*人間の測り間違い*(2011.2.10)
「学校民営化、さらに民営化全般の支持者たちは、公的領域を民間の手にゆだねることは、現実にはしくじることもあるにせよ、理論的に正しいという。(略)金儲けの動機のおかげで、営利校では教師もより良い指導をし、管理者もより良い管理をし、企業も顧客である父兄、教師、教育委員会が求めたり必要としたりするものを提供する、というわけである。だから、「営利というインセンティブは学校に良い影響を与えられるのです」とフロムは説明する。たとえ、企業が「実際には、決算結果のことだけを考えなければならないにしても」」
〜映画『ザ・コーポレーション』〜
「正当な怒りを抱いた人々がなぜ極右に動員されてしまうのか、私の子どもの頃、産業別労働組合(CIO)をはじめ建設的な活動があった時代に人々を集めたような勢力になぜ結集しないのか、その理由を自らに問いかけてみることが大切です」
〜ノーム=チョムスキー『アメリカ国民の怒りはどこへ向かっているか』 〜
『kojitakenの日記』さんのところから、個人的な関心を持った話題をご紹介。
『甘粕正彦は大杉栄一家虐殺の犯人ではなかった?』
甘粕正彦が大杉栄一家虐殺の犯人であったか、それともなかったかは、今となってはわかりようがないし、ごく私的な、つまりゴシップ的な関心というもの以外は何もない。
私が目を留めたのは、犯人うんぬんではなく、『kojitakenの日記』さんの
「どうしようもないファシストの甘粕だったが、そんな一面もあった。この点だけに関していえば、今の企業の経営者に見習わせたいくらいだ。何しろ、今の経営者といえば、
役員の報酬と配当ばかり引き上げて、従業員の給与を減らし
続けている。」
という指摘だ。
つまり何が言いたいかというと、
「どうしようもないファシスト」をもってして、「今の企業の経営者に見習わせたい」としなければならない状況を現出させた、この国の現在の思想的土壌
に対する、私が日常の中で感じているかなり切迫した危機感の確認、というものだ。
そしてそれは、市場原理・競争原理・社会的ダーウィズムべったりのありようから一歩も抜け出せない市民たち、というものの代表以上にはなりようがない人々の手で行われる改革というものへの危機感へとつながる。
当時の「どうしようもないファシスト」ですら、「市場や商品の価値観で人間を推し量る」などという冷酷な価値観とは一線を引いていたわけだが、今では、どこまで冷酷になれるかが市民革命の主題となりつつある。
感動消費主義プロパガンダの
「市民共同体をあげて悲観主義を乗り越えよう」
の号令ひとつで、だ……。
悲観主義を乗り越えた先には何があるのか。
リストラされようが大病しようがポジティブであり続ける者、所有と消費を疑わない者、限度いっぱいにまで幸福を追求し続ける者たちのみが生き残るべきであり、それが宇宙の法則である、という信念を共有する市民共同体の、まばゆいばかりの明るい未来だ。
しかし、その光がまばゆければまばゆいほど、できる影も濃く、巨大だ。
その影に入った者は……、それはもう、滅びるに任せるしかない、という改革。
大げさでも何でもなく、政府から与党から大阪府知事から名古屋市市長からおよそこの国の国民が熱烈に支持する改革者、または改革案とは、ざっくりといえば、こういうことだ。
明るい未来を信じる者だけが生き延びるべきであり、それを信じられない者、光が作り出す影の中に包まれた者は、宇宙の法則により、滅びるに任せればよい……。
(;゚;Д;゚;) ……。
さて、『kojitakenの日記』さんブログから、別記事。
『「沖縄密約」を後悔せず、小泉純一郎に期待を託した若泉敬という人物』
池田香代子といえば、平和市民運動を推進する文化人としてそれなりに著名な人間だ。
九条の会の各種講演でおなじみだろう。
その池田香代子が、つるんとした顔で、
「沖縄の米軍基地についてアメリカの政治家と話し合うなら、サラ・ペイリンさんがいいんじゃないか、と思っていました。ペイリンさんが象徴するティーパーティーは、在外基地なんかいらないと言っているからです。」
と語った、という後半の報告に、私はもはや、「彼女ならそうなりかねん」という自分の読みの確かさに苦さと脱力感タップリの勝利感を感じるしかない。
しかし、なんとどうどうとした態度なのか。
池田香代子さん自身は、なんら含むところはないはずだ。
そうでなければ、サラ=ペイリンという名前がこのような文脈で出てくるはずがない……。
彼女はあくまでも、無邪気に、本気で、素で“平和を希求”しているだけなのだ。
ネット上をうろついて見つけた、
『「民主的方法」によるナチス独裁への道のり』
「このようにヒトラーは、現実には暴力等を用いつつも、少なくとも表面的には民主的な方法に従いつつ独裁権力を握ったのです。なぜ彼はここまで「民主的」であることにこだわったのでしょうか?」
民主主義ってなんだっけ? なんだっけ?
ポン酢醤油のある家か?
*おてがみ*(2011.2.7)
「ピアノから離れたら、フォンの持っているような心は、すぐに世間に踏み潰されちゃう。私はよく知っているの。余り険しくない世間にいてもそうなちゃうのよ。フォンが飛び込もうとしている世間は、ちゃんとした秩序のない世界なんだから、ますます危険だわ。そういう世間にいると、100パーセントの純粋さとか完全な美しさって、予想もできないほ不幸の原因にしかならないのよ。わかってくれる?」
〜バオ=ニン『戦争の悲しみ』〜
「芸術とはわれわれに真理を悟らせてくれる嘘である」
〜パブロ=ピカソ〜
なかがわりえこ作・なかがわそうや絵、の傑作絵本『おてがみ』が復刊された。
私が子どものころに読んでいた絵本を、5歳年下の弟が読み、そして弟が大切に保管し続けた当時の絵本は、私の手元に今でもある。
「そう言えば、子どものころこういう絵本を読んだことがあるなあ」
とつぶやけば、その絵本を段ボール箱の中からほり出して持ってくる、という形で、大人になってから再度であった絵本というものは、いったい何冊あるのか。
とにかく、そういう形で再読し、これはかなりの傑作ではないか、という感想を弟と共有し、それ以来、再刊を待ち望み続けていた。
ネット書店BK1にすでに
2冊注文してある。
とあるところで、この絵本との二度にわたる出会いについて書いた文章があるので、ここに再掲します。
ただ、子どものころの私は、絵本や子ども向けアニメの向こうに、「大人が私に期待する子ども像」、つまり大人がこうあってほしい子どもというものの押しつけ、として受け止めていたようだ。
そして私は、
自分は、絵本を通じて発信されるそうした大人たちの期待に応える力がないし、応える気持ちにもなれない、という想いを……想いとまではっきりしたものではなかったけれど、一種の重荷を感じ続けていた。
そうした意味で、私にとっての絵本やアニメーションは、いっぽうでは驚きの発見であり、またいっぽうでは不吉さや重荷というものだった。
ということを前置きとして書いておく。
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あまり大きな声ではいえないけれど、私は小さいころから絵本というやつが苦手だった。
『スイミー』も『まっくろネリノ』も、小さかろうが黒かろうが皆の役に立てと絵本にせき立てられているような気がしたし、『はらぺこあおむし』は何でも食い散らす怪物に見えたし、『ねないこだあれ?』を読めば夜トイレに行けなくなった。
とにかく私は物心ついたころから絵本が嫌いな子どもで、周りにもそう言い続けてきたのだけれど、ある日、五歳年下の弟が、
「アンタは(弟は私のことをアンタ呼ばわりする)絵本が大好きな子どもだったよ」と、本人の言葉を否定してきたのである。
しかも、驚いたことに、この弟ときたら、私が幼少のころに愛読していた絵本を段ボール箱の中からとりだしてきてみせた。
『おてがみ』……確かに、これは読んだ。夢中で読んだ覚えがある。すっかり忘れていたけれど、表紙を見た途端、瞬時に記憶が蘇った。ぺらぺらとページを開いてみる。
色鉛筆で描かれたネコの身体の、のびのびとした線。なんという素晴らしいネコ達だろう!どうしてこの絵本が今ここにあるのか。どうして私が忘れていた絵本を、五歳も年下の弟が、今まで大切に保管していたのか。
『おてがみ』は弟が大好きだった絵本ではない、五歳年上の私が大好きだった絵本なのである。そんなにもこの兄のことを愛していてくれていたのか?
