*開票後*(2010.7.12)
「願わくば私に、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ」
〜カート=ヴォネガット『スローターハウス5』〜
「また私たちがいつの日か目覚めて、結局は市民であることが消費主義よりも重要であると悟ることを期待しよう」
〜キャロール=リフキンド〜
投票結果が出ましたね。
あえて何も申しません。
選挙戦の「争点」ということで、各政党のマニュフェストの見比べればおのずと、この国における政治的課題や矛盾、山と積まれた要求や責任や解決すべき諸問題というものが浮き彫りになる、というメディアの喧伝とはうらはらに、いったん選挙戦が始まってしまえば、あらゆる欺瞞、不正が、「勝敗のゆくえ」などというずさん極まりない理由でうやむやになる、それどころか正当化されてしまうという事実。現実。
その事実を各自が自分の胸に苦く抱き、よおく考えるように!!!!
『帰ってきたウルトラマン』から『怪獣使いと少年』後編。
『ウルトラセブン』から『幻覚宇宙人メトロン星人』後編。
さて。
選挙の結果については、事前のメディア予想の範疇におさまって、驚きも喜びもなく、展望も方針もなく、ひたすらに哀切深し。とはいえ、
絶望して死ぬというわけにもいかないので、私はこれから恐怖にガタガタと震えつつ、ふて寝します。
以上。
*投票日*(2010.7.11)
「芸術とはわれわれに真理を悟らせてくれる嘘である」
〜パブロ=ピカソ〜
「愚か者の言葉にはご注意あれ! 彼は「すべての卵を一つのかごに入れることなかれ」とのたまう。「汝のお金を一ヶ所ではなく、分散しておきなさい」と言うのだ。すなわち「汝の注意も分散させなさい」と。これに対し、賢者は次のように言う。「卵はすべて、一つのかごに入れておきなさい。そして、そのかごから目を離してはいけませんよ」と」
〜マーク=トウェイン〜
結局はその銃口を自国民に向ける軍隊というものを音楽で表現して、聴く者を顔面蒼白にさせるショスタコーヴィチ『交響曲11番』第2楽章後半部分
人々が顔面蒼白になるのは、その音楽の激烈な響きにあるわけでも、そのやりきれなさにあるわけでもなくて、そこに描かれた世界が、ありありとした実感をたたえつつも、普遍的でありえたというその一点だ。
ショスタコーヴィチの音楽は普遍的であるという事実。時間の流れの淘汰を生き延び、時代を超えて、聴かれていくという
そのことに誰もが顔面蒼白になるのだ。
ショスタコーヴィチ『弦楽四重奏曲8番』
真夜中という時空間から、ショスタコーヴィチは語りかける。
「欺瞞」について、「不正」について、「施政者」について、「民衆自身」について、「平和」について、「戦争」について、「真正な社会主義」について。
タマネギの皮をむくように否定をしていき、もしも最後に残る者があるとすれば、それだけが真実だ。
「ショスタコーヴィチなんて暗いものをよく聴くねえ」などと言う人は実に多いが、聴いてわからない者に説明してもわからない。
わからないとわかっていて、それでも説明をしてしまう、わいはアホや。
(^_^;)
そして、今日は投票日です。
『気まぐれな日々』さんから、
『民主惨敗、自民も比例区で惨敗が予想される参院選』
『CLick for Anti War』さんから、
『「国会議員定数を削減して、富裕層による富裕層のための政治を実現しよう」(@∀@)』
紹介の順番は逆になったが、ショスタコーヴィチ『交響曲11番』第2楽章前半部分。
日本の現状を言うと、だいたいこのあたりか。
では、投票に行ってきます。
*夢見つつ深く植えよ*(2010.7.8)
「信じられないくらい巨大な地上の富を人類のために使うことをこそ話題にしようではないか。民衆に必要なものを与えよう。食料、医療、清浄な空気、澄んだ水、木々や草、快適な住まい、数時間の労働、それよりも多いレジャーのための時間、それに値する者がいるかどうかなど問うてはならない。人類はだれでもそういうものを受ける権利を持っているのだ」
〜ハワード=ジン『ソーホーのマルクス』〜
「デューイいわく、生産の「究極的目標」とは、商品の生産ではなく「平等な関係でお互いが結びつきあう自由な人間」の生産であるという信念である。ラッセルいわく、教育の目標とは、自由と「個人の創造性」が開花し、働く人びとが生産の道具ではなく、自分の人生の主人公になるような「自由なコミュニティの賢明な市民」の創造を促すために「支配以外の価値観を与える」ことである」
〜『チョムスキーの「アナキズム論」』〜
『たかしズム』さんから、
『日本でオランダモデルが難しい理由』
正直なところ、「基本的に日本人が「スト破り」民族だ」とは思わない。単純に自己保身の問題だ。
人間は弱いのだ。時代、民族、風習、肌の色、性別、年齢、いっさい関係がなく、人間は呆れるばかりに弱い。貧弱だ。その「人間は弱い」という認識をふまえつつ、私たちは文明というものを築き上げてきたし、また、そうでしかありえなかったろう。人間社会とは人間の生き物としての弱さの裏返しであり、共存、共有、相互依存、つまりはささえあいという生き方を試行錯誤して追及していく。それが人間だ。
それが人間なんだけれども、この逃れようのない人間の弱さに対して、イエス=キリストからカール=マルクスまで、およそ革命家というやつは人間への要求が過大すぎるのではないか。彼らの責任ではないのかもしれないが。
「何も所有するな、ドアに鍵をかけるな、献身せよ、共有せよ、与えて与えて、さらに与えよ」
なんて無茶なんだよ。
(^_^;)
そりゃあ、脱落者が続出するわ。ほんで逆恨みされんの。
難しい経済理論は脇において、マルクスの新しいところは(それまでの革命家と比べてということだけれど)、人間が人間のどうしようもない弱さを抱えたままでも可能な革命の可能性を説得力たっぷりにアジったところにある……と、個人的には思ってる、苦情大歓迎。
(;^_^ A
ともかく、だからこれは民族の問題というよりも、人間という生き物の本質的な弱さ、の問題だ。日本伝統の土着的全体主義システムと、そのシステムを完璧に運用していくための情け容赦のない冷酷さが、ただでも弱い人間の心を打ち砕いてしまう。
無慈悲きわまりない圧力と、その圧力に屈する国民の、泥の中をはいずりまわったような動きが作りだす不気味な模様。
その模様の全体を俯瞰すれば「基本的に日本人が「スト破り」民族だ」と見えるのだ。
……。
民衆革命が乗り越えるべき三つの課題を描いたギルレモ=デル=トロの傑作ファンタジー映画『パンズ・ラビリンス』
それとは知りもしないまま買収(というよりも快楽と豊かさへの抗いがたい憧れ)の誘惑に負け、結果、仲間の妖精を子喰い鬼に食べられてしまうヒロイン。
あと、これは「スト破り」以前の問題だが、この国では勉強と議論が圧倒的かつ慢性的に不足している。
上から目線でものを言っているようだが、本当のことだから仕方がない。
