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マッドマックスってる!(2010.2.24)

「個々の現実の人間を見れば、「平等」を信ずるよりも「差違」を信ずるほうが自然であり容易である。性、年齢、人種、階級、職業、思想、……など、差違の方は極めて見えやすい。そのような顕著かつ多種多様な差違にもかかわらず(いわば差違の層を貫き通して)「平等」を信ずるのは、かなりの想像力を要する」
 〜宇佐美寛『「道徳」授業に何が出来るか』〜


「私が「ナショナリズム」と言う場合に真っ先に考えるものは、人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神的習慣である。しかし第二には---そしてこのほうがずっと重要なのだが---自己をひとつの国家その他の単位と一体化して、それを善悪を超越したものと考え、その利益を推進すること以外の義務はいっさい認めないような習慣をさす」
 〜ジョージ=オーウェル『ナショナリズム覚え書き』〜



川端文部科学相が「こういうことは二度とあってはいけない」と発言したと聞いた。
ではなにが「二度とあってはいけない」のかというと、あるオリンピック代表選手の「服装が乱れ」が、国民的一大事で、二度とあってはいけないことなんだそうだ。
(^_^;)
川端文部科学相のこの発言は、彼が変な葉っぱをキメていた、ということではないらしい。いわば、彼なりの、世間へのサービストークのたぐいのものだった、ということをのちに知った。
なんでも世間では、あるオリンピック代表選手の

だらしのない身なり、もしくは場をわきまえない態度に人々が激高し、いてもたってもいられぬほど不愉快になり、日本の未来を憂い、若者の退廃を嘆く声でちょっとした騒ぎになっていた

のだそうだ。
オリンピック競技のテレビ中継もテレビ報道も、1分たりとも観ていない私は、川端文部科学相の発言から遡る形で、この一連の騒動を知った。おそらく、かなりめずらしい人間だろう。
ことの起こりは、どうやらこういうことだったようだ。オリンピックを開催しているバンクーバーへ向かう飛行機に搭乗するために、選手たちが空港に集まった。その選手たちのうちのひとりの服装が、とても看過できないほどに「乱れて」いた、ということらしい。
不謹慎だ、国の代表にあるまじき姿だ、正視も我慢もできるものではない、と考える多くの人々が、新聞社やテレビ局に、「抗議」という形でその意見を送りつけた。
その国民の意見を、「世論」という形で、メディアは報道した。そうした国民の声を受け止めて、今回の川端文部科学相の「こういうことは二度とあってはいけない」となる……らしい。
……つーか、もうすでにかなり古いニュースなわけ?
(^_^;)
ネクタイが曲がっている、ズボンがずれている、記者会見で舌打ちをした、チャラチャラしている、みっともない、だらしない、それともださい、くさい、汚い、シャツのすそが出ている、あるいはシャツのすそをズボンの中に入れている、そんなことが許せない、腹立たしいという人々。
しかし、このオリンピック代表選手は、こうした人々の代表なのだから、ネクタイが曲がっていてはいけない、ズボンがずれていてはいけない、記者会見で舌打ちをしてはいけない、チャラチャラしてはいけない、だらしなくてもいけない、シャツのすそが出ていてもいけない……。

☆☆☆☆☆
今回の問題で大学に寄せられたメールの中には「殺すぞ」「帰ってこなくてもいい」など過激な内容も含まれているという。そのため、五輪終了後についても、予定通りチームと一緒に帰国させるか、別便での単独帰国とするか、あるいは大会を転戦してから後日帰国させるか――など、あらゆる可能性の中から最善の方法を検討することになる。
☆☆☆☆☆
(スポーツニッポン)

服装が乱れているから「殺すぞ」って、日本人ってどうしてこうまで社会適応に熱心なんだろうか。

オリンピックというよりカフカの世界?いやむしろ、道を外れたら即地獄行き『マッドマックス』だよね。


ぎゃああああ……。


おまけ。

うわーん本当にマッドマックスっただよう!

リアル・マッドマックス!しゃれならんわ!

福岡県で少年二人がマッドマックスられただよう!
服装の悪いガキはいねが〜。
世間をなめたクズ野郎はいねが〜。
そういう連中は、死刑!