この弟は、ちょっとあやしい。一瞬、これは弟の皮をかぶった偽物じゃないだろうかと、自分の思いつきに苦笑しつつも私は思った。唖然としている私に弟は、
「『おてがみ』は傑作です。このネコの絵は傑作です」とだけ答えた。
確かに弟の言う通りだ。この絵本は傑作だと、夢中で読んだ子どものころの自分を思いだしつつ、私も思った。
あらすじは、ネコのにおのおうちに、郵便屋さんが小包みを持ってくるところから始まる。小包みを開けると、ネコのたまこちゃんからのおてがみが、赤い風船にくくりつけられて出てくる。
「あそびにきてね、たまこ」
におはたまこちゃんからのおさそいに、いちもくさんに丘を駆け降りるのだが、ここで不慮の事故が起こってしまう。
たまこちゃんの手紙をくくりつけてある風船を、におはうっかり手放してしまうのである。
風船はふわりと飛んでゆき、みけねこ・みーたの手に落ちる。みけねこ・みーたはにおにあてたはずのたまこちゃんのお手紙を読む。そして、みけねこ・みーたは、たまこちゃんからお誘いを受けたのは他ならぬ自分なのだと思い込む。しかしどうしたことか、みけねこ・みーたもまた、不注意から風船を手放してしまう。風船はまたひとりでに飛んでゆき、今度はくろすけのところへ……と、たまこちゃんからお誘いを受けた(と思い込んだ)ネコ達の数はどんどん増えてゆく。
最後に、手紙を読んだすべてのネコ達は、たまこちゃんからの招待状である風船にすがりつき、ぶらさがり、そのまま風船ごとたまこちゃんの家にたどり着く。
たまこちゃんが
「まあ、おともだちが いっぱい あそびに きたわ」と言って、お茶の準備を始めるところで絵本は終わる。
ネタばらしになってしまったが、この絵本は現在絶版だそうである。
さて、この絵本を私が読み終わると、弟は、
「お友だちが風船に鈴なりになって遊びに来てくれるというオチが、思いがけない驚きに満ちていて本当に素敵だよね」という感想を述べてくれた。
そうか。
この絵本はそう読むのか。
卒業の記念撮影、その2。絵本大学アイドルの秘書T.Mさんを囲んで。みなさんの目線がこっち向いていないのは、私のミスでございます。
大人になった私は、弟の解釈を肯定することに無論やぶさかではない。しかし、子どものころの私は、この絵本をそんな楽しいものとして読んではいなかった。
だって、たまこちゃんがおさそいしてくれたのは、におひとり(一匹?)のはず。
それなのに、ああそれなのに、風船を放してしまったばかりに、余計な連中がついてきてしまう。私(にお)はたまこちゃんと遊びたいのであって、他の連中はただの邪魔者に思えて仕方がなかった。しかし、たのみのたまこちゃんまで、連中を追い返すどころか、
「おともだちが いっぱい あそびに きたわ」
だって。
たまこちゃんには
「おさそいしたのは におちゃん だけよ」と言って欲しかった。
たまこちゃんにとって私(にお)は特別な存在、オンリーワンでいたかったのである。
早い話、独り占めしたかったのだ。
独り占めは駄目でしょ!と心の声がする。
小さいころからなんという独占欲。
我ながら恐ろしい。
というわけで、個人的にはむしろ、無念、残念、心外、悔恨といった心象風景に彩られた、物悲しくも哀切ふかい絵本だったのだ。
この思い出話をすると、さすがの弟も絶句して、
「そんな読み方するのはアンタだけ」と申し渡されてしまった。
私もそれは認める。だが、それが私の『おてがみ』だったのだ。
=====================
以下、だらだらと続くのだが、もういいだろう。
*today*(2011.2.4)
「欧米のめぼしい新聞や雑誌はどれをとってみても、この巨大化した終末論的な語彙をさらに強調するような論説であふれている。それらの言葉の使い方ひとつひとつが、読者を啓発するというよりも、「西洋」の一員としての義務に火をつけ、何をなすべきかとたきつけるだけの意図に満ちている」
〜E=W=サイード『戦争とプロパガンダ』〜
「では、この非常事態の現実とはどんなものか、2007年9月20日の事件が如実に示してくれるだろう。七人のチェニジア人漁師が、海で確実に死にかけていた四十四人のアフリカ移民を救った罪によって、シチリアで裁判にかけられたのだ。「不法移民の現場幇助」で有罪となれば、1年から15年の懲役に処せられる。8月7日、漁師たちはシチリア島にほど近いランペドゥーサ島の南30マイルの岩礁に錨をおろして、眠りについていた。悲鳴で目を覚まし、見ると、飢えた人たち---女も子どももいた---を満載したゴムボートが、荒波に揺られて、いまにも沈みそうだ。船長は、彼らのもよりのランペドゥーサ島の港に運ぶことにした。その港で船長をはじめ、クルー全員が逮捕されたのだった。誰が見ても、この馬鹿げた裁判の真の目的は、他の船員たちに同じ行動をとらせないことにある。同様の状況に遭遇したべつの漁船の乗組員たちが、移民を棒で叩いて追い払い、溺れさせたと通報があったときには、何の措置もとられなかった」
〜スラヴォイ=ジジェク『ポストモダンの共産主義』〜
エジプトで市民が大統領支持派と大統領府支持派のふたつに別れての、暴動騒ぎが続いているのだそうだ。
さまざまな報道機関による情報の海の中から、もっとも正確な情報を期待できるのは、アルジャジーラだろう。
そのアルジャジーラからの報道を中心に据える形で今回の暴動を眺めた場合、そこにあるのは、
「抗議」と「鎮圧」
だ。
しかし、私服の警官が私服の市民に棍棒をふるっている限り、それは、あくまでも「暴動騒ぎ」ということになるのだった。
大統領支持派の市民が持っていた警察官の身分証明カード。
大相撲の八百長問題からエジプトの“市民衝突”まで、欺瞞の地平はどこまで続くのか。
“エジプトの母”フィフィさんのブログ『All about FIFI』から、二日前の状況。
『エジプトの夜明け〜新たな一頁へ』
そして昨日。
『エジプトの夜明け〜ムバラク支持派の正体』
映画『ペルセポリス』予告編。
*冷たい方程式*(2011.1.27)
「この『宣言』は、市民権のみについての宣言ではあっても、すべての人の法の下での平等を本当には言っていません。もう少し言えば本当に平等な人権は『宣言』では主張されていません。確かに『宣言』第一条は「人間たちは自由なものとして、かつ権利においては平等なものとして生まれ、生きる」と書いてはいます。けれども、もっとも範囲の広いこの「人間」からでさえ、すべての女性が排除されているのです。そして、この『宣言』が言う「市民」とは、けっして現在の岐阜市民といった意味での市民ではありません。なぜなら、この「市民」とは男であって、一定額以上の私有財産の所有者だけを意味したのです」
