記17 / 前の日記18 / 前の日記19 / 前の日記20 / 前の日記21

 / 前の日記22 / 前の日記23 / 前の日記24 / 前の日記25 / 前の日記26

 / 前の日記27 / 前の日記28 / 前の日記29 / 前の日記30 / 前の日記31

 / 前の日記32 / 前の日記33 / 前の日記34 / 前の日記35 / 前の日記36

 / 前の日記37 / 前の日記38 / 前の日記39 / 前の日記40 / 前の日記41

 / 前の日記42 / 前の日記43 / 前の日記44 / 前の日記45 / 前の日記46

 / 前の日記47 / 前の日記48 / 前の日記49 / 前の日記50 / 前の日記51

 / 前の日記52 / 前の日記53 / 前の日記54 / 前の日記55 / 前の日記56

 / 前の日記57 / 前の日記58 / 前の日記59 / 前の日記60 / 前の日記61

 / 前の日記62 / 前の日記63 / 前の日記64 / 前の日記65 / 前の日記66

 / 前の日記67 / 前の日記68 / 前の日記69 / 前の日記70 / 前の日記71

 / 前の日記72 / 前の日記73 / 前の日記74 / 前の日記75 / 前の日記76

 / 前の日記77 / 前の日記78 / 前の日記79 / 前の日記80 / 前の日記81

 / 前の日記82 / 前の日記83 / 最新の日記



ポエムマンガに戻る / ホームに戻る



ロンドン、ロンドン、東京、ファシズム(2005.7.8)


ロンドンの地下鉄やバスで同時テロ。

多くの死傷者が出ているとのことだ。
犯行グループの特定は、まだはっきりとしたことはわからないものの、アルカイダだという情報が流れている。

だから言ったろう!こういうことになるって!

ちくしょう。
私たちが、テロリストそっちのけでイラクの石油をあさっている間に、新たな悲劇が起きた。
「オサマ=ビン=ラディンはどこへ行っちゃったんでしょう?」
と新聞記者に問われて、アメリカ合衆国最高司令官ブッシュ大統領は、こう答えた。

「ああ、あれはもういいんだ」

いいことあるかあ!!

アルカイダは、戦争屋だ。テロをビジネスにしている。
イスラム原理主義も中東の文化も、実は彼らには関係がない。彼らはテロで膨大な利益を得ているビジネスマンなのだ。
今度のテロで、交通機関を中心とした欧州の株式市場は軒並み暴落するだろう。延べ棒でおなじみの金や、プラチナなどの株価は上昇するだろう。いっぽう、テロが起きる直前に、鉄道株を売り払い、金やプラチナ株を買いあさるグループがいる。
それは、誰か。
それは、テロが実行されるXデイを知っている者たちだ。犯罪グループ、そのひとたちだ。
オリンピック誘致で沸き立ち、その影響で株価が上昇したタイミングを見計らい、事件を起こす。一瞬にして彼らは、とてつもない額の富を手に入れたに違いない。
イスラム教原理主義も中東の文化も犯行グループとは関係がないと先ほど述べたが、テロの実行犯は確かにイスラム教徒だ。中東の解放を主張しているかもしれない。アルカイダは、抑圧され弾圧されつづけてきた中東のひとびとの慟哭、怒り、イスラム教徒の誇りを、うまく利用している。
家族を殺され、友だちを殺され、街を破壊されたひとたちの深い悲しみが、アルカイダ国際ビジネスグループの、つきることない実弾なのだ。
中東における民族虐殺の悲しみを、彼らビジネスマンは搾取する。

ブッシュや某小泉やブレアが、9/11テロの被害者の悲しみを、徹底的に利用したように。

ある意味、新しいタイプのビジネスだ。
9/11のテロが起きたとき、テレビでは盛んに、
「西洋と中東の文化の衝突だ」
と喧伝した。
それが本当だったとして、じゃあどうして、

アメリカ政府はサウジアラビアとあんなに仲良しなんですか?

おかしいだろ? サウジアラビアって、中東ど真ん中じゃん。
そもそも、「西洋と中東の文化の衝突」などという理由で、自爆テロを実行する人間なんて、いるか? 死ぬんだぜ? どう考えても、ワリがあわないだろ。なにか、新聞やテレビが隠している別の理由があるはずだ……。
私が新聞やテレビの報道に疑問を持ったのは、この瞬間が最初であった。
で、私なりに調べたわけよ。
9/11の事件が起きたあとも、アメリカ政府は、ラディン一族にとてつもない優遇措置を行なった。……ゴクッ(←生つばを飲む音)。
実は、オサマをはじめとするラディン一族は、サウジアラビアの富豪一族なのだ(うぬぬ?)。
本当のことを言うと、

9/11の自爆テロ実行犯の大多数が、サウジアラビア人であった。

…………ゴクゴクゴクリ(←さらに生つばを飲む音)

で、どうなったかというと、まず、

1.アフガニスタンが爆撃された。

(え? サウジアラビアは?)

2.次に、イラクに侵攻した。

(え? サウジアラビアは?)

3.イラク兵の捕虜を虐待したり、民間人を生きたまま戦車で踏みつぶしたり、モノを盗んだり、その他ありとあらゆることをした。

(わしらイコール世界最大のテログループ。とほほ)

4.イラクの石油漁り。

(オサマはもういいんだ。大量破壊兵器も、もういいんだ)

5.ロンドンで大規模テロ事件。

(……………くそったれ)

こうやってふりかえると、何かが、ものすごく、おかしい。
とてつもなく、おかしい。

ここまで書いたついでに、ワタクシメが、未来についても予言してみよう。
次のテロの標的は日本ですよ。
標的になっているのはわかっているのだが、自爆で来られたら、まず防ぎようがない。
しかも自衛隊は、テロに屈することなく、イラクであんなことやこんなことをやり続けるのでありましょう。だから、本当に防げない。
で、日本のどこかでとうとうテロ事件が起きる。多くの人が犠牲になって、その犠牲を利用して、

テログループは、またまた、がっぽり金もうけ。

いっぽう、多くのひとたちの悲しみ、怒り、恐怖、不安、憤りを利用した政府の連中が、事件を利用して

みごとに日本を右傾化。

ここまで、既定路線なんですよ。
憲法九条ではテロには対抗できない、とか、市民の権利と自由が肥大化しすぎたために治安が守れなくなった、とか、血を流す国際貢献だ、などなど、連中の言い草もわかってんだよ。
どこまでいっても、私たちは利用される運命なんだ。
テログループに利用され、そのあとは土着的民族主義者や、金持ち連中に利用される。

がまんしろ、堪えろ、でないとテロが来るぞ!

なまはげかよ。
(´▽`;)
♪サラリーマン増税にも堪えましょうね。
♪老人福祉の切り捨ても堪えましょうね。
♪教育費の切り捨て、仕方ないよね。
♪国民の権利の制限もテロに比べりゃマシ。
♪世界を平和にするためには、戦争も……。
♪なんとかえモンとか、鐘が鳴るよゴーンとか、お金持ちはさらにお金持ち。ステキー!!

イラクの石油の利権にむらがっている大企業は、かわいそうに、忙しくて寝る暇もないんだと!
私たち庶民は、テロに対抗するために我慢をしなくちゃね。我慢を。
しかしな、実際のところテロをなくすのは、2つのことを実行しただけで、実現するんだよ。
よく聞けよ。
本当に本当の話なんだからな。
ひとつ。
「わしらがイラクなどで実行中のテロを即刻やめること!」
敵側がテロすると犯罪だけど、わしらがテロするのは民主主義の実現……などという言い草は、通用しないんだよ。

誰がやっても、テロはテロなんだ!

これ以上、説明いらないよね?
テロを撲滅するという言葉の意味を、よお〜〜〜く考えろ、ということだ。
次。
ふたつ。
「アルカイダを包囲しろ」
どうでもいい、なんて言ってちゃあ、そりゃ捕まらないわな。
(^_^;)
あのな。

テロで儲けようという考えを即刻捨て去れ!

テログループはもちろん、あの国とあの国とあの国の首脳もな!
言ってもダメだろうな。
あいつら、金もうけしか考えてやがらねえもんね。
そして、これこそが資本主義の本質なんだもん。もちろん法的には違法だし、人間としては、最悪だけど。でも、資本主義の文脈においては、彼らを責められないのな。
「いやなら参加するな、見るな、買うな。我々は我々の自由を行使しているのに、気に入らないからといって、どうして首を突っ込むんだ」……というわけ。
結局、資本主義システムにおける自由の保証とは、消費する自由、他者を利用する権利、でしかない。
……人間って、つくづくビョーキだと、書いててあらためて思うよ。
資本主義システムと市場原理で運営されている社会では、

テロリズムは最高のビジネスチャンスなんだ!

 ( ̄ロ ̄lll)
しかも、

テロを行う側と、攻撃される側の両者において!