マッドマックス ってます。




 

 

 



*あの猫が見えなくなる*(2010.2.20)

「芸術とは目に見えるものを写すことではない。見えないものを見えるようにすることなのだ」
 〜パウル=クレー〜


「美学的に完璧なものが世の中にふたつある。時計と猫だ」
 〜エミール=オーギュスト=シャルティエ〜



ふとした思いつきから、インターネット書店『オンライン書店BK1』で、「シュレディンガーの猫」をキーワードに検索をかけてみた。

『シュレディンガーのチョコパフェ』
『シュレディンガーの哲学する猫』
『シュレディンガーのアヒル』

さまざまなタイトルの書籍がならぶ。
講談社ブルーバックスの『高校数学でわかるシュレディンガー方程式 量子力学を学びたい人、ほんとうに理解したい人へ』といった物理学関係書籍は当然あるとして、他にも科学エッセイやSF小説、4コマ漫画と多彩なジャンルの書籍がヒットした。
『シュレディンガーの猫は元気か』という科学エッセイと『シュレディンガーの妻は元気か』という漫画本を購入してみた。
シュレディンガーは、物理学者の名前だ。そして、「シュレディンガーの猫」とは、物理学者シュレディンガーが提唱した、量子論に関する有名な思考実験に出てくる猫だ。
ようは、量子力学の「ミクロとマクロの境界線はどこから引くのか」「観察とはどの時点から観察なのか」問題にまつわる例え話なのだが(間違っていたらすみません)、生きている状態と死んでいる状態が重なりあっているシュレディンガーの猫は、私の知るかぎりにおいて、もっとも悲しい猫だ。



「胡蝶の夢」だとか「我思うゆえに我在り」などという哲学問題とはまったく別問題の、これは、物理法則に関する例え話だ。

みゃおん、みゃおんと鳴いている猫を青酸ガス入りの瓶とともに箱の中に置き去りにする。ガッタン!という金属音とともにふたが閉じられる。

すると、あの猫が見えなくなる。
あの猫はどうなったか。
シュレディンガーの問いかけとはまったく無関係に、猫の安否が気になって仕方がない。
だから、さまざまなバリエーションを持つ「シュレディンガー」本の中から、『シュレディンガーの猫は元気か』という本を買うことになった。
いっぽう、漫画本の『シュレディンガーの妻は元気か』は、悲しい猫の代わりに誰かの妻が、密閉された箱の中に閉じこめられているということか。そうではなかった。この世のありとあらゆることが理詰めでないと気が済まない夫と、そのような夫を愛する妻の、ほのぼの四コマ漫画だった。
シュレディンガーの妻は、自分とは大きくかけ離れた場所から世界をながめている夫と生活をともにしている。生活をともにしているから、日常の細々としたできごとのありとあらゆる場面が、ふたりの違いの確認とその広大な距離に驚嘆するきっかけとなる。
「あなたと私はこれほどまでに違うのか」という驚きと発見の連続だ。こういう漫画作品を好もしく感じながらふむふむと読んでいる私である。





 

 



『タイタニック』と木槌(2010.2.17)

「我々にしても、その腕のよさを鼻にかける泥棒とか、淫蕩を自慢する売春婦とか、残忍ぶりを誇る人殺しなどについては、驚きあきれざるをえない。しかし、我々があきれるのは、これらの人びとの仲間や雰囲気があまりにも限定されたものであり、我々自身がその外に置かれているためである。しかし、自分の富すなわち略奪を誇る金持ちとか、自分の勝利すなわち殺人行為を誇る軍司令官とか、自分の権力すなわち圧政を誇る権力者などの間にも、やはりこれと同じ現象が生まれているのではないだろうか? 我々はこれらの人びとの中に、自分の立場を正当化するために、人生観や善悪の観念の歪曲を見出さないのは、そのような歪曲された観念をもつ人びとがはるかに多数をしめ、しかも我々自身がそれに属しているからにすぎないのである」
  〜トルストイ『復活』〜


「「アンサルでは、女や女の子も市民であって、犬でも奴隷ではないからです」とわたしは言った」
 〜アーシュラ=K=ル=グウィン『ヴォイス』〜



『きまぐれな日々』さんから、
議論を本格化させるのは「消費税」ではなく税制全体の見直し

このお話で一番こたえたのは、ツンドラ地帯の大学教授の言葉だった。
☆☆☆☆☆
ストックホルム大学の女性教授が、日本の子供手当ての議論を着て(聞いて?)驚いていたそうです。子供がいない家庭は「子供がいる家庭のために負担などしたくない」といい、「子供のいる家庭は「貴方の老後を支えるのは私たちの子供ではないですか」と反論する。「日本国民には連帯の意識は無いのですか」と教授は質問したそうです。
☆☆☆☆☆

いわゆる子供手当てを巡り、日本国民がそれぞれの立ち位置から本音をむき出しにしつつ、自分たちの都合と利害のみを互いにぶつけあった議論に対し、ストックホルム大学の女性教授が感じたという驚き、それから
「日本国民には連帯の意識はないのですか」
という正面切っての指摘には、
「なんと滑稽なのでしょう」
「そんなことを言っていて、恥ずかしくないのですか」
という、ごく軽い軽蔑のまなざし、それから非難の気持、というものも含まれているはずだ。
あんたに蔑まれるいわれはない、白夜の大地から説教などよしてくれ、とつっぱねることも可能だろうけれど、そんなことをしてもむなしい開き直りにしかならない。
多くの日本人が自国に抱いている「どんなときでも連帯し助けあっている相互扶助の権化」というイメージは、自国の内に閉じこもってはじめて信じることが出来るたぐいのものだ。
日本における人々の連帯、それはまるで、あの“感動的名作”映画『タイタニック』のような、主要人物とその他の雑魚キャラに振りわけられた登場人物たちで繰り広げる、もしくは自分の手の届く仲間内にだけ適用される、悲劇と、愛と、勇気の、絶体絶命の暑苦しいメロドラマの延長線上にある。
船底に穴が開いた。船が沈むかもしれない。そんな危機的状況のただ中であって

