*『星の王子さま』のCD-ROM絵本*(2003.10.3)
サン=デグジュベリの『星の王子さま』のCD-ROM絵本を私は持っている。
世界中で読みつがれている古典児童文学の『星の王子さま』を、ロマン=ル=プジュペというひとがデジタル絵本として脚色したものだ。
本当に良くできている。サン=デグジュベリの王子さまを愛しているひとたちが、創意工夫と試行錯誤を重ねて作ったであろうことが、例えばバックグラウンドミュージックを聴いただけでも、はっきりと想像できる。
原作どおりに、本当に美しい絵本に仕上がっている。
サン=デグジュベリが描いた王子さまが、3Dになって、動画となって、絵本の中を歩いている。3Dだから、立体だ。でも、サン=デグジュベリの描いた王子さまのイメージは、しっかりたもったままだ。
サン=デグジュベリの描いたイラストの構図から、カメラがパンする。王子さまがあらわれる。ズームイン。王子さまの横顔。アニメの技法だ。しかし、原作のアニメ化ではけっして、ない。あくまでも、絵本だ。
原作のアニメ化ではなく、あくまでも絵本としてしっかりと成立するようにと、関わったひとたちのさまざまな工夫が、ここでも凝らされている。
正直、楽しい。とくに、飛行機乗りが王子さまにせがまれるままに羊の絵を描くシーンは、必見だ。紙の上を走る鉛筆の音が、また素晴しい。このシーンだけでも、サン=デグジュベリに見せてあげたいなあ、と私は思ったりする。
王子さまの周りでは、ほとんど絶えず風が吹いている。強い風だ。
サン=デグジュベリの描いたイラストの中の王子さまは、黄色のロングマフラーを首に巻いている。そのマフラーは、ほとんどいつも風にたなびいている。マフラーは、風に煽られて、ななめ上方にぴんと張っている。
CD-ROM絵本の中でも、風は吹いている。CD-ROM絵本の中の王子さまのマフラーは、空気中をゆったりと泳いでいる。ここでは、原作の絵の中ほどには、強い風ではないようだ。
原作の絵のほうで吹いている風は、場違いなほどに強い。動画の中でこの風を表現すると、風の強さばかりが強調されて、物語のバランスを崩す可能性があったのではないか。などと私は推測する。
しかし私は、原作の絵の中で吹いているこの風が、大好きだ。
王子さまのマフラーばかりをつぶさに眺めていくと、楽しい。
作品全体を貫いている喪失感に、もうひとつ、強い意志力のようなものをこの風に感じることができる。
この風を絵の中で吹かせたひととして、私は、サン=デグジュベリに注目している。
*『カルロス・ゴーン経営を語る』に目がツブレル*(2003.9.30)
紀伊国屋、旭屋、ジュンク堂と、ひさしぶりに大阪の大型書店をはしごした。
たかいたかい絵本や美術書を立ち読みして遊ぶためだ。
しかし、行く先々の書店で、とんでもないものを目にしてしまった。
『カルロス・ゴーン経営を語る』というビジネス書だ。
どの書店でも、一階の新刊本のおおだなに、この『カルロス・ゴーン経営を語る』が面ザシ平ズミでどうどうと自己主張している。
カルロス=ゴーンという日産自動車社長兼CEOが、紺色の和服姿でちょーんと正座して、正面を向いている表紙写真。
「んま〜〜〜!! 目がツブレル〜。 お嫁にいけなくなっちゃう」
(男だからお嫁にはいかんけど)。
(;^_^ A
ゴーン流経営哲学のすべてがここに!
などという、下品なあおり文句のポップに、思考がとびそうになる。
本の内容は、ゴーン氏がアメリカ企業からフランスのルノーに引き抜かれ「コストカッター」として腕を振るい、二年後に日産にやって来て大リストラを断行するまでをインタビュー形式で語る成功物語だそうである。
いったいぜんたい、こんな本を誰が買うのだろう?
やはり、世の経営者なのだろうか?
ゴーン氏が日産でやったことといえば、5つの工場閉鎖、労働者二万一千人削減、下請け・関連企業の半減でありましょうや?
痛みにたえて構造改革。で、会社ぼろもうけ、成功物語だと言う。
ん? ちょっと待て。
不況だ、経営危機だという話はどうなったのよ?
実際のところ、日産は相変わらずもうかっている。
成功物語だもんな。
なのに、労働者や下請け企業は、犠牲を引き受け苦しむ。
なんか、おかしくないですか?
大量解雇? 工場閉鎖? 賃金カット? そんでもって中国に新しい工場建てて、タダ同然で働かせボロもうけ。経営者は哲学を気取って本まで書いちゃったりする。どういうこと?
こういうのを、経営手腕だとか言ってありがたがるひとたちの神経が、正直私には理解できん。
この本の他にも、低賃金の派遣労働者の使い捨てで巨万の富を築いたビル=ゲイツの本がベストセラーになったりで、私、心が寒いです、今。
経営している会社を成長させるとか、成功するために働くとか、そんなことを考えているひとは、悪いことは言わない、そんな気違いじみた考えは即刻捨て去るべきだ。
いや、マジで。
永遠に続く成長という、ありえないまぼろしを追いかけて、私たちは誰かを踏みつけなければならない。成功を生みだすために、その数十倍、数百倍の規模の失敗も生み出さなければならない。それはかならずセットになっている。
こんなの、絶対、おかしいって。
お腹を空かした人間が10人。林檎は100個。どうしたらいい?
子どもたちは考えて、ひとり10個ずつ食べれる! と答えるだろう。
ピンポン、正解、良くできました。
ひとりが97個もふんだくって、残りの9人は3個きりの林檎を奪いあいながら、
「いつか、きっとおいらも、97個を独りじめできるビックな人間になってみせるぜ」
などと夢見るのがイカレポンチ。しかも、だ。100個の林檎を作ったのは、くいっぱぐれた残りの9人だったりするんだよな。
市場原理? 自由競争?