〜竹内章郎『哲学塾 新自由主義の嘘』〜
「ニックが一家そろって地球を離れることになったわけ、よその星に移り住むことに決めたわけは、ニックにもよくわかっています。それは、ニックと猫のホレースのためでした。だってホレースを飼うなんて地球では許されないことでしたから。猫にかぎりません。1992年からこっちというもの、どんな動物でも飼ってはならないと決められているのです。だからって、ホレースが野良猫ならよかったなんていうはずはありません。猫が生きているだけでも法律に触れるのです」
〜フィリップ=K=ディック『ニックとグリマング』〜
『こころ世代のテンノーゲーム』さんのところから、「悪用される“生活保護”」が悪用されている件、について。
『NHK
かんさい熱視線「悪用される“生活保護”」』
(;゚ ロ ゚) ……。
「社会保障受給者は不当な受益者である」という基本的価値観を空気のように毎日吸っては吐きしながら行う“改革”のアイデア、というものだけはつきることがないのか。
『非国民通信』さんから。
『政治的にも貧しさを感じる』
B型肝炎裁判の原告団代表谷口三枝子さんの
「『おまえたちの賠償のために増税だ』というのはあんまりだ。二重、三重に私たちを苦しめるの」
というコメントを新聞で読んだ。
二重に苦しんだのなら、三重にも苦しむしかない、というのが彼らの置かれた立場だ。
「賠償をして差し上げるのだから、その賠償のための財源についての責任は、おまえたち自身が担うべきだ式社会保障」の枠組みの中で。
そして私たちも、「タイガーマスク現象」報道現象なる、匿名の善意者による自助努力美談になぐさめを見いだすという身の上だ。
「社会的権利というものは、それを要求する個々人の経済的価値によって決定されるべきだ」と公然と主張しながら、自分がそう主張していると指摘されても何のことかわからないという市民の立ち位置とその無残さ。
そして。ことの次第の、これがどういうことかわかるかね、未来少年。
金の話しかできない人間には、「福祉」の「利益」が何に基づいて、どのような条件下によって存在を許されているのかということをすら理解することは不可能だ、という事実だ。
(^_^;)
「市場のシステムはこの宇宙において唯一不可侵な神の摂理である」という“常識”をふまえつつ、「おまえたちつったって、俺は肝炎患者じゃねえ」とか「老人福祉の財源と言っても私は関係ないはずよ」というような、市民間の際限なき分断と切断の、これもひとつの局面だ。
市場システムのきらめく光の天上から、果たしてクモの糸は垂れてくるのか。
今日か、明日か。垂れてくるのか、こないのか。
なんにせよまずあなたは、その光の国が光の国であり続けるために、絶えず出資し続けなければなならい。参加し続けなければなならい。
天上のニーズに応え続けなければならない。
そして、クモの糸にすがりつく権利を購入しなければならない。
「チケットは購入しましたか? では、クモの糸が垂れるその日のために鍛練を怠らず、その日が来たら我先に糸にすがりついて下さい」
あとはあなたの才覚、体力、ガッツ、運次第だ。
では、才覚、体力、ガッツ、運次第の人生のその後とは、どのようなものか。
それはもちろん、雲の糸がぶち切れるの図だ。
……おどかすわけでも何でもなく、現実的な話、クモの糸はあなたの体重を支えられないだろう。天上から我々を見下ろす側の誰かさんたちに言わせれば、あなたの体重もあなたの責任なのかもしれないが。
映画『カサンドラクロス』 から、雲の糸がぶち切れるの図。
風呂の栓を抜いたような大崩壊が私たちを待っている。
*不思議な光景*(2011.1.23)
「確かなことは、それがすべての者に影響を及ぼしていることである。自由に出入りができるふつうのカジノと、金融中枢の世界的カジノとの間の大きな違いは、後者では我々のすべてが心ならずもその日のゲームに巻き込まれていることである。通貨価値の変動は農民の農作物の価値を収穫前に半減させてしまうかもしれないし、輸出業者を失業させてしまうかもしれない。金利の上昇は小売商の在庫保有コストを致命的なまでに引き上げてしまうかもしれない。金融的利害に基づいて行われるテークオーバー〔企業買収〕が工場労働者から仕事を奪ってしまうかもしれない。大金融センターのオフィス街のカジノで進められていることが、新卒者から年金受領者まですべての人々の生活に、突然で予期できない、しかも避けられない影響を与えてしまうのである。金融カジノでは誰もが「双六」ゲームにふけっている。サイコロの目がうまくそろって突然に幸運をもたらすか、あるいは振り出しに戻ってしまうかは、運がよいかどうかの問題である」
〜スーザン=ストレンジ『カジノ資本主義』〜
「ぼくは苦痛に対しては悲鳴と涙でこたえ、卑劣な行為には憤慨でこたえ、いまわしい行為には嫌悪でこたえるのです。そして実にこれこそ生活と呼ばれているものだと思います」
〜チェーホフ『六号室』〜
風邪をひいた。
いつにもまして体調が悪い、という現在の自分の立ち位置から、その外側にあるこの世界を眺めると、それはいつにもまして冷淡で、よそよそしく、ごうごうと音をたてて不気味に稼働しているように感じる。
普段から、世間というものに何とか引っ掛かっている、という状態で存在している私は、この体調の悪さを要因として、ほんのいっときではあるが、この世間から大きく脱落した。
ごうごうと回転している歯車からぽんと出て、布団の上でうんうん唸っている自分の目でそれを見上げる、という形の脱落だ。
布団の中で、私はひとりで唸っているわけだけれども、そこから見上げる日本という巨大なシステムの眺めは、実に奇妙だ。
どうして私は今、ひとりなのだろう?と、こういうとき思う。
この不気味で残忍で巨大で奇妙なシステムを下から見上げることで確認できる不思議な光景を、私がひとりで独占してしまうのは、実におしい。
というようなことを、「非常におしいなあ」という気分とともに、思うのだ。
……もう寝ます。
鬼畜ブログ『郊外のカナリアもすでに死にました』さんから。
『所在不明の子ども達の行方に関して、カナリア電波を働かせてみました(嘲)』
下から見上げた、この世界。
*DNAはタイガーマスクの夢を見るか*(2011.1.20)
