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※お知らせ。
『あなたにとどけるものがたり3』

発売になりました


新作の児童文学の短編集です。私も『幸運なあめんぼ』という短編を書いてます。
最寄りの書店でも御注文可能です。






KYUJOが空を飛ぶ(2008.8.27)



「歌うなと自分に言うことはできても
 誰も子どもにこれを歌えと命じる権利はない
 きみは戦争を讃える詩を書こうと思うか
 人間的でないものを歌う訳にはいかない」
  〜辻井喬〜


「われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実態にほかならない。だから、われわれはなにのふりをするかあらかじめ慎重に考えなくてはならない」
  〜カート=ヴォネガット『母なる夜』〜



突然ですが、ハーヴェイ=ミルクのドキュメンタリー映画から。日本語字幕つき。



ハーヴェイ=ミルクがどういう人かを知りたいかたは、簡単にこのあたりの記事をどうぞ。本当に注目すべきアメリカ、とは、こういうところにあると思う。


--☆---


実は、日記を書いている場合じゃなかったりするんだけど、『お玉さんでもわかる 政治の話』さんから、沢田研二の新曲をご紹介。

『我が窮状』という曲のタイトルが、「憲法九条」のことなのはすぐにわかるけれど、『我が窮状』としておけば、

特高警察に検閲される日が来ても大丈夫、という沢田研二の洞察と対策!

(^_^;)

======================================
麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが 
忌まわしい時代に 遡るのは 賢明じゃない
英霊の涙に変えて 授かった宝だ
この窮状 救うために 声なき声よ集え
我が窮状 守りきれたら 残す未来輝くよ

麗しの国 日本の核が 歯車を狂わせたんだ
老いたるは無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ
諦めは取り返せない 過ちを招くだけ
この窮状 救いたいよ 声に集め歌おう
我が窮状 守れないなら 真の平和ありえない

この窮状 救えるのは静かに通る言葉
我が窮状 守りきりたい 許し合い 信じよう
======================================


だそうです。


--☆---



読書家の皆さんに、ひとつ、お知らせ。
アーシュラ=K=ル=グウィンの最新ファンタジーシリーズ『西のはての年代記』第3弾『パワー』翻訳本がいつのまにか出版されております。

それと最後に。
『世界の片隅でニュースを読む』さんが、八代尚宏氏の「日雇派遣禁止反対論」に的確な反論をなさっているので、いきなりご紹介しときます。

『八代尚宏の日雇派遣禁止反対論に反駁する』

「人権メタボ」などと言う人に限って、「独占する権利」「骨までしゃぶり尽くす自由」「勝者の正当性」は声高に連呼するんだよねえ。実に、鬼畜です。




 



この自由な世界で(2008.8.24)




報道の仕事に携わっている自分さえもが、ニュースではなく映画によってそれを知らされた。その事実にショックを覚えました」
  〜鳥越俊太郎
    『ボーダータウン 報道されない殺人者』公式サイトよりー〜


「人類の圧倒的多数が、「2たす2は4になる可能性があると思います」と言われるよりは、「2たす2は5だ。夢うたがうことなかれ」と言われる方を好むということは、われわれ合理主義者にとって悲しい事実である」
  〜アイザック=アシモフ『わが惑星、そは汝のもの』〜


「人々が判断の道具を持つことを学ばずに、希望を追うことだけを学んだとき、政治的な操作の種が蒔かれたことになる」
  〜スティーブン=J=グールド〜



ケン=ローチの新作『この自由な世界で』情報が、『まどぎわ通信』さんのところで上がっているので、ご紹介。


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サッチャリズムと呼ばれたその新自由主義経済を踏襲したのがアメリカのレーガン政権であり,アメリカでも所得格差は拡大し,近年では所得の上位1%がアメリカの全体収入の2割を,20%が5割を稼ぐようになった.その後を追ったのが日本の小泉純一郎と竹中平蔵だった.現在日本で問題視されている「格差社会」は1990年代には他国で既に顕在化していたものの,それを敢えて無視して「メリット」に目を向けたのが小泉改革だったのだ.それが可能だったのは所得格差拡大を望ましいと思う人々が旗を振っていたからだ.そして米英を見れば分かるように所得格差拡大が顕在化するのは実はこれからだ
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だそうです。
やっぱり、ケン=ローチの作品はひとつも見逃せないな。
観たいなあ。

体調が悪いので、ちょっと寝込むかもしれません。
復活したら、ちょっと観てみたい映画、『MARYSOL のキューバ映画修行』さんところから、映画ボーダータウン 報道されない殺人者



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メキシコのシウダ・ファレスで1993年以来“若い女性”を標的に起きている「連続猟奇殺人事件」。2006年1月までの時点では、推定被害者は750人と言われている。
なぜ“若い女性”ばかりが、シウダ・ファレスで殺されているのか?
その謎を解き明かす鍵は、「マキラドーラ」と呼ばれるメキシコとアメリカの国境沿い(シウダ・ファレスもそのひとつ)にある輸出保税加工工場(アメリカの親会社が資本を提供し、メキシコ企業が安い人件費で製造、親会社に納品する仕組み)、そこで低賃金で働く若年女性労働者、腐敗した警察、真実を報道することを阻む勢力などにある。
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アメリカでは上映されない、と聞くと、こりゃ、ぜひ観てみたいな、と。

(^_^;)
最近の映画は、本当に頑張っているよな。大手報道機関のぶんまで、がんばってる。
(^_^;)
ここ日本では、オリンピックの開会式で少女が歌った歌は口パクだった、というような実にどうでもいいことが問題視されたりして、

「たいていの歌番組が口パクだろ!」

と思うんだけど、まあ、中国をけなしたいだけだから。

ちょっと、まじめに考えてみようか。
本当にどうでもいいような部分をあげつらうようにして、中国をけなしたい、という心理は、どこからやって来るのか。
そのまえにまず確認しておきたいのは、

日本は基本的に「リンチ国家」だ

という情けない事実だ。
日本における、社会正義の定義、文脈とは、少なくとも結果として、中学校におけるいじめの心理と、ほとんどかわらない。
正視できないほどの悲劇となった松本サリン事件の苦い教訓、イラクでの人質事件を思いだしたらいい。
誰もが安心して「いじめていい」ものと、「いじめてはまずい」ものを選別するのは、日本の巨大報道機関が担っている。糾弾されるべき、巨悪が存在する。しかし、本質的に

それが「いじめ」である以上は、標的は「弱者」であらねばならない。

日本国内における世論の義憤の矛先が、たいていは社会的弱者に向かうのは、その基本的な構造が、いじめだからだ。
日本の国内におけるいわゆる社会的病巣の摘発と、その改革が、残酷で冷酷な方向へと走ってしまうのも、そもそもの出発点から建設的でもなんでもない、「改革」の旗を立てた、ただのいじめでしかないからだ。
些細な細部をほじるようにして、ぐだぐだと、いびる。
しかし、それが例えば「イタリアの大聖堂に落書きした教員」のような力のない個人なら、「正義の力でいじめて、すかっとさわやか」で終了だが、中国だと話は違ってくる。
中国はあまりにも急速に巨大化して、いじめると言っても、相手の方が腕力が強くなってしまった。
立場が逆転したのだから、今度は日本が中国にいじめられるというような事態さえ、じゅうぶん予想できる。
さんざんボイコットだといきまいたものの、北京オリンピックは失敗に終る見通しはなく、メディアはやすやすと身を翻して、メダルの数に一喜一憂することに決めた。
悪なのだから徹底的に糾弾すべきだ、という義憤にも似た我々の気分はどうなるのか。
「徹底的に糾弾」と言っても、実際には「正義が勝ち悪が滅びるときの爽快な気持ちよさを味わいたい」という程度のものでしかないにしても。
私たちは、日本国内でむなしく吠えるしかなくなった。
その事実は、

どうしようもなくつきまとう屈辱感となって、吠えても吠えても、私たちの気分をいらただせる。

そのいらだちが、オリンピックの開会式における少女口パク騒動のような、観客席の中国人の「シャー!(打て!)」という声援が「殺せ!」という意味に聞こえるというような(タイガースの外野席はどうなるんだ)、内側に閉じこもって難癖をつけるだけの報道の中に、よくあらわれている。
放置できない巨悪に対して、しがない庶民の私たちは何もできない。何もできないから何もしない。だけど、気分だけはスカッとしたい。
はじめから何もできないのだから、私たちに責任はなく、責任がないということは、そのぶんだけ気軽でいいということでもある。
テレビバラエティーのあのタレントやこの芸人と、気軽さの度合いをあわせて、「日本の政府よ、なんとかしろよ」と嘆きつつ、嘆くことで(さわやかとまではとうてい無理でも)わずかながらでもスカッとしさえすればいい。
コイズミさんが、スカッとさせてくれる。
イシハラさんが、スカッとさせてくれる。
ハシモトさんが、スカッとさせてくれる。
新しい水戸黄門様が、次から次へとあらわれて、この危機的な時代のさなかに、耳に心地よい、ひたすら調子のいいことを言ってくれる。
だから、私たちはこの期に及んでも、まだスカッとし続けることができる。
スカッとする以外には、どうにもできない、特に外交面ではなにひとつ方策もない。

スカッとした気分のどんづまり

それが、私たちの北京オリンピックだ。
(^_^;)
なんにせよ。
日本における「よりよい明日の実現」とは、私たちがひとたび印籠を示せば、相手がしずしずとひざまずく、という上下関係の枠の中にある。
悪を懲らしめる。
不正を糾弾する。
民族の繁栄に心を砕く。
私たちは多数派を形成したうえで、上下関係の上の方と完全に重なりうあうように日々を過ごしさえすれば、社会の病巣とやらを発見し、それにリンチを加えてスカッとすることが可能だ。
「勝者の論理」そして「いじめの論理」、そうしたものに支配された、異様としか呼びようのない陰うつな世界。
念のために言っておくけど、私は中国政府が清廉潔白だとか、北京オリンピックは非の打ち所のないイベントだとか、そういうことを言っているのじゃないから。
華やかな北京オリンピックの裏側にある「本当の問題点」は、ナオミ=クラインがざくっと追求している。

ナオミ・クラインとクリスチャン・パレンティ 北京五輪がいかに警察国家と不平等の世界的広がりに光を当てているかを語る


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五輪を利用した抗議行動を封殺するために使われている機器や統合治安維持システムは五輪後も長期にわたって残り、中国国民の監視のために使われるのではないかと多くの者が恐れています。この監視システム急増の恩恵を最大限に受ける者の1つが米国のヘッジファンドと企業です。その中にはシスコ、ゼネラル・エレクトリック、グーグルも含まれます。
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シスコやグーグル、何よりもアメリカ合衆国が噛んでいるなら、あまり騒がずにおこうじゃないか。
気軽にスカッとするというわけにはいかなくなるからだ。

 



アニメ『崖の上のポニョ』感想文(2008.8.22)




「娯楽でいいんだよ映画は」っていうのは嫌いです」
  〜宮崎駿〜


「本当にぼくが感動するのはだね、ぜんぶ読み終ったときに、それを書いた作者が親友で、電話をかけたいときにはいつでもかけられるようだったらいいな、と、そんな気持ちにさせるような本だ」
  〜サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』〜


「いや、違う。きみたちだ」
  〜ピカソ
  ナチスの検閲官に『ゲルニカ』を描いたのはお前かと聞かれて〜



『崖の上のポニョ』を観てきた。
宮崎御大の最新アニメだ。以下、感想文。
なんのくったくもなく子どもたちが楽しめる、最上質の絵本のような物語、というような評価は、やや平凡に過ぎるかもしれないけれど、映画全体の「質」をざっくりと捉えて、観賞後の感想を無難にまとめるなら、こういう言い方になるかもしれない。
角度を変えて、アニメ版『たとえ世界を失っても』というような言い方だって、少々乱暴ながら、ざっくりと本質をとらえて、これもいい。
今回の宮崎御大は、何よりもまず、

最も気持ちのいい画を見つけてそれを描き出すことや、アニメーションの動きの面白さ、楽しさを観客に提供することに徹底的にこだわっていて、

これが半端ではない。
ある動機に突き動かされて、異常なほど、気持ちのいい画、気持ちのいいアニメーションの動きに、こだわっている。
それだけにこだわった、と言ってもいい。
だから、映画の中で繰りかえされる「子どもを助手席に乗せた母親の、度を越した無謀運転」などを取りだして、「これは無謀な運転だ」と問題視しても、どうしようもない(確かに無謀運転で、指摘することは間違いではないが)。
最初から確信犯なのだから。
運転が無謀だ。母親として、あるまじき行為だ。しかも、こんな危険な運転をする理由もない。ただただ、監督の宮崎監督が、車が走ってゆく気持ち良さ、運転する爽快さを、物語をねじふせてまで描こうとした結果にすぎない。
この映画は、日常を突き抜けてゆくような絵の気持ち良さや解放感を描くことに徹底して、徹底することで、結果として大きく偏っている。
偏っていようが何だろうが、そんなわけだから、スクリーンに映しだされる絵を追っていくのが、気持ちいい。観ていて楽しい。ワクワクする。無意味に車をドリフトさせて崖を登ってゆく若い母親が、非日常なまでに(非日常なんだけど)、かっこういい。
老女たちや子どもたちの何気ない所作、転がるバケツ、波のゆらぎにいたるまで、宮崎駿監督によって

整理され強化されつくした現実を土台としながら、スクリーン上を大胆に動き、解放感を撒き散らしてゆく。

喝采したい気分でいっぱいになってゆく。
どれだけディフォルメされていても動きの正しさは決して失わない。精巧を極める観察眼に支えられているからだ。
絵の面白さ、演出の大胆さ、動きの正しさに安心して身を任せ、酔いつつ、このようないびつな映画がどこからやって来たのか、ふと私は思考する。
これを「いびつ」と言っていいのかどうかはわからないが、とにかく「いびつ」としておこう。
『崖の上のポニョ』のいびつさは、映画制作にかかわっているひとたちの、なんというか、無理を承知であえて言葉にすれば、それは「気まずさ」のようなものではなかったか。
映画を鑑賞しながら、その気まずさをたぐっていくと、映画全体がやんわりと身にまとっている気まずさの対象が、浮かび上がってくる。
それは、映画『ゲド戦記』と、それと向き合う宮崎駿監督の存在だ。
これはかなり知られたことではあるが、スタジオ・ジブリとその周囲の関係者は、2年前に、

『宮崎駿』を工業製品化する試みとその無残な失敗

を経験した。
宮崎駿の工業製品化というプロジェクトとして、映画『ゲド戦記』は始めからスタートした。そして公開した。結果は、興行成績は別にして、プロジェクトは完全に失敗に終った。
2年前、宮崎監督がプロジェクトとその結果に対して受けたマイナス方向の衝撃と、激怒に近い感情が、残った。
それを知るスタッフたちの、宮崎駿監督に対する、「気まずさ」だ。
激怒に近い感情、とは、私が想像してみせただけのことだが、とはいえ、2年間をかけてこのようないびつな劇場作品が現に作られ、一版公開されているのだから。これは、激怒、としか呼びようのないものだったのではないか。
自分の身のうちに沸き上がる激怒の感情は、正当なものだ、と、もしかしたら宮崎駿監督は考えたかもしれない。
宮崎監督が自分の内に確信として抱いている、人間に対するある種のあきらめのようなもの、日本という国のかなり暗い見通し、そして(矛盾するようだが)ふつふつと沸き上がる正義感や、宮崎御大が世に問わずにおれない危機感というものを、バラバラに分解して、そのうわっつらだけを拝借し、あとはいつものジブリらしい絵を描いていれば、

「ほら、みんなが求めているジブリらしさって、こういうことでしょ?」

そのような態度の果ての、無残な失敗に直面した瞬間に、宮崎駿監督の内部で、『崖の上のポニョ』は命を宿らせた。……てなことを私は想像する。
……確かに、宮崎の息子さんであろうと誰であろうと、映画監督は失敗をする権利がある。ただ、失敗をする権利とはまったく違う次元で、私が『ゲド戦記』という映画から受け止めたメッセージは「宮崎駿の工業製品化」だったし、そのメッセージに首を縦に振ることができなかったし、ましてや、宮崎駿監督は首を縦に振るどころではなかったろう。
スタジオ・ジブリ(と、それを取り巻く映画業界)は、いつのまにか『宮崎駿』という存在を、もったいぶってカーテンの向こうに隠されたままのスーパーマシンのようなものだと思い始めていて、その思いを糧のようにして、スーパーマシンの運転席から宮崎監督に降りてもらい、そこに誰かを座らせさえすればジブリの映画作りは、じゅうぶん機能するはずだ、と踏ん切りをつけるように判断したのではないか。
宮崎監督の年齢を考えれば、『宮崎駿』の工業製品化は、一刻の猶予も許されない段階にさしかかっているというのも確かだったろう。
後継者の不在、という問題は、宮崎監督自身も頭を悩ませていたかもしれない。
しかし、それにしても、

消費者の購買欲を新商品に向かわせるときの広告業界の手法をそのまま持ち込み、

映画を作って、それにジブリの『ゲド戦記』というレッテルを貼る、という“心根”のありかたに、誰も疑問を抱かなかったのか。
「モノの違いのわかる」消費者への、おまちかねのジブリブランドのご提供だ。
こればっかりは、徹底的に否定されなければならない。
「みんなが求めているジブリらしさ、宮崎駿テイスト」というものを、完全に封印し、削除し、なおかつ、これこそがジブリ、これこそが宮崎駿だと観客を喜ばせること。
ただそのことのために、『崖の上のポニョ』は走り出した。
……『崖の上のポニョ』は、以上のような宮崎駿監督の個人的で、かなりせっぱつまった問題意識につらぬかれた映画だというのが、私の理解だ。
だから、別の言い方をすれば、アニメ映画『ゲド戦記』に対する、

当てつけにみちみちた映画でもある。

(^_^;)
宮崎監督自身が確信として抱いている見通しの暗さや、強い危機意識や、特徴的なニヒリズムというものは、今回の映画の中では、まったく、完ぺきに、その痕跡さえたどれないように、影も形もなく、いっさい触れられることがない。

「工業製品化するためにキーワードに分解された宮崎駿」を正面から完膚無きまでに否定するためです。

私は個人的に、『ゲド戦記』における食事シーンのできの悪さに深い失望を味わった人間だが、今回の『崖の上のポニョ』の、

食事シーンの念の入れようは、なんだっ!

(^_^;)
このようなはっきりとした当てつけは、『崖の上のポニョ』を際限なくどこまでもいびつにしてゆく。
助手席に我が子を連れた母親が台風の接近によって封鎖された道路を強行突破するシークエンスは、そうした危険を冒して我が家に帰る理由というものが、いっさい、しめされていないが、これなどは、『ゲド戦記』に当てつけることに夢中になってしまって、理由を後からこじつけることすら、おざなりになってしまったのではないか。
そして、この強行突破の一連のシーンは、絵としては、

「すみません、まいりました、ぐうの音も出ません!」

とひれ伏してしまうほどに、素晴らしい。
この映画を鑑賞している私たちが気持ち良くなればなるほど、ある種のひとたちが気まずくなっていく。
その口には出せない気まずさというものを、作品全体にいきわたらせて、そういう意味で、ちょっと奇妙な映画だと思う。
その奇妙さをこっそりと楽しみつつ、映画館でにやにやと笑う私がいる。
ニヤニヤした笑いは、やがてニヤニヤどころではなくなり、やがて満面の笑顔になってゆく(自分の表情には自信が持てませんけどね)。
物語としてこの映画を語りなおせば、再会のシーンとその一夜で、ひとつの物語は終っている。
それ以後は、別の物語だ。
『千と千尋の物語』でもそうだったけれど、いったん終ってしまった物語を、劇場公開作品として求められる「ラストの盛り上がり」に向かって、無理矢理に力技でオチをつけてしまう、といういつもの方法論を、今回の宮崎監督もやはり選択している。
ふーふーと息をつきながら、真っ赤な顔をして、物語をコントロールしねじ曲げている宮崎監督に出会うたびに、
「商業的に成功を義務づけられているということは、こんなに無理を極めなくてはならないんだなあ」
と半分だけ気の毒に思う。
後の半分は、

ちゃんと脚本を練ってから作ればいいのに、と……。

(^_^;)
なんにせよ、商業的に成功を義務づけられている、ということは、どうしてもどこかで、うさんくささが残る、ということだ。
まあ、このうさんくささの話は続けたい気もするんだけど、長くなるので、別の機会にしましょう。

 



アニメ『崖の上のポニョ』感想文の前に(2008.8.20)




「私たちの財産、それは私たちの頭の中にあります」
  〜モーツァルト〜


「人に対し親切な、気持ちのいい人達に会うと、抱きつきたいとさえ思いますわ」
  〜アーサー=ヘイリー『大空港』〜



数日前の話だが、体を引きずるようにして『崖の上のポニョ』を観てきた。
↓予告編↓


で、 感想文を書こうと思っているんだけど、それは後日ということで、細部というか、気付いたことをひとつだけ。


※ネタバレ注意です。

後半、宗介とポニョが、手と手をつないでトンネルをくぐるシーンがある。
このトンネルの入り口には、落書きや立て看板があって、色々書いてある。
「交互通行」
「一車線」
「ゆずりあい」
「一時停止」
トンネルの入り口の道路には、
「止まれ」

映画館で、思わず、ぷっと小さく吹いてしまった。
これ、宗介とポニョが将来踏み込んでゆくであろう夫婦関係への、神様(つまり監督)からの助言なんだよね。
(^_^;)
トンネルへと足を踏み込むとき、ポニョが、

「ここ、きらい」

という意味の言葉をつぶやく。
本当に、おかしい。
近くの席に座っている小さな女の子が、お父さんに
「ポニョ、暗い(トンネルだからね)の、恐いのかなあ」
とお父さんに小声で訊ねていた。
もちろん、暗い場所が恐いのです。
だけど、大人で、それなりに映画を見慣れている私には、宮崎監督のちょっとした遊びも、ちゃんと意図通りに理解して、意図通りにくすっと笑う。
大人の私は、くすっと笑って、それで正解だ。
宗介とポニョが、将来、福満しげゆき先生のマンガ『うちの妻はどうでしょう』の夫婦みたいになったら……、と、ふと思ったりもする。
人物は似ても似つかないけど、関係性という意味では、このトンネルのシーンとどこかでリンクしているんじゃないかなあ。……と、これは映画とは別の、私の頭の中の話。
映画は、ざくっと、全体を理解するのが、一番大事で、木を見て森を見ず、では、いけない。
だけど、映画の作り手はかなり細かい部分にも色々気を使っていて、そうして練り上げられた細部をことごとく素通りしてしまうのも、ちょっと淋しい。
シーンの細部に宿った作り手のメッセージを、注意深く観ることで、ひとつひとつ拾い上げてゆくすると、一本の映画の中で、作り手がどれほど多くの芸をこなしてみせているかが、わかってくる。、
例えば、映画『母べえ』で、大学の教授が自分の書棚から頼まれモノのドイツ文学書を見つけ、本に積もったホコリをふっと吹くシーンがある。これは、

「自宅の本を読んでいない」→「勉強を一切しなくなった御用学者」

の姿を描いているのです。
牽強付会でも何でもありません、本当です。



私は左利きの私(2008.8.17)




「ここは男性の世界です。ですから世界は男性の言葉を話すのです。言葉はすべて権力の言葉です。みなさんもずいぶん頑張りましたね。でも道のりはまだまだ遠いのです。自分の魂を売ったところでゴールに到達することはできません。なぜなら、そこにあるのは彼らの世界であって、みなさんの世界ではないのですから」
 〜アーシュラ=K=ル=グウィン『左ききの卒業式祝辞』〜

「みなさんは失望、不正、裏切り、そして取り返しのつかない損失を体験することになるでしょう。自分は強いと思っていたのに実は弱いのだと気づくことがあるでしょう。所有することを目指して頑張ったのに、所有されてしまっている自分に気づくでしょう」
  〜アーシュラ=K=ル=グウィン『左ききの卒業式祝辞』〜


「みなさんが誰かを支配したり誰かに支配されたりする必要に迫られることなく生活していくことを私は望みます。私はみなさんが決して犠牲者になることなどないよう望みますが、他の人々に権力を振るうこともありませんように」
 〜アーシュラ=K=ル=グウィン『左ききの卒業式祝辞』〜



*20世紀から21世紀をまっすぐに見通して、まるで木星から来たかのような偉大な音楽家、バルトークの『管弦楽のための協奏曲』のさわりを聴きながら、左利きの私の書く日記をお読み下さい。



将来の夢を保母さんに訪ねられても「猫か花嫁」としか答えようがなった子どものころの私という人間は、ただじっと、時間をかけて、モノを興味深げに観察するのが大好きなヒトだった。
つかまえたバッタを人さし指と親指で注意深くつまんで、バッタの背中の具合や腹の具合を興味深くじっと観察する。
草むらをうろついて、また新しいバッタを捕まえる。そのバッタも、手に取ってじっと眺める。
今度はキャラメルの箱が落ちている。落ちているものは拾ってはいけません、と言われているから、遠巻きに観察する。
蝉を捕まえたら、蝉もじっと観察する。
モノをじっくりと観察するには、ひとりでいることは何かと都合がいい。だから子どもの私は、朝が来るとひとりでふらふらと外をぶらついて、これを眺めていたい、という対象をひとたび見つけたら、植物のようにじっとそれを眺め続ける、そういう人だったようだ。
何を眺めているにしても、何かを眺めている私とは誰なのか? 自分の内部にふと生まれるそうした問いは、保母さんが言う「将来の夢」とは別の次元で、私を戸惑わせた。

モノを見る私はいったいどこからやって来たのか?

目を開いているかぎりは、私はどこかで何かを見ている。だったら私とは「モノを見る私」なのか?
そういう意味の問いを保母さんに投げ掛けようとして、問い自体をうまく保母さんに伝えることができず困った顔をされたことが一度あると記憶している。
今だって、うまく言えているか自信ないなあ。
(;^_^ A
ともかく、モノを興味深げに観察する私は、ある時期を境に、左利きの私になった。
私が左利きになったのは、小学校に入学したときだ。それ以前には利き腕というものがあることも知らなかった。
小学一年生の教室で、左手に鉛筆を持ち、模写すべきひらがなや数字を器用に反転させてノートに書き写す自分自身に直面したとき、

私は自分が左利きなのだと知った。

そのとき以来、今日まで私は左利きだ。

「反日」だとか「日本人じゃない」とか、そういうレッテルを貼るならそれもいい。
「馬鹿」というのも、おそらく当たっている。つーか、当たってる。
(^_^;)
自分という人間はいったい誰なのか、どういう人物なのか、なんと形容すればいいのか、今もってよくわかっていないけれど、少なくとも、5歳の春以降、「私は左利きの私」です。

私は、ペンを持つ手は、右手だ。
両親にかなり厳しく矯正されて、それから、ペンを持つ手は右手になった。
文字という文字を鏡に写したように反転させて書く私のくせは、左手にペンを持つからだ、と両親は解釈し、ならば、右手に鉛筆を持たせて文字を書かせれば正しく文字を書くようになるはずだ、と両親は考えたのだ。
目の前にある、例えば「あ」という文字をお手本にして、そのお手本通りに模写することができないという息子の状態に、両親はかなり手を焼いたはずだ。息子に手を焼く、という日々の中で、

なぜこんな簡単なことが自分たちの息子にはクリアできないのだ

という不安や焦り、怒りを、両親は押さえきれなくなっていった。それは人の親として、自然な反応だったろう。
当時の私といえば、自分という人間には決定的な欠陥があるのではないかという疑問を抱き始めていて、だって、「あ」や「む」といったひらがなや「2」や「9」といった数字を、目の前のお手本通りに書き写すことができないなんて、いくらなんでも普通じゃないのではないかと感じたのだ。
あの日々は、私にとってかなり危険なものだったと、振り返って思う。
今の私は、文字を反転させて書く、という器用な芸当はできない。左手で文字をすらすらと書くことも、できなくなった。
だから私は、正しくは、部分的に矯正された左利きの私、だ。
そのことを、今の私はほんの少しだけ残念に思う。
私の国籍は日本人かもしれないが、私自身は左利きの私だ。
私の性別は男性かもしれないが、私自身は左利きの私だ。

左利きの私が個人的に深く共感し、また感銘を受けた、ネットコラムをどーんと紹介。

ジェンダーフリーとは

大和民族は恥の代名詞?

5.6%の憂鬱

政権交代の実現は「保保二大政党制」の始まり

暗黒面に飲みこまれるな!!

認識的相対主義

英霊アンケート─終戦記念日の過ごし方「靖国神社以外で」が9割も

リナックスの嵐

……暑いので、自分の考えを文章化するのがめんどいので、よそんちのコラム紹介とさせていただきました。
ちゃい。
(;-_-ゞ
左利きの私に、どうか祝福の拍手を。
サウスポー! サウスポー!

アンコールは、天才若手指揮者ドゥダメルとシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラのコンビで、映画『ウエストサイド・ストーリー』からバーンスタインの『マンボ』



この楽しい演奏は、2007年8月19日の日曜日なのだそうだ。
マンガ『のだめカンタービレ』の峰くんが敗北した日。
現実が虚構を超えるとは、実にワンダホーな話。ブラボー。

 



優生思想と被害者意識と夜と霧と悪霊(2008.8.14)




「奴隷の所有者には優しく、しかし奴隷には冷酷な心をもつような人たちは、自分を奴隷の立場においてみたことなどけっしてないようだ。変化の希望さえもてない、なんと憂鬱な展望なのか」
  〜チャールズ=ダーウィン〜


「魯鈍は好ましくない人々の間では最も上位に位置し、もし特定されないなら、子孫を増やすこともありうるので、民族の繁栄を脅かすことになる。我々は全員が白痴と痴愚を認識しており、どうすべきかも理解している。ということは、魯鈍のレベルのすぐ上で尺度は切断されなくてはならない(略)……優生学はこのばかげた考え方を積極的に利用した」
  〜スティーヴン=J=グールド〜


「勝利者の唯一の宗教は、冷酷に解釈されたダーウィニズムであり、それは、最適者のみの生存こそ宇宙の意志であると主張する」
  〜カートヴォネガット〜


「人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう」
  〜V=E=フランクル『夜と霧』〜


「貧困の悲惨さが自然の法則ではなく、我々の社会制度によって引き起こされているとしたら」
  〜チャールズ=ダーウィン〜



1994年にルワンダで起きた虐殺事件を元にした映画、『ホテル・ルワンダ』予告編。



そして、↓2008年の日本↓
「(原爆投下は)しょうがない」で有名な「久間章生」氏をキーワードにして検索かけていたら、『世界の片隅でニュースを読む』ことになったのだが……。
……日本という国は、近い将来、アジアを血の海に変えるかもしれんな。

『潜在する「原爆肯定論」と戦争体験の「伝え方」』

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中国戦線に出征した元兵士が、新兵の時に上官命令で中国人捕虜を銃剣で殺したという体験を話したところ、ある子どもが「○○○(中国人の蔑称)を殺せるなんて羨ましいな」という感想を漏らしたことがあった。
======================================

どびしー!
(;゚;Д;゚;)
銃剣で突き殺すのが羨ましいって、どゆこと?

これって、愛国心テストで何点になるんですか?

『ハリー・ポッター』が読者に教え諭す「彼が主人公であるなら、その主張や行動はすべて正しい」という思想に骨の髄までかぶれてしまったのかなあ。
『ハリー・ポッター』のあれは、わかりやすく、しかも応用が利く理論で、世界中の子どもたちが読みふけったのもよくわかる。
つまり、

「アメリカがイラクに爆弾を落とすのは完全に正しい、なぜなら、アメリカだからだ」

というあれ。
なんせ、『ハリー・ポッター』の世界じゃあ、主人公のハリーが魔法学校で無差別テロに及んでも(教師の注意をそらすというような理由で!オームかおまえは!)、それが正しい行為ということになっているからな。
売れれば何でも正しいことになっているので、本の中でも外でも『ハリー・ポッター』を糾弾するものはいない。
「チャン●ロどもを、銃剣で突き殺したいわあ」
とハリーが言えば、それは対テロ戦争になるのです。

町山氏の嘆きが、胸にすとんと落ちたわ。

参考、『ルワンダ紛争』

○○民族によって迫害を受けているという共同幻想を共有していさえすれば、少なくともその内部においては、虐殺行為を行いながら被害者ヅラをすることも可能だ。
しかし、銃剣で刺し殺すのがうらやましいとは……。
オイラは、犬や猫だって、とても刺せないよ。
ていうか、他人の腕に

注射針が刺さるのを見るのだっていやだぜ!

(T△T)
余計なお世話だけど、小学生も高学年になっているなら、映画くらいまともに観れるようになったほうがいいぞ。
『ホテル・ルワンダ』くらいわからんで、どーする。
映画自体のできとしては、中の上くらいかな?
アトム=エゴヤンの『アララトの聖母』をわかれ、と言ってるんじゃないんだから。



いや、まて、わかってもわからなくても、子どものうちから本物に触れておくのも、いいかもしれん。無慈悲な傲慢さ、許されざる欺瞞が、あちらの登場人物、こちらの登場人物へと、悪霊のように取り憑いては離れてゆくのはなぜか? 国籍、性別、年齢、民族籍、時代、階級、職業、ありとあらゆる立場を超えてなお、個人個人に問われるべき本当の罪とはいったい何なのか。
ものっそ難しい、胸を打つ映画です。
まあ、観たほうがいい。
このままいけば、日本の未来は21世紀の

『夜と霧』の舞台になってしまうだろう。

言っておくけど、おどしでもすかしでもないから。


--☆---



イヴィツァ=オシム元サッカー日本代表監督の最新情報が来ました。

『誤訳でねじ曲げられたオシムのクロアチア紙インタビュー』

(^_^;)
オシムさん、日本の小学生たちに、なにかひとこと、おっしゃってください。



 



ライ麦畑のつかまえ役(個人編)(2008.8.10)




「広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない。誰もって大人はだよ。僕のほかにはね。で、僕は危ない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。つまり、子供たちは走ってるときにはどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやっていればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」
 〜J=D=サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』〜


「ならばわしらは何者か、わしらはどこに行けば、まるごと生きられるのか」
 〜アーシュラ=K=ル=グウィン『ゲド戦記 帰還』〜


「無害な非真実」
  〜カート=ヴォネガット『猫のゆりかご』〜



私が保育園児のころの将来の夢は、

1.猫
2.花嫁

だった。
現実にはどちらも不可能で、私としても当時から懐疑的だったし、さほど乗り気でもなかったのだが、保母さんがどうしても将来の夢を言えと私にせまるので、ならばと発表したのが、猫と花嫁だ。

私は何にもなりたくない子どもで、

そのくせに、幸福にだけはあこがれていたのだ。
病気がちでいじめられっ子の、ネクラでいじけた実につまらん日常を置き去りにする幸福。それは例えば、結婚式場のコマーシャルのあの花嫁さんだったろうし、小猫を育てている母親猫だったろう。
半分以上は言わされる形で発表した「私の将来の夢」は、周囲の子どもたちや保母さんにどのように受け止められたろうか。記憶はない。
あなたの将来は花嫁でもなければ猫でもない、他の何かだ、と、保母さんは私に言ったはずだが、何も覚えていない。
覚えている必要のないものは、誰だって、覚えていないものだ。
ただ、その時の私は感じたに違いない。
猫になることすらできない人間という生き物は、かなりつまらないし、そのうえ、たった一日、花嫁になることも不可能とは、

先が思いやられる話じゃないか。

やがて私は小学生になり、その年の夏を過ぎたころには
「もうだめだ」
と感じるようになるのだが、それはまた別の話。

ネットの網の目の中をふらついていたら、とてつもなく感動的なニュースにでくわした。
あまりに感動的なので、最初は現実のニュースとは信じれらず、

アーシュラ=K=ル=グウィンか手塚治虫の(未公開)新作SFかと思ってしまったくらいだ。(手塚治虫は新作描けないけどね)

夫が出産したあのトーマス家、
今度は妻がオッパイをあげている!



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今回特筆すべきは、トーマスさんは哺乳瓶でミルクを与えるが、妻ナンシーさんは自分のオッパイを与えているということだ。これは母乳分泌のためのホルモン操作と搾乳機による刺激のために可能になっているという。性転換手術を受けた夫婦にとって、トーマスさんのこの快挙は大きな勇気を与えたことだろう。心から拍手を送りたいと思う
======================================

言葉は、ありません。
ただ、素晴らしいです。
まるで、星の王子様に出会った、狐の気分。



--☆---


さてさて。
北京オリンピックがはじまりましたね。
4年に一度、個々の競技者が意識しようがしまいが望もうが望むまいが、国境ごとに人間がわかれて金メダルやら銀メダルの数を争そわさせられるという、一大スポーツ幕の内大会がオリンピックだ。
開会式は有無を言わせぬ素晴らしい出来栄えで、

チャン=イーモウの最高傑作じゃなかろうか?

茶番といえば、確かに茶番だけど。
(^_^;)
ベルリンだろうが東京だろうがシドニーだろうが、本質的にオリンピックは虚構の祭典であり続けたわけで、しかし、それにつけてもすごい開会式だった。

東京でオリンピックやっても、これほどの質のプロパガンダ演出は無理なんじゃないかと思わせるほどの……なあ、イシハラさん?

実質経済でアメリカを追い抜こうとしている(日本はすでに遥か下)巨大国家の、すさまじい力を衛星中継ごしにまざまざと見せつけられたというわけ。
つーか先月(7月)の日本は、

企業倒産が今年最多の1372件!

というありさま。
そんなこんなで、2007年の自殺者数は政府発表によると3万3093人。しかも、日本にはこのほかに変死者が年間約15万人もいて、WHOはその半分を自殺者とカウントしているという。
WHOによれば、日本の昨年の

自殺者数は11万人!って、どんな暗黒国家だよ、おい!

自殺者の総数を自国民にひた隠しにする国と報道機関が、中国政府の報道規制にとやかく文句をつける。実にごりっぱ。
実際は、中国と張り合うとかそれどころじゃないんだな。ちゅうか、もうじきフィリピンあたりと張り合うことになりそうな予感が。
(^_^;)
私は見てないんだが、読売テレビで、
「開会式の一糸乱れぬ踊りは中国の全体主義的な部分を彷彿とさせた」
てなイヤミなことを言っていたそうなんだけど、気持ちはわかるが、ごめん、それ、自爆だから。
北京オリンピックの開会式に全体主義の恐ろしさを感じてたりしたら、あーた、

高校野球の入場行進はどうすんだよ!!

ドナドナド〜ナド〜ナ♪ のメロディーが聞こえてきそうな、あれ。
ありゃあ、学徒動員に産毛が生えただけだろ。
(^_^;)
まあこんな調子で、世界中の人々が、テレビにかじりついてオリンピックの開会式のありさまにあーだこーだと蘊蓄をのべている(私もそのひとり)ちょうどそのころ。ひっそりと

グルジアとロシアが戦争を始めました。

平和の祭典のしょっぱなで。
ロシアのプーチンが貴賓席から選手団に手を振って見せている、そんなときに。
夜空に何度も打ち上がる花火の、なんというむなしいことよ。

 



アソウ支持とボンクラ大爆発(予感)(2008.8.8)




「広島は、ただ私たちにその悲劇を思い起こさせるだけではありません。戦争は更なる戦争を呼び、暴力は新たな暴力を生み、もっとも弱い立場の人々がもっとも苦しめられるということを、私たちに教えています」
 〜エクアドル外務副大臣 ホセ=バレンシア
    広島市・原水爆禁止2008年世界大会 ('-'*)〜


「ベネズエラ国民は、世界から核兵器をはじめ、すべての大量破壊兵器を完全に、ひとつ残らず、無条件で廃絶することを主張します。軍縮と安全保障分野では、多極化した複数主義の世界と、全面完全軍縮をめざしています」
 〜ベネズエラ駐日大使 セイコウ=ルイス=イシカワ=コバヤシ
    広島市・原水爆禁止2008年世界大会 ('-'*)〜


「日本の安全を考えれば(核兵器は)やむを得ない。核抑止も現実的に必要なことではないか」
 〜日本政府最高責任者 ☆福田康夫☆
   広島市・2008年8月6日 記者会見 (T△T)〜


「道ばたの草を食え、ということだ。いまの北朝鮮とおなじではないか。(中略)国民に対してこのようなことをする日本政府が、敗戦と同時に消滅したわけではない。いまも健在だ。おなじことをまたやるだろう。そしてそのときには、道ばたの草どころではない、もっとひどいことになるはずだ」
 〜片岡義男『白いプラスティックのフォーク』〜



「マガジン九条」さんところでも話題になっている、例の世にも不思議な世論調査

朝日と読売の数字をくらべてみると……えー。

わしら国民は、新聞を読めば読むほど自分たちの真意がわかんなくなるという奇々怪々。

(^_^;)
まあ、今回の改造内閣のメンツで、私が一番驚いたのは、自民党幹事長にアソウ氏が起用されたことかな。

なんでも、今の自民党内部でもっとも人気がある人物が彼なのだそうだ。

確かに、朝日新聞の調査でも読売新聞の調査でも高い評価となっている。
読売調査では、66パーセントの人々が、アソウの幹事長起用を評価しているという事態……。
ひたすら攻撃的に、調子のいいことを吐き散らしていさえすれば、それをメディアが引き立て、国民目線の改革者として国民の支持を集める。というのが今の日本の“民主主義”の実態なのだから、これでいいのだ、と納得すべきなのか。
コイズミ、ハシモト、ヒガシナントカ、イシハラ、そしてアソウ。
失言を繰り返せば繰り返すほど、

本音で物申すスゴイやつ、と称賛される裸の暴君たち。

まさしく、
タカ派か極右かの選択
としか言い様のないありさま。
(^_^;)
とういうわけで、日本の未来はあいかわらず、お先真っ暗だが、いっぽうで、着々と革命の機運が高まっているのであった。
ちゅどーん。

I wanna be communist

=====================
今まで政治拒否、とりわけ左翼への拒否が強かった若い世代の動向です。どう変わる兆しを見せているのでしょうか? (まだ一部に留まっているとはいえ)若者の願うところが、こうした左派政党の主張するところと重なり合ってきたとすれば、遅ればせながら日本にも正常化の道筋が現れると思いたいものです。
=====================

か、革命積乱雲発生やんけ!

。('-'。)(。'-')。インターナショナル〜


反乱じゃあ、スパルタカスじゃあ〜! カムイ伝じゃあ〜!
知らんぞぉ〜。
ワシが言ったのじゃないからね、日経新聞だかんね。


 



8月6日ショスタコーヴィッチ*(2008.8.6)




「黒こげになった中学生たちの中に、お父さんと呼ぶ子がいました。見おぼえのある編上靴で、やっとわが子とわかるひどいやられようでした。
うれし涙を流しつつ、子どもを背おって、灼熱の日中を西地方町から電車道にそって南にくだり、二キロ半の道を一時間半かかって江波本町の自宅につれて帰りました」
 〜広島テレビ放送『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』〜


「長男の顔は赤く焼けて腫れ、指も焼けただれて死んでおりました。
私のつきます直前に息をひきとったのでしょう、ほほを流れた涙がまだかわいていなくて、朝日にきらりと光っていました」
 〜広島テレビ放送『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』〜


「死期がせまり、私も思わず、おかあちゃんも一緒にいくからね、と申しましたら、あとからでいいよ、と申しました」
 〜広島テレビ放送『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』〜


「舟入の救護所からお父さん、お母さんに吉島町の社宅に運ばれ、お父さんに好きだった軍歌を歌ってもらいそれを聞きながら死んでいきました。桜美一郎君は8月6日が誕生日でした。彼が広島二中一年生最後の死亡者で、本川土手に整列した広島二中一年生321人と4人の先生はこうして一人残らず全滅しました」
 〜広島テレビ放送『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』〜


「子どもの命にかかわる仕事をしており、言葉にならない。戦争の旗を平和の旗に変えて、二度とこのようなことのないように」
 〜アレイダ=ゲバラ(原爆資料館見学後)〜


「気分さえよければ真実かどうかなど気にしないというのは、金さえ手に入れば汚い金でもかまわないというのと同じくらい倫理的にたちが悪い」
 〜エドマンド=ウェイ=ティール〜



8月6日ということで、いきなりですが、ショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲(さわり)をお聴きになってから、以下の文面をお読みください。
3分ほどです。
ショスタコーヴィッチによる、これが20世紀、それに続く21世紀という時代です。



20世紀最高の音楽家はバルトークとショスタコーヴィッチ

のふたりだと私は思っている。
地球に来訪するほどの宇宙人なら、それくらいの感受性は持ち合わせているはずだ。
このふたりの偉大な芸術家の音楽は、地球に来訪した火星人になったつもりで聴けば、いちばん、わかる。
西洋文明(すくなくても産業革命以後の)とはなんなのか、なぜ地球人は、他の全生命体を巻き添えにして滅びようとしているのか。
地球にすんなりと来訪できるような科学技術を火星人が持っているならば、バルトークとショスタコーヴィッチの音楽CDが数枚あれば、じゅうぶんだろう。
21世紀をまっすぐに貫いて、さらに先へと伸びてゆく暗くて重たい見通しと、人間の度し難さ、そしてその奥にある、胸を切り裂かれるような

ある種の切望

を、火星人は感じるはずだ。
火星人に喜怒哀楽の感情があるのかどうかはわからないが、ひととおり聴き終わった後は、おそらく、腹を抱えて笑うか、頬を濡らして泣きくずれるかのどちらかになるのではないか。


--☆---


8月6日、9日がどういう日なのか、ちゃんと答えられるキューバの子どもたちの動画を発見。




もちろん、歴史年表として知っているだけじゃダメなんだけど、キューバの人たちはそこも理解してるみたい。

かたや、ゲバラたち使節団の広島行きを拒絶する日本政府。
あれやこれやを「いたしかたなかったこと」として覆い隠せば、日本はいつだって清潔で美しい日本だ。



そして日本……。

「1945年の8月6日に何が起こったのかを、知っていたら教えて下さい」
「し、しらなーい」



! ( ̄□ ̄;)

きみら、骨の髄まで消費者なんだな。
取りあえず、絵に描いて説明しますと、こういうわけなんですが……。



最後に、8月6日がどういう日か、デタラメ人間の私が説明します。
8月6日、それは、

全世界の人々がアトミックカフェにつどって、アトミックティーをいただく日です。



まいどあり〜!




……世界は、ショスタコーヴィッチ。




紫式部の「赤ちゃん人間」大作(2008.8.3)




「不服従が……あの一度きりの禁じられた視線が……」
 〜キャロル=エムシュウィラー『悪を見るなかれ、喜ぶなかれ』〜


「言論の自由なき世は
 うばたまの
 心の闇の牢獄とぞ思う
 戦えば 必ず勝つと自惚れて
 いくさを好むバカな軍人
 我が力 かえりみもせで ひたすらに
 強き言葉を民は喜ぶ」
 〜平井鉄太郎〜


「朝日新聞は彼への手紙の形式をとった社説を掲載し、「日本では国連大使の人事が国会で論じられることはまれです。現大使が誰なのかを知る人がどれだけいるでしょう。真っ向から議論が交わされた貴国に、少しうらやましい思いに駆られた」という文章で閉じていた(2005年8月5日朝刊)。しかしこれは不正確な表現だった。北岡の任命を論じなかったのは他ならぬ報道機関だったのだから」
 〜河辺 一郎『日本の外交は国民に何を隠しているのか』〜



剣歯虎の牙のように肥大化しすぎた自意識を抱えて

長年、大変なことになっている大槻ケンヂ氏ですが、そういう自分を有効利用して名曲を作り続けているようで、お元気そうで何よりです。
『踊る赤ちゃん人間』


すげこわ。
(T△T)
胸に突き刺さるような歌ですね。
(^_^;)
まあ、個人的な胸の痛みは置いておいて。
実は、ここだけの話なのだが、世の中の人間は、ほんの一部の例外を除いて、

大人のふりしていてもみんな赤ちゃん人間なんだって。

いや、いいわけでも何でもなく。

『幼年期の終わり』というSF小説の古典に、ちゃんと書いてあるよ。

本当にまじめな話、フィンランドやスウェーデンならまだしも、この日本にