*明日への活力となったか*(2009.8.31)
「アルコール中毒患者更生会に所属するわがすべての友人と親族よ---みなさんが酒に酔いしれたことは正しい。ときおりの陶酔の瞬間がない人生は、あの適切な表現のとおり、“水差しいっぱいの唾”ほどの価値もない。みなさんは陶酔のために、たまたま自分にとって猛毒であるものを選んでしまっただけである」
〜カート=ヴォネガット『死よりも悪い運命』〜
「人々が判断の道具を持つことを学ばずに、希望を追うことだけを学んだとき、政治的な操作の種が蒔かれたことになる」
〜 スティーブン=J=グールド〜
ひねたことばかり言うようだが、広告代理店の手の中で踊る選挙が終わった。「事情に疎い人間をひっかけてモノを売りつける」という市場経済システムの作りだす「世間の空気」とやらのでこぼこに、張り付くようにしながら展開される選挙戦だった。
「主権者たる国民が自らの力に目覚めた選挙戦」
という評価もある。
しかし、私に言わせれば、それがどうした、だ。
当時、もっとも民主的なワイマール憲法下で行われた「主権者たる国民が自らの力に目覚めた選挙戦」で、「現政権に鉄槌を、まずは政権交代」と、我先に
ナチスに投票した国民も過去にいたからな。
歴史の1ページが開かれたのは確かにそうだが、ヨーロッパががれきの山に。
真面目な話をすれば、「自公政権にNO」ではなく「自公政権の中味にNO」でなければいけなかった。
…… 結局のところ、私たちが目指すより良い明日とは、どういう明日なのか。
自民党と民主党の政策はどこかどう違い、
どこがどう同じなのか(←ここ、かなり重要)
「作り上げられた状況」と「民衆が望んだはずのもの」がイコールで結びつけられるという、何かの悪い冗談のような、腐った土俵の上で行われる民主主義制度というもの。
議論に耐えうる内容というものを指し示さないのは、最初からそんなものがないからだ。ならば、いっそ、はなから議論を放り出す、という暴挙に開き直って、繰り広げられるのは、国民総出のヒステリー大イベントだ。
有権者に向かって調子のよい「約束」をうんざりするまで連呼すれば、さあ、「明日の活力」という気晴らしとなったか。
結果は出た。
じたばたしても始まらない。
気分を変えて、ラップでもお聴き下さい。
「すべての言説を可能なかぎり疑う」ということができないから、世間の空気とやらにやすやすと乗るしか手が無い。つまり、財界と電通の敷くレールの上しか走れない。いつも後手に回り、結果論に終始する。「コイズミ改革に騙された」「イシハラ都政に失望した」うんぬん。そしてまた、別の約束に飛びつく。
わしはこれからしばらく寝込む! なんという恐怖!
*聖域なきラヴ・ストーリー*(2009.8.29)
「富は糞尿と同じく、それが貯蓄されているときには悪臭を放ち、散布される時は土を肥やす」
〜トルストイ〜
「きみたちは、労働の動機は経済的なものだと考えているね、金が入り用だからとか、利益を上げたいからとか。しかし金がないところでは、真の動機はもっとはっきりしているだろう。人々は好きで物事をするんだ。(略)つまるところ労働の目的は労働だ。それは人生の尽きぬ喜びだ」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
「われわれはただ、労働者が資本をふやすために生き、支配階級の利益が必要とするかぎりでしか生きられないという、この取得のみじめな性格を廃止しようとしているにすぎない」
〜カール=マルクス『共産党宣言』〜
「グッドウィルグループの派遣会社に登録している派遣社員です。派遣先は某自動車メーカーです。4割ピンハネされている現状は絶対おかしいと思い、たった一人で賃金闘争をはじめました!」の
『巨大派遣会社と戦うドンキホーテのブログ』さんの更新が、もう1年も途切れたままだ。
ご無事だろうか? 巨大企業相手に、たったひとりの戦いでは、無手勝流にも限度がある。
厚生労働大臣に「働く能力があるのに働かない怠け者に使う税金はない」「自立せーや」と言われてポイだもんなあ。
ここは群れるしかないんだよ。集団というのは確かに面倒なことも多いが、向こうはあまりにも強大だ。
なんか、こう、群れを作りましょうや。正社員の、非正規社員の、怠け者の、いくじなしの、貧乏人の、年寄りの、病人の、同性愛者の、オタクの、女性の、子どもの、ネクラの、近眼の、蓄膿の、どもりの、群れ。
でもな、群れなくても、競争社会で頑張って成功しているやつも確かにいるわな。いや、まじで。負け犬どもが群れてなにやってんだ、てなもんだ。
いや〜、この世界でもちゃ〜んと勝ち組がいらっしゃる。
規制緩和で「狼は生きろブタは死ね」
このほど、
人材派遣大手のパナソグループの取締役会長に竹中平蔵“慶応大学教授”が就任なさったそうです。
どひー!
聖域なき構造改革とやらで、結局天下り。まだ稼ぎ足りないのか!
“根っからの怠け者ども”が必死で稼いだ金をちゅーちゅー吸いとって、努力したものが報われる世界、だって。
勝利者ほど始末におえんものはないな。
マイケル=ムーアの最新作『資本主義:ある愛の物語』の予告編。
ラヴストーリィ、なんと甘い響き。
「愛とは決して後悔しないものよ。パンがなければケーキを食えや」
日本のラヴストーリィは、雨宮処凛さんがご紹介します。
おまけ。
『黙然日記』さんから、
スマップの『幸せな国のつくり方』という日本のド品格。
「自分たちで選んだ人なのですから、ちょっと大目に見て、応援することも必要なのかな、とも思うんです」
「そろそろ政治には、勇気をくれるようなものを期待したいところです」
げげえ!
「もっと勇気をくれ〜!」ってバタリアンじゃないんだ!
いい大人がそんなもの求めるなよ、マジかよ!
まあ、彼ら五人集に言わせると、「私たちの未来は、私たちの心の中にしかない」のだから、それをふまえ、「きょうから、「そっと、きゅっと」」生きていきます、行動していきます、あなたがたもそうしませんか、らしいからなあ。
(^_^;)
えー。不道徳なまでに恥を知らないその内容については、もうこれ以上はつっこまんわ。
ただ、気持ち悪いので、
「必要なのかな、とも思う」とか「くれるようなものを期待したいところ」って腰の引けた物言いはやめてほしい。
「くれるようなものを期待したいところ」って「内容は期待しない」とほぼ同義だよ。
ま、実際、内容を回避してモノ言ってんだろうけどな。
*ホラー・ナイト2*(2009.8.27)
「さてさて人間の心というものは、どこまで思い上がるものか。その厚顔無恥には際限がない」
〜エウリピデス『ヒッポリュトス』〜
「ざっくりと基本的なことを言えば、金持ちや権力者が社会の機軸をコントロールし、何を生産し、消費するのかを、そしてどの役立たずどもを自分たちの対象者から振り落とすかを決定するため、かれらが満足しないかぎり誰もが苦しめられる」
〜『チョムスキーの「アナキズム論」』〜
身も凍るようなホラー話、聞かせてあげようか。
わしも最近知ったんだけどな、2001年度から2005年度にかけての「雇用者報酬」(お給金のことな)は、4年間で8兆5163億円も落ち込んでいるんだってよ。やばいよな、公的資金投入で、企業に体力と競争力をつけてもらうか?