狂ってる……。
苦しむのは、いつも、無関係の市民だ。
みんな、もちっと、かしこくなろうや。
殺されるのは、私らなんだぜ?
テレビや新聞のひとつひとつの言い草にいちいち反応してもダメなんだよ。
例えば、選挙前と選挙後でも、すでにぜんぜん違うこと言ってるだろ? ほんと、あきれるよ。
連中は、ひとびとが混乱し、新聞や雑誌が売れて、テレビの視聴率が上がればそれでオーケーなんだ。
言い草ではなく、その言葉の向こうにある、連中の目的を考えなくちゃ。
「無尽蔵の金もうけ」「中産階級の実質的な奴隷化」
これが彼らの目的である。
連中の行動をつぶさに見ていると、郵政民営化から、市民の権利の制限まで、色んなことをやっているように思えて、実はその目的はどれも同じなのな。
大衆の不安、恐怖、怒りの感情は、彼らの目的達成のために、最大限に利用される。
さあ、

次は何を買わされ、何を信じさせられるのだろう。

……。
ここで最後の予言。
資本主義の「他者を利用する自由」「世界のありとあらゆるものを消費する自由」という概念がもたらす悲劇を、「市民の権利」「国民の権利」とすり替えて連中は演説をぶつね。
それを新聞やテレビが、毎日お茶の間にお届けします。
市民の権利を制限することで、日本民族の誇り、道徳観が清らかに蘇る。テロも撲滅できる(←どうやって?)。しつけの行き届いた子どもたちは品行方正。とかなんとか。
具体的には、治安維持法とか、少年法の改正とかだな。
民族主義と国民管理と恐怖政治でテロ撲滅だい。
ワーオ!

くそったれども。
テロの犠牲者を食い物にしている、あいつらは人間と呼ぶに値しない生き物だ。



運用されない民主主義*(2005.7.7)


郵政民営化法案が衆院通過した。

あらあ。
そろそろ、離島に住んでいるひとたちは覚悟を決めなくちゃね。あと2年もすれば、葉書いちまい出すのに750円の切手貼ったりしてたりして。いや、ありえない話じゃないよ。
公共事業の運営を民営化して喜んでいるのは、世界広しと言えども、日本とアメリカくらいなものだ。そりゃそうだろう。公共事業を民営化すれば、当然、貧富の格差、都市と地方の格差は大きくなり、全体から眺めた市民の生活レベルは明らかに後退する。そうなれば、国力も衰退することになる。一部の金持ちだけが狂ったような利益を得る反面、国の経済力は修復不能なほどに弱体化する。
連中は
「財政赤字、財政赤字、痛みに耐えて大増税」
と大騒ぎするけれど、毎年毎年毎年毎年毎年毎年毎年毎年毎年毎年毎年毎年、福祉切り捨て&増税しているのに、

どーして財政の赤字が増加してるんですか!

ひとの納めた税金、何に使ってんだよ。しかしまあ、こうなるのも当然なんだよね。

赤字が出るようにしか運営してないんだもん。

どうしてこういうことになってしまうのか、そもそも、どうしてこういうメチャクチャが提案されるのか、私にはよくわかってるよ。
結局このひとたちは、日本という国を骨まで食い尽くしたいんだよな。
この世とあの世のありとあらゆる事象、現象に名前をつけて、のち、それらを徹底的に消費し尽くすのが資本主義のシステムなのだから、政府はこうやって、国を食いモンにしていくわけだ。
ワタシ奪うひと、アナタ身ぐるみはがされて泣くひと。オーケー?
大切なのはあくまでも「われわれ」が「あなたたち」を食い物にすること。この関係だけが重要だ。
連中にしてみれば、経済が破綻しようが、自殺者が年に3万5千人もいようが、国が滅びようが、それは

「われわれ」が誰かを食いつぶしているウレシイ証左でしかないんだよ。



うまくいっている・シ・ョ・ォ・ウ・コッ☆

おめでとう。
断っておくけど、この一連のしっちゃかめっちゃかな事態に関して、オイラに責任はいっさいないかんね。
オイラ、オギャーと産まれてから今日まで、この手の連中に投票したことは、ただの一度もないもん。
世界を汚し、人間を踏みにじる一大プロジェクトに一役買っていないというのは、なんてさわやかなのでありましょう。

犯罪に手を染めずに生きていきたいものです。いや、マジで。

で、話がずれるけどさあ。
現在の私たちの社会で運用されている民主主義制度が抱える、いっちばんの問題は、民主主義はお金で買えてしまうことだよな。
選挙の票なんて、その最たるものだろう。
結局、どんな制度でも運用しているのは人間であって、あの輝かしい民主主義の看板をたかだかと掲げても、その諸原理は社会の中でまったく機能していないのが実情だよ。まあ、ここまでお金にあさましいモラルの腐りきった連中が運用すれば、国もズタボロになってしまうということなんだろう。


さて。
気がつくと、今日は七夕。
短冊に願い事を書くと、かなったり、かなわなかったりするそうだ。
年に一度の逢瀬の時間に、願い事など送りつけるのはやぼだと考えてきたが、今年はちょっと、お願いしてみようと思う。

「貨幣経済制度がこの世からなくなり、世界が共産化し、国家という制度が廃止され、全人類がアナーキズムに目覚めますように!」

パンパン! (←かしわ手打っておいたほうが、かないそうな気がするだろ?)
我ながら、途方もない願い事だね。
人類には、ちょっとハードル高すぎだよなあ、と、願っている本人が思っているよ。
この世にはゴリラ財団というところがあるのだそうだが、そこのゴリラが、

誕生日プレゼントに小猫をおねだりしたそうだ。

ええ〜、ガセちゃうん?! 
「小猫をください」
って、ゴリラがどうやって、意思表示するん? 
なんとそのゴリラは、手話が話せるのだそうだ。それにしても、小猫が欲しいなんて、すごいねえ。メロンとか、葡萄とかじゃないのねえ。誕生日という概念が、理解できてるのかねえ。
そのゴリラは、小猫をとても大切に育てて、かみつかれても引っ掛かれても怒らず、大事に大事にしているのだそうだ。
もともとゴリラは温厚な動物で、例えばカメレオンとか、珍しい生き物を発見すると、それがどういう生き物なのか知りたくて、手のひらに乗せて、じっと観察するのだそうだ。
これがチンパンジーだと、珍しいカメレオンを発見すると、どういう生き物かを調べるために、手のひらに乗せて、

ばらばらに分解してしまうのだそうだ。

……わかった。
人間の祖先は猿だそうだが、猿は猿でもチンパンジーに違いない。
人間のやることなすこと、ことごとくチンパンジー的だ。人間の祖先は、チンパンジーだと強く思う。

万物の霊長は、ヒトではなくて、ゴリラがいいと思う。

人間的、という言葉は、ゴリラのためにとっておこう。



日本の新聞(2005.7.6)


あきれかえるとは、どういう心境を指すのか。知りたいかたは、何も言わず、まずはこちらをご覧になってくださいませ。
……。
これが日本の大手マスコミの実態なんだよなあ。
ひどいってもんじゃないよなあ。
連中は、

真実よりも自分たちの影響力のほうが重要だとうぬぼれているんだな。

こんな連中のたれながすニュース見て、読んで、世界を知った気になる、われら無邪気な市民。
こんなことしてたら、どんどん、アホになんで。
ニュース番組見たり、新聞読む時間があるなら、マイケル=ムーアの映画を観たほうがぜったい、いいよ。
同じアホでも、ムーアの場合は、根性すわったアホアホパワー全開、連中のでっかいケツをけり飛ばす、危険なアホウだから。
同じアホなら、自覚して、な。
革命は、笑いの力を使ってしか、起きないものなのよ。
これから、DVDでムーアの映画、観よ。

☆-あ、このブログの管理人さんには、リンクのお断りをしてませんので、もしも問題があるようでしたら、お知らせください。速攻でリンク外しますんで。

ごめんね。



『関西弁で愉しむハ○ポ』という過激(ネタバレ注意)*(2005.7.4)


『ハ○ーポッター 賢者の石』
を、我が弟に読ませてみた。
「ハリー=○ッター」略して「ハ○ポ」を知らないひとは、おそらく皆無だろう。(みなさん、知ってらっしゃいますよね)。
それでもあえて説明すると、J=K=ローリングが書いた児童向けシリーズ小説の主人公、それが「ハ○ポ」(なんちゅういかがわしげな響き)だ。
シリーズは猛烈に売れて売れて、やになるくらいヒットして、世界中の子どもという子どもが読みふけって、とうとう世界書籍販売の歴史上で、もっとも売れた本になってしまった。
まだまだ売れつづけている。ケタ違いに売れている。

もう不自然なほどに売れまくっている。

そんなシリーズ小説の第一作目が『○リーポッター 賢者の石』だ。
私は、この本についての、弟の感想を聞いてみたかったのである。
私自身の感想は、以前、この日記で書かせていただいたことがある。
とてつもなく不評だった(苦笑)。
ハ○ポファンの方々に八つ裂きにされるんじゃないかと思うくらいに不評だった。
しかし私は、自分の意見に強い自信を持っており、弟に読ませて、私の意見の妥当性について判断していただこうと思ったのだった。
……弟の読書スピードは異常に遅い。
どれくらい遅いかというと、亀と競争しているウサギが昼寝してそのあと紅茶飲んでケーキ食ってげっぷしても、亀が我が弟ならば、まだその姿も見えないだろう……というくらいに遅い。
彼は、本の一字一句に目を配って、

誤字脱字がないか、それをチェックしているのだ。

まさに、DTPをするために産まれてきた男と言えるだろう。
新聞を読んでいても雑誌を読んでいても、たちどころに誤字脱字を発見してしまう。とくに、締め切りに追われる新聞や雑誌などは悲惨で、弟に赤ペン持たせたら、たちどころに真っ赤な新聞ができ上がるに違いない。
弟にかかれば、産経新聞だって

……赤旗?

(^_^;)
『ハリー・ポ○ター 賢者の石』もまた、誤字脱字、ルビの振り間違いなど、弟の容赦ないツッコミじゅうたん爆撃にさらされた。
……まあ、読書の趣味って言っても、スタイルは色々あるということかな。
(^_^;)
一言一句をおろそかにしない弟の読書法は、ある種の才能の現れだと言えるだろう。
内容に関する深い洞察と、高い理解を可能にしている。
実際、素晴らしい感想であった。
弟の感想だけで一冊の本が仕上がるのでは、と思ったほどに。
興味深くまた説得力にあふれた意見の数々であった。
何よりも、関西仕込みの鋭い突っ込み! ちょっとご紹介しよう。
ハリー=ポッ○ーとその仲間が、狼男が住むという禁じられた森に行ったときの

「マルフォイがどうなったってかわまないけど、ネビルになにかあったら……」

というセリフに、弟はするどく突っ込む。

「マルフォイがどうなったってかまわないけどぉ!?

