*生存と体験と*(2009.1.13)
「シオドア・スタージョンという古代のSF作家がいるんだが、わたしは彼の作品を読むたびにいつも胸が張り裂けるような感じを覚える。彼は、私がかつて見たような、窓に映るあらゆる光の閃き、スクリーンドアに映るあらゆる葉叢などを見たことがあるようだし、また私がかつてしたようなこと、ギターを弾くことから、二、三週間をテキサスのアーカンソー水路の船上で過ごすことまで、あらゆることをしたことがあるようだ。しかもそうしながらも、彼は小説を書いていたんだろうし、それも四千年前のことなのだ」
〜サミュエル=R=ディレイニー『エンパイア・スター』 〜
「「今までのおばあちゃんの毎日ってのはね 夜な夜なこのクズ入れをさかさにするだろ? そうするとね
全部 思い出せてしまったんだよ その日一日 何をしていたか
部屋のクズ入れにおさまってしまう毎日で
かえるか何かみたいにじっと体温を下げて お迎えを待たなくちゃならないのかねえ」
「ちがう」」
〜須藤真澄『桜東風』〜
「さてここからは、みなさんが見てはいけないことになっていたニュース」
〜グレッグ=パラスト『金で買えるアメリカ民主主義』〜
どれだけドリンク剤を飲んでも快復しない。
風呂に入るのも一仕事だ。
なんということだ。
それでも私は、子どものころから病弱だった自分というものを---少なくても部分的には---肯定している。
収支決算的には、感謝もしている---私は無神論者だけど。
体調の変化に絶えず気を配っていないと日常生活を送ることさえ難しいのだから、私の最大の関心事は、いつだって私の内面だった。
私は、かなり小さなころから、自分の内面というものに注意を払って生きてきた。それは身に付けた習性で、生きる術だった。
絵本を読んだ、空を見上げた、白い息が出た、猫の鳴き声が聞こえる、机の角を蹴ってしまった、およそありとあらゆる出来事に、脳を含めた私の全肉体が反応する。
テレビ番組を観る。何かが引っ掛かる。この引っ掛かりはなんなのか。この引っ掛かりを放っておくということはできない。数時間後には高熱を出して、救急車で運ばれることになるかもしれないからだ。
公園のベンチに座っていると、隣に鳩が舞い降りてきて、足を滑らせてドガドガと音をたてた後、じっと動かなくなる。小学校にあがる前のころの記憶だ。
いったい、これはなんなのか。なんなのかと問う、私とは誰なのか。なぜ今、ここなのか。
体験というものの、あまりの広大さ。
……。
すまん、つまらん一人語りをしてしまった。
(;^_^ A
『他文化・他民族・多国籍社会で「人として」』さんのところから、
『ユダヤ人による抗議行動とホロコースト・サヴァイヴァー。アジアの両端の国の類似性、そして「国際刑事裁判所」』
================
わたくしが生きる上で母がこれまで幾度となく語ってくれたことですが、イスラエルでは暮らさないという母の決断は、戦時中の体験から母が学びとった強い信念に基づいていました。それは、人間が自分と同類の者たちのあいだでしか生きないならば、寛容と共感と正義は決して実践されることもなければ、広がりを見せることもないという信念です。母は言います。『ユダヤ人しかいない世界でユダヤ人として生きることなど、私にはできませんでした。そんなことは不可能でしたし、そもそも望んでいませんでした。私は、多元的な社会でユダヤ人として生きたかった。ユダヤ人も自分にとって大切だけれども、ほかの人たちも自分たちとって大切である、そのような社会で生きたかったのです。
================
本当に重たい言葉だと思う。
最後に。鬼畜ブログ『郊外のカナリアもさっき死にました』さんから
『子供のケータイによる学力低下より、大人の統計による思考停止のほうが問題だ』
マーク=トウェインは「嘘には三つあって、嘘と、真っ赤な嘘と、統計だ」と言った。
……電話帳のような真実。
最後と言いながらもうひとつ。
『非国民通信』さんから、
『遊んじゃダメなの?』
どこからやって来るのかわからない、他者に対する、奇妙な冷酷さ。
私が目にしている、これはいったい、なんなのか……。
*ゆとりの最後*(2009.1.10)
「対策は非常に簡単に思えた。国内の魯鈍に子どもを作らせないこと。外国人の魯鈍を締め出すことであった。
ゴダードは次のように述べた。「我々はこれらの移民が驚くほど低い知能であるという一般的結論を避けることはできない」(略)。
「“三等船室”の平均的移民者の知能は低く、多分魯鈍の段階であろう」。おそらくゴダードは、上甲板では事態はずっとましだと大声で叫びたかったのであろうが、そうした金持ちの客にはテストしなかった」
〜スティーヴン=J=グールド『人間の測りまちがい』〜
「ゴダードはいくつかの研究で、魯鈍の驚異を明るみに出した。もし精神薄弱の祖先が子どもを持つことを禁じられていたならば決して存在することのない、国家や共同体にとって足手まといの沢山の無用な人々の家系を公表したのである。ゴダードはニュージャージー州の「松林の荒地」に住みついた一群の貧困者と浮浪者を見つけ出し、彼らの祖先を追跡した。(略)
ゴダードは一枚の絵を吟味しただけで知能障害の程度を決められたのだから、生身の人間にかかわる困難などきっと予測もしていなかっただろう」
〜スティーヴン=J=グールド『人間の測りまちがい』〜
「科学にくらべると、似非科学はなんといってもお手軽である。なぜなら、できることなら避けたいような現実との対決は、あっさり回避されているからだ」
〜カール=セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』 〜
世間の基準で言えば、私のやっていることは「ぐうたら」以外のなのものでもないのだろうが、こちらとしては、
いっぱい、いっぱい
になってきた。
私は「私が私であること」を抱えて生きていく。
辛い、重い、へこたれる。
(^_^;)
まあ、日記らしく愚痴などこぼしてみました。各方面には、ご迷惑をおかけしております。
(^_^;)
さて。
あのスウェーデンが、某所府知事ハシモトさんと同じような短絡思考に走り始めたというニュース。
スウェーデンの教育哲学に厳しさがかけているとか、何とか。
『どこへ行く、日本』さんから、『ゆとりの時間は北欧でも終わり』
☆☆☆☆☆
現在、教育省は新しい厳格な制度を策定する方針だ。2011年までに小学6年生からの成績評価が始まる。さらに低学年の子供たちも、学力が振るわなければ落第のつらさを味わうことになる。新たに3年生から実施される全国テストによって、点数のよくない子供は進級できなくなる。
☆☆☆☆☆
ワシ、訊きたいんだけどさあ、学力テストって、個々の子どもたちをどのように援助していくかを探るためにあるんじゃないの?
