*“のだめ”でガーシュイン*(2004.8.28)
クラッシックのCDを購入。
バッハ? モーツァルト? ドビッシー? ストラヴィンスキー? ……いえいえガーシュインです。
ガーシュイン!! がーしゅいん、しゅいん、ゅいん、わんわ、わんわ(響くこだま)。
ガーシュインってクラッシックなのかよ、と、一部には申されるかたもおられることでしょう、えっ? ちがうんですか? ……ま、古典とは呼べないわな。
お財布持って出かけたときは、マーラー買おうと思ってたのに、それがいつのまにか、ガーシュインになっておったのだ。
漫画『のだめカンタービレ』がイケナイのである。
『のだめカンタービレ』の主人公の“のだめ”ちゃんたちが、学園祭で演奏したのが、ガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』だ。テレビのコマーシャルでよく流れてたから、皆さんご存知だろう。
漫画の話なんだけれど、この学園祭のエピソードが秀逸で、どうしても忘れられなかったの。
で、マーラーの6番が、気がつけばガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』に化けてしまったといういきさつ。
しかし、学園祭での“のだめ”ちゃんたちの、お客を楽しませるための演出はみごとだった。
なんと、“のだめ”ちゃんは着ぐるみを着てピアニカを演奏する! 沖縄で野生化し害獣化したマングースの着ぐるみだっ! わおお、クール!! コンマスの身もだえ演奏もセクシーで、絶妙なまでに学園祭らしくて楽しい。祭りなんだもんな。
CDは、バーンスタインの指揮のものを購入した。
バーンスタインは、映画『ウエストサイド・ストーリー』の作曲をしたひとだ(だったよね?)。有名な指揮者であり、もうひとつ言えば、反戦活動家だったひとだ。
アメリカらしい、どこまでもあっけらかんとしてくったくがないガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』に、うっとりするような音の豊かさを感じる。バーンスタインは、やっぱ、いい。好きだなあ。音が元気よく跳ね回りながら、なおかつ格調高い仕上がり。繰り返しになるけれど、ホント、いいす。
このアルバムには、小澤征爾指揮の『パリのアメリカ人』も収録されていた。これも、いかった。演奏に、なんつーか、ストーリーがあるんだよね。
非常にお得なアルバムであった。
話は戻って、バーンスタインは、反戦活動家だった。彼のそういった人間性、周囲のいやがらせなどにも屈しない精神力のようなものは、彼の音楽にも反映されているような気が(よくわからないけれど)、私にはする。
つーことで、バーンスタインをリスペクトする意味から、反戦つながりで、マイケル=ムーアの日本語サイトをもう一度ご紹介しておこう。
http://www.michaelmoorejapan.com/
です。
*平和の祭典だい、あとはヨロシク*(2004.8.26)
イラクのナジャフでは連日の米軍の猛爆撃と猛砲撃で、市民は頭も上げられないありさまになっているようです。また、自衛隊駐屯地サマワ近郊では、日米にっくきをスローガンのイラク人たちが放つ砲弾が、ぼっかんぼっかん落ちているようです。
が、すでに日本国民は、遠い砂漠のどんぱち騒ぎにすっかり飽きてしまっているようです。
「え〜、まだ戦争してんの〜、うっそダ〜」
ま、フセインもつかまったし、あとはなるようになるんでしょ、てなもんです。正直、興味ないんだよ。
悪いテロリストをやっつけるために、えらいさんたちがいろいろうまくやってくれてるんでしょう? リモコンでチャンネルかえよっと。え、誤爆? 手足がもげた? わざとじゃないんだ、どーもゴメン。
手足のもがれた子どもの画像なんか見た日にゃ、気持ちふさぐんだ、やめとくれ。わしら日本人は、金メダル奪取が続く深夜のオリンピックで寝不足だもん、いちいち気にしちゃおれないよ。
オリンピックに浮かれ騒いで、メダルの数を何度も数え直すほうが楽しいんだよ、私らは。なんせ、平和の祭典スからね。
ワーイ、平和、平和。
ところが、非国民な私は、オリンピック関連のテレビ番組はこれまで一秒も観ていない。いや、別にかたくなになっているわけではなくて、どういうわけか興味がわいてこないんだよね。
ともかく、そういう調子だから、周囲の盛り上がりからはまったく蚊帳の外。
寂しいかぎりです。
柔道で金メダル、ほー。
マラソンで金メダル、へー。
体操も? まー。
話がかみ合わず、そのうち向こうも黙っちゃって、どーんと沈黙が。
(;^-^ゞ
今日は、ひぐちアサせんせの新刊漫画『おおきく振りかぶって』2巻を購入した。
『おおきく振りかぶって』の掲載紙、『月刊アフタヌーン』も同時購入。今月は『おおきく振りかぶって』が巻頭カラー。表紙絵も飾り、人気も上々のようだ。ファンとしては、うれしい。
『関西版・ぴあ』も表紙買いで購入。
なんせ、マイケル=ムーアの似顔絵だもんね。……私、基本的にミーハーなんですよ。
あ、そうそう。前年のアカデミー賞授賞式でのムーアのスピーチですが、ようやく入手しました。QuickTimeムービーです。
「ブッシュ、恥を知れ!」
のあの名スピーチね。
あの雰囲気の中で、普通、言えませんよ。いや、アメリカ人の負けじ魂つーのを、まざまざと見せつけられた。
この動画ファイルは、家宝にします。
あ、マイケル=ムーアの日本語サイトがオープンしております。
ご紹介しておきましょ。
http://www.michaelmoorejapan.com/
です。
*漫画『のだめカンタービレ』8巻までの読書感想文*(2004.8.22)
漫画『のだめカンタービレ』7〜8巻を読み終わった。
この作品は、クラシック音楽の世界を舞台にしているだけれど、“のだめ”ちゃん(野田恵、略してのだめ)も真剣にピアノに取り組みだして、いよいよ目が離せない展開だ。
「人生の極意はスポコンにあり」ということで、気分屋の天才ピアニスト“のだめ”ちゃんも、とうとう本気になるときがきたのデス(のだめ話法)。
ごはんを食べるのが大好きな“のだめ”ちゃんが、寝食を忘れてピアノに向かう姿……。
涙を誘いマス。
主人公・千秋はどうしているかというと、仲間たちと、いきなりオーケストラをたちあげる。ホンマかいな。
演目は、ブラームス。
……またブラームスか。
いや、文句があるわけじゃなくて、ブラームス、知らないんだよね(苦笑)。
じゃあ、ブラームス以外なら知っているのかというと、やっぱり知らないんだけれども。
好きなクラシック音楽をあげろと言われれば、カラヤン指揮のベートーベン交響曲6番『田園』、ピアノはアシュケナージをあげるようなミーハーの初心者です、私は。
チャイコフスキーの『悲愴』、エルガー『威風堂々』、小学校の放課後に流れたドボルザーク『新世界』、中学の音楽で歌ったシューベルトの『ます』……。あげればあげるほど、ミーハーまるだし。恥ずかしいかぎりデス。
クラシック音楽は、クラシック音楽を聴くためのおべんきょ(のだめ話法)をさらりとでもしておかないと、心から楽しむことができないので、面倒といえば面倒である。
クラシック音楽を聴くためのおべんきょとは、なにか。
がっぷり数をこなして聴くことである。