けどお、けどぉ、けどぉ、……(以下、エコー)。
悪いこと言わん、ハ○ポは退学させておけ。こんなやつに魔法を教えたら

そのうちその力で誰か殺すぞ!」

……弟よ、まだまだこれくらいで驚くな。
ハ○ポは第二巻では、大勢の学友たちに対し、

無差別テロを敢行するのだ。

告白するが、私も児童文学書は何冊も読んできたが、主人公が無差別テロに及ぶ作品は初めてだよ。
(´▽`;)
また、別の場面。あるときハ○ポとその仲間たちは、ある事情で、ある場所に潜入することになった(とても重要な場面だから、事情と場所は濁しとくね)。
幾十にも張り巡らされた魔法セキュリティーシステム。真っ暗やみの通路で、不気味に動めく触手状の植物が、いきなりハ○ポたちを襲う。潜入者をとらえんと、触手はハ○ポ一行を羽交い締めに!
しかし大丈夫。光を当てるとシステムは解除され、ハ○ポたちは自由になった。

「あんなあ……。この防犯システムって、

作動と解除の論理がまるっきり逆転しとるやん。

真っ暗やみの通路を進むわけやから、当然、潜入者は懐中電灯とか、灯をつけてるのが普通やん? となると、この場合は“明かりついたら解除される”防犯システムじゃなくて、

“明かりがついたら作動する”システムじゃないと、意味ないんじゃあ……」

触手どもの魔の手を逃れたハ○ポ。 いま彼の目の前には、がっちり鍵のかかったドアが! どうするハ○ポ!
ドアの鍵は空中に浮かんでおり、部屋の隅には空飛ぶ箒が!

「それって防犯になってないやん!!
あんなあ、鍵を空中に浮かべるくらいやったら、玄関脇の植木鉢の下に隠したほうがまだええって。
てか、そもそも、使えない触手だの、鼻歌ひとつでも居眠りする番犬(そういうのが出てくる)だのよりも、防犯ベルひとつあったほうが、はっきり有用やで。結局、このひとら

防犯の意味がわかってない。
それに、
魔法の運用法を根本的に間違えてる……」

弟の突っ込みはつづく。
魔法学校校長ダンブルドアが

「困ったことに、どういうわけか人間は、自らにとって“最悪なもの”を欲しがるくせがあるようじゃ」

とのたまわった瞬間も、弟は間髪を入れず突っ込んだ。

「それ(賢者の石)を発明したのはオマエとオマエの相棒ちゃうんか!
しかも、人間は困ったものじゃとか言いながら、
減るもんでもない賢者の石を独占しているのはオマエやん!」

わはは。やっぱり大阪生まれじゃのう。
(;^_^ A
ラストの、身の毛もよだつハ○ポのほくそ笑み(詳細はネタバレ自粛)について、弟。

「あわわわわ。この本は、児童版『シャイニング』か! 『キャリー』か!
いやむしろ、

児童版『オーメン』やな!」

もっとたくさんの面白いお話を、弟はしてくれた。
だが、しかし。
ものには、公表すべきでないことがらも確かにある。
世界でもっとも多い人種、それが、

ハ○ー=ポッター・ファンであるのは明らかだ

し、こんな言いたい放題の日記を公開している私にだって、そこはやはりなにがしかの

分別

というものもあるのだ(←と言いながら、気づけばけっこう危ないこと書いたなあ)。
それでも、弟の読書感想の核心部分だけを書いておくと、

「ホグワーツ(魔法学校)で行われているんは、結局、生徒たちを巧妙に支配することやねんな。そんでもって、教師たちが生徒たちに教えているのは、他者を巧妙に支配するやり方そのものなんや」

ということと、

「主人公○リー=ポッターは、ほかの生徒たちに比べて確かに勇気はあるんやけど、人として最低限のモラルも持ちあわせていない、根性の腐れきった人間つーことやね」

の二点だ。
こんな本を世界中の子どもたちがこぞって読みふけっていることを思うと、弟と私は、人類の未来に不安を感じずにはおれないというのが結論だ。
……これで、勘弁して。
(;^-^ゞ

実は私は今、非常に荒れている。
『げんしけん第六巻・特装版』
という漫画を購入してしまったからだ。
980円も支払って、かってに心をすさませている。

自分の悪食ぶりが憎らしい

のだ。
ああ、すみません、ごめんなさい、ごめんなさい。何も聞かないで。
『げんしけん』という漫画がどういう作品なのかとか、作品に私がどう感じているかだとか、いっさい聞かないで。

いま思ったことを、思ったままに口走れば、私は破滅してしまうだろう。

ネットで調べたりも、できるならしないで。
桜玉吉センセの漫画がおまけで付いてくると知って、購入してしまったのだ、それだけだ。
私は、面白がって首を突っ込んで、頭が割れたのだ。自業自得。
とにかく、私はこの件については、なにも話したくない。
作者の木尾士目センセの初期の短編は、私は大好きだった。細かい部分に力を発揮する作家さんで、ナイーブな男性作家さん特有の

産まれてきてごめんなさい

的な心情の吐露も、同じ男性として、わかる気がした。
何もかもが懐かしい。
……オイラはおそらく、どこにも所属することが出来ないんだなあ、というのが感想だ。
以上。

人生は本当に短い。時間はあっという間にすぎていく。
だからこそ、私たちは、本当に良いものだけを選んで読むように心がけるべきだ。
そんな本を、最後に書名だけご紹介しよう。そうでないと、罪悪感で眠れなくなるからな。
(^_^;)
シオドア=スタージョンの
『ヴィーナス・プラスX』
、SF小説だ。

ラストのどんでん返しの衝撃!

そして、美しい理想を求めてやまない小説としての志の高さに、読んで身震いした。
なんと、この小説は1960年の作品だ。45年後の2005年に読んでもじゅうぶん新しい。……じゅうぶんに過激で、ぞんぶんにショッキングだ。
つーか、当時はこの小説、ほとんどの人間が理解できなかったんじゃないだろうかね。
人間について知りたければ、SF小説を読まなくちゃいけない、と私はおおまじめに考えている。
マーク=トウェインの一部の作品、カート=ヴォネガット、シオドア=スタージョン、P=K=ディック、etc.、etc。少なくとも私は、彼らの作品に出会って、SFに描かれていることこそがリアルな真実であり、私たちの言う現実のほうが最大の幻想なのだと知った。




『関西弁で愉しむ漢詩』という本(2005.6.30)


すっごく面白い本を見つけたので、ご報告。
『関西弁で愉しむ漢詩』
桃白歩実さん著、だ。
漢詩〜?!?!
いや、面白いんだって、本当だって。
「だれがそんな退屈なもん読むか」
とおっしゃるな。
おっしゃるなと言っても、無理ないか。

私だってそう思っていた。

一生読まないと思ってたよ。
ところが、人生何が起こるかわからない。書店で立ち読みしたとき、袖の部分に列記されたタイトルが目に入って、ついつい購入してしまったのだ。
だって、

「ずぅーと仕事してきたんやけど さいきん全然アカンねん」
(李攀竜)

「心に無いベンチャラも 上司の顔色見るんも 苦痛やねん」
(葦応物)

「就職……決まれへんねん」
(李賀)

「ひとりで泣きなや な、話でもしよか」
(羊士諤)

って、すっごいいい感じやん? サラリーマンの悲哀ちゅう感じで泣かせるやん?(←負けずに関西弁)
つーか、どれもこれも

泣きごと、愚痴のたぐいのオンパレード。

昔っから、バリバリ生きるのが苦手なひとっていたんだね。

すっげえ、気持ちわかるよ!

上司の顔見るのも苦痛じゃあ、毎日がしんどいだろうなあ。仕事、長くは続かないだろうなあ。

大変だなあ。

私自身はほとんどお酒を飲まないんだけど、「よっぱらいのたわごと」という詩は、身につまされたよ。

 「1年中
 酔ぉてんねん
 こんな旦那で
 ごめんな
 神さんと結婚したと
 あきらめてな
 ごめんな」

ははは……。
(^_^;)
奥さん、なんて返事したんだろうね。かわいそうな、奥さん。
(^_^;)
「禁酒宣言?」という詩もお酒絡みで、面白かった。
……ふと気がついたんだけど、私、『ルバイヤート』とかお酒絡みの詩が好きみたい。なぜだろう?
まあ、読んでみたってよ。


 「住み家は都会を離れて
 プ〜なのは暇でのんき
 座るんは涼しい木陰や
 あるくんは質素な街の中
 好きな味は素朴な山菜
 喜びは子どもと遊ぶこと

 今までにお酒やめたことあらへんねん
 お酒やめたら楽しいことあらへん

 晩酌せぇへんかったら寝られへん

 朝飲めへんかったら調子でぇへん
 毎日 やめようかと思てるんやけど
 やめたら血ぃとまるし身体に悪い
 
(略)」

うわあ。
癒されているのか、ひたすら自堕落なのか、読んでいてつくづく妙な味。
やめたら血ぃとまるし身体に悪いって、朝から酔っぱらって、なに言ってるのよ、お父ちゃん。(←薄幸の少女役の吉永小百合の声でお読みください)
(^_^;)
もう、これってすでに、

カラスヤサトシせんせの漫画の世界な。

ああ、そうか、カラスヤサトシせんせは、陶淵明の生まれ変りかもしれんね。
……んなわけあるかいな。
(;^-^ゞ
とにかく、全編この調子で、面白いの何の。
この本は、本当にお奨めだよ。


ブログとネスケとネタの小槌とその理由(2005.6.29)


外崎則夫氏のサイト
N.TONOSAKI's Personal Station
の大人気コラム
がんばれ!!ゲイツくん

の最新号がアップされておりました。
すっごく面白くて、しかもお勉強になるコラムでございます。
今号ではひとこと、某都知事イシハラ氏への言及もあって、ああ、そう言えばもうすぐ都議選だったんだなあと気がついた次第。

なんでも都知事のくせに週2,3日しか登庁しておらず、それでも給料は年間三千万円近くもらっている」

んですよねえ、イシハラさん。イシハラ氏の支持率が少し下がって、75パーセントになったとのことだけど、75パーセントも支持しているひとがいるほうが私、驚き。東京都民って、辛抱強いひとが多いんだなあ。
イシハラ氏については、この日記で言及しようかと思っていたけど、『がんばれ!!ゲイツくん』を読んでもらったほうがわかりやすいので、リンクします。
今号のタイトルは、
ブログ民主主義の伝道
おー、ブログの話題ですか。
ブログについては、私個人は懐疑的なところもあるけれど、ウエプページを作る面倒や難しさをブログが解消してくれたのも事実。
話がそれるけど、ウエブサイトを作る作業って、マジメにやればやるほど、実に不毛なんだよね。ほじゃほじゃ意味不明なHTMLをお勉強して、デザイン考えて、カスケードスタイルシート使えだのw3Cに準拠しろだの言われた揚げ句に、ブラウザソフトが抱える星の数ほどのバグという壁を乗り越えなきゃいけないなんて、たいていのひとは、うんざりしているんだよ。w3Cはあれしちゃダメダメ、これしちゃダメダメ、と言うけど、肝心のブラウザがまともに表示してくれないんじゃあ、どうしようもない。
かく言うワタクシは、Netscape4.7とsafariの両ブラウザとのあいだで、それなりにでも互換性のある表示に挑戦して、知識と能力がなく夢破れている者ですヨ。
(´▽`;)

「バグだらけのNetscape4.7以下は切り捨て!」

って言うひとも多いけど、それが彼らの言う開かれたユーザービリティ、人に優しいアクセスビリティなんですかね?
まだまだ現役Netscape4.7ユーザーはたくさんいらっしゃる。
「Netscape4.7からFirefoxに乗り換えればいいじゃん」
と言うかもしれないが、例えば私の環境だと、Firefoxを常用ブラウザにしようと思えば、新しいマシンを購入するしかないんだよね。Firefoxでブラウジングするためだけに、新しくパソコン買わなきゃいけないというのも、なあ。釈然としないよ。「Netscape4.7以下のユーザーはどうなってもかまわない」というのは、やっぱり違うとオモウデスヨ。
そうやって、何かにつけてユーザービリティを啓蒙する(とっても良いことなんだけど)いっぽうで、けっこうな大手企業のサイトでも、平気で機種依存文字を使ってる。あっちのサイトもこっちのサイトも、Mac環境で閲覧すれば、文字化け文字化け。プロのウエブデザイナーが、「ペンティアム(監)」だの「背番号は(日)」だのと、平気で使ってる。
こんなの、ユーザービリティ以前の問題だろ? メールを出すときの最低限のマナー、のレベルの話だろ? と、これはブログとはあまり関係ない話。
ともかく、個人が自由に意見を発表できる機会が欲しい、というむきには、ウエブサイトをいちから作るよりも、ブログを使ったほうが理にかなっていたりするんだな。私がブログについて感じている暗黒面(主に運用面)についてのお話は、今度の機会にするとして、「誰もが参加できる」のは、やはり素敵なことではある。
ただ、ここでも黒い魔ソフトですよ。
コラムによりますと、某MS社が中国のMSNで運営しているブログサービスがあるのだそうで、そこで、ユーザーが「民主主義」とか「自由」とかいう言葉をブログに書き込もうとすると、エラーになるのだとか。
どういうことかと言うと、

「民主主義」とか「自由」という言葉が書き込めないようにしてある

わけね。(;゚ ロ ゚)

「これ、私最初中国政府の御用達サイトがこんなことをやっているのかと思っていたのですが、MSが自分たちの独自の判断でやっているのだそうです。これ、完全に馬鹿じゃないですかね。」

(^_^;) 外崎サン馬鹿って言っちゃた……。「完全に」もついちゃって。
確かに、完全に馬鹿だけど。
(^_^;)
ほんと、この会社だけは、毎度毎度誰も考えつかないことをしでかすというか、むしろ

ネタの小槌?

しかもさらに、

オープンソースコミュニティーに対する黒い魔ソフトの露骨攻撃

が始まったニュースも。
マジで大人げないやりくちに、大きくため息。

「悪の帝国に侵略されていくUNIX共和国といった所」

ということで、風雲急を告げるデジタルワールドの行く末やいかに!

……。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆………。
ここで日記は終わるはずだったんだけど。
話を戻して、ブラウザソフトのお話。
実は、私にとって大事なお友だちと言うか、尊敬しているかたというか、大好きと言うか、そのひとがNetscape4.7ユーザーなわけなんですヨ。

うちあけますとネ。

であるからして、
「さあカスケードスタイルシートバリバリ使うぞ。ん? Netscape4.7でレイアウトがたがた? 知ったことか!」
とは思えないんじゃよ。やっぱり。
反発したくもなるわけよ。
それに、体の不自由なかたなどは、特注のキーボードとか使っているひともいるし、特殊なソフトを使っている方もいるよ。特注だから、やっぱりお値段も張るわけさ。そういうひとたちに、どんどんパソコンを買い替えろとか、新しいソフトに乗り換えろって、やっぱり少し問題だと思うんだよな。
体が不自由なひとたちのためのユーザービリティ&アクセスビリティと言いながら、ちょっと矛盾しているんじゃないかと。
新機能を追加するにしても、ウインドウズなら95から。Macなら8.0あたりから、きちっと動作するブラウザソフトって、そんなに難しいのかな?
うちのサイトは、あんまり知識もないままに、えいやっ!と作った代物だから、今から見るとあれこれありすぎて、えらそうなこと言えるサイトじゃないんだけどね。
結局あぶはち取らずで、どのブラウザで見てもぜ〜んぶレイアウト崩れていることになったりしてな。
(;^-^ゞ 苦労するよ。
なんにせよ、Netscape4.7は、どうしても切り捨てるわけにはいかない個人的な理由があると言うわけなのサ。



『小林多喜二 早春の賦』という劇を観ました(2005.6.28)


ただいまご帰宅。
またまた演劇を鑑賞した。
津上忠氏・作、米倉斉加年氏・演出の
『小林多喜二 早春の賦』
だ。
小林多喜二といえば、『蟹工船』を書いた作家で、共産党員で、最後は特高に取っ捕まってその日のうちに虐殺されてしまったひとだ。
1930年代の日本は、民主主義だの自由だの反戦だのと言う人物は逮捕されて、警察にやになるくらいせっかんされたし、当時は共産党は非合法組織で、多くの共産主義者が牢屋で獄死したり、拷問死したわけよ。
いわゆる思想犯というやつですね。
小林多喜二はもちろん実在の人物だが、

米倉斉加年氏もすんごい人物を題材に選んだなあ。

「観客がひとりも入らなくてもいい!」
と米倉斉加年氏はおっしゃっているのだそうだ。今日の郡山城大ホールは満員御礼だったけど、しかし、腹をくくってるなあ。
ものすごい勢いで右傾化する現代日本において、今は、自由にものが言える最後の機会かもしれん。だからこそ、米倉斉加年氏も採算度外視でここまで正攻法の演出をしたのだろう。
小林多喜二は

革命の理想にその身を捧げた、えらーい作家さん。

こういうド根性のある本物のアウトサイダーな作家は、今は本当に少ないからな。
共産主義者たちが夢見た理想は、ハーモニュウムがかわす、ふたことの言葉に要約することが出来る。
ん? 知らないの?
ハーモニュウムは、カート=ヴォネガットのSF小説『タイタンの妖女』に出てくる架空の生物。
木星に生息しているぐにょぐにょしたアメーバーみたいなやつで、平和的で非生産的で、極めて単純な生き物なんだ。
言葉も、たったふたことしかしゃべれない。
ハーモニュウムA・「ぼくはここにいるよ、ここにいるよ」
ハーモニュウムB・「君がそこにいてよかった、君がそこにいてよかった」
彼らはただ単純に、そんなふうに暮らしてる。
そんなふうに暮らしたいと、カート=ヴォネガットのようなひとたちは思ったんだな。
こんなにも甘くて、美しくて、

非現実的な理想郷を夢見たんだよな。

私はペシミストだから、人類共同体がこの美しい夢に追いつくことは人類滅亡の日までけっしておとずれないだろうと思ってる。
実際のところ、毛沢東もスターリンもくそたわけ。クメール=ルージュは殺人狂。レーニンとボリシェヴィキはとんでもない勘違い野郎とその一党。
今じゃあ、革命というのは内ゲバと全体主義と冷酷な官僚制度とイコールだということになってしまった。
「ぼくはここにいるよ、ここにいるよ」
「君がそこにいてよかった、君がそこにいてよかった」
こんなふうに、人間が生きるとは思えない。
消費者としてのちっぽけでどうでもいいような権力にしがみつき、そのときそのときの気分を満たすことが何よりも重要だと信じて、滅亡の日まで駆けずり回るのだ。
我々の言う人間的価値とは貨幣の排泄物。
だけど少なくとも、人類は、こんなに美しい革命の夢を抱くことだけは出来たのだ。
夢もまた、ひとつの業績だ。
小林多喜二というひとりの作家が、拷問死した。彼が抱いていた理想のなにひとつ、実現しないままに。
だけど、美しい理想がそこにあったというだけで……そして、死よりも悪い運命に身ひとつで立ち向かったということにだって、何らかの価値はあるはずだ。
でも、家族は大変だったろうな。
劇中に出てくる、息子多喜二を思う母親がかわいそうで、泣けました。