「学力がふるわない」子たちが落第によってたっぷりと辛さを味わったとして、それに何か意味があるの? 大人が気持ちいいだけじゃないかなあ。
いや確かに、「泣くのが嫌なら、さあ歩け」って水戸黄門も言っているし、もっともらしく見えるかもしれんけど。
「泣くのが嫌なら」って、おまえが泣かさなければ、その子も泣くことなかったんじゃないの、という……。うんざりするくらいよくある話だけど、これってその子の選択なの?
いやいや。おねしょする子どもがいたとして、それで、試しにその子をムチでしばいたらおねしょが止まることもあるかもしれん。効果があったと。しかし、直視できないほどに陰惨だねっ。
= ̄+∇ ̄=)
人生はガレー船で、あなたはその船を漕いでる奴隷だと。
学校は、勉強以外にもいろんなことを学ぶ場所ですね。
「偏見」の補強とか。
「偏見」を土台にして世界を秩序だてていく方法とか。
こちら側からあちら側を眺めて顔をしかめつつ、報道機関の言う「危機感をつのらせる“国民のみなさん”や“世間の空気”」の一部となり、結局はそれらを娯楽として楽しむ生き様とか。
つくづく、人間って狂った生き物だと思うわ。
--☆---
トーハン調べ、2008年度、年間ベストセラーリスト。
1.『ハリー・ポッターと死の秘宝』
2.『夢をかなえるゾウ』
3.『B型自分の説明書』
4.『O型自分の説明書』
5.『A型自分の説明書』
6.『ホームレス中学生』
7.『女性の品格』
8.『親の品格』
9.『AB型自分の説明書』
10.『脳を活かす勉強法』
21世紀にもなって、ベストセラーリストの中に血液型の本が4冊、『○○の品格』などという品格のかけらもない下品なタイトルのシリーズが2冊。
いや〜。
レッテル張りが好きなひとって、かなり多いんだね、と。
無邪気で楽しくて結構、というとらえかたもあるし、人間は弱いんだ、レッテル張って安心したがるのが人間なんだ、という意見だってあるだろうけれど、しかし、いくらなんでも血液型ですよ?
(^_^;)
度外れた無節操さ、一目でわかってしまうことの気楽さ、そして、「なぐさめ」。
「自分の説明書」で他愛なく説明できてしまう自分と他者との境界、というものの全容に対して、うさんくささと、不吉さを感じる。
*オシム監督さようなら*(2009.1.8)
「それは非常に悪いことだ、われわれは兄弟なのだから戦うべきではないと言ったのだが、士官はそれに答えて、そんなことは問題ではない、アメリカ人は同じ母親から生まれた者を相手にまわしても戦うのだと言った」
〜『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』〜
「今夜ここにおられる、感受性の高い多感な若い人たちのなかで、もし現在ぶらぶらしていて、家庭は機能障害を起こし、明日にでも本物のトワープになってやろう、という決意をされた方がいたら、どうか気をつけて。(略)
しばらく前、人生とは何だろう、とマーク(カートの息子)にたずねたことがあります。わたしはまったく手がかりをつかんでいなかった。マークはこう答えました。「父さん、われわれが生きているのは、おたがいを助けあって、目の前の問題を乗りきるためさ。それがなんであろうとね」」
〜カート=ヴォネガット『追憶のハルマゲドン』 〜
「生き残るのは、最も強い種ではない。
最も賢い種でもない」
〜チャールズ=ダーウィン 〜
『good2nd』さんのところから、「毎日ニュース」の記事を抜粋。
☆☆☆☆☆☆☆☆
坂本哲志総務政務官は5日、総務省の仕事始め式のあいさつで、仕事と住まいを失った派遣労働者らを支援するために東京・日比谷公園に開設されていた「年越し派遣村」に触れ、「本当にまじめに働こうとしている人たちが日比谷公園に集まってきているのかという気もした」と述べた。そのうえで「(集まった人が)講堂を開けろ、もっといろんな人が出てこいと(言っていたのは)、学生紛争の時の戦術、戦略が垣間見えるような気がした」と続けた。
同政務官は熊本日日新聞記者、熊本県議を経て、衆院熊本3区から当選2回。
☆☆☆☆☆☆☆☆
ヒエ〜! すごいよね〜、人間って、どこまで残酷になれるのかね〜。
(^_^;)
私の周囲にも、能力主義到来を歓迎する人間はいっぱいいたけど、そんときから私、ず〜っと疑問を抱いてきたのよね。
その能力とやらを測るのは誰なのか、ってことを。
いや、疑問つっても、答えはとうに知っていたわけだけど。能力を査定するのは、
こういうド残酷な連中な。
楽なもんだよ、「本当に真面目に働こうとしている人たちじゃないようにも見えた気がした」ら、そんでいいの。
「あなたは本気で働く気があるようには見えませんよ」
「あなたは残念ながら能力がありませんよ」
と言いさえすれば、それでいいのです。
なんで?
会社が儲かるだろ。
会社立国☆日本の国際競争力がアップするだろ。
(^_^;)
会社が無尽蔵に儲けようと思えば、一人でも多くの負け組が必要なんだな。たまげた話だが、そういう仕組みになってる。
会社って、そんなことのためにあるのか? う〜ん、私たち日本人にとってはそうらしい。
「負け組」というレッテルを互いに貼り付けあって、その人たちがどうなってもかまわない、その人たちの身ぐるみ全部はがしてもかまわない、という「自由」、
新・自由主義
という素敵な仕組みだ。
「だって、本気で働く気がないだろ?」
「おまえ、能力が足りないだろ?」
「失敗をしたろ?」
「業績が悪化したじゃないか」
「女性じゃないか」
「在日じゃないか」
「会社からの呼び出し電話にでなかったな」
理由は何だっていいんだ、実際のところは。
あなた私の間に壁を作ることさえ出来るのなら。
そして、あなたが熱血社員でいられるのは、社会からダメ出しを食らう、その日までだ。
♪認められたのです! 人間狩りをすることが!
♪(あなたは狩られる側にまわってもらいま〜す)♪
by オーケン。
サテ、狩る側か、そうでないかを決める素敵な審査員をご紹介しま〜す。
『ある新自由主義者の死〜永田寿康が自殺』
「失敗した人が責任をとるということが当たり前の国にしたい」
と宣言していた人物が、自ら命を絶った。
……。
審査員の一人が、死んだ。
(^_^;)
……いいことを一つだけ、お教えいたしましょう。
ぜんぶ、いんちき!
なんです、実は。
天地がひっくり返っても、あなたは負け組。私も負け組。
ぐうたらで、能力がなくて、運がない人間なんすよ。
なぜって?
これまた、そういうふうに世の中が仕組まれているから。
(^_^;)
『非国民通信』さんから、
『今さらながら、ホリエモンについて』
個人的には、もうたくさんなんですけど……。
---☆---
1月4日。元サッカー日本代表監督のオシム監督が日本から去った。
昨年暮れの『週刊現代』で木村元彦氏が
『オシムを弄んだ日本サッカー協会』という怒りの記事を書いておられたが、まあ、なんつーか、個人個人は別として、日本という国、システムは、
オシム監督が心血を注ぐ価値のあるようなところじゃないんですよ、残念ながら。
それはかわまんのだけれど、オシム監督の失意の深さを思うと、やりきれんわ。
ジェフユナイテッドの公式サイトにコメントがきてます。
『JEFSPIRIT』さんのところから、こちらの記事もどうぞ。
お元気で、オシム監督。
ユーミンの『DESTINY』でお送りしたいと思います。
*でも彼はあなたたちを愛している*(2009.1.5)
「権力の座にある政治家を補佐するアドバイザーたちは、偽りに満ちたバラ色の構図を描くために平均収入という数値を利用する。金持ちだけに対する優遇税制を実行した超レーガノミックス経済システムの下では、少数の億万長者は莫大な財を加算するのに対し、貧困層に分類される最低収入ぎりぎりの大多数の人々は加算分なしか、むしろますます貧乏になってしまう。一人の大金持ちがたとえば一年あたりの収入を600万ドルから6億ドルに増やすことで何百万人もの貧困者と帳尻を合わせれば、個人当たりの“平均”年収は増加することだってありうる」
〜スティーヴン=J=グールド『フルハウス』〜
「資本主義のあらゆる活動は、原始宗教の儀式と同様、野蛮で、手が込んでいて、不必要で、彼にとっては無意味だったからである。貪欲と怠惰と嫉妬羨望が人間のあらゆる行動を左右すると考えられている資本主義者たちの儀式においては、非人間的な行為すらありきたりのことになってしまっている。シュベックはその醜悪さ、卑小さを軽蔑を込めて、冷ややかに眺めた」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
「私は文明という言葉が大嫌いだ。それは虚位を意味するからである」
〜マーク=トウェイン〜
願いも頼みもしないのに、いつものように、新年が始まってしまうのだ。
私、いきなり、
キーボードのリターンキーをたたき割ってしまって。
体調は、不自然なほど悪し。
いきなりそんな塩梅です。
この日記は、おニューのキーボードで打ってます。
今年はどんな年になるでありましょうか。
「なる」ではなくて「なす」。
とある大学生たちの代替案。
『私が首相だったら2兆円をこう使う!』
大学生に対して、朝日新聞の社説はこうだ。
『新自由主義からの決別を語れない「朝日」社説』
まあ、こういうありさまなんだよね、日本の大新聞は。
ジョージ=カーリンの字幕もの発見。
(40秒近く夕日みたいな映像が続いたあと始まるよ!)
えー。
彼はあなたたちを愛している
やんや、やんや! やんや、やんや!
"o(^▽^)o
9分とちょっと長いけど、こちらも紹介しておきますわ。
*あけまして*(2009.1.1)
「異なるのは性かもしれない、年収かもしれない。話し方、着こなし、物腰、肌の色や、頭や脚の数かもしれない。つまり、性のエイリアンがあり、社会の、文化のエイリアンがあり、その究極に種族としてのエイリアンがくるわけです。
SFにおいて、社会的エイリアンはどう扱われているでしょうか。マルクス主義用語で言うところの“プロレタリアート”なる人々。彼らはどこにいるのでしょう」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『アメリカSFと他者』〜
「シリル=コーンプルース、シオドア=スタージョン、コードウェイナー=スミスといった人々を通じて、SFは少しずつ、単純な種族差別主義から抜け出す方向へ進んできました。(略)
自由、平等、同胞愛といったラディカルで未来的な奥深い概念に対する、少し真摯な考察がなされるようになってほしいものです」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『アメリカSFと他者』〜
「君らのようなキじるしでなくては、人生は宇宙の旅、それも短い旅じゃなく何十億年も続く旅だ、なんてことはわからない。きみらのように度胸のいい連中でなければ、未来を本当に気にかけたり、機械が人間をどう変えるか、戦争が人間をどう変えるか、大都市が人間をどう変えるか、でっかく単純な思想が人間をどう変えるか、とてつもない誤解や失敗や事故や災害が人間をどう変えるか、なんて事に注目したりしない。君らのようにおっちょこちょいな連中でなければ、無限の時間と距離、決して死に絶えることのない神秘、いまわれわれはこのさき何十億年かの旅が天国行きになるか地獄行きになるかの分かれ道にいるという事実---こういうことに心をすりへらしたりはしない
」
〜カート=ヴォネガット
『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』 〜
SFばんざい。
あけまして おめでたくもなく。おめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
仕事してます。終わんないです。なんなんだいったい。
ヘルベルト=ケーゲルの指揮で『戦争レクイエム』を聴いてます。
力技で聴く者を奈落の底に落とし込む、すんごい演奏です。自分が人間であることに絶望できます。
(^_^;)
ブリテン作曲のこの曲は、元があって、『シンフォニア・ダ・レクイエム』というのだそうだ。この曲は、
皇紀2600年のため日本政府から奉祝曲として委嘱を受けた
ものだが、「涙の日」「怒りの日」「永遠の安息を」などというような、各楽章のタイトルからして、清く正しい日本民族の侵略行為と
軍国主義を非難する、今で言うところの“反日的”な態度まるだしの曲に仕上がっていて、大日本帝国が激怒。
演奏拒否となったいわくがあるそうだ。
と〜っても、いい話ですね。
パレスチナのガザ地区は火の海です。
血の海です。
現実の、なんと冷酷で、無残なことよ。
SFばんざい。
SFばんざい。
*どういう意味かわかるかね未来少年*(2008.12.29)
「ビネーは、また、自分自身の被暗示性---無意識のうちに偏見に固執することや、「客観的」量的データが先入観に驚くほどひきずられやすいこと---についての研究によって、自分自身に懐疑の目を向けはじめた」
〜スティーヴィン=J=グールド『人間の測りまちがい』〜
「映画の真価を知っている人たちは既に動き出しています。
「映画は映画であって、ただの娯楽ではない」という考えを強く訴えていかないと何も動かない」
〜アッバス=キアロスタミ〜
「原因はハリウッド映画にあると思います。観客の嗜好を悪いほうに変えてしまった。私自身、いろんな国で「あなたの映画は好きだけど、残念ながら劇場公開はできない。宣伝費も出せないんです」と言われます。どこもかしこも状況が似ていて、世界がどんどん狭くなってきている。イランに関して言うと、ハリウッド映画だけでなく、つまらないテレビドラマが増えていて、ますます観客の感性を鈍らせています」
〜アッバス=キアロスタミ〜
「芸術とはわれわれに真理を悟らせてくれる嘘である」
〜パブロ=ピカソ〜
『非国民通信』さんのところから、
『派遣叩きの理由』
または、『解決不能』さんから
『敵を作って叩くのはあまり好きじゃない』
さらにまたは、鬼畜ブログ(笑)の『郊外のカナリヤもさっき死にました』さんのところから、
『くだらん『羊達の沈黙』ごっこに税金を投入するのは、学力テストなみのムダ使いだ』
で、これらの記事をひと言に要約すると、内面化された、もしくは目に見えない何かの力に方向づけられた奴隷根性についての警告デスな。
(^_^;)
……。
なんか、最近、「こりゃもしかしてマジで戦後教育がまずかったんじゃないか?」って思うようになってきたよ。
(^_^;)
まあ、少なくても、「民主文学」とか「反戦映画」とか「人権映画」とか、いわゆる文化運動は、意図とは別に、結果は惨憺たる大失敗ということなんだろうなあ。
日本の内部における、「民主文学」、「人権映画」、「反戦映画」というジャンルの、
その内容の救いがたいまでに保守的なこと!
これ、どうにかしたほうがいいと思うよ。余計なお世話かもしれんが。
(^_^;)
反戦映画も結構だけど、「平和を希求」するだけなら
ヒットラーだってスターリンだって某コイズミ氏だってそれっぽいこと言うわけですよ。
これがどういう意味かわかるかね、未来少年……。ワシのやってきたことがぜんぶ無意味だったってことだあ〜! と『バック・トウ・ザ・フューチャー』の博士は言った。
(^_^;)
反逆精神の啓蒙! これが決定的に欠けとるのよ。
自己不信は頭から否定! なんたることか!
つーことで、怒りにまかせて、わしが啓蒙したる。
「反戦」でも「民主」でも「人権」でもないけれど、それでも、「左翼魂」を見事に描いた古典小説、
『星の王子さま』をまず読みたまえ!
子どもでも読める優しい文体もいい。
左翼魂と言えば、こういうのもある。
「反戦」でも「民主」でも「人権」でもまったくないのに左翼魂、の古典映画、『暴力脱獄』予告編。
アメリカ人ですら、これくらいの映画は撮っているんだ。
日本では、21世紀にもなって、『私は貝になりたい』のリメイク……。
別にリメイクでもいいよ。しかし、肝心の内容は、こんな感じ(『まどぎわ通信』さんところから)。
日本の未来は本当に暗いゼ。
結論が出たところで、よいお年を!
(;^-^ゞ
「私は何本、指を広げているかね、ウィンストン?」
「四本です」
「で、もし党がそれは四本じゃない、五本だといったら---何本かね?」
「四本です」
〜ジョージ=オーウェル『1984年』〜
真の革命精神というものが、わかるかね。未来少年……。
*肩越しの未来*(2008.12.26)
「賢明でありたい、と思わぬこともない
昔の本には書いてある
賢明な生き方が。
世俗の争いをはなれて短い時を
和やかに送ること
暴力とは縁を結ばずにすますこと
悪には善でむくいること
欲望はみたすでなく忘れることが
賢明なのだとか。
どれひとつ、ぼくにはできぬ
ほんとうに、ぼくの生きる時代は暗い!」
〜ベルトルト=ブレヒト〜
「私たちは未来がどこにあるのか知っています。私たちの前方にです。そうでしょう?(略)
アンデス山脈のケチュア語を話す人々はちょっと違った考え方をしているようです。彼らは過去とはあなたの知っていること、あなたが見ることのできるもの---だからそれはあなたの正面に、すぐ目の前にある---と考えます。これは行為というよりは知覚の仕方、進歩の度合いよりは意識の方法の違いによるものです。彼らは私たち同様にきわめて論理的ですから、未来は後ろに---肩越しに存在していると主張します。未来は振り返ってちらりとかいま見るということがないかぎり、あなたには見ることができないものです。そして時として、あなたは見なければよかったと思うようなものです。なぜってあなたは、後ろからあなたにこっそり迫ってくるものを見てしまったことになるからです」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『SFと未来』〜
クリスマスから一夜明けた。
歓楽極まって哀切深し。
コカコーラのCM、クリスマスバージョン。
飛行機から地上にまき散らす梱包されたプレゼントが爆弾だったら、リアルで正しい2008年クリスマスCMだったはずだ、と弟は言った。
私が言ったんじゃないよ、弟が言ったんだからね。
(;^-^ゞ
コカコーラですら、すかっとさわやかと語りかけることができない、そんなさぶい2008年のクリスマスが、せわしなく最後の商品を売り回り、ごうごうという音をたてて、どこかへと消えていった。
ほんの数時間前までクリスマスで盛り上がっていた渋谷パルコの喧騒は、すでに過去になってしまい……。
うわあ!
「セレブ貧乏太郎」の亡霊が画面に映りこんでる!