ブー! ブー!(ブーイングの音)。
そんなババ色の根性で、本を読んで、林檎を独りじめできる秘訣を学ぼうと躍起なわけ。
でも、97個もの林檎を、ひとりでどうしよっての? 食べきれないよ?
*『イタリア・ボローニャ国際絵本原画展』*(2003.9.26)
西宮市の大谷記念美術館で開催されている『イタリア・ボローニャ国際絵本原画展』を観てきた。
毎年行われるこの原画展を、一年間をかけて私は心待ちにしている。世界中の絵描き、イラストレーターさんが手がけた絵本原画が、この展覧会に向けて送られてくる。秘かな自信作であるだろうこれらの原画を、審査員が審査し、ふるいにかけられ、見事入選を果たした一部の原画が、はれて『イタリア・ボローニャ国際絵本原画展』を飾る作品となる。
展示されている絵本の原画は、本当に、多様だ。
アクリル画、水彩画、墨絵に切り絵に合成写真、抽象画に精密画にと、およそありとあらゆる絵が存在している。展示されている絵画作品の多様さは、絵本というものの多様さ、豊かさへと繋がっている。
実際、絵本に対する絵画的アプローチの仕方は無限にある。絵本を作るひとたちの、腕の見せ所だ。私はこれでも一応、絵本を制作する側の人間でもあるから、そういう視点でも原画を観賞する。それがまた、楽しい。
文字ボックスの配置まで念頭にいれつつ、あっと驚くような構図や、思いもしなかった配色をほどこしてあるような絵に出くわすと、喜びに顔がくしゃくしゃになってしまう。
一方、印刷ではとうてい出力ができないような特色を原画に使用している作品もあり、
「これは、印刷では再現できないなあ」
なんて思ったりもする。だからこその原画展で、美術館に足を運ぶ価値がある。
また、絵本にもお国柄というものがあるらしく、これはフランスの絵本、これはドイツの絵本というふうに眺めていっても面白い。お国柄といえば、今年もフランスからの応募がかなり多い。やはり、芸術の国フランスでは、絵本も盛んなのだろうか? 逆に、今年はアメリカの作品の入選作が一作もなかった。おそらく、アメリカからの応募そのものが少なかったか、まったくなかったのだと思われる。アメリカ人の自国主義が、垣間見れるような気がする。
さまざまな事柄に思いをはせながら、何時間もかけて作品のひとつひとつを鑑賞していく。
それぞれの展示作品には、モノクロームのポートレート写真が貼り付けられている。絵本の原画を描いたひとのポートレートだ。
私は、このポートレート写真も絵画同様、毎年楽しみにしている。
顔、顔、顔。
どの写真も素晴しい出来ばえだ。そのことに私は奇妙な驚きを感じる。彼らは絵描きで、プロのモデルさんでも何でもないのだから。展示されている絵本の絵を描いたという以外すべてが謎のままで、写真の中から微笑んでいたり、はにかんでいたりするひとたちはまるで、別の絵本の登場人物たちのようだ。このひとがこの絵を描いたのか、あの絵を描いたひとはこんな顔をしているのか、と眺めていくと、この写真たち自体が、なにか、独立したファンタジーのように感じられてくる。
絵本の絵を描くという不思議な仕事を、見事にこなしてみせたひとたちの顔だ。
この顔写真たちだけを集めて、絵本、もしくは、モノクロ写真集が一冊できると私は思う。
きっと、素晴しい本になるはずだ。タイトルは『絵本の絵を描くひとたち』。
ぴったりのタイトルだと思う。
*青山まりさんの『ブラの本』感想文*(2003.9.25)
青山まりさんの『ブラの本』という本を買った。
帯によると、『ブラの本』は日本初のブラジャーの教科書ということだ。といっても、ブラジャーの勉強をして、これから女装に励もうとか、収集家になろうとか、そういうことではない。表紙に魅かれて、ついつい買った本である。
6種類のカラフルなブラジャーのイラストが、白地の表紙にカタログ的に配置されている。裏表紙にも、扉にも、ブラジャーのイラストがある。水彩で明るい色を落としてあって、現物の生々しさのようなものが感じられず、見ていてとても楽しい。あきない。
機能性と装飾性の両面を高い次元で実現させた結果としての、さまざまなブラジャーのイラストを、眺めて楽しむ。きっと、パンティーでのこうしたイラスト集があっても、とっても楽しいだろうな。しかし、実現しなければならない機能は、パンティーよりもブラジャーのほうが細かく多岐にわたるはずだ。
私はもともと、カタログが大好きで、くつ下のカタログなどをときどき眺めては喜んでいる。最近ではあまり見かけなくなったけれど、女子高生たちのあいだで大流行したルーズソックスなどは、最初に見たときには非常に感心した。くつ下とくつ下を履く自分の脚に、強く深い関心を女性たちが絶えず持続させていなければ、このような新発明はありえなかった。ううむ、素晴しい! あまりに感激した私は、とうとうルーズソックスを一足購入してしまったほどだ。買ったまま、大事に保管してある。私が女性ならば、ぜひとも履いてみたいのだが。
カタログには、紳士用のくつ下もちゃんと掲載されている。黒、黒、黒、黒に近い灰色、黒……と続く、機能一点張りのくつ下たち。実際手にとってみると、うすっぺらで、手の中でくたっとへたっている。まったく、衝撃的と言ってもいいような代物だ。
子どものころの私は、紳士用のこれらのくつ下のカタログを眺めるたびに、大人になったらこんな悲しいくつ下を履かなくちゃいけないのか、と絶望に近い気持を抱いていた。抗菌だとか、むれないだとか、カタログの売り文句を読むと、これはいよいよ悲しい。
こんなくつ下を紳士用と称してあてがわれる、我が身のつらさよ。
(;^_^ A
男性用のトランクスは、色々とカラフルだ。確かに。しかし、トランクスのカタログを眺めていても、どれもどこか調子っぱずれで、所在なさげで、なんと言うか……キテレツ感がぬぐえない。
このぬぐいがたい滑稽さを、愛らしさと感じられなくもないような気もするけれどね。
*『海を失った男』の読書感想文*(2003.9.24)
買ったまま楽しみにとっておいた本を、ようやく本棚からひっぱりだす。
シオドア=スタージョンの短編集『海を失った男』だ。私は、スタージョンの大ファンである。
この短編集は特殊な事情のあるものをのぞき、基本的に日本未紹介の作品を集めて編集されている。ということは、わたしにとってはどれをとっても未確認の新作に当たるわけで、ウキウキをとおりこして、ドキドキしてくる。
しかし普通、ある海外作家の作品を出版する場合、人気のあるもの、売れたものから逐次翻訳出版していくはずだから、もしかしたら“のこりもの”の寄せ集めなのではと、読む前に一瞬危惧したけれど、ぜんぜんそんなことはなかった。
最初の2作品はそれほどでもなかったが、それ以降は、本当に素晴しい見事な短編小説ばかり。
『成熟』『シジジイじゃない』『三つの法則』は、特に素晴しかった。
……素晴しいし、物語に込められた主張も、プロットの運びも、SF的な設定も、とにかく、なんというか、ぶっとんでいるのだ。
読んでいるうちに、これは本当に地球人が書いた小説なのだろうか? という疑問が頭の片隅をよぎるくらいに、とにかくぶっとんでいる。いったいぜんたい、どんな環境下で育ったら、こんな世界観を獲得できるのだ? 私には想像もできない。
この本の編者の若島正さんが、大学の授業のテキストにスタージョンの短編を使ったら、ある学生さんに、
「先生、この短編、さっぱり何が書いてあるかわかりませんけど、でも凄い!」
と言われたというけれど、そうだろうなあ。
(;^-^ゞ
私も、最初に『人間以上』を読んだときには、何が書いてあるかサッパリだったもの。
スタージョンの小説は、難解なわけでは、けっして、ない。
へたくそでは、もちろん、ない。
文章も、うまい(らしい。英語わからないけど)。
凄い、のは、確かだ。
しかし、我々地球人から見れば、あまりにもぶっとびすぎている。
そうなのだ。スタージョンの小説は、いったい人類とはいかようなシロモノなのかを地球人にもなんとか理解できるように、地球の外側にいる何者かが懸命に説明しているという感じだ。
人間について、人間自身はほとんど何も知らないか、とんでもない勘違いをしているかだし、愛についても同様だ、というのが、外側の視点を持つスタージョンの基本的な主張だと思う。
さて。
この短編集で私がいちばん気に入ったのは、『三つの法則』だけれども、編者の若島正さんは、SFである必然性がないという理由により、この作品に苦言を呈されていた。
さまざまな感じ方が存在するわけで、私は、『三つの法則』がSFであるからこそ、エンディングがこれほどまでにロマンチック足りえたはずだと感じている。
元来SFは、他のどのジャンルよりもロマンチックなジャンルだし、スタージョンの作品は、そのエキセントリックさばかりが取りざたされることが多いけれど、実は、極めてロマンチックな小説を得意としているひとだと思う。
自分の印象だけで書くならば、例えば『成熟』は、『アルジャーノンに花束を』の100倍ロマンチックで感動的だ。短編小説でこれだけ泣けたら、もう、お腹いっぱい。
f ^ ^ *)
ちなみに、編者のおすすめの『ビアンカの手』は、『三つの法則』とは逆に、私はまったく感心しなかった。
『ビアンカの手』は、どれほど巧みに書かれていても、スタージョン特有の“外側の視点”が存在しない。
この短編からは、良くできたホラー小説以上の何ものも感じることができなくて、これは、スタージョンに何を求めているかの違いであり、好みのわかれるところなのだろう。
とにかく、これだけの傑作群を読むことができたのだから、編者には大感謝している。
*『あかいぼうし』という絶版絵本*(2003.9.17)
お仕事の都合で、あるかたから数十冊の絵本をお借りした。
なかにはずいぶん昔に絶版になってしまった絵本もあり、仕事そっちのけで読みふけってしまった。
あまんきみこさん文、すずきよしはるさん絵の『あかいぼうし』という絵本は、子どものころに出会っていれば、大のお気に入り絵本になったろうな、と思う。
いま手もとに持っているこれは借りた絵本だから、自分のためにぜひ一冊欲しいと思っても、絶版本で手に入れようがない。
絵本の中に、森や林の絵がたくさん出てくる。絵本の物語の舞台となる場所だ。その森や林の中に、数匹ずつのキツネやウサギ、リスが暮らしている。
こういう絵が、私は昔から大好きだった。描かれた数匹のリスの中から、自分の好きなリスを決めるのだ。このリスはいいリス、このリスは、悪いリス。自分のお気に入りを決める作業が、楽しかった。ウサギやキツネに対しても、同様の作業を行う。絵本の本筋とは関係なくても、いっこうにかまわない。絵本の本筋を楽しむのとは別の、自分だけのサブストーリーを作るのだ。
おいしげっている木々の向こうは、どうなっているのか。こちらからは見えないだけで、絵本の中で描かれていないだけで、実はまだまだリスが隠れているのではないか。隠れているリスは、いいリスだろうか、悪いリスだろうか?
大人の目から見れば、どれも同じリスの絵だ。しかし、いまよりもずいぶん鋭い感性を持っていた(?)子どものころの私は、同じリスなど一匹もいないことをちゃんと理解していた。
もしかしたら、クマや、蛇や、アライグマも隠れているかもしれない。この木のうしろだろうか? あの木の裏側だろうか? 同じページをいつまでも開いたまま、何時間でも楽しんでいたあのころをふと思いだす。
子どものころの私は、ときには、二次元の紙の上に描かれた木々の向こう側を歩くことさえできた。
素晴しい絵本には、魔法が可能だ。
*アニメ映画『キリクと魔女』の感想文*(2003.9.15)
『キリクと魔女』というフランスのアニメ映画を観てきた。
この作品は、私の大好きなアニメ監督である高畑勲氏が、
「『トイストーリー2』よりも、『千と千尋の神隠し』よりも感動した」
と、手放しで大推奨している映画なのだ。
おー。
『トイストーリー2』はまだしも、『千と千尋の神隠し』よりも、と言われて、見過ごすわけにはいかない。
映画は、道路やビルなど影も形もないアフリカの小さな村が舞台だ。電気も水道もガスももちろんつながっておらず、ひとびとは上半身裸。それは、貧しい後進国、というよりは、むかしむかし、と語られる、一種の神話世界という設定なのだろう。その村に、キリクという小さな男の子が産まれるところから物語ははじまる。
村は、魔女カラバが支配している。そして、村には男がいない。魔女カラバが根こそぎさらっていってしまったからだ。男はみな魔女に食われてしまったと、女たちは思い込んでいる。しかし実は、村の男たちは、カラバの魔法の力によって、物に変えられてしまっている。魔女の命令を何でも聞く、ロボットとしての、物だ。キリクの父親も、今では魔女のもとで物と化している。
村の女たちは、かろうじて人間でいることを許されている。が、愛するひとを奪われ、厳しい日常に追いたてられ、彼女たちはしょんぼりと元気なく、くじけている。
暮らしの中で楽しむことを実践できているのは、子どもたちだ。村の窮状など素知らぬ顔で、子どもたちは今日も楽しい。その子どもたちの中でも、もっとも小柄で、非力で、まるで赤ん坊のようなキリクが、魔女が支配している村の現状に疑問を持ち、そして最終的には、その支配から村を解放する。
キリクは、小さい。子どものサイズどころではない。あまりにも、小さすぎる。子どもは子どもでも、子犬程度の大きさしかない。その小さなキリクが、村を救う。なぜならば、キリクは、村の人々の中でもっとも活き活きとしている子どもたちの中でも、より活き活きとした人間だからだ。迷信にも日常にも縛られず、知的好奇心にはち切れそうになっている、人間だから。
キリクの対極にいるのが、男たちだ。男たちは、人間ですらない。物だ。魔女の魔法によって、彼らは人間であることをすっかり放棄してしまっている。
男に比べれば、女たちはまだ人間らしい。しかし、重い現実に押しつぶされて、楽しむことを忘れてしまっている。
楽しむことや喜ぶことができない人間は、みじめで、悲しくて、そして、危険だ。
危険とは、共同体に対して、危険ということだ。だから、彼女たちもまた、村を救うことなど、どだい、無理ということになる。
恐怖政治によって村を支配している魔女も、魔女というからには、女性だ。残忍で冷酷な魔女のカラバもまた、人生を楽しむことができない者だ。魔女のカラバの背中には、あるトゲが深く刺さっている。このトゲが、彼女に途切れることのない苦痛と渇きを与え続けている。その苦痛は、虫歯の痛み程度ではすまされないような、とてつもない痛みなのだろう。そのような痛みのまっただなかでは、楽しむなど、できようはずがない。彼女は、その苦痛ゆえ、魔法を手に入れ、その渇きゆえ、村人たちを残酷なやり方で支配する。
村を救うのは、やはり、子どもでなければならない。そして、子どもたちの中でもっとも小さく、賢いキリクが、子どもという存在を代表して、村を救う。
もちろん現実の世界では、ひとりの子どもが世界を救うことなど、やはりできない。現実の子どもは、社会貢献などという概念も発達していないし、なによりも、非力だ。ファンタジーだからこそ、可能だ。
だからといって、すべては作り話と言い切って、お終いにしてしまうのは、やはり、さびしい。それこそ、自分自身を物にしてしまう行為だ。
さて、話は変わるが、魔女の背中に刺さっているトゲとは何か? さまざまな解釈が可能だろうけれど、映画の中で、男たちが魔女を押さえつけて無理やり魔女の背中にトゲを打ち込む回想シーンが短く流される。
このシーンは、受け取りようによっては、性的な乱暴だと解釈できなくもない。
彼女は、その日以来、背中にトゲが刺さったまま、毎日を過ごしている。背中に刺さったトゲは、自分ひとりの力では、とうてい抜くことはできない。それに、トゲが抜ける瞬間には、刺さったときと同等の猛烈な激痛がともなうことがわかっているから、その決心もつかない。
しかし、村を魔女の支配から解放したい小さなキリクが、策略を使って、魔女からトゲを抜いてしまう。
トゲの苦しみから解放された魔女は、ひとりの美しい女性として、キリクの前にいる。
キリクは、魔女ではなくなったカラバに、プロポーズする。
「小さな子どもとは結婚できない」
と拒絶するカラバに、キリクはくちづけを求める。カラバは、キリクの求めるままに、くちづける。
すると、どうしたことか、小さなキリクが、みるみるうちに、しなやかで伸びやかな肉体を持った、立派な大人へと成長する。
きみは魔法を失ったけれど、力のすべてを失ったわけではないんだ、とキリクは言う。ふたりは抱きあう。
映画を観ていた周囲のひとたちは、このシーンあたりに戸惑っていたようで、
「思ったよりもエッチな映画だった」
とか
「ドキドキしたねー」
「話が突然、わかんなくなっちゃったけど?」
等の会話が、エンドロールが流れている最中にこそこそと聞こえていた。具体的な描写はまったくないのにも関わらず、多くの鑑賞者がとまどっていたようであった。
もちろん、魔女の背中に刺さっているトゲを性的なトラウマの象徴などと一面的に結論して、作品のテーマを矮小化してしまうべきではないと私は思っている。が、キリクがカラバにプロポーズする展開への説得力のある説明にはなっていると思う。
つまりこれは、「話が突然、わかんなくなっちゃったけど?」とつぶやいていたひとへの私なりの解釈案なのです。
(;^-^ゞ こうも考えられるよ、と。
くり返すが、私はキリクの神話的物語を、性的トラウマの克服といったような、個人的問題の解決のお話、というふうには、けっしてとらえたくはない。ただ、どんな悲しい過去があったにせよ、思いやりの経験、楽しさや喜びの経験、愛し愛される体験を今日得ることができれば、人間は過去の事件から全面的に解放されるという主張を好もしく思う、とだけは言っておこう。
人間が成長するためには、何度も再生をくり返さなければならない、とは、私は考えていない。トラウマは、克服するものではない、と。人間の成長をそんな、トライアスロン的な持久競技の勝利者の勲章のようには、ロマンチストの私は、考えたくないらしい。確かに、生きるということは、持久競技的な辛抱強さを必要とはしているだろうけれど。何もかも、その物差しで測ってよいものかどうか。むしろそれは実在しない鎖で、私たちはありもしない鎖にがんじがらめになっているにすぎないのだ、と私は考えてみる。縛りつける鎖など一度たりとも存在しなかった。この牢獄は幻だ。実在しない幻を、克服することなど、できはしない。実在しないと気がつきさえすればいい。気がついた瞬間、解放されているだろう。
結構、たわいないものだと、個人的には思っているのだ。深刻ぶる必要は、ないよ。
過去の幸不幸ですら、現在の満足度で変わってくる……。まんが『ヤサシイワタシ』のヒロイン、唐須ヤエのセリフだが、私は、彼女のこの考え方が大好きだ。
過去は、鏡に映し出された現在にすぎない。過去とは、現在によって作り出される架空の物語だ! と、大胆に言い切ってみる。客観的できごとの単なる連なりとしての過去になど、私たち人間は興味がない。現在の視点による意味づけが介在しているからこそ、その過去を今日まで引きずっている。肯定的なものであれ、否定的なものであれ、だ。だから、現在が変化すれば、鏡に映っているものも当然、変わってくるだろう。
そして、精神的にも肉体的にも、あけっぴろげなまでにどうどうと成熟してみせたキリクとカラバが、性的なパートナーとして相手を受け入れるのは、素晴しいことだ。
まあ、私をふくめた日本人の多くは、彼らのような真正面からの誇らしげな態度に出くわすと、どうしても気押されてしまうというのも、確かにあるのだが。
恥ずかしいんだよ、とにかく。
アフリカ人、フランス人は、我々とは違うんだろうな、きっと。
*『夏の庭』の読書感想文*(2003.9.13)
本を買うのはいいのだが、買った本は本棚の飾りとなるばかりで、ぜんぜん読んでいない。これではいけない。最近体調がすぐれないから、これを機会(?)に、読んでいこう。
まずは、Y=Tさんおすすめの児童書、『夏の庭』を読んだ。
私なりの結論から先に書くと、スティーブン=キングの『スタンド・バイ・ミー』を強く意識させられる内容だった。小学校6年生の男の子3人が主人公なのだけれど、ボケ役のふとちょに、作家志望の“ぼく”に、眼鏡をかけた少しファニーなやせっぽちというとりあわせが、『スタンド・バイ・ミー』をほうふつとさせる。映画でリバー=フェニックスが演じた男の子がそろえば、もう、完璧だ。
ちなみに、『スタンド・バイ・ミー』は、森の奥に放置されているという事故死した子どもの死体を、2日がかりで探索に出かける4人の少年たちの物語だ。少年期特有の特異な友情でつながった子どもたちの、死体さがしという小さな冒険旅行を郷愁たっぷりにせつなく描ききっている。
『スタンド・バイ・ミー』は、映画のほうも、原作に劣らず素晴しかった。監督はロブ=ライナー。4人の子役たちがとにかく素晴しく、少年の成人後を演じたリチャード=ドレイファスがすっかりかすんでしまうほどだった。
と、これは脱線。
『夏の庭』の主人公の3人組は、あることをきっかけに、人が死ぬとはいったいどういうことなのか、まったく実感できない自分たちに気がつく。人生においてあまりにも大きな意味を持つ死について、なにもわからない、ひたすら嫌悪感と恐怖感を感じているだけの死について、その正体の取っ掛かりすら持ちえていない自分たちに、三人は気がつく。
死は、身近なものだ。今日にも、死は自分のところに訪れるかもしれない。これは、早急に死について研究する必要がある。
どうすれば、死を理解することができるのだろう? それは、誰かの死をまのあたりにすれば、理解できるのではないか、と彼らは考える。そうした推測のもと、三人組は、みよりのないひとり暮らしの老人を見つけて、その老人の死を観察しようとする。
のちのちわかってくるのだけれど、死の観察相手として3人に選ばれた老人は、かくしゃくとして、しばらくはとうてい死にそうにない。それどころか、観察がやがて交流となっていくとともに、老人はますます元気になっていく。老人が死ぬ瞬間を見たいという当初の目的を、少年たちはしだいに忘れてしまう。少年たちと老人の交流はやがて、友情へと発展していく。
さて。あらすじ紹介はこれくらいにして、死を観察するとは、どういうことなのか? 生き物の命の灯が消えていくのを我々は観察することができる。もちろん! 脳波が平坦になる。心臓が止まる。確かに、それが死だ。
話が逸れるけれど、シオドア=スタージョンの小説に出てくる宇宙人が、地球人にすっかりあきれてこういうセリフを言うシーンがある。
「彼らは重力と計測器を切り離して考えられないのと同じように、神経症と実験を切り離して考えることができないんだ。辛抱しろ。」
この宇宙人のセリフは、耳を傾けるにたる内容を含んでいる。
つまり、観察の対象としての死と、死を観察する観察者とを切り離して考えることは、実に危険な落とし穴があるのではないか。
さくさく動いていたものが、どんどんガタがきて、ある日とうとう動かなくなる。しかし、死は、それ以上のものだ。
そして、いかなる観察によっても、“死の価値”はけっして見えてこないのではないか。どこまでも死を切り刻んでいっても、死の本質にたどり着くことはできない。
……。
と、読後の感想を要約すると、このようなものになる。
Y=Tさんにこの感想をお話ししなければならないんだけれど、読書感想の発表のためだけに、京都まで行くのが、ちょっと面倒だったりする。
(;^-^ゞ
う〜ん、どうしようか。
*『マイケル=ムーア アポなしBOX』を満喫する。*(2003.9.12)
マイケル=ムーア監督の映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』がDVDになった。
映画館で3度も観た映画だが、もちろん購入する。
私が購入したのは、ムーア監督の若いころの傑作ドキュメンタリー作品『ザ・ビッグ・ワン』をセットにした初回限定生産商品。
その名も、『マイケル=ムーア アポなしBOX』だ。
絵本大学の卒業文集制作でお世話になったA=Mさん、これ、おすすめだよ!
(*^▽^*)
この映画は、アメリカにおける少年たちの銃犯罪をとことんまでつきつめたドキュメンタリー映画なのだが、大丈夫、ぜんぜん難しくない。サイコーに笑える。そして見終わったあとふつふつ勇気が湧いてくる、極上の映画だ。
それに、この日本だって、銃が凶器ではないだけで、少年の“重”犯罪(洒落になってるね)が多発している。
他国のできごとではすまされない身近な社会問題だ。
私には不思議で仕方がないのだけれど、未成年者たちによる凶悪犯罪の報道が聞こえてくるたびに、私の周囲の大人たちは、精神的な要因が原因で自分の行動に責任を持てないひとたちや、少年少女たちの人権をやり玉にあげる。
犯罪者を擁護するな、極刑に処せ! というわけだ。
鴻池大臣は、ある少年犯罪に対するコメントで、
「(加害者)の親は市中引き回しの上、打ち首だ」
と“失言”なさっていましたね。
その失言に対して、心情的な理解を示すテレビコメンテイターの多いこと!
しかし、市中引き回して打ち首って、なあ……。
テレビを観ていると、極刑論に異議を唱えたり人権擁護の話題を持ち出すひとは、自動的に、凶悪犯罪者に奇妙な理解を示す反社会的な発言者としてあつかわれてしまうような雰囲気がある。
この、集団の雰囲気というやつは、恐ろしい。ムードで、どんどん流されてしまう。
しかも、人権を攻撃するひとたちは、被害者家族の慟哭や、犯罪防止をこきまぜて自説を主張するので、へたに反論すると、そのひとがまるで被害者に冷淡であったり、犯罪防止について無理解であるかのような印象が視聴者に伝わってしまう。
これは、どういう種類のジャーナリズムなのだろう?
最近、市民の権利過多を問題視し告発している報道がやたら多いような気がしてならない。非常にヒステリックな、感情論的なやり方で。
疑り深い私は、これは裏があるのでは、と勘ぐってしまうのだ。
『ボウリング・フォー・コロンバイン』の話から、話題が少しだけずれてしまったけれど、完全にずれてもいないと思う。
あとは観てのお楽しみ。
思わせぶりも、たまにはいいでしょう?
『マイケル=ムーア アポなしBOX』には、マイケル=ムーアのインタビューなども収録されていて、非常にお得で、喜んでいる。
今もっとも、ホットな映画だ。
*夢の中でさらに夢をみたこと*(2003.9.11)
私は一度だけ、夢の中でさらに夢を見たことがある。夢の中でみる夢。こうなってくると、私が知っている現実も本当は夢でしかないのではないかと、そういう馬鹿げた考えも頭をよぎる。
その夢の中での私は、新婚ほやほやの若奥様を演じた。もう5、6年前に見た夢だ。
なかなか印象的な夢だったので、すっかり忘れてしまわないうちに、日記に書いておこう。
お気に入りの夢だ。いま、ノルウェーの歌姫Silje Nergaardの『JAPANESE
BLUE』をくり返し聴きながら、日記を書いている。夢を見た本人は、ラストのイメージの美しさにうっとりとなっていたりする。はたして、日記上でどこまで再現できるか。そして、いつかこの日記をふくらませて、お話がひとつできあがるかもしれないなどと、実はもくろんでいる。
夢の冒頭で、若奥様の私は、夫とけんかをしている。
そして……。
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私は今回のけんかで、ふたりの関係が破綻してしまうのではないかと考えた。それは私が、あまりにも深く夫を傷つけてしまったから。
夫が目の前にある花瓶をつかんだとき、私は殴られると身構えた。しかし、夫は、掴んでいた花瓶をテーブルの上にひっくり返したあと、無言で自分の部屋に引きこもってしまった。
「すねるの! 子どもみたいに、すねるの!」
私は、ドアの向こうの夫にわめいた。夫を罰する権利があるかのように。
だけど、このけんかで悪いのは、どうみても私。それはわかっていた。夫とのけんかに、彼の名前を持ち出すべきではなかった。あのひとの名前が夫を決定的に傷つけてしまったことは、口に出した瞬間に、いやというほどわかった。
だけど頭に血がのぼってしまった私は、感じている罪悪感とうらはらに、どんどんけんかをエスカレートさせ、謝罪のきっかけをすっかり失ってしまった。
夫がとじこもった部屋からは、いっさい返答はなかった。
怒りと、無視されていることの恥辱と、そして不安が、私の内部で渦を巻いた。
「子どもみたい。男ってほんと、子どもみたい」
私は言った。夫が聞き耳をたてていることを半ば願って。
私はどうしてあのひとの名前を持ち出したりしたのだろう? もちろん、夫が傷つくのがわかっていたからだ。私は、夫を苦しめたかった。昔の男と比較し、夫を傷つけることで、このけんかに勝利しようとした。私のお得意の支配。私は、すっかり混乱している。私は醜い。他人を操作しようとするのは、醜い行為だ。私を愛してくれている男はみな、その愛着ゆえ私に苦しめられる。
夫は、私の昔の男に焼きもちを妬いている。有り体に言えば、そういうこと。むろん、夫がそう感じるように私が仕向けているということはある。やはり、ずるいのは、私。実際の彼は、夫が嫉妬するような、そんな存在じゃない。それほどの価値のある男ではなかった。
私と彼は、恋人同士というよりも、まるで、兄弟のようだった。私が姉で、彼は弟。私はむしろ、ときどき自分が、彼の母親になったような気持すら抱いていた。
彼はまるで……、そう……、飛び方を知らない渡り鳥、泳ぎ方を知らないアザラシのようだった。彼は周囲のひとびとから嫌われていた。何もできないくせに、おしゃべりばかりして、世の中のことをすべて知っているかのような顔つきをしていたから。仕事はいつも長続きせず、一日中家にとじこもって、ニコニコと笑っていられるようなひとだった。
洗濯機で回しただけのしわくちゃのシャツに、トレーナーのズボン。そんなかっこうで彼は私とデートした。なんと、六本木、そして銀座でも! 彼は、自分という存在が他者からどう見られているか、まったくとんちゃくしようとしない人間だった。だから私は、ふたりで歩くのがいつも恥ずかしかった。
「ちゃんとして」
私は、いつも彼にそう言っていた。デパートを一緒にまわり、背広とシャツ、革のベルト、腕時計を購入した。しかし、それらはみな彼に不釣り合いで、私は深く失望した。
「ちゃんとして。あなたがちゃんとしていないから、似合ってこないのよ。もっと、しゃきっとして。私を守れる男になって」
「ちゃんとするよ」
彼はいつもかならず、そう答えていた。その当惑しきった表情。
「愛してる?」
私は彼に訊ねる。彼は答えない。
「愛していないの?」
私は言う。彼はうつむいたままだ。
「愛してない? 愛してる?」
「う、うん」
「愛してる?」
「うん」
「だったら、ちゃんとして」
私は言う。
本当は、彼が私を守れるはずなんてなかった。いつまでたっても、彼は私の背中にすがりつく子どものままだった。私は彼に苛立った。ちょうどいま、夫に対して苛立っているように。
彼は馬鹿でつまらない男だった。ときおり、どうしてもそう思えて仕方がなかった。自分が彼との関係を続けている理由が、私自身理解できなかった。
確かに、彼は私を崇拝していた。子どもが母親を崇拝するのと同じこと。ある意味では、彼は献身的な男ですらあった。それは、私の寝顔を求めていつまでも眠らずにいる、というような行動によって。私の寝顔は、目じりがさがって、それでいつも笑って見える。寝顔などに責任は持てないけれど、夫もそう言っているから、たぶん本当なのだろう。笑顔の理由がわかればいいのに! と彼は言った。そう語るときの、天使のようなあどけない表情。眠っている私の笑みが、毎晩のように彼を幸福にした。まったく自分勝手で、そして、おかしなひと。私はただ眠っていて、笑ってなど少しもしていないというのに。だけど、そこに眠っているだけで、ひとりの男をこんなにも幸福にできる自分に、私は驚き、喜んだ。
彼と一緒にいると、嬉しいことがたくさんあった。例えば、どちらかが口ずさみはじめた無邪気でデタラメな即興の歌を、彼とふたりで、いつまでもいつまでも歌うとき。それはまるで、自分が神様にでもなったかのような高揚感だった。あのときの私は、確かに彼に恋していた。
それとも……。そんなもの、恋でも何でもない?
情が移った? 単なる惰性? ああ、なんて自己破壊的な、いやらしい考え。
だけど、彼自身は自分のことを落ちこぼれだとも、文化的な落後者だとも感じていなかった。社会を嫌っているくせに、独りぼっちを怖れて、私の行くところにはどこにでもついてこようとした。弱い男は我慢がならなかった。私は、彼が本当にくだらない男で、私の人生に一生消えない傷を負わすのではないかと考えていた。
笑ってしまうほど巨大なジャックナイフを手にした彼が、正面から私に切りかかる場面を私は何度も空想した。その空想を私は彼にうち明けた。
彼は笑って否定するばかりだった。むしろ、少しだけ傷ついたような表情さえ見せた。
「俺がそんなことするわけないだろ」
「空想よ」
私は答えたが、このひとはなんて馬鹿なのだろうと、内心では屈辱感を覚えていた。
屈辱感……。
テーブルの上でひっくり返ったままの花瓶に、私は手をつけない。手を触れたくない。だって、これ見よがしに倒していった夫が、かたづけるべきではないのか?
しずくが滴って床に水たまりを作っている。テーブルクロスの上に撒き散れている花*。かわいそうに。
静かすぎる部屋。
私は花瓶を立てて、そこに花を活けなおす。意地を張っていても仕方がないと自分に言い聞かせて。つきあっていたころは、彼のことを子どもだと、私は心のどこかでずっと見くだしてきた。だけど、私だって、子供じみた真似をして、夫を困らせてばかりいる。
彼の泣き顔をふと思いだす。目を見開いたまま、声をたてず、いつまでもいつまでも涙を流していた。でも、私はそのときすでに、彼とは別の男を愛していた。もちろん、今の夫のこと。私は彼に、何ひとつ隠しだてせずに、すべてをうち明けた。うち明けても、私の話す真実にどれほどショックを受けても、彼が私を傷つけないことはわかっていた。不思議な話。昔は、彼に傷つけられることをあれほど怖れていたというのに。
彼は、悪態ひとつ投げつけることもなく、悲しげに泣き続けた。あんまり長いあいだ泣いているので、私はすっかりうんざりしてしまって、なんて腰抜けなんだろうと、秘かに思いさえした。
「いったい誰なんだい? 俺が知っているひとかい」
「言いたくないわ」
「知っているひとなんだね」
「関係ないでしょう? ……。ね、ごめんなさい。これでも、あなたにはひどいことをしたと思っているの」
私は言った。
物音がする。私は彼との思い出から急いで戻ってくる。
ドアが開いて夫が姿をあらわす。険しい表情。私は椅子から立ち上がって、様子を見ながらゆっくりと近寄る。
「ごめんなさい」
私は夫に言った。夫に謝るのは、思っていたよりも勇気がいる行為だった。両肩から背中にかけて、ものすごく緊張してしまっているのが自分でわかった。夫に気づかれたらどうしよう。だけど、夫の顔色を見て、夫も硬くなっているのがわかった。
さあ、どんなに言いづらくても、私が謝るべき。今回は言いわけできない。昔の男の名前をけんかに使うなんて、反則もいいところ。夫を傷つけてしまった。守られて暮らす喜びを、私に教えてくれたひとだというのに。
「ごめんなさい。私が悪かったわ。今回は、全面的に私が悪かった。ごめんなさい」
夫は乱暴に椅子に腰掛ける。
許して欲しい、と私は言う。
ふう、と、夫は大きく息を吐きだす。
「きみってひとは!」
「怒ってる? ごめんなさい、私がいけなかったの」
夫はあいかわらず黙っているけれど、もう半分は許す気持になっているのが雰囲気でわかった。私は、ほっとした。
「誰よりも、あなたのことが大切。誰よりも、何よりも、一番に大切。本当よ」
私は言った。
それから、夫と私は仲直りをした。
その夜、私は夢を見た。
夢の中で季節は真夏だった。夜、田んぼに囲まれたあぜ道を、私は浴衣姿でひとり歩いていた。
農家の明かりが遠くぽつりぽつりと見えるほかは、驚くほど深い暗やみ。まるで世界はコールタールの海に沈み込んでしまったかのよう。私はその世界に、限りない平穏を感じながら、目的もなく歩き続けていた。
おけらの単調な鳴き声に耳をすます。
ふと、正面の暗がりから、小走りの足音が聞こえる。
誰だろう? 私は立ち止まる。
突然、至近距離に、ランニングシャツと半ズボン姿の少年が姿をあらわした。年齢は、7、8歳くらい。くりくりとしたイガグリ頭に、大きすぎるふたつの瞳。お椀型にすぼめた両手を合わせて、少年はその手の中に何かを隠している。
この子、知っている! 私は驚愕した。
少年は、彼だった。一瞬にして私にはわかった。私を見つめて、いつまでも泣いていた彼。私を傷つけるはずはないと笑っていたあのひと。
私は彼の名前を呼んだ。
「○○君! 私よ! 私! どうしたの、まるで……」
名前を呼ばれた少年は、不思議そうに私の顔をじっと見つめる。
「どうしてぼくの名前を知っているの?」
一瞬、私は虚を突かれる。でも考えてみれば、少年が私の存在を知らないのは、当然のことだった。彼が私を知るのは、この少年が大人になってからなのだから。
この時代ではまだ、彼は私と出会っていない。少年にとって私は、未来の恋人ではなく、ふと出くわした初対面の大人の女性でしかないのだった。
立ち止まって、なんの警戒心も持たず、傷ついた顔を見せず、少年時代の彼は無防備にこちらの顔を見上げている。
そう……。
別れることになるとき、いつまでも彼は、傷ついた悲しい顔ばかりしていた。だけど私は、彼に最後まで深刻な顔をしていて欲しかった。
私との生活を守れないのに、私を守れなかったのに、私の髪に手を触れて、笑ってなんていて欲しくなかった。
最後に彼が傷つくのを、私は望んだ。
当時の私は、生活者として落後したままでも平気な顔をしていた彼のことを許せなかった。恋人同士が交わす赤ちゃん言葉を使っていればそれで満足してしまうような彼に、どうしても復讐したかった。最後まで断固とした態度をとるべきだと思った。
私に一緒に笑って欲しければ、私の髪に触れたければ、私に許して欲しければ、もっとちゃんとするのよ。私は彼にそう言い続けていた。それは私が彼に伝えたかった、たったひとつきりのメッセージだった。だけど、彼は、私のたったひとつの願いを叶えられるような人間ではなかった。
私は、頑張れない彼を憎み、さげずみ、ときにはののしりさえした。そうすることで、彼が心に抱いている甘ったるい願望のすべてを、世界から閉め出してしまいたかった。私が彼にした、残酷な仕打ち。
なのに、何も知らない少年の彼は、ひとなつこそうによってきて、少し照れた笑顔で私に話しかけてくる。
「ねーねー、ジーッて鳴いてるの、あれ、何が鳴いてるか知ってる?」
大人になった彼を私がどれほどに痛めつけ、苦しめるのか、この少年は未来をまだ知らないのだ。少年のまっすぐな瞳が、私の心を揺さぶる。
無邪気で、弱くて、私のことを大切にしてくれたひと。
胸が締めつけられる。涙が、私の目からひとすじ、ふたすじと流れては落ちていく。
「もう、変わろうとしなくていいのよ。もう、あなたはあなたのままでいいのよ」
今、私は、彼にそう伝えたい。でも、涙が邪魔して、込みあげてくるものにとおせんぼされて、言葉が出てこない。
「いいもの見たい?」
泣いている私を不思議そうに見上げ、少年は、はにかみながら言う。
「ね、いいもの、見せてあげようか?」
何かを包んだ両手を、彼はそっと、私の顔の近くまで持ち上げる。
「いいもの?」
彼を恐がらせたくなかったから、なんとか笑顔らしいものを作って、私はうなずいてみせる。
少年の顔が、喜びにぱっと輝く。
「もっと近くに来て」
心から嬉しそうに、少年は言う。
ゆっくりと、彼は両手を開いていく。
少しずつ……、乱暴に扱ってなかの大切なものが壊れたりしないように、本物の宝箱のように、少しずつ、彼の小さな手が開いていく。
……。
夏の夜のあぜ道。未来はずっと先にあるように思えた。
彼が私にだけ見せてくれたもの。
私は彼の手のなかをのぞき込む。するとそこには数匹の蛍がいて、熱を持たない小粒な光を、ただじっと、静かに明滅させていた。
*(花瓶には実在しているとは思えない巨大な白いたんぽぽのような花が活けられていました。私は花には詳しくないので、これが夢における私の描写の限界と思われます)
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