*『ホームページのおもちゃ箱』の感銘と弟の嫉妬*(2003.8.31)
『ホームページのおもちゃ箱』で発表されているYOKO
YAHAGIさんの作品が大好きだ! と日記で書いたら、弟が、
「私が先にファンになったのにずるい」
とすねた。
(;^-^ゞ
いやあ、こういうところからクレームが来るとは思わなかった。なんなんだいったい。
弟には、良いものは良い、傑作は傑作、ファンに先も後もあるものかと言ってやったのだが、
「俺が教えてあげたのに、ずるい、ずるい」
とさらに言いつのる。
おかしなことを主張するものだ。が、弟のこういう言いぶんも、実はわからないではない。
ファン心理には、多かれ少なかれこうした独占欲がつきものだ。
基本的に感激屋さんの私は、ちょっとしたことで、素晴しい、面白いと喜ぶが、逆に弟は、大抵のことではびくともしない。その弟がこれほどご贔屓にしているのだから、その想いたるや、生半可なものではないのであろう。
日々感激してばかりいる私をたしなめるのが、弟だ。
なんでもかんでも、そうやたら感激するものではない、と弟は言う。なんでもかんでも感激するのは、感受性がゆたかなのではなく、むしろその逆だといつも弟に叱られる。本物にこそ、心を動かされるべきだ、と弟は言う。
おお、そういうものなのか、と私は感激し、さらに弟にあきれられる。
感激すべきは、例えばこういうモノに出会ったときであるべきだ、と弟は言い、『ホームページのおもちゃ箱』さんにアクセスする。
ふたりして、にまーっと喜ぶ。
(;^-^ゞ
YOKO YAHAGIさんのホームページ素材集の中から、弟のお気に入り中のお気に入りGIFアニメをひとつ、お詫びにご紹介します。
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*Copyright by YOKO YAHAGI* |
……すごい。
サッカーのジダンのプレイをみているときに思わず漏れる溜息と同質の溜息が、くちから漏れる。
そして、作品の素晴しさはもちろん、もちろんなのだけれど、この作品を手放しで褒めちぎる弟を見ていると、こいつ、すごいなあ、と感心したりする。
本当に感激すべきものがわかっているなんて、すごい。私には、とうてい追いつけない。
などと口走り、さらに弟に叱られるのであった。
*『ホームページのおもちゃ箱』の感銘*(2003.8.29)
『ホームページのおもちゃ箱』さんの作品が私は大好きだ。と、突然言っても何のことかわからない。
(;^-^ゞ
『ホームページのおもちゃ箱』は、インターネットでホームページ素材集を配布しているサイトのひとつ。厳密には、『ホームページのおもちゃ箱』はサイト名で、作品をお作りになっているのは、サイトを運営なさっているYOKO
YAHAGIさんだ。
ちなみに素材というのは、立ち上げたホームページに画像的な彩りをほどこすためのアイコンや壁紙、GIFアニメ等を総称して、いわゆるホームページの素材と呼んでいる。
そして、『ホームページのおもちゃ箱』さんには、これぞホームページ素材の傑作、と呼べる名作がずらりとそろえられている。
今夏の新作GIFアニメを、みなさんはごらんになられただろうか?
あれこれ言っていてもはじまらない。
4点発表されていらっしゃるが、そのうちの一作を……。
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*Copyright by YOKO YAHAGI* |
みなさん、ちょっと、どうです、これ!
空中で逆立ちしたままひねりを加えて、なおかつ、この涼しい顔!
何度観てもついつい興奮してしまう。
f ^ ^ *)
ちゃんと中身の詰まった、体積のある物体が動いているでしょう?
命を吹き込まれた、とは、アニメーションに対する極めて陳腐な形容になるけれど、しかしこれはまさしく、命を吹き込まれてしまったかのような動き。私のボキャブラリーの用法は陳腐でも、作品は陳腐どころじゃない、息を飲むばかりの傑作です。
『ホームページのおもちゃ箱』さんの作品をじっと眺めていると、母親に質問ばかりしていたころの自分をなぜか思いだす。
「おかあさん、これはなあに?」
「それはね」
お母さんは、私の質問に何でも答えてくれるのだ。
いつでも、どんなときでも、正解であることへの安堵感。
『ホームページのおもちゃ箱』さんの作品は私にとって絶対的な正解で、私には見えていないものもしっかりと指し示すことのできる存在なのだろう。
そうした印象が、子どものころの母親の絶対性とかぶるのだと思う。
こちらは質問すら思い浮かべることすらできないような高い次元で、正解をぽんと提出してくれる。どことなく、幼児にとっての母親然としているのだ。
ウエブブラウザに乗ってサイトにお邪魔すると、作品に出会う前にはまったく思いも浮かばなかった正解が、忽然と姿をあらわす。
出会った瞬間に、ああ、正解だと膝を打つ。
動きと運動法則についての理解の度合い、深さが、私とはケタ違いなのだ。
そしてこれらの作品群が、ホームページの素材というジャンルが持つ制限を、ちゃんと意識して作られているところも、ニクイ。
ページ全体の描画が遅れたりしないないように、あくまでも軽く、アニメもさくさくと動くように配慮されている。
しかし、ひとことで軽く作ると言っても、画像としての美しさやアニメとしての動きに支障をきたしては何にもならない。
ホームページ上での画像の軽量化は、ボクサーの減量にも似ている。減量したとしても、単に体重が減ればいいというものではなくて、ボクサーとしてのテクニックを発揮できるギリギリの線はやはり確保しておかなければならない。ホームページの素材もそれと同じで、画像が目に見えて劣化してしまったり、アニメの動きがギクシャクしてしまわないようにも気を配らなければならないのだ。
まさしく、試練の道。(^_^;)
ホームページの素材作りは、美観と軽量化とのあいだで折り合いをつけなければならない、厳しい作業なのだっ。
そのストイックさに、また感動する。
すごいなあ、見事だなあ、と、目を輝かせてひたすら感心している。
ただただ見とれ、ただただ手放しで感動するだけのぜいたくな時間を持つことの至福。
一瞬の動きの中に、たくさんの正解がある。
『ホームページのおもちゃ箱』さんの存在は、まだパソコンを買おうかどうかを悩んでいるときに、弟に教えてもらった。
インターネットという場所に、なにか、ただならぬモノが存在していると弟が言うのだ。
(;^-^ゞ
弟にうながされるままに『ホームページのおもちゃ箱』さんに出会い、素直に仰天して、今日に至る。
動きというものを視覚的にとらえるという作業をGIFアニメーションという手段を使って再定義するとき、『ホームページのおもちゃ箱』さんの作品は、私にとってある種の象徴になる。
その作品は愛らしく、ときにユーモラスなのに、その感銘がずしりと重いのは、そういう理由によるものだと勝手に思っている。
*『SFマガジン9月号』の女性作家特集の感想文*(2003.8.28)
買ったまま放りぱなしにしてあった『SFマガジン9月号』を読んでいる。
世間ではもう10月号が出ている。
(;^-^ゞ
『SFマガジン』を読むのは久しぶりで、もしかしたら5年も6年も前のことかもしれない。今号のテーマ『彼女たちのセクシュアリティ・女性作家特集』に魅かれて買った。
SFにかぎらず、私は、女性作家の書いた小説が好きだ。聞いたことのない作家の作品でも、それが女性名なら、魅かれるままに読んでほとんど間違いがない。
もちろん、ことさらに男性・女性と比較して歩くつもりはないけれど、男女の関係を突き詰めて考察するには、SFは最適のジャンルだから、こういう特集には目をとおしておきたくなる。
記事の中では、フェミニズムSF大会として名高いウィスコンシン州のWISCON20の報告記が面白かった。
フェミニズムSF大会というのが、まず興味深い。
「へえ、そういう大会があるんだ」
と、素直に驚いた。SF大会の頭にフェミニズムがくっついているのは、なんとなくほほ笑ましい。ほほ笑ましいなどというと、フェミニズム運動をしているひとたちから怒られるだろうか? からかっているのでも馬鹿にしているのでもないから、怒らないでください。
(;^-^ゞ アメリカ人のこういうきまじめさが私は好きなのだと、そういう話をしているつもりだ。
フェミニズムSF大会の特別ゲストには、アーシュラ=K=ル=グィンの名前もある。おー! 私は、ル=グィンのファンだ。彼女は、今年で74歳だそうだ。
ふわ〜、そうだったの! 今年の彼女は、反戦デモに参加し、ブッシュ大統領にバシバシ手紙を書き、スペイン語の勉強を始めたという近況だそうです。元気だなあ。
長らく短編作家だったのが、あるときから突然長編を書きはじめたキャロル=エムシュウィラーのうちわけ話も楽しい。彼女の旦那さんが生きているうちは、忙しくてとてもじゃないが長編小説は書けなかったが、天国に召されてようやく、長編を執筆できるようになったということです。
(^_^;)
今はおばあちゃんのキャロル=エムシュウィラーは、にこにこと屈託のない笑顔で、このお話をしてくれたそうだ。
うわあ、素敵なエピソードだなあ! などと言うと誤解を受けるかもしれないが、素敵なものは素敵なのだから仕方がない。
女性が男性をおいてけぼりにするような、そういうお話が私は大好きだ。
私は、男と女が互いに(もしくは一方が)敵対意識を持つようなタイプのフェミニズム運動は好きじゃない。いがみ合いの雰囲気が苦手だし、被害者意識もどうかと思う。それよりも、男なぞ相手にせず、先へ先へと階段を上がっていってしまうような、そういうヴィジョンが私のお勧めだ。
レポーターの小谷真理さんがフェミニズムSF大会の会場につくなり、パネラーの女性SF作家たちにつかまって、
「最近のアメリカって、へんでしょ」
と反戦の話題で盛り上がったというエピソードなどを読むと、私があれこれと感じるずっと以前から、男性たちはすっかり女性に遅れをとっているのかもしれないな、とも思う。
そうあってほしい、と私は願っている。
そうして、私の理想の空想世界どおりに、女性たちが男性たちを大きく引き離してしまったあとで、彼女たちはどうするだろうか? 以後ひたすら引き離し、私たち男性陣から見えない場所へと彼女たちは行ってしまうのだろうか? それともふりかえって、男性たちの処遇を考えるだろうか? 素敵に過激な空想だ。ちょっと、興味がある。
フェミニズムの話から少し逸れるかもしれないけれど、両性具有の人間(もしくは宇宙人)社会を描いたSF作品群がある。
両性具有、もしくは、男性から女性、女性から男性と、個人の性がなんらかの事情で入れ替わる人々(異星人を含む)が書かれた作品は多い。アーシュラ=K=ル=グィンの『闇の左手』から萩尾望都せんせの『AーA´』まで、多くの傑作が存在するアイデアだ。
これらの設定を土台にした小説世界の側から、現実世界であるこちら側を見つめてみると、さまざまな疑問がひとりでに胸の内に沸き上がってくる。
「性差とは結局言葉が作り出したものなのではないか?」という問い。「性差とは純粋に社会的な現象ではないのか?」という問い。エトセトラ、エトセトラ。
それらの問いは、「人間とは何なのか? 情愛とは何か? 本質的で人間的な関係とはどういうものなのか?」というより大きな問いかけへと収束していく。
*『E・T』は『いーてふ』の夢を見るか?*(2003.8.24)
玲子おすすめのミステリー小説を読んでみたのだが、これが、どこをどう面白く思ったらよいのか、さっぱりわからない代物だった。
