*愛川欽也氏、怒髪天をつく*(2011.4.1)
「ルーシ、ぼくを人間にもどしてくれ。きみの声を聞かせてくれ。生きていること、人間であることの温かみを、味わさせてくれ」
〜コードウェイナー=スミス『スキャナーに生きがいはない』〜
「俺は、一続きのアクシデントの犠牲者だった! ほかのみんなと同じく」
〜カート=ヴォネガット『タイタンの妖女』〜
「ご武運を。あなた方の行く先に、いつも温かな空気がありますように」
〜秋山瑞人『EGコンバット 2nd』〜
2011年3月31日現在。
「IAEAが住民を避難させる基準値」の2倍にあたる高い放射性物質が飯舘村の土壌サンプルから検出されたとIAEAが会見で発表した。
ここで気をつけなければならないのは、
安全基準の2倍ではなくIAEAの「避難基準」の2倍
だということだ。
土壌の安全基準が、避難すべきとされる数値の2倍へと跳ね上がったのだ。
この国の政府は、あくまでもさりげなく、安全基準と避難基準とをすりかえて国民に発表し、さらに2倍とする。
なぜそうなるか。嘘をついていいのは4月1日だから、ではなくて、それは、安全基準を緩和しないと何も食べられない、どこにも住めないということになるからだ。
何も食べない、どこにも住まない、というわけにはいかないから、無理やり、避難すべきところを安全と言い張る。そして、覚悟を決めて、生きていくしかない。
ただちに健康に被害が出ない、ということが、この国の安全基準となった。
ロメロの『クレイジーズ』状態。
逃げ場所などどこにもない。
ことここにいたって、愛川欽也氏、怒髪天をつく。
いつまでアップされているかはわからないから、おはやめにご鑑賞下さい。
YouTubeの動画から。
『大震災原発事故
想定外でいいのか1』
『大震災原発事故
想定外でいいのか2』
『大震災原発事故
想定外でいいのか3』
『大震災原発事故
想定外でいいのか4』
『大震災原発事故
想定外でいいのか5』
『大震災原発事故
想定外でいいのか6』
各10分ずつくらいの番組だ。
思いがけないことに、不思議なおかしみさえ感じる、そういう仕上がりになっている。
*欲望の殺人*(2011.3.27)
「私は学生のグループに「キャピタル」という言葉で何を連想するかと尋ねたことがある。ほぼ全員が「お金」と答えた。私は、前日にオックスフォード英語辞典を調べておいたので、そこではお金という意味は8番目に出てくると教えたのである。一番が、首都、中心地、主要建造物で、これらのほうがもとの意味に近い。お金が、首都の場所を取ってしまったというのが、まさに我々の時代をよく物語っている」
〜ニルス=クリスティ『人が人を裁くとき』〜
「彼女がわたしにむかってしたことといえば、こちらがつんぼになるほど、この手の出世物語を聞かせることだけだった。このすばらしい新世界で出世したと彼女が思っている人々とは、つまり強制労働や破壊や殺人の術にたけた者ばかりだった。わたしはそのような分野で働くことが出世したことになるとは思わない」
〜カート=ヴォネガット『母なる夜』〜
3月26日に放送された『朝まで生テレビ』で、勝間和代氏が
「チェルノブイリでは甲状腺がんが10倍になっただけ」
とぬかしたという件について。
『たかしズム』さんから
『よくもこれだけ「筋金入りの馬鹿」を揃えたものだ』
チェルノブイリで起きたことは、“甲状腺癌が10倍になっただけ”などではけっしてないが、まあ、仮定の話をとしてそうだったと認めたとしても、
甲状腺癌が10倍になっただけ、って、君ら、ほんとに人の子か?
さあ〜、日本国の冷酷さが、むきだしになってまいりましたよ〜。
しかし、これもむべなるかな、なのです。
フランスの新聞『ル・モンド』の記事を『FRANCE MEDIA NEWS』から。
『福島、非難すべき沈黙』
☆☆☆☆☆
心ならずも、経済長官は「危機状態を脱したら、東京電力の管理状況を調査しなければならない」と認めた。もちろんだ。しかしその間に一体何人の犠牲者を数えなければならないのだろう?
☆☆☆☆☆
いったいその間に、何人の犠牲者を数えなければならないのか。
勝間さんの楽観的な世界像を基礎にして考えるとすれば、100万人強といったところかな。
水で洗えば大丈夫なのだそうだ。
おまけ。
論点が少しずれるが『Apes! Not Monkeys! 本館』さんが素晴らしい記事を。
『原発と同じ構造なのでは?』
☆☆☆☆☆
そうまでして人件費を抑えて漁獲、加工した魚が大都市では一皿100円とかの寿司になってぐるぐる回ってるのでしょう。都市での快適な生活が地方での外国人による「3K」労働に支えられているという点では、原発と同じ構造です。
☆☆☆☆☆
完全に同意する。
世の中がそういう仕組みになっている、それが問題なのだ。
おまけ2。
水木しげる先生が、ニューヨークタイムスに依頼されて書いた絵。
ナターシャ=グジーさんから、メッセージが来ています。
『福島原発事故と避難
Nataliya Gudziy(ナターシャ・グジー)』
今、福島第一原発で検出されている放射能濃度は、想像を絶するレベルであり、もはや、大破局は避けられない事態となった。
グジーさんはまた放浪生活となるのだろうか。
*「天罰」と「運命」*(2011.3.25)
「真理を知らない者はただの馬鹿者です。だが、真理を知っていてそれを虚偽という者は犯罪人だ」
〜ベルトルト=ブレヒト〜
「実のところ神は、たいして全能というわけでもなかったわけだ。それが真実なのかどうかたしかめてくれとだれかに頼むつもりはないし、もちろん、大多数の人間は、この出来事に気づきもしないまま生きていくだろう」
〜バリトン=J=ベイリー『神銃』〜
某都知事イシハラ氏の「天罰」発言に続き、今度は経済財政担当相の「運命」発言だ。
『kojitakenの日記』さんから。
『「震災は天罰」石原の向こうを張る与謝野馨の暴言「原発事故は運命」』
原発も運命。
放射能汚染も運命。
イシハラやヨサノのような連中が、「あれは天罰」「これは運命」と国民に対してご解説して下さる。
天罰でも運命でも実はなんでもいいのだ。
この途方もない苦難を国民はひたすら黙って耐え続けなければならないのだ、という「その点をぜひご理解頂きたい」ことにつきるのだ。
だから、カンニング騒ぎのときみたいに、東電本社に乗り込んでガーガー騒いだりしないように!
「運命なら仕方がない、と思っていただけるなら、ぜひともこれは運命ということにしましょう」と、このような“事象”があったわけだ。
しかし、原発の“事象”が事故であるように、これらの発言も、実は「事故」……というよりは「犯罪」だと個人的には思う。
話がそれるようだけれど、プロ野球セリーグの開幕問題で、巨人のオーナーが
「開幕はお上が決める問題ではない」
と言い放ち、あまつさえ不快感さえ示したという。
開幕を決めるのはお上ではないなら、誰が決めるのか。
選手か?
ファンか?
いや違う、
業界だ。
そんなふうに、この国自体ができ上がっている。
今回の原発事故の事態がどんどん進展中にも関わらず、数兆円にはなると言われているその保障を国が負担するという話がすでに出ている。
自由経済社会の掟に従って、東電が負担するべきではないか、などとは大手メディアはけっして追求しない。
彼らは利益追求はするけれども、そのリスクや負担は、外部に丸投げするのだ。
報道機関のみなさまがたよ!!
もうこれからは、京大の入試試験で誰かがカンニングしたごときでぎゃーぎゃー騒ぐのはやめような!
学校まで乗り込んでぎゃーぎゃー騒いで、たかがカンニングで!
東電さまがやらかしたことに比べたら、カンニングなんてどうってことないだろ?
なのに、東電社長にマイク一本差し出すことさえしないというのだから。
企業の失敗は、政府という機構を通して、国民が負担する。
繰り返しになるけれど、もうこの国には、実質的には政府というものが存在しないと言っていい。
企業連合体、と呼ぶべきような何かの意志があって、政府はそのスポークスマンとして機能する。
……とまあ、ここまで書いてきて、とんでもないニュースが流れてきた。
東京新聞から。
『原発情報 目立つ公表遅れ 東電 訂正に1週間の例も』
ここの記事を下まで読んでいってたまげた。
☆☆☆☆☆☆
「東電は二十日夜、2号機の原子炉内の圧力を下げるため、放射性物質を含む水蒸気を外部に直接放出する「ドライベント」を十六〜十七日に試みたが、失敗したと発表した。
ドライベントでは、水蒸気を水に通して放射性物質を減らす「ウエットベント」の百倍の放射性物質が外部に放出されるとされる。報道陣は、ドライベントは環境への影響が大きいため公表を求めてきており、四日以上たっての発表に、驚きの声が上がった。」
☆☆☆☆☆☆
報告が遅れたとか言っている場合じゃねえ、ドライベントなんて、国民に黙ってやることじゃないだろう!屋内退避中の市民はどうなるんだ!!
まだ信じられない。
こいつらは単なるくそったれなんかじゃない。
放射線を吐き散らす、人の心を持たないくそったれだ。
腐っているところまで、『ナウシカ』の巨神兵とそっくり。
『デモクラシーナウ!』から
『メルトダウンの危機』
アメリカでは、17日の時点でこのような議論が行われていた。
*指名手配*(2011.3.23)
「組織の肥大化が進行し、労働の分業が必要になり、保険会社が相互扶助に代わることにより、非人間的な関係が支配するようになった。これらの進行は、福祉の諸原則の道徳的な基盤を侵食する」
〜ニルス=クリスティ『人が人を裁くとき』〜
「わたしの感じではこの奇妙な嘘もじつに素朴に美しく語られているように思われた。しかし、それはこのとき初めて聞いたからで、それでみんなとは違っているのだ。みんなだって初めて聞いたときはきっと楽しかったに違いないという気がした」
〜マーク=トウェイン『アーサー王宮廷のヤンキー』〜
『たかしズム』さんが指名手配していたこの男。
『指名手配』
この男の所在を発見。
どこに潜んでいたと思う?
実は、潜んでなんかいやしなかったのだ。
なんと。
内閣参謀参与になっていた〜!!!