なんだ、セレブ貧乏太郎って!
ホラーだな〜。
怖いな〜。
「暗闇の時代にも
人は歌えるだろうか
人はやはり歌うだろう
歌うだろう 時代の暗黒を」
〜ベルトルト=ブレヒト〜
つーことで。
ドゥダメルの、歌いに歌うショスタコーヴィッチ。交響曲10番。
お次は、癒されたがりは地獄に堕ちろ、のムラヴィンスキーの指揮で、ショスタコーヴィッチ交響曲5番。
(^_^;)
2008年のどん詰まり。
肩越しに振り返って見いだす未来。
ショスタコーヴィッチ交響曲8番。
*イブ*(2008.12.24)
「♪買い物ヤメロ♪ ♪買い物ヤメロ♪ これは、多国籍企業という名のモンスターが作りだしたニセのおとぎ話だ……ハレルヤ!」
〜ビリー牧師〜
「クラシックという「装置」を、いわば一般化、大衆化、普遍化したカラヤンの音楽によって私たちは決定的に間違ってしまったのではないか? そのような不安がよぎることは確かだ。
人がこともなげに他人の生活を侵害し、強者は弱者を鼻歌交じりに圧殺する。アジアの貧しい国では、金の力で少年や少女の無垢の肉体が性の対象として遣り取りされ……」
〜宮下誠『カラヤンがクラシックを殺した』〜
「彼(ヘルベルト=ケーゲル)は資本主義の欺瞞をするどく嗅ぎつけ、社会主義によってそれを克服できると本気で考えていた。しかし彼の言う「真正な社会主義」など絵に描いた餅に過ぎなかった。世の中は、右も左も欺瞞だらけだ。それでもケーゲルは戦い続けた。
その音楽の苛烈さはどうだろう」
〜宮下誠『カラヤンがクラシックを殺した』〜
「世は表現主義がもてはやされている時代(略)。その理想主義的人間観や登場人物のお涙ちょうだい式情緒は、ブレヒトの唯物論的見地とかけ離れたものだ」
〜M=トス『ブレヒト』〜
クリスマスらしく、厳かな気持ちで、詩でもとなえてみようかという気分。
『ルバイヤート』はいかがだろうか?
(;^-^ゞ
「罪もなく輪廻の環の中につながれ、
身を燃やして灰となる煙はどこであろう?
ああ、空しくも齢をかさねたものよ、
いまに大空の利鎌が首を掻くよ。
いたましや、助けてくれ、この命を、
のぞみ一つかなわずに消えてしまうよ!
よい人と一生安らかにいたとて、
一生この世の栄耀をつくしたとて、
所詮は旅出する身の上だもの、
すべて一場の夢さ、一生に何を見たとて。
歓楽もやがて思い出と消えようもの
古きよしみをつなぐに足るのは生の酒のみだよ。
酒の器にかけた手をしっかりと離すまい、
お前が消えたって盃だけは残るよ!
ああ、全く、休み場所でもあったらいいに、
この長旅に終点があったらいいに。
千万年をへたときに土の中から
草のように芽をふくのぞみがあったらいいに!
二つ戸口のこの宿にいることのしるしは
心の痛みと命へのあきらめのみだ。
生の息吹きを知らない者が羨ましい。
母から生まれなかった者こそ幸福だ!
地を固め天のめぐりをはじめたお前は
なんという痛恨を哀れな胸にあたえたのか?
紅玉のくちびるや蘭麝の黒髪をどれだけ
地の底の小バコに入れたのか?
神のように宇宙が自由に出来たらよかったろうに
そうしたらこんな宇宙は砕きすてたろうに。
何でも心のままになる自由な宇宙を
別に新しくつくり出したろうに」
以下、ほじゃほじゃ。
……ポク、ポク、ポク、ポク、チーン。
アーメン。
例によって、体調が悪くなってまいりました。
クリスマスがいけないんだと思う。
(^_^;)
モノを買え、限度いっぱいにまで幸福になれと世界から攻めたてられて、言語脳がひへいしてすてぉほじゃじゃ。
(^_^;)
いかん、語尾がおかしくなってきた。
なので、さっと情報だけを、さらっと。
町山さんからのご報告。
今度の007、ジェームス=ボンドの敵は、民営化で人々の公共財産を食い物にする多国籍企業だっ!
『『007慰めの報酬』とボリビアの水戦争』
なお。
ボリビアの水戦争については、映画『ザ・コーポレーション』でもふれられております。
↑日本語字幕つき。
次も映画情報。
西洋文化圏、という枠組みにおいて、もっとも注目すべき四人の監督(ラース=フォン=トリアー、ケン=ローチ、ダルデンヌ兄弟……あれ、兄弟だから四組か)、のうちのひとり、ルーカス=ムーディソン監督の待望の新作、『マンモス』が完成したもよう。
これが予告編。
次。
グスターヴォ=ドゥダメルとシモン=ボリバル=ユース=オーケストラ=オブ=ベネズエラの日本公演は、大好評のようで、なにより。
彼をカラヤンやカルロス=クライバーと比較する人もいるようだ。
これ、なかなかするどいご意見だな、と。
(;^-^ゞ
私個人としては、カラヤンの方向には走ってほしくはないのだけれど、あの歌わせっぷり、そしてキレは、やはり南米の風土というものでしょうか。
まあ、彼は若すぎるくらい若いし、芸術が時代を映す鏡だとするなら、彼らの演奏は、
中南米地域の明るい未来をモロ体現してるんだよ!
ともかく、ずしっとした質感と、それでいて透明感のある響きに、注目してみて下さい、これから聴く人は。
*癒されたがる人々*(2008.12.22)
「その時何人の者が死んだか知らない。いま老年という高みから振り返ってみても、殺された女や子どもが曲がりくねった谷に沿って積み重なり、散らばっていたありさまを、当時のまだ若かった私の目が見たままに思い出すことができる。そして私は、その時血に染まった泥の中で何かが死に、それは吹雪に埋もれてしまったということがわかる。人々の夢がそこで死んだのだ。それは美しい夢だった……国をまとめていたタガが外れ、すべてがばらばらになった。もはや中心というものがなくなり、神聖な木は枯れてしまった」
〜『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』〜
「軍曹はどんなふうに兵卒に命令を下すことができるか、少尉はどんなふうに軍曹と兵卒に命令を下すことができるか、そして大尉は……というようにどんどんさかのぼっていって将官にまで達するのだが、将官は、将官以外のすべてのものに命令を下すことができ、しかも最高司令官を別としてナンピトからも命令を受ける必要がないというのである。シェヴェックは懐疑を込めた嫌悪とともにその話を聞いたものだった。「あなた方はそれを組織と称するのですか?」(略)
「そんな融通のない、脆弱な体制で、やりがいのあるどんなことができるというのです?」」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
「彼はアトロに、なぜに軍隊がかくのごとくに体系づけられているか今わかったと説明した。(略)合理的な組織形態ではとてもこうはいかない。あの当時、彼にわからなかったのは、命令さえあれば、機関銃で、非武装の男女を容易にしかも大量に殺戮できるということであった。しかし、勇気とか、男らしさとか、適合とかは、いったいどこを突いたらでてくるのか、いまだに不明であった」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
「私はただの一人だが、人々の声である。彼らの心に何があるかを、私が話す。私はもう戦争を望まない。ただ、人間になりたいのだ」
〜『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』〜
バカが三人寄って何を言いだすかと思ったら、救いようのないバカ話だった、と弟は言った。
『自民党のKY+オーラの失せたコイズミ氏+竹中平蔵・村上龍の“投資のススメ”への疑問』
……私じゃないからね、弟が言ったんだからね。
(;^-^ゞ
投資のススメなあ。
闘志あふるる投資の果てに最後は凍死。なんちゃって。
(;^-^ゞ
事情に疎い一般の人に怪しげな情報を売り込んで、金をかき集める行為のうさんくささ。度を越した醜悪さ。犯罪性。
どれだけモノを買えるか、限度いっぱにまで幸福になるためにどこまで生活を消費で埋め尽くすことができるか、そう自らに問いかけ続ける人間を作り出す経済システム。もしくは教育。
瞬間ごとにわきあがっては移り変わってゆく気分というものを満たし続けてゆくために、世界の財をものすごい勢いで浪費し続けてゆく人生。
映画を観ては感動する日々。
子犬をめぐる実話物語にふれて、すっかり癒される心。
そのようにして、夜をとおしてひっきりなしに騒ぎ続け、満たされ続け、朝が来るころには歓楽極まって哀切深し、だ。
まるで牢獄。
投資のススメ……。私のような人間でも最低限の教養というか、コモンセンスがあるので、「投資のススメ」なんて汚れた言葉を耳にすると、恐怖と嫌悪の感情を抑えられなくなる。馬鹿げていて、退屈なだけじゃない、冷酷で、暴力的で、破壊的。それが私を恐れさせるのだ。
『所有せざる人々』をまたちょぼちょぼと読み直している。
主人公、シュベェック。
私たちの英雄。
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「あれは君と私とでピクルスをわけあったのだと思ったんだよ。あれはくれたのだったのかい? 私の国ではね、なにかをもらった時だけありがとうと言うんだ。それ以外の時は、なにも言わないでわけあうのさ」
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この宇宙のどこかには、アナレスのような星があるだろうか?
アナレスは余りにも遠い。
宇宙の片隅にぽっかりと浮かぶ地球の、ここ日本では、ある種の感動空間における英雄となったタモガミさんが、啓蒙書を出版するみたいだ!
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20081210
目次を見ただけで頭がくらくらしてくる。
このタモガミを、盗作知識人のカラサワ某が、褒めたたえていると。
厚生事務次官連続襲撃殺人犯を持ち上げたあげくに!
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田母神だってそうだけど、世の中には正しくたって、言ったら問題になる発言というのは山ほどある。
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だって。
社会派をうそぶくその根性にあきれるわ。
(^_^;)
アメリカ人の半分は天使の実在を信じているというが、この日本には、タモガミ論文を正しいと思っている人間がどれだけいるのかな。
……どう思う?
答えは知りたくないわ、怖いから。
(^_^;)
自分の姿を映す鏡を持たず、というか手放して、日本の内側だけでしか通用しない気持ちいいタワゴトにどっぷりとひたる。
感動したがり、癒されたがりの恥じ知らず
というありさまだ。
(;^-^ゞ
--☆---
日本の知識人と呼ばれる人々の、かなり“感動的”なお話。
『東浩紀発言とポストモダン・プレモダンあと還元主義の罠』
こんなのが「先生」と呼ばれる、そんな美しい国。
その先生に、元登校拒否系が突撃したという懇親のレポートはこちら。
『次は、トラメガを持って東工大に行きますーーポストモダニズムを体で感じて、人類に希望をもった話(重要な追記あり)』
なんという感動的な展開!(マジで!)
思わず癒されました!(やばい!)
(;^-^ゞ
かっこいい!
というわけで、突然ですが、ぜんぜん関係がないU2のかっこいい動画をどうぞ。
*所有する人々*(2008.12.14)
「ことは深刻となった。彼らが女性を数のうちに入れていることは明らかである。それは船旅の食卓に女性を一人まぜて坐らせておくようなものであった。(略)彼らは人間同士のかかわり合いというものを知らないのだ。所有することしか知らない男たち。彼らこそ所有されているというのに。
パエが言う。「美しく、貞節な女性は、われわれにとってひとつの創造的刺激ですね」
シュヴェックはいたたまれぬ気持ちになって立ち上がり……」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
「それは男も女も自由だからです。なにも所有していないからこそ自由なのです。ところがあなたがた所有者は孤独なのです。みな牢獄につながれている。山ほどの所有物に取り囲まれながら」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
「これほど豊かに提供されるものを受け取れるほど彼は強くなかった。(略)
誰かの長ったらしくくだらない夢の話を、微に入り細をうかがってえんえんと聞かされるのに似ている。彼は銀行がどう機能するのかというようなことを、しいて理解する気にはなれなかった」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
「私たちは共有者であって、所有者ではないのです」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
マンガの主人公が想いを寄せるヒロインに、実はイケメンの 恋人がいたことが発覚。性的関係を思わせる描写から「非処女だった!」と騒ぎになり、苦情、いやがらせ、脅迫、エトセトラが勃発。あげくに
人気漫画『かんなぎ』無期限休載」
『かんなぎ』というマンガの存在すら知らなかった私なので、ストーリーについては言及できないのだが、主人公が好きな女の子を寝取られたのが気にくわんとか、処女じゃないのが気に入らんとか、
イスラム教原理主義も顔色なしですね、と。
(^_^;)
「寝取られた」とか「中古はいらない」とか、女性はモノじゃねえんだ。
アホか。
ちゅうか、
自分の気分を満たすことしか関心ないんだな、結局。
(^_^;)
不幸だな〜、実に不幸だ。
そして、私とあなたの、なんという孤独。
全ての人間的価値が貨幣の排泄物へと成り果てる世界での、あくなき消費と快楽の日々は続く。
マンガを買う財力がまだ残っているあいだは。
--☆---
感動大好きな日本の伝統に基づく、またまた感動的なお話。
「テレビ東京がアドルフ=ヒトラーを偉人と紹介するの巻!」
わお。
ヒトラーの演説には、癒し効果があったんだと!
南京事件も従軍慰安婦も沖縄の集団自決も歴史“認識”というご都合主義的な妄想に落とし込めてしまう国の内部における、心が洗われるような素敵なお話。
……もう勘弁して下さいよ。
(^_^;)
ブラジルから来た少年は日本にいたんだなあ、と。
(※『ボーガスニュース』さんのところで、ブラジルから来た少年ネタの抱腹絶倒記事が上がっているので脱線して紹介)。
電撃戦とか、想像しただけで癒されるよね〜。
いいな〜、癒し。
ワシも癒されたいよ、ということで、ふたたび『戦争のはらわた』から癒し効果たっぷりのオープニングシーン。
♪ちょうちょ、ちょうちょ♪で癒される、衝撃のオープニング(日本語字幕あり)
(^_^;)
癒し万歳!
感動! 高揚! 涙! 癒し! 挙句の果てに思考停止!
「王様は裸だっ」
それがこんなにむずかしいことになってしまうとは。
自分の目で見ることの大切さ。
自分の目を疑うことの大切さ。
よう考えたほうがいいよ、マジで。
ふて寝する前に。
郵便局でアルバイトしていて、マルクスにげんこつをくらった彼のお話。
『「才能あるレジのおばさん」の足を引っぱれ!』
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ねえねえねえねえマルルン、僕の方が少なくとも10倍は働いてるのにどうして給料が同じなの?
っていうかあいつクビにして僕に倍額払うべきじゃなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくない?
そしたらマルクスにいきなりゲンコツ食らったよ。
んざけんな! お前、倍がんばったら自分の価値が倍になると思ってるだろ!
逆だよ、倍がんばったらお前の価値は半分になるんだよ!
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さあ、みなさん、ごいっしょに!
「なんだって〜!!!!!」
いやあ、私も似たような局面で何度も仮想ゲンコをもらったクチだから、この話、胸にすとんと落ちるわ。
つーことで、ふて寝に入ります。
あ、『サッカー批評』最新号でオシム監督のインタビューが来てます。ライターは木村元彦氏。
これ読んで、ふて寝だ。
*今夜も列車は走らない*(2008.12.12)
「人類初めて、私たちは過剰な財を享受している。地球はその重みに耐えかねて、ほとんどくずおれんばかりだ。供給可能な財は人類の生存に必要な量を千倍も上回っている。(略)
地球上では、十歳未満の子どもが七秒に一人の割合で餓死している」
〜ジャン=ジグレール『私物化される世界』〜
「「おとぎ話ってのはガキの読むもんでしょう。わたしは現実の世界に生きているんだ」
こんなことを言うのは誰でしょう。『戦争と平和』を、『タイム・マシン』を、『真夏の夜の夢』を、こうも自信満々に切り捨ててしまえるとは、いったいどういう人たちなのでしょう。それは世間一般の人々---三十すぎの勤勉なるアメリカ男たち。その手でこの国を動かしている、そんな男性たちではないかと思うのです」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『左ききの卒業式祝辞』〜
「♪ぜったい 故障だー♪
♪てゆーか ありえなーい♪」
〜Perfume『Computer City』〜
ちょっとバタバタしているので、お知らせだけ。
『MARYSOL のキューバ映画修行』さんから、
グスターボ=ドゥダメルがくる〜!
17、18、19日だそうです。
ドゥダメルとシモン・ボリバル・ユースで、ダンソン2番。
続けて南米ネタ。
アルゼンチン映画『今夜、列車は走る』のDVDが発売になった。
ケン=ローチの『この自由な世界で』と並んで、今年の最高作だ。
どぞ、ご覧になって観てください。
今年の初めに、映画『今夜、列車は走る』の感想文をこの日記で書いたときに、アルゼンチンと日本は、上昇と下降でクロスオーバーするだろう、と言ったはずだが、なんか、
一年も経たないうちにそうなっちゃいましたね。
『<続>トヨタ期間従業員日記 15人のラインが9人に/僕らを雇う力あるのに…』
『本当の景気対策とは「労働法制遵守による雇用創出」と「消費税減税」ではないのか』
(^_^;)
新自由主義を拒絶し、新しい未来への道を歩み始めるアルゼンチンの姿を描いた(この映画はアルゼンチン国内では4年前に公開された)『今夜、列車は走る』に対して、日本はすでに、ローマのガレー船を漕がされる奴隷たちもかくや、というありさまの、
『蟹工船』
ですよ。
(T△T)
映画を観ているだけでも、自分たちの未来がぼんやりと見えてくる。
大袈裟でも、なんでもなく、本当にそうだから。
チャップリンの『モダンタイムス』!
いやほんと、大まじめな話。
例えば、民営化の後に来る地獄を描いた映画としては、ケン=ローチが2001年に『ナビゲーター』を発表しているわけだ。
その時点で、
げっ、これはまずい!
と気がつくべきだったよ、もう遅いけど。
(^_^;)
『ナビゲーター』予告編。
『今夜、列車は走る』予告編。
宮崎駿御大も、とうとうぶちきれて、こんなこと言ってます。
『“ポニョ”を作りながら考えたこと』
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「(質問者) 子どもたちをナショナリズムから解放するということですが、今後は地域社会に根ざした映画を作るつもりか、グローバルな映画を作るつもりかどちらですか?
(宮崎) 「世界の問題は多民族にある」という考え方が根幹にあると思っています。ですから少なくとも自分たちは、悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません。
「あらゆる問題は自分の内面や自分の属する社会や家族の中にもある」ということをいつも踏まえて映画を作らなければいけないと思っています。
「自分の愛する街や愛する国が世界にとって良くないものになるという可能性をいつも持っているんだ」ということを、私たちはこの前の戦争の結果から学んだのですから、
学んだことを忘れてはいけないと思っています」
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ひええ。
子どもたちをナショナリズムから解放する!
ええど、ええど。
タモガミさんと鋭く対立することになった宮崎駿御大。
コミンテルンの陰謀か?
(^_^;)
むかし、むかし、マーク=トウェインは言った。
「真実を語るときに嘘をつく人もいるが、私は嘘をつきながら真実を語る」
ウソをつきながら真実を語る人をみつけたら、注目したまえ。
虚構だけが語りうる、真実というものがあるのだ。
例えば、可能性、とか。
♪ぽ〜にょ、ぽにょ、ぽにょ♪
*ゴドーを待ちながらバルトークを聴く*(2008.12.10)
「これは死期も真近なある惑星に起こった、二人の孤独な、やせた年配の白人の出会いの物語である」
〜カート=ヴォネガット『チャンピオンたちの朝食』 〜
「人の心の闇に光を送る、そういったことがアーチストの義務なのだ」
〜ロベルト=シューマン〜
「音楽を、耳の快楽、感覚の歓び、と考える向きには、カラヤンの音楽は最上のアミューズメントを提供するだろう。そのような聴きかたがあっても良いし、むしろ今日ではそのような聴きかたが一般であろう(略)。
ここで、ほんの少しの時間で良いから踏みとどまって考えてもらいたいと思う。音楽は、そのようなもの以上だと私は確信している。音楽は悟性の歓びでもあり得るし、認識の歓喜でもあり得るのだ」
〜宮下誠『カラヤンがクラシックを殺した』〜
「女たちは墓にまたがって出産する。日は一瞬だけきらめき、そしてまた夜になる」
〜サミュエル=ベケット『ゴドーを待ちながら』 〜
いきなりですが、バルトークに挑戦する「のだめ」。
20世紀が生んだもっとも優れた音楽家はバルトークとショスタコーヴィッチだと、私は確信している。
地球を来訪した宇宙人が、産業革命以降の地球人類について知りたいと思ったら、バルトークとショスタコーヴィチの曲を何曲か聴くだけで、……少なくとも西洋文化圏の枠内ならば、理解しておくべきことはほぼすべて知りえるだろう。
ただの一度も実現しないまま、内部から腐敗し崩れゆく『革命』の姿を描いたショスタコーヴィッチの『革命』。
人類がどこからやって来て、どこへ向かおうとしているのか、どこまでもまっすぐに見通したバルトーク。
とくにバルトークは……まるで、
地球に間違えて生まれ落ちてしまったアンドロメダ星雲の音楽生物のようだ。
カート=ヴォネガットの『タイタンの妖女』というSF小説にでてくる、ハーモニュームのように。
ハーモニュームは水星で暮している単細胞生物だ。美しい歌を食べて生きていて、歌を食べるたびに、まるで沖縄の海のような、美しい青に輝く。他には、たったふたつの言葉を互いに交信しあって会話をする。
その会話は、こうだ。
「私はここにいるよ」
「君がそこにいてよかった」
バルトーク・ピアノ協奏曲第3番・第1楽章。
バルトークは亡命先のアメリカで、のたれ死んだ。
ピアノ協奏曲第3番は、バルトークが、残されるピアニストの奥さんのために書き残した最後の作品であり、私が知る、もっとも美しいピアノ協奏曲だ。
バルトーク・ピアノ協奏曲第3番・第3楽章。
その奥さんも、結局、発狂して死んだ。
美しい歌を食べて、互いに
「私はここにいるよ」
「君がそこにいてよかった」
と交信しあいながら一生を生きるはずの生物が、どこをどう間違えたか、地球人として地球にオギャアと産まれた悲劇。
けたたましい騒音つつまれながら、誰も彼もがひとりぼっちで死んでいく世界で、戦いに明け暮れ、最後にはのたれ死ぬ。
バルトークの音楽は、この地球上における「私はここにいるよ」と「君がここにいてよかった」のロミオとジュリエット的悲劇だ。
かなり乱暴でとんちんかんなことを言っているようだが、実はそうでもない(と自分で言う)。
ともかく、バルトークのピアノ協奏曲を最後まで聴き終えた火星人は、圧倒されるに違いない。
--☆---
ずいぶん昔に録画したままになっていたNHKの劇場中継・『ゴドーを待ちながら』を鑑賞する。
『ゴドーを待ちながら』は不条理劇で、一本の木が生えているだけの殺風景な場所で、二人のフーテンが、ひたすらゴドーという男を待ち続けるというお話だ。
待てども待てども、ゴドーは現れない。それどころか、劇が終わっても現れない。お話の筋らしきものもないまま、待ち人ゴドーは現れず、劇は終わる。
なんなのですか、これは!
(;^-^ゞ
ゴドーというのは実はゴッド(神)のことで、二人のフーテンは神様を待ち続けているのだ、というのがよくある解釈らしい。まあ、そうかもしれない。
ヘーゲルの2項対立の弁証法を描いているのだ、いやサルトルだ、という意見を、どこかで読んだこともある。これは、さっぱりわからない。
なんだよ、いったい。
私なりに考えてみる。
私は、この二人のフーテンは、
無知を演じ続ける大衆の悲劇、をあらわしているのだと思う。
いや、もちろん、『ゴドーを待ちながら』はこのような薄っぺらなレッテルを這ってそれっきりとなるような作品ではない。
それ以上の作品だ。
ともかく、決してわかりやすいとは言えない作りになっているのも確かだ。
なんで、こんなわかりにくいお話を、金を払って鑑賞するのか。
わかりやすくない、ということからくる真実の重さ、というものが、ある。その真実の重さに触れたとき、もはや私たちは、無知を演じ続けることが出来なくなる。
ゴドーを待ちながら、バルトークを聴く。
ふと、ショスタコーヴィッチの二枚舌の音楽の、
二枚目の舌が別の歌を歌っていることに気がつく。
だらだらゴドーを待っていると、思いもしなかったような不思議な発見をすることが、ままあるのだ。
……仕事は適当に、な。
(^_^;)
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