怠け者、ゴクツブシ、変人、病人、老人、三国人、泣き虫、弱虫、くだらない人間、つまらない人間が、大多数の善良な日本人の足を引っ張っている、日本人の連帯を妨げているのは彼らだ、という認識にもとづく“連帯”

なら、妙な切迫感に駆られることによって、何とか可能だ。
しかし、そこから一歩でも具体的な議論に踏み込もうとすると、ごく基本的な倫理意識や社会道徳観を他者と共有する土台すらないものだから、にっちもさっちもいかない。
「足を引っ張っている」怠け者とは、あちら側か、いやこちら側だ。私が病人なら、貴様は失業者だ。あれを仕分ける前に、これを仕分けろ。ドアを閉めるなら、列に並ぶ私の前ではなく、私の後ろからにしてくれ。こんなものを議論と呼ぶ。
手の施しようのない大混乱のさなかに、区別して、判断して、仕分けして、切断して、無駄を省いていく。更なる大混乱だ。ちょっとしたディティールの違いによる明暗、必死の懇願、不運な人々、途方に暮れた顔、恨み、怒り、抵抗、それらを「困難」と定義して、「困難」を乗り越えるために日本人たちは挑戦する。
挑戦を可能にするものこそ「連帯」だ「友愛精神」だ、と訴える。

「泣くのがいやなら、さあ、歩け」と互いに叱咤しあって、「連帯」と「団結」と「友愛」だ。

kojitakenさんは、最後に

「私は、最近になってようやく、なんだかんだ問題は山積しているとはいえ、民主・社民・国民新党の連立政権は自公連立政権よりはずっとましだということを理解した。民主党は、決して自民党と同じではない。」

と締めくくっていらっしゃるが、私はそうは思わない。そうは思わないから、自分のために明記しておく。
トンカチで殴られようが木槌で殴られようが、頭が割れるのは同じだ。木槌だから、木のあたたかみが感じられていいな!なんて、そんなものをありがたがるほど立派な人間にはなれない。
そして。これからの日本は、外側の国や共同体にとっての、典型的な反面教師の役割を担っていくのではないか、などと苦笑しながら考えたりもする。
「ああはなりたくない。ああなりたくなければ、どうすればいいか」
そのための様々な努力や取り組みの熱烈な同意を、国民から引きだすことができる、説得力あふるる国際的反面教師だ。


おまけ。

『mahounofuefukiのメモ』さんから
政権交代でますます「密室化」が進む政策決定過程

もう笑うしかない。


 

 



だからボク言ったんです(2010.2.14)

「正義と不正、美と醜、善と悪などに関して、多数者の思惑を恐れ、それに従わなければならないのだろうか。それとも、もしただ一人でもその道に通じた人がいるならば、この先達の意見にこそ従うべきだろうか。
よき友よ、かの多数の者どもがどう言おうとまったく気をつかわなくてよいのだ。むしろ、ただ一人であっても正義と不正について知悉している者が何と言うのか、また、真理そのものが何と言うのか、という事の方が大切なのだ」
 〜ソクラテス〜


「「わたしは、目が見えなくなりかけているのよ」と、とうとう彼女はいった」
 〜ジョージ=オーウェル『動物農場』〜


「アメリカのみならずあらゆるところで現在公流布されている言説の貧しさには驚かされるのだが、それは、いくつかの異なった自由概念のどれが今日の時代にふさわしいのかについての真剣な討論がまったくなされていないからである」
 〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜



だ・か・ら!
だからこうなるって、オバマが大統領選挙を戦っているときからずっと言ってたろ?
オバマ政権:米軍はテロ活動に関与と認められている米国人の暗殺も可能

なんかもー、『アップルシード』と『1984年』を足して2で割ったような世界。
非人間的なまでのエリート意識と、全体主義と、テロの恐怖がぐしゃぐしゃにからみあってんの。
(;  `)
オバマが善人か悪党か、利口者かアホか、そんなことは知らん。
問題は、残虐で冷酷で、他者の苦しみをまったく考慮しないような人間でないと頂点に立つことは出来ないこの世の仕組みだ。
……。
話は変わるけれど、この世といえば、本日はバレンタインデーで、ただいま冬季オリンピックが開催中なのだそうだ。