クラシック音楽に山火事に炭火に(2005.6.26)


最近よく聴くCDは、ジョージ=セル指揮、クリープランド管弦楽団演奏の
『Live in Tokyo』
だ。
1970年に、東京で行われた演奏会の模様を録音したものなのだそうだ。
私のような素人が聴いても素晴らしい演奏で、とくに、シベリウスの2番はぜひとも聴いてください!
この世に完璧な演奏というものはないと思うが、

もしも完璧があるとしたらこの演奏かもしれん、

と思わせるような見事さだ。
スタジオ録音じゃなくて、ライブの録音というのが、まったくもって信じられない。
別のCD、私の持っているもので言えば例えば、ドヴォルザークの交響曲8番など、楽団全員がひとつの楽器になってしまったかのようなワンダフル・アンサンブルをみせる。一糸乱れぬとは、よく聞く慣用句だが、

本当に一糸乱れぬ、なんだよ!

なにをどうやったらこんな演奏ができるんだよ! 東京ライブを生で聴いたひと、こりゃ、きっと腰を抜かしたろうな。

ジョージ=セルならびに、クリープランド管弦楽団ってなにものですか?

私は音楽のことはからっきしわからないから、聴いて受けた印象をただ垂れ流すだけになってしまうのだが、そうと自覚しつつあえて垂れ流すとすると(苦笑)、バーンスタインやテンシュテットが

ぼーぼー山火事のような演奏だとすると、

セルのそれは、音楽の芯の部分が、コンコンと高熱で燃えたぎってる

炭火みたいな感じ。

本当に印象だけだね……。
(^_^;)
セル・ファンのひと、変なこと言っていたら、ごめんよう。
(;^-^ゞ
でも、基本的には、

私は山火事のような演奏が好きなんだけどね。

ということで、テンシュテット指揮のベートーベン交響曲3番『英雄』を購入。
カップリングは、ムソルグスキーの『はげ山の一夜』。
つーか、ベートーベンじゃなくて、『はげ山の一夜』目当てでCD購入。
私、ベートーベンよりもムソルグスキーのファンでして。
変わってんよね。
(;^-^ゞ
『はげ山の一夜』は、真夜中に悪魔というか、魑魅魍魎というか、妖怪というか、そういう連中がどんちゃん騒ぎをして暴れまわるという、小さい子どもたちなら確実に震えがあるようなコワコワな音楽。だけど、魑魅魍魎どもの宴会の恐ろしげな描写の中に、何とも言えぬ寂寥感があるのよね。歓楽極まって哀切深し、というような。そういう魑魅魍魎どもの、やるせない刹那的なありさまが、奇妙に寂しくもあったりするのね。
ムソルグスキーの音楽表現のユニークさ、イメージ喚起力の確かさ、を、存分に味わえる大名曲だと思ってる。
さて、指揮者、テンシュテット。
テンシュテットは、マーラー交響曲の6番と7番を聴いて、その

猛烈な山火事ぶりにド肝を抜かれまして、

このぶんじゃあ、ものすごい『はげ山の一夜』が聴けるんじゃないかと予想し、大期待でCDを購入したものだ。
ちなみに、このマーラー交響曲の6番と7番も、ライブ録音だった。これがまた、セルの演奏とは逆のベクトルで、しかし名演でしてねえ。
ライブ録音だから、観客の拍手も録音されているんだけど、これがもう、大喝さいというレベルを100万光年とびこえて、興奮した聴衆の

ウオオオー!!

という、暴動でも起きたんじゃないかというような咆哮が収録されております。
(^_^;)
はなしを『はげ山の一夜』に戻して。
ベートーベン交響曲3番はほっぽいて、さっそく、カップリング曲の『はげ山の一夜』を聴いてみた。
結論。

ぎゃー!!!

こ、こわいよう。
(;≧Д≦;)
深い深い闇の中で、ばちばちと青白い雷光がひらめくような、テンシュテット節が炸裂。
スケール、でっかい。
もう、はげ山の一夜というより、

はげ山脈。

打楽器がどがんどがんと鳴るたびに、イスからお尻が飛び上がったんじゃないかな。
ひー。



映画生誕100年目の映画(2005.6.24)


『リュミエールと仲間たち』
という映画をDVDにて観賞した。
リュミエールとは、

世界初の映画を撮影したリュミエール兄弟

のことだ。リュミエール兄弟が世界初の映画を撮影してから、1995年でちょうど100年目になる。その節目の1995年に、世界の著名な映画監督たち40名が、

最古の映画カメラ・シネマトグラフを使って、52秒間の映画作品を撮影する、

という企画を見事に完成させた。
それがこの映画作品である。
写真家のサラ=ムーンが総監督を務めている。
40名の監督の名前は、これはとてつもないものだ。そうそうたるメンバーとしか言いようがない。

パトリス=ルコント
ヴィム=ヴェンダース
クロード=ルルーシュ
アッバス=キアロスタミ
張 芸謀
吉田 喜重
ラッセ=ハルストルム
スパイク=リー
コスタ=ガブラス
デヴィッド=リンチ
デオ=アンゲロプロス
etc.、etc.

ズーム機能も何もない世界最古の手動カメラを使って、52秒間のモノクロ超短編作品を作る。
プロジェクトにあたって、監督たちに突きつけられた条件は極めてストイックなものだった。
・「1カット52秒間以内」
・「同時録音は禁止」
・「テイクは3テイクのみ」
以上の制限を守るかぎり、監督たちは何をしてもかまわない。どんな映画を撮っても、監督たちのオリジナリティとアイデアの赴くままに作品作りをしてかまわない。むしろ、積極的にそうであってもらいたい。
もらいたい、と言っても、しかしこの条件で、何を撮るというのか。

カップ麺だって3分必要なんですよ!

あまりにも限定的すぎる条件は、映画を観る以前から、“ある一定以上のクオリティーは望めないのではないか”という思いを私に抱かせた。
映画を観終わった今、結論として言えるのは、

総監督、サラ=ムーンのひとりがち

という事態だ。
(;^-^ゞ
世界的に高名な監督たちが手動カメラを使って映画を撮影するその姿を、サラ=ムーンは追いかける。
「映画は死にますか?」
などという内容があるような無いような質問を、サラ=ムーンは撮影中の監督たちにぶつけてみる。問いに対する答えは、これまた内容があるような無いような、他愛のないものがほとんどだ。興味深いのは、それらの答えが、それぞれの監督たちがそれぞれの質問を飲み込み、咀嚼し、加工されたのちに吐き出される、主観の世界だということだ。映画を作るという極めて不思議な作業を生業とするマエストロたち。
映画はいつでも、監督たちの主観から出発し、最終的には何らかの形で公共性や普遍性を獲得するにいたる。それが表現だ。その仕掛けは、監督自身の内部にある。
監督、監督、監督。
結局、彼らの仕事とは、教育と啓蒙なのだ。映画とは、物語とは、教育と啓蒙のための道具であり、映画監督とは、教育と啓蒙のための機関なのだ。
映画監督とは、教育と啓蒙の新しいあり方を探している、とてつもなく非生産的で、堅物で、奇妙キテレツで、
ファンタジックで、
極めて興味深いひとびとだ。
言い方を変えよう。
映画制作に没頭する40名の映画監督たちを各人ごとに撮影して、フィルムをつなぎあわせさえすれば、すでに立派な

ファンタジーの世界なのだ。

サラ=ムーン、たくまずして、ファンタジー映画を一本ものにしましたな。
(^_^;)
いっぽう、40名の映画監督たちは。

52秒以内等々、無謀とも思える条件下で撮影された作品の一部は、正直、作品単体として何かしら意味のあるものを作れたとは言い切れないものもあった。
『リュミエールと仲間たち』のプロジェクトに参加した巨匠たちの個々の作品よりも、監督たち自身の姿、声、立ち居振る舞いのほうが、観ていて何倍も面白いのだ。
サラ=ムーンのひとり勝ちであるゆえんである。
一部の監督は、「映画で映画を撮る」という、ある種の劇中劇のような作品を作り、これはある程度成功していた。
この企画の趣旨は、リュミエール兄弟へのオマージュなのだから、テーマの選び方としても、正攻法と言えるだろう。
それに対して、52秒間で何らかのストーリーを紡ぎだそうとした監督たちは、みな苦労していた。52秒間では、場面を切り取るだけで終わってしまう。「物語とは場面のことだ」、とうそぶくことも可能だけれど、いくらなんでも短すぎる。
そのなかで、アッバス=キアロスタミ監督は、52秒間の物語を見事に成立してみせた数少ない監督さんだった。
このひとは、映画監督というよりも、むしろ、希代の曲芸師だと思う。
つーか人間じゃないと思う。
しかし、芸は確かにものすごかったが、それ以上でもそれ以下でもなかったとも言える。52秒間で信じられないようなマジックを披露してはくれたものの、私たちがキアロスタミに期待しているのは、

かって人類が経験したことがないほどの深い感銘

なのだ。
さすがに52秒じゃ無理ですけど。
(;^-^ゞ
サラ=ムーンがキアロスタミに何か質問をする。キアロスタミは例の女性的な声で、ふたことみこと、答える。
サングラスのすき間からかいま見れる、表情のない彼の大きな瞳。
日和さんの義眼をのぞき込んでしまった桂ちゃん(『神戸在住』の主人公)じゃないけれど、どういうわけかそわそわしてしまった。
見てはいけないものを見てしまったような。

灰色の瞳には、まるで魚の目のように、表情というものがない。
本当の本当に、彼は地球人じゃないんじゃあ。
別の新しい生きかたを人類に啓蒙するために、M78星雲からやって来た善意の宇宙人なんじゃないかと。
だとしたら、彼の映画は、宇宙からのメッセージということになる……。さすがにすごいもんだ。
……最高級のファンタジーだ。



ガリー=バルディンの作品が日本公開(2005.6.22)


なにいっ!

芸術的アニメ作家、ガリー=バルディンの作品が日本公開されるとのニュースを得た。
よし! きたあ!
どこだ! いつだ!
……東京だよ。
アニメ観にいくには、ちょっと遠いちゅうねん。わし、奈良に住んでるちゅうねん。大阪でやってくれちゅうねん。
あーあーあー、なんもやる気なくなったよ。
(;^-^ゞ
ふてくされついでに、ぶーたれるんだけど、ルワンダの大虐殺を扱った映画
『ホテル・ルワンダ』
は、なんと日本で公開してくれないのだそうだ。
えええ〜。
(´_`;)
アメリカでヒットした映画はぜんぶ公開してくれるんじゃないの〜。
どっか一箇所くらい、『スター・ウ○ーズ』やめて、かけてくれてもいいじゃんねえ。
アメリカ在住のひとたちが
「いいぞ、すごいぞ」
言うのを、だま〜って聞いてるしかないのか。
『Lilja 4-ever』
も、いつまでたっても公開未定だよなあ。
こちらはスウェーデン映画。
すんごい名画という話は聞いているんだが、どうしようもない。
と思っていたら、なんでも、『Lilja 4-ever』を劇場公開してもらうために、

全国劇場を『Lilja 4-ever』上映運動行脚

していらっしゃる方もいるのだとか。
英雄だなあ。
「そんなことでは世論は動かんよ、北村くん!」(←漫画『勇午』に出てくる怖いアメリカ人)。
とは言っても、行動しないと何も変わらないしね。
ぶーたれるだけの私ときたら、ウルグアイ最初の傑作映画との声の高い
『ウイスキー』

巨匠ケン=ローチ監督が、パキスタン移民とカソリック高校の女教師との困難な恋愛物語を描いたという
『やさしくキスをして』
も結局観にいかなかっただよね。
こういう客(←足を運ばないのだから客じゃない)がいるから、どこの映画館もかけてくれなくなるんだよね。
ごめんよう。
暇はあるけど、金がないのよ。
(;^-^ゞ
しかし、ケン=ローチ監督って、日本で人気ないのかなあ。
『ブレッド&ローズ』
いつまでたっても、DVDにならないよ。
そう言えば、アッバス=キアロスタミ監督の
『テン』
もDVDにならないね。
マフマルバフ監督の
『サイレンス』
もまだだねえ。
短いひとの一生、死ぬまでには観ておきたい。
たのんます、劇場のひと&DVDのメーカーさま。
よろしくっす!



井上ひさし氏作、『闇に咲く花』という劇を観ました(2005.6.20)


劇団大阪第58回本講演の演劇を谷町劇場で鑑賞した。
井上ひさし氏作の
『闇に咲く花 愛敬稲荷神社物語』
だ。
演出は熊本一先生(玲子がいつもお世話になっております)。
観賞後、近所の喫茶店に入ってお茶を飲みながら、つい先ほど観終わった劇の感想を弟と語りあったのだが、さてここで、物語の内容をネタばれせずに書くのは非常に難しい。
物語の外枠の部分だけを取りだしてそれを説明すると、まず、時は1947年、舞台は神田の愛敬稲荷境内だ。神主・牛木公麿は、5人の戦争未亡人とお面を作ったり、闇米の買い出しをしたりしながらなんとかその日その日を暮らしている。
公麿の一人息子・健太郎は南方戦線で死亡したことになっていた。健太郎は将来有望な職業野球団の投手だった。彼の中等野球時代の親友が復員してくる。公麿は亡き息子の親友をあたたかく迎える。
ある日、未亡人たちがひいたおみくじがすべて大吉で、しかもおみくじを引くやいなや、幸運がぴたりぴたりと当事者を襲う(←?)異常な事態が起きる。おみくじの販売元である公麿も大吉を引当てる。そしてその直後、戦死したはずの息子、健太郎が帰って来る。喜びにわく父親公麿と未亡人たち。しかし、健太郎の身にC級戦犯の疑いがかけられて……。
と、このあたりが、物語の外枠だ。
このことをふまえて、まず感じたことは、作家・井上ひさしの、

ベテラン作家としての高い技量だ。

終戦直後の1947年、空襲で焼け残った愛敬稲荷境内という限定的な空間のなかで、神主、戦争未亡人5人衆、新任の巡査、復員してきた健太郎の親友、謎の男(実はGHQの係官)、といった主要人物たちを、手際よく紹介していく手口と、なによりも、情報の出し入れのさじ加減のうまさには、舌を巻いた。

演劇を観賞している者に対する情報量をところどころ意識的にしぼってある

のだ。
そうすることによって、伏線が伏線として正しく機能するし、さまざまな事柄がシンボリックに機能し始める。例えば、野球のボール、記憶喪失、神社庁加盟の各神社が8月15日にいっせいに打ち鳴らしたという「平和の太鼓」。あえてすべてを教えないことで、これらのキーワードに二重三重の意味を持たせ、説明されきっていないがゆえにずしりと重い、というような効果を見事に作り出していた。
ラスト間際に、神田明神や靖国神社の方角から、定刻2分前に平和の太鼓の音が聞こえてきたとき、登場人物たちの表情がいっせいにかげることの、具体的な説明もいっさいないままだ。
ただ、

「靖国神社も気がはええなあ」

という、ある登場人物のひとりごとともつかぬ台詞の本当の意味に、鑑賞者が自ら気がついたとき、「平和の太鼓」の向こう側にある、ひとびとを戦争に駆り立てることに一役買っていた戦争当時の神社庁のありかたの、その本質的構造に我々はたどり着くのである。
「平和の太鼓」を打ち鳴らす、という一見なんの文句もつけようもないかに見える行事にすっぽりと隠れているがゆえに、作り手が指し示したヒントをもとに我々自身が咀嚼し、能動的なやり方で答えにたどり着く必要がある、と、井上ひさし氏は考えたのだ。
こういった作り手のあの手この手の仕掛けは、観ていてじつに手慣れていて、

「これくらいのことはいつでもできますよ」

という井上ひさし氏の声が聞こえてきそうだ。
この物語には、ギター弾きの復員兵が出てくる。物語のメインストーリーにはからまない。台詞もいっさいない。神社の隅っこで、BGMのギターをかき鳴らしている。なんらかの願掛けに来ているらしい、ということは登場人物のせりふから説明があるが、それはそれきりで終わる。BGMを生ギターで聴かせる一種の趣向のようにも感じられる。
彼の正体は、ラスト間際で明らかにされる。
私がもっとも感銘を受けたのは、実は、メインストーリーから離れたところにぽつんと座っていた彼の正体が明らかになった瞬間であった。サブストーリーとも呼べぬほどの小さなエピソードのなかに、こつんとした小石のようなしこりを鑑賞者への宿題として残す、じつにプロフェッショナルなテーマ展開である。
無口なギター弾きの正体はなんだったか。彼は何をしに神社に現れて、なんのために毎日毎日ギターをかき鳴らすのか。
答えは書かないでおこう。
登場人物のひとりが、別のひとりに訊ねる。
「彼はいったいこの神社で何曲目を弾いているんでしょうね」
その答えはこうだ。
「九千九百九十九曲弾くということは、ずっと弾き続けるということじゃないんですかね」
つまり、井上ひさし氏が我々につきつけた宿題もまた、どこまで行っても終わることがないのだ。
この宿題は私たちが生きているかぎり続くんだよ、

答えのない問いかけを、自らに問い続けるのがこの宿題なのだよ

というご丁寧な念押しを九千九百九十九曲のギター曲に象徴させて、真のプロの技量というものをまざまざと見せつけられた気がした。



良識的な人が着実に増えているようで何よりです(2005.6.14)


外崎則夫氏のサイト
N.TONOSAKI's Personal Station
の大人気コラム
がんばれ!!ゲイツくん

最新号で知ったのですが、某コイズミ氏の靖国参拝について、最近ではあの読売ですら社説で反対声明を打ち出しているのだとか。
個人的に、衝撃的なニュース。
あの読売がねえ。
(;^-^ゞ
外崎氏の

「良識的な人が着実に増えているようで何よりです。」

とのコメントに思わずうなずく。
他にも、

先週も何やら大臣がまた中国とか韓国を刺激する発言をしてくれたようですが、なんでこうわざわざ頼まれもしないのに国の関係を悪化させるようなことを言うんでしょうかねこの人たち。いや、日本は表現の自由が認められている国でありますから個人でどういう考えを持とうが全く勝手なのではありますが、大臣があんな発言して国の関係を悪化させた所で何の得るものも無いんだということくらい解って欲しいんですけどねぇ。」