たくさん数をこなして聴いていくと、同じモーツアルトやショパンを演奏しているようでも、演奏者や指揮者の解釈による違いがわかってくるし、聴く側の好みもできてくる。古典落語の楽しみかたとよく似ているのだ。
……わかってくると面白くて仕方がないんだけれど、これが面倒なんだよなあ。
オカネかかるっしょ。
しかし、『のだめカンタービレ』を読むと、シューベルトの『未完成』や、ストラヴィンスキーやチャイコフスキーといったクラシック音楽が聴きたくなってくるのも事実。バッハもいいなあ。
そういえば、ポリーニのショパンのCDはどこに行ったのだろう? 初めて買ったショパンだ。ブーニンの『革命』と聴き比べてみたくなった。
倉庫のダンボール箱を開いて、しまい忘れたCDを探してみよう。
*『あのころ、私たちはおとなだった』の読書感想文*(2004.8.21)
アン=タイラーの小説『あのころ、私たちはおとなだった』を読んだ。私は、アン=タイラーのファンである。
私はアメリカ人の書いた小説、特に女性の書いた小説を、意識的に注目しながら読むようにしている。そのなかでも、特にお気に入りの作家さんだ。
どうしてアメリカの女性作家の作品を意識的に読むのかというと、単純に面白いからで、本屋を40分ほどうろつき、聞いたこともない女性名の作者の小説をひょいと買ってしまっても、まず失望することがない。
失望どころか、その大半は、目を見張るような傑作小説だったりする。
これは、うれしいことではないか。
まったく前知識のない小説をいきなり手に取って、それが傑作小説という結論を得るならば、なかなかのハッピーエンド体験だと思うのだ。
ジェイン=アン=フィリップス、エイミー=ヘンペル、ボビー=アン=メイスン。私がアメリカの女性作家の面白さに気がつきはじめたのは、彼女たちの作品からだった。
アーシュラ=K=ル=グインはタイトルに魅かれて買ったくちだが、スーザン=マイノット、メアリー=ゲイツキル、リサ=グリュンワルドは、“スーザン”や“メアリー”や“リサ”という女性名だけを頼りに読んで、仰天した記憶が今も鮮明に残っている。
アン=タイラーとも、そういう形で出会ったのであった。
『プリージング・レッスン』、『ここがホームシックレストラン』、『夢見た旅』、『もしかして聖人』、『歳月の梯』、『パッチワーク・プラネット』……どれも大好きだ。
今回の『あのころ、私たちはおとなだった』は、いきなり大量の登場人物が姿をあらわして、頭のなかを整理するのに少しだけ苦労したけれど、読みはじめれば、やはり夢中で読み込んでしまう素晴らしい内容だった。
漫画家のひぐちアサせんせは、将来、日本のアン=タイラーになるかもしれないな、と、タイラーの小説を夢中で読みながら、そんなことも少しだけ感じたりした。
ひぐちアサせんせが、40歳代、50歳代の主人公たちの物語を描いたならば、とてつもなく読みごたえのある作品ができあがるのではないか、というのは、いちファンの暴走気味の夢想だけれども。
現実には、漫画作品の主人公の年齢設定は、さまざまな事情から少年少女からせいぜい30歳代前半までであることがほとんどで、40歳代、50歳代の主人公を描いても、まず発表の場が見つかりにくいだろう。
でも、期待しているのだ。
さて、話かわって。
私の弟は、現代アメリカ人の書いた小説をあまり評価しない。
「アメリカの孤独は、飽きた。もういいよ」
と言うのだ。
まあ、わからないでもないな、と、私は思う。
ちょっと乱暴すぎるところはあるかもしれないけれども、飽きた、と言いきってしまう当たりに、ある種の健全さのようなものを感じさえするのだ。
でも、アン=タイラーは、いいよ。
*お釈迦さま☆Macさま☆大仏滅*(2004.8.16)
ずいぶん前になるが、仕事パソコンが突然お釈迦になって、大慌てしているという日記を書いた。その後日談を書いておこう。心配しているひともいるかもしれないからね(いない、いない)。
仕事パソコンがお釈迦になったとは、この場合、具体的にはどのような状態をさすものなのか。まず、そこから説明しよう。
ハードディスクがおっ死んだのである。
起動中にハードディスクが回転を止め、カリとも言わない。
CDで立ち上げようが、ノートン先生で起動してみようが、ハードディスクそのものをまったく認識しないという状態。極めて深刻である。
さまざまな事情から、MacOS8.1というやや古いシステムを使っていたのだが、ハードディスクが死んでしまっては、システムも、データーも救出しようがない。
まあ、データーは、MOや外付けハードディスクなどにこまめに(でもなかったけれど)バックアップしていたので、被害は最小限にとどめることができた。問題は、以降のデーター作成をどうするか、だ。
Mac全体のチェックをしてみたところ、ほかの部分はいたって健康そのもののようだ。ハードディスク、ハードディスクだけの問題なのだ。そう考えると、なんともくやしい。くやしいが、これはつまり、ハードディスクだけをとりかえれば、無事動き出すはずなのである。
私は太っ腹に、流体軸受けタイプのハードディスクを購入し、セットしてみた。
……ところが、認識しない。
なぜだ、どうしてだ。
私は慌てた。
ハードディスクが問題なのではなかったのか?
こうなると、私の手には負えない。正直、ハードディスクのとりかえや、メモリの増設ごときでさえ、おっかなびっくりなのだ。
専門家さんに修理してもらうか? いや、修理に出している時間はもうないのデス。
締め切りなのデス。
一秒でも早く、古いシステムを動かすことのできる古いマシンが必要だ。早急に!
あわわわわわ。
私は弟とともに、日本橋の中古ショップに走り、ふたりでお金を出しあって、メモリをたくさん積んだ一品を購入した。
購入したとたんに全身が安堵感にすっぽりとつつまれ、その安堵感のみちびくままに、残った小銭で、『楳図かずお・漫画フィギア』を大量にオトナ買いして、
「よかったね、ニイチャン!!」
「ウシャ、 ウシャ、ウシャ!!」
などと喜びあったのであった。
……。
溝江純の豆知識。
「ホラー映画は、ほっとしたときが、いちばん危ないという法則がありマス」。
ほっとさせておいて、どんでん返しがあるのである。
暗やみに、頭のでっかい宇宙人とか、脳みそくれ〜とかいう死人とかがひそんでいる、かならず。
そして、人生とは、基本的にホラーなのである。
そう。購入したMacは、きっちり起動した。スカジー機器も認識した。さまざまなソフトウェアもインストールした。
さあ。さあ!
……イーサネットでLANが組めないのである。
この中古品は、いきなり不良品であった。
がび〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!
あー、神様。
心臓止まるかと思った。
いや、ほんと。
ここまで書いて、どっと疲れた。
思いだし疲れというやつね。
その後は、ネットで中古品を探し、急いで購入。
3日後に商品は届き、無事危機は乗り越えた。
のですが。
……粘着系ホラーは、まだここでもエンディングではない。
最後のどんでん返しが待っているのだ。
……。みなさん、心の準備はいいですか。
もとの故障したMacね。中古品を購入した途端に、いきなり、流体軸受のハードディスクを認識しました。
あああ? 中古のMac、いらなくなってしまったの?
おいおいおい、Mac余っちゃったよお。
なんだよ、なんだよ、なんなんだよ〜(※当時のリアルな音声をお届けしております)。
当時の精神的ダメージを顔文字にすると、以下のようになりマス。
(┐ ̄  ̄┌) ゲッソリ。
いやあ、流体軸受のハードディスクってすごいねえ、メチャクチャ静かで高速だあ(やけくそ)。
中古で購入したMacは、接続できるモニターがないため、部屋の隅で今日も所在なさげである。
G3マシンで、能力的にはまだまだ現役で活躍できる。なんとかしてあげたいものだ。
*短編集『不思議のひと触れ』の感想文*(2004.8.14)
シオドア=スタージョンの短編集『不思議のひと触れ』を読んだ。私はシオドア=スタージョンの大ファンである。
スタージョンは、大傑作から、原稿料ほしさのやっつけ仕事でしかないものまで、作品のデキにかなりばらつきがある作家なのだけれども、傑作となるとこれは息を飲むばかりの大傑作を書くひとでもあるのだ。
私は、手に入るものはとりあえず片っ端から読むことにしている。
収録作品は、『高額保険』、『もうひとりのシーリア』、『影よ影よ、影の国』、『裏庭の神様』、『不思議のひと触れ』、『ぶわん・ばっ!』、『タンディの物語』、『閉所愛好症』、『雷と薔薇』、『孤独の円盤』の全10編だ。
結果としては、表題作を含め大傑作と呼べるようなものは、残念ながら『孤独の円盤』一作きりだった(『孤独の円盤』という見事なタイトルで、傑作でないはずはない)。
ま、しょうがないよな。
とは言っても、じゅうぶん魅力的な作品もあり、少なくともスタージョンファンなら、手元に置いておく価値は絶対にあると思う。
『タンディの物語』は、長編『コズミックレイプ』と共通するアイデアだし、『閉所愛好症』は、作品のバランスの悪さは気になるけれど、スタージョンの人間観がストレートに出ていてファンとしては読んでいて気分が高揚してくる。
この作品の中で、スタージョンは、登場人物に以下のような長ぜりふをとうとうと語らせる。
「地球人類にほぼ普遍的に見られる精神的な緊張状態は、対人関係に原因がある。(略)ほとんどの人間にとっていちばん理想的な集団はなんだと思う? 家族よ。自分が隅々まで知りつくしているなじみ深くて閉ざされた家庭環境。家族同士はたがいに無条件でわかりあえて、コミュニケーションに障害をもたらすのはあかの他人だけ。外部の人間だけが予期できない。だからこそ、地球人類特有の文化的狂気が生まれる。異種恐怖症--よそものに対する恐怖がね。(略)」
異種恐怖症とはうまく言うものだなあと、ひとしきり感心した。
「地球人類にほぼ普遍的に見られる精神的な緊張状態は、対人関係に原因があ」り、私たちは絶えず“家族”と“家族ではない他人”の2種類に人間を振りわける。
そのような行為がさらなる混乱と「人類特有の文化的狂気」を生みだす……。
同意、だなあ。
アテネオリンピック開幕の日、アメリカ軍はイラクに大規模空爆をおこない、多数の民間人の死傷者を出した(よくもまあ……)。だけど、日本のマスコミはまったく騒がないのね。
なぜだろう? なぜだと思う?
ニューヨークにあった高っかいセンタービルに旅客機がつっこんだら、上を下への大騒ぎだったのとは、えらい違いだ。イラクにおける民間人の死傷者は、すでにとてつもない規模にふくらんでいるというのに、私たちときたら、女子サッカーチームがスウェーデンチームに勝ったと言って、スポーツ新聞を買いあさるのである。
うん?
アメリカとそこに住むひとびとは私たちにとって家族であり、アテネでボールを蹴っているのも私たちの家族の代表であり、それに対して、イラクのひとびとは垣根の外側のよそものなのだ。ようは、そういうこと。
外出するとき、ドアには鍵をかけますか? もちろんだ! セコムの防犯システムも導入しているぜ。しかし、それでも私たちは一抹の不安をぬぐいされない。なぜならば、私たちがよそもの呼ばわりしているひとたちにも家族はあり、もしくは、必死で家族を求めているからだ。
ともかく。私たちの度を越した文化的冷酷さは、このようにして生成される。
それから先は、コップラの『ゴッドファーザー』のような日々が、うんざりするほど長い年月にわたって、続いていくのである。
もちろん私もまた地球人であり、重度の異種恐怖症を患っている者であるから、心情はいやというほど理解できる。だが、狂気は狂気であるし、病気は病気だ。
ヴォネガットの「拡大家族」の理論を鼻で笑う人がいるが、実践すれば、実はかなり有効かもしれんね。
スタージョンは、小説の最後に、こう登場人物に語らせる。
「宇宙はあなたの属する場所、あなたの故郷なのよ」
うむむ。
スタージョンやヴォネガットが、私たち人類にしきりに提唱する、これが新しい家族のモデルだ。
宇宙が、本当に私たちの故郷なのかどうかは、私は、知らん。
ただ、そのような世界観を持ち込むことの意義について、大いに注目したいのである。
ちなみに、スタージョンは、別の登場人物にこう語らせている。
「ええ、かえすがえすも残念だわ。1946年の出版当時に世間の人々がもっとたくさんあの本を読んでいたなら、こんな世界にならなかったかもしれないし」
『雷と薔薇』という作品内のせりふだが、物語の文脈を離れて、とてつもなくずしりとくるせりふだった。
今、まさに。
*『ぴあ・関西版』の特集記事から*(2004.8.12)
『ぴあ・関西版』など、買ってみた。いわゆる情報誌である。
布団の上にうつぶせになって、面白い映画でもやってないかなあと、雑誌のなかば当たりからおもむろに読みはじめる。
『華氏911』は8月21日から公開だそうだ。映画じゃないけれど、『ボローニャ国際絵本原画展』も、もうそろそろだ。8月21日が初日らしい。
タオルケットから手だけを出して、行儀悪くページをめくっていると、「イマドキの少女漫画」という特集記事を見つけた。
「読んでおきたい少女漫画」と題して、新旧の少女漫画13冊が紹介されていた。
『のだめカンタービレ』
『黄色い本』
『トーマの心臓』
『ポケットの中の君』
『NANA-ナナ』
『綿の国星』
『ニコニコ日記』
『キャンディキャンディ』
『笑う大天使』
『はみだしっ子』
『生徒諸君!』
『ヘルタースケルター』
以上、13作品だ。
『黄色い本』は果たして少女漫画なのか? という疑問は頭をもたげるが、少女漫画ではない、とも言い切れないのも確かだろう。
ちなみに『黄色い本』は、青年月刊漫画雑誌『アフタヌーン』に掲載された漫画だった。
なんにせよ、選者の好みもあるけれど、『黄色い本』や『ポケットの中の君』のような作品が、何食わぬ顔をしてベスト13に名を連ねるところが、少女漫画の怖いところだ。一筋縄ではいかないのである。
私個人としては、『フルーツバスケット』の落選は、納得がいかない。しかし、じゃあ、『アラベスク』や『動物のお医者さん』は落選しても良いのか? と考え出すと、13作品では足りなくなってくる。
ビックコミックスピリッツ連載の『おたんこナース』や、本格SF『地球へ・・・』は、果たして少女漫画か? これも悩むところである。
そもそも、『黄色い本』が少女漫画なら、『神戸在住』も『ヤサシイワタシ』も少女漫画なんじゃあ……。
え? だめ?
えー、そうかなあ。
最後にもうひとつ、楳図かずおセンセの『おろち』は、少女漫画?
「全然だめだめ」と否定しようとして、「うん?」と考えちゃうよね。
奇妙に、微妙だあ。
*映画『ドッグヴィル』の感想文*(2004.8.10)
デンマークの鬼才、ラース=フォン=トリアー監督の『ドッグヴィル』をようやくDVDで観た。
本当に、ようやく、だ。
ずっとずっと観たいと思っていたんだけれど、前作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で泣いて泣いて、とうとう病気になってしまった過去が私にはあり、正直、怖じ気づいていたんだよね。
映画観て、寝込みたくないもの。
しかし、意を決して、観た。
結論から言おう。
これが素晴らしかった。
いやあ、才能のあるひとなんだな、ラース=フォン=トリアー監督は。
斬新で、意欲的で、真摯な姿勢につらぬかれた映画だったし、ラース=フォン=トリアー監督は、やはり今回も、作品上で極めて難度の高い芸をしてみせた。空中でブランコの手を放し、くるくると舞っては、ぶらんこの手すりにつかまってみせる。芸というよりも、ほとんどねじふせるような力技で、うむも言わさぬ腕力のような迫力がこの人の作品にはある。私はやはり、スタンディング・オベーションで
「ブラボー!」
と拍手するしかない。
この映画もまた、アメリカ、そしてアメリカこそが世界であると信じている日本のような国が、その外側のひとびとにとってどれほどに危険であるか、という題材を正面から扱っている。
今、アメリカと日本以外の国の映画を観れば、たいてい、というよりも判で押したようにどの作品でも、この主題があつかわれている。
アメリカ、そして日本のような、図体がでかいうえに弱い者いじめが大好きな国は、それ以外の国々のひとたちにとって、非常に危険な存在だ。だから、世界中がその動向に注目しているということのあらわれだろう。
我々の社会の持つ価値観の、その冷酷さ、残酷さはほとんど極限的で、人間をもの扱いすることで他者を支配し、もしくは支配され、ありとあらゆる方法で人間同士を分断していく。なおかつもっとも悪いのは、私たちにはその自覚がまったくないことだ。
世界の中心で愛を叫びはするが、愛とはなんなのかについて知りはしないし、関心すら示さない。
私たちの愛とは、消費される何かであり、人生を楽しませてくれる魔法の言葉でしかない。
快楽と消費。それ以外の愛について、私たちは考えてみようとはしない。
話がそれた。映画だ。
映画の舞台は、 殺風景な、だだっ広い倉庫のような空間だ。がらんとして、何もない。リアリズムをきれいさっぱり放棄して、前衛演劇じゃあるまいし、と、いきなりとまどう。
そして、どれほどだだっ広くても、それはやはり倉庫でしかない。四角四面の閉塞しきった限定的な空間に、物語は閉じこめられている。
床の上には、白チョークでさまざまな線が引かれている。その線は、境界線だ。境界線は床の上にストリートを生み出し、家々の間取りを現出させる。
「このチョークの線は、家の外と内をわける境界線を意味するのですよ」
とか、
「このチョークの線は、小さな個人の農地と農道との境界線を意味します」
というような約束事によって、物語の舞台が成立している。
非常に意欲的と言おうか、実験的なスタイルである。
もちろん、実際の暮らしには、あらゆる境界線が取り払われ、すべてがむき出しの状態になっていることなどあり得ない。しかし、これは現実ではなく、映画だ。架空の世界だ。映画は、現実など何食わぬ顔で飛び越えても、かまわない。極めて抽象的な約束事によって成立している物語世界は、そうでなければならない理由がある。
ラース=フォン=トリアー監督が、目新しさや斬新さを演出するためだけに、このような特殊な舞台装置を選択していると、はやとちりしているかたたちが実際少なからずいらっしゃるようなのだが、私はここで異を唱えたい。
スタジオを白線で区切ることによって、家があらわれ、番犬や農作物が出現し、やがてアメリカの小さな村、ドッグヴィル(犬村)が、約束事を受け入れた私の心の奥底に姿を見せる。そしてこの物語は、ある種の現実とコンタクトをとりはじめる。
ある種の現実とは、連帯や友情や共同の本当の意味、価値をまったく知らないままに、人間と人間のあいだに垣根をつくることこそが賢い生き方と信じる我々の混乱しきった生きざまそのものをさす。物理的な家々の壁面を取り払うことで、むしろ人々の心にはりめぐらされた垣根がうきぼりになってくるという仕掛けだ。
と、言葉にしてしまうと、ややもすれば陳腐だが、現実に映画を撮ってしまうとなると、これは難しい。
あまりにも冒険的すぎるし、混乱に混乱をきたして収拾がつかなくなる恐れもじゅうぶんにある。
だから、ラース=フォン=トリアー監督のこの大胆さには、心底感心した。
これは、好き嫌いを越えて、ひたすら拍手だ。
巧妙に自分自身をあざむきつつ、閉鎖的で、傲慢で、漠然とした不安とあくことのない欲求を同時に肥大化させていく我々の生き方。すべての人間的価値を、最終的には貨幣の排泄物におとしめてしまうという愚行を犯しながら、自分たちはあくまでも善良であると本気で主張する私たちの共同体“犬の村”というものを、このような手法でむきだしにしてみせるとはね。
これでいける、という監督の判断は、じつに素晴らしい。
空中分解してしまわずに、きっちりまとめあげてしまう腕力のようなものにも、感心する。
映画のラストは、言うまい。
DVDのパッケージのあおり文句には
「ニコール=キッドマンが人間の本質をさらけ出す」
などと書かれている。ニコール=キッドマンは、主演女優の名前だ。
ネットの評価などを見てみても、そのような評価をこの映画に示しているものが非常に多いようだ。
馬鹿だな。
そんなふうに解釈したら、やりきれないだけの、ちっとも面白くない映画になってしまうだろうに。
そもそも、「人間の本質」って、どういうことだろう? 人間の本質とは何ですか?
結局、私たちは私たちの生き方しか知らず、しかもそれを絶対視しているんだね。だから、この映画に描かれている人間の姿をイコール「人間の本質」などと思い込むのだ。
他に生き方があるのではないか? と、ちらっとでも考えてみればいいのに。
この映画に描かれているのは、「人間の本質」などではなく、「アメリカ人や日本人の人生観、人間観、価値観」にしか過ぎない。
日本的生き方とはつまり、世界の中心で愛を叫んで自分に酔って、そのことに自分自身気がつかないまま愛するひとをモノのようにあつかうやりかたのことだ。
1.我々の生き方は全面的に間違っていた。
2.今すぐに新しい生き方を始めるべきだ。
無理やりにまとめると、この映画の主張は以上の2点になる。
日本の社会は、劣悪極まる自らの状態に対する自覚症状を持たないため、非常にストレートなはずのラース=フォン=トリアーの主張を、受け止めることさえできずにいるようだ。
*マンガ『のだめ
カンタービレ』感想文その後*(2004.8.9)
二ノ宮知子センセの『のだめ カンタービレ』2〜6巻までを読んだ。
1巻を読んだ時点でたててみた2巻以降の展開予測は、基本的にすべて当たっていた。ヨシ! すごいぞ、オレ。自分の作品理解の正当性を確認し、なんとも満足である。
人と人との結びつきの、もっともクリエイティブでエキサイティングな部分を描きつつ、物語はなおもつづく。もっと、読んでみよう。
さて。というわけで、私はこの漫画を夢中で読んでいるのだが、ひとこと、苦言も。
主人公千秋が、何かと“のだめ”(野田恵、略して“のだめ”)ちゃんを殴るのは、何とかならないだろうか?
読んでいて気になって仕方がないデス(のだめ話法ふう)。
女性を殴るのは、いかんですよ。“のだめ”がなついてくるので、あたりまえのように手を上げているけれど、だからって千秋、いい気になるなよ(笑)。
対人関係に腕力を持ち込むのはフェアじゃないし、読んでいて退屈だし、破壊的だ。あんたは、破壊者になりたいのか? 音楽家が、芸術家の卵が、女性に腕力を振るうなんて、どもならん。
まあ、それはさておき。
天才・千明くんは、物語のなかで、ラフマニノフの2番を演奏する。これにはぶったまげた。
ここは、“のだめ”ふうに仰天してみよう。
「ぎゃぼ〜!」
ラフマニノフの2番って、映画『シャイン』でおなじみの、あのピアノ協奏曲ですよ。誰もがほいほいと演奏できるというようなシロモノではないのデス。
そんな超絶技巧を持っているなんて、まるで漫画だ。あ、漫画でいいのか。
*マンガ『のだめ
カンタービレ』の感想文*(2004.7.28)
今日もマンガを読んでいるのである。
二ノ宮知子センセの『のだめ カンタービレ』だ。
タイトルを声に出してみたときの心地良さに誘われて、購入した本だ。
ちなみに、カンタービレ、とは、「歌うように」という意味なのだそうだ。
とりあえず1巻のみ購入して様子を見てみる。
読みはじめて、すぐに、どこかで見た絵だなあと思う。
どこだろう? わかった。パソコン雑誌。在りし日の『MacFan
internet』で1ページものの連載を書いていたマンガ家さんの絵だ。この絵は、そうだ。
どうだ、当たりだろう。
『のだめ カンタービレ』は、ばりばりのMacユーザーの描いているマンガらしい。突然、親近感が湧いてくる。
まあ、ふつう、絵かきさんはMacを使ってるものだろうけれど。
ストーリーは、桃ケ丘音楽大学に通う、千秋真一が主人公だ。彼は、この大学でピアノのお勉強をしている。腕は、学内ナンバーワンだ。とびぬけている。周囲の生徒はもちろん、教授連からも一目置かれている存在だ。
しかし、ストーリーの冒頭から、千秋は浮かぬ顔だ。彼の第一志望は、ピアニストではなく、指揮者になることだ。しかし、さまざまな事情が絡み合い、彼は指揮者への具体的な道を歩むことができないでいる。
ピアノの勉強も、将来指揮者になるために必要だと思うから行っているにすぎない。しかし、どうあがいても指揮者になれないのなら、ピアノのレッスンにも身が入らない。彼のうっ屈といらだちは行き場のないまま、ゆっくりと醸成されていく。……と言ってもあくまでもコミカルに、笑いたっぷりにストーリーは進行していく。
千秋が指揮者への道を歩むことができないさまざまな事情とは、いったい何なのか? 飛行機嫌い、などというような他愛ない(本人にしてみれば深刻なのだろうが)理由もあるし、周囲の無理解という事情もあるけれど、本人のあまりにも完ぺき主義的な性格の問題、という事情も、少なからず存在する。
しかし、完ぺき主義であるがゆえに彼は飛び抜けた秀才なのであり、それは彼の利点と表裏一体のものだ。ただ、指揮者を目指す者として、彼はその性格を有効に利用することができない。
そんな彼は、ある日、野田恵と出会う。野田恵、略して“のだめ”だ。彼女は、この大学でピアノのお勉強をしている学生だ。
ふとしたことから、彼は“のだめ”と知りあう。
規格外ではあるがでたらめなまでに感動的なピアノ演奏をしてみせる“のだめ”の破天荒な生きかたに、千秋は、私生活の根底からふりまわされる。
千秋に言わせれば、“のだめ”は、あまりにもいいかげん、あまりにも不真面目なのだ。なにしろ、楽譜もまともに読めないし、練習しようにも部屋はゴミの山(それでも一応、部屋にはピアノがあったりする)、風呂にも入らない!
まるで犬や猫をしつけるかのように千秋は“のだめ”の世話を焼き、気がつけば“のだめ”は音楽、そして私生活についてまで、千秋に全面的に依存するようになってしまう。
千秋の激しい動揺。
コメディマンガらしく、千秋は叫び、驚き、怒り、あきれ、その完ぺき主義の性質ゆえに、“のだめ”の一挙一投足に衝撃を受ける。そうでありながらも、顔も見たくない“のだめ”と人間関係を保ちつつ、さらに、彼女の破天荒なピアノの魅力を最大限引きださなければならないという立場に、彼は立たされる。
なんという理不尽な、と彼は自身の立場にぼう然とする。
しかし、叫び、驚き、怒り、あきれかえっているにもかかわらず、千秋の内面は満たされていく。
満たされる! 自身の充足感に気づいたとき、千秋は戸惑いすら覚える。しかし、戸惑おうがどうだろうが、想像もしなかったやりかたで事態は千秋の望む方向へ流れはじめていく。だからこそ、千秋の充実感は日々増大していく。
それは、見知らぬ他者と知りあい、関係を深めていくことの、もっとも創造的で肯定的な部分だ。
他人は他人なのだから、考えかたも生きかたも当然違い、その違いから葛藤が生まれる。ただ、その関係が友人関係や愛情関係であるならば、葛藤は葛藤だけで終わることなく、積極的な影響という形にとって代わるはずだ。
「完ぺきでなければならない」と考える千秋は、もちろん間違っていない。少々傲慢ではあるかもしれないけれど。しかし、その完ぺきにもさまざまな形があるのだと、“のだめ”と知りあってから、千秋は実感として知りはじめる。千秋は今こそ、彼自身の完ぺき主義的性格の有効利用を、“のだめ”をとおして、理解しはじめる。
そして、千秋は、それまでの千秋でなくなっていく。
友達が、愛するひとがそばにいるとは、そういうことだ。あなたは、昨日までのあなたではなくなる。
あなたとその人の関係が、新しいふたりを作る。それは、あなた、もしくはその人がそこにいなければ成しえなかった、クリエイティブな、何かだ。そのシンボルが、この場合はオーケストラであり、それを指揮する指揮者だ。
……千秋が“のだめ”を愛する日が来るのかは微妙だけど(笑)。
ともかく千秋は、千秋なりのやりかたを押し通してきて、それでうまくいかなかった。だったら、それまでとはまったく違う新しいやりかたを試してみるべきだというのは、正しい理屈だ。しかし、違うやりかたは、いつだって、他人が持ち込むものなのである。千秋は自身を否定することなく、“のだめ”をとおして積極的に「解放」し、それが“のだめ”をも「開放」する。
このマンガをひとことで要約すると、こういうことになるはずだ。
1巻は読み終わった。
ここで、2巻以降の予想を立ててみよう。
おそらく千秋は、2巻以降も、“のだめ”以外の破天荒な音楽家志望の男女と知りあっていくはずだ。
必然として千秋は、これまでにもまして、徹底的に周囲に振り回される。千秋の希望、千秋の要望はことごとく裏切られ、または反故にされ、にもかかわらず彼は、満たされ続けていくに違いない。あくまでも彼が、望むどころか、想像さえしなかったやりかたで。
“のだめ”と千秋の関係を中心にして、少しずつオーケストラが形成されていくのではないか。
指揮するのは、千秋だ。
“のだめ”の恋心(野田恵さんは千秋に恋してる)はどうなるかというと、このままのその日その日の破天荒なありかたでは、ある時点で千秋と引き離されてしまうことになるはずだ。千秋と“のだめ”では、音楽に打ち込む姿勢が違う。必然として、ふたりの距離は開かざるを得ない。
才能だけに頼ることの限界に直面し、音楽と正面から向き合わなくてはならない時が“のだめ”にはきっと来るはずだが、このマンガでそこまで描くのかは1巻を読み終わった時点では私にはちょっとわからない。
と、以上の予想をたててみる。
2巻以降も、購入し読んでみよう。
*『アフタヌーン9月号』&『ブラックジャックによろしく』の感想文*(2004.7.27)
ひさしぶりに近所の本屋さんに出かけて、何を買うかというとマンガを買うのである。まずは『月刊アフタヌーン9月号』だ。ひぐちアサせんせのマンガが読めるうちは、このマンガ雑誌の購読をやめるわけにはいかないのである。
どうしてか? ファンだからだ。
今回の『アフタヌーン』には、『ああっ女神さまっ』の女神さま、ベルダンディーのフィギアがおまけでついてくる。驚いたことに、このフィギアに、私の母親が飛びついた。へえ、こういうのに興味があるんだ。そう思ってつくづくと眺め直してみると、確かによくできてる。となると、ホイホイあげるのが惜しい気も一瞬だけしたりもしたが、どうぞ、どうぞ、持っていってください。
私としては、『神戸在住』のキャラクターフィギアがあればなあ、と思う。シブイところで“隻腕の美女愛ちゃん”や“森くん”や“黄(ファン)さん”のフィギアがあれば、ぜひ欲しい。“小池くん”や“羽生さん”も、作りようによっては面白いものができるはずだ。
などとひとり想像して、勝手に盛り上がる。楽しいけれど、実現することはおそらくないだろう。
『月刊アフタヌーン9月号』は、『勇午・中国編』の最終話が掲載されている。
今回の中国編には、諸外国の巨大マーケットを引き入れることによって、中国社会主義体制下に自由経済と発展、繁栄をもたらした敦波心なる人物が出てくる。
この物語の最後に、主人公勇午は暗い表情で、「中国の人々のためには、この男をシャベルで殴り殺しておくべきだった」という意味の言葉を吐く。
あわあああ、勇午さん、静かにブチキレてらっしゃる〜!!!
あくまでもクールなのはいいけれど、切れてるのやら切れてないのやら、わからね〜。
(;^_^ A
おっと、このシーンを読んで、主人公勇午が殺人を肯定しているなどとはやとちりしてはいけない。
今の中国がとんでもない間違いをおかしているという勇午のヴィジョンを、私は全面的に肯定するのだ。
好景気に沸き返る中国。日本やアメリカも最近までそうだったよね。
しかし、かならずいつか、バブルははじけ、大不況がやって来る。自由経済というものの性質上、それを避ける手だてはない。
言い方を変えれば、実態のない空手形でらんちき騒ぎをした揚げ句、最終的には大破局によって終焉を迎えざるをえないシステムが、いわゆる自由経済だ。
そもそも、資本主義も自由経済も、本当の意味ではただの一度も実現されたためしがない。そんなものを本当に実行したりすれば、1日で世界経済は崩壊してしまうはずだ。
銀行や大企業にがんがん税金をぶち込んで、株式を操作し、強国が小さな国を脅しつけ、そうやってなんとか表看板だけを支えてみせているにすぎない。
そして、このできそこないのシステムを動かしていくためには、なにか食い物にできる対象物を見つけ出さなければならない。アフリカ、南米、アジア……、いま、もっとも世界中から熱い視線がれている国が、中国だ。
かわいそうに。中国はこれから、骨までしゃぶられることになる。
たしかに、都市部はものすごい勢いで繁栄発展するだろう。日本やアメリカのように。
反面、地方はすたれ、貧富の差は激しくなり、人の心は激しい憎悪を含んだ、特有のすさみかたをしていくだろう。
勇午は、そんな中国の未来を予想し、暗たんたる気持ちになっているのだ。
勇午、立つ! 勇午、ぶちきれる!(笑)。
このままじゃあ、中国も日本もない。世界中を巻き込んでの大破局は、目の前だ。
購入したマンガは、これだけではない。
佐藤秀峰センセの『ブラックジャックによろしく』の9巻だ。
こちらは、新シリーズが始まったばかりだ。
精神科編だ。
今度のシリーズは、これまでの1〜8巻以上に、痛烈に社会派テイストだ。
ひととひととのあいだに垣根を造り、壁を造り、人間を孤立化させることで経済システムを動かしてきた私たちが、無理に無理を重ねつつ生きていく社会とはどのような場所なのか?
他人をモノと見なし、他人を食い物にすることで今日という日を勝ち残る私たちとは、いったいどういう種類の人間なのか?
というような問いと、問いの答え……つまり我々の正体、が説得力たっぷりに語られていく、そんな予感に充ち満ちて、物語は次巻へと引き継がれている。
佐藤秀峰センセも、立つ〜!
すごいことになってきた。
世界中の表現者たちが、ほぼ同じ主張を、突然声高にいいつのりはじめた感じだ。
こういう主張をする人は、昔もいたことはいたよ。
マーク=トウェインとかね。でも、ぽつんとひとりっきりで、誰にも相手にされなかった。
ところが、今はイラン、スウェーデン、デンマーク、スペイン、ドイツ、などの小説や絵本や映画が、それぞれのやり方で、まったく同じ主張を語りだしてる。
何かが起こってる。
確かに、アメリカと日本はひどいもんだ。世界の動向などには目もくれず、自分のへそばかりを見て、気づけばいつのまにか世界からおいてけぼりだ。
しかし、アメリカ代表マイケル=ムーアの声は、ひときわでかくて野太いぞ(笑)。この日本だって、マンガを中心に声が上がりはじめてる。
ちなみに、『ブラックジャックによろしく』の右の見返しには、あおり文句としていきなり
「--新聞が事実を伝えていると思いますか?--」
などと書かれている。
ショ〜! 過激にきましたね〜!