サッパリとは、文字どおりサッパリで、理解の取っ掛かりさえ感じることが出きないでいる。自分のこの状態が興味深いというか、無視しきれないものを感じるというわけ。
面白くないとか、つまらないというのではなく、この小説の作り手が何を伝えたいのかが、私には不気味なほどサッパリだったのである。
ストーリーの流れも登場人物の配置も理解している。しかし、書かれているはずの面白さが理解できない。これが本当のミステリーだ。
(;^-^ゞ
この小説に限って言えば、感動も感心も驚きもカタルシスも何も私にはわからない。世間ではそれなりに評判をとっている小説のようだ。これはちょっと、薄気味悪い。
確かに、好きか嫌いかと問われれば、理解できないのだから好きな小説なわけはないし、ストーリーも、個人的には凡庸だと思う。だが、今は私の解釈の話をしているのではない。
作家の意図というものがまったく理解できないし、この作家の本を喜んでいる読者たちの理解の仕方にもまったく思いをはせられないというのは、何とも気持の悪い現象だ。
これは、私の感受性の限界なのかな、と不安になってくる。
こういうことは、ときたま起こる。
昔『E・T』という大ヒット映画があったが、これも私にはサッパリわからない映画だった。感動の名作というふれこみだったのに、何も理解できないままに、エンドロールが流れ出したときには、一種の脅威のようなものすら感じたりしたのを覚えている。
ストーリーはいたって単純で、UFOが難破して地球に不時着し、乗務員の宇宙人(E・T)はアメリカ人の子どもたちと仲よくなりまして、ちょっとしたアクションなどがあったあと、最後に無事に宇宙人の母星へと帰っていくという物語だ。
きっと、みなさんもご存知の映画なはずだ。
しかし、私には、この映画がなんなのか、今もってまったく理解できないでいる。
あの『E・T』がわからない!
こうして白状しながら、ああ、どうしようと、そわそわした気持になる。
私は、世間で大評判のあの感動の名作『E・T』ではなく、もしかしたら『いーてふ』とか『いーでー』というようなバッタモンを鑑賞したのではないかと当時、なかば本気で疑った。
そして、私が観た映画が正真正銘の『E・T』であることを確認し直したとき、薄ら寒いような、ひとり取り残されたような感覚を覚えたのであった。
まあ、あのまんがの神様、手塚治虫大先生ですら、『巨人の星』の面白さがサッパリわからずに、
「どこかどう面白いのか、誰か教えてくれ!」
と泣いたというエピソードがあるらしいから、それを慰めにしよう。
誰にだって、そういうことあるんだって、ね。
*Y=Tさんとの約束・序章「その長き道のり」*(2003.8.23)
湯本香樹実さんの『夏の庭−The
Friends−』のというヤングアダルト小説の文庫版を買おうとしたら、品切れをおこしていた。
む〜。
『夏の庭−The Friends−』は、絵本と木のおもちゃのお店『KIDSいわきぱふ』さんの腕利きスタッフ、Y=Tさんのおすすめ小説だったので、読んでみようと思ったのだが……。
ごめんねY=Tさん。
(;^-^ゞ
ハードカヴァー版のほうはまだ販売中のようだが、文庫版と千円ちがうのは、つらいなあ。
いや、買おう。
読むとY=Tさんに約束したのだから、なんとしても、読む。
買います、読みますY=Tさん。
だから、どんどん、面白い本や絵本の話を聞かせてください。……って、この日記、Y=Tさん読んでいないんだよな。
(;^-^ゞ
さて、このほど私は、自分の著作にサインなぞをする機会があった。
しかも、三冊いっぺんに。
そうなのだ、なんと私は本を出したことがあるのだ。
といっても、小学生のころに病院のベッドの上で書きためた詩を再編集した、いわば寝小便写真のような本なのだが。
その本に、作家気取りでサインをさせていただいたというわけなのだ。
しかし、作家気取りと言っても、汚い字で名前を書くだけでは申しわけないので、いかにも物書きっぽいひとことを添えることにしようと思った。
“ドウガネの色を背中のブイブイも
猫のごとくにそろりとまいろ〜”
どうだろう? 物書きっぽいだろうか? ドウガネ色のブイブイというのはコガネムシのことだ。当時、長期入院の子どもたちは皆、病院の灯に集まってきた虫たちを捕まえて、ビンに入れて飼っていたのだ。とくに、ドウガネブイブイという種類のコガネムシはよく捕れた。夏のあいだじゅう私は、手や体にドウガネブイブイを這わして、ぼーと過ごしていた。
もう一冊には、
“猫のおなかをそろりと撫でて〜
今日ののほほん噛みしめる〜”
と書いた。猫を飼いたい、猫に遊んでもらいたいという最近の私の欲求がよく表現されている、赤裸々で正直な一文だ(?)。
最後の一冊には、
“新聞ひらけば猫来たり〜
パンチくりだし邪魔をする〜
これをやんちゃとベッドの上で〜”
と記した。どれも猫ばっかり。
(;^-^ゞ
小学生の低学年のころは、猫は理想の生き物だった。猫になりたい、将来は猫に生まれ変わりたいと、そんな願いを抱いていた。謎めいて、美しく、機能的で、グルメで、我儘で、ニャーニャーとかわいい子ねこたちを何匹も育てる、猫は本当に素晴しい生き物だ。
そのころ抱いていた気持は、基本的には今も変わらない。猫にはなれないけれど、猫に出会えたというだけで、よしとしなければ。生まれて、今日まで生きてきたことを肯定する材料は、こういうところにもある。
*ツバメ観賞会*(2003.8.21)
玲子の参加している同人の会『ジョーカー』の催し『赤川鉄橋&ツバメ見学会』に飛び入り参加した。
我々一同の思惑としては、淀川べりをわさわさと飛び交うツバメたちを鑑賞しようという催しだったのだが、どういうわけか、夕刻になってもツバメさんたちはあんまり巣に帰ってこず、コウモリばかりが目立った観賞会になったものの、それはそれで、楽しかった。
こういうハプニングは、動物や子どもが相手の場合はよくあることで、むしろ、それが楽しめないようだと、こういう催しには参加できない。ツバメ見ないか、いたぞあそこだ、あちらにツバメだ、いやコウモリだと、ぎゃいのぎゃいの言いながら過ごす時間は、私にとっては貴重なものだ。
暗くなって、いよいよコウモリしかいなくなって、ご飯を食べていま帰って来た。
お風呂を沸かしながら、これを書いています。
お話によると、どうやらツバメというやつは、小さな虫を食べて暮らしているらしい。飛んでいる虫を空中でぱくりと捕まえる。旋回能力、急降下、急上昇などのドックファイトの能力に、特化された鳥だ。糸でひっぱられたように眼前ですっと急旋回してみせるツバメたちを見ていると、飛べない私たちは地上にべったりと張りついたままノロノロと動いているだけの生き物のように思われているのだろうか、などと考えたりもする。
ツバメというやつは、本当に見事な低空飛行をみせる。風を切るように、とはよく言ったものだ。トンボを別にすれば、もっとも華麗な飛行術をみせる生き物だ。
もっとも私の好みは、ツバメのような華麗な鳥ではなくて、インコやオウムのような、枝をわしっ、わしっとつかみながら移動する、けたたましい鳴き声の鳥が大好きなのだが、日本には、野生のインコは存在しない(野生化したインコはいるようだが)。
インドあたりに行けば、野生のオウムやインコが鑑賞できるのだろうか? ばさばさばさと騒がしく羽根を羽ばたかせ、不得意な飛行術を披露しながら、群れを作って朝焼けの中を飛んだりするのだろうか?
「ギャッ、ギャッ、ギャッ」と汚く鳴きながら、編隊を組んで飛んでいるオウムが見てみたいなあと、いまそんなことをふと考えている。
*スモークシグナルズ感想文*(2003.8.20)
日記と銘打っておいて昨日の話になるが、お昼の1時にNHKBS放送で『スモークシグナルズ』という名画を放送していた。
ぴあ関西版の放送予定表にも何の予告もなく、やぶからぼうにこんな名画を放送するやつがあるだろうか?
あわててビデオ録画の用意をして、テレビで鑑賞する。
果たして、みなさんはごらんになることができましたか?
この映画は、1998年時点でのネイティブアメリカンたちの生活を描いた映画だ。
原作、監督、プロデューサーが皆インディアンという、純潔インディアンムービー。
ネイティブアメリカンたちの生活を描いた、というよりも、彼らの目で見たらこの世界は? という映画だと言いなおしたほうが、私の興味により近いかもしれない。
とにかく、映画の中で描写される細かいディテールが素晴しい。もちろん彼らの生活は極貧、そのうえ、居留地というせまい地域に押し込められたまま前向きな夢や希望をなんら抱くこともできないといった厳しい現実はある。そうした環境は人々を絶望させ、大きな(インディアンたちの)社会問題を産み出している……にもかかわらず、世界観そのものは、目を見張るばかりにゆたかだ。
世界とは、これほどにゆたかでありうるのかと、冒頭のつらいつらい事故のエピソードからでさえ、感じ取ることができる。
私たちは人生という物語の中を生きている。そして、人間は、人生に意味を求める。猫や犬といった他の動物たちのことはわからないが、人間は、生きることにひとつひとつ意味を見いださないとやっていけない、そういう生き物らしい。
本当は、生きることに意味などないのかもしれない。しかし、それでは、ひとは納得しようとしない。自分が生きていくことや、自分の人生に意味があるのだと、そう信じることによって、明日を生きてゆける。そして、人生の系統だった意味を見いだすのに、物語は強力に作用していく。行き当たりばったりの偶発事故である人生を物語によって、構築し直し曲がりなりにも意味のあるものに作り直すのだ。ひとは、自分の人生の意味を物語として把握しようとする。
ネイティブアメリカンのひとたちにとっては、それは物語などではなく、それが世界のありかた、真実だろう。
居留地という名の一種の牢獄の中で、彼らの価値観、世界観も大きく揺らいでいるとは思うが、彼らにとってはやはり木も岩も命を宿している。それは文学的比喩ではなく、彼らの真実だ。電ノコで木を切り倒せば、彼らには木の悲鳴が聞こえる。本当に聞こえる。
くわしくは、金関寿夫氏の著作をご参照ください。
ネイティブアメリカンのひとたちが共有している世界観を、ここで仮に“あちら側”と呼んだとして、こちら側にいる私たちは、こちら側の客観的事実を主張し、我々の言う現実を絶対視する。彼らの世界をホラ話と否定する。我々の知っている現実認識法が、客観的に正しい世界の把握の仕方だと信じている。
実は、私たちの主張する客観的真実など、真実でも何でもなくて、いわば、おかしみも雄大さにも欠けるしょぼい物語の一種でしかない。
しょぼいだけでなく、私たちの物語は、世界に対して奇妙に残酷だ。こちら側にいる私たちは、周囲に対して奇妙な残酷さを発揮するのに有効な物語を共有している。もしかしたら、私たちは、これ以上生き続けるのが嫌になっているのかもしれない。
さて。
ずっと前に日記で書いたような気がするけれど、この映画はラストが素晴しい。
物語が収束に向かい、「ああこれでこの物語は終わりか……」と鑑賞者が早合点してから、実はもう少しだけ物語は続く。そして、素晴しいラストシーン。東京の恵比寿の映画館で観たときは、私を含めた観客の全員がいっせいに息を飲んだ、それほどのラストだ。このラストシーンのためだけにでも、一度観ておいたほうがよいと私は言いきれる。
感動のラストだとか、衝撃のラストだとか、そんな陳腐なものではない。こちら側にいる私たちの世界と私たちの自負する真実が、カーペットを巻き取るようにきれいさっぱりと消えうせ、その下から、純粋で圧倒的な力の感覚が沸き上がってくる。なぜ? も、どうして? も、どこに? も、解答もない。
すべての時間や空間的限界を打ち破り、すべての生命が“ここ”につどう、瞬間だ。
くり返すけれど、これは文学的比喩ではない。そこに力がおわします、のだ。
私は、この映画を観たのは3度目だが、やはり今回も、アメリカのドタバタアニメに出てくる猫のように、全身の毛が総毛立ったかのような錯覚を覚えた。
そして、通算3度目の涙を流した。
この映画を観て流す涙は、不思議な涙だ。感情の起伏がまったくなくて、勝手にはらはらと流れている。
この涙を流しているこの私とは一体誰か? と、涙は魔法のように私に問いかける。
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