とのご意見には、深く同意。
アップルのインテルチップ採用のニュースついてのコメントは、肯定的なコメントでいらっしゃいましたね。
私のように、

「Macユーザ・ひいきの引き倒し派」

でないかたの、冷静な分析が読めます。
まあ、昨日の今日で武闘派発言の言いわけするわけじゃないけど、

ユーザーの方としても、OSは意識するけれど中身のCPUは普通は意識しませんからね。」

というのは、その通りだと思う。MacがMacでありさえすれば、CPUなんて、AMDだろうがインテルだろうが

ACミランだろうがなんでもいいんだよ。

だけど、肝心の、「MacがMacでありさえすれば」つう部分がなあ。
それに、
「イン○ル、ハイッテル」
のコマーシャルな。
(´▽`;)
人生、辛抱だ。


話は変わって。
弟に突然
「山田玲司センセという漫画家知ってる?」
と質問された。
あー、昔ヤンサンの連載をときどき読んだことがあるなあ。ヤンサンは定期購読してなかったのでよく知らないけど。
すると弟は、山田玲司センセがどういうタイプの漫画家さんなのか、読んだことのないオレにもわかるように教えてみてくれと言う。
えー、ずいぶん昔の話だからなあ。
えーと。
例えるなら、

あだち充センセが江川達也センセのメソッドで漫画を描いた感じ。

いや、私が読んだ範囲よ。
(;^_^ A
そしたら弟が叫んだ。
「山田玲司センセは若いころ江川達也センセのアシスタントしていたことがあった

んだって!」
へえ。
逆に教えられちゃった。
そりゃあ、江川達也センセのメソッドが、そこかしこに散見するはずだよね。
つーか、オイラの眼力って、ちょっとすごくない?
白状するけどオイラ、山田玲司センセばかりか、江川達也センセの作品だってほとんど読んだことないの。
佐々木倫子センセの
『おたんこナース』
を読むためにビックコミックスピリッツを定期的に購読していたおりに、ちらちらと目にしていただけで、ほとんど読んだことないのよ。(←読みたくない ボソッ
いやあ、ものの本質を見抜く目を持ってるね(←自画自賛)。
弟の称賛のまなざしを浴びて、ちょっと意気揚々。
( ̄ー ̄)



『イン○ル、ハイッテル!』*(2005.6.13)


MacのCPUがpowerPCからインテルのチップに変更になるそうだ。
今の私の心境は、まるでショスタコーヴィチ交響曲5番の冒頭のよう。
革命と名付けられていながら、いきなりデロデロと奈落に落ちる第1楽章ですな。
身につまされて、しばらくこの曲は聴けないよ。
林檎社にダースベーダが復帰し

デジタルワールドの暗黒面に落ちて10数年。

もう何が起きても驚かないし、正直powerPCでもペンティアムでもどうでもいいよ。
ただなあ。
MacのCMで、あれが流れるのは、たまらんなあ。
あれですよ、あれ。

「イン○ル、ハイッテル! ♪ぴこぴこ!」

うわあああ! 心を殺さなくては、とてもじゃないが堪えられん。誰が助けてくれ。
念押しに、筐体に下品なシール貼り付けてな。おかげで狂態とタイピングミスしてしまったよ。
神経が細すぎて、ああいう下品さには堪えられない身体なんだな。
オレ、きっと長生きできないな。
まあ、個人的に堪えられない下品さの問題は、忍びがたきを忍ぶことで対応するとしても、問題は、いよいよ古いタイプのMacOSのサポートが完全に切り捨てられそうなことだ。
あの美しい革命の夢が、この世から姿を消すのか〜。
頼みの綱の

ジュダイの騎士は、完全崩壊。

ウォズニアックと並んで銀河系の生きた伝説であったジェフ=ラスキンは、大学を退職するときに気球に乗って空から辞意を述べたという奇人であったが、今や雲の上にのぼって二度と帰らぬ人となった。
ビル=アトキンソンは今や隠居の身で楽しく写真を撮ってる。
ウォズニアックは資本主義の競争原理システムにうんざりして、子どもたちに数学を教えてる。
iダースベーダーの一人勝ち。

『PCウォーズ☆エピソード3:クローン戦争・違法コピーは重犯罪』

は悲劇で幕を閉じそうだ。
DTPに手を染めてなかったら、Linuxに乗り換えてるところだが、そうもいかないし。
暗いなあ、人生って、真っ暗だぜ。



第58回カンヌ映画祭のおはなし(2005.6.7)


毎度けなしまくっているハリウッド映画を、わざわざDVDを購入して鑑賞した。
『ミーン・ガールズ』
というティーンエイジャー向けの映画だ。
タイトルを直訳すると「意地悪少女」。
うん? つまり

興味をそそられるタイトル、と思ったのだ。

そう。何を隠そう、私は猫と女の子が大好きなのだ。それが意地悪となれば、ハリウッドであろうがなかろうが、これはもう、観るしかないではないか。
導入部分は、「うわあ、どうしよう」というありさまで一瞬後悔しかけたが 、女子高生たちが

ミニスカ・サンタの恰好でジングルロックを歌う

あたりから、信じられないことだが、がぜん面白くなってくる。
ヒロインは女子高生。両親の都合でずっとアフリカで生活していて学校というものを知らずに育った彼女は、アメリカに戻ってきて高校に入学することになった。
生まれて初めての学校生活。
しかし、勝手のわからないヒロインは、同級生とうまくなじむことができない。
邪魔者扱いされ、給食をトイレでもそもそと食う初日。そんなヒロインに優しくしてくれたのは、つまはじき者のふたり。

エキサイトメントシーカーなレズとふとっちょホモ。

だった。
いいぞ!

中山外相にぜひ観ていただきたい展開になってきた。

ちなみに私は同性に対してこれぽっちも性的な衝動を感じることができない人間で、だからこそ、彼らと彼女たちに、劣等感とねたみのような気分をちょぴり抱いている。そんな話はまあいいとして。
とうぜんヒロインは、話しかけてくれたレズの女の子と太っちょのホモと友だちになる……はずが、ふとした事情で、澄ました顔でファッションリーダーを気取る、セクシー・プチセレブたちと行動を共にするようになっていく。学校中の注目を浴びたり、ちやほやされたり、他のどの女の子たちよりもかっこよく、美しく、めだっていなくてはいけない、というグループだ。ヒロインもそのグループの一員になる。
学校中の注目を集める彼女たちの一員に加わることは、ある種の特権階級の仲間入りをすることでもある。いわゆる、「お高くとまった」女の子軍団なのね。
グループ内には上下関係があって、リーダー格とその取り巻きという関係は厳然と存在している。その力関係の裏側で、醜いというか、エグさきわまる出し抜きあい、足の引っ張りあいがあったりもする。
とまあ、このあたりが導入部だ。
女の子同士の関係の独特な排他性、勘定高さ、驚嘆するほどの複雑さと巧妙さ、

狭量さのデットヒート

が繰り広げられ、やがて収拾がつかなくなり、思わぬ形で破綻がおとずれる。
グループ内のリーダー格の女の子と、ヒロインの力関係が逆転したとき、その立場もまた、逆転する。ここがこの映画の第一の見どころだ。
楽しさや喜ばしさ、友だちの存在の心強さやあたたかさ、自分自身を知る機会としての他者、その他もろもろの、

対人関係のなにかしら肯定的な部分が周囲の世界からごっそり抜け落ちてしまっている

ことに、ヒロインは当惑する。元をたどれば、クラスのみんなにうまく溶け込みたかっただけなのに。
いっぽう、友だちに裏切られていたことを知り、周囲の男の子の視線も目に入らず金切り声をあげて口惜しがるリーダー格の女の子の傷ついた姿が生々しい。このシークエンスは個人的に非常に感心した。まんまとトップの座を奪われた屈辱、恥ずかしさ、友だちだと信じ込んでいた自分の馬鹿さ加減、発狂しそうなほどの憎悪、こうした一連の感情が、高い説得力を持って描写されていた。
ここから先の物語の決着のつけかたは、ネタばれになるので、やめておこう。
ラストのオチについて話したいこともあるけれど、やっぱりやめた。弟は否定的だったけど、私はむしろ感心したね。
人間だれしも
「あいつ死ねばいいのに」
と思うことはあるわけで、それが人間とも言えるし、こういう部分を正直に描いているところは、評価できると思う。彼女たちは高校生で、子どもで、聖人君子じゃない。いいんだよ、成長なんてしなくても。
成功ほどの失敗はない。成長ほどの後退はない。最近そう思うようになったよ。
この映画の登場人物たちは、

成功という大失敗を体験はした

けれど、だれ一人成長なんてしない。
彼女たちなりに、何かに気づいただけだ。
やっぱり、女性って、いいなあ。それが映画の中の女性となれば、もう、最高。
女性が互いにけんかするのをやめて、協力しあえば、世界に恐いものなんてない、てなことを、クリス・ロックが言っていたそうだ。
まさしく。
私は密かに、地球が女性の惑星になる日を夢見ているよ。

-----------------------------------
今年のカンヌ映画祭のパルムドールは、ダルデンヌ兄弟の『L'ENFANT』に決定したとのことだ。
ダルデンヌ兄弟は、ベルギーの監督さん。実際のところ、ものすごい映画を撮る監督さんふたり組だ。
わけ知りに言う私も、1年前に『息子のまなざし』で出会ったばかりだけどね。
出会いのきっかけは、デンマークとかスウェーデンとか、寒い国出身の監督さんが作った映画に傑作・名作が多いのに気づき、