「明治以降、西洋から入ってくる概念は、とりあえず漢字に置きかえてわかったつもりになってしまった。
しかしその置きかえが本当に正しいのかどうか。最近ぼくが気がついて文章にも書いた例があります。それは「権利」という言葉です。英語なら「right」、これは「権利」であるとともに「正しい」という意味の言葉です。しかし「利」の字に正しいという意味はない。もしもこれが「権理」、「利益」の「利」ではなく「「理屈」の「理」、「ことわり」という字を使っていたら、われわれは権利を要求するときに、これほど物欲しげな、後ろめたい気持ちにならないで済んだんじゃないか。「理」には、正しい、という意味が含まれています。要求することによって得られる物質的な物の方を強調するから、利益の「利」になってしまう。「権利」という言葉自体に、何か物を欲しがるという印象がついてまわる。その先に、このごろの日本人は権利ばかり主張して、義務をしないからいけないとお説教する年寄りが出てくる、ということになる。挙句の果てに国民の権利ばかり書いてある憲法がいけないなどと無知なことを言いだす。憲法というのは国民の権利と国の義務を書くものなのです。
本来は要求して当然のものが「right=権利」です。要求することが正しいものが「権利」です。最初に漢字の当てはめかたをずらしてしまって、元の意味に戻らないまま使っているために、何か社会全体にまで歪みが生じている」
〜池澤夏樹『世界文学を読みほどく』〜
「こんな、こんな、苦しい思いをしたことは、レチアは生まれてはじめてだった! 彼女は助けを求めたのに、みはなされたのだ! あのひとはわたしたちを見すてた! ウィリアム・ブラッドショー卿は親切なひとじゃない」
〜バージニア=ウルフ『ダロウェイ夫人』〜
匿名の人々による寄付行為が、日本全国で広がっているのだそうだ。
匿名の人々は、寄付をするさい、タイガーマスクまたはタイガーマスクの正体である伊達直人を名乗る、らしい。
タイガーマスクの正体である伊達直人を名乗る匿名の寄付者、という存在がマスメディアの目にとまり、まずニュースとなった。そしてそのニュースを新聞等で知った全国の人々が、第二、第三、第四のタイガーマスクとなって、寄付を行う。という広がりかただ。
「タイガーマスク運動」という名前までついているということだ。
茶の間にむけて流されるというたぐいのテレビによって、私は、この「タイガーマスク運動」を知った。
無私の寄付行為に感極まったタレントたちの「心が温まりますね」とか「日本人も捨てたものではない」とか「寄付文化が根づくきっかけになればいい」という言葉とともに、だ。
匿名の人々の善意による寄付行為、それから、そのような行為に感極まるコメンテーターたち、という存在をテレビ画面越しに知って、そのとき私の心にわき上がったのは、奇妙な警戒感だった。
警戒感とは、何とひねくれた反応か。私が人としての心というものを持つなら、そのような寄付者、またはコメンテーターたちにぴったりと心情が寄り添うような形で私は同調すべきではないか、少なくとも共感なりを抱くべきだ、とも思ったが、叱りつけようがどうしようが自分に嘘はつけない。
私は警戒感というものを、はっきりと持った。
そして、日が経ち、運動が広まるにつれ、警戒心はある種の疑念へと発展していった。
『Apes! Not Monkeys! 本館』さんから、
『「日本人のDNA」だってさ』
私がおずおずと感じていたある種の疑念のようなものを、apesnotmonkeyさんは「気味の悪」さ、とずばり書ききっている。
気味が悪い。気色が悪い。
そして、私が何に警戒しているのかというと、このタイガーマスクの美談はどこまでいっても
「市民が自助努力した! なんだぁ貧乏人たちで解決できたじゃない!」という話にしかならないだろうことだ。
「だろう」はやはり「そうだ」となり、あちらにもこちらにも涙ぐましい自助努力の灯がともり、感銘ばかりがエスカレートしていく。
挙句の果てには、「日本人のDNA」だ。
寄付を行った当人たちの善意、何か行動を起こさねばという思いについては全面的に共感し賛同はするけれども、この種の自助努力賛美は、それこそ「日本特有」の冷酷さの裏返しではないのか、という、経験則に裏打ちされた疑念が私の中にある。
『非国民通信』さんから
『「不適切な申請」など誤差の範囲に思えるのだが』
奨学金の受け取り手を実質的な不正受給者と見なす……少なくとも不正受給者予備軍というような視線で眺める。そのいっぽうで、タイガーマスクたちの寄付行為に感極まって涙ぐむ。
つまり、
市民の手持ち、貧乏人の手持ちの品で自助努力を行っているときのみ、それは美談なのではないか。
もしそうだというなら……美談とはなんなのか。
*もしもアンドロイドが電気羊の夢を見たら*(2011.1.17)
「わたしはことばをつづけるだろう。『勝利者の唯一の宗教は、冷酷に解釈されたダーウィニズムであり、それは、最適者のみの生存こそ宇宙の意志であると主張する』」
〜カート=ヴォネガット〜
「ある世代が、知識は処罰の対象になり、安全は無知の中にあることを学ぶとします。次の世代は自分たちが無知であることを知りません。知識とは何なのかを知らないのですから」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『ヴォイス』〜
働きが悪いので死んでいただきます、2011年ジャパン。
『非国民通信』さんから、
『極東戦線以上なし』
さすがの『非国民通信』さんもコメント不能となったか。
この国はこの期に及んで、ドラッガーがベストセラーになるような国だ、冷酷さばかりがいや増してゆく。
いや、正しくは、
女子高生がドラッカーの『マネジメント』を読んで、そこに書いてあることを無邪気に真に受けた、という内容の本がベストセラーになる国、なんだけどね。
(^_^;)
それがどうしたというのですか、などとつるんとした顔で切り返されて、今度は私が絶句することになるだろうか。
『ねこねこブログ』さんから、
『「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」のレビューが最高に面白いです!!みなみちゃんの幸せ。』
『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』は、実はホラーとして読むのが正しいのではないか、ぜひ、そうするべきだ、という実に“正しい”提案だ。
☆☆☆☆☆☆
己の人生の全ての行動や感情をビジネスで勝つために使っている、僕から見ると強烈に不気味で恐ろしい奴としか言いようのないキャラなんですけど、こいつが物凄く作内で持ち上げられているのに吹きました。本作の物語の価値観は完全に、『ビジネスで勝利すること=人生の全て』でして、野球も人の心(=顧客満足度)も、スポーツも愛情も友情も世界の何もかも、全てが完全にビジネスの成功の為にある道具にすぎないんですね。この本は徹頭徹尾『人生はビジネス成功の為にある』ということが大前提になっている。なんというか、怖いというか、ここまでビジネスに全てを懸けている人が世の中には大勢いるのか、とても僕はビジネス社会を渡ってゆけそうにないと絶望的に思ったことを覚えています…。
☆☆☆☆☆☆
まだまだ子どもと言っていいひとりの若い女性が、感動を感染経路とする「社会ダーウィニズムを背景にした前進改革主義」菌に冒されて実感ゾンビになる。前進と改革というその内容ゆえに彼女は実践ゾンビともなり、周囲の人間を改革と称して次々とゾンビ化させていく。……というような内容のようだ。
ようだ、と言うのは、私は実は読んだことがないからだ。
(;^_^ A おいおい。
『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』というだらだらとしたタイトルが、実はそのままあらすじだ。
『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』というタイトルからして、すでに不吉で、堂々と無残だ。
無残さというものにこうも堂々としていられる、むしろ書籍のタイトルにして胸を張っている、ということがさらなる不吉さをよび、怖くてとうてい読めない。
私は小心者ですから。
おまけ。
もしシンプソン一家がマルクスの『資本論を』読んだら。
*ベストセラー小説も読んでみた*(2011.1.14)
「作家は単なる娯楽提供者であるか、あるいは大道のハンド・オルガン奏者が曲を変えるように、ひとつの宣伝路線から別のそれへと簡単に切り替えのきく金目当ての下働きであるときめこんでいる。しかし、結局のところ、本というのはどのようにして書かれるものであろうか。ごく低級なものを除けば、文学は体験の記録によって同時代人の視点に影響を及ぼそうとする試みである」
〜ジョージ=オーウェル『文学の禁圧』〜
「でも、最初に月の風景を歩く者のなかには、あらゆるタイプの音楽家、作家、画家がまじっているべきだ。その驚異をわれわれ凡人に伝えられるのは、彼らをおいてほかにいない。その仕事をTVカメラにまかせちゃいけない。それは確かだ」
〜アンディ=ダンカン『主任設計者』〜
今年の正月も例によって、本を読んだりなどしながらゴロゴロとすごした。
私は同時進行的に数冊の本を読むクセがあって、読みかけの本が積ん読状態になって部屋中に散らかっている。そういう状態の本を、正月のうちに読み切ってしまう、という作業に楽しく取り組んだ。
ホーガンのSF小説『断絶の航海』なんて、読みかけどころか、残り60ページとなってから何年も放置状態だった。
今さら読まなくてもいいかな、とも思ったが、折角の正月だから、読んだ。
『断絶の航海』については、作者の主張はそれ以前にすべて出尽くし、残りの60ページはエンターテイメントとしての体裁を整えるための大団円、ということだった。
だったら、読む必要はなかったかな、とも思うけれど、こればっかりは、読まないとわからない。残り60ページとなった時点で、続きを読むのを中断した自分の判断は、やはり間違っていなかった、という収穫があった、ともいえる(こんなふうに書くとアレですが、かなり面白い本ですよ。お薦め)。
箸をつけた料理をひとつひとつ片づける、というような読書の時間を中心にして、普段ならけっして手に取らないような本も読んだ。
母親の本棚から『告白』というミステリ(サスペンス?)小説だ。
本の帯には、
「全国書店員が選んだいちばん!売りたい本 2009年本屋大賞第1位」
とある。
「何を読みたいというわけではないけれど、読みごたえのある本というものが読みたい」というあなたに書店側が「一番売りたい本」、つまりは「読者が読んでよかったと思える本」というものを、全国津々浦々の書店員の投票によって、つまり多数決によって決定した、ということらしい。
そこはかとなくホラー風味
と言えばこれは言い過ぎだろうけれど、不吉さの確信、というものを帯に感じて、読み始めた。
読み始めて3ページでまず感じたのは、「この書き方で長編小説を一冊書ききるのは、これはしんどいんじゃないか(単行本で268ページ)」という思いだった。
どうしてそのような思いを感じるに至ったか、という点については、これから読む人の楽しみにとっておくとして、そう感じたとだけ、ここでは書いておく。
そこからさらに数ページ読み進めて、「これで長編小説一冊を書ききるのはしんどい」という直感は、「これはもしかしたら最初は第一章で完結した短編小説だったのではないか。その短編小説に後日譚をつけ加えるという形の長編小説を、私は今読んでいるのではないか、という推測へと発展していった。
第一章を読み終わった段階で、本の最終ページにある「初出」を確認したところ、第一章が『小説推理』2007年8月号掲載で、第二章が12月号掲載、第三章が2008年3月号掲載、あとの残りの三章ぶんが書下ろしとなっていた。
となれば、第二章以下の展開は、短編小説であったろう第一章を軸にする形で、そこにかかわった登場人物たちの後日譚、というものがひたすら展開するのではないか。
そして、小説としては、第一章を読みごたえの頂点として、読み進めばすすむほど、下降していくことになっていくのではないか。
とまあ、そのような“推理”を第一章を読み終えた時点で行い、第二章以下を一気に読んだ。
一気に読み終わったのちに感じたのは、「自分の推理の正しさ」というものの確認、そして満足だ。
2009年度の本屋大賞第1位『告白』という本を読み終わったということを、最後に、私は弟に報告した。
弟は、私に
「よい小説、よい映画は読者(鑑賞者)を試すものだ。であるがゆえに、このごろでは、よい本というものは多く読まれるということになりえない。ましてや、もっとも読者に読んでほしい本として選ばれることなどけっしてあり得ない」
と言った。
私は何も言ってませんよ!
と、実にいやらしく書いてもおこう。
*私はスパルタカスと誰もが言った*(2011.1.11)
「人生にはパンが必要だが、バラも必要である」
〜ケン=ローチ『ブレッド&ローズ』〜
「互いに協力する性質は進化の過程を通して、苦労しながらやっと手に入れてきたものだ。協力しなかった生物、仲間に入って一緒に仕事をしなかった生物は滅んでしまった」
〜カール=セーガン『百億の星と千億の生命』〜
大阪まで出ばって、ケン=ローチの『エリックを探して』を観てきた。
関西方面では公開が始まったばかりだから、ネタバレは可能なかぎり自粛しよう。自粛する中で、私が感じたことを、ほのめかすような形で、少しだけ語ってみよう。
作品の中心を貫くのは、「この映画をもってして労働者を、市民を勇気づける」という作り手の一貫した方針だ、ということは、ネットで予告編を観た時点で、すでに確認済みだった。
ネットで予告編を観た時点でと言っても、どこかにそうはっきり書いてあるというわけではないけれど、ケン=ローチの過去の作品をふまえつつ予告編を眺めれば、そんなことは一目瞭然だ。
ともかくも、市民を勇気づける、元気づける、という課題をケン=ローチが自らに課して作った映画、という事実を念頭において、私は映画を鑑賞した。
最後の、かなり無理気味なラストの展開をどうとらえるか。
他人の苦しみを前に市民は結集できる、その市民の姿を描いて、だから手段については目をつぶってくれ、ということなのだろうと思うから、私はそうする。
他人の苦しみのために結集する市民の姿を描いた、しかも、観客席のあちこちで鼻汁をすする音が聞こえてくるほどに説得力たっぷりに描いた、
それは、世界の現状、市民の現状をかんがえれば、かなりすごいことではないか。
サッカー界の過去のスーパースター、エリック=カントナに勇気づけられ(マリファナ煙草の作りだした妄想に過ぎないわけだけれど)、市民はふたたび、結集する。
他者の苦悩を分かち合うために結集する市民の姿は、ファンタジックなまでに士気が高く、優しい。
ケン=ローチの作品に出てくる労働者たちがあたたかく優しいのはいつものことだが、それゆえに、観たあとはひたすらいたましいラストとなることは、実はかなり多い。
『スイートシックスティーン』や『ナヴィゲーター』なんか、いたましくて。
『この自由な世界で』もそう。
しかし、今回は、ひたすら士気の高い労働者たちだ。
そして今回のケン=ローチが、私たちにもっとも観てほしいものは、おそらくはこの、優しさ、微笑ましさ、純朴さを土台とした、市民の結集と士気の高さ、そしてハッピーエンドだ。
--☆-
阪急三番街をうろついていたら、中古CDの出店を発見した。
クレンペラーのモーツァルト、それから、
『エイリアン』のサウンドトラックを購入。
こんなものを買うのは、おれっちくらいのものだろうなあ。
(^_^;)
でもびっくりしたことに、悪くなかった。
*青ひげの花嫁*(2011.1.8)
「こんなに大勢の人びとが、自分たちの人生をりっぱな物語にしようとつとめるのは、よくないことかもしれない。結局、物語というのは、西部の酒場によくおいてある機械仕掛けの暴れ馬とおなじように、作り物なのだから。
そして、国家が物語の登場人物を気どるのは、それ以上によくないことかもしれない」
〜カート=ヴォネガット『デッドアイ・ディック』〜
「消費者の要求と人びとの民主的な意志を同一視するのは誤りである。なぜなら民主主義は1人1票の原則で動いているが、市場は1ドル1「票」の原則で動いており、貧者よりも富者を優遇しているからである。それに消費市場は理性的にして公開の熟議を許さないが、大多数の民主的な理論家が信じるように、そうした熟議が民主主義に欠かせない」
〜エド=デーンジェロ『公立図書館の玄関に怪獣がいる』〜
大衆蔑視でもエリート主義をひけらかすわけでもまったくなく、これはもう「民意の劣化」としか呼びようがないだろう。
『Afternoon Cafe』さんのところから。
『「民意」を大義名分にするファシズムの手法』
劣化した市民たちの「民意」による「民主主義」の自殺。
「民意の劣化」とは「民主主義の劣化」であり、つきつめればそれは「市民の劣化」だ。そんなことはない、劣化などとはとんでもない、ただ民衆はメディアに騙されているのだ、などと言ってみたり(確かに事実だけれども)、市民が市民に向かってそんなことを言ってはならないとたしなめてみたりするけれど、市民の劣化はやはり市民の劣化だ。
そして、市民の劣化、という現状を、市民の立場からじっくりと腹を据えて見据える必要が絶対にあるのだ、と私は断言しておこう。
このような、民主主義の激しい劣化、地盤沈下の一方で、
「自由と民主主義」の視点を持ち込むだけではどうにもならない時代がやって来た、それは好き嫌いや善し悪しの問題を越えた事実なのだから、我々は時代の要請に応えざるを得ない
などという“リアリスト”たちの声も大きくなってきた。
民意とリアリズムと来たもんだ、だっはっはっはっ。
私は最近、青ひげに殺されて吊るされている死んだ花嫁になったような気分になる。
腐敗していく自分の肉体のリアリズムにうんざりしながら、新しい花嫁が、この部屋に通じるとびらを見つけ、それを開けてこちら側にやってくるのを、無言で待ち続けるのだ。
「見たなあ〜!」
青ひげが後ろから囁く。
青ひげの新しい殺人を支えるのは、先に殺された、私たち無言のゾンビたちだ。
青ひげ。
--☆-
2007年9月号のSFマガジンを引っ張り出して読んでいる。
カート=ヴォネガット追悼特集号だ。
カート=ヴォネガットを読むための理由、というものがあるとして、池澤夏樹氏はそれを「ファンタジーとして描かれた社会主義」としていた。
アメリカが社会主義国家になるなど、とてもありえない、絵空事を通り越してギャグでしかない、というニュアンスを含む、ファンタジーだ。
架空の安全世界、ファンタジーの内部でしか存在しえない理想社会、というものをどこまでも不器用に、孤独に、マッチ売りの少女的にはかなく描いて、ヴォネガットの小説は、ロマンティックで、どうしようもなくせつない。
悲しい。
うわっ、辛くてこれ以上はとても読めない、というものすらある。
うわっ、辛くて これ以上は読めない、としても、やはりヴォネガットは読むべきだ、とくに若い人は読むべきだ、と池澤夏樹氏は書いている。
私がヴォネガットの小説全体に感じるのは、苦しみへの理解、やさしさというものだけれども、これはきつい、辛すぎる、と感じる作品がないわけではない。
「うわっ、辛くてこれ以上はとても読めない」
と声に出して、顔を上げれば、もはや現実の世界は、私にとって辛くてせつないどころではなくなっている。
覚悟を決めて「そういうものだ」と達観する勇気もない。
だから私は、ネットの片隅でこのような青ひげ日記をつけるのだ。
*一休さんが泣いた夜*(2011.1.5)