うわあああ。
もうこの国には、実質的には政府というものが存在しないんだな。
企業連合体、と呼ぶべきような何かなのだろう。
*ニードフル・シングス*(2011.3.20)
「ウィキリークス立ち上げ時の文章にも次のように書かれている。「人は政府の真の計画と行動様式を知っている場合に限り、その政府を支持しようと本気で決断することができる。歴史的に見て、開いた政府がもっとも生き残れる形というのは、情報の公開と暴露の権利が保護されている形である。こうした保護が存在しないところでは、それを確立することが我々の使命となるだろう」」
〜マルセル=ローゼンバッハ&ホルガー=シュタルク
『全貌ウィキリークス』〜
「みなさんは、なにが最終的にこの星を滅ぼすか知っていますか?
真剣さがまったくないことです。実際になにが起こりつつあるか、つぎになにが起ころうとしているか、そもそもわれわれはどうしてこんな泥沼にのめりこんだのか、そいうことにだれもまったく無関心なのです」
〜カート=ヴォネガット『ジェイルバード』〜
『原子力死霊情報室』、今のところ最新会見動画。
2時間以上ある長い動画だが、ぜひ観て欲しい。
被災者の方々を別にすれば、この動画を観ることよりも優先されるものはないはずだし、その被災者の方々にとっては、まさに、今ここにある危機であるはずだからだ。
『3/19
原子炉と放射線について解説』
原発とは離れた、国際情勢の話も。
『デモクラシーナウ!ジャパン』からスラヴォイジジェクの
『欧州で勢いを増す反移民感情・極右発言』
*いま、福島で何が起きているか*(2011.3.18)
「少し以前に、わたしは一世紀も前の言葉に行き当たったことがあります。「考うべからざることを考える」これこそ、まさに、いまわたしたちがやらねばならないことなのです。われわれは、ひるむことなく事実を直視せねばなりません」
〜アーサー=C=クラーク『あの宇宙を愛せ』〜
いま、福島で何が起きているか。録画画像。
『緊急院内集会
福島原発の現状をどう見るか』
後藤政志氏の、私が現状で知り得る限りにおいてもっともわかりやすく、正確で、正直な、現状(3月17日午前)についてのお話だ。
それと、今日のいいニュース。
イスラエルが福島第一原発の事故受け、原発計画の中止を決定したそうだ。
そうだ、それでいい。
絶対安全、なんてものは存在しない。
であるならば、絶対安全でなければ成立しない発電所など、稼働させるべきではなかったのだ。
*神話の終わり*(2011.3.14)
「あなたはもう結末を知っている---」
〜コードウェイナー=スミス『クラウン・タウンの死婦人』〜
阪神淡路大震災の時は東京で暮しており、今回は奈良県在住ですので、個人的には無事です。
未曾有の大地震、津波、火災などで被災された方々へのお見舞いを申し上げます。
また、現時点で、国際的に大変な危機感を持って注目されているのが原発の緊急事態宣言とその推移。
個人的にも非常に心配をしていて、情報の開示に非常に消極的な政府の対応もあって気をもんでおります。
「念を入れて」
「万が一にも」
「万全を期して」
「全力で当たっている」
等々の発言を繰り返しながら、しかし、事態は刻々と広域化、深刻化しているのも事実だ。
万が一にも、というのなら、すでに、万にひとつでもあってはならない事態が連鎖的に起きている。
被曝者が出たという事実は、現時点では、その最たるものだろう。
であるにもかからず、「あれもこれも想定範囲内ですよ」というポーズだけに変化がない。
「第一原発の1号炉の天井部分が開放された」
などという物言いもあったが、爆発とともに天上と壁の上部が粉みじんに吹き飛んだ、という状態を「開放」と表現することに、事故を小さく見せようという意図が感じられてならない。
それにつけても、
「被曝した方も出たが、人体にはただちに影響はないとのこと」
なんてテレビでは言っているのには仰天した。
“ただちに”とはどういう意味なのか。
ケロイドになったり、数ヶ月のうちに癌になったりはしない、ということか。
このような緊急事態においてなお、こうした無責任かついやらしい物言いをする人々の存在には、驚きを禁じえない。
↑こういう画像を紹介すると「不謹慎」という人が必ず出てくるわけですが、原発は、「卵が孵った」状態に一度なってしまえば、もはや取り返しがつかないのだ。
おまけ。
ニューヨークタイムス、福島原発の構造を3Dアニメ模型図。
*マンモス*(2011.3.11)
「ゲオルク=ジンメルは正しかった。金銭が人間関係の敵だと指摘したからである。「お金は他者との絆を断ち切るだけではなく、自分自身の所有物との絆も切ってしまう」」
〜ニルス=クリスティ『人が人を裁くとき』〜
「それは男も女も自由だからです。なにも所有していないからこそ自由なのです。ところがあなたがた所有者は孤独なのです。みな牢獄につながれている。山ほどの所有物に取り囲まれながら」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
結局日本の劇場にかかることのなかったルーカス=ムーディソンの新作『マンモス』をDVDにて観賞。
東京ではトーキョーノーザンライツで『リリア4エヴァー』が上映されたようだけれど、私としては彼の作品を鑑賞するのは『エヴァとステファンとすてきな家族』以来だ。
ぱっと観の印象よりもはるかに、細かいところに力を発揮する監督さんだから、あらすじなどは語らないでおこう。