いやいや、まってくれ。わしらのお給料が兆単位で落ち込んでいるいっぽう、企業の「営業余剰」は10兆1509億円、増えている。
これがどういうことかわかるかね、未来少年。
非正規労働者たちが働いているにも関わらず、文字どおり飯も食えずにいる間に、企業は10兆円も儲けを増やしているってこった!
社員が非正規社員に切り替わって減ってしまったお給金がごっそり、企業の貯金にすり替わったという話だ。
♪ファンファンファンファン!(ジェイソン登場!)
しかしな、わしら従業員と違って、企業の役員のみなさまのお給金となると話は違う。お給金が減らされるどころか、連中の配当金は2倍になってるんだよ。
ぎゃあああ、宇宙ではあなたの悲鳴は聞こえないエイリアン!
景気回復とか無駄を省くだとか、
不景気や雇用問題を口実にさらに儲けてやがる!
あなたの財布を膨らますのは私が耐える痛みだけ!
し、し、し〜ほんしゅぎで、み〜んな耐えてこいこいこい。
『非国民通信』さんのところから、
『「利益をもたらさない」ことが重要になる』
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「利益をもたらす」ことではなく、「利益をもたらさない」ことを約束する、そんな政治家を国民が望んでいるのでしょう。似たようなタイプは今後も、増え続けることになりそうです。
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一部の人間が食いきれずに散らかした残飯を争って奪い合う市民という存在。そんな認識の上に築かれた日常。
ホラーだねえ。
--☆---
『暗いニュースリンク』さんのところに、特ダネすっぱ抜き男グレッグ=バラストの新記事がアップされていた。ちゃんと日本語に翻訳していただいている。ありがたい。
『医療制度改革とオバマ:98%チェイニー?』
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ジョージ・ブッシュ前大統領は同様の値引き交渉をメディケアに適用するのを止めさせるという暴挙に出たが、オバマはそれをひっくり返すと言っていた。ところが、トーザンの睡眠薬でめまいがしたのか、ブッシュの常軌を逸した割高な値引き交渉禁止政策を、オバマは今後10年間継続すると同意しているのだ。
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2007年のグレッグ=バラストの活躍。
*ホラー・ナイト*(2009.8.24)
「想像できますか、アメリカで最も信頼されている人間に、アメリカ人でありながら、猫がくわえてきたなにかのように扱われるところが!」
〜カート=ヴォネガット『死よりも悪い運命』〜
「誰かが何とかしてくれるなどと思えなかっただろう。そんな世の中だったとしたら、どうして今まで自分にはそれが訪れなかったのか、説明できないからだ。つまり、誰も何もしてくれない世の中なのだ……そう結論づけているように見えた。その結果が「自分は今のままでいいんスよ」という言葉である。典型的な自分自身からの排除だった」
〜湯浅誠『反貧困』〜
「かっては、貧しい多数者が、彼らを搾取する富める少数者を嫌って分離・独立したため、独立国家の数は1914年の62から今日の193に増えた。
(ところが)これからは、富める少数者が、貧しい多数者から分離することになる」
〜ジャック=アタリ『反グローバリズム』〜
多くの負け組たちが疲弊し始め、職を失い、病気を患い、結果、生活が完全に破綻してモノを買わなくなってきた。
なぬ? モノを買わないだと?
安月給でもモノは買えよ、大量消費社会が維持できなくなるだろうがア!
(↑政府広告↑)
よって、日本国政府はひきつづき、国家を支える新規・負け組を大募集中だ。
……まあ、システムそのものが狂ってるな。
そろそろ、KAIKAKU!!の痛みに耐えきれなくなって倒れる人々がバタバタと出てきた。人間の耐性も4年が限度、ということなのか。
しかし、すべては敗者の自らの弱さのせいにされて、自己責任でポイ。
「無駄をなくして財源確保!」の無駄って、わしらのことなのな!
いやあねえ。若いのに働きもせずに公園で寝ているざます。シッシッ! 出かけるときは、戸締まりちゃんとしまショ!
エロイムエッサイム!ネズミは滅び、猫だけが生き残るべし!
〈京都の「猫がくわえてきたなにか」〉
〈東京の「猫がくわえてきたなにか」〉
〈砂漠の「猫がくわえてきたなにか」〉
〈女性の「猫がくわえてきたなにか」〉
〈病人の「猫がくわえてきたなにか」〉
〈元・漫画編集者の「猫がくわえてきたなにか」〉
〈布きれの「猫がくわえてきたなにか」〉
〈厚生労働相の「猫がくわえてきたなにか」〉
貧しさ、病気、死よりも恐ろしいもの。
容赦なく排除しあえるように、と、計画的に育まれてきた憎悪と嫌悪!
なんだこりゃあああああ!
……と、地球に来訪した宇宙人は言うだろうな。
ホラー惑星、地球。
*アメリカの歴史*(2009.8.22)
「僕にとって会社というのは家族みたいなものだ。みんなで助け合う地域社会と言ってもいい。会社というのは競争力が大事で、もっとも貧しい社員、もっとも若い社員、あるいは、一番最近採用された人からクビにするんだってよく言われるけど、あれは間違っていると思う」
〜スティーヴ=ウォズニアック『アップルを創った怪物』〜
「見る値打ちのある物を、と言ったろうに。わたしはあんたにあんた自身の姿を見せてやったのさ」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『こわれた腕環』〜
「私たちがみな狂っていることを思い出せば、神秘は消え失せ人生は説明がつく」
〜マーク=トウェイン〜
地道に、実直に、民主主義の夢を現実のものとしていく。アメリカ合衆国から学ぶべきは、こういうところだと思う。
『デモクラシーナウ ジャパン』から。
『「リスナーのための放送局」パシフィカ・ラジオの60年』
かたや日本は、こういう伝統があります。
(^_^;) (^_^;) (^_^;)
*みんなのキャッチ22*(2009.8.16)
「民主主義のルールが機能すれば、ある決定によって権利を制限された少数者でも、言論によって自分たちの意見に多数の一部をひきいれ、後に利益を回復することを期待できる。したがって少数者は、少なくとも主導権が交代する見通しがあることで、多数者の権利の乱用から守られている。しかし市場主義の下、豊かな少数者が我慢しなくなり、多数を回復しようと望まず、多数者の幸せを重視せず、自分たちの利益を民主主義制度の維持よりも優先させるようになると、彼らは多数者支配から脱退する決心をするだろう」
〜ジャック=アタリ『反グローバリズム』〜
「人々は、あまりにも力の助けを借りて秩序を維持するのになれているので、圧制のない社会組織を考えることができない」
〜トルストイ『読書の輪』〜
アソウさんとハトヤマさんの党首討論が行われたのだそうだ。『非国民通信』さんのところから。
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私もまた繰り返し述べているところですが、鳩山の「官僚主導だからダメだ」という世界観こそが最も危険な要素です。これでは自民党政治のもたらした弊害を真に追求しきることはできないでしょう。結局のところ、都合の悪いことは全て官僚が決めたこと、自民党はそれを「止められなかっただけ」と考えているようなものですから。何よりもまず「官僚」を批判対象とすることで、それ以外に影響力を行使してきた存在、つまり政府与党や財界を脇に追いやってしまう、典型的なトカゲのしっぽ切りです。官僚にも責任の一端はあるでしょうけれど、まず何よりも自民党政治、構造改革路線にきっぱりと立ち向かうことが必要ではないでしょうか。そこが官僚批判にすり替えられては、政権交代など構造改革路線、財界の太鼓持ち路線の延命措置にしかなりません。
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何度も何度も繰り返し述べられた分析結果。何度も何度も繰り返す分析結果よりもひとつだけ多い失敗。
そのときどきの都合にあわせて、どうとでも解釈できるイメージを大量に消費し、自らの臆面のなさに踏んぞりかえり、具体的な方針も論理の道筋も何もないというような国のありようが、常態化して久しい。
権力のキャッチボールが行われて、有権者とやらは商品を購入するとき以外にゲームに参加することも出来ないというシステムがいよいよ本格的に動き出しそうだ。そんな戦慄すべき現状を、「二大政党制度」と名づけてしまえば、それで日本式民主主義の完結となる。
こんなものがどう民主主義だというのか。つまり、あなたには、キャッチボールのボールの行方を新聞などで確認しながら、お好きな政党のお好きな候補者に“自由に投票”する権利があるというのだ。あっちのグローブから、こっちのグローブへ。
官僚が悪い、公務員は庶民の敵だ、日教組が日本をダメにした、これからは自己責任だ、仕事がない、医者にかかれない、そうしたさまざま声も、グローブにボールがおさまる「スパン!」という音で、とりあえず解消されたことになる。
とりあえず、とは何事か、暮らし向きは悪くなる一方ではないか、というような意見が出たとしても、「みんながんばっているのだから、どうかご了承下さい」のひとことで切り捨てだ。効率良く経済を上向きに発展させていくために、みんな、犠牲を払って頑張っている。政権交代で歴史の一ページはひらかれたのだから。耐えろ、踏ん張れ、食いしばれ。みんなが投票して、みんなで頑張りぬく。みんなで政権を交代して、みんなで改革を推し進める。
「みんな」とは誰のことか? あなたのことか。しかし、あなたは、こんなものを望んだわけではない。私でもない。じゃあ、どの「みんな」なのか。
国民とは、あなたでもなく、私でもないのか。
答え。 あなたが「みんな」と同意見のときに--もしくは、商品を購入したときにのみ、あなたの国民としての顔が浮かび上がる。
とはいえ、このままよいわけもなく、「ええい、ままよ!」とばかりに私たちは歴史の1ページがめくられることを望む。それがどんなページであろうとも!
そのページに何が書いてあるか、何を書き込むかについては、あなたも私も「みんな」も、いっさいかかわれない。
うわあああ! 私に出来ることは驚愕すること。
うわあああ! あなたに出来ることは戦慄すること。
シーッ! みんなに出来ることは無理を極めて頑張ること。
「コイズミ改革」も「政権交代」も「道州制」も、細かい現状分析はさしおいて、結局、落とし穴であることにかわりがない。ぼっかり穴が開いていて、避けようもなく、あなたは落ちる。あなたが政権交代を支持しようがしまいが、投票しようがしまいが、不満だろうが不安だろうが、同じ穴に落ちる仕掛けだ。
ゲームは最初からいかさまで、あなたは100パーセント、カモられる運命だ。
ドボン! 落ちた! ホイ残念。自己責任ではい上がって下さい。服は上下とも買い替えろよ。靴下、安くしとくよ。パンツは今どきブリーフはカッコ悪いぜ、女の子に笑われるぞ。割れた眼鏡はフレーム大特価です。捻挫したら湿布も買えよ。明日の仕事にさしさわるといけないからな。あなたがはね飛ばした周囲の泥もきちっと拭いておくように。
いい教訓だったな、これからは注意深く“前だけを向いて”歩けよ!
あわわわわ『キャッチ22』
経済の建て直しのためには、なんでもありだ。
だから、「みんなの経済発展」「みんなの経済建て直し」だ。
「みんな」とは、新種の赤紙みたいなものなのか。透明で見えないが、有無を言わさず招集される!
何としてでも、維持せよ、守り抜け。そのための“改革”、変わらぬための“政権交代”……。ドボン、ボッチャン、見えない知らないそれでも聞こえてくる「みんな」の圧政。
再度問うが、「みんな」とは誰なのか。
*みんなの実現*(2009.8.14)
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
〜サン=テグジュペリ『星の王子様』〜
「その知的水準は、宣伝が目指すべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整するべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない。
大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい」
〜アドルフ=ヒトラー『わが闘争』 (゚
ロ ゚;)〜
「新語法の全般的な目的は思想の範囲を縮小するためだということが分からないのかね? 終局的には思想犯罪も文字通り不可能にしてしまうんだ。そうした思想を表現する言葉が存在しなくなるわけだから」
〜ジョージ=オーウェル『1984年』〜
元・某行革大臣が新党を結成したそうだ。政党名は、
「みんなの党」
なのだそうだ。……こういう言い方は無礼にすぎるとわかっていて言うのだが、質の低さ、というものにはとうに慣れっこになっているつもりでも、これには心の底から驚かされた。
(^_^;)
気が少し晴れる、暗い話ばかりではなく調子のいいことを言ってほしい、そういう大衆の願いを受け止めるための言葉として、このたび選び出されたのが、「みんなの」だ、ということなのか。それとも、掲げる看板が「みんなの」なのだから、当然、「みんな」から歓迎されるに違いない、という程度のものか。
ともあれ。この政党名に私が唖然としてしまうのは、あまりにもどうどうとした、その臆面のなさだ。
「みんなの」と言うからには、彼らもしくは彼らの支持者が、みんなの声を政治に生かし、みんなの力で改革を進めるというわけだ。そのかんじんかなめの「声」や「政策」とはどういったものなのか。実は、大衆とひと括りにされた「声」は多岐にわたり、「政策」の具体的な部分は色々と難しくまた面倒くさいので、いっそ「方針」も「展望」も全部はしょって、すると、わかりやすく大衆にうったえるかけ声としての「みんな」だけが残った。
自分たちの主張がそのまま「みんなの」なのだから、それ以外はがっさりと切り捨て、実に明快だ。とにかくすかっとしている。いいじゃないか。すかっとさわやかの精神で、どんどんすすめればいい。
なにより、すかっと開き直って自分たちの都合を最優先にしていく、という態度、内容を、「みんなの」というひとことで解き放ってしまえるのがいい。
民営化を力強く推進してきた人らしい、なんとも“民間会社的”な発想だ。
「みんなの」とは「全員のことだ」と言葉の受け手は普通に思う。となると、「みんな」と自称するこちら側と異質な意見、立場というものは、どうなるのか。どうなってもかまわない。そんなものにかまっていられない。あちら側はあちら側の自己責任で、自助努力をすればいい。
社内いちがん、火の玉だ。市場原理だ、競争だ。
他者というものをはなから考慮に入れない、自分たちとは異質な意見を意図的に無視してしまう、自分たちの都合だけを都合のままに言い張ってしまう、そういう前提に立って初めて成立する「みんなの」を、なんのためらいもなく言葉にする。疑問も抱くことない。そりゃあ、気分だって、すかっとくらいはするだろう。
あなたが勤める会社では会社の利害だけがすべてであり、会社の身内の利益がイコール「みんなの」だ。そのような会社的発想をそのまま政治の世界に押し広げたかのようなネーミングが、わかりやすく、気持ちが良く、大衆に歓迎される。
少なくとも、歓迎されるとふんでの、政党名だ。
なんでもとことん正当化すればいい。正当化するための方便、言葉づかい、解釈はいくらでも出てくる。
……。掘りたての墓穴のような、妙に生々しい絶望。
--☆---
悲観主義者から見たこの世界。
プロバタリアンたちの星、ロシアアニメ編。
自民党も民主党もマスメディアも目をそらし続ける単純な真実。
おばあちゃんの知恵、ロシアアニメ編。
「幸福実現」と名づけさえすれば、半ば以上それが実現されたように思い、「みんなの」と宣言すれば、それだけのことで、自分の都合がみんなのための主張であるかのようにたちどころに正当化できる。
「戦慄すべき質の低さ」というものを基盤として権力は盤石となり、社会全体が考える力を失った結果「幸福」が身近なものとなる。
ものの本質をすりかえ、自分自身に嘘をつく、そうやってなんとか、日常にしがみつくように生きていける、会社大国、ニッポン。
少なくとも日本という国では、未来は真っ暗だ。
おまけ。
『政権交代といってもこの程度』
政権交代したあと、どうするのか。そんなことは有権者が気をもむことではない、私たちがぜんぶうまくやっておきます。という改革。
*女性たちの沈黙*(2009.8.11)
「「おれは帰らない。帰らないぞ」とタウザーはいった。
「おれもだ」ファウラーが答えた。
「帰ったら、おれはまた犬にされてしまう」タウザーが続けた。
「そしておれは、人間にされてしまう」とファウラーはいった」
〜クリフォード=D=シマック『都市』〜
「こんな、こんな、苦しい思いをしたことは、レチアは生まれてはじめてだった! 彼女は助けを求めたのに、見放されたのだ! あのひとはわたしたちを見すてた! ウィリアム・ブラッドショー卿は親切なひとじゃない」
〜バージニア=ウルフ『ダロウェイ夫人』〜
「嘘は奴隷と君主の宗教だ。真実は人間の神様だ」
〜ゴーリキー『どん底』〜
リアルプレイヤー、もしくは、フラッシュ動画でどうぞ。
『デモクラシーナウ ジャパン』から、アミラ=ハスの母親の苦悩の人生。
『「ベルゲン=ベルゼンの日記
1944-45」 アミラ・ハスが問う母の沈黙』
いつも難民でいたがっていたという女性の沈黙の半生を、その娘が語る。
--☆---
エロゲー規制騒動から端を発し、「表現の自由」をどうとらえるか、暴力をともなうような性表現を規制すべきかどうか、といった問題で、ネット上で大変な議論が巻き起こったが、それがまだ続いている。
こちらとか。
ストロースが持ちだされるわ、もう、大変なことに。
ローチつったら、ケン=ローチしか知らない
私などは、ついていくのさえ大変という。
(;^-^ゞ
知的に深まっていく議論というものをハタから眺めているのは個人的に大好きだから、そういう意味では、いつまでもやっていて欲しい気もする。
もうずいぶん昔のことになるが、どこかの芸術家が、十字架に貼り付けになったキリスト像を小便の入ったガラス瓶の中にひたして「芸術だ!」と言い張り、大顰蹙を買ったことがあったが、不謹慎かもしれんが、
あれはめっさ笑えた。
かと言って、、あんな子どもだましの他愛のないものを、芸術だとも思わないけれど。
確かに、真の芸術と呼ばれているものも最初は、社会への冒涜ととらえられていたりするわけだ。でも、小便に浸したキリスト像なんてものは、ただの冒涜以上にはなっていないだろう。
……笑えたけど。周囲が大騒ぎするのが笑えたのだ。
(;^-^ゞ
そして、このあたりが、私個人の興味だ。
えー、何が言いたいのかというと、
ラース=フォン=トリアーの新作『アンチキリスト』は芸術なんですかね、それとも、観客をひたすら傷つけたがっているだけなんですかね。
(^_^;)
ヨーロッパでは、女の子とこのトリアーの新作映画を観に行ったために、
「こんな映画を面白いというような人とは二度と映画は観に行けません!」
と振られる男の子が続出している模様(マジ)。
革命なのか、それとも、単なる嫌がらせか。
まあ、トリアーの性格からすれば、やりがたっていることは革命なんだろうけれども。
失敗、つーこともあるからなあ。
彼の作品は、「まさか、ここまではやらないだろう」というような残酷なやり方で女性を痛めつけるので、個人的には、目を背けたくなるくらい苦手。
しかしそれも、トリアー自身が、何かに激怒している結果だということもわかっている。
何に激怒しているのか。例えば、この地球における、女性の辛い立場、といったものに、だ。
もう一度念を押すと、私の興味は、そのあたりにある。
そして、議論は流れ流れて、科学の問題になっていく。
『「子供の死」と「死んだ子供」』
おまけ。
女子高生VS某宗教団体
おまけ2。
親子で平和を考える催し』を妨害する“自由”と“権利”(笑)
*花火*(2009.8.9)
「この『解放のイメージ』ときたら……。「利用できるわ」! だめだ、だめ、だめ、だめ! まったくナンセンスくだらん!」
〜ラース=フォン=トリアー(映画監督)〜
「頂点、権力が位置する場所には、盲人が腰を下ろしている。自分の目を少しずつ曇らせてゆくことによってのみ仲間の上に立つことができる、そんなふうに世の中ができているからだ」
〜シオドア=スタージョン『たとえ世界を失っても』〜
「労働者階級の目標は搾取からの解放である。この目標はブルジョアジーに置き換わる新たな指導的、支配的階級によっては達成されず、達成することはできない」
〜アントン=バネトーク『階級についての五つの論点』〜
『かめ』さんのところから、高崎経済大学八木教授のぶっ飛び発言。
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「政権交代可能」であるためには2つの政党の有する価値観、政治イデオロギーに質的差異があってはならない。
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具体的に申しますと、自民党と民主党は看板が違っても、中味は一緒でなければならないと、えらい大学教授がおっしゃっているわけです。
ある種の無限地獄のただ中で、市場のお許しにより投票する権利だけは保証されているわけだ。
わしらの民主主義! ありがたや!
オザワさんと某府知事ハシモトさんが意気投合して地方分権を語り合ったそうな。
彼らの言う地方分権とはなんなのか。
地方自治に対する国の責任はほっぽらかして、めいめいお好きにどうぞ、はい、知事が好きにやらせていただきます、というだけのことだ。
中味なんてどうだっていい。かっての「痛みに耐えて構造改革」に匹敵するような、気持ちのいいイメージ言葉でありさえすれば。
未来なんてあるわけない、の『非国民通信』さんから、
『民主は転ぶよどこまでも』
♪あ〜 崩れてしまえぇぇ〜 跡形もなく流されていく愛の形〜♪
一言一句、胸に突き刺さるような歌詞ですね!
(^_^;)
……転ぶも何も、政党の総意として、「権力を奪取する」以外の目的を持っていないのだから、ひたすら風の吹くままに、どこまでも流れていく糸の切れた凧同然だ。
そして、糸の切れた凧のように風に流されるという点においては、自公政権と基本的な性質は同じなのだ。
「歴史の新しいページを開く選挙」とやらをペシミストの私が冷ややかに眺める。
日本という国は、いま、はっきりと右傾化している。民主党の“躍進”とやらも、歴史を変える選挙とやらも、左派に支えられているわけでもなければ、自由主義者が風(笑)を作っているわけでもない。
保守の風、右傾化の波だ。
外交政策を筆頭に、政治に内実というものがまったくともなっていないから、自尊心というような問題だけが国家存亡の一大事かのように語られる。
男性の権威だの、民族の誇りだの。中国の脅威だの。
そうした現状になみなみならぬ危機感を感じている人間もまた多いが、風に飛ばされ、波に押し流され、妥協を繰り返し、いつものレールの上を走り出す。
現状は待ったなしだ。危機的時代だ。とにかく走り出すべきだ。しかしちょっと待ってくれ。車両が変わっても走るレールが同じならば、私たちの到達地点は変わらないではないか。座席がふかふかになった。揺れも少なくなった。以前の車両よりもずいぶん快適になった。「有権者の怒り」「民衆の要求」が、そんなどうでもいいものにすりかわる。
車窓から、花火が見える。
美しい。人気の知事様たちが威勢よく打ち上げる花火だ。
派手に炸裂して、色とりどりの閃光をまき散らし、むなしく消える。
まだ打ち上がるのか、などとあきれ返りながら、私はもう花火を見ていない。心は現実から逃避して、私も知らない場所を彷徨っている。
おまけ。
「否定で迫って真実にアプローチする」の一例。
「英霊をけがすな」アメリカ版。『Apes! Not Monkeys! はてな別館』さんから、
『原爆投下に対する米国市民の認識』
=======================
国境の向こう側で語られていることの主語と目的語を入れ替えれば国境のこちら側で語られていることとそっくりであるわけですが、両者は同じロジックに基づいているが故に対立しあうことになります。国境をこえた連帯が可能なのは、自国の過ちを直視しようとする者の側なのです。
=======================
なんとかっこいい台詞!
いっぽう。
「肯定で迫って気分に浸る」の一例。
『田母神が講演会「ヒロシマの平和を疑う」で核武装論をぶった』
*映画の怪物*(2009.8.6)
「映画はD=W=グリフィスで始まり、アッバス=キアロスタミで終わる」
〜ジャン=リュック=ゴダール〜
「キアロスタミは、映画が表現しうる最高水準の芸術性を具現化する」
〜マーティン=スコセッシ〜
「キアロスタミの新作を観て励まされた。パーソナルで、独特の語り口を持っていて、しかも知恵がある」
〜エミール=クストリッツァ〜
「キアロスタミの映画は映画を超越している。映画のなかの映画なのだ。今まで僕は自殺を考えたことはなかったが、彼の作品を観て、真剣に自殺を考えた。何を隠そう、遺書まである」
〜竹中直人〜
世界の巨匠アッバス=キアロスタミ監督『10話』のワンシーン。
映画を撮ったことがある人ならわかると思うが(そんな人がどれだけいるかは知らないが)、この映像、どうやって撮影したのかさっぱりわからん!
『10話』オープニング動画
「なんだ、ダッシュボードにデジタルカメラを固定させれば、だれでも撮影できる映像じゃないか」とあなたは思うだろうか?
無理だ。
そんなモノは映画どころか、わずか5分間ですら、観れたものにはならないはずだ。
ところが『10話』はちゃんと映画になっている。
そもそも、これだけの長ぜりふを、ワンカットではないにしてもこれほどのロングカットで、どうやって撮りきったのか?
しかも映像ときたら、デジタルカメラの特性を逆手にとってさえいる。
バケモノが。
キアロスタミに対して、映画の魔術師、という言い方を、ネット上などでよく見かける。
確かに、なにをどうしたのか想像さえできないような作品を彼は発表する。しかし、アクロバティックな映像や物語ですら、彼にとっては実は単なる手段だ。
“それ”を使って、何を啓蒙し、何を伝えるか……。
感動もなければ癒しもない。感動などしている場合ではない。発見をし、想像力をめいいっぱい働かせ、脳が悲鳴を上げるほどに思考する、映画がそれを要求してくるからだ。
私はその要求にどこまで応えられるか。ここから先は、私にはほとんど何も語れない。ありとあらゆる意味で私よりもはるかに優れた人間とその作品に対して、うかつなことは語れない。
想像を絶する、唖然とする、たまげる、この世ならざるものを観た、次元の違う傑作だ、などなどと称賛の声を並べてみせるしかない。
あとは、彼がスクリーン越しに楽々とこなして見せる芸に青息吐息でついていく、ということができるだけだ。
それだって、私のつたない能力では、ちょっと気を許すとあっというまに遠く置き去り、という状態だ。
最近は、芸術、もしくは芸術家という言葉も、「新商品のアイデアを巧みに売りつける人、もしくは生産品」という程度の意味でしか使われないが、本来は、芸術家とは彼のような人を指し、芸術とは、彼の映画のような作品を指すはずだ。
--☆
巨匠アッバス=キアロスタミ監督を「キアちゃん」と呼ぶ関係のどひえつこサンのブログ、『どひえつこのパタティパタタ』から。
『キアロスタミ来日』
アッバス=キアロスタミ監督と16年間にわたって家族づきあいをしている、という親しさから、ビクトル=エリセとの往復ビデオレターなどという、映画ファンの誰もがいっせいに振り返るようなプライベート・フィルムをご披露してもらった、ということらしい。
なんとうらやましい。
アッバス=キアロスタミ監督の諸作品のメイキング・フィルムというものが本当にあるというのなら、いちもにもなく観てみたい。
*SF大将*(2009.8.3)
「好むと好まざるにかかわらず、我々人間は世界中の人間と密接に関係しあっている。そればかりではない、すべての植物や動物とも係わり合っているのだ。我々の生命は互いに絡み合っている」
〜カール=セーガン『百億の星と千億の生命』〜
「おれは、おまえたち人間には想像もできないものを見てきた。オリオン座のそばで炎に包まれた宇宙戦艦。タンホイザーゲートのオーロラ……」
〜映画『ブレードランナー』〜
「シリル=コーンプルース、シオドア=スタージョン、コードウェイナー=スミスといった人々を通じて、SFは少しずつ単純な種族差別主義から抜け出す方向へ進んできました。(略)
自由、平等、同胞愛といったラディカルで未来的な奥深い概念に対する、少し真摯な考察がなされるようになってほしいものです」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『アメリカSFと他者』〜
『SF本の雑誌』という本を購入。
内容は基本的に座談会形式で、例えば、『本の雑誌が選ぶSFオールタイムベスト100』という企画を「作家、書評家、翻訳家として活躍するSF愛に溢れる3人が」選出してみせる、というような内容だ。
テーマは何であれ、日本人の手による座談会を活字にしたものを読むたびに感じる個人的な失望と違和感は、「どうして座談会になると、語り手たちはやたらぞんざいな振る舞いをみせたり、不必要にけなしたり、権威をふりかざすようなそぶりを見せたがるのだろう?」という疑問とワンセットになっている。
A「ラファテヒやディレイニー、ライバーあたりも入れたいなあ」
B「選ぶならディレイニーだな」
C「どれ?『アインシュタイン交点』でも『ノヴァ』でもないでしょ」
というような会話自体は別にかまわないが、どこにも行き着くことのないこのような会話をなんの工夫もなしに活字にして読まされるのは、ちょっとつらい。
まあいいか。わかって買ったんだから。
漫画家とり・みき氏の『SF大将・特別編』目当てに購入した本だ。
SFの定義について、作中人物たちが喧々囂々とやり合うという内容だ。
SFとは、なにをもってSFなのか。
「SFとは思弁的寓話である」「異議あり科学考証なくして何のSFかっ」「我々は相対価値観同盟です」「エンタテインメントであるべき」「セカイ系が」などと大騒ぎだ。
そのドタバタぶりを眺めて、あっはっは、と笑う。SFに興味がない人間が『SF大将・特別編』のこのコマを読んでも、「なんなんですか、これは?」と言うしかないだろう。
SFファンとは、結局、オタクでしかありえないのか。
ためしに弟にも読ませてみた。
すると弟は、
「SFの定義ごときでなんでこんなやり合うの? SFの定義、それはずばり
思考実験の審美的表現
これで決まりでしょ」
と言った。
あんたが大将、あんたがSF大将。
(;^_^ A
☆☆『SF本の雑誌』から、面白そうな引き文句をご紹介……。
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蛇腹になった胴体をちぢめて胃を圧迫し、反芻をするジャバラウシ、鼻のない大形の猿ハナモゲラ……。こうした生物たちが、捕食の関係ではなく乱交の関係を基礎に生きているわかったとき、ポルノ惑星は「愛(エロス)」のユートピアとしての全貌を明らかにする。いいかえれば、「いやらしいもの」だけが生き残り、母の愛に酔っていかされている世界。ダーウィニズムを転倒し、フロイディズムを援用した進化論SFの傑作……
筒井康隆『ポルノ惑星のサルモネラ人間』
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人間の百万倍の速さで生活する体長5ミリの知的生命体・チーラ。観測用宇宙船から見守る人間のもと、驚異的スピードで進化し、ついには人類と接触する。しかし、人間がちょっと休憩しただけで通信の相手が死んでしまったりするのでやっかいだ(笑)。
自分と相手の違いを自覚し認めあうという、人類普遍のテーマ「コミュニケーション」について深く考えさせられる……
ロバート=L=フォワード『竜の卵』
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SFって、ほんとうにかわいい。
(^_^;)
あ、話は変わるんだけど、ロバート=シルヴァーバーグ、最近ぜんぜん聞かないんだけど、どうなったんですかね?
『時間線を遡って』とか『時の仮面』とか、陰気で本質論的なSFを書く人。
古本でも見つけにくくなってきた。残念だ。
*君よ八月に熱くな〜れ*(2009.8.1)
「国家資本主義が現代に向かって発展していくとともに、経済、政治、イデオロギーの諸装置は、これまで人類が築きあげたあらゆるもののなかで、全体主義的理念にもっとも親和性の高い私的専制権力の諸制度にいよいよ支配されることになった。半世紀前、政治経済学者のロバート・ブレイディはこう書いている。「企業の内部では、あらゆる政策は上位の権力から発せられる。政策を決定しそれを執行するこの権力連合体のもとで、すべての権力は必然的に上意下達され、すべての責任が〈その逆に〉下位から負わされていった。これが『民主的統制』に相反するのはいうまでもない」
〜『チョムスキーの「アナキズム論」』〜
「市場と民主主義の両方に共通する原理は、政策綱領についても、候補者についても、消費対象についても、企業家であれ賃金労働者であれ労働の形態においても、あらゆる領域において選択が自由であるということだ。これによって、顧客、つまり消費者や選挙人に対して絶えず新しいものが提案され、その結果、現在あるものの価値が低くなってしまい、新しいということが価値になる。自由によってますますせわしなくなり、早いということが重視される。
また、政治状況、社会関係、職業既得権、愛情関係が不安定になる。その皺寄せは、まずは最弱者である子どもにくる」
〜ジャック=アタリ『反グローバリズム』〜
某レイシスト衆議院議員が女性タレントの写真を勝手にポスターに無断使用したとかしなかったとかで、世間ではちょっとした騒ぎになっているのだそうだ。
『きまぐれな日々』さんから
「論外!城内実が眞鍋かをりさんの写真をポスターに無断使用」
いや〜。
論点をずらすようなことを言ってあれなんだけど、みんな好きなんだねえ、
芸能ゴシップが。
鬼畜ブログ『郊外のカナリアも死にました』さんから、
「自民党支持者のみなさん、なんでそんなに消費税上げてほしいの?」
そんなこんなで、世間は政権交代の期待とやらに熱く盛り上がっているようだ。
世間が熱くなればなるほど、私の絶望は深くなる。なぜか。きっと、私がペシミストだからだ(しつこい)。
国を挙げて変革を求める、しかし内容は吟味しない。内容を吟味しようにも、その土台となる知識もなければ、勉強をする気もさらさらない。だから、内容などはなから放棄して、党内の内輪もめだの、独裁知事さまの威勢のいい放言だのを、やいのやいのと語って、それが私たちの「政治参加」だ。
新型車両に乗って、眺めるいつもの風景。私たちの旅は続く。環状線で。
ジャック=アタリというひとの本を読んでいたら、「最近の主流理論」というものが分かりやすく紹介されていた。
以下引用。
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最近の理論によれば、市場のグローバリゼーションは、民主主義のグローバリゼーションをひきおこす。事実、歴史はわれわれに、ひとつの事象が他の事象を支えることがあるのを、教えてくれる。市場が定着するためには民主主義が必要である。民主主義が発展するためには市場が必要である。双方はともに、新しいコミュニケーション手段の条件である透明性をもつことで補強しあっている。
この一世紀で、民主主義の数は著しく増加した。西欧における最後の独裁は、スペインで、ついでギリシャで、ラテン・アメリカで、消費社会の進展によって失墜した。さらに東欧の若人が恐怖に打ち勝ち、共産主義の終焉への道を開いた。(略)
ひとたび政治・経済の自由化の好循環が始まると、すべての市場民主主義は自然に自己発展していく段階に達するとみられている。そうなると今日、世襲の神権政治や野蛮な帝国がそうなっているように、民主主義以外の政府形態が時代遅れになるときがくるだろう。市場のグローバリゼーションが民主主義を誘発するのである。
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なんたら、こうたら。
いや、アタリ氏もこんな牛のクソみたいな話、信じていないんだけどね。
(;^-^ゞ
アタリ氏自身がこのあと「生憎そのようなことはおこらない」と否定しているように、「市場のグローバリゼーションが民主主義を誘発」したことなど、ただの一度もない。
いや、文句言ったって、実際にそうなんだからしかたがない。
市場が定着し、資本主義が繁栄するためには、
民主主義制度よりも独裁制や全体主義のほうが何かと都合がいいということは、一党独裁の中華人民共和国がこのほど証明したんじゃないでしょうか。
(;^-^ゞ ん?
……えーと? なんか、ややこしいな。私たちが目指す「新・自由主義」社会の実現のためたには、全体主義が理にかなってると……? おれたちの求めている、自由ってなんだ?
(;^-^ゞ
少なくても、「資本主義の繁栄の道」のヒントは、中国の全体主義制度にあったというわけ。
ゲブゲフ。
つーわけで、「(市場)自由主義」、「(排外)民族主義」を掲げるみなさまの理想の社会像が、露骨に全体主義的なのは、不思議でも何でもないんだね。市場は、少数(場合によってはかなりの数にのぼる“少数”)の貧しい人々の不満を規制し、罰することによって、より効率良く機能するものだからだ。
♪あ〜あ〜 川の流れのよぉにぃ〜♪
アタリ氏に言わせれば、こうだ。
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市場主義によって貧困、失業、大学卒業者の就職難は今後も長く残り、これが独裁者と反啓蒙主義への温床になるからである。また、民主主義は、グローバリゼーションを自分に有利なように利用する市場主義と対立して、動揺し、分断され、窒息するからである。暴君による独裁を引き継ぐのは、市場による独裁である。
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おめでとう。
*暗いからダメ『大陸漂流』*(2009.7.29)
「ボブの生と死の間に起こった出来事のすべてを知ったところで、世界は何一つ変わりはしない。しかし、彼の生を祝福し、死を悼むこと、それは、世界を変える」
〜ラッセル=バンクス『大陸漂流』〜
「きみは人間が完全無比な正義の化身だと思い込むあまり、そこに長い歴史があったのを忘れてしまっているんだ。人間は食べるためだけでなく、慰みのためにほかの動物を殺してきた。隣人を奴隷にし、対立者を殺し、他人の苦しみを見ることに、邪悪で嗜虐的な歓びを味わってきた。われわれがこれからの航海で、人類よりはるかに宇宙の支配者としてふさわしい、ほかの知的生物に出会うことも充分ありうるんだ」
〜A=E=ヴァン=ヴォクト『宇宙船ビーグル号の冒険』〜
「受け入れる心になるまでは、音楽も意味のない騒音にすぎない」
〜ヒンデミット〜
ペシミズムは私のひそかな趣味だが、
ちっとも人気がないのな、ペシミズム。
(;^-^ゞ
しかし、人気がない、単なる個人的な趣味、では済まされない部分もあって、つまり「悲観主義は悪」、とまではけっして言わないけれども、「あまりよくない傾向だ」と考えている人たちは実に多い。
あまりよくない心的傾向、という位置づけが悲観主義になされている。おそらく、それほどめずらしいことではないだろう。
「悲観主義、まあなんと立派なことですね」
などと言う人はまずいない。
(^_^;)
そういう有り様だから、「外からとやかく言うことではないけれど」とためらうような調子で切りだされ、ともかく結論としては「あまり褒められた考え方、感じ方ではない」のだから、誰かに言われたからということではなく、自ら「そのような世界観から抜け出すように努力してはどうか?」という助言もたびたび受けてきた。
悲観主義を趣味にしている私は、中学校を卒業するころにはすでに、実に様々な方々から、
「もっとワクワクすることに目を向けて」「暗く考えちゃいかんよ」「逃避するな」「人生前向きに」
というようなお説教をたっぷりと浴びてきた。
言われたこちら側としては、とまどいもするし、閉口もするし、ある種の恐怖も感じてきた。
身の安全を図るために、意見を求められても基本的にイエス・ノー以外はだんまりを決め込んでいるつもりだが、どうしても滲み出てくる部分はあるもので、結局、正体がばれてしまう。私の精神的露出趣味も原因なのだろうが。
(^_^;)
「なぜそんなに暗いのか」
「なぜそんなに辛辣なのか」
これらの問いかけも、結局のところは、遠回しになされるやんわりとしたある種の非難であって、まあ、悲観主義は非難されるべきなのかもしれないが、非難されようが助言されようが、どうにもならない。
もちろん、あちら側の言い分、というものがわからないわけでもないのだ。
どうあがいても、どのように過ごしても、同じ今日という一日を過ごさねばならないのなら、やはり気分よく過ごしていたい。私はそうだし、あなたもそうなのではないか。しかし、あなたはペシミストで、世界を暗く陰うつに眺め、出てくる言葉も批判的なものばかりで、顔色もどす黒い(笑)。あなたの世界観があまりにも悲観的にすぎるからだ。それでは辛かろう。それに、周りの人間にしたって、あなたの悲観主義にことあるごとに接触するのはけっして気分のいいものではない。支え合い、はげましあい、勇気づけあって社会というものは維持され、発展していくものだ。だから、ペシミズムはあなた自身にも良くない。周囲にも良くない。社会を明るく前進させていく力にもならない。
したがって、あなたもこれからは、元気に、希望を持って、友愛を信じ、積極的に、前を向いて、楽観的に、明るく、くじけず、頑張って、社会と関わっていくべきではないか。
……ごもっとも。
あれもダメ、これも嘘、と切り捨てていき、残ったものが真実だ、なんて、
禅寺じゃあるまいし
というわけだ。
「否定でせまって真実にアプローチする」ということよりも、自らの指で「希望を指し示す」ということのほうが重要だ、という意見に、なにも反論したいと思わない。
ネクラで、ごつごつしていて、巨視的かつ虚無的で、病的なペシミズムは、禅寺の内側だけで充分だ。
(^_^;)
重ねて、ごもっとも。
ごもっともはごもっともなのだけれど、私が困るのは、私が私であることが周囲の人々にとって、「そういう考え、ちょっと変えていったほうがいいよ」であることの、生きにくさだ。
私の個人的な恐怖の問題。つまり、私にとってペシミズムは
生死を分けるもっとも重大な要素だ。
生き残りたければペシミスティックであれ、と私が私に囁く。「その発想がそもそも間違っているんだ」と言われても、これは私の内面、私個人の問題だ。そして、ことは生存に関わる問題だ。
事実にこだわれば、批判的にもなるだろう。気分さえ良ければ他はどうでもいいというのでなければ、辛辣にもなる。現状をまっすぐに見つめれば悲観的にもなる。誰よりも早く異変に気がつけば、ひとりで大騒ぎもするだろう。
「なぜそんなに暗く考えるのですか?」
それは私がペシミストだから、まだ死にたくないから、としか答えようがない。
「明るく」「希望を持って」なんて、個人的には冗談ではない。悲観主義を自分のものにすることもなしに、どうやって「より良い明日」にたどりつけるのか?
妙なこと言ってます? 言ってんだろうなあ。
いや、もちろん、間違っているのは私だ。
正しいのは皆さんだ。
私は長い後退戦を戦いながら今日まで生きている。
でも、それはいいことなんでしょう?