「わたしたちのなかには、人間性に深く根ざしていて、条件が整うと突出してくる性質がある。それは寛容さだ。他者と見なせば、相手がだれでも、なにでも---ときに強引なほど---手をさしのべるのだ。
たしかにこの性質は、古代においては隠され、抑えこまれていた。動物に近かったわたしたちの先祖は、環境的な要因からまったく逆の態度をとった---抑圧と不寛容だ。主たる原因は恐怖だ。飢えの恐怖、暴力の恐怖、希望がついえる恐怖。人類が獣とさしてかわらない暴力的で短い一生を送っていた時代には、恐怖はいつも身近にあった。その大きな恐怖を克服し、他者について語れた者は、どの時代にもごく少数だった」
〜デヴィッド=ブリン『有意水準の石』〜
「貧困、無知、希望のなさ、自己評価の低さという歯車が噛みあって、悪循環する永久機関を作りあげ、何世代にもわたって人々の夢を打ち砕いている。しかもそこから生まれる損害は、すべての人が背負わされているのだ。この永久機関の心臓部に当たる部分こそ、読み書き能力の欠如なのである。
この永久機関の犠牲になっている人々は、ひどい恥辱や惨めさを味わっている。たとえそれには目をつぶったとしても、読み書き能力のなさが生み出す損害は、すべての人に重くのしかかっている。たとえば、医療費や入院費、犯罪と刑務所にかかる費用、特別教育のための費用、生産性の低下、それに加えて、優れた人的資源を失うことにもなる---そうした人たちは、もしも教育を受けていたなら、われわれに襲いかかる難問を解決する力になってくれたかもしれないからだ」
〜カール=セーガン『悪霊にさいなまれる世界』〜
『music for life』さんのところから、お正月らしい話題。
『「一休さん」はドクロを掲げた!』
☆☆☆☆☆
「戦で難民になった人たちが、借りの住まいも追われ、行き場がなく、一休さんの修行しているお寺に集まって来た時に、お寺は貧乏で食べ物も出せない。ここで一休さんは「とんち」を使い、食べ物を集め、お寺に戻る。
しかし、人がいない。少し前までは、家を追われた人がぎゅうぎゅうにいたのに。
今は数人しかいない。
残った人に話を聞くと、少し前に役人が来て、連れて行った。
「近く戦が起きるから、男は戦場に、女と子どもは飯炊きに!」
「そこで働けば腹一杯めしを食わす」といって。
思い悩む「一休さん」。
結果的には、その人たちを何とかしてあげられなかった。
戦争難民になっていながら、ごはんを食べるために戦争を手伝わなければならない人。
戦を恨むが、自分はどうすることもできない。
結果、ドクロを掲げて町を歩くことに。
小さな体に、杖の先にドクロを掲げて、涙を流し、「きをつけなさい!きをつけなさい!」と言って回る。そして、町の人に石を投げられる。」
☆☆☆☆☆
次に、ベクトルがまったく違うが、『Commentarius Saevus』さんのところから、
『フォックスニュースがロンドン学生デモについてやらかしてしまったようです』
☆☆☆☆☆
「記事に埋め込んであるニュース画像はアメリカのフォックスニュースのものだそうで、「イギリスでもティーパーティ運動っぽいなんかが広がり、大きな政府と高い税金に対する反発が起こっています」というものなんだけど(たいへん雑な要約)、なんと23秒〜30秒くらいのところであたかも高額の税金反対デモであるかのように放送されている画像、よく見ると「教育費を削減するな」とかいうプラカードで、どう見ても学費値上げ反対デモ。フォックスが説明している「小さな政府」を求めるデモとはまるっきり目的が反対のデモである。教育費の削減に反対してるヤツってふつうは「小さな政府」に反対してますが…」
☆☆☆☆☆
気をつけなさい、気をつけなさい。
2011年という年は、このふたつの問題と差し向いで生きていく一年となるだろう。
*マイケル=ムーアのインタビュー動画*(2010.12.29)
「もしも、連帯した社会で暮すことの価値を信じるなら、刑事施設の成長を妨げなければならない。
刑事施設が成長することは、社会の連帯に対する重大な脅威である」
〜ニルス=クリスティ『人が人を裁くとき』〜
「交渉を始めるように努めなければならない。暴力の前に、できれば暴力の代わりに、また暴力の後でも、対話のための場を設定する試みがなされるべきである。言語道断なことだと考える者に会うべきである。そして、なぜ彼らがそれをしたのかを理解しようとし、その行為を別の観点からみる努力をし、共通の基盤を探す試みをすべきである。そうしなければ、どうやって暴力を止めることができるだろうか。敵対する両者がお互いの状況をまったく別々の解釈に基づいて突き進んでいけばどうなるだろうか。暴力を防ぐという観点からは、アメリカは、爆弾よりも対話によってこそ自国を守ることができるだろう。
そのような対話からは何も生まれてこないかもしれない。しかし、両者が武力に訴える前に互いにどう考えているかを知る試みは有効であるかもしれない。おそらく、両者は徐々に、相手の言うことも一理あると考えるようになるだろう」
〜ニルス=クリスティ『人が人を裁くとき』〜
宮城県がこんなことになった。
『男の魂に火をつけろ!』さんから、
「児童ポルノ 宮城県「単純所持」禁止へ 来年度条例化目指す」のニュース。
いや、私が暮している奈良では、すでに制定されてるんですけどね、これ。
名づけて、「子どもを犯罪の被害から守る条例」。
……。私も疲れたよ。
(^_^;)
疲れたから、ぶっちゃけ、本質的なことだけ言おう。
人間を利潤追求の道具、つまり私たちが私たち自身を商品と見なす資本主義の価値観が問題なのであって、「児童ポルノ」の単純保持者とやらをいくらしょっぴいても、値がつり上がるという事態をまねく以外の、どのようなポジティブな変化もおきはしないだろう。
あなたは児童ポルノに一も二もなく嫌悪感を感じる人間だ。そのような、児童ポルノに一も二もなく嫌悪感を感じる人々が、児童ポルノを制作する人間、販売する人間、所持する人間を罰し、閉じこめ、封印する……やがて根絶される……そんなことが可能だと、本気で思ってるの?
新しい商品に飛びつき堪能し、目新しい消費財を部屋いっぱいに所有しろ、しかし、もしあなたの個人的性癖が社会的に問題となる場合には、
あんたは「時計仕掛けのオレンジ」の刑に処せられます。
まったくばかじゃねえの。
つーか、狂ってる。
この社会が抱える問題のすべてを、「私ではない他者」、「社会的異物」、「ここではないどこか」に押しつけたうえで、こっちの商品はあ〜まいぞ、あっちの商品はに〜がいぞ、などと、まったなし感だけはたっぷりに歌う。
ハルマゲドンンンンン。
あなたのお子さんは商品か?
まったくもって、そうだ。
では、あなたは誰なのか?
逃げも隠れもできず、消費者だ。
そしてあなたは、この日常にペッタリと張りつくようにして生活しながら、この子をなんとしてでも守り抜かねばならんのだ!
さて。
『Apes! Not Monkeys! 本館』さんのところでちょっと興味深い記事を見つけた。
『別にびっくりするようなはなしではないが』
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
人権擁護法案への反対派の中にレイシストや歴史修正主義者がいっぱいいたことを考えれば、十分予想された事態ですな。それにしても「公権力が表現規制に介入することは憲法違反である以前に自由主義の精神を自ら放棄する所業に等しいものです」ですと。「表現の自由キリッ」の人々は自分の主張が桜井誠のそれと寸分違わぬものだということを自覚されたし。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「「表現の自由キリッ」の人々は自分の主張が桜井誠のそれと寸分違わぬものだということを自覚」したとして、その後どうするのか。
それは、市民間の熟議だ。
つまり、我々がまず建設すべきは、市民間の熟議を可能とする公共スペースの再建だろう。
おまけ。
『デモクラシーナウ!』から。
『マイケル・ムーア自らを語る 映画づくりと政治活動(前半)』
続けて後編。
『マイケル・ムーア自らを語る 映画づくりと政治活動(後半)』
この年末の、国政、または国際情勢のニュースは、げっそりするものばかりだった。
また映画を撮ってくれよ、ムーアさん。
*諸人こぞりて叩きませり*(2010.12.25)
「♪僕は人を殺そうと一生懸命になった、でなきゃ僕が死んじゃうと
♪♪でも本当に怖かったのは、敵の兵士が僕の身近にやって来て
♪♪そして彼の顔を見た時
♪♪僕の顔とまったく同じような顔じゃないかと気がついた時」
〜ボブ=デュラン『ジョン・ブラウン』〜
「世間の人びとはその運命なり、自分の罪悪や、過失なりによって、ある特定の立場に置かれると、たとえそれがいかに間違ったものであろうとも、自分の立場が立派な尊敬すべきものに見えるように、人生ぜんたいに対する見方を、自分に都合よく作り上げてしまうものなのである。そのような見方を維持するために、人びとは自分の作り上げた人生観なり、人生における自分の位置なりを認めてくれるような仲間たちに本能的にすがりつくのである。われわれにしても、その腕のよさを鼻にかける泥棒とか、淫蕩を自慢する売春婦とか、残忍ぶりを誇る人殺しなどについては、驚きあきれざるをえない。しかし、われわれがあきれるのは、これらの人びとの仲間や雰囲気があまりにも限定されたものであり、われわれ自身がその外に置かれているためである。しかし、自分の富すなわち略奪を誇る金持ちとか、自分の勝利すなわち殺人行為を誇る軍司令官とか、自分の権力すなわち圧政を誇る権力者などの間にも、やはりこれと同じ現象が生まれているのではないだろうか? われわれはこれらの人びとの中に、自分の立場を正当化するために、人生観や善悪の観念の歪曲を見出さないのは、そのような歪曲された観念をもつ人びとがはるかに多数をしめ、しかもわれわれ自身がそれに属しているからにすぎないのである」
〜トルストイ『復活』〜
私たちが私たちの人生を生きるに当たっての、精神的基盤というもの。
♪諸人こぞりて 叩きませり〜♪
『vanacoralの日記』さんから、「東京都が朝鮮学校への補助金支出を中止へ 全国初」のニュース。
『私は問いたい』
罪なき私たちがこれほどまでに苦しまなければならないというのならば、私たちにとって他者であるお前たちは、さらに苦しむべきなのではないか。
などという素朴で残酷な市民感覚に突き動かされて、上っ面だけはきらびやかな、クリスマスのホラーな夜。
私たちが自分自身に向かって語る言葉が
「欲しがりません、勝つまでは」
なら、私たちがお前たちに語る言葉は、
「お前だけを行かせはせん、あとから我々も必ず行く」
だ。
だからこれは、弱者攻撃や人権軽視などではなく、あくまでも社会平等の実現のためのムーブメントなのだ、という……。
神よ許したまえ、私たちは自分が何をしているか、他者とは何であるかも知らず、社会正義とは不寛容の中にこそある、と信じているのです。
アーメン。
映画『白いリボン』予告編。
この村では子どもを育てられないわ。
*アトムがまだ人間だったころ*(2010.12.20)
「ルウェリンは今でも病院で小さな鉄格子の裏側で働いており、月曜日には洗濯物を火曜日にはドライ・クリーニングを出して金曜日には全部まとめて引き取り、毎日女房が仕事から帰ってくる時間にはポテトを用意している。でもルウェリンはすっかり死んでいるのだ」
〜シオドア=スタージョン『ルウェリンの犯罪』〜
「コンピューター作動せよ! あの機械人形に理性を吹き込め!」
〜手塚治虫『鉄腕アトム』〜
アトムが人間だったころ。
『SFマガジン』1月号の読み切り短編、テッド=チャンの『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』という短編を読む。
動物園の廃園とともに職を失った若い女性飼育士が、次の職場として、デジタル生物を製品として育てる(つまり一人前の製品に仕立て上げる)という職に就く、というのが物語の発端だ。
デジタル生物は、ディジエントと呼ばれる。
ディジエントは、サイバースペースの中に存在する、知性を持ったポストペットみたいなものを想像したらいい。
パソコンのモニターの向こう側にいる愛玩商品としての「鉄腕アトム」、といったほうが、より近いかもしれない。
ともかく。
ついこのあいだまで動物園で働いていたヒロインは、デザイナーやプログラマーなどの他の仲間たちとチームを組み、「知性を持った愛らしいソフトウェア製品」を完成させ、ペットとして市場に流通させる。
製品は、発表しばらくは爆発的な人気を得る。
だが、ディジエント一体一体がもつ固有の個性、つまり
「知性を持っているがゆえに、完全に所有者の思い通りにならない部分がある、どこか扱いにくいという部分がどうしても残ってしまう」という“欠陥”が次第に明らかになるにつれ、
“市場”が急激に縮小していく。
ディジエント一体一体がもつ固有の個性と向き合い、個体と向き合うことで、彼らを消費財として切り捨てることができない、“それ”をどんな犠牲を払ってでも守らなければない、と感じているヒロインの、ここからの終わりのなき戦いが始まる。
ディジエントを消費財と見なせない、企業名と結びつけて考えられない、そんなことを考えただけで、彼女は罪悪感で内面がズタズタに切り裂かれてしまうだろう。
ゆえに、彼女は、この窮地において、ディジエントを守らなければならない。それも、製品としてではなく、人格として、守り抜かねばならない。誰に強要されるでもなく、ごく自然なこととして、彼女は覚悟する。
ディジエントがこの世界で生き残るには、市場において彼らが今もなお魅力的な製品であると、絶えず証明し続けなければならない。
だから、主人公はそうする。
ペットとして無用なのだというなら、労働市場に売り込んではどうか。
しかし、企業は、彼女のプレゼンをひととおり吟味したのち、「知性のある製品には興味を抱くが、デジタル従業員には興味はないのだ」と、答える。
人間のように考え、行動する製品ならば価値があるけれども、人間として扱わなければならないソフトウェアなど、払うリスクが高すぎる、というわけだ。
ディジエントがディジエントであり続けるかぎり、市場にとって本当に魅力ある製品であり続けることが難しい。
ヒロインが直面するがんじがらめの苦難の大元は、この点にある。
しかし、何もかもが絶望的というわけではない。
たとえば、性産業はディジエントの可能性を高く評価している。なのに、ヒロインは脚を一歩前に踏み出すことを躊躇する。
「ディジエント」たちが「使われる」ことについて、倫理的抵抗感があるのだ。
しかし、使われない人間など、どこにいるというのか。
使われない人間など、どこにもいない。
使われない人間などどこにもいないなら、使われるということに、もっとポジティブな評価をしてもいいのではないか。
うんぬん。
人であるよりもまず市場において魅力的な製品であることを証明し続けなければならない、というディジエントたちの姿は、鏡に映った人間そのものだ。
だとするならば、ディジエントも、そして、彼らの保護者である人間たちも、少なくともこのシステム下では、永遠に解放されることはないだろう……、という、とんでもない理解へと、ヒロインは落下していく。
落下しつつも、彼女はディジエントを抱きしめて手放さないだろう。
人間とはなにか。“商品”とはなにか。
とまあ、これはすごい作品だ。
21世紀の“ゾンビ化された”アトム。
最近購入した本リスト。
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・『ザ・コールディスト・ウインター 朝鮮戦争』(上下)
・『ポジティブ病の国、アメリカ』
・『スティーヴ・フィーヴァー』(SF)
・『輝く断片・文庫版』(SF)
・雑誌『MacFan』
・雑誌『将棋世界』
・雑誌『SFマガジン』
・漫画『チャンネルはそのまま3』
・漫画『特上カバチ23』
・漫画『水木しげる コミック昭和史1』
・漫画『水木しげる コミック昭和史2』
・漫画『水木しげる コミック昭和史3』
・漫画『水木しげる コミック昭和史4』
・漫画『水木しげる コミック昭和史5』
・漫画『のだめカンタービレ25』
・漫画『ちはやふる11』
・DVD『第9地区』
・DVD『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』
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