左の見返しのあおり文句は
「--ああいう人を野放しにしておくから世の中物騒になるんです」
だ。本人たちすら気がつかないまま、ひととひととの垣根を大きくし、人間どうしの憎悪を肥大化させていくこの私たちの社会を痛烈に批判する意図で、とりあげられている文字通り「あおり文」だ。
正しくあおられて、ぜひともこのマンガ本を手に取っていただきたい。
*映画『エヴァとステファンとすてきな家族』の感想文2*(2004.7.25)
今日も買い置きDVDで映画三昧……ということで、まずはロシアの古いパペットアニメ『チェブラーシカ』だ。
DVDには全部で3話収録されている。
チェブラーシカは、おサルさんとも子グマともつかない、かわいらしい謎の動物だ。日本語に直訳すると、“ばったり倒れ屋さん”となるらしい。
キャラクター商品大流行の日本で、かわいらしい謎の動物が主人公の古いロシアアニメが、今ごろ静かなブームとなっているとのことだ。
キャラクター商品も出尽くせば、今度は古いものを発掘するしかない。で、チェブラーシカだ。当たればグッズも売れ、二度おいしい。
そして我々は、今日も箱詰めのチェブラーシカやその手の大量生産品を購入し、飽きれば捨て、えっちらおっちら世界を回していく。……おめでとう。
物語のチェブラーシカは、ほかの主要登場人物たちと力をあわせ、世界から孤独をなくすために奔走する。
チェブラーシカは、ひとりぼっちで寂しく暮らしている人たちのために、誰もが仲良く暮らせるための、お家を建てたりする。
このアニメの本当の魅力、価値はここにある。
このかわいらしい動物は、人間にとってもっともやっかいな病根は孤独であると看破し、それを打ち負かそうとがんばりぬく。
チェブラーシカは偉大だね。実在すれば、我々の社会も今よりはちょっとはましだったに違いない。
私たちは、その人が独りぼっちだと知りながらも、独りぼっちの人とお友だちになってあげることもしないドケチ野郎だ。
人間どもは長い年月をかけて、人と人のあいだに高くて厚い見えない壁をはりめぐらし、阻害し、のけものにし、恨みを買い、恨みを買うことでさらに壁を高くしてきた。そして、見ろ、
「知らないおじさんについていっちゃいけませんよ」
とか、
「学校に警備員を配備しないと、危なくて通えない」
などと言わなくてはならないほどの社会を作り上げてしまった。
正直、チェブラーシカの挙動のひとつひとつに
「かわいい〜!」
なんて言っている場合じゃない。私たちは集まって、ひとりぼっちで寂しく暮らしている人たちのために、誰もが仲良く暮らせるためのお家を建てるべきなんだ。
まあ、こんなことを日記で書き連ねても、商品が売れなくなるだけなんだけれどね(苦笑)。
しかし、こんな馬鹿げた生き方は、私たちの世代でやめるべきだとやっぱり思うんだよ。
子どもたちには幸せになって欲しいって、みんな、もっともっと、思おうよ。
いや、マジで。
戦死した息子の亡きがらにすがって泣く母親の映像なんかテレビで見ると、アホじゃないかと思う。
死んで泣くなら、生きているうちにどうして止めなんだ!
息子が死ぬと泣く。生きて帰ってきたら喜ぶ。でも、生きて帰ってきた息子は、よその国の母親の大切な息子を撃ち殺してきたんだ。
なんつーアホだ、自分の産んだ子をふくめて、世界中の息子を殺したのは、この母親たちでっせ。
もちろん、父親も同罪ですわ。
いや、これは事実でしょ? 我々は、自分の子を含め、世界中の子どもを殺し続けてる。
これ以上、子どもたちの人生を台なしにして、何が面白い? 私は何ひとつ面白くない。
まったく、これっぽっちも、私は面白くないんだよ。
ルーカス=ムーディソン監督のスウェーデン映画『エヴァとステファンとすてきな家族』のDVDのパッケージを触っていると、おまけとして小冊子がついていたことに今日になって気がついた。
ルーカス=ムーディソン監督のインタビューが掲載されている。
自分のために、一部をここで引用しておきたい。
この日記を読んでくださっているひとには、引用がいきなりで、なんのことかわからないと思うけれど。
インタビューを引用しようとしている私は、私自身の世界観、人生観、人間観、その他、理想や不安感といったものを他人の視点からもう一度確認したいという、きわめて個人的な動機によって突き動かされている状態だ。
その点は、かんべんしてください。
では、監督インタビュー、いきます。
「僕にとっての「善」は公私共における反抗精神、連帯、共有という考え方。そして「悪」とは、何でも理想化する態度と原理主義だ。フリーラブと言えば聞こえはいいが、そのせいで人が嫌な思いをしたら、それはもう「良いもの」とは言えない。人を傷つけたり、逆には“社会を変えられるかもしれない”というムーブメントの持つ可能性までムチャクチャにしてしまう、独善的支配だ。
(中略)
この映画の中でコミューンを形成するのは、非独善的な人々であり、政治意識の低い“普通”の人々。でも実は僕が、もっとも親しみを感じているのはコミューンきっての原理主義者エリックなんだ。エリックは愚直で、バーダー・マインホフに参加したがったりもする。だけど、僕には彼の心中がよくわかる。エリックが抱える多くの憤りや反逆心は僕自身がもたらしたものだから。
いきなり原理主義とかフリーラブとか、そもそもエリックとは何者なのかとか、読んでもわかんないでしょうけれど、それは映画でご確認してください。
さらに続けて映画ということで、サミラ=マフマルバフ監督の『りんご』を鑑賞した。
サミラ=マフマルバフは、あの巨匠、モフセン=マフマルバフ監督の娘さんで、この作品が処女作、なんと当時18歳だったそうだ。
他はもう、細々と言うまい。
観た人はおわかりだろう、とんでもない傑作映画だ。
これまで私は、それなりの数のイラン映画を観てきたが、どういうわけかどれもこれも傑作名作で、正直驚いている。
映画の都は、ハリウッドでもパリでもなく、テヘランだったか?
『りんご』は、そのイランの傑作群のなかでも、5本の指の中には必ず入れておきたい大傑作だった。
ため息をついて、感動に浸ったまま、しばらくは何も言葉にしたくない。
*映画『エヴァとステファンとすてきな家族』の感想文*(2004.7.24)
突然ぼっかりと時間ができたので、しばし、放心状態。
茫洋とした精神状態のまま、買い置きのDVDなど鑑賞することにする。
ルーカス=ムーディソン監督のスウェーデン映画『エヴァとステファンとすてきな家族』だ。
お誘いしても乗ってこない母親を置き去りに、私は弟と一緒にこの映画を観た。
そして、仰天した。
結論から言おう。傑作も傑作、大傑作だ。
ちょっと信じがたいまでに、傑作だ。
そして、傑作であることもさることながら、何よりも驚いたのは、私が個人的に抱いている世界観、人間観といったものと、この映画で語られているそれが、ぴったり同一であったことだ。
なんと嬉しいことだろう。
私が世界や人間に対して抱いているさまざまな想いや理想を、スウェーデンの才能あふれる映画監督が代わりに映画化してみせた、と、私の側から眺めた状況はこういうことになる。
もちろん、ルーカス=ムーディソン監督は私のことなど知らないし、だから「代わりに」というのは事実とは違うのだけれども、そういうふうに同一視したくなるくらいに、感覚や主張やとまどいすら、私には手に取るように理解できる。
そう。
この世界には、私のような変人が、少なくとももう1人はいることがわかった!(笑)。
こんなにも変人なのにそれでも私は独りぼっちではなかった、という事実も、素直に嬉しい。
ともかく。
未鑑賞のひとにその魅力を説明しようにも、とうてい説明不可能なほどにまで傑出した映画作品を鑑賞しつつ、そのめくるめく時間の中で、私自身の世界観と思想をひとつひとつ再確認していくというエキサイティングな作業に、私は耽溺した。
『エヴァとステファンとすてきな家族』は、地元スウェーデンでは爆発的にヒットし、じつに人口の10ぶんの1が鑑賞したという伝説を持つ映画らしい。
しかし、地元スウェーデンにとどまることなく、地球人類の10ぶんの1がこの映画を観たら、世界は本当に美しい場所になるだろう。興奮状態のまま、私はそう断言する。
ネタバレになるので詳しい話は書かないけれど、ラストシーンが、素晴らしい。
「この映画のラストシーンのように“在る”ことも私たちには選択可能なのだ」という映画監督からのメッセージを正しく受け止め、今夜はちょっと眠れそうにない。
*コンセプト指向*(2004.7.21)
地球を動かしている根幹システムの何かが壊れたのではないか、といぶかりたくなるくらいの暑さが続く。
地球温暖化というやつですか。
異常とも言える暑さに、あらゆる建造物はクーラーをがんがん回し、そしてさらに地球は温暖化の道を加速させる。
人間ってつくづく、地球の癌細胞だなあ、などとあらためて思ったりすると、さみしい感銘に少しだけぐっときたりする。
ああ、それにつけても暑い。
ネットショップ・アマゾンのお買い物券をいただいたので、CDを2枚購入した。
ビョークのベスト盤、『グレイティスト・ヒッツ』、ジョニ=ミッチェルの『Night
Ride Home』だ。
ベスト盤などとは、なんと軟弱な、と自分でも思ったけど、これがこれが。ビョークのそれは、ベスト盤とは思えないほどの出来であった。
私は何事につけコンセプト指向なので、たとえばアップルがやっているような、ネットで1曲1曲をばら売りするようなやり方は好きじゃない。
アルバム全体を通して、ミュージシャンのコンセプトを確認したいのだ。
ああいうばら売りは、音楽の破壊だと私は個人的には思うが、これはまた別の話。
ビョークの『グレイティスト・ヒッツ』は、そういうコンセプト指向の私の趣向をも、じゅうぶんに満足させるものだった。
ジョニ=ミッチェルの『Night Ride Home』のほうは、もう何年も前にFMラジオで1度耳にして、それ以来ずっと探していた曲だ。
探していたのは1曲だけれども、もちろん、アルバムで購入。ビョークとはまったく方向性が違うけれど、素晴らしい名盤だと思う。
しかし、ビョークとジョニ=ミッチェルを同時購入とは、我ながら節操がないというか、悪食だなあ。
(;^-^ゞ
気がつけば、私もビョークを聴くようになっていたか。
趣味がどんどんディープになっていくな。
*日本のプロ野球の私物化*(2004.7.10)
パリーグの2〜4チームが合併して、来年から日本のプロ野球が1リーグ制になるそうですね。
こんな大切なことを、選手もファンも遠くに置き去りにしたまま、オーナーたちの欲得ですべてが決まってゆく日本のプロ野球。
有志連合の行う球界再編ですと。
ブッシュと言い草が同じなのが笑える。
ともかく、おかしかろうが間違ってようが、ファンが怒ろうが、某ナベツネのやりたいようにしかやらないんだろうな。
本当に日本らしい動向ですね。
「日本ってどういう国ですか?」
と外国のひとに聞かれたら、
「これが日本です」
と答えられる、日本らしさにみちみちたエピソードだ。
日本は、会社が社員のクビ切ったら、よくやったと税金がまかる国。
3人に1人の割合で社員のクビを切れば、あらら、税金がお安くなるのだ。
狂ってる、完全に狂ってる。
ケツから飯食って、口から出すようなもんだ。
だってそうでしょ?
社員のクビを切らなくちゃやってられないような、ずさんな経営をおこなっているような会社は、厳しくしかりつけてやるべきじゃないか。
なあ?
税金まけてやってどうするよ。
しかし、会社が社員のクビを切れば切るほど、合理化のための企業努力をしていることになるんだとさ。
なんじゃ、そりゃ。こんなふざけた理屈を真に受けるんだから、教育の力って、恐ろしいね。
社員のクビ切ってりゃいいんだから、会社もウハウハだ。誰のクビ切りゃいくらもうかるって、ソロバンはじいてるんだ、笑いがとまるはずもない。
市民にはいちいち自己責任、自己責任とうるさくお説教するくせに、会社には雇用者に対する責任ないんですか?
連中は、自分たちの責任から逃れるためにだけ、責任という言葉を使うんだよ。
イラクで拘束されたひとたちのときもそうよ。なにが自己責任じゃ。自己責任のわけがあるかよ、おまえらの責任じゃつーの。
職を失った3分の1の社員はどうなるか? どうとでもなってください、というわけだ。なんちゅう冷酷。なんちゅう残酷。
そもそも、経済システムなんてものは、人間に奉仕するためのもののはずだ。しかし、実際は、会社大国日本のさらなる利益追及のために、私たちは無理に無理を極める。
まあ、こういう生活を肯定的に受けとめることこそが立派な社会人であると私たちは教育されてきたし、本気で信じてる。信じてる内容が違うだけで、北朝鮮のあれと、程度は同じですよ。
信じるとなれば、人間どんなことだって信じられるからね。で、こんな世の中が続くわけだ。
でも、ある意味、みんな無邪気なんだと思う。それはそれでけっこう。あとで泣くことになるのは、私もあなたも一緒なのだから。
一緒に泣こうね。
*Macのお釈迦サマ*(2004.7.9)
またもやパソコンがいかれマシタ。
\(^-^\) ( ^-^)// あ、ヨイヨイ♪
仕事で使っている2台のパソコンが、時間差攻撃で2台ともぶっとぶという大惨事だ。
ぷぎゃ〜!!
Macを愛し、Mac一筋、そんな私になんちゅう仕打ち。
Macがいかに素晴らしくとも、壊れるときは壊れるのである。
あわわわわ。
データーの救出だけでもと四苦八苦しているが、今のところ、ドモならん。
修理に出せばという話もあるが、その時間がない。シメキリ、シメキリ、シメキリだ〜。
神様でも悪魔でも、なんにでも祈っちゃうよ。
ギャー! 時間よ止まれ〜! わっせい、わっせい。
余裕があるように日記など書いているが、本当は、どれほど私があわてているか。
正直、もう、口から泡を吹き出さんばかりにあわてている。
ぶくぶくぶく。
手塚治虫せんせの漫画で、宇宙船の乗組員が
「コンピューターが死んだ。もうだめだ」
と言うシーンがあったのをふと、思いだした。
機械に向かって死ぬと表現する書きかたが、子ども心にすごく印象的だったのだ。
今の私には、あの宇宙船乗組員の気持ちがよくわかる。
「もうだめだっ……ぐはっ」
床に倒れて死んだふりをしてみるものの、なんの解決にもならないんだなあ、これが。
(´・`)
ううう、泣いちゃうよ、もう。
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