じゃあベルギーはどうなんだ

と思って観賞してみたのだ。
結果。
「すごいすごいマゴイ、ヒゴイ」(←『デビルマン』の牧村美樹ちゃん興奮状態小躍り編)
最近2本目の『イゴールの約束』を観たのだが、確信した。こいつは巨匠だ。
パルムドールのひとつやふたつやみっつやよっつやいつつは惜しくない。
どんどん受賞してくれ。
しかし、とはいえ、今回のカンヌ映画祭は、ノミネートされた作品を撮った監督たちの顔ぶれが、例年以上にすごかった。
ダルデンヌ兄弟。
『アララトの聖母』のアトム=エゴヤン監督。
('ロ')ホーー!
『ドッグヴィル』のラース=フォン=トリアー監督。
!Σ( ̄□ ̄;)ドヒヒ
『パリ、テキサス』のヴィム=ヴェンダース監督。
(^-^;Aホホウ
その他、デヴィッド=クローネンバーグ監督にクエンティン=タランティーノ監督にミヒャエル・ハネケ監督に侯孝賢監督にジム=ジャームッシュ監督にetc.etc。
日本から出品されている小林政広監督の『BASHING』という作品は、イラクの人質事件を題材に、人質となり非難を浴びるボランティアの女性を主人公にした作品であるそうだ。
高遠さんのことだね。
ラース=フォン=トリアーは『ドッグヴィル』のパート2を出品した模様。おお、完成しておりましたか! 『ドッグヴィル』、すごい映画だったよな。悪意たっぷりで(笑)。早く観てみたい。
アトム=エゴヤン監督もいい映画撮るよね。先日『スウィート・ヒア・アフター』観ましたよ。
もう、アトム=エゴヤン監督には『コンチネンタル・ドリフト』 を映画化してほしい。
ちなみに、パルムドールを受賞したダルデンヌ兄弟の『L'ENFANT』は、

子どもを金で売っぱらった身勝手な若者のその後の人生

を描いているのだそうだ。
(^-^;A




村上かつらセンセからプレゼント*(2005.6.4)


漫画家、村上かつらセンセの単行本の帯についている応募券を送ったら小冊子が当たりました。
なになに?
「溝江純様 ご応募ありがとうございました!! 2005.5.5 村上かつら」
うへえ!

溝江純様だって!!

ウシャ!ウシャ!ウシャ!!
ウキャーq(≧∇≦*)(*≧∇≦)pウキキー
私はデビュー短編
『はるの/よるの/ようだ』
を読んで以来、ずっと変わらずに村上作品のファンである。
このセンセはツライ女性を描くのが抜群にうまい。面白いことに、本人が気がついていないところで、そうなのだ。
本人は“おのこ”であるという限界のぎりぎりのところで女性に共感していたい、女性を理解したいという無意識(←おそらく)の願望が、女性のつらさ、悲しみを丹念にひろいあげてゆく。
ある種のひとたちから見れば、ちょっと融通が利かないと言われてしまいかねないほどに、村上センセはきまじめなんだと思う。そのきまじめさが、作品全体を覆う

女性に対する言葉にならない後ろめたさ

となって、読者である私の胸を締めつける。
「どうして罪悪感なんか感じなくてはならないのですか?」
と誰かに問われても、説得力のある答えなどありはしない。罪だと感じたから、悪いと感じたから、としか言いようがない。村上センセは、与えられないのは恥だと感じていらしゃるのだから。
とにかく、村上センセはきまじめですよ。
プレゼント商品に、

溝江純様!!

なんて書くんだもんな。
どっせ〜い!

ヽ( ̄▽ ̄)ノ

そりゃ、嬉しいよ
こんなん、書いてくれるとは思ってないもんね。
ありがと。
ありがとう、ございます。
村上かつらセンセの『はだしのゲン』本も、読みたかったな〜。こっちのプレゼントはあたんなかったのよね。
市販、お願いします。




ボイジャーに乗って(2005.6.3)


1997年から続いていた日韓のサッカー大学定期戦が中止になってしまった。
理由は、

「反日感情の高まりで選手の安全が保障できない」

なのだそうである。
アジアにおける日本の孤立化の現状を、まざまざと見せつけられたような気分。とうとうサッカーもさせてもらえなくなったか。
ようは、めちゃくちゃに嫌われているということね。

 ♪この道は、いつかきた道〜♪
 ♪ああ〜そうだよ、大東亜共栄圏という名のアジア侵略の歴史〜♪

ごめんよう。

そんな、白い目で見ないでください。

ワシらだって、こんな道は歩きたくないのよ。ただ日本国民の大多数は、テレビと新聞を通してしか世界を知らないから。言いわけにはなんないけど。
うちの父親なんかも、テレビのニュース報道を観ては、中東のひとたちがどれだけ野蛮で粗野かをちくいち教えてくれる。
北朝鮮のひとたちがどれだけ洗脳されたロボット人間か、とかな。
あのな。

そうした情報をうのみにさせるのも洗脳だっての。

違いは、日本のマスメディアのほうが、やり方が洗練されていることね。
そりゃあもう、スマートなもんですよ。
「ニュース番組だって真実を伝えているし、見ごたえのある特集番組もある」
と父親。
あたりまえじゃん。
誰だって、ウソつく必要のないことまでウソつかないよ。
陰謀なんてものもない。ただ、隠ぺいしなくてはならない情報があるだけだ。
てなことを言うと、父親は猛烈に不機嫌になる。
テレビが大好きなんだな。愛しているんだと思う。
おとなげないなあ、オイラも、とちょっと反省。「おまえには自由意思なんてものはない、マスメディアが信じさせたいことを信じ、行動させたい方向に行動しているんだ」なんて言われて喜ぶひとなんていないもんな。

自分の主体性を主張するためには、テレビを否定するわけにはいかない

んだよね。
ふたことめには“自分の考え”を強調して話すひとは多いけど、“自分で考え”ているひとなんてほとんどいやしないのが現状。
私を含めてな。
“自分で考え”ていると心から信じて、それで幸せだというのだから、本当に幸せだ。
……我ながら辛辣だね。こんな息子をもって、父親は本当に不幸。
(;^_^ A
もろもろがあって、いきどおっているんですよ、私は。
つらいわー、地球で生きていくのって、ほんと、つらい。
1977年に打ち上げられた惑星探査機「ボイジャー1号」が、太陽系最後の辺境の地へ突入したとNASAが発表したそうだ。日本という極東の土地にファシズムの嵐が本格的に吹き始めた2005年5月末のこと。
宇宙から見た地球は、どんなふうに見えるんだろうな。
地球上でもっとも狂った生物、間違った進化を遂げて滅亡への道をひた走る生き物、人間。
惑星探査機「ボイジャー1号」は、人類が滅亡したあとも、人間から遠く遠く離れて、惑星を探査し続ける。存在し続ける理由としては、じゅうぶん納得できる。美しいとさえ言えるかもしれない。
昔、
「私は貝になりたい」
と言ったひとがいたが、私はボイジャーになりたいね。




便利な新機能の存在理由*(2005.6.2)


いくつもの新機能を詰め込んだ、Macの新しいOSの売り上げが好調なようだ。名前だけの代物とは言え、Macと名のつく製品ではあるから、少しは気になる。
専門雑誌『MacPeople』や『MacFan』でも特集記事にページを割いている。新しい機能をいろいろ紹介している。
しかし、ネットなどをひととおり巡ってみると、

「便利な新機能の使い方がわからない」

というユーザーの意見が多いことに気づく。
アップル社は、開発して詰め込んだ新機能の使用方法をユーザーにきちっと説明していないようだし、そもそもそんなことはどうでもいいのだろう。製品を売るためのイメージ戦略として、ひとびとの注目を集めさえすれば、それで“機能”をじゅうぶん果たしているのだ。
これら新製品の新機能は、

大量消費社会を維持し続けるために無理矢理ひねり出されたもの

と、少々乱暴だけど、そう言っても間違いではないだろう。
ジェフ=ラスキンが草葉の陰で泣いてるよ。
MacOSの最高傑作は、おそらくMacOS8.1になるんだろうな。デジタル革命によって人類共同体をまるごと共産化しようという大胆不敵な開発者の反逆精神にみちみちた、すばらしい工業製品であった。
最高にクールだわな。
それが今じゃあ、運動図3.1のパチもんみたいなのがMacの名を語っていて、涙チョチョ切れだ。
例のカリスマiCEOが帰ってきてからこっち、Macに関するニュースにはロクなものがない。

「この世界にはアイデアが満ちあふれている。模倣するほうが少しは楽かもしれない。でもそんなことをしても世界は良くならないんだ 。」

と例のカリスマはおっしゃってる。一件なるほどと納得できるようにみえて、実に内容のないセリフだよ。
確かに、この世界にはアイデアが満ちあふれているかもしれないが、

新しければいいってもんじゃない。

新しいものイコール良いものではない。ひるがえって、模倣しようがパチろうが良いものは良いのだから、どしどしマネすればいいんだ。
“運動図”も、どうせMacをパチるならその本質をパチっていただきたかったものだ。
たかがパソコン、どうでもいいじゃないか、という気もするけど、パーソナルコンピューターの理想が“たかが”になってしまった現状に、資本主義システムの矛盾を感じるよ。
理由もないのに競争しあい、ものが余っているのに奪い合うシステム。
ばっかみたい。
ぷりぷりと怒りながらネットサーフィンしていると、偶然こういう小説を発見。1994年というから、11年前に発表されたネット配信の短編ということになる。
これを読むと、黒い魔ソフトがMacの本質をパチるなんてことがありえないことがよおくわかる。しょせん、黒い魔ソフトは黒い魔ソフトなのな。

「運動図は腐っている。いや、人間を腐らせている」

はまったく同感だけど、1994年の段階できっちりそう言いきっているのは、専門のライターさんとはいえ、立派だなあ。
こちらともどもお奨めです。


ポエムマンガに戻る / ホームに戻る