勉強をしない。議論をしない。わからないものはわからないままに置いておいておく時間もなければ、勉強をする余裕もない。安心して議論を交わす相手も場所もない。
そんな「美しい国造り」の努力の結果、自分たちの不勉強ぶりにアグラをかくように開き直りつつ、先手必勝とばかりにひらすら傲慢でありつづける、という奇妙な民主主義が社会のすみずみにまで定着してしまった。
『非国民通信』さんから、
『阿久根の明けない夜』
「・住民のために一所懸命やってくれている。
・税金は安くなるし、いいことしかない。
・何度リコールしても同じこと。またあの人が当選する。
と、大絶賛。少なくとも私が聞いた限りでは支持率100%だった。」
明るい未来を信じる人々のポジティブな無残さ。
さらに現実。『村瀬玲奈の秘書課広報室』さんから
『比例区議員削減で33億円節約するよりも政党助成金320億円廃止の方が効果が大きいw』
単純な理解不足、勉強不足。
そしてこれは金額だけの問題ではない。支配される側と支配する側のあいだに生まれた途方もない距離の問題なのだ。
*夢の棲む街*(2010.7.5)
「ひとたび公益の概念が失われれば、政治という舞台は商業市場と同じように、私益を競う闘いの場になる」
〜エド=デーンジェロ『公立図書館の玄関に怪獣がいる』〜
「個性や自分らしさなどは、自分にはこれではなくあれを買ったという軽度の、あるかないかの微小な差違にもとづく、形而下の出来事でしかない。そんな自分をはるかに越えた価値、つまり普遍性という形而上の出来事への加担こそ最大の生き甲斐であるはずなのに、そこから思いっきり遠いところにいるひとりの自分という種類の人が持つ最大の特徴は、自分の頭で考えられることしか考えない現状、すなわち、なにひとつ正しくは考えられないというありかただ」
〜片岡義男『自分と自分以外』〜
今回の選挙の争点の一つ、というか、民主党と自民党が競うようにして国民に胸を張って約束してみせる公約に「比例議員定数削減」がある。
自分たちの職場を失うことになる当の議員たちが「議員定数削減」を国民に強く提案すしている。
自分たちの職場の規模を限度ぎりぎりまで縮小してくれ、ぜひそうしてほしい、と国民に訴えかける議員たち。その呼びかけはいわゆる大衆の「切実な要求」と完全に合致している、と考える国民はかなりの数になるようだ。
つまり、議員たち自身による「議員定数削減」の呼びかけは、すでに「市民要求」だ。
細かい話はすべて脇に置いておくとしても、「私たちの職場を奪ってくれ」「私たちを路頭に迷わしてくれ」と国民に強く訴える議員、政党、政府といったものを前にして、いかがわしさや奇妙さ、得体のしれなさ、うさんくささといったものを日本の国民は感じたりはしないのか。
『非国民通信』さんから、
『議員を減らしたところで』
ざっくりと本質的なことだけを述べるとすれば、結局のところ、
ここで削減されるのは「少数の者たちの代表」「小さき声の代弁者」ということだ。
「少数の者たちの代表」「小さき声の代弁者」は、まさしく文字通り、声の大きさの面でも数の上でも劣勢なのだから、当選のハードルを高くすれば、まったく太刀打ちが出来なくなる。別の言い方をすれば、「国会」というものを金で買える範疇に縮小する、ということだ。
しかし、多数決と民主主義がイコールで結ばれているこの世界で、「小さき声」などというものはハナから聞くに値しない、むしろ「市民的要求」に対する「抵抗勢力」として、ざっくりと切り捨てられるべきものだ、という認識が社会全体にがっちりと根づいて、疑問を感じる余地すらない。
市民的要求とやらに支えられ、一部の“選ばれた者たち”による専制政治がいよいよその全貌をあらわにしようとしている。
これがこの国に訪れた「大衆の勝利」だ。
『Afternoon Cafe』さんから
『騙される側の論理〜議員定数削減について』
そして何という喜劇、あなたはもう“多数派”ですらない。自らを排除しようと駆けずり回るファンタジーの、ディティールの一部でしかない。
繰り返し言う、これは喜劇だ。
誰もが「連帯した社会で暮す価値」を信じているというのにもかかわらず、
金でやり取りする議会制民主主義システムの確立と成長、などというものが国民的要求となりうる、
という事態が、喜劇でなくてなんだというのだろう。
民主主義への重大な驚異に対して、無知、無防備、無頓着すぎるのだ。
*サムライ動物園*(2010.7.2)
「どっちみち記録された歴史はおおかた嘘だ、というのが流行であることは私も知っている。歴史がたいてい不正確で偏向のあることは私も信じるにやぶさかでないが、われわれの時代に独特なことは、歴史が正しく書かれ“うる”という考えそのものが放棄されたことである」
〜ジョージ=オーウェル『スペイン戦争回顧』〜
「あなたは研究室で強大な力を創造したあとで、人類にこの力が悪用されるのを平然とながめ、このようにいう、《わたしは政治から離れている》」
〜 アリアドーナ=グロモワ『自己との決闘』〜
チリがブラジルに3点取られて完敗した時点で、私にとってのワールドカップは実質上終了。
あとはまったりとスペインを追いかけようと思う。
というわけで、私にとってのワールドカップは終わったわけだが、見過ごせないことがひとつ。
イビツァ=オシムさんは、例の日本VSパラグアイ戦のコメントで、“侍のように勇ましく戦うべきだった”と言ったのか。
“カミカゼのように勇敢であれ”と言ったのか。
『オシムの伝言』ブログから。
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「選手がカミカゼになれなんて誰も要求はしない。ここではプレーする必要があるだけだ。そして自分を信じる必要がある」
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が真相だそうだ。
ちなみに、神風特攻隊は勇気や勇敢さとは何の関係もない。
日本伝統の国民相互監視システムと軍事抑圧恐怖政治に大衆が屈した社会の、どんづまりの光景が、神風特攻隊だ。
社会のすみずみまでがとことんクローズドで、だから未来も逃げ場もどこにもないという陰鬱さ、陰惨さ、さらにプラスしてグロテスクな虚栄心というものが限界まで積み重なって一挙に瓦解した、という状況が生みだした異様な光景だ。
勇敢さというよりも、これは集団ヒステリーだ。
「国家ぐるみの自暴自棄」と奇妙な「人命軽視の追及」の結果を、正面から引き受けざるを得ないという立場に立たされた若者たちが、押しだされるトコロテンのように、戦略的にもまったく無意味な自爆攻撃へと駆り出されていった。
勇気について言えば、あの時代に戦争に反対した多くの名のない人々の側にこそある。
……とまあ、どうしてこんな言わずもがなの興ざめな話をするのかというと、こういう馬鹿がここぞとばかりに湧いて出て、あろうことかテレビの前でムザンな御託を披歴するからだ。
『勝谷誠彦様の華麗なる脳みそ』さんから、『学習して修正しないでくれよ』
うわあ。
カミカゼが吹くDNAとか、どんだけー!
おまけ。
きょうのオシムと世界標準 オシムの言葉「日本Xパラグアイ」完全収録
私にとっては、実際の試合よりもオシムさんの話の方が面白い。
*高い城の男*(2010.6.29)
「現代において知的自由の理念は二方面からの攻撃にさらされている。一方はその理念的な敵、すなわち全体主義の弁護者であり、もう一方はその直接的実際的な敵、つまり独占と官僚体制である。誠実を保持したいと望む作家やジャーナリストは、だれかれを問わず積極的な迫害、というよりはむしろ社会の趨勢によってくじかれている」
〜ジョージ=オーウェル『文学の禁圧』〜
「この小説には、性格らしい性格をもつ人物はほとんど現れないし、劇的な対決も皆無に近い。というのは、ここに登場する人々の大部分が病んでおり、また得体の知れぬ巨大な力に翻弄される無気力な人形にすぎないからである」
〜カート=ヴォネガット『スローターハウス5』〜
カン首相から沖縄県民に、「陳謝」と「感謝の言葉」が贈られた。
「米軍基地には出ていってほしい」「米軍基地は作らせない」という沖縄県民の圧倒的多数の声を一刀両断に切り捨てる言葉として、今回選ばれたのが「感謝」だ。
「米軍基地“移設”」の議論の場に、沖縄県民はいっさい関わることは許されず、分厚い壁の外側から内側に向かって彼らは声をあげ続けるしかない。そのような人たちに対して、壁の内側の人々が、
「それは、それは! さぞかしご苦労なさってきたことでしょう!」
と陳謝した。陳謝ののち、沖縄県民の身にこれからも続く「ご苦労」に、ご苦労をお掛けする側が「お礼」を申し上げた。
ごめん、すまん、ありがとう、というわけだ。
しかしこの、ごめん、すまん、ありがとう、という言葉は、けっして沖縄県民に届けられた言葉ではないだろう。なぜなら、沖縄県民は「ゴメン」も「すまん」も「ありがとう」も要求していないし、必要ともしていないし、受け入れないことをこれまで一貫して表明しているからだ。
だから日本政府の「ごめん、すまん、ありがとう」は、沖縄県民人に対しての発言のように見えて、実は“沖縄県民を除いた”日本国民に向けて発せられる、ある種のポーズにしかなりえていない。
日本政府から沖縄県民への“かなり譲歩した”“納得できるほど低姿勢な”コミットぶり、というポーズだ。
では沖縄県民の側から眺めればどうなるのか。
日本政府が発し続ける「感謝」「陳謝」「お礼」「お詫び」「率直」「誠実」「お願い」という言葉の中心を貫いているのは、
「鉄のよそよそしさ」という基本姿勢であり、「あなたたちは参加することすらできないんですよ」というゼスチャーだ。
そのような息を飲むばかりのよそよそしさを、沖縄県民が手の届かない高い場所からメディアを通じて、まさにじゅうたん爆撃のように日本中に振りまいていく。
「全国民を代表してお詫び申し上げる」
「(負担)軽減と危険性の除去にいっそう真剣に取り組んでいくことを約束せていただく」
沖縄県民がいつ「お詫び」なとどいうものを要求し、いつそんな「約束」を交わしたというのか。
沖縄県民の要求とは、まずは、「自分たちが議論の場に立つこと」だ。それが実現しないかぎり何も始まらない、というのが、私が理解するところの沖縄県民の姿勢だ。
もちろん、と言うべきか、当然、と言うべきか、沖縄県民の要求というものは、完全に無視される。
政府からもメディアからも。
「精いっぱい努力してみたのですが、あれなんですよ、あれ、沖縄県民に選択の余地などこれっぽっちもないのですよ」と悲しそうな顔をして近づき、丸くなった肩や背中をポンポンと叩き、
「なにか困ったことがあったら、なんでも言ってくださいね。できうるかぎりのことはしますから」
と慰めてくれる。
いわゆる「友愛」というやつだ。
まったく、たちの悪い冗談のような世界。
おまけ。
『デモクラシーナウ ジャパン』から、奇怪な寓話のような実話。昔々と言ってもそれほど昔ではない1920年代の出来事だ。
『「フォードランディア」失われたジャングル都市の盛衰』
「世界一の大富豪だった自動車王ヘンリー=フォードが、ブラジルのアマゾン奥地にゴム園を開き、アメリカ中西部の企業城下町を再現しようとした」のだが……。
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「フォード主義」は、工場の労働者に高い賃金を支払い、それによって彼らが自分の作った製品(自動車)を買うことのできるようにして、製品の消費者を創出し市場を拡大していくという考え方です。かつてはこれが、米国の資本主義の中心教義でした。組み立てライン方式も彼の発明ですが、これは労働の民主化をもたらすどころか、単純化と服務規定の厳格化を招くことになりました。工業社会に抱いた彼の理想は、資本主義のむき出しの力によって裏切られ、それを埋め合わせるためにブラジルのユートピア都市の経営はますます理想主義に走り……。
==========================
90年前の物語は色あせて、そこにいた人々のなまなましい苦しみや悲しみは適度に抜け落ち、苦い教訓となる。
*基準の提案*(2010.6.27)
「アメリカには民主主義について独特の考え方があります。それは「アメリカの言う通りにしなさい」というものです。アメリカの言う通りにする国は民主的であるか、民主的であるとみなされますが、自国民の望む政治をする国は、民主的ではないのです。一般の人々がこのことに気づかないのは、恐ろしいことです」
〜ノーム=チョムスキー『チョムスキー、アメリカを叱る』〜
「いやだ。おれは民衆を信じている。おれは虎になり果てるまでは、民衆の一員だった」
〜アルフレッド=ベスター『虎よ、虎よ!』〜
ワールドカップは、想像を絶するひどい内容が続き、もはや個人的には「なぜどのゲームもどのチームもこうもひどいのか」、というところに興味が移っている状況だ。なにか理由があるとしたら、ぜひ知りたい。
ワールドカップだ、相撲界の不祥事だとメディアがやいやい騒いでいる場合では、実はないのだ。投票日もすぐそこに迫ってきた。
『村瀬玲奈の秘書広報室』さんから
『候補者を見分ける基準の提案』
シンプルかつ、納得できる有用な基準だ。
じゃあ私も、別ベクトルから『選挙投票に関する基準の提案』を。
心から真剣な気持ちで言うんだが、投票は遊びじゃないぜ、映画『ラスト・キング・オブ・スコットランド』
あなたが真剣だとしよう。
では、なんのために投票するのか。『フローズンリバー』
日本人って、政治っていうか世界を↓こんなふう↓にながめてるんじゃないか。
だから、「劇場選挙」ののちに、すべてがホラーとなる。
ワールドカップその後。
オシムさんのワールドカップ評が読めるブログを発見した。なんだよ、早く知りたかったよ。
『オシムの伝言公式ブログ』
オシムさん、やっぱ、すげえね。
スペイン対ホンジェラス戦など、実に読ませます。ワールドカップ鑑賞のための基準ができた。
*富める者貧しき者*(2010.6.24)
「彼らには相手の立場でものを考える能力が全く欠けている 」
〜藤子=F=不二雄『ミノタウロスの皿』〜
「およそ20億人もの人々が一日二ドル未満の生活に追いやられているというのに、資本主義的消費文化のあざけるような世界、金融サービスで稼ぎ出される膨大なボーナス、新自由主義化と民営化と個人責任の開放的な潜在力をうんぬんする自己満足的な議論は、残酷な冗談としか思えない。貧しい中国農村部から豊かなアメリカにいたるまで、医療保障が失われ、あらゆる種類の受益者負担がますます押しつけられることによって、貧しい者たちの経済的負担はいちじるしく増大している」
〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜
こうなることは最初からわかっていたのだが、我が国の政府は、去年「消費税は(4年間はボソッ)あげません!」と約束したものを、今年になってホゴにした。
この危機的状況のただ中にあっては消費税増税に踏み切るしかない、超党派による議論によって、消費税増税のタブーを打ち破る、のだそうだ。
「超党派による議論」とは何か。
彼らの文脈ではそれは、国の行く末とも民主主義とも何の関係もなく、とどのつまりは、
「持てる者たちによる○○の独占」
というような程度のことだ。
○の中にはなんでも入る。
税制でも教育でも議論そのものでもいい。
大量生産を支えるための大量消費、というのが我々の日常の大前提だから、商品を購入しないかぎり、あなたはどのような議論にも加われない。それどころか、ある一線を下回ると、クモの糸にしがみついたカンダタのように、冷酷に“仕分けられる”運命だ。
「隣の一人暮らしのおばあちゃんをアパートから蹴り出す」
と聞くと良心がうずくが、“仕分け作業”と言い換えただけでそれは単なる数字になる。
無駄の度合いを表した数字だ。
では、住む家を失った隣のおばあちゃんの痛みや苦しみの度合いは、誰が測るのか。
それも「持てる者たち」が測るのである。
かなり限定的にしか商品を購入することができない隣のおばあちゃんは、テレビカメラの前で嘆いて見せることができたら幸運で、それも数字に換言されてそれっきりだ。
病人、子ども、お年寄り、貧乏人たちが、無駄の度合いを測ったグラフの山線、谷線を形作る。
身寄りのないお年寄りたちがどうなってもかまわない、医療費を払えない病人など知ったことではない、という腐った根性を身の内に抱えて初めて必要となってくるたぐいのグラフだ。
そして、雲の上では、国民に平気で嘘をつく、仲間に対してとことん冷酷になれるという実績を積み重ねることによって政府や経済の指導部の地位にまでのぼりつめた連中が、いつもながらのその才能を存分に発揮しつづける。
他人に対してどこまで冷酷になれるか、そこまではいわないまでも、どこまでよそよそしくふるまえるか。そんなことが日本の建て直しの鍵なのだと政府、メディア、国民が一体となって問い続けて、その問いの先にあるだろう、美しく清潔な国などというものを今日も夢見る。
おまけ。
中国絡みの話題をふたつ。
まずは、鬼畜系ブログ『郊外のカナリアもさっき死にました』さんから
『労働者が高賃金やましな待遇を求めることは、多国籍企業が安い賃金で儲けるためのビジネスモデルにとって、そしてそれを善とするマスコミにとって『罪悪』なのです(嘲)』
==========================
「中南米のチンケな国なら金にもの言わせてアメリカ言いなりの軍事独裁政権を作るのも簡単だろうけど、中国相手だとちょっとシンドイだろうな(嘲)
でも、中国の労働者も安心できないぜ。今、アメリカが稼がないと中国が困るからな。スト制圧のために人民解放軍が出動するような冗談みたいな事態もあり得なくない(嘲)」
==========================
「スト制圧のために“人民解放”軍が出動するような冗談みたいな事態」のまっただなかに我々は立っている。文字通り、まっただなかに、だ。
(^_^;)
……いや、念のために言っておくけど、中国の人民解放軍が日本に攻めてくるとかいう妄想を語ってるのとは違うからね。見えない鎖と壁、つまり、新自由主義のイデオロギーとその思想が形作った新しい階級制度のことだかんね。
マンガで例えると、つまり、『嫌韓流』じゃなくて『カムイ伝』すから。よけいわからんか。
(^_^;)
では、かの広大な中国の大地に思いをはせたあとは、そこから日本という国を振り返ってみる。
『非国民通信』さんから
『日本とは対照的』
ううむ。
気づいたら、中南米諸国にはすでに遠く置き去りにされた。中国の後ろ姿が見えなくなるのももう時間の問題だろう。
ワールドカップ
本当に無残な内容が続くワールドカップ。私のようなシロウトがそう感じるのだから、オシムさんは今ごろテレビの前で苦虫をつぶしていることだろう。
これまで私が見てきたなかでは、チリに好感がもてた。
スター選手はひとりもいないが、状況にいっさい関係なく猛然と攻めまくるスタイルには、ある意味、度肝を抜かれた。負けないことを優先してこちらもあちらもポジションを崩そうとしない退屈なゲームばかりが続く今大会の中で、異彩を放っている。
ビエルサ監督、さすがだ。あんたはえらい。
内容のないワールドカップのなかで、私はチリを応援することにします。
*オレンジ美女商標軍団のたそがれ*(2010.6.21)
「企業が人間に持たせたいと願う理想的な自己意識や価値観は、“自分は一体、いくつの企業によってつくられたニーズを満たせるのか”、“そんなニーズを追求するために、どこまで借金できるのか”と問う人間です」
〜ノーム=チョムスキー〜
「彼らに言わせると、スタイル・サイクルには終わりがない。肉体であれ精神であれ、植民地化する新しい空間はいつもある。そして、つねに消費者の皮肉主義を打ち破る広告は可能だとする。「別に新しくもないよね」とハンターたちは囁きあう。マーケッターはいつも反抗運動からシンボルや言葉をかすめ取ってきたのだから」
〜ナオミ=クライン『ブランドなんかいらない』〜
入院している父親のためにスポーツ新聞を購入したのだが、ワールドカップ一色の紙面の片隅に、このような記事が掲載さえれていた。
6月17日の日刊スポーツだ。
『オレンジ美女集団で観戦』
==========================
「オレンジ美女軍団が出現! オレンジのドレスを着た美女30人以上が、14日のE組オランダ-デンマーク戦を観戦し、問題となっている。オレンジの服にはオランダのビール会社の名前が入っており違法な広告活動と見なされ、美女たちはFIFAから事情聴取を求められた」
==========================
私が恐怖を感じるのは、この「オレンジ美女軍団」の広告活動が違法か適法か、広告活動などではないと言い逃れることが可能かどうか、という部分ではない。
倫理やモラルの圧倒的欠如、そのことが恐ろしい。
ところが、
「いったいこれの何が恐ろしいのですか?」
という人は多いのかもしれないな。
『愛と苦悩の日記』さんから
『AKB48総選挙は秋元康による若年層の搾取である』
無惨さ極まって、これはホラーだ。ジョージ=A=ロメロの世界だ。
もう人間とすら呼べない。
*ワールドカップでバンザイ*(2010.6.18)
「肉でも魚でもない」
〜イビツァ=オシム〜
「彼は頭がよすぎる。物事が見えすぎるし、ずけずけ物を言いすぎる。党はこういった人間を好まない。いつの日か彼の姿は見えなくなるであろう。そのように彼の顔に書いてある」
〜ジョージ=オーウェル『1984年』〜
ワールドカップが始まっている。
イビツァ=オシムがいないワールドカップの悲しさに、テレビをただぼんやりと眺めていただけだったのだが、運動量の極端に少ないチーム、それから、トラップ&キックの基本的な技術に問題を抱えるチーム、がぞろぞろと出てくるのに非常に驚いた。
この場合の驚きとは、
こんなはずではなかろうという戸惑い
と、激しい失望だ。
コーナーキックやフリーキックを観客席に打ち込む、なんてのはまあ「力んだんだな」で納得できるのだが、簡単なボールを後ろにはじくゴールキーパーや、目測をあやまったり、ボールを止めそこねてサイドに流してしまうフィールドプレイヤーが異様に多いことに嫌でも気がつく。
このキーパーがボールをファンブルすれば、あのキーパーは野球で言うところのトンネルをやらかす、いくらなんでもレヴェル的にそんなことがあるはずがない。
何ゲームかを続けて観ているうちに、これはもしかしたら、フィールドの芝か、ボールに問題があるのではないか、と疑っていたら、テレビで「軌道がぶれる公式球」のことを話題にしていた。
軌道がぶれる、それから、バウンドが予測しづらいボールが使用されている、というのだ。
そんなわけだから、トラップミス、キックミス、野球用語で言うバンザイやトンネルが頻出するのもしかたがない、ということらしい。
こんなボールをわざわざ新開発して、ワールドカップの舞台で使用することにどんな利点があるのか、私にはさっぱりわからないが、エラーの多さに加え、このぶんでは、フリーキックが直接ゴールに吸い込まれるといったシーンは、前回大会に比べて激減するのではないか。狙い通りのキックが極めて難しい状態だからだ。
技術の優れた選手の技術が活かしきれない、攻撃に人数を割いて華麗なパスサッカーをねらってもエラー率が高くて思い通りの展開が難しい、となってくると、守備に偏重したチームが有利となってくる。
日本にとってありがたい状況なわけだが実に無念だ。
そのような事情をふまえてなのか負けることを恐れてなのか、90分間ポジションをほとんどくずさないチームがまた多くて、かなり残念だ。
ちなみに私は、イビツァ=オシムにつばを吐きかけるようなまねをした日本サッカー協会を個人的に憎んでいるので、日本代表チームを力いっぱい(以下略)。
(^_^;)
イビツァ=オシムとのアドバイザー契約を打ち切ったのはいい(いや、本当はよくないけどな)。イビツァ=オシムがそこにいてくれることの素晴らしさがわからんというのなら、それは仕方がない。
なぜ彼との契約を打ち切っておいて、別の誰かに声をかけたのか。
オシムを侮辱する目的でやってんの?
いやいや、おそらくは商業的な理由からだろうは思うが。……こういう連中には天罰下るべし。
(^_^;)
かなりクサイ言い方になるけれど、フットボールの世界の枠を超えて偉大で、貴重で、あまりにも貴重な存在であるという意味において人類の宝物と言ってもいい彼に対して、どうしてこういう振舞いができるのか。
いやいや、こういう振舞いが平気でできるからこそ、人の上に立つことができる。
サッカーも政府も同じことだ。
未来に対して盲目であるのと同時に仲間に対して冷酷になれるという才能を発揮し、そうした実績を積み上げることによって、ピラミッドの頂点へと一段ずつのぼっていく。
おまけ。
『クロアチア・サッカーニュース』さんから
『クロアチア紙におけるオシムのインタビュー/南アフリカ・ワールドカップを語る』
※日本対カメルーンは日本勝ち。内容が悪い上に後味まで悪い試合をしたカメルーンを恨みます。本当にひどかった。あんなの、サッカーじゃないよ。
あと、スペインが初戦負けたのもがっかりだ。
スペインのボールを引きだす動きとそこに出し切る技術にはほれぼれしたものの、結果は負け。対戦相手のスイスもまた自分たちのできうることを次元の高いところで出し切っていたので、後味悪いということはないけど、個人的には残念です。
*最近買った本・マンガ・DVD*(2010.6.15)
「多くの活動に金銭が導入されると、活動それ自体を楽しむ機会が減っていく。加えて、金銭が結果的にあらゆる活動の目標であるのなら、人生は、金のないものにとってはむなしいものになる。残された場所はほとんどないのである。お金のないことが、人生の失敗を示すはっきりとした指標になっている」
〜『人が人を裁くとき』ニルス=クリスティ〜
「民主主義は理性的な熟議を必要とする。とはいえ市民が相互に熟考でき、抽象的な説得ができるのは、言葉を用いる場合に限る。理性的な熟議を欠いても、消費者としての選択は可能である。しかしそこに民主主義は存在しえない。公立図書館はこうした病理にたいして明白な救済を提供する。しかし政府がよりよい顧客サービスの提供を好み、民主主義のための市民教育という責任を捨てたとき、公立図書館もポストモダンの情報経済の魔手に落ちる」
〜エド=デーンジェロ『公立図書館の玄関に怪獣がいる ポストモダンの消費資本主義は、どのようにして民主主義、市民教育、公益を脅かしているのか』〜
「SFのSは素敵のS〜♪ SFのFは不滅のF〜♪」
〜『今日の早川さん』ドラマCD〜
マイケル=ムーア監督の『キャピタリズム:マネーは踊る』のDVDが出た。
「資本主義は悪である」
というのが、この映画の主張だ。ブラボー。
実際のところ、資本主義と社会主義の比較などウンコとカレーを比較しているようなもので、こんな明々白々なことを議論することすらばからしいというのは事実だが、タブーを恐れずこういう映画を世に問う、そのガッツは本当に素晴らしい。
……なんか私、変なことを言ってます?
(;^-^ゞ
資本主義システムなど、一分一秒でも早く廃止すべし。
議論するに値する論点、それは
「貨幣は悪である」
これだ。
……いや、本気にしなくてもいいよ。今から100年先くらいにみんなで考えようや。
そのときまで人類が存続してたらね。
-☆--
映画一家、の末っ子、ハナ=マフマルバフの『子供の情景』もDVD化。
お金を出して鑑賞する価値のある数少ない映画作品のうちのひとつだから、DVDを所有しておく。
この映画は去年の夏、奈良映画なんとかというイベントで上映されたのだが、、例によって
「暗い」
「なにがどうだか、よくわからなった」
という感想を抱いたひとが、私の周囲に何人もいた。
「泣ける映画だと思っていた」のに「泣けなかった」それは「私にとって深い失望だ」、というお決まりの声も聞いた。
とりたてて難しい場面などひとつもないはずだし、この映画が「暗い」のだとして、「明るい」「暗い」という基準で映画を評価しなければならない理由もないはずだ、などと言ってみてもどうにもならない。
彼らは感動を消費しに映画館に足を運んでいるのであって、他の理由など想像も出来ない。なら、仕方がないではないか。
-☆--
連載が続けられるほど読者が集まらなかった、だから最終回となった、という悲しい結末の結果として、SFマンガ『ベントラーベントラー』3巻が出た。
最終巻だ。
巻末に、描下ろしのマンガがついている。
これが実に素晴らしい出来栄えで、静かな感動に、そっとページを閉じることができた。
奇をてらったところは何ひとつないのだけれど、「存在すること」の途方もない広大さを、人間的なせつなさにクロスオーバーさせて、こういうのはなかなか読めない。
ちなみに、この短編のタイトルは『夢見る人造人間』だ。
願いもしないままこの地球を訪れ、ほんのいっとき駆けずり回り、その理由もわからないまま去っていく身として、この作品のすべてに共感をせずにはいられない。
-☆--
村上かつらセンセの『淀川ベルトコンベア・ガール』の1巻が発売されたので、購入。
「女性のつらさ」をディテール豊かに描くことのできる漫画家さんで、私としては「そっちの方面」にもっと意識的に進んでもらいたい、という気持はある。
村上かつらセンセについては、もう何度も同じことを書いてきた。
アン=タイラーの『ブリージング・レッスン』やデイヴィッド=レーヴィットの『ファミリーダンシング』の次元まで、きっと辿り着ける。
「ちょっと良い話を描く人」、「そこはかとないエロティシズム描写に真価を発揮する人」などという評価は、完全に間違っている。
-☆--
ネット書店Amazonで調べたら、アン=タイラーの『ブリージング・レッスン』もデイヴィッド=レーヴィットの『ファミリーダンシング』もとうに
絶版になっていた。
ネット古書店で、『ブリージング・レッスン』が50円、『ファミリーダンシング』が60円だ。
村上かつらセンセの短編マンガを読んで、「そこはかとないエロティシズム描写に真価を発揮する人」などと言い出す人がむしろ多数派なのだから、『ブリージング・レッスン』も当然のように絶版だ。
-☆--
『今日の早川さん』ドラマCDなるものを購入してしまった。
SFとファンタジー小説が好きな早川量子さん、ホラー好きの帆掛舟さん、純文学好きの岩波文子さん、ライトノヴェル好きの富士見延流さん、希少本マニアの国生寛子さん、の5人キャラクターが繰り広げる本好き人間コメディーだ。
「どうしてみんな、もっとSFを読まないのか」
という早川量子さんの憤りに対して、私は、強烈なシンパシーを感じる。
そのシンパシーに押しだされる形で、ドラマCDに手を出したというわけだ。
--☆---
最近購入した本リスト。
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・『人が人を裁くとき 裁判員のための修復的司法入門』
・『未来医師』(SF)
・雑誌『MacFan』
・雑誌『将棋世界』
・雑誌『ナンバー』(オシムインタビュー)
・漫画『アラベスク新装版3』
・漫画『アラベスク新装版4』
・漫画『ベントラーベントラー3』
・漫画『ベルトコンベアーガール1』
・漫画『いぬばか22』
・漫画『出前姫』
・漫画『野田ともうします』
・DVD『キャピタリズム:マネーは踊る』
・DVD『子供の情景』
・CD『今日の早川さん ドラマCD』
*ハワード=ジンの追悼番組*(2010.6.12)
「ようするにクリントンは、従前の大統領とまったく同じだったのだ。民主党出身であれ共和党出身であれ大統領はみな、権力の座にとどまる手段として、国民一般の怒りの矛先を、自分の主張を口に出せないグループへと向けさせてきた。そのグループとは、犯罪者、移民、社会福祉を受けている人たち、あるいはイラクや共産主義のキューバのような、アメリカ合衆国に敵対的な外国だ」
〜ハワード=ジン『学校では教えてくれないアメリカの歴史』〜
「「われ買う、ゆえにわれあり」という信条と所有者的個人主義とが一体になって、表面上は刺激的だが奥底では空虚な、偽りの満足の世界をつくり出している」
〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜
ハトヤマからカンに首相の首がすげ替えられて、支持率が3倍増しになったとか。ハハハ。
ほんで、支持率急上昇の新政権がとりくむ課題は「法人税の減税と消費税増税」なんだってよ。ハハハのハ。
(^_^;)
肝心の政策は、
コイズミ時代と何も変わらない
……何も変わらないどころか、時間線を遡って、レーガンの亡霊であるかのような「未来への展望」を語る、“左翼政権(byアソウ、イシハラ)”の誕生とあいなった。
よりによって、レーガン!
こんなのが左翼なら、ワシ、今日を限りに左翼と縁を切るわ。
(;^-^ゞ
民主党政権は、モノの見事にかっての自民党と区別がつかなくなった。
実は最初から質的な違いなど何もなく、選挙の票集めのために、その場限りの調子のよい戯れ言で争点とやらを作りだしていたにすぎなかった。
果たされない約束に国民がイラつきだすのに3ヵ月、首相の首が飛ぶのにだいたい8カ月だ。
しかしそれでも、過去の総括も未来への指針もないから、国民はどこまでもいつまでも、ひたすら、新しい何か、にすがるしかない。
三ヵ月経てばきっとまた「騙された、失望した」と騒ぐことになるだろう。
しかし、まあ、「法人税減税と消費税増税」で「強い経済」「強い国家」そして、聞いて驚け「強い社会保障の実現に意欲」とか、
笑い死にしそうになったよ、さすがに。
累進課税の強化ではなくて、消費税の増税で強い社会保障を実現すんの? ホー。つーか、強い社会保障ってどんなだよ。まー「強い社会保障」とやらのパッケージの中味はなんとなーく想像できる。貧乏人を蹴りだすときの足の振り上げが「強い」つー……。
「法人税減税と消費税増税」で「強い社会保障」って、レーガンだってここまで狂った発言はなかったはずだ。ただ、
社会保障を人権の問題としてではなく“福祉”産業ととらえて、それでなんの疑問も抱かない人としてのありようが、レーガンとくりそつ。
老人介護で目を見張るような利潤が出るわけがない。よって事業仕分けで切り捨てだ。みんなで強い社会保障とめざそうぜ!
度し難い不勉強さと、不勉強という状態にあぐらをかくことで可能となる奇妙な傲慢さ。
「言葉というものを徹底的に軽視する」という国民全体の努力の結果として、今の日本という国がある。こう書くとえらそうだが、もちろん、私を含めての話だ。
--☆---
注目すべき人々との出会い。その1。
『デモクラシーナウ ジャパン』にハワード=ジンの追悼番組が日本語字幕つきで登場だ。
『歴史家ハワード・ジン(1922-2010)追悼 ノーム・チョムスキー、アリス・ウォーカー、ナオミ・クライン、アンソニー・アーノーブ』
ぜひ、見てみてほしい。
注目すべき人々との出会い。その2。
『デモクラシーナウ ジャパン』から
『女性メディア基金 2009年の生涯功労賞をアミラ・ハスに』
アミラ=ハスは、受賞スピーチで
「生涯功労賞をいただきましたが、私の場合、明らかな失敗でした、生涯失敗賞です」
と語たった。
その理由を、ぜひ動画でたしかめてください。日本語字幕つき。
*あなたの人生の物語*(2010.6.4)
「きみたちは、労働の動機は経済的なものだと考えているね、金が入り用だからとか、利益を上げたいからとか。しかし金がないところでは、真の動機はもっとはっきりしているだろう。人々は好きで物事をするんだ。(略)つまるところ労働の目的は労働だ。それは人生の尽きぬ喜びだ」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
「お金と消費が人生の目的だと独裁者が叫んでいるわけではない。しかし、そう考えられている。独裁者のための大々的なショーやパレードが行われたり、軍隊音楽が流れるわけではない。しかし、我々の時代は成功者の時代だ。彼らがどのような生活をし、どうして成功したのかが世間に流布される。成功できないのは恥だ。このメッセージを広めることにかけては、今日の株式業界は、過去の全体主義的独裁政権のプロパガンダよりも、おそらくはるかに有能である」
〜『人が人を裁くとき』ニルス=クリスティ〜
ときおり、東京で暮していたころのことをふと思い出す。
家賃を払えずにアパートのドアに板を打ち付けられ、住所を失ったため携帯電話も契約できず、電話連絡の手段を失ったため仕事を失った同僚の顔。和菓子職人を目指して上京し、好きな異性が出来、どのような顛末からか小室哲哉の元で音楽の仕事をし、着ぐるみショーの世界にのめり込み、そうした時間の流れの中で、懸命に生きているにも関わらず、様々なものを失っていった。
様々なものを失っていく過程のどこかで、「見捨てられる」というような形で彼女と別れたのだそうだ。
そのときですら、彼女にとっての彼は「失えるものは失った状態の人間だった」という意味のことを彼は私に語った。
「そのときですら」と彼は言ったのだ。
……え、何の話かって?
価値についての話だよ。
昔の職場の同僚がつけていた時間の狂ったボロボロの女物の腕時計のことも、思い出す。
彼以外の者にとっては、どこからどうみても商取引の対象になりえない、無価値以下のただのゴミだが、あの腕時計は、彼の母親の形見だった。
……え、何の話かって?
やっぱり価値についての話だよ。
例えば居酒屋などで、彼の腕に巻き付いているその腕時計を見た事情を知らない連中が、
「そんなもの捨てちまえよ」
「チュウガッコんときの彼女からもらったの?」
などとからかうのだが、彼はその言葉を待ってましたとばかりに、
「おふくろの形見なんだよ」
と言う。とたんに場がシンとなる。
私が忘れられないのは、「おふくろの形見なんだよ」と言うときの、挑戦的で不敵な笑い、眼の輝きだ。
居酒屋の店内にひびく彼の笑い声を文字に起すなら、カタカタ表記で
「ギャハハッ!」
となるだろうか。
……え、何の話かさっぱりわからないって? 心の復讐とそのディティールだよ。
じゃあ、これがどういう意味かわかるかね、未来少年。
『非国民通信』さんから、子持ち女性社員の優遇が許せない!という独身女性社員たちのご紹介。
「営業だけ会議で遅くなるのは不公平。管理部門も全員参加して欲しい。一部の社員だけ早く帰るのは納得できない」
だそうだ。
あまりの無残さに、言葉を失うよ。
おまけ。
日本の歴代総理とアメリカの歴代大統領の共通点とはなにか。
答え。公然と嘘をつくこと。
バラク=オバマの「核兵器廃絶への道程」リアルバージョン!
☆核拡散防止条約(NPT)最終合意の裏で、オバマ大統領がイスラエルのネタニヤフ首相に「NPTのいかなる決定もイスラエルの戦略を阻害させない」と無条件に保障するとの約束を交わしたとイスラエル紙報道。☆
「よこしま」という言葉の、絶妙な具体例だ。
おまけ2。
ああ、鳩山がやめるそうだね。
「果たされない約束劇場」に人々が飛びついて。夢中になって傷ついて途方に暮れて破綻して。最後に激怒して。操り人形ハトヤマは、詐欺行為の広告塔として、調子のいい戯れ言を国民に振りまくという仕事をギリギリまで果たした挙句、首相どころか政界そのものから引退することとなった。
国民にどこまでも嘘を押し通す、という仕事に従事した結果、だ。国民をだまし続ける、という過酷な仕事を引き継ぐのは、いったい誰なのか。テレビも新聞もその話題で持ち切りだ。
そして日本の国民はといえば、毎度、毎度、毎度、毎度、毎度、公然と嘘をつかれて、毎度、毎度、毎度、毎度、毎度、その嘘にひっかかる。
いつまでたっても、生まれたての子鹿のように無垢なまま、同じ手口でカモられる。
公約破りの常習犯が、私たちに向かって調子のいいホラをふくたびごとに、ほいほいとのっかるのはなぜなんだ? 私にわからないのは、そこだ。
コイズミに騙された、アベ、フクダ、アソウにも期待しては失望した、そしてどうなるかというと、ハトヤマにもいっぱい喰ったと泣きくずれる。
101回目の改革詐欺。こちらが事情に疎いと見ると連中はトコトン嘘をつき続ける、という日々の体験から、なんらかの教訓を得てはいけないわけ?
で、今度は「何劇場」で踊るの?
(^_^;)
「みんなの劇場」? いやもしかして「幸福実現劇場」につっぱしってたりな!
*紙のプールで泳ぐ*(2010.6.1)
「人間は創造する動物として生まれついている。しかし、仕事は様々な形で奪われる。もっとも危険なのは給料である。それは仕事そのものから注意をそらせてしまう。中心になるものはもはや仕事ではなく、そこから稼ぐお金になってしまう。仕事は何か他のものの手段になり、活動は何かを創造するためではなく、他のものを得るための手段になってしまう。その別のものとは金銭の報酬である。子供にお金を与えて木の上に小屋を作らせてみよう。すぐにやめてしまうだろう」
〜『人が人を裁くとき』ニルス=クリスティ〜
「ゲオルク=ジンメルは正しかった。金銭が人間関係の敵だと指摘したからである。「お金は他者との絆を断ち切るだけではなく、自分自身の所有物との絆も切ってしまう」お金はよそよそしさの象徴である」
〜『人が人を裁くとき』ニルス=クリスティ〜
中国が市場を開放してからそれなりの月日が経った。
どの立場に立ったとしても、どのような視点から眺めてみたとしても、中国という国を「社会主義」もしくは「社会主義的」と位置づけることは無理だが、それにしてもこの国の市場開放というものを、左翼の側から好評価する人がいるのが、私には今もってわからない。
経済や金融の仕組みなど知りもしないし興味もまったくないが、中国が市場を開放することの道徳的正当性をひとことで要約すれば、
「人々の多様かつ切実な要求に真に応えられるのは、市場による商取引である」
という世界観だ。
しかし、市場が保障するいわゆる「市場民主魔法主義」とは、具体的にはどういうものなのか。
こういうものだ。
『俺の邪悪なメモ』さんから、
『『ハチワンダイバー』のヒットで将棋界がおかしなことになっている件』
げげえ、倒錯してる!
(;゚;Д;゚;)
この世のすべての価値を貨幣の排泄物と見なす(この言い回しを耳に胼胝が出来るほど繰り返しているわけだが)という、ここ100年ほど流行している価値観を、21世紀の将棋界がぎこちなく運用し、結果、すべての論点を笑わせて欺瞞を白日の下にさらすこととなった。
素晴らしき、将棋界!
(;^_^ A
実はいま、ニルス=クリスティの『人が人を裁くとき』という本を読んでいる。
『裁判員のための修復的司法入門』というサブタイトルがついている。
裁判員制度の学習、というつもりで購入した本だ。ところが読みはじめたら、新自由主義や資本主義というものをとおりこして、「貨幣経済システム」というものを辛辣に批判していて、意外ではあったけれども、まさしく我が意を得たり、という感想だ。
市場も悪、商取引も悪、貨幣価値そのものが悪、などという
「どこの宗教の原理主義?」
という過激な個人的主張を、ニルス=クリスティさんと共有する。
よかった、ひとりぼっちじゃなくて。
(;^_^ A
つねづね思ってきたんですが、お給金というものをこの世界から根絶するべきだと思います。
この日本という国では、日本共産党の委員長という立場の人間ですら
「まずはルールある資本主義を」
というようなところから出発しなければどうにも埒が明かない、という状況なのに対して、ノルウェーでは「貨幣価値」という、現在の経済システムの大前提に根源的な批判を加えている人物が少なくとも一人はいて、本を出版して、それが外側の世界に翻訳されているわけだ。
日本という国から、すでに遠く100光年先を見据えて。
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