ラッセル=バンクスもヴォネガットもマーク=トウェインもフィリップ=K=ディックもジョージ=オーウェルもドストエフスキーもゴーゴリもカフカもバルトークもショスタコーヴィッチもタルコフスキーもイヨネスコもブレヒトも良いんだけど、
「暗く陰鬱でなければもっと良い」
というような意見は、かなり多い。
かなり多い、というのは、私もウブなころは、ラッセル=バンクスやヴォネガットやマーク=トウェインやフィリップ=K=ディックやジョージ=オーウェルやドストエフスキー(以下もろもろ)たちを啓蒙して回った経験があるからだ。結果は、「暗い」「ニヒリズムが作品をダメにしている」「未来への明るい展望が決定的に欠けている」「やだあ」「気分が悪くなった」「こんなものを読んでいるからダメなんだよ」、もう言われ放題。
楽観主義かなんか知らないが、よくもまあタルコフスキーやブレヒトをあれだけスッパリとけなせるものだ。
(;^_^ A
ほんと、ペシミズムは人気がないね。この世界で、それなりに意味のある何事かを希求しようとすれば、そりゃあ、楽天的、というわけにはいかないと思うがなあ、というのは私の意見にすぎないか。
(;^_^ A
まあ、私だってそれなりに学習するから、今はラッセル=バンクス『大陸漂流』やジョージ=オーウェル『1984年』を他人に紹介したりなど、けっしてそんなことしません。
明るく、力強く、ポジティブなショスタコーヴィッチの交響曲作品というものがあれば、それが、現状よりもさらに良いショスタコーヴィッチだ、という意見を面と向かって言われて、私は絶望のあまり、ペシミズム啓蒙運動をやめた。
こんなことを続けていたら、ことの成り行き、世の成り行きによっては、私はシベリア送りになると気がついたのだ(←こういうこと書くからなあ、また)。
(^_^;)
……。と。
「ペシミズムはひそかな趣味」とか何とか言いながら、それでもきっと私のどこかに、まだ、ペシミズムを啓蒙したいという気持ちがあるのも事実なんだろうと思う。
ペシミズムは人類存続の鍵だと私はかたくなに信じており、そして、この地球上で、
私一人が生き残ってもしかたがないから。つーか、そんなこと無理だから。
ほんと、やめとけばいいのに……。
ただ、なんつーか、現実の反映、現実への抵抗、そういうもろもろをペシミスティックであるとか、ニヒリスティックでないとか、そういう尺度で……あ、もうやめます。
(^_^;)
シニカルな響きがダメ、ショスタコーヴィッチ
……最後に。ここまで長々と書いておきながら、自分の言説をひっくり返すようなことを言うんですが、私が感じている倫理的圧力って、本当に正当なものなんだろか?
異質なもの、気にくわんものが侵入してきた(この場合ペシミズム批判)→倫理的圧力とみなす→人権侵害だと異議を唱える、というのは、最近の流行だけど、本当にこれでいいのか、悪いのか。
善し悪しの問題ではなく、程度の問題だ、妥当性の問題だ、という気もするけど。が、流行はとりあえず疑ってみる主義だ。
……何が言いたいの?わし。
(^_^;)
暗いからダメ、ラッセル=バンクス。
*最近買った本・マンガ・DVD*(2009.7.27)
「この生活に参加することは、もちろんわれわれにはないでしょうけれど、われわれはその生活のために今生きています、働いています、そう、苦しみなやんでいます。われわれはそれを創っているのです」
〜チェーホフ『三人姉妹』〜
「時がすぎて、私たちは永久に去ってしまい、私たちは忘れられる、私たちの顔も声も、どれほど私たちがいたかということも。
けれども私たちの苦しみは、私たちのあとに生きるひとたちのためにはよろこびに変ってゆく」
〜チェーホフ『三人姉妹』〜
「ところがあなたがた所有者は孤独なのです。みな牢獄につながれている。山ほどの所有物に取り囲まれながら」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
『東洋の呼び声 拡がるサルボダヤ運動』という本を買った。
「サルボダヤ運動」とは、資本主義を通過せずとも、スリランカの小さな山村とかでも社会主義は可能か?という試みのこと……らしい。
SF!SF!SF!
☆
村上春樹氏の『アンダーグラウンド』を今ごろになって読む。
地下鉄サリン事件の被害に遭われた方々62人へのインタビュー集だ。村上氏がひとりひとりにインタビューした、それぞれの人物像というものを、言葉を駆使して、立体的に描いてみせるその手腕はやはり、見事と言うしかない。まるでその相手一人ひとりに、実際に会ったことがあるかのような臨場感だ。
1995年3月20日、なぜ、あの地下鉄サリン事件は起きなければならなかったのか。
村上氏は「自律的パワープロセス」とか、「アンダーグラウンド(地下の世界)」とか、えろうむずかしいことをおっしゃっているわけだが、私なりに優しい言葉に言い直すとすると、それは、
心の復讐
というような言葉になる。
すべての人間的価値を貨幣の排泄物とみなし、ありとあらゆる事象を商品化し、目に見えるモノだけを信じて前進していく社会のただ中では、心などというものは、陳腐な形式以上の何者でもない。
例えば、タクシーに乗ったら、これ見よがしに
「真心の安全運転でお客様をなんたら」
などと運転手の座席の裏に書いてあったりする、この寒々しいまでの広告文がまさに、私たちの言う「心」だ。
あまりの無残さにうめきごえをあげ、コンビニやファーストフードに入店すれば、さっそく、店員たちの「真心」の接待だ。
……空虚さの極地。
どれだけ空虚でも、それが売り物になるなら、タクシーの座席の裏にぺなぺなと張り付き、自動扉をくくって来店する客に明るく笑いかける“いつもの”笑顔。そうやってどうにかこうにか、かろうじて価値を認められる「心」というもの。もしくは、会社や上司や教師や親たちが、社員や部下や生徒や子どもに向かって振りかざしたり、押し付けたりするさまざまな理不尽さを、じゅっぱひとからげにすくい上げて効率良く虚飾する言葉としての「心」。
これがまさに「日本の心」の内容のすべてだ。
どうでもいいもの、めんどうくさいもの、売ることも買うこともできないもの、だから存在してはならないものとして社会から徹底的に軽んじられてきた心は、やがて、社会への復讐を誓う。
☆
ホラーの帝王スティーヴン=キングの息子さん、ジョー=ヒルの処女短編集『20世紀の幽霊たち』を読んだ。
映画『ゾンビ』の撮影現場(例のショッピングモール)を舞台にした短編が面白かった。……面白いというより、妙に懐かしい、と言ったほうがいいか。
☆
最近購入した本リスト。
あいかわらずマンガばっかり読んでいる。
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・『東洋の呼び声 拡がるサルボダヤ運動』
・『悪霊にさいなまれる世界』(上下)
・『人権と国家』
・『アンダーグラウンド』
・『ハリウッド警察25時』(警察小説)
・『SF本の雑誌』(SF)
・『ザ・ロード』(SF)
・『20世紀の幽霊たち』(ホラー)
・雑誌『月刊アフタヌーン』
・雑誌『スタジオボイス8月号』
・雑誌『MacFan』
・雑誌『将棋世界』
・雑誌『スポルティーバ』(オシム・インタビュー)
・漫画『ちはやふる3』
・漫画『ちはやふる4』
・漫画『ちはやふる5』
・漫画『おおきく振りかぶって12』
・漫画『おしゃれ歌留多』
・漫画『いぬばか18』
・漫画『特上カバチ17』
最近購入したDVD。
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・『動物農場』
・『ありふれた奇蹟』
・『ソルジャー・ブルー』
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おまけ。
漫画家の労働組合長(笑)、佐藤秀峰せんせの戦いは続いているわけですが、漫画家、一色登希彦センセも反応なさっておられます。
『番外 「“雑誌”の ネットでの無料配信」について』
おー……。
こりゃあ、佐藤秀峰センセ、業界から
消されるかもしれないな。
(^_^;)
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