ただ、日本語で書かれたブログ感想記事などをちらちらと拝見してみてみると、どうも、監督の意図するところを把握していない気がするので、僭越ながらこれから観る人のために、ちょっとヒントだけ。
ガエル=ガルシア=ベルナル扮するレオは、貨幣を越えた人間関係を求めて苦しんでいるのだ、という事実に、思いをよせて映画を観てみよう。
この映画は女性と、子どもについての映画だけれども、ではなぜレオが主要人物として出ずっぱりなのか。これはかなり重要なポイントだと思う。
ブログ記事における感想などでは、ムーディ遜の実力から考えれば、「社会問題の表層をなぞった」底の浅い作品、というようなとらえ方をしているひともいるけれど、むしろ、逆だろう。
ムーディソンは可能な限り遠い未来というものに思いを馳せ、その遠い未来から現実を振り返るようにして警告を発する、ということにチャレンジして、そのチャレンジの内容は、かなり過激だ。
人間は換金可能なのか。
私は私自身の商品であることを乗り越えることができるのか。
予告編。
見た目以上にすごい映画だ。
ただ、これはムーディソンにはなんの責任もないのだが、DVDパッケージが『ソーシャルネットワーク』のまるパクリ。
なんのつもりかと……。
おまけ。
トーキョーノーザンライツで上映された作品群。
こういうのは、ほんと、東京がうらやましい。
*まだ人間じゃない*(2011.3.4)
「視界の開けた場所で敵を銃撃できることに浮かれていた。取り逃がした数人の日本兵は岬の岩をよじ登っていった。
「いいか、おまえたち、狙いを定めて一気に撃ち抜くんだ」と三等軍曹が怒鳴る。「いくら銃声を響かせたって殺せやしないぞ。銃弾で殺すんだからな。ずぶの素人じゃあるまいし」
さらに数人の日本兵がマングローブの茂みから走り出た。ライフルがいっせいに火を噴き、敵兵は海水を撥ね上げ一人残らず倒れた。「そうだ、その調子だ」」
〜ユージン=B=スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』〜
「信じられない思いで遺体の顔を見つめて気がついた。日本兵は遺体の男根を切り離して、口に押し込んでいたのだ」
〜ユージン=B=スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』〜
「暴力は無能力者の最後の避難所である」
〜アイザック=アシモフ『ファウンデーション』〜
私は、いわゆる太平洋戦争戦史というものは、上からなぞったようにしか知らない。
ともすると、もしかしたら第二次世界大戦のヨーロッパ戦線のほうが詳しいくらいで、なんとなれば、
戦争するというよりも餓死か病死するために戦場に赴かねばならない日本の兵隊さんの圧倒的悲惨さ、仰天の死亡率、犬死にぶり
アジア諸国の皆さんに対する日本軍の空前絶後かつ一貫した残虐ぶりというものに触れるのが、気が重くてしかたがないからだ。
しかし、最近思うところあって、『NHK戦争証言アーカイブス』サイトに収録されている番組を、はしから順番に観賞している。
無料というところが、実にありがたい。
そうして、番組動画を順番に眺めてつくづく思うのは、「どこまで冷酷であれるか、どこまで残酷であれるかを我先に競い合う」という奇妙な心性に支えられた日本の精神風土だ。
他人が幸せそうに笑っている、とか、他人が満腹になっている、というのがそもそも許せない、というのだから、人々は絶えず気難しそうな顔をして、考えうるありとあらゆる辛さを背負いつつ、不満そうな顔ひとつでも見せようものなら、ここぞとばかりに投打される。
今では、投打されるということはさすがにないもの、冷酷さを我先に競い合うという奇妙な風習は、きっちり続いている。
『Afternoon Cafe』さんから、
『お政府様のお年寄りいじめ』
この国の、連綿と受け継がれていく圧倒的冷酷さは、どこからやってくるのか。
おまけ。
『CLick for Anti War 』さんのところで知ったYouTubeの動画から、
「核爆発世界地図がよくわかる動画1945〜1998」
もいっこ、YouTubeの動画から
「この地球上で、わしら地球人が、この1000年の間に起こした戦争がよくわかる動画」。
*新世界より*(2011.3.1)
「社会がより自由で多様になるとともに、服従を促す作業はますます複雑になり、そして教化のメカニズムが解体することで、ますますその手腕が問われるようになった。学術的な関心はさておこう。自由社会の場合には、自分たちのことについて語り合い、学んだことに従って決定できるのだから、より偉大な人間的優位性がある。そうであるからこそ、〈社会において〉支配的な文化は、常に人間の関心を形式的に扱うよう務め、自分以外の人間をののしるように仕向けるのである」
〜『チョムスキーの「アナキズム論」』〜
「ファシズム、少なくともドイツ版のファシズムとは、社会主義から戦争遂行に役立つような特質だけを借用する資本主義の一形態である。(略)
しかしファシズムの基底にある考え方は、社会主義のそれとは異なっており、両者は全く相容れない。社会主義は、最終的には、自由で平等な人間からなる世界国家を目指している。それは人権の平等を当然の前提として考えている。その点、ナチズムは正反対である。ナチ運動の推進力となっているものは、人間的“不平等”に対する信仰であり、ドイツ民族はあらゆる民族に優越し、ドイツは世界を支配する権利があるという信念である」
〜ジョージ=オーウェル『ライオンと一角獣』〜
『非国民通信』さんから
『民主党のマニフェストがいかにいい加減なものだったかが改めてはっきりした』
守るつもりのない約束なら、どんな約束でも可能だ、という当たり前の事実の上に「政権交代劇場」は最初から乗っかっていた。
以前にも書いたことがあると思うけれど、
「まずは政権交代」
というふざけたスローガンの「まず」とは、居酒屋に駆け込んでおしぼりで顔を拭きつつ、
「とりあえずビール」
と店員に告げる、「とりあえず」と、まったく同室のものだ。
とりあえず政権交代する。などという物言いに首を縦に振れる心性がどこからやってくるのか、私にはそれが不思議でならなかった。
ともかく、実現可能かどうかの前に、実現させる気がさらさらないというのだから、それは結局、調子のいいホラにしからなず、もっともらしさのかけらもない。
それは、
「もっともらしさ」よりも「調子のよさ」というものを重視する奇妙な価値観を、政府と市民が共有する奇妙な世界だ。
だからこそ、今になって岡田幹事長が
「誰が見てもできないことをいつまでもできるというのは、まさしく国民に対する不正直だ」
などと開き直ることも可能となる。
最初から正直さなどどこにもなく、調子のよさというものだけがあった。その調子のよさというものに、劇場空間なんちゃらで市民は熱狂した。
民主党ならば、きっと我々市民の要求に耳を傾けてくれるだろう、つまり「この世の無駄を省いてくれる」「悪者官僚や悪者公務員をコテンパンに懲らしめてくれる」という荒唐無稽な着想をジャンプ台にして、だ。
☆☆☆☆☆☆
しかるに最悪なのは、菅内閣を追い落としたところで、それに取って代わるのは「さらにタチが悪い」連中であろうということでもあります。往々にして現状の停滞感に乗じた台頭してくる連中は、その前任者以上に有害な破壊者ばかり、政権は「変えれば変えるほど悪くなる」のが実情です。しかも昨今では台頭著しいポピュリストに靡いているのが無党派層とは限らない、名古屋市長選でもわかるように既存政党支持層、とりわけ民主党支持層がポピュリストに靡く傾向も強まっています。民主党内の現執行部に反発している勢力もまた、「維新」と称して河村や橋下の類と連携を模索する動きが盛んです。あの菅よりもタチが悪い連中が勢力を伸ばそうとしている政治って何なんだろうと嘆息せざるを得ません。まぁ「誰が見てもできないこと」を掲げた党に投票してしまうような有権者なのですから、次もロクなのを選ばないこと請け合いです。
☆☆☆☆☆☆
我々市民がこの世界に請け合えるのは「次もロクでもないのを選ぶだろうということ」では、どうしようもないのだが。
おまけ。
『どこへ行く、日本。』さんから
『ここはエジプトか、いやアメリカだ 米国中西部で歴史的大争議勃発!』
極右知事どもに対して数万人規模のデモが繰り広げられ、10万人の集会が開かれたとのているということだ。
が、アメリカの有権者はそもそも、
どうしてこんな連中に投票したのかと……。
極右知事どもを仰ぎ見て、涙流してありがたがる某国民よりはましかもしれんが。
*おまかせレスキュー*(2011.2.25)
「なぜわれわれは、大昔に捨て去るべきだったいろいろな妄想に、頭脳とエネルギーを浪費しなくちゃいけないんだろう? 火星の顔。UFO誘拐事件。ことあるたびにわれわれの生活を支配する架空の生物。いったいどうなっているんだ? われわれには頭脳があり、知覚がある。なぜそれを使ってまわりの宇宙を理解しようとせず、手のこんだ幻想を作りあげて、それが事実のようなふりをするんだろう」
〜アダム=トロイ=カストロ&ジェリイ=オルション
『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』〜
「アメリカの石油会社は、商工会議所やその他の重要なビジネス・ロビーの後援を受け、地球温暖化人為説という懸念を国民に払拭させるべく、医療保険業界によるキャンペーンのモデルを使って巨大なプロパガンダ・キャンペーンを強化すると発表しました。これはかなりの成功を収めています。地球温暖化人為説という「リベラル派のでっちあげ」を信じる人間はたったの三分の一に減ってしまいました。任務に献身した重役は、私たちみなと同様に、この「リベラル派のでっちあげ」が事実であることも、将来の見通しが暗いことも知っています。しかし、彼らはただ自分たちの制度的な役割を果たしているだけです。人類の運命など、市場制度が君臨するためなら無視すべき単なる外部性にすぎません」
〜ノーム=チョムスキー『アメリカ国民の怒りはどこへ向かっているか』 〜
一生そんなことを言いつつ過ごすのかもしれないが、体調が悪い。
というわけで、家でゴロゴロとしながら、『SFマガジン創刊50周年記念特大号part1』を約一年ぶりにとりだし、読み始める。
テッド=チャン、グレッグ=イーガン、テリー=ビッスン、シオドア=スタージョンの短編を掲載順に少しずつ読んで、気がつけばもう1年だ。
昨日は、ブルース=スターリングの『秘境の都』という短編を読んだ。
読んだのだが、何だかよくわからない。わからないものはわからないままに、わかるときがくるまで置いておく、というのも有益なひとつの手段だが、短編小説ひとつにそこまでじっくりと取り組む気持ちもない私は、弟を呼んで、
「弟くん。これを読んで、この小説に何が書いてあるか、いったいぜんたい何を言わんとしているのか、私にもわかるように教えて下さい。とくにラストの周辺」
という注文を出した。
実に兄思いの弟は、私の要求どおり小説に目を通し、くわしく教えてくれた。
「まず、魔術を使ってミイラを蘇らしているじゃない、あれは、化石燃料のこと、つまり、
石油産業のことをあらわしているんだよ(弟)」
「あっそう!(兄)」
弟に指摘されるまで、まったく気がつきませんでした。
弟は、私が知りたかったラスト近辺の解説も、きっちりと解説してくれた。
非常に勉強になりましたです。ハイ。
かなり面白いためになる解説だったのだけれど、ラストのネタバレになるのでここではひかえる。
いわゆる市場の論理(それが新自由主義的なものであれ、修正資本主義的なものであれ)という枠の中で展開するエコロジー運動の、その倫理的、道徳的なあやうさをかなり謎めかしながら問いかける、というようなことを作者はやっているということだ。
その枠組みそのものを拒絶する、というようなことが可能なのか。
それは作品には描かれていない。
尻が切れたように物語は終わる。
そこから先は我々の物語。
我々の物語なのだ。
しかし、弟には恐れ入った。
私の100倍くらいすごいです。平身低頭。
映画『パンズ・ラビリンス』での子喰い鬼と少女の対決シーンとも少し似た、かなり意味深いラストだったです。
『2001年宇宙の旅』
--☆---
『暗いニュースリンク』さんのところで、読もうかどうしようか悩んでいた本の書評がでた。
『『ウィキリークス
WikiLeaks アサンジの戦争』』
買おうか。どうしようか。
*エル・トポ*(2011.2.19)
「今日では、われわれの社会がくずれて行き、まともな人間はすべてだんだん無力になっているということをわれわれに知らせるには、戦争さえも必要ではない。」
〜ジョージ=オーウェル『鯨の腹のなかで』〜
「二十一世紀初頭に旧ユーゴスラヴィアについて記したドゥブラヴカ・ウグレシィチによれば、「元共産主義者、近代資本主義者、国家主義者、宗教的狂信者」の誰もが、西側から吹きこんできた新風、すなわちポジティブな思考をとりいれるようになった。「彼らはことごとく楽観主義になっている」。だが、それは何も目新しいことではなかった。というのも、「楽観主義は、そのイデオロギーの歴史に汚点を残していた……。スターリン主義を生き延びたものがあるとすれば、それはスターリン主義の強要していた楽観主義なのだ。東欧諸国や北朝鮮でもそうだったが、ソ連には検閲があって、美術品、著作物、映画には楽天的な内容のものが求められた。前向きな性格の主人公と、生産割当量の達成の盛りこまれたストーリーと、革命による未来の栄光を約束する結末である。チェコスロバキアの文学は、「妄信的な楽観主義」に満ちていた。北朝鮮の短編小説は、いまだに「飽くなき楽観主義」にあふれている」
〜バーバラ=エレンライク『ポジティブ病の国、アメリカ』〜
テレビをつけたら、各チャンネルで「東京都知事選挙特集」が放送されていたわけだが。
『こころ世代のテンノーゲーム』さんの言うところの、
「東京都知事選が悪魔のサバトと化してまいりました。」という言葉そのままの状態に度肝を抜かれた。
私には、かってこういうものを見た、という経験がない。ショックの質と後味、という点においては、大昔に観た映画『エル・トポ』と向き合ったときとちょっと似ているが、あれは映画だしなあ。
しかし。いったいぜんたい、これは何なのだろうか。
公布される言説がどれだけ空疎なものであっても、その内容の中に楽観的で希望を感じさせる何かがありさえすれば、他は不問に付される。
不問に付される、という言い方が極端だとしても、「そこはあまり触れずにおこうや」、という傾向ははっきりとあるだろう。
前向きに今日を過ごすこと、言葉よりまずは行動に出ること、明るい未来を建設する意欲を前面に出すこと、そしてそれらの態度を土台から支えるのが、楽観主義だというのだ。
……。う〜む。
日本やアメリカで「定説」として蔓延している“楽観主義”や、“ポジティブ思考で幸福を掴もうスローガン”への批判は脇に置くとして、私が奇妙に感じているのは、旧ソ連では“楽観主義”は強要だったのに対し、こちらでは、市民が自ら進んでそうなろうとするところ。
まあ
「それでも、ポジティブなのは良いことでしょう?」
だというのだから、そのようにしかなりようがない、ともいえる。
おまけ。
楽観的に、ポジティブに、勝利を信じて特集。
その1。
『優位水準の石』光回線手売りバージョン。『非国民通信』さんから、
『採用に積極的な業界ですから』
☆☆☆☆☆☆
強引な勧誘を受ける側の人にとっては迷惑この上ないでしょうけれど、勧誘する側だって必死なんです。相手のニーズなど考えている場合じゃありません。とにかく契約を取らなければ自分のクビが危うい、こんな仕事でも続けざるを得ない、生きるためには人の心を捨てて戦闘機械にならなければならない、アフリカ辺りの紛争国の少年兵みたいな状況に置かれている労働者も多いはずです。他に選択肢があれば、こんな道を選ぶ人などほとんどいないと思いますが、「生きるためにはそれしかなかった」みたいな状況に追い込まれている人は増加の一途にあるのではないでしょうか。
☆☆☆☆☆☆
別角度からその2。
『デモクラシーナウ!ジャパン』から、
『グーグルがCIAと共にネット監視技術企業に出資』
今年は1984年になるだろう。
*コイズミ・フィーヴァー*(2011.2.16)
「それは非常に悪いことだ、われわれは兄弟なのだから戦うべきではないと言ったのだが、士官はそれに答えて、そんなことは問題ではない、アメリカ人は同じ母親から生まれた者を相手にまわしても戦うのだと言った」
〜『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』〜
「お金と消費が人生の目的だと独裁者が叫んでいるわけではない。しかし、そう考えられている。独裁者のための大々的なショーやパレードが行われたり、軍隊音楽が流れるわけではない。しかし、我々の時代は成功者の時代だ。彼らがどのような生活をし、どうして成功したのかが世間に流布される。成功できないのは恥だ。このメッセージを広めることにかけては、今日の株式業界は、過去の全体主義的独裁政権のプロパガンダよりも、おそらくはるかに有能である」
〜ニルス=クリスティ『人が人を裁くとき』〜
昨年末の話になるけれど、ポストヒューマンSF傑作選というふれこみの『スティーヴ・フィーヴァー』というSFアンソロジーを読んだ。
「SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー」のなかの一冊。
遠い未来(遠さは関係ないけれど)、化学技術の発達などによって、人類は人類を乗り越え、その先へと到達しうるのか。
しかし人類が人類を乗り越えるとはどういうことか、そもそも人類とは、人間とは何なのか、どのようにして乗り越えるのか、というテーマをあつかったアンソロジーだ。
生物学的な意味あいにおいて人間を乗り越えてしまう『死がふたりをわかつまで』のような作品もあるけれど、そこで問われているのは、どの作品にも共通して、純粋に倫理的な問題だ。
つまり、人間とはいかにあるべきか、という問い。
印象に残っているのは、『ウェディングアルバム』そして、『有意水準の石』という短編だ。
とくに素晴らしいのは『有意水準の石』で、ストーリーにはまったく触れないまま、作品世界を通じて読者に提起される倫理的側面にだけ言及するとすれば、
社会的ダーウィニズムが冷酷に機能する時空世界で実現した永遠の命、とは、人間が自らの手で作り出した無限地獄にほかならないのではないか
という言い方になる。
これは圧倒的な説得力で胸に迫る、純粋に倫理的な問いかけだ。
ブログ『きまぐれな日々』さんから
『「小泉・竹中改革」を盾に金持ち減税を正当化する河村たかし』
無知と無恥の真ん中にあぐらをかくことによって、人間は底なしに冷酷になれる。その冷酷さを見て見ぬふりをする市民が、彼らの改革に承認を与える。
人々が彼らの冷酷さに承認を与え続けるので、とうとう彼らは、市民の支持を得るために
おのれの冷酷さが他と比べても飛び抜けていることを証明しようと躍起になる
ありさまとなった。
人間は人間を乗り越えていくのか、などと言っている場合ではない。
逆ベクトルにおいて、人間は人間ではなくなっていくことも可能なのだ。
*最近購入した本、など*(2011.2.13)
「異なるのは性かもしれない、年収かもしれない。話し方、着こなし、物腰、肌の色や、頭や脚の数かもしれない。つまり、性のエイリアンがあり、社会の、文化のエイリアンがあり、その究極に種族としてのエイリアンがくるわけです。
SFにおいて、社会的エイリアンはどう扱われているでしょうか。マルクス主義用語で言うところの“プロレタリアート”なる人々。彼らはどこにいるのでしょう。」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『アメリカSFと他者』〜
「シリル=コーンプルース、シオドア=スタージョン、コードウェイナー=スミスといった人々を通じて、SFは少しずつ単純な種族差別主義から抜け出す方向へ進んできました。(略)
自由、平等、同胞愛といったラディカルで未来的な奥深い概念に対する、少し真摯な考察がなされるようになってほしいものです」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『アメリカSFと他者』〜
これは確かに過去に読んだおぼえがある、と胸を張って言える海外漫画は、マルジャン=サトラピの『ペルセポリス』とあとは
『ピーナッツ(スヌーピー)』
という私だが、このたび思うところがあり、海外漫画の翻訳本を意識していくつか読んでみた。
その中で、個人的にもっとも強い感銘を受けたのは、ジョー=サッコの『パレスチナ』とナージー=アル=アリー『パレスチナに生まれて』の2冊だった。
入念に情報が遮断され、またはゆがめられた形で伝わってくる「パレスチナ問題」の、その秘密の内部から外側の世界に向けてさまざまな次元のリアリティーを漫画によって発信する、という目的で描かれた漫画たちだ。
「パレスチナのリアリティ」と、その考察というものの漫画が2冊あって、たまたまその両方を手に取り、読み、深い感銘を受けた、そしてその感銘は、互いに補完しあう両者を読んだことによって、さらに強く、深くなった。
2冊のうちのいっぽうは、パレスチナの内部から自身と自身と接する外の世界を描いたものであり、もういっぽうは、他者という立ち位置から、パレスチナの内部の現実に可能な限り接近しようという試みそのものを描いた漫画だ。
『パレスチナに生まれて』、『パレスチナ』という順序で2冊を読み終わり、最初に読み終わっていた『パレスチナに生まれて』をもう一度手に取ると、序文を書いているのは、『パレスチナ』の著者のジョー=サッコだった。
「僕が今日あるのは、ナージー・アル・アリー、この希代の、パレスチナ風刺漫画家のおかげだ。僕が彼のことを初めて知ったとき、彼はすでにその2、3年前にロンドンで暗殺されていた。僕が彼に「パレスチナ・シリーズ」として出版された漫画本の取材のためにパレスチナ占領地に1990年代初頭に初めて訪れたとき、彼らの物語を絵にする---しかも漫画にするなどということは、世話になったパレスチナの人たちにおいそれとはいえないと思っていた。彼らの抑圧された状況を軽視していると思われやしないだろうかと恐れたからだ。
しかし、心配は杞憂に終わった。僕がやろうとしていることを打ち明けるとすぐに、彼らの顔に理解を示す微笑みの表情が浮かんだ。そりゃ、いいじゃないか。おれたちの仲間も風刺漫画家がいたんだよ。ナージー・アル・アリーさ! 少しずつそんな出会いを重ねながら、僕は自分のやろうとしている道がこのアル・アリーという男によってちゃんとしつらえられているということを理解するようになった。彼は、まるで崇敬といってよい深い尊敬の念で人々に語られていた。つまり、こんなふうに語られる---「彼は、イスラエル人、PLO、アラブ政権など誰も彼も漫画の標的にしたんだ。誰が彼を殺したのかは誰にもわからない。だが誰にも彼を殺したい理由があったのさ」と」
“パレスチナに生まれて”、そこに生き、そして暗殺されたひとりの漫画描きが、マルタ生まれの漫画描きの道をつける。
『パレスチナ』という作品の、とくに最終章のシークエンスは、素晴らしい。
サイードが「美的」と表現したのは、誇張でも何でもない。
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海外漫画と一口で言っても世界は広いが、日本で紹介されるもののほとんどは、アメリカそしてフランスの漫画が多いようだ。
ともかく、アメリカやフランス、その他の国の漫画を意識して読むということは、少なくとも私にとっては、今まで知らなかった文脈による漫画に出会う、私が今まで気がつかなかった価値観に出会う、ということを期待してのことになる。
「そこにある漫画を読んで、それをただ楽しむだけ」という立場にいる私のような人間が何を偉そうに、と言えばまあそうなのだが、風呂前有センセや野村亮馬センセのような作家性をしっかり持っている漫画描きが、消費者の求める最新流行の漫画求められ、その枠組みの中に閉じこめられ、窮屈がり、悪戦苦闘した揚げ句、連載が打ち切りになる、といういきさつの一部始終を確認する、というのが最近の「日本漫画を読む」ことになってしまっている。
そこまで感じているのは私だけなのかもしれないが、とにかく、これでは読んでいて、辛くて仕方がない。
この「漫画を読んでいて辛くて仕方がない」という気持ちも、海外漫画に手を出したきっかけのひとつだ。
ともかく。
水木しげるセンセの戦記漫画と比較する形でネット上で論じられていた、フランス漫画『アランの戦争』を読んでみた。
これは非常に抑制の効いた、高いセンスやインテリジェンスというものを嫌が応にも感じざるを得ない、大人のための漫画だ、という感想を、ちょっとした驚きとともに、私はまず感じた。
ちょっとした驚き、というのは、「漫画への読者(実際の読者というよりも、市場システムが想定する仮の読者なのだが)の期待の質」という面からも、日本の漫画市場システムの構造という面からも、けっして日本ではあり得ないような次元、設定の作品だったからだ。
これは作品の出来栄えや個人的好き嫌いという問題を脇に置いたとしての話だ。
作品全体を貫く知性、抑制された語り口から香ってくる上品で控えめなユーモア、人生を俯瞰して描写していく手際と視点位置の確かさ、ゆるがなさ、などなどを売りにした漫画、というものは、この日本ではちょっと考えにくい。
こうやって、日本に紹介される海外漫画は、紹介されるという時点で名作や成功作である場合がほとんどなんだろうけれど、ジョー=サッコやナージー=アル=アリーらの作品も含めて強く感じるのは、
それぞれの作品がそれぞれにめざす理想の高さ、というものだ。
漫画を描く人々の志の高さ、と言ってもいい。
それは漫画家だけのもんだいではなく、個々の漫画作品に「志の高さ」というものを求める読者の気質、というものが、大きく関係しているはずだ。
最近購入した本リスト。
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・『世界経済を破綻させる23の嘘』
・『マンガでわかる宇宙のしくみと謎』
・『北村薫・宮部みゆき編 とっておき名短編』
・『北村薫・宮部みゆき編 名短編ほりだしもの』
・『もう一度見たい伝説の名勝負NHK将棋トーナメント』
・『羽生VS森内百番指し』
・絵本『おてがみ』
・雑誌『MacFan』
・雑誌『SFマガジン』
・漫画『特上カバチ24』
・漫画『水木しげる コミック昭和史6』
・漫画『水木しげる コミック昭和史7』
・漫画『水木しげる コミック昭和史8』
・漫画『特攻の島2』
・漫画『森のテグー2』
・漫画『恋スルー乙女』
・漫画『パレスチナ』
・漫画『天空のビバンドム』
・漫画『アランの戦争』
・DVD『ハーヴェイ・ミルク』(ドキュメンタリー)
・DVD『イングロリアス・バスターズ』
・DVD『ウェディングベルを鳴らせ』
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