素で知らんかった。
(;^_^ A
私はほとんどテレビを観ない人間だから、冬季オリンピックに夢中になるきっかけというものがない。
まあ、テレビを観なくたって冬季オリンピックに夢中になることはできるだろう、日本人選手の結果に一喜一憂することだってできるだろう、と言われればそのとおりなんだけれど、そういう際限のないはしたなさ、に踏み込むのはやはりためらわれる。
この国における日常の風景と化した、際限のないはしたなさ、自己の不勉強さに開き直った下品さ。さらには、あけっぴろげなはしたなさや下品さに対する、圧倒的多数の国民の支持。そうした一連の事実に向き合ったときに内側から沸き起こる拭いがたい嫌悪感と警戒心。
コイズミ何とか劇場の悪夢に対するトラウマも手伝って、冬季オリンピックにすらある種の警戒心を発動せざるを得ないという、幸の薄い人生だ。
(;^_^ A

ハシモト某大阪知事の支持率はとうとう80パーセントを越えたという。
ガ━━Σ(゚Д゚;)━━ン!!

世論調査の結果、死刑容認派が80パーセントを優に越えた、というニュースも報道されたばかりだ。
llllll(-_-;)llllll

考える力を失う、もしくは手放すことによって、国の運営の根幹に関わる部分を感動と引き換えることができる。あの感動、このイメージに託すことで、ひょっとしたら手に入るかもしれない幸福。その期待は、支持率にしてなんと80パーセントだ。コイズミ何とか劇場のあたりから、この国はそのような国になったようだ。
(;^_^ A
「民衆は一番正しく、偉大で、民衆に勝るものはない」と言ったのはドストエフスキーだった。
だからこそ、考える力を失う、もしくは手放すことが決定的に重要だとこの国では考えられるようになったのだ。
……ん? ……う〜ん!



おまけ!

圧倒的無残さを共有して。
『黙然日記』さんから、
朝方まで雨、終日寒い雲。

だからボク、言ったんです!

 

 

 



*生きる悲しみ橋*(2010.2.12)

「人生、自分自身、我々を取り巻く世界について、どれだけ理解していないかに気づいた時に、我々一人一人に英知が宿る」
  〜ソクラテス〜


「われわれを結ぶ絆は選択を超えたところにある。我々は兄弟なのです。なにかを共有することによってつながる兄弟なのです。われわれは、ひとりひとりが別々に苦しまなくてはならない苦痛を共に味わうことにより、飢えを、貧困を、希望を共有することにより、われわれが兄弟の間柄であることを認知します。われわれがそのことを認知するのも、これより以前にそのことを学ばなくてはならなかったからです。われわれは互いに助けあう以外に救いはないことを知っています。(略)
私たちは、私たちの自由以外になにも持っておりません。あなたがたにさしあげられるものとしてはあなたがたご自身の自由以外になにもありません。私たちには、人と人との間の相互扶助というただひとつの原理がある以外、なにも法律がありません。自由な連携というひとつの原理以外に政府もありません。国家も、国民も、大統領も、首相も、長官も、将軍も、監督も、上司も、銀行家も、地主も、賃金も、慈善団体も、警察も、兵隊も、戦争もない。このほかにもないものづくしです。わたしたちは共有者であって、所有者ではないのです」
 〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜



生きる悲しみが、肌を突き破って、私たちをひとつに結びつける。
生きる悲しみだけに可能な、偉大な力だ。
『虹の日記』さんより
香水


『歓びを歌にのせて』

生きる悲しみが、今日も私を人たらしめる。
ありがとさん。



気づけば、なんと身近な生きる悲しみ。

 

 



扇子の写真集(2010.2.5)

「将棋は芸術。モーツァルトの曲のように、将棋もしっかりした解説があれば感動を与えられる」
  〜加藤一二三〜

「将棋は戦いだが、碁は経済である」
   〜大隈重信〜


「ここでも大きな問題は狂気ではなく、ひとびとの脳があまりにも大きすぎる上に嘘つきなので、実用にならないことだった。 」
   〜カート=ヴォネガット『ガラパゴスの箱舟』〜



『俺の邪悪なメモ』さんからの情報によると、将棋の棋士たちの揮毫扇子だけを集めて写真に撮った、写真集があるのだという。
棋士たちの「とめはね!」

棋士たちの揮毫扇子の写真集とは、これは少し意表を突かれた。
対局中の棋士の姿を写真に撮った写真集というものは、これは実は、かなり絵になる。
名人戦などタイトル戦のテレビ中継や専門誌の写真などで、対局に没頭している棋士の表情を丁寧に確認していくと、これはただならぬ勝負のさなかなのだ、という胸を打つようなすごみがある。
テレビ中継などよりも、写真によって時間を切り取ったもののほうが、感銘は深くなる。
羽生名人の表情は豊かで、普段は見ようによっては

