*『ムー』9月号にご紹介していただきました*(2005.8.19)
遊絲社からの情報。
以前にもお知らせいたしましたが、学研発行の月刊雑誌、
『ムー』
に、弊社刊行の
『イワクラ 〜巨石の声を聞け〜』(イワクラ〈磐座〉学会・編著)
が、紹介されました。
ありがたいことでございます。
『ムー』さん9月号の表紙の画像もアップしておこう。
この雑誌、個人的には
「実録!! 私は河童に遭遇した!」
の記事タイトルが、気になってしかたがたない。
河童は、日本特産と聞いてるが、やっぱり、相撲をコヨなく愛してらっしゃるのであろうか。
ぜひとも、直接、河童に会って、訊ねてみたいものである。
おみやげは、きゅうりがいいんですかね?
*コイズミさんの仰天答弁について*(2005.8.17)
野党である民主党のニシムラなにがしさんが、コイズミ首相の靖国参拝をしきりに支持しておりましたが、コイズミさん自身は、今回は参拝をひかえた模様。
アジアはまだしも、アメリカのマスメディアにまで徹底的に批判されれば、コイズミさんもさすがにひよったかな。
民主党のニシムラ某さんは、
「靖国に参拝することによって、
今度戦争するときには断じて負けないという誓いを新たにしないといけない」
と、申しておられたのにねえ。
……。
脱力するなあ。
「今度戦争するときには断じて負けないという誓いを新たにしないといけない」
って、なんなんだよ。
正直、もう日本もおしまいだと思うよ。
だってよ、これが日本の野党第一党に所属する人間のセリフなんだぜ?
ぷっ!
こんなセリフ、例えば、ドイツの政治家が口にしてたらどう思う?
「ドイツ、やべーんじゃねえか?」
って思うよな。
そんなセリフを、白昼堂々、日本の政治家どもは放言してまわっている。
よその国のひとびとにはとうてい聞かせられない発言の連続技。
例えば、アメリカ軍がアフガニスタンに侵攻したとき、日本共産党の緒方靖夫氏が、
「米軍が、アフガニスタンの無実の市民を殺しているようだが、いけないのではないのか?」
とコイズミさんに質問したときのこと。
そのときのコイズミさんの答えが、実にすさまじい。
「アフガンの無実のひとが犠牲になるから何もしないでいて、他国の無関係の市民が犠牲にならない保証がどこにあるのか。」
えええ〜?!!!!!
国家の最高責任者として、フツーありえないお返事だろ!
なんと、
先進国の市民へのテロを撲滅するためには、アフガンの市民が犠牲になってもいい、つーんだもんな!
そもそも、保証なんて言いだしたら「無実のひとを犠牲にしてアフガニスタンを攻撃したところで、テロが撲滅できる保証だってない」んだぜ? 実際、アフガン侵攻、イラク侵攻以降のほうが、国際テロ事件は増えてる!
まともな国なら、この発言の翌日に首相クビだよ!
しかし、日本の大手新聞は一紙たりとも、このコイズミ発言を批判しなかった。
一紙たりとも!
信じられますか?
いや、信じらんねえ。
信じられないが、これが、かけねなしの本当の話なのだ。
日本国を支えるシステムの、ピンからキリまでが、腐敗しきっている。
私の悲観主義も、むべなるかな、だろ?
なにかにつけて日本民族の誇りを口にする彼らであるが、いっぽう、奇妙なことに彼らは、日本国民に対して実に冷淡だ。
この10月から、特別養護老人ホームなどの施設の食費と居住費が、保険から外れ
全額自己負担になる。
ご老人のみなさまが負担する金額の総計は、
年間で3000億円。
(;∇;) タスケテー
医療費は上がり、年金は減り、介護保険は取られてしかも食費と居住区は別取りだ。
日本のお歳よりがうち震えるのは、日本民族の誇りのためか、非人間的ないじめに対するいきどおりか。
なあ、どっちだと思う?
はっきりしているのは、特別養護老人ホームなどの施設の食費と居住費を保険から外したことによって浮いたお金は、みーんな連中のぽっぽに入るということ。
お金持ちがさらにお金持ちになるために、これまでの日本を支え続けてきたお年寄りたちの食費も居住費もみーんなとりあげ!
オニだよ、オニ。
外崎則夫氏のサイト
『N.TONOSAKI's
Personal Station』
の大人気コラム
『がんばれ!!ゲイツくん』
最新号で、外崎則夫氏はこうおっしゃっている。
「今現在独立採算性で1300億円も黒字(そのうち半分は国庫に納付)を出している郵便事業が、民営化したら500億の赤字になるというタケナカ君の答弁にはあきれました」
(^_^;) ……ねえ。
連中、自分のぽっぽに入るお金の計算しかしてないの、まるわかり。
ここまで来たら、哀れみすら感じるよ。
「ま、国を赤字にして国民から税金をしこたま取るのが仕事の方ですから仕方がないのでしょう。」
と外崎則夫氏もあきらめ顔のご様子。
しかし、よう。
政治家の仕事が、いつから、
「国を赤字にして国民から税金をしこたま取る」ことになったのかなあ。
わしらもな、こういう連中に投票するのがいかんのよ。
「今度戦争するときには断じて負けないという誓いを新たにし」ている連中に、
選挙でこっぴどい負けを味あわせてやれ。
ちょっとはスカッとすること、うけあいだ。
今度の総選挙は、どうなるだろう。
日本のマスコミは、選挙のたびに、
「政権選択」を強調する。自民党が政権をとるか、民主党が政権をとるか、というわけだ。
まったく、馬鹿まるだし。
まあ、確信犯なんだろうけどな。国民に目くらましをくらわすためだけに、こういう戯言をほざくわけだ。
選挙権を持つ市民ひとりひとりにとって、「政権選択」なんてものに、どれほどの意味や価値があるというのか?
大切なのは、「政権」選択ではなくて、
「政策」選択
だろう?
でも、実態のない「政権選択」に、国民の関心はそらされ続けてきた。
どっちを向いても、失望させられるばかり。
誰が権力を握るかなんて、知ったことか。
もっとも大切なこと。それは、私たちが、
これからどう生きていきたいか、
だ。
SF精神を心に刻んで、選挙におもむこう!
*旧日本陸軍の親睦団体が残した「公正な歴史」*(2005.8.16)
東京都は杉並区が、来年度の中学校教科書として、「新しい歴史教科書をつくる会」発行の教科書を採択した。
どの教科書を採択するかにあたっての会議の中では、委員の中から
「平和の志向の強いものは避けるべき」
という意見が出たのだそうだ。
彼らによりますと、今までの教科書は、「平和指向が強すぎ」なのである。
(言っておくけど、これらの発言は私の想像で書いてるんじゃなくて、本当にそうおっしゃっているんだからネ)。
あまんきみこ氏の作品、野坂昭如氏、井上ひさし氏、それに、吉永小百合氏の核廃絶のメッセージも平和志向のため、
「教科書にふさわしくない」
のだそうだ。
キッパリ平和反対。
ダンコ反戦阻止。
(´▽`;) うへえ!
いや〜。
聞いているこっちの脳みそが、思わずとろけそうだ。
もう、タチの悪い葉っぱをキメたとしか、思えない。
杉並区の中学校で使われる教科書は、来年から、この強烈にラリラリな新しい教科書だ。
おかげさまで、日本はアジア諸国のみならず、ヨーロッパ諸国からもすっかりアホあつかい。
日本から一歩外に出れば、例えば、イギリスのタイムズ新聞も
「選択肢にあってはならない」
と、あきれ返っておられますよ。
学校が教科書の選択肢を持つのは当然だけど、いくらなんでもこの教科書はありえんだろう、とタイムズ新聞はおっしゃっている。
ワシもそう思うよ、イギリスのタイムズ新聞社さん。
だけどな。日本はいま、国全体が、他愛のない極右思想と土着的民族主義にラリパッパ状態で、まともな思考ができないらしいんだよ。
今の日本という国において、愛国心とは、国粋主義とイコールなんだな。
ともかく。
一応は先進諸国と呼ばれている日本のような国が、未来の社会を背負っていく子どもたちの教育に対して、こうまで不誠実かつ無責任であっていいはずはない。タイムズ新聞がもっとも驚き、またあきれているのは、この部分だ。
正直、私もあきれ返っているよ。
ほんと、恥ずかしいよ。
ちなみに、インドネシアの小学5年生用の歴史の教科書では、こう書かれている。
「一般に植民者の態度はどこも同じである。つまり、残虐で、搾取的で、非情である。
(略)
日本がやって来たことにより、オランダ植民地時代に受けた犠牲はなくなるどころか、むしろ、事態は悪化した
(略)
民衆が命令に従わないと、日本は重刑を下した。当時、私たち民族の運命は、実に苦しいものであった。食べ物は、すべて枯渇していた。飢えた腹を満たすために、民衆は、およそ人間が食べる物とはいえないような……(以下略)」
「一般に植民者の態度はどこも同じである。」という一文に、注目していただきたいね。憎むべきはオランダ国民でも日本国民でもなもなくて、人間が人間を支配するというその発想、外交手段としての侵略行為なんだ、とインドネシアの教科書はちゃんと書いているんだな。
立派な教科書でお勉強して、インドネシアの子どもたちは、
少なくとも日本の子どもたちより幸せだ。
インドネシアの人々は、今の日本の発狂状態に怒るというよりも、むしろ
「大丈夫なの?」
と心配してくださっているとのこと。
なんか、もう、世界のみなさまに対する、恥ずかしさばかりがコンコンと降り積もる。
(´▽`;) ……。
しかし、日本の愛国者のひとびとは、インドネシアの教科書に書かれていることは捏造だという。
日本の戦争は正しかった。
日本は、アジアを“解放”した。
南京大虐殺はなかった、etc.、etc.。
例えば、靖国神社では、南京事件を
「南京城内では一般市民の生活に平和がよみがえった」
と解説している。
南京で日本軍による虐殺があったというのは、うそっぱちだと言うのだ。南京で虐殺があったという証拠は、ないのだそうだ。
南京大虐殺事件は“でっちあげ”なのか? “誰も見ていない”のか? デマだとしたら、そんなたちの悪いデマをふいたのは、どこのどいつだ? 中国共産党のスパイではないの?
あのね、面白いお話を教えちゃろう。
南京大虐殺説のルーツは、実は、他でもない日本の外務省の公電であった!
日本の外務省が、在外公館に、
「南京(揚子江一帯を含む)で大虐殺しました」
と、言ったのだ。
資料は、マンチェスター大学図書館などで、今も閲覧可能だそうだ。
当時の日本の外務省は、この虐殺行為により、
「欧米メディアで南京事件が報道されて国際的非難が強まるので注意を」
と電報を打った。それを諸外国のメディアが引用したのが、
南京大虐殺説の始まりであった。
マジかよ! 南京虐殺のいの一番の資料は、日本の外務省の電報文だよ!
……私の日記って、けっこう勉強になるね。
(^_^;)
『揚子江デルタ地帯を含んで』いるんだから、『南京』で『30万人虐殺』というのは正確でない→だから間違いである、って言う?
じゃあね、もいっこ、面白いお話をしちゃいましょう。
1983年11月のこと。
旧日本陸軍の親睦団体『偕行社』が、発行している機関誌『偕行』に、
「南京事件に関する情報提供のお願い」
という記事を載せた。
でっち上げを根拠に語られている南京『大虐殺』事件に反証する。そのために、ひろく、従軍した兵隊さんのみな様から、真実の証言をいただきたいという旧陸軍親睦団体からのお願いだ。
「公正な歴史を残す」
ために、と、編集部は読者に語りかけている。
うそっぱちの大虐殺事件を真実によって修正し、正しい日本軍のありさまを語り継いでいこう、という高邁な精神にのっとり、企画は発動した。
従軍した兵隊さんから、ぞくぞくと証言は集まり、連載は1984年4月号から約1年続いた。
情報は集まる集まる、どんどん集まる!
虐殺を肯定する内容で。
来るわ来るわ、虐殺行為を告白する手記のオン・パレード。
驚く編集部。
Σ( ̄ロ ̄lll)
ああ〜、旧日本陸軍の将兵は、みな、中国共産党のスパイなのか?
そんなわけあるかいな。
虐殺はなかったという証言を編集部がどんなに求めても、来るのは虐殺行為の告白。
連載の最終回がやって来た。
企画の締めくくりに編集部はこう語った。
「旧日本軍の縁につながるものとして、中国人民に深くわびるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった。」
……。
これが、旧日本陸軍の親睦団体『偕行社』が残した、「公正な歴史」である。
(;゚;Д;゚;) ウ
(;゚;Д;゚;) ワ
(;゚;Д;゚;) ア
(;゚;Д;゚;) ッ
(;゚;Д;゚;) ……つまりなにかね。
今の日本政府は、事実に対して旧日本陸軍以下だっつーことかね。
イヱスざんす。
旧日本陸軍の兵隊さんたちが中国共産党のスパイで、うそっこ情報を機関誌に送り付けたって言うなら、まあ、話は別だがな。
しかし、もしもそうなら、
旧日本軍は共産軍だったことになるけどよ。
(´▽`;)ほげ〜。
とにかく、私は恥ずかしいの。
アメリカ以外の世界からすっかり孤立している現状を、正しく認識することすら、多くの日本国民はできていないありさまだ。日本の外側について無邪気なまでに無知だから、ぶざまで、醜悪で、傍若無人な言動を平気で繰り返す。
海外のひとびとから、悲しみと哀れみの視線を注がれつつ、日本の内側でしかとうてい通用しない主張をひたすらごり押しし、とくとくと「愛国」などと胸を張る。
私の周囲でも、
「中国人や韓国人は野蛮で、国際感覚がない」
「60年も昔のことをむしかえして、中国人はうるさい連中だ」
なんて、平気で言うひとたちがいる。
実は、そもそも、中国政府は60年前の話をむしかえしているのではない。
中国側は、侵略戦争を反省しますとの約束を日本政府がホゴにしていること、♪いつかきた道〜♪ ということで、国際法を無視して自衛隊がイラクに侵略軍として駐留していること、などなど、
日本とアジアの未来
について問題にしているのだけれど、日本のマスコミはまともに報道しない。報道しないから、あまりにもトンチンカンな意見が世論としてまかりとおり、それがまた、世界のひとびとの目に留る。
私が幼少のころは、近所に、
「チャンコロ(当時の中国人に対する蔑称)を日本刀で○○人斬り殺した」
だの
「遊び半分に腹を割いた」
だのと自慢するおっちゃんたちがいっぱいいた。
腹を割いて、中国人のキモを食べた、なんて言うおっちゃんもいたわけだ。
そしていま、私たちは、中国や韓国や東南アジアのひとびとを、「60年前の出来事をむし返した」という理由で非難する(くえかえすけど、彼らは、過去ではなく現在と未来を問題にしているんだけどね)。
中国人の腹を割いて、活きの良い内臓を食べたのは自慢しても、腹を割かれた側が抗議するのは私たちは許せない。
なぜなら連中は野蛮で、国際感覚に乏しく、日本がおとなしいのをいいことに、どこまでもつけあがる民族だからだ!
これまでの日本は、アジア諸国のわがままに対して、あまりにもおとなしすぎたのであり、
これからの日本は、モノの道理を連中にきちっと教導していくのだ!
うへえ!!!!
なんという傲慢!
なんという不埒!
チョムスキーが語っている。
「日本では現在、どれくらいのひとびとが本当の話を理解しているでしょうか?」
もう、穴があったら入りたい気分。
正直、今の日本は、ごろつきウソつき札つき国家なんだな。
そして、ここ日本では、「本当の話を理解」することは、自虐史観に染まることなのだ。悪いことをしても、反省したり後悔したり謝ったりなどはもってのほか。
新しい歴史教科書で、日本民族の誇りを取り戻せ!つーわけ。
ウソと開き直りの歴史を抱き、どうどうと胸を張る、これが日本民族の誇りだあ。
読んで字のごとく、絵に描いたような、恥知らず。
日本民族だろうがナニ民族だろうが、大量殺人は犯罪だっつーの!
何度でも言うぞ。
恥を知れ、恥を。
最後にもう一度、旧日本陸軍の親睦団体『偕行社』の、「自虐的反省の弁」を引用しよう。
「中国人民に深くわびるしかない。
まことに相すまぬ、
むごいことであった。」
*国民をおどす日本の不思議な役人*(2005.8.12)
コイズミさんによりますと、郵政民営化を何としても実現しなければ、国が滅んでしまうのだそうだ。
「改革断行!」
を叫んでおります。
面白いひとだなあ。
コイズミさん念願の郵政民営化を実現すればどうなるかというと、将来的には
600億円の大赤字が出る予定
(政府試算より←!)
とのことだ。
(´▽`;)
断固改革、と言いながら、600億円の赤字試算を出してくる政府のお偉いさん、まじで、スゴイ!! 笑いをとるためには身体を張る大阪人も、
このスケールには負けた。
いっぽう、コイズミ内閣の2006年度の予算案は、社会保障費の
2200億円圧縮が柱。
改革(←改悪)で膨れ上がった赤字は、福祉切り捨て&増税にて補填しよってわけ。
だはは!!
国が滅びそうになってんのは、いったい誰の責任なんだっつーの!
世論調査では、コイズミさんの支持率がアップしているのだとか。
自分で国家を滅亡に追いやっておいて、
「さあさあ、政府の言うことを聞かないと、大変なことになりますよ」
と脅せば、支持してくれるんだから、楽だよなあ。
まあ、コイズミさんを支持するひとたちの気持ちも、わかる気がするんだ、おいら。
じっさい、国が滅びかねない状況だもんな!
先日、コイズミ内閣と連立与党が成立させようとしていた、障害者自立支援法案が廃案に追い込まれた。
「障害者自立支援法案」が廃案? ああ〜、障害者の自立を国が支援してくれなくなってしまった〜、と残念がったひとも多いだろう。
ところが、中身を聞いて、驚き。
「障害者自立支援法案」の内容は、障害者への福祉サービスに1割の負担を導入するというものだ。つまり、
金を払えない? だったら自立しろ、という法案
だったわけだ。
障害者に慈悲深い彼らは、これを“自立支援”と呼ぶ。
この慈悲深い法案で障害者の自立を支援することで、障害者の社会参加が加速する予定だったのだそうだ。法案によって障害者の自立を支援しなくては、国が滅びてしまうことになるのだそうだ!
ぷっ!
いやっちゅうほど増税を繰り返しておいて、それでも赤字ばかりが膨らむ。
赤字が膨らむから、もうぎりぎり、国が滅びそうだ。
国が滅びそうだから、また増税する。
国家存亡の危機と増税の無限ループ。
……はっきり言わせてもらうけど、普通に考えてそれって、あんたらが無能ちゅうことじゃないの?
確かに、連中は無能なのかもしれない。しかし、連中は、理解している。看板さえ玉虫色なら、誰も内容については深く考えないことを。
改革だ! 革命だ! 障害者の自立支援だ! ……こう言っておけばいいわけ。
「改革に向けてがんばっております! 全力でいどんでおります!」
フタを開けてみれば、
頼むから、そんなことに全力でいどまんでくれ!
という内容だったりする。
彼らはいつだって、改革に向けて邁進し続けるだろう。国民を支援し続けるだろう。
そのかわり、国民よ、痛みに堪えよ。
国民が黙って痛みに耐え続けさえすれば、改革は、
永遠に現在進行形のまま、みなの心に幻想としての希望の光を灯し続けるであろう。
ヒトラーやスターリンや毛沢東やポルポトの改革がそうであったように、ね。
人類って、ほんと、歴史から学ぶことができん生き物だよな。
自信満々でデカイ声だしてりゃ、そっちになびいちゃう。
言ってることじゃなくて、やっていることを見なくちゃだめだよ。
まあ、テレビや新聞が、アレだからな。
なかなか、連中のやっていることが目に触れない状況ではある。
日本にはジャーナリズムつうもんがなくなって、もはやただのマスメディアになってしまってるからな。
話が突然変わるけど、私は今、この日記をバルトークの
『管弦楽のための協奏曲』
という曲を聴きながら書いている。
指揮は、セルだ。演奏はクリープランド管弦楽団。
バルトークは、いち音楽家の分際で、ナチス党にことごとくケンカを売ったハンガリーの音楽家だ。
子ども偉人伝で書いてある(笑)。
彼は、ナチス党の「退廃芸術展示会」に抗議し、オーストリア侵攻に抗議し、とにかくケンカを売りまくった。そんなバルトークも、1940年には、アメリカへの亡命を余儀なくされ、そこで、とんでもない貧困生活に苦しみ、最後は白血病で死んでしまった。
(。;_;。) かーいそう。
バルトークの曲は、ひとことで言って、わかりにくい。シェスターコビッチとはまた別の次元でおどろおどろしくて、これはセルの指揮の演奏で聴いても、わかりやすくなるわけじゃない。
一般受けしない曲ばかり書いていたんだな。
生活に困ったバルトークが、一般ウケをねらって作ったのが、この『管弦楽のための協奏曲』だということだ。
それでも、ずいぶん気難しい曲ではある。
この『管弦楽のための協奏曲』とは違うけど、自身の白血病を知ったバルトークは、死ぬ最後の瞬間まで、ピアニストの奥さんのためにピアノ曲を書き続けた。ピアノ演奏で、奥さんが生活していけるように、だ。戦争さえなければ、アメリカでの貧困生活やその他のあれやこれやもなく、天才音楽家として栄光の人生を歩んだかもしれない作曲家の、最後の仕事だ。
……バルトークの曲を聴いていると、なんちゅうか、私は、彼がヨーロッパとアメリカで見てきたものについて、考えずにはおれなくなるの。
バルトークの曲を通して、私が見るのは……感じるのは、かっての人類が想像さえしえなかった、戦争と発展の20世紀の風景だ。
きりきりとして、シャープで、不協和音だらけの、頭が痛くなる音楽。
(^_^;)
私はね、バルトークは天才であると同時に、すごく武骨なひとだったんだと思ってる。
残される奥さんにピアノ曲を作り、ナチと闘い続けたバルトークの人柄と、彼の曲を重ねて聴くことは、間違っているかもしれない。
でも、私は、考えるのだ。あのとき、戦争がなかったら? ドイツ国民が、ワイマール憲法を凍結しようとしたナチスの動きを、否定していたら?
そして、バルトークが、遠くハンガリーから、ナチスに抗議せず、
媚を売っていたら?
しかし、バルトークの曲に感じるそこはかとした奇妙な悲しみは、自分の運命に対する嘆きなどではない、……と思う。
時代というものに対する、遠く、鋭く、どこまでも見通しの良い、だからこそ不吉な、ひとりの武骨な音楽家の視点だと、私はそういうふうに聴いている。
バルトークは、20世紀を代表する天才音楽家だと思う。
いま、バルトークが生きていたとして、どんな音楽を作っただろうか?
私は、そんな想像もする。
『滅亡する国の不思議な役人』
とか、
『野党と与党のなれあい弦楽四重奏曲』
とか、
『朽ち果てたジャーナリズムと青ひげ公の城』
とか、
『無伴奏ファシズムソナタ』
などを、作ってくれそうな気がする。
優れた作品をうみだすことだろう。
*郵政民営化法案が否決されて*(2005.8.9)
郵政民営化が大差で否決されましたよ。
郵政民営化担当、西岡公也副大臣は、
郵政民営化のあかつきには、郵便貯金をサラ金に回す
なんてことぬかしていたわけだけど、どうよ。
まさしく、危機一髪だよ。
郵政民営化が可決していれば、あーた、郵便貯金資金は、ものの見事にサラ金業者の運用資金になっていたかもしれなかったわけだ。
あぶねえ〜!
ちなみに、この西岡公也副大臣は、サラ金業界の全国貸金業協会連合会というところと仲良しさんでありまして、この会の政治団体などなどに、ウン十万円のパーティ券をもらっているのだとか。
ウン十万円のパーティ券ですか……。
国民も安く買いたたかれたものだよなあ。
ウン十万円のパーティ券とひきかえに、郵政民営化すると、どうなるか? 世界には前例がいっぱいある。みんな、世界の歴史、知っているよね?
え?知らない?
じゃあ、お答えしましょう。
5〜10年の間に、その国の経済は大破綻してジ・エンドなのよ。
♪それがおきまり〜♪(byオーケン)
わかりやすいところでは、チリの歴史ね。
チリのアジェンデ政権をCIAなどなどがクーデターにより転覆、ピノチェト軍事政権が樹立された後のお話。
アジェンデによってオケツをけり飛ばされたアメリカ企業が再びチリに舞い戻ったのと同時に、シカゴから、自由化と民営化のプロ集団がチリにやってきた。いわゆる、「シカゴ学派」の連中である。「シカゴ学派」は、チリのありとあらゆる公社を民営化し・国有資産を企業に売り払った。
通信、鉄道、郵便、その他もろもろ、いっさいがっさい。
もう一度言うよ、
通信、鉄道、郵便、その他もろもろ、いっさいがっさい。
アジェンデが国有化したものをすべて、民間および多国籍企業に売り渡した「シカゴ学派」は、すみやかな繁栄をもたらすことをチリ国民に約束した。
確かに、民営化された当初は、ぜいたく品の流入と、公共事業の乱発により、チリの経済は活気づいたように見えた。しかし、幻想は幻想に過ぎず、バブルはただの泡だ。
あっというまに泡ははじけ、チリの対外債務は、アジェンデ政権時の40億ドルからうなぎ登りに増大し、あっというまに、なんと、
230億ドルに達した!
どっぎゃ〜ん!!
40億マイナス230億で、190億ドルもの損失! チリの経済は、大惨事と呼べるほどの混乱と崩壊を起こした。
そしてとうとう、資本主義システムの守護神を気取った「シカゴ学派」は、上を下へのおもてなしで迎え入れたはずのピノチェトによって、チリから追いだされてしまうのである!
アメリカ合衆国の言いなり(これまたどこかの某国首相とよく似てますな)であったピノチェト将軍も、国の崩壊の前には、決断せざるを得なかったのだ。
じっさい、「シカゴ学派」によるチリの経済大破壊による喪失と社会的犠牲は、戦争の敗戦国並と呼べるほどに甚大で、この徹底した破壊行為を、私は
「チリの奇跡」
と呼ぶ。
(;^_^ A
ここ日本も、おんなじことが起きてる。経済赤字が、どんどんふくらんでおります。失業者も、海にこぼれ落ちんばかりに増大中。で、どうするかというと、さらなる民営化で、郵政民営化?
だはは。
百歩ゆずって、1度目は奇跡でも、
2度目からは人災だぜ。
ピノチェト将軍は、190億ドルもの損失を出したのち、「シカゴ学派」を追い出したが、某国首相のコイズミさんは、それもしない(できない?)。
それどころか、郵政民営化の法案 の内容を、なんと、アメリカ政府の言いなりで作る始末だ。
信じられますか?
いったいぜんたい、どこの国の法案だっての。
もう、こいつら、いいかげん国民をなめすぎなんだよ。
お金持ちがさらにお金持ちになるために、一部の人間が国家を食いモノにする。この資本主義のシステム自体が、そもそも根本から腐ってるつーの!
繰り返すが、チリで起きた社会的大惨事は、日本でも起きる。つーか、もうすでに、起きている。
……。みんな、まじで今度の選挙、考えような。
テレビや新聞は、郵政民営化の問題を、保守党の派閥争いのゲームであるかのように報道している。しかし、モラルの腐りきった連中のパワーゲームごっこなんて知ったことか。誰がひっても、クソはクソだよ。テレビも、クソの話しを長々と放送するくらいなら、チリでの「シカゴ学派」のてんまつの歴史くらい、きちっと報道しなさいよ。
名前ばかりの野党も、知るか。看板だけの野党など、与党よりも始末に悪いぜ。
なにが二大政党じゃ。例によって、国民に対する目くらましだよ。
人間を貨幣の排泄物としか考えない連中は、地獄に落ちろ。
これを読んでいるあなたが、お金持ちだというなら、何も言わんがね。
9月11日、総選挙だ。
☆------
関西人の多くは、高校野球が大好きだ。
夏といえば甲子園、甲子園といえば高校野球だ。
今年の夏の第87会全国高校野球選手権大会は、8月6日に開幕した。
8月6日は、広島に原爆が投下された日だ。今日9日は、世界で2発目の原爆が、長崎で爆発した。
世界最初の原爆が広島で爆発した日から数えて、
60年目の8月6日だ。
そしてその開会式で、広島代表の高陽東高校の選手たちが、
「原爆投下時刻の午前8時15分に合わせて、みんなで黙とうしようよ」
と、他校に呼びかけたのだそうだ。子どもたち自身のアイデアによる、あくまでも自発的な行動だったと聞く。
広島に落とされた原爆による死者の数は、9万人とも、20万人とも言われている。原爆投下のあの日のありさまを、死者の数で推し量ることはけっしてできないけれども、その破壊と殺人の規模は理解することができる。
そしてあのとき、広島の空の下に、死にたいひとなど、誰もいなかった。だからこそ、あの惨劇をけっして忘れない、忘れてはならない、という想いを、高陽東高校の選手たちは、行動で示そうとしたのだね。
えらいなあ、若いのに。
ところが、
高校野球連盟は急遽、黙とうを止めるように指示した。
高陽東高校の選手たちが、高陽東高校野球部の内側でのみ黙とうするのはかまわない、だけれども、よその学校を誘うべからず、ということらしい。
どして?
黙とうは、室内練習場で行われることになっていた。室内練習場で、バッティング練習をしようが、ストレッチをしようが、イメージトレーニングしようが、黙とうしようが、
誰が止められるよ。ええ?おい?
高野連は、
「15日正午(終戦記念日)に公式行事として黙とうしている。長崎市からは以前から9日(原爆投下の日ね)も黙とうしてほしいと要請されているが、理解してもらっている」
と発言。
あのな。
「9日も黙とうしてほしい」と、長崎市が「以前」「から」言っているということは、「理解してもらって」ない、つうことじゃないの? 理解してたら、2度と言わないでしょ? 以前から何度も何度もお願いしたりしないでしょ?
しかも高校生たちは、公式行事として、やらされて黙とうしようとしてるんじゃない。自分たちが、自分たちの意志で、黙とうしたいと言ってるわけですよ。室内練習場で。それを止めれるのは、いったい何様なんだよ?
例えば私が、友だちと一緒に黙とうしようとしたとして、誰がなんの権限でそれを止めるわけ?
高陽東高校の選手たちが、どうして、他校の選手たちに黙とうを呼びかけなくてはならなかったのかを、大人のひとたちには、よおく、考えてもらいたい。
高陽東高校の選手たちは、彼らが心に抱いているある想いを、同じ野球プレイする仲間たちと、できうるかぎり共有しあいたかったのだと思う。
その想いとは、言葉にすれば、きっと、
「いかなるひとの死もわれを傷つける。
われもまた
人類の一員なれば。」
となるはずじゃよ。
ジョン=ダンの詩の一節だ。
高野連のおえらさんは、ジョン=ダンの詩くらい、読んでおきなさい。
一部の報道によると、高野連のおえらいさんは
「原爆は広島だけのこと。みんなを巻き込むのはよくない」
と言ったとか言わなかったとか。
(´▽`;) カ〜ッ……
高校生たちよ。くじけるな。
けっして、大人になるな。
君たちは、君たちの新しい社会を、作っていけ。
*『おおきく振りかぶって』4巻の感想文*(2005.8.5)
漫画家ひぐちアサせんせの最新刊
『おおきく振りかぶって』4巻
を購入。
『おおきく振りかぶって』は高校野球漫画だ。
創部したばかりの硬式野球部が、物語の舞台だ。
主人公は投手の三橋。この三橋とバッテリーを組むのが、捕手の阿部だ。野球チームにおいて、ドはずれて重要なポジションに配置されたふたりの少年が、物語の中核部分をなす、いわゆる主役となる。ピッチャー、そしてキャッチャーというふたつのポジションが、野球というゲームを組み立てていく。ゲームを組み立てるとは、相手側よりもこちらがわにとって試合を有利に進めていくというような意味あいだ。ピッチャーの投球内容が良ければ良いほど、こちらがわにとって、有利だ。どちらのチームの投手も素晴らしい投球を繰り広げたとしたら、試合は膠着し、互角の内容でゲームは進行していく。
つまり、投手の出来不出来は、チームの勝敗、ゲームの内容を左右するもっとも大きな要素であり、その投手の出来不出来を左右するもっとも大きな要素が、捕手というポジションだ。
三橋と阿部というふたりの少年が、真剣に野球をし、野球に青春を捧げ、試合に勝利することを望むのなら、
三橋は阿部の野球を左右していかなくてはいけないし、
阿部はそれ以上に、三橋を左右し、三橋の人生全体に対して、強い影響力を発揮しなくてはいけない。
野球におけるいわゆるバッテリーが、おうおうにして夫婦関係になぞらえられるように(例・捕手→女房役。)、三橋と阿部もまた、対人関係のもっともクリエイティブな部分と、避けがたいめんどうくささと、さまざまな葛藤に直面する。さまざまな葛藤という、対人関係の局面、局面を体験し、それを情報として積み重ねながら、人が人であることのだいごみに、彼らは触れていく。
このふたりに続く形で、4番バッターの田嶋、キャプテンの花井、監督のモモカンといった、いわゆる主要キャラクターが関わり合って、より複雑な関係を構築していく。
対人関係の網の目の中で、真剣に野球に取り組み、試合となれば一丸となって勝利を目指す。朝から晩まで野球漬けという彼らの日々を、対人関係の局面、局面の積み重ねとしてひぐちアサせんせは、丹念に描いていく。
う〜ん、ゾクゾクッ
(↑モモカンの恍惚)
ひぐちアサせんせの作品の魅力、そして特徴は、“人間とは関係のなかにしか存在しない”、という鋭い洞察にあって、シーンにおける関係と理解の積み重ねは、人間存在がいかに多面的であるかを読者である私に教えてくれる。
ひぐちアサせんせにとっては、人間は、さまざまな“面”で構成されているのだろう。
さまざまな“面”で構成された人間は、個々の局面のなかに存在している。局面とは、場面、物語のシーンのことだ。
三橋と阿部のバッテリーを中心にして、野球部員たちの互いの内部に、さまざまな場面が情報として集積されていく。
野球というスポーツは、スターティングメンバーだけで、1チーム9名の人員を必要とする。三橋たちが主要キャラクターだとすれば、泉、沖、栄口、といったメンバーが……何と言ったら良いのか……、主要でないキャラクターとして存在する。彼らは、作品の本質や物語の進行に根本的な部分では関わらないけれども、野球部が野球部として機能するためには、登場してもらわないといけないひとびとだ。
このメンバーに加えて、ライバルとなる相手チームのメンバーが登場し、物語が進行していく。
物語は、西浦高校・硬式野球部創部初日から始まって、単行本4巻現在では夏の大会の抽選会が行われている。
夏の大会の抽選会は6月に行われる。つまり、野球部員たちが、野球部始動の初日に初めて顔をあわせてから約2ヶ月が経過した。
さまざまな場面をくぐり抜けながら、徐々に、チームはチームとしての体をなしていく。
仲良しグループが自然といくつかずつ形成され、日常のなれあいから、個々人の地の部分が見え始める。
物語上ではけっして主要人物とは呼べなくても、泉も沖も栄口も、多面的で奥深いひとりの人間だ。だから、チーム結成から2ヶ月を経て、物語とはなれたところで、彼らは彼らの顔を見せ始める。
主人公の三橋でもない、捕手の阿部でも、4番の田嶋でもない。それを言うなら、世界中の誰でもない。栄口はどこまでも、あくまでも、栄口だ。
完ぺきなまでに、栄口だ。
泉や沖や栄口といったわき役グループ……ひとによってはその他大勢というふうに描き出すことも可能なグループ……のキャラクターを描くときに、ひぐちアサせんせは、物語的なエピソードの上にまったく乗せない。チーム結成2ヶ月も経てば、自然と仲良しグループがいくつかずつ形成されていくように、気がつけば、沖は沖特有の気遣いをチームメイトにみせるし、栄口は栄口のひとなつっこい笑顔を頻繁に見せるようになっていた。
私にとって、第4巻の最大の見どころは、この部分だった。
あまり知られていない事実であるが、実は、
物語は、ファシズムだ。
登場人物たちは、物語に完全に統治されなくてはならないし、物語に絶対に服従しなくてはならない。
絶対に。
それは、『おおきく振りかぶって』の三橋も、阿部も、モモカンも、沖も泉も栄口も、みなそうだ。
例えば、栄口と三橋が、抽選会場で緊張のあまり便意をもよおす場面は、彼らが、ライバルチームの投手とトイレで鉢合せするという、物語進行上の事情によるものだ。
だけども、いっぽうで、物語がどうあろうとも三橋は三橋だし、栄口は栄口だ。物語ファシズムが何を要求しようとも、物語の必要を超えて、ハッとするほど豊かに、きらきらと輝くのは、彼らの反応そのものであり、
その反応を支える土台としての、シーンだ。
何度も繰り返すが、栄口は栄口だ。
栄口が栄口であること。
あなたがあなたであること。
私らしくだの、自分らしさだの、個性の尊重だのと、誰もが気軽に言うけれども、あなたがあなたであることのユニークさや偉大さを、本当に理解している人間など、どれほどいるだろう。
栄口は、その存在を、ひぐちアサせんせから全肯定されている。
登場人物に対する作者からの絶対的な肯定の姿勢は、ある種の気分として作品全体にいきわたる。その全面的な肯定の気分に、あえて名前をつけるとすればそれは、
「勇気」
というような言葉になるはずだ。
全面的に自身であることを許された架空の登場人物たちは、少なくともその場面場面において自由になっていく。
彼らはもはや、物語という冷酷なファシストの奴隷ではない。
「彼」は、偉大なひとりきりの、自由な「彼」なのだ。
もちろん、いまの私たちの知っている「自由」とは、すべての人間的価値を貨幣の排泄物とみなしつつ、人間が人間をドライブし、利用し、一方が他方を消費するという一連の社会的動作を指す言葉にすぎない。だけども、「自由」という言葉の建設的な側面に想いを馳せるならば、ひぐちアサせんせの作品もふまえつつ、「自由」という言葉の用法について、もう一度、考え直さなくてはならないだろう、……というのは余談だ。
ひぐち作品を満たしている気分としての肯定は、センセの別の作品、『家族のそれから』や、極めて重たい『ヤサシイワタシ』などにも共通する。『ヤサシイワタシ』という作品の中で、たとえあなたがあなた自身を否定したとしても、その否定を乗り越えて、ひぐちアサせんせはすべてを肯定する。
肯定は、勇気だ。
気合いだ。
そして、理解だ。
その勇気、気合い、
理解の光が、もっとも本質的な部分で、登場人物たちを自由にしていく。
阿部が、捕手としての才能を発揮すればするほど、当然、彼の捕手としての価値は高まっていく。阿部は急速に、三橋にとって代替不可能な、かけがえのない存在になっていく。
もちろん三橋もまた、阿部のリードに応じられる数少ない投手として、捕手・阿部にとって代替不可能な存在となっていく。
物語の冒頭ではなかなか心を開こうとしなかった三橋は、いちど信頼するとなれば、投手としての自分の何もかもを、阿部にゆだねてしまう。
無邪気とも言えるようなやりかたで。
三橋にとってのかけがえのないワタシ、という立場の重さを、阿部が正面から受け止めようとしたとき、彼らの自由への道程がはじまっている。
*パソコンの授業*(2005.8.3)
外崎則夫氏のサイト
『N.TONOSAKI's
Personal Station』
の大人気コラム
『がんばれ!!ゲイツくん』
最新号がアップされておりました。
最近の学校では、パソコンの授業というものがあるのだそうだ。
もちろん、ここで言うパソコンとは、運動図のことだ。
運動図上で、例のビジネスソフト「事務所」を操作してみる、というようなことを、授業として行っているらしい。
『がんばれ!!ゲイツ君』で報告されているのは、高校の授業についてであったけれども、うちの近所の散髪屋さんのお子さん(小学生)も、運動図を使ってワープロソフトを触ってみたり、ファイルを保存してみたり、というようなことを「習って」いるようだ。
小学生に運動図を触らせるなどとは、
ほとんど児童虐待
だと、かなり本気で思ったりもするわけだが、どうだろう。
(;^_^ A
まア、運動図がパーソナルコンピューターと呼ぶに値するかどうかという議論はひとまず置いておいて、その運動図を使って、ひととおりのことを子どもたちにやらせてみる、そのような授業に、内容的な価値があるとは、私にはとうてい思えない。
OSやソフトの操作方法を小学生におぼえさせたところで、彼らが大人になったころには、
操作体系が大幅に変更されているはずだからだ。
バージョンアップされ、格段に便利になったOSやソフトが市場に投入され続ける。ハードウエアもレガシーフリーの名のもとに、より高機能なものへと淘汰されていく。我が家のスーパーディスク(容量大きめのフロッピー)は、メディアが販売してなくてただの箱、ピン数とオスメスでいつも頭を悩ませていたスカジー機器は動かないまま、ADBポートはUSBにすっかりとってかわられた。
わずか数年でこのありさまですよ。
DVDはブルーレイになるとか。互換性「レイ(零)」で、心はブルーというやつですか。
(;^-^ゞ
大量生産のシステムを維持するために、私たちはありとあらゆるものを使い捨てる。新型のOSで動かないソフト、開かないファイルは、うしろに置き去りにするしかない。
「もっとOSとは何かとか、コンピュータの歴史とか、プログラミング言語とはとか、そういった学術的な教育をするのならまだ意味があるはずなのですが」
とN.TONOSAKIさまは、コラムで書いてらっしゃった。
私もそう思う。
ただ、コンピューターの歴史について、きっちり語れるひとがどれほどいるだろうか。プログラミング言語を子どもたちに教育するとなると、さらに人材は限られてくる。
教えることもない(つーか、何を教えていいかわかんない)し、教える人材にも乏しい、というのが実情だろう。教室で運動図を起動して、それからあとは、お茶を濁して終わり。
ここまで書いて、つくづく思うのだが、学校教育って、なんナンダ?
未来の日本社会を支えていく人材育成のための機関、という言いかたが、国家の側から見た学校教育ということになるはずだ。
日の丸掲揚、国歌斉唱、というようなことにばかりやたら熱心で、高い次元で社会に貢献できる人材の育成については、おざなり、というか、ほとんど
不まじめ
と言われても、いたしかたない状況だろう。
N.TONOSAKIさまは、こう続けていらっしゃる。
「ただでさえ土曜が休みになって授業の数が少なくなっているというのに、こんな馬鹿なことやっているのだとますます学校教育も廃れるでしょうね。全く学校教育ってなんでこう悪い方にしか向かないんでしょうか。まぁコイズミ君やイシハラ君みたいな人間が頭張ってたら仕方が無いかもしれませんが(^^;」
(^_^;)
(^_^;)(^_^;)(^_^;)(^_^;)(^_^;)
完全同意。
話は突然変わるけど、こういう記事を見つけた。
「女性が一生に産む子どもの数である合計特殊出生率を都道府県にみると、女性が働く割合が高いほど、男性の長時間労働の割合が低いほど、出生率も高くなる傾向にある」(nikkansports.com)
女性の皆さん。
この記事、よおく読んでおいてくださいよ。
そして、
「少子化は、女性が大学行ってお勉強したりして、あげくに、社会に出て仕事したりするのが原因だ!」
などと抜かす知識人や政治家たちに、この記事を突きつけて
盛大にブーイングしてください。
(*`ε´*)ブー、ブー。
おんどれらの主張と、結果、正反対やちゅうねん。
「コイズミ君やイシハラ君みたいな人間が頭張ってたら」、「悪い方にしか向かない」つーこってす。
今度、投票、考えような。
*『ムー』9月号にご紹介していただくことに*(2005.7.30)
遊絲社からのちょっと耳寄り情報。
さておたちあい。
みなさまご存じかと思いますが、学研発行の月刊雑誌に、
『ムー』
という老舗雑誌があります。
内容は、オカルト系というか、精神世界系というか、神秘&ロマン系というか、“そっち”系であります。
で、お知らせなのですが、この月刊雑誌『ムー』9月号に、弊社刊行の
『イワクラ 〜巨石の声を聞け〜』(イワクラ〈磐座〉学会・編著)
を紹介していただくことになりました。
書評が載っかるのだそうですが、内容はまだ私も読んでおりません。
老舗雑誌が、どのような判断をくだされるのか、ちょっぴりわくわく、多いにドキドキでございます。
(;^-^ゞ
本のプレゼント企画にもいっちょかませていただきまして、『イワクラ〜巨石の声を聞け〜』を5冊、プレゼントさせていただく予定です。
さあ、みなさん。ふるってご応募くださいませ。
『ムー』9月号は、8月9日発売予定だそうです。
★★★〜♪
さて。
などと言いつつ、私はCDを1枚購入。
♪ジャジャジャジャーン♪ ではじまる、あのけったいな曲、ベートーベン交響曲第5番『運命』交響曲のCDを、また一枚ふやしたのだ。
新しく我が家にやってきたのは、テンシュテット指揮の『運命』だ。
おんなじ曲のCDを、何枚も何枚も購入するなんて、馬鹿じゃないか、と思うひともいるかもしれない。
かく言う私自身が、けっこうそんなふうに思っていたりする。
(;^-^ゞ
『運命』は、『運命』だっつーの!
五線譜の上を同じおたまじゃくしが泳いでいるんだから、どのCDをとりだしてみたところで、当然いつ聴いても、どこで聴いても、誰の演奏でも、どの録音でも、やはり同じものは同じなのだ。
ワルターの演奏で聴こうが、カラヤンの演奏で聴こうが、トスカニーニの演奏で聴こうが、ベートーベン交響曲第5番『運命』はみな、♪ジャジャジャジャーン♪ からはじまることになっている。指揮者が違うからと言って、曲が変わるわけではない。
……変わるわけではないのだが、同じでもない……。
ここが、なんともやっかいで、いつしか同曲異演CDが増えていくのである。
このたび購入したテンシュテット指揮のベートーベン交響曲第5番は、ライブ録音。まずは小手調べに、ウェーバーの『オベロン序曲』からはじまる。
さあさあ、この『オベロン序曲』を、ジョージ=セル指揮のものと比べてみてくれたまえ。まったくぜんぜん違う曲に聞こえてくるほどに、違ってる。おもしろいなあ。
『オベロン序曲』が終わると、ようやく『運命』だ。
予想したとおり、正面からぶちかましてくるド迫力演奏だ。
じゃじゃっじゃじゃ〜ん!
一気の寄り身の体勢である。ずい、ずい、と、押し出していく。
横綱相撲ならぬ、横綱演奏という塩梅だ。
第1楽章がおわったとき、観客がひとりだけ拍手してしまう。
「パチ!パチ……」
ハッ (;ーー)ノノ
あわわわわ、やっちゃった。
思わず拍手してしまうほどに素晴らしい演奏だったのだ、というふうにも言える……かもしれない。
いや、確かにすばらしい演奏だった。
怒濤の演奏でありながら、ところどころ、妙にしみじみとしていたりしてな。
確かにベートーベンは超人で、意思力のお化けで、これ以上ないくらいにマッチョだ。彼の作った音楽を聴いていると、ときどきなんだか、寺沢武一センセのスペースオペラ漫画、
『コブラ』
読んでいるような気分になってくるときがある。
f(^^;)
ほら、防弾ガラスを素手でたたき割ったりする、あーゆー感じ。
マッチョ精神力で、
光線銃の軌道を曲げたり!
映画で言えば、『ランボー・怒りのアフガン』……はちょっと違う。
(^_^;)
そんなベートーベンさんも、1年に2分間くらいは、しみじみすることがあったかもしれん。そういう演奏だ。
……ごめん、とことん話がそれた。
音楽のことはなんもわからないので、印象を印象のままに、書きなぐりました。
すみません。
*支払うことが人生なのだと、私たちは知っている*(2005.7.26)
今月22日発売の『ビッグコミック・スぺリオール』8月12号を購入。西原理恵子センセの漫画を読むためだ。
漫画家・西原理恵子センセの大ファンのお友だちが東京にいて(←おまえなんか友だちじゃないって言われたらどうしよう)、そのお友だちに、今号に掲載されている西原マンガが面白いよ!とお勧めしてもらったのだ。
掲載されていたのは、『うつくしいのはら』というタイトルの、全12ページの短い読み切りだ。『[PLUTO]によせて』というサブタイトルがついている。
西原理恵子センセから何事かをよせられる『PLUTO』とは、なになのか?
『PLUTO』は、手塚治虫文化賞・漫画大賞を受賞した浦沢直樹センセの長編漫画のタイトルだ。大賞が『PLUTO』ならば、その手塚治虫文化賞の短編部門を、西原理恵子センセの『上京物語』と『毎日かあさん』が受賞した。
そしてこの『PLUTO』と『上京物語』が、おなじ出版社さんから発行されている関係から、一種の受賞記念として何か作品を作れないかということになった、らしい。
ことは手塚治虫文化賞受賞、という出来事の派生企画なのだから、
「西原理恵子センセが、『PLUTO』という作品を読んで受けた感銘、影響、ひらめき、疑問、インスパイアなどなどを柱にして作品を何かひとつ」
というような結論に、最終的にはなった……らしい。
そうやって作成されたのが、『うつくしいのはら』ということになるのだろう。
……という裏事情は、漫画界の時流をよく知っていないと、なんのことだかさっぱりわからない。
“漫画読みの現役”でいるのも、最近なかなか苦しくなってきた。
(;^_^ A
『うつくしいのはら』という作品自体は、浦沢直樹センセの『PLUTO』という作品をまったく読んだことがなくても、なんの問題もなく読みこなすことができるようになっている。
つーか、『PLUTO』という作品と『うつくしいのはら』との共通項がなんなのか、他者である読者にはまったくうかがい知ることができないような作品になっている。インスパイア、という言葉のもっとも奥深いところで結びあっている、ということではあるだろう。すべては、西原理恵子センセの脳内でのあれやこれやの現象であり、また、それでじゅうぶんなのだ、という判断だ。私自身は、ひとの頭の中身ほど面白いものはないと考えている人間なので、じゅうぶんどころか、満足である。
……とまあ、『ビッグコミック・スペリオール』を読んでいないひとや『PLUTO』を知らないひとには、ピンともこないお話をとうとうと続けているわけだが、単行本にすらなっていない作品の“スジ”をばらすのはルール違反だから避けるとして、さて、感想をどのように書くべきか。
乱暴きわまりないと批判を受ける覚悟で、この作品をひとことに要約するとすれば、それは
「人間存在、そして人類の未来は、教育にかかっている」
ということになるのではないか。
我々は日々、教育されて生きている。親に教育され、教師に教育され、友だちに感化されて成長し、大人になれば、テレビや新聞やラジオやインターネットを通じて、たえず社会から教育されている。
そして、現在の社会教育のありかたの“キモ”の部分を、単純化して言い切るとすれば、「人間とは消費者」のことであり、「文化とは大量消費のシステム」なのだ、となるはずだ。
親、教師、親戚、友人、恋人、隣人、そして社会から、一種の空気として、私たちはそう教えられて現実社会を知る。“これ”が現実だ。そして私たちは、そうした社会のシステムを維持するために、社会のいち構成員として立派に機能してみせる。
日常生活の土台としての共同体内部で、どこまでも効率良く、すっきりとした消費者であるために、ひとつの単純な法則が働いている。つまり、
「誰が儲けて」「誰が支払っているのか」
『うつくしいのはら』というまんが作品は、「支払う」側のひとびとの物語である。
彼らは実に多くのものを支払っている。彼らは、その存在すらほとんど無価値だと評価されているから、その支払いは、おうおうにして自身の命であったりする。命で支払っても、貨幣化すれば値もつかないような存在だというのだから、彼らの生も死もそこで流れた時間も、見るひとが見れば、はじめから存在しなかったに等しい。
そうやって徹底的に買いたたかれた彼らの支払いは、あるところへと流れていく。つまり、この短い物語の外側には、ばく大な利益を得ている誰かがいる、ということになる。
それは、支配階級と労働者階級の対立というようなものではなくて、社会を動かしているシステムそのものだ。支払う側も、儲ける側も、どちらもが単なるシステムのピースであり、誰もが、のっぺらぼうの顔なしだ。
私たちは、
“支払うことそのものが現実であり、宇宙の普遍の法則”
なのだと、社会に徹底的に教育されているが、支払先については、システムはけっして語ろうとしない。それは、この教育システムの全体が、単純だが大掛かりな、ひとつの詐欺システムだからだ。
しかし、支払うことが人生であり、現実なのだと、私たちは“知っている”。だから私たちは、支払うために支払ってきたし、これからもそうするだろう。その見返りに、システムはあなたに消費者の権利を与える。
「お客様は神様です!」
というわけだ。
お客様でいるときのあなたは、神様に等しい存在だ。
あなたは、消費者としてのちっぽけでくだらない権力を振りかざし、恍惚となる。
店員の対応が悪い、電車が遅れた、営業マンがうざったい、etc.etc.。そのたびに、あなたは消費者の権利を行使し、店長に文句を言い、駅員に詰め寄り、営業マンをこづく。
これが私たちの知っている、「人権」だ。
人間と消費者とがイコールなのだとすれば、対人関係とは、人間が人間を利用することでしかない。
そして、私たちの人権が「人間が人間を利用する自由」でしかないのであれば、人権は社会の病根であり、価値社会においての腐敗物でしかないことになるのだから、市民の権利を制限してしまえ、という意見が出てくることになる。
彼らは単なる馬鹿
なのかもしれないし、新たな詐欺行為をたくらんでいるのかもしれない。雀の涙ほどの市民の権利すら、私たちは、誰かに支払うべきだというのだ! システムの要請によって、私たちは支払う。では、その支払いは、誰に向かって、なんのために? この部分にビニールシートをかぶせたままで、権利だけを手放しても、システムの構造は何も変わらない。正直、事態はより深刻かつ、しっちゃかめっちゃかになるだろう。
なんにせよ、私たちは、この問題だらけのシステムを擁護までして、消費者でいたいのだ。それはそうだ、気持ちは痛いほどわかる。消費者でなくなった瞬間、あなたは周囲から人間と認められなくなってしまう。
社会から人間として扱われない悲しみ。
浮浪者は、とうぜん消費者ではない。貨幣経済社会の作り出した新しい階級の、彼らは最底辺層として、社会からそれなりにあつかわれる。彼らは、いわゆる私財というものを持たない。私たちの社会では、それでも、何かを支払わなくてはならないことになっている。だから、子どもたちは社会にたっぷりしつけられて、
浮浪者狩りにいそしむのである。
暴行を受けた浮浪者は、退屈していたりムシャクシャしている子どもたちに、暴行を受けるという“支払い”をすませるのだ。
なんてしつけのいきとどいた、ヨイコたちなのでしょう!
……。私たちが子どもたちをそう教育したのだから、私たちは、子どもたちを制御することができない。だから、子どもたち&国民をそのようにしつけておいて、今度は権利を制限してしまおうとする。
面白いね。
しかし、だ。市民の権利をただ制限しても、その権利の預け先が「公共」でないのなら、結局、誰かがさらに「儲ける」だけのことだ。
例えば、ある判断のもとに遂行された戦争行為は、もしかしたら企業を儲けさせ、国家をより強力にするかもしれない。しかし、戦争の実行は、国家や政府や企業といった存在よりも大きな「公共」の利益に明らかに反し、人類共同体に破壊的であるという発想から、日本国憲法は、政府の戦争行為を全面的に禁じているのである。
それは、他国に戦争をしかけるという日本国民の権利を、国民ひとりひとりが放棄し、その権利・力を「公共」に預けることにした結果だ。
クサイ言い方をすれば、「公共」とは、「愛」のことだ。私たちは「愛」にのみ、私たち自身を預ける。
「公共」という概念をより浸透させ、具体化し、手触りのあるものにすること。それは、教育によって行われる。権利の預け先は、ヒトラーでもスターリンでもポルポトでもお釈迦様であってもいけない
。
そう私は思っている。
なぜなら、詐欺師の天分さえあれば、指導者になれるのだから。復活したキリストが、実は単なるカタリ屋だったら? 本物か偽物か、論理的に証明する方法はない。
私たちが必要としているのは、
指導者ではなく、高い次元での公共の概念だ。
さまざまな残忍さと破壊行為をこれ以上ないところまで積み上げたのちに起きる、突然の大崩壊と破滅、という未来像は、極めて高い説得力と信ぴょう性があるはずだ。私たちは、やがておとずれる大崩壊を回避しなくてはいけない。
母国語の習得やトイレのしつけ、対人コミニュケーション、日常生活におけるさまざまな技能、細分化された職業に対応するための職能、哲学や文化人類学といった専門レベルまで、私たちの言ういわゆる人間性とは、
教育と環境の影響による後天的なものだ。
教育をいっさい受けていない人間というものがいるとして、そのひとは言葉もしゃべれないし、そもそも自分が人間であるということすら認識できないだろう。
ジッサイのところ、人間はひとつの巨大なクエスチョンマークだ。(「?」←こういうマーク)。アリンコは産まれて死ぬまでアリンコで、犬も猫もそうで、彼らはアリンコ、犬、猫というプログラミングから一歩たりとも逸脱することはできない。……まあ犬や猫くらいになると、個別の性格というものがあるにはあるが、それでも、ひとの多様さやユニークさの足元にも及ばない。
教育が人間を作る。
犬は犬でしかなくても、人間はヒトラーだったり、老子さまだったりする。
子どもたちは毎日学校にかよって、字を習う。
なんのためか?
『うつくしいのはら』に出てくる子どもたちは、さまざまな答えを言う。
「字が読めたら 世の中がわかる」
「商売ができる」
「ごはんが買える」
「かぞくがいっしょにいられる」
「私は字をおぼえて、 たくさんおぼえて、 もらわない にんげんになるんだ。」
もちろん、もらわない人間になることなどできはしない。だいいち、世界がもらわない人間だらけになれば、
子ども産まれへんちゅうねん。
ん?
……ねえ?
f(^^;)
もちろん、西原理恵子センセはぜんぶわかって描いてらっしゃる(ハズ)。漫画の中のこの子の言いたいことも、私はわかる(気がスル)。
この子は、もらわない人間になりたかったんじゃないんだと思う。
与えるワタシになりたかったんだ
と思う。
みんな、そうよ。
世界中でバイアグラが売れるのでも、わかるよね。
f(^^;)
話をあらぬ方向に脱線させるのが私の悪いところ。自分で自分をまぜっかえしてるよ。
……ネタばれ厳禁ということで、ラストシーンについては何も語らずにおこう。
ただ、もういちど、たずねよう。
……何度でも、たずねよう。
子どもたちは毎日学校にかよって、字を習う。
なんのためか?
*擬人化された米国政府が中毒症状を訴え来日*(2005.7.22)
ネットで、このような記事を見つけた。(←朝日新聞さんのサイトにリンクした途端に記事を削除されてしまったので、中日新聞さんの名古屋での講演のほうの記事にリンクします)。
擬人化されたアメリカ合衆国が、日本で記者会見をしたというのだ。
米国オハイオ大学名誉教授のチャールズ=オーバービーさんが、アメリカ政府を演じている。
実は、この記者会見自体が、一種のロールプレイだ。
ちなみにロールプレイとは、なりきりと演技、ドラマ的な技巧を使ったセラピーのことだ(と思うけど、間違っていたらごめん)。
擬人化されたアメリカ政府の立場やその人物像、価値観や目的、といったものを、演技によって実体験し、理解し、必要なら
治療を施そう
というわけだ。
オーバービー名誉教授が演じるアメリカ政府は、こう訴えた。
「私の戦争中毒を憲法九条で治してください」
アメリカ政府は、建国以来今日まで、絶えずどこかの国に介入し、また戦争を仕掛けてきた。国民はそうした状況に感覚が麻痺し、戦争行為による外交を当たり前のことだと思ってしまっている、と、擬人化されたアメリカ政府は言うのだ。
アメリカ政府の外交政策、という視点にたてば、戦争行為にもそれなり以上の価値はあるだろう。だが、人類・地球・宇宙といったようなよりグローバルな視点にたてば、問題解決の手段としては戦争はあまりにも破壊的であり、払う代償が大きすぎる。つまり、戦争という毒素に中毒症状を示しているアメリカ政府の現状は、人類全体にとってはけっして好もしい反応と呼べないわけだ。
アメリカ政府をいち個人の人体になぞらえれば、彼はかなり深刻な疾患を内部に抱えている。病名は、
戦争をとりこみすぎたことによる慢性中毒状態
という診断結果を、半分冗談めかしつつ、下してみる。
アメリカ政府が、いつもどこかの政府に軍事的に介入したり、戦争してきたことを、皮肉を込める意味で一種の中毒状態というふうに眺めてみたとき、擬人化されたアメリカ合衆国の、人体の部位で言えば主に脳の部分が、もっとも深刻な病魔に冒されている患部として、クローズアップされてくる。
慢性的な戦争状態という事態を強く望み、地球のどこかで実現し続けているのが、擬人化されたアメリカ合衆国の頭の部分だ。現在のアメリカ合衆国においては、ジョージ=ブッシュたち政府首脳と、彼らを動かしている企業が、アメリカ合衆国の頭を形成している。
麻薬中毒者が麻薬物質を求めるように、アメリカ合衆国も戦争状態を希求する。……実際には、戦争状態がひきおこす様々な次元での社会的混乱と、そうした状況がもたらすばく大な利益、を、アメリカの脳の部分は求めている。
利益を得るのは、あくまでも首から上の部位のみだ。たいていの薬物中毒者(戦争は薬物じゃないけれど)と同じように、戦争の摂取は国の首からしたの部分を破壊し、もしくは著しく弱体化させる。身体は痩せ衰え、骨すらスカスカになり、他者にはとうてい理解しがたい被害妄想に駆られて行動するようになる。
そうか、これがアメリカンジョークというやつか。
麻薬中毒者の脳が、麻薬を摂取することによって自らの内部に起こるさまざまな科学作用を楽しもうとするとき、その他の臓器、そして最終的には脳自身が受ける決定的なダメージは、無視される。破滅が待っているにもかかわらず、そのひとの脳は、どこまでも薬物を取り込もうとするだろう。しかも、実際の個人とはちがって、アメリカ合衆国の頭は、4年交代で別の脳みそと取り変わることになっており、そのとき、アメリカ合衆国全体が再起不能の状態に陥っていたとしても、引退する脳にとっては知ったことではないのだ。
アメリカ合衆国の脳みそは、アメリカ合衆国の脳以外の臓器、骨、筋肉、流れる血液その他を見殺しにすることで、戦争し続ける。
オーバービー名誉教授が演じるアメリカ政府は、そうした中毒症状をはっきり自覚し、その中毒状態から脱したいと感じている。
アメリカ合衆国の頭だけを取りだしてみれば、戦争を遂行することによって彼らの得る利益、権力は、これは絶大なものだ。他の内臓、例えば福祉や治安、教育といった部位は、戦争が吐き出す猛毒によってすっかり荒れ果て、ほとんど機能不全を起こしているのだが、アメリカ合衆国の脳は、戦争の摂取をやめるどころか、今まで以上におおっぴらに、そして大量に、戦争を体内に取り込もうとしている。
戦争行為はあくまでも外交のいち手段なのであるから、アメリカ政府の戦争中毒状態は、アメリカとその周囲の国々が参加している
国際社会の秩序をメチャクチャに破壊した。
国際社会が実質上の無秩序状態に陥った現状をふまえて、例えば日本のような国が、新たな戦争中毒者予備軍として、そわそわと都会の裏道をさまよっている。
国連もまた、アメリカ政府とその忠犬である日本によって、内側から破壊された。
アメリカ政府の内部で毒素をまきちらしている戦争という名の中毒生体を撃滅し、毒素を中和するための根治薬品が、日本国憲法の第九条だ、と、オーバービー名誉教授は言う。
日本国政府が今まさに葬り去ろうとしている日本国憲法の第九条は、戦争中毒の解毒剤だというのだ。
日本国憲法の第九条があるかぎり、日本国政府は外交手段としての戦争を始めることが出来ない。
ということは、だ。アメリカ合衆国の憲法に、日本国憲法の第九条と同じ内容の一文を書き加えれば、アメリカ合衆国も戦争を続行することは出来なくなるはずだ。
実際のことろ、日本国憲法が施行されてから今日まで、日本国民はただの一度も戦争を体験していない。
日本政府は、出来うるならば、朝鮮戦争に参加したかった。ベトナムには、はっきり行きたかった。イラクには、自国の憲法を内部からなし崩しにしてしまうことで、軍隊を派遣するところまでようやくこぎ着けた。
しかし、かわいそうな日本政府は、アメリカ政府とちがって、肝心の戦争ができないのである。
憲法の九条が光を放つと、黒づくめのいでたちの戦争中毒者は、太陽光線を浴びた吸血鬼のように、
「ぐえええ〜!」
と悶絶しつつ退散するしかないのだ。
戦争中毒の特効薬!
日本国憲法は気前よく、アメリカ合衆国に輸出すればいい。減るものではけっしてないのだから。
ひとつの国が、徐々に健康になっていくさまを見るのは、なんと素敵なことであろうか。
うーん、さわやか。
私は、ジョークを解する人間だ。
世界中の殺人兵器をケツからひり出す下剤としての効能を、私は日本国憲法に見いだしているのだ。
「私たちは子どもだった。でも、もう大人で、いまは戦争しなくてもやっていける」
*自由と民主と申します*(2005.7.21)
私は、Jリーグ(サッカーのプロリーグ)はジェフ市原・千葉というチームを応援している。応援しているといってもスタジアムに出かけるわけでもないし、テレビ観戦すらほとんどしていないのだが、それでも試合のたびに、気にかけてはいる。
チームを率いる、オシム監督のファンなのだ。
私は、オシム監督の攻撃サッカーが大好きだし、試合後の彼のコメントを聞くのがまた大好きだ。
先日の試合のあと、オシム監督はこう切り出している。
「サッカーというものは戦いではない。」
「戦いじゃなきゃ、いったいなんなんだ」
などと言うひとたちに、どれだけ言葉を連ねてみても、オシム監督の真意はわからない。わからない者に、言葉を連ねてみても、しかたがない。むなしいばかりだろう。
額縁にいれて飾っておきたいような見事な言葉だ、と、私個人は思う。
オシム監督の
「サッカーというものは戦いではない。」
という言葉のすぐあとには、
「戦っている間は、きれいなサッカーはできない。」
という言葉が続く。
私たちは、積極的にオシム監督の言わんとするところを理解しようと努めなくてはいけない。わからない者たちに、彼は、優しく説明はしてくれない。
わかりやすさというものがもつ、ある種のうすっぺらさ、いかがわしさ以上の質を、オシム監督は、自分の言動や自分の指導するチームに求めているのだと、私は理解して彼のインタビュー記事を読む。
わかりやすさの話で、ふと思い出したお話。
『ナニワ金融道』でおなじみの故・青木雄二センセが、仕事場でバリバリと漫画を描いていたときのこと。
コーヒーブレイク中のアシスタントとの雑談で、
「近々行われる選挙では、どの政党に投票するか」
という話になったのだそうだ。
漫画家を目指して修業中のアシスタントは、
「自由民主党」
だと答えたのだそうだ。
アシスタントいわく、
「自由と民主主義は大切にしなくてはいけません。だから、
“自由”と“民主”という文字が、名前にくっついている政党に投票するのです」
(;゚ ロ ゚) ……コメント不能。
こんなことじゃあ、このアシスタントはプロの漫画家にはなれないであろう、と、故・青木雄二センセはおっしゃっていた。
「まだまだがんばりましょう」
ということですな。
つーか、私、いまのいままで、人間存在を買いかぶりすぎていたのかもしれん。
「自由民主党」だから“自由”と“民主”の政党。これで納得できるんだもんね。わっかりやすい〜。
「テロ撲滅」の大義名分で
自分がテロしてるブッシュ戦時大統領
が、アメリカ大統領選挙で再選するはずだわな。
「テロ撲滅」って、文字で書いてあるもん。
「痛みに耐えて構造改革」の大号令で、貧富の差が極端なまでに大きくなるシステム作りに日本国民が熱狂したのも、むべなるかな、だっ!
「構造改革」って書いてあるもんね。どこにも「改悪」って書いてない。
無差別テロの主犯が主人公の物語、ハリー○ッター・シリーズが、世界で大人気なのもよくわかるよ。
大切なのは、レッテル。
ハリー○ッターの背中には、「正義」と「主人公」のレッテルがぺったり貼ってあるし、
アメリカには「自由の女神」が鎮座いたしますからね。
多くの人々は、貼ってあるそのレッテルしか見ないらしい。
社会党とか共産党などという政党名じゃあ、票は集まらないということが、今になって、理解できた。自由も民主も書いてない!
民主党も、“自由”が欠けているだけ、物足りない感じは否めない。
もう、あれだ。
「対テロ党」
という政党名にするんだ。
「がんばってます!よろしくお願いいたします!ひたすら連呼党」
とか、
「現世利益を約束します党」
という名前も直接的で、保守系政党には良いかもしれない。
……。
いいこと、ないない!
皮肉を皮肉と取ってもらえるかどうかも心配になってきたからな、ちゃんと否定しておかないと。
(´▽`;)
マジで「対テロ党」などと主張していると思われるんじゃないかと……。
はあ〜。
*6933*(2005.7.19)
クイズの時間です。
***********************
殺 人・ 638
強 盗・ 441
放 火・ 36
性的暴行・ 172
粗暴犯 ・1341
窃盗犯 ・3505
知能犯 ・ 200
風俗犯 ・ 124
その他 ・1080
合計 ・6933
***********************
さてなんでしょう?
答え。
1973年〜2004年までの4年間のあいだに、
日本の警察に検挙されたアメリカ兵の数と、そのうちわけ
でございます。
皆さんご存知のとおり、日本ではどういうわけか、ある国の軍隊の軍事基地があちこちに出張・出店されることが許されております。
米軍の軍事基地でございます。
沖縄は米軍基地で大混雑してしまい、一部、海に落っこちるんじゃないかというありさまであります。
ああ、こぼれおちんばかりに基地を造っていただいて、ありがたいことでございます。米軍の圧倒的な軍事力で、日本の平和が守られるのでありましょう。
アメリカ合衆国に、栄えあれ。
デロデロデロデロ(太鼓の音)
パンパカパーン(トランペット)
6933!
同盟国・日本の平和を守るため、
殺人638〜
アジアの端まで長期出張、
強盗441〜
むしゃくしゃすること多いから
放火36〜
むらむらすることも多いです〜
性的暴行172〜
うちら海兵隊なもので
粗暴犯1341〜
その他み〜んなあわせて6933〜
ラララ、ワワワの6933〜
ヨーイヨイと。
ちなみに、1973年以前のことは、警視庁は
数えていないのでわかりません
とのこと。
♪ハ〜ァ、どらり、どらりの〜……。
日本の政府は、アメリカの兵隊さんの生活が少しでも快適なものになるようにと、メンタマ飛び出るようなお金をつぎ込んで、いたれりつくせりしているのでありますが、それでも彼らの心は、満たされておらぬようす。
まだまだ不満な点があるのでしょうか?
店員ぶん殴ってCDかっぱらったり、女学生を連れ去って暴行したりせずとも、
私どもの血税から捻出いたしました思いやり予算でCD買い放題、そちらのほうの欲望もヤリまく……もとい、昇華しほうだい、
であると思われますに。何がお気に召さないのでありましょう?
食べ物でありましょうか? 日本の肉を食べてください、食い放題でございます。え、違う?
では、むしむしした気候でありましょうか? 冷暖房完備、24時間体制でメンテナンスも無料で実施させていただきます。これまた違う?
それとも、
軍隊生活そのものが ガマンならないのでありましょうか?
……う〜む、こればっかりは、お金では解決つきませんなあ。はけ口は、そのあたりを歩いていて、たまたますれ違った、不幸なアジア人ということで。
チャイナ? コリア? ああジャップね〜、ボコ!
(^_^;)
もとCIAの幹部のひとが、日本のあちこちに米軍基地が乱立している状況を指して、
「これは新しいタイプの植民地政策だ」
なんてことを言っておりました。続いて、このような政策を押し進める某小泉さんのこともケチョンケチョンにけなしておりましたが、もとCIAの御仁にまで、こうまでけなされる某小泉さんって、いったい……。
ううう、立場ない。
(T△T)
CIAのみなさまにもせいぜい喜んでいただこうと、毎年、膨大な財政赤字を出しながらも、米軍思いやり予算を組んでまいりましたのに、ねえ。
まあ、何を言われても、がまんがまん。
米軍に、保護していただいている立場ですからね。
……。
米軍よりも、ワシの生活を思いやって欲しいよ。
いちおう日本国民っすから。
(^_^;)
クイズの時間は終わり。
話は変わって、イギリスには国際問題などを研究するチャタム=ハウスという機関があるそうだ。
そのチャタム=ハウスが、テロと英国の治安体制などを検証した論文を発表した。
その内容を要約すると、
「アメリカ政府のいいなりになっていたことが、英国に対するテロ攻撃の危険性をたかめてしまったの」
ということになるのだそうだ。
まあ、なんだ。
自国の土地を米軍の基地だらけにして、アルカイダだの北朝鮮だのの攻撃におびえる某極東国と、事情は同じなのよ、イギリスも。
論文は、こう伝えております。
「英国政府が米国と肩を組んでテロ対策をとってきたことが主要な問題となってきた。英国は、政策意思決定の対等なパートナーではなく、米国にハンドルを握られている助手席の乗客であった。」
えろう辛辣じゃのう。
「(英国は)米国にハンドルを握られている助手席の乗客であった。」
英国紳士は、どんなときでも皮肉を忘れませんよ。
*スミレ色のファンタジー&富井副部長の叫び*(2005.7.18)
きのう新古書店で購入したのは、ドヴォルザークの交響曲9番『新世界より』のCDのほかには、数冊の漫画本。
小原慎司センセの
『菫画報』
1、2、3巻だ。
いまでは品切れ絶版で、古書店でしか手に入らない。
以前、月刊漫画雑誌『アフタヌーン』で連載されていた漫画作品だ。
主人公である17歳の少女スミレの、個性的で奇妙な多感さ、彼女の頭の中を脈略なくとびかうアイデア、お年ごろの女の子特有の物憂げさ、投げやりな気分、というようなものを、作者のちゃめっ気と雑多な想像力で味付けした
ファンタジー作品
だ。
いかにも私が好きそうな物語だ。
じっさい、名作だと思う。
妖精も竜も空飛ぶホウキも出てこなくとも、スミレ自身がその気になれば、彼女はいつだってファンタジーの世界の住人になれる。
彼女自身が魔法だ。
スミレの頭の中をとっびな着眼、趣向、発想がつぎつぎと生まれてははじけ、電撃となって駆け、やがて互いを結びつけていく。想像力は、一瞬にして太陽系を飛び越え、アインシュタインの相対性理論も振りきり、輝く星々をすり抜けるてゆく。ここではないどこかへ、彼女は旅たつ。
ああ、私はこういう女性に、ある種のエロティシズムすら、感じる男だ。……今、私、おかしなこと言ってませんよね?
(^-^;)
スミレは、自分の内側からあふれ出る奇妙なアイデアを、生まれてはどこかに消えていくままにまかせ、おしみも執着もせず、ひょうひょうと生きている。ケチくさいところがまったくないのが、またいい。
むかしの『アフタヌーン』は、こうした傑作がいくつも掲載されていた。
しかも、単行本として最初からまとめて読んでみると、私の記憶の中にある『菫画報』よりもさらに、実際の作品は素晴らしい内容であることに気がついた。
このような傑作が、多くの読者に傑作と気づかれないままに、いつのまにか品切れや絶版になっている。
何ともったいないことだろう。
そして、名作を名作ときっちり“わかる”、この私という存在の
何と頼もしく、誇らしいことか。
『菫画報』がわかる私は、最高にステキな私だ(自画自賛)。
私は私に生まれてよかった、と、マンガ読んで確信して、何と安上がり。
(^-^;A
あとは、『美味しんぼ』の59巻も購入。
この巻に収録されている「マルチメディアと食文化」というお話は、雑誌掲載時に、主人公の山岡士朗が黒い魔ソフトの運動図95をめっちゃくちゃにけなすシーンがあって、
黒い魔ソフトが怒髪点、広告を引き上げるぞ
と、雑誌を発行している出版社を脅し……もとい、ご意見なさったといういわくつきのものなのだ。
山岡士朗は、Macユーザーだったのだ(ちなみに、『菫画報』のスミレは新聞部員だが、新聞部で動かしているパソコンは、Macだ)。
黒い魔ソフトの逆鱗に触れた山岡士朗の発言を、一部引用してみましょう。
運動図95のモニター画面を目にした山岡さん、いきなり歯に衣着せず、説教はじめます。
「おまけに、ほら、その画面のダサくてみっともないこと、
まともな美的感覚があったら使えたもんじゃない」
どひー。
「そんなもの使う奴はマゾヒストだね、だからあれはMS−D○Sじゃなくて“SM”−D○Sってんだ」
あわわわわ。正解だ!
山岡さんは、感じたことはぜんぶ言葉にしなくては気にすまないひとなんだよな。
しかしどういうわけか、彼の過激発言によって、本人よりも周囲が迷惑するのがこの漫画の一大特徴だったりするので、上司や友人は大変だ。
「山岡君……(谷村文化部長の困った声)」
「もう、山岡さんたら(栗田ゆう子の困った声)」
「山岡さん?(二木マリコの困った声)」
「ヤマオカ〜!(富井副部長のかん高い困り声)」
「ふむっ! こらこら士朗や! (唐山陶人の困った声)」
「陶人く〜ん(唐山陶人の奥さんの声)」
「この雄山に説教じみたマネを(海原雄山の怒り声)」
(^-^;A (^-^;A (^-^;A (^-^;A (^-^;A (^-^;A ヤマオカ……。
運動図批判で、迷惑したのは出版社か。
雑誌掲載を打切られなくて良かった。
(^-^;A
この漫画には、powerMacの9500、CPU200Mhzに、山岡が歓声を上げるシーンが出てくる。
懐かしいなあ。
G3以前のマシンだよ。
このころのMacだったら、山岡も鼻高々だったろう。
今のMacは……、運動図よりはマシ、という程度の代物だ。
泣けてくるぜ、な、山岡さん?
*タイピングで「テンペスト」から「新世界より」*(2005.7.17)
私のタイピングはまるで、鍵盤に思いのたけをぶつけるピアニストのように情熱的で、強く、また激しい。
キーボードのポリーニ……と、誰も呼ばないから自分で呼んでいる。
(^-^;A
曲目は「テンペスト」だ。
キー入力、入魂!
並のキー入力とは、
気合いが違うのだよ。
カン、カカカン、カン、カン!
カカカカン、カン、カン、カカカン、カン!
(キーボードを打ち鳴らす音)
カンカン! カカカ、バリン!
(破壊音)
……。
カカカン、カン、ぼこ、カンカカカ! ぼこ、カン!
ウ? ウチニクイ。
(手を止めて、キーボードに目をやると……アッチョンブリケ!)
……ここに告白します。
私、このたび、
リターンキーをたたき割ってしまいました。
(;´▽`)……
ただいまこの日記は、リターンキーの割れたキーボードにて書かれております。
やりずらい〜。
バチコーンと駒を盤上にたたきつけて、まっぷたつにたたき割ったという棋士、加藤一二三九段の伝説に、私、並びましたな。
自分で言うのもナンダけど、そんな、強く叩かなくてもいいのにねえ。
こんな調子だから、毎日タイピングしていると手首が疲れ、指が痛くてしかたがない。タイピングがつらくて仕方がない。
アップル社には、手首が疲れにくいキーボードの開発を訴え、いっぽう、サードパーティ製の良いキーボードはないものかと、探し求めて今日まできた。
が、しかし。
そもそも、根本的に
私のタイピングスタイルに、決定的な問題があるのではないか
(^-^;A
という強い疑念が、ここに来て沸き上がってきた。
どんなキーボードだって、たたき割られることを念頭に作られてはいないよねえ。
だれか、割れないキーボードを作って下さい。
冗談抜きで、どこかに良いキーボードないですかねえ。むかしの林檎社だったら、より取り見取りでいろんなキーボード作ってくれたのだろうにねえ。
いや、たたき割ったのは私が悪いんですが。
(^-^;A
世間では、ハッピーハッキング・キーボードの評判が高いようですね。
しかし、テンキー別買いの上に、パワーオンキーがキーボード上にないのがネック。
って、パワーオンキーがキーボード上になければならないのなら、結局、林檎社純正になってしまうよなあ……。
ベートーベンをバックミュージックにしていたのが悪かったんだよ、キーボード割ったの。
♪ジャジャジャジャーン♪ ふむっ! バリっだよ。
というわけで、いま我が家で流れているのは、ドヴォルザークの交響曲9番『新世界より』だ。
新古書店で購入。割れたリターンキーをくっつける接着剤を買うついでに、新古書店にも寄ったのだ。
このCDは、セル指揮、クリーヴランド管弦楽団のコンビだ。
ええ〜、セルのドヴォルザークを売っぱらっちゃうひともいるんだねえ!
このCDには、吉田秀和氏のジョージ=セルに関する解説がついていた。
「ジョージ=セルは今世紀で最も高潔な指揮者ではなかったろうか?
(略)
合奏の完璧という点では、かっての伝説的なトスカニーニとNBC交響楽団のあと、ある時期までのカラヤンとベルリン・フィル、それからショルテイとシカゴ交響楽団と並んで、それ以上の高さに到達していた。」
……。
えーと。
素人が今さらながらにお訊ねするんですが、
セルさんって、そんなにすごいひとだったんですか?
(^-^;A
すごいCDを見つけた、すごい演奏を聴いたと、セルとクリーヴランド管弦楽団のことをこの日記で書いてきたけど、実は、私だけが知らなかっただけだったようで。
ううう、ちょっと恥ずかしい。
これだけボコボコCD出てるんだもんなあ、有名に決まってるよなあ。
「セルはいってみれば、中国の陶器、それも元宋から明清初期にかけてのあのひんやりした清らかさと滑らかな光沢を具えた硬質の感触が特質だった。」
と吉田秀和氏は書いてらっしゃる。
うまいこと言うなあ。
キー入力しにくいなあ。
(^-^;A
このCDには、スメタナの『モルダウ』と、『売られた花嫁』から3つの舞曲がカップリングされている。
これがまた、いいんだ。
セルとクリーヴランド管弦楽団の音楽を聴いていると、なんというか、この世に完ぺきな演奏というものがあるとしたら、この演奏じゃなかろうか?と思わせる何かがあるんだよね。
素晴らしいです。
リターン! 漢字へんかーん!
バチコーン!
接着剤、接着剤。
*『ブラックジャックによろしく』によろしく*(2005.7.15)
縁あって、奈良県大和郡山市にある市民団体
“精神障害者の社会参加をすすめる会「ハートフルこおりやま」”が主催するイベント、
第6回『心の健康講座』
のPRチラシを作成させていただいた。
『心の健康講座』は、精神保健福祉と市民ひとりひとりの心の健康を考えるきっかけ作りとして、一年に一回行われているイベントなのだそうである。今年で第6回だ。
チラシ作りとなると、担当者のかたと、打ちあわせという形でいくつかお話を伺うことになる。
なにせ不勉強な私は、精神保健福祉と市民ひとりひとりの心の健康というような話題は、佐藤秀峰センセの漫画
『ブラックジャックによろしく』
に描いてあることしか知らないものだから、チラシを作るにも、まず初歩的なお話をおうかがいしないと、どうしようもないというありさまだ(漫画を引き合いに出したのは茶化しているんじゃないよ、本当のことを書いただけ)。
担当のかたにうかがったお話のうち、私が話せる範囲の事柄については、インタビューという形で遊絲社のコラムページに掲載しておきます。
障害者の社会参加をすすめる、と聞いて、思いだすことがあった。
以前、ネットで知りあった「くろしま“わにべー”やすし」様から、コミュニケーションエイドやAACについてのお話をお聞かせいただいたことがあったのだ。
めちゃくちゃにお忙しい中、こちらまで足を運んでいただいてのことであった。
ちなみに
AACとは、拡大代替コミュニケーションの略
なのだそうだ。
コミュニケーションエイドとは、コミュニケーション補助器具、
というような言いかたになるのだろうか。
“わにべー”様には、そのなかのとくに、ハイテク機器を使用したコミュニケーションエイド、もっと言えば、パソコンを使用したコミュニケーション支援、というものについて、お話いただいたという記憶がある。
どういうことかと言うと、まず、身体にハンデキャップがあったり、心に何らかの問題を抱えているがゆえに、困難な状況に置かれているひとびとがいる。彼ら(彼女ら)が地域社会に参加していくには、そうしたハードルを乗り越えることがどうしても必要になる。ひとくちにハードルや障害と言っても、心の問題から車イスでの電車通勤といったような問題まで、実に多用、多次元にわたっている。
とにかく、彼らの社会参加は、さまざまな事情で制限を余儀なくされているわけだけれども、意識改革や器具の開発、周囲の援助や工夫によって、それらの制限を可能なかぎり取り除き、みなが手を取りあって、社会全体をより豊かにしていこう、という趣旨の活動が、さまざまな形で古くからある。
そうしたなかで、
「ハンデキャップを抱えたひとたちのコミュニケーション支援機器」としてのパソコン、
というお話を、聞かせていただいたのだ。
ハンデキャップを抱えるひとびとの積極的かつ恒常的な社会参加を可能にしていく、といった目標の実現のために、パソコンを積極的に取り入れていこう、というお話だ。
さまざまなひとびとが、それぞれに置かれた状況を乗り越えて、より高い次元での相互理解を可能にしていくこと。または、困難な状況に置かれた人たちが自身を表現し、周囲と積極的にコミットしていくこと。そのために乗り越えなくてはならないハードルを少しでも低いものにするために、パソコンを活用する。少なくとも、私が理解した範囲では、そういう趣旨であったと思う。
ひとびとの社会参加の可能性を大きく広げていく、という視点から、パーソナルコンピューターを眺めてみると、その潜在的な能力は大きい。とくに、パソコン業界の黎明期--つまりアップルコンピューターが元気だったころ--には、パーソナルコンピューターではどんな魔法も可能だ、というような期待がひとびとの胸の内には存在した。
しかし実際は、パーソナルコンピューターを使用するといっても、それだけで全ての問題が解決するほど簡単ではない。
例えば、マウスやキーボードを使ってパーソナルコンピューターに入力作業を行う、というようななんてこともない行動が、肉体的に難しいというひともいる。
具体的には、
「片手でしか入力できないのでキーボードを使いにくい」
「マヒや不随意運動はないが、肢体に欠損、変形があり、キーを押しにくい」
といったような状態だ。状況、状態はそれこそ千差万別で、解決しなくてはいけない問題は、山のようにある。
しかも、コミュニケーション補助器具といったものは大量生産に決定的に不向きだ。コミュニケーション補助器具は商品としてはあまりにも個別的で、地味で、非効率的で、早い話モウケにならないのだ。
我々の人間的価値はどこまで行っても貨幣の下にあり、いくらで売れるのか、いくつ売れるのか、どれだけセンセーションを巻き起こせるか、という市場原理の副産物以上の存在にはなりえない。
パソコンがひとびとの生活の中に入り込み、単なる家電製品になりさがるにしたがって、その存在は、コンピューター機器を利用して社会全体を一歩ずつ前進させていこうというひとびとの願い、希望から大きく乖離していった。
しかし、効率と能率一点張りの社会の現状ぶつかったからといって、なにもかも投げ出してしまうというわけにはいかない。徹底的なリサーチとフィードバックの積み重ねをふまえて、具体的かつ多岐にわたる個々の事例に対応する製品を、生真面目に根気よく実現していく、というお話も、すこしだけお聞かせいただいた。
意義深い取り組みだと、私は感激してしまったわけだが、その取り組みの内部では、外からはうかがい知れない、さまざまな問題や矛盾を抱えてもいる……というようなお話も、こっそりと聞かせていただいたりした。
ともかく、これらの製品と、市販の文字読み上げソフトなどをうまく組み合わせて使用することによって、さまざまな状況にある人々の自立やコミュニケーションを支援していく。
そうした取り組みで、何がどこまで実現可能なのか。それは、やはり、実現してみないとわからない。限界もあるだろう。正直、現状では、ありとあらゆることが不十分、ということだと思う。それは、取り組んでいる方々の努力不足、という話ではなくて、取り組みが社会全体の動きになっていないことと、こうした活動が、能率や効率を追い求める社会のあり方と対立してしまっていることで、取り組みを前進させるどころか、維持するだけでも猛烈なエネルギーを必要としてしまっていることが、問題なのだ。
コミュニケーションとは、いったいなんなのか。
私とあなたが、「話し」たり「書い」たりする日常生活動作の、さらに向こう側にあるもの。それを見いだし、もしくは、新しく産みだしていく。
この世界で、
新しいコミュニケーションの形を実現させていくという大冒険だ。
これこそが、パーソナルコンピューターの革命精神の真髄である。
*Macユーザーにとっての日本国憲法*(2005.7.14)
Macユーザーが会員の多数派という、奇々怪々でファニーなプロバイダーさん『Link
Club』が、会員に毎月送ってくれる小冊子『Link
Club Newsletter』を読んでいる。8月号だ。
今月号は盛りだくさんだ。
まず、映画監督、ジャン=ユンカーマンのインタビュー記事が掲載されている。
ジャン=ユンカーマンは、日本国憲法第九条改憲問題について鋭く切り込んだドキュメンタリー
『映画 日本国憲法』
を制作なさった監督さんだ。
私も、一週間前にこの映画を観た。
世界の人びとは日本国憲法をどのように見ているのか、現在の日本政府が盛んに喧伝する憲法改正の動きをどう考えているのか、を、78分間の映画としてまとめたものが、このドキュメンタリーだ。
映画に出演する知識人の顔触れは、
ノーム=チョムスキー
ジョン=ダワー
ミシェール=キーロ
姜萬吉
韓洪九
etc.etcだ。
うわあ、
誰もが4番バッターをまかせられる、知識の巨人たちだ。
あのベアテ=シロタ=ゴードンさんも、ごきっちり登場なさっているぞ!
彼らの意見に共通するのは、日本国憲法の改憲問題は、日本国の内部だけの問題ではなく、国際問題なのだという認識だ。
日本国憲法の改憲問題は、国際社会、とくにアジア地域を視野に入れて議論されなくてはならないという主張だ。
などと書くと、改憲派は、
「内政干渉だ」
などと反論する。
そのくせ、日本国憲法改憲の必要性を説くときは、
「いまの日本国憲法は古くさくて、現代の国際問題に対応できない。だから改憲だ」
などとも主張する。
ん?
……ン〜ん?
な〜んだ、結局彼らは、
現代の国際問題を、軍事力に大きく依存した形で解決していこう、
と自ら告白しているのだ。
正直なところは、たいへんよろしい(苦笑)。
(^_^;)
そんな彼らにとって、もっとも深刻な問題は、日本国憲法の第九条の存在だ。
日本国憲法第九条があるかぎり、軍事力の行使は事実上不可能だ。
日本の自衛隊の規模、能力は、武力に頼った国際外交を実行するのに、じゅうぶんすぎるほどに充実している。問題は、それを制限する、法の強制力だ。
だからこそ、「いまの日本国憲法は古くさ」いのであり、「現代の国際問題に対応でき」ているとは言い難い、となる。
日本国憲法の改正議論が、国際問題であるのは、あきらかだ。彼ら自身がそう認めているように。
政府はいつだって、武力による外交を望んできた。終戦直後の、あの焼け野原の中でさえ!
それを拒否し、跳ね返してきたのは庶民だった。あの焼け野原の中で、もう戦争はこりごりだと、私たちは感じたのだ。だから私たちは、厳粛な日本国憲法の名のものに、政府が二度と戦争行為をしでかさないよう、きびしい法の縛りをかけた。
『Link Club Newsletter』のジャン=ユンカーマンのインタビュー記事のタイトルが、
『自分たちで守る憲法・そして第9条』
となっているのは、そうした歴史をふまえてのことだ。サブタイトルはこうなっている。
『関係性の未来』
……そうなのだ。
日本国憲法は、SFなのだ。世界の知識人たちが、極東のちっぽけな島国の憲法に注目しているのも、それがSF精神に充ち満ちていたからだ。
人類とは、なんなのか。私たちはどこからやってきて、どこへゆくのか。どのように生きるべきか……。
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」
(日本国憲法前文より)
当時の日本国民のSF魂の、熱い声明だ。
上の緑色の文字の部分を、もう一回、読んでみ?
どうよ?
日本国憲法の改憲問題が、
国際社会における極めつけの重大問題であることが、よお〜っくわかるだろ!
ヾ(*'□'*) ♪いんたーなしょな〜る♪
閑話休題。
今回の『Link Club Newsletter』は、他にも盛りだくさん。
1.水木しげるセンセのインタビュー記事、
2.マルコムXと対面したことがあるというコウチヤマ=ユリさんのインタビュー記事、3.書籍紹介のページは、ハインリッヒ=シュリーマンの『シュリーマン旅行記 清国・日本』
というラインナップ。
いや〜、こんなファニーなプロバイダーさん、ちょっとないよな。
(^_^;)
つーか、正直なところ、この日本社会のなかでは、ほとんど、まともじゃないヨナ。
(;^-^ゞ
ロックでSFなプロバイダーさんだと思う。
さて。
水木しげるセンセは『ゲゲゲの鬼太郎』の作者さま、などと、今さら説明する必要はないだろう。
記事中には、その水木センセのありがたい「幸福七ヶ条」が掲載されている。
引用してみよう。
「第1条・成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない」
「第2条・しないではいられないことをし続けなさい」
「第3条・他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし」
以下、第7条まで続く。
第5条と第六条が、とくに素晴らしい。
読んで欲しい。
「第5条・才能と収入は別。
努力は人を裏切ると心得よ」
(;゚ ロ ゚)真理だ
「第6条・怠け者になりなさい」
キエ〜!!
(´▽`;)
すげえ! すげえよ、水木センセ。
コウチヤマ=ユリさんは、日系二世で、アフリカ系アメリカ人の公民権運動、地域活動、政治囚の救援活動を長年やっていらしたかた。ただいま84歳。
ハインリッヒ=シュリーマンは、歴史の授業で名前だけでもみんな聞いたことがあるよね?
『Link Club Newsletter』は、『Link Club』の会員に毎月郵送されてくる小冊子だけれど、逆に言えば、会員じゃないとなかなか手に入れることが難しい冊子ということだ。
ちょっと、もったいないというか、もっと多くのひとに読まれるべきじゃなかろうか?
市販、というわけにはいかないの? 採算が、とれないのかナア。
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