ひょろりとした知的のび太くん

という風情だが、対局中には、身をよじり、顔をしかめ、口は何かの力で思いっきり下へ引っ張ったかのようにヘの字に曲がり、目つきはやぶにらみとなり、駒を持つ指が震え、大きく息を吐く。
このような瞬間を写真によって切り取ってしまえば、時間に魔法がかかる。
……。
ごめんなさい、仕事さぼってました。
もどります。

……。
羽生さん、トンデモなどにはけっして走らず、対局、頑張って下さい。


「ひぇー! ひょー!」


中川先生の顔がクシャクシャー!となる瞬間に注目して下さい。
(;^-^ゞ


--☆---

そのころ、世界では。
『デモクラシーナウ』から、去年9月のG20サミット報告。
ピッツバーグG20 サミット抗議鎮圧で出現した「警察国家」の光

そこから、なだれ込むようにアルンダティ=ロイ、インタビュー。
アルンダティ・ロイが語るインド経済成長の犠牲者たち

世論に支えられた「お茶の間ファシズム」はインドでも大流行しているようだ。

 

 

 



『内死』(2010.2.1)

「「マーサー(神)はまやかしじゃない」リックはいった。「現実がまやかしでないかぎり」 」
  〜P=K=ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』〜

「この知性を必要としない娯楽の場合は、単に人々を体制に順応させ、ほとんど感情と衝動で支配されるようにするだけです。その衝動とは、もっと消費し良い消費者になることです」
   〜ノーム=チョムスキー〜

「シートベルトを締めとくのね。今夜は荒れるわよ!」
   〜映画『イヴの総て』〜



はてな界隈で勃発した今回の「きんぴらゴボウ戦犯裁判」事件は、一大感動消費大国日本の感動至上主義、実感至上主義の無残さ、根の深さをまざまざと教えてくれた。

『Apes! Not Monkeys! はてな別館』さんから、
事実であろうと、なかろうと

☆☆☆☆☆
「ゴボウを食べさせただけで死刑になった日本兵」という史実(を装った虚偽)について感想を書けば、それはすでに史実について(誤って)語ったことになる。こんなことは当たり前。「広島に原爆は落ちなかったんだって。よかったなぁ」などと公言して、「よかったなぁ」という「感想」は真実なんだから「原爆投下は史実か、否か」なんてどうでもいい……などということが通用すると思うか?」
☆☆☆☆☆

(;´▽`)……。
よそん土地での論争(“論争”になってないか)にこっちであれこれ言うのもどうかとは思うが、しかし、いや、本当にねえ。
(;´▽`)
絶句、驚いた……と書きたいところだけど。
「問題の存在などけっして認めない、なぜなら、私の流した感涙の涙は偽りのない本物だからだ」というような主張は、程度の差こそされ、私の周囲でも実にありふれたものだ。
無視する、すり替える、言い逃れる、排除する、感動に全身を打ち震わせて自己正当化。
日本はいまや、右を見ても左を見ても「危機感」と「感動」の大暴風地帯だ。
いや〜。
昔、チエちゃんという少女が主人公の、大阪の下町が舞台の漫画があって、お好み焼き屋のおっちゃんが飼っている猫が実に辛そうにつぶやいていたセリフがあった。

「たまらんな〜」

私の記憶では、ずんぐりした二足歩行の猫が、額から汗をひとしずく流し、半ばうつむいて、困っているのだが自分にはどうしようもないという口調でつぶやいていた記憶がある。しかしチエちゃんたちには、ニャーニャーとしか聞こえない。
ニャーニャーとしか聞こえず、周囲を見廻しても何も変わったふうでもなく、だからチエちゃんたちには、この猫はなにをそんなに鳴いているのか、さっぱりわからない。いよいよ、どうしようもない。どうするんだろう。どうなるんだろう。
ガリー=バルディンの傑作アニメ『アダージョ』

思い出した。
あの猫の名前はアントニオ・ジュニアだった。
「アチャ〜」ともあの猫は言っていた。


--☆---

漫画雑誌『月刊アフタヌーン』の最新号を読んだら、『ベントラーベントラー』が、あと2話分を掲載の後、連載終了だとの告知が出ていた。
最終回まで、あと2ヶ月だ。
良質で、こぶりで、かわいらしく、正統的で、知的で、かまえたところがなく、上質なSF的センスに溢れ、しかし地味で、キャラクターがそれほどたっているとはいえないから、人気も出ず、人気が出ないからトコロテンを押しだすようにして連載は終わる。
一部読者には非常に好意的に受け止められていたようではあるが、「一部読者」ではだめだったということなのだろう。
あざとさ、というものがまったくないから、大多数の読者に受けない。
「感動が足りない」「実感が足りない」つまり、「あざとさが足りない」
わかりにくいということではけっしてないけれど、誰にでもわかる、どんな人でもわかる、ということでもない。他者という存在の途方もなさに触れたときの驚き、というものはあるが、恋愛もなければ暴力もなく、登場人物たちの関係が深まっていく、もしくは葛藤が高まっていく、というようなこともない。
「これはいったいなんなのですか」と言って、あとの号はぜんぶ飛ばし読みだ。
上質なSF作品は、苦行として自らに課してでも、無理にでも読んでおいたほうがいいと個人的には考えているが、もうそんなことを言っても書いてもどうにもならないか。
あざとさを感じさせない漫画は、本当に少なくなった。良質なSF漫画となると、さらに少ない。
がっくりとうなだれて、片手で顔を覆う。
いよいよ、あの猫の気分だ。

 

 



仕分け作業と感動ゾンビ(2010.1.29)

「物事によっては、あまりにももろく、貴重で、大切であるため、企業による搾取の対象にはできないことがあると信じている」
 〜ジョエル=ベイカン『ザ・コーポレーション』〜


「1、2年前にはファシズムに対してギャーギャー文句をいっていた彼らが、今ではそれといちゃつきはじめているが、いずれの場合も、彼らがファシズムというものをいかに浅はかに誤解しているかを暴露している。問題は、「君は討論会でヒトラー弁護論を展開できるか?」ということではない。問題は、「君はその議論をほんとうに認めるのか……」
 〜ジョージ=オーウェル『ライオンと一角獣』〜



『非国民通信さんから』
自立支援という名の保護打ち切り計画でしょうか

わお!
社会にとっての有用性を証明できないなら、この町からでてってくれ〜ってさ。

あなたが有用かそうでないかを決める素敵な仕分け審査員がまたひとり現れたわけですな。
♪♪(^ー^)ノ
この会社大国日本の内部では、社会と会社はほぼイコールで結ばれているから、会社ににとって有用でない人間は、生存権も認められない。
いや、まじで。
審査員の公正なる審査の結果、有用性を認められたあなた。さあ、いっしょに、狩りを始めましょう〜♪

働かざる者は喰うべからずと肥え太ったブタが言い、やせ細ったブタまでもが、もっとやせ細ったブタ、病気のブタ、年老いたブタや借金ブタに同じことを言う。

日本中のブタたちが、天からたれた1本のほっそいクモの糸にむらがって、糸が切れるなら自分の下から切れろ、と願ってる。
私、仕分ける人。お前、仕分けられる人。
さあ、狩りを始めましょう〜♪
人間が人間を切断する線引きを何処で引くべきか、そんなことに夢中になってる。
この残酷さ!
この非人間性!
この阿鼻叫喚!
ことの次第を俯瞰できる位置から写真に撮って、額に飾れば、聞けよ驚けタイトルは「自立支援」となる。
ひええ、現実に起きていることとはとうてい思えん……。
(^_^;)
いや〜、この国の民はいったいどうなっちゃったの? 「小泉改革劇場」の次は、「政権交代劇場」で踊り狂う。
感動さえ出来てりゃ、ほかの論点はどうでもいいわけ?
それともなんだろう?強きは正義とか、そういう主張?

とか書いているいうちに。

Apes! Not Monkeys! はてな別館』さんところから戦慄すべき……。

うわあ。
今や日本のお家芸なのか。
自らの不勉強さとずうずうしさに開き直って日本の感動ゾンビ。誰が何と言おうと私はそう感じるんだ!と駄々をこねて日本の実感ゾンビ。
(;  `)
……はあ〜、なんかもう、いろいろわかっちゃって、虚脱。
そうかあ、そうなのかあ。
「感動」を疑え、「感動」に気をつけろって、あれほど……。

 

 



ノルウェー人たちの最後(2010.1.26)

「誰かが何とかしてくれるなどと思えなかっただろう。そんな世の中だったとしたら、どうして今まで自分にはそれが訪れなかったのか、説明できないからだ。つまり、誰も何もしてくれない世の中なのだ……そう結論づけているように見えた。その結果が「自分は今のままでいいんスよ」という言葉である。典型的な自分自身からの排除だった」
  〜湯浅誠『反貧困』 〜


「強者の言い分は正しく、弱者の主張は誤っている。いかなる敗北も当然の結果であり、ひとえに劣った主体の自ら招いた弱さのせいにされる。ネオリベラリズムの根本原理---利潤最大化、無制限かつ無規制の競争、商品交換の普遍化、土着文化の根絶---」
  〜ジャン=ジグレール『私物化される世界』〜


未来が背後から肩をたたく。
ネット上をうろついていてみつけたんだけど、これ、めっさ怖い話。
『虹の日記(byどろ)』さんから、ノルウェー人たちの最後。
ある滅亡社会のこと グリーンランドのノルウェー人と在特会

☆☆☆☆☆
「彼らの驚くべき保守性と差別性、そして暴力性が自らを滅ぼしたとも言えるのです。
 彼らの最後は餓死でした。」

(i々i) うええ。

「暴力的な統制と、我慢を強制するシェアのシステムが壊れると、あとは奪い合いしかありません。
 誰もが自分だけは助かろうとして相歯向かったあげく、誰も助からなかったのです。
 遺跡からはネズミの骨や、貴重な家畜の食べガラが見つかっています。
 一匹のネズミを奪いあい、先のこともかまわず家畜を殺して、かかとまで食べ尽くしたのでした。 」
☆☆☆☆☆

これがどういう意味かわかるかね未来少年。
……まあ、様々なことが語られうるだろう。
ただ、これだけは言える。

自分たちだけが幸せになれノルウェー人たちの最後。

『ダーウィンの悪夢』の予告編。ホラー気分を盛り上げてください。


社会的有用性を証明して見せることができなければ、生存の許されない世界で。



おまけ。

王様の『移民の歌』
白夜の大地に温泉湧き出る〜!


私たちは支配者なのか〜ぁぁぁぁ。
(^_^;)

本家レッドツェッペリンで。



 

 



危険なエルズバーグ(2010.1.22)

「彼らは人民軍の戦車隊に追われてキエンの照準範囲に入ってきたのだ。キエンは射撃をやめたいと思ったが、ひとたび戦場を支配するに至った死神の手は彼の手を握って放さなかった。彼は愕然とした。これほどに多くの死体が目の前に転がったのは初めてだった。これは戦闘なんてものじゃない、屠殺だ! そう思ったとき、タックが「やめて、やめて」と叫んで給弾ベルトを手放し、キエンの肩を激しく揺さぶった。「射撃中止、中止!」」
 〜バオ=ニン『戦争の悲しみ』〜


「「お父さん、ホントのことを言ってよ」とキャスリーンが言う、「お父さんは人を殺したことがあるの?」そして私は正直にこう言うことができる、「まさか、人を殺したことなんてあるものか」と。
あるいは私は正直にこう言うことができる、「ああ殺したよ」」
 〜ティム=オブライエン『本当の戦争の話をしよう』〜


「無実の人間を監禁しないと存続できないようなら、そんな体制はこわれてしまえばいい」
 〜フィリップ=K=ディック『少数報告』〜



『地獄の黙示録』


『デモクラシーナウ』にてダニエル=エルズバーグの特集あり。
"アメリカでいちばん危険な男"ダニエル・エルズバーグとペンタゴン文書

泥沼にはまったように先の見えない戦争に突入したアメリカ合衆国国民が、「これはいよいよ本気で取り組まないといけない」とある時点で覚悟を決め、腰を落ち着けて「自国を懐疑する」という、この国の歴史上で唯一といっていいムーブメントが、ベトナム戦争の中期から末期に起こった。
「これはいよいよ本気で取り組まないといけない」とは、当時のアメリカ国民にとっては「可能なかぎり厳しく悲観的に、自国ないし自国の価値観を眺めなおしてみる」ということだった。
必要とあらば、アメリカ合衆国をいったんバラバラに分解して、その部品のひとつひとつを疑い深い眼で眺めなおしてみる、というような覚悟すら、少なくとも国民の側の気分としては、あった。
アメリカ合衆国政府が間違った道を歩みはじめたら、国民がその政府を引きずり下ろし、ご破算にし、その上でまたスタートからやり直せばいい、というアメリカ特有の楽観主義に支えられ、アメリカ国民はどっしりと腰を据えて、懐疑と悲観の作業に取り掛かった。
この時期、一瞬だけきらめいた「アメリカの悲観主義」は、「勇気」や「反骨」と表裏一体で、こういうエピソードに触れると、やはり、アメリカ大衆の民主主義を信じる力を感じる。
……、とまあ、んなこと言っても、ベトナムの人たちにとっては、

支配者気取りでなにが民主主義だ、ふざけんなよコンチクショウ!としか思えなかったでしょうが。

アメリカの傲慢さ、というものにアメリカ国民が気づく、とまではいかなかったとしても、向こう側の世界に思いをはせる。それが「アメリカの悲観主義」によって、ほんの少しの期間においてのみ、実現した。
『フルメタルジャケット』


 



最近買った本・マンガ・DVD(2010.1.19)

「この世のあらゆる書物もお前に幸福をもたらしはしない。
だが書物はひそかにお前自身の中にお前を立ち帰らせる」
 〜ヘルマン=ヘッセ〜


「読書は単に知識の材料を提供するだけである。
それを自分のものにするのは思索の力である」
 〜ジョン=ロック〜



本をまったく読まずに人生を過ごしていく、という生き方を選び、そのことに何の不満も疑問も感じない、という人たちは、私の周囲にもかなりいる。かなりいるどころか、もしかしたら、そちらの方が多いのではないかという気もする。
一日という限られた時間の内部に、

いくばくかの読書の時間を捻出しうる暮し、などというものは、すでにある種のぜいたく

というのがこの国で共有されている認識、そして実態だろうから、不思議ではないのかもしれない。
この国において、“道楽”のタネだけはつきることがなく、したがって、本を読まずに過ごして何の不自由もない。
何の不自由もないのだから、何の問題もない。
それとも---本を読まない生き方を選ぶ、とさっき書いたけれど---、本人はさして選んだわけでもなく「たまたま本を読まずに生きてきただけのことだ」程度の認識なのかもしれない。
本を読まずとも何の不自由も感じないのだから「本を読まない生き方」それ自体を意識することもなかった。これからもないだろう、というような。
マンガの読み方がわからない、という人にも3人、出会ったことがある。
読み進めていくために最低限必要な約束事や、改めて数えてみれば驚くほど膨大な漫画的記号というものを了解していないと、マンガは読み進めない。そんな面倒なことの先に「マンガを読む」という行為があるのなら、マンガなど読めなくてけっこうだ。かろうじて新聞の四コママンガは理解できるのだからそれで満足だ、と教えてくれた人もいた。
それと、いま思い出したのだが、過去の友人で
「本を読まない。マンガもまったく読まない。ただ、雑誌だけは読む」という人がいた。
彼は今どうしているだろう。
『週刊ポスト』、『サンデー毎日』、『週刊新潮』、『週刊文春』、『アエラ』といった雑誌だ。
本を読まずに、マンガにも見向きもせずに、雑誌だけを読むのはなぜか。彼に言わせれば、世の中の流れを知るには雑誌でじゅうぶんだし、また、もっとも正しいアプローチである、とのことだった。
私は、過去においても当時においても、また現在においても、「世の中の流れ」などというものに興味を覚えたことがない。したがって、彼の愛読する雑誌類にはまず手を触れることもない。この種の雑誌については、電車の吊り広告にならぶ見出し以上のことは何も知らない。と私は彼に言った。
「溝江さんみたいに政治の話が好きな人間が、世の中の流れに興味ないとか、嘘でしょ」
とそのとき言われたっけ。
(^_^;)
およそ本と呼べるものは、学校の教科書以外は読んだことがないはずだ、という意味のことを彼は言った。そんな生き方がありうるとは、当時の私には想像すらできていなかった。
想像すらできていなかったから、素直にショックを受けた。ショックを受けたその私の顔を、彼は面白がっていた。
「小沢一郎」、それから「真鍋かをりの学歴」について、彼はいくぶん肯定的に語った。雑誌の特集記事から得た情報だと言った。
当時の「小沢一郎」について彼が何をどう語ったか、アイドル女性タレント「真鍋かをり」について彼が何を語ったか、今、思い出してみようと努力してみたけれど、思い出せない。雑誌を開いて、ここだ、この記事だと教えてくれたのに、雑誌の名前すら思い出せない。
残念だ。



最近購入した本リスト。
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『理性の限界』
『CIA秘録(上)』
『CIA秘録(下)』
『悪魔の辞典(上)』筒井康隆翻訳版
『悪魔の辞典(下)』筒井康隆翻訳版
『ラウィーニア』
『オーウェル評論集3』
『戦争の悲しみ』
『オシムの伝言』

・絵本『ここが家だ』

・雑誌『月刊アフタヌーン』
・雑誌『将棋世界』
・雑誌『MacFan』
・雑誌『ハヤカワSFマガジン特別号2』
・雑誌『ナンバー』(オシムインタビューあり)

漫画『森のテグー1』
漫画『え!?絵が下手なのに漫画家に?』

最近購入したDVD。
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『スーパーサイズミー』
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『オシムの伝言』は、日本語で出版されるおそらく最後のイヴィツァ=オシムについての書籍になるのではないか。
悲しい。




 



ぶつ切りライダー・〜商品のどんづまり(2010.1.16)

「民衆には、感動を誘う極めて単純な物語を投げ与えておけばよい」
  〜ラインホルト=ニーバー〜


「私は間違っているが、世間はもっと間違っている」
  〜アドルフ☆ヒットラー〜



明けても暮れてもひたすら感動を消費し続ける日常のただ中で、
「最終回は中途半端に終わって、あとは映画で!という感じがしてきました」
と語る秘密結社戦闘員主任・吉田氏動画。
↓↓↓↓↓
『新TVシリーズ 秘密結社 鷹の爪 第1話』(前編)


ところがですね奥さん。
市場がこの世のすべての価値を決定するこの21世紀リアル世界では、中途半端どころか、

「ぶつ切りに終わって、あとは映画でライダー」ちゅうのもあるんですよ、さあおたちあい。

『おれの邪悪なメモ』さんから、
映画館がざわめいた! 映画『仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010』

ひー! 子どもをひっかけて儲けようってのは古くからある手口だけど、こりゃあ新しい!

こりゃすげえ! たまげた! 度肝抜かれました。
(;´д` ) トホホ


おまけ。

『新TVシリーズ 秘密結社 鷹の爪 第1話』(後編)


……明日から、ワタクシ、感動情熱撲滅運動に参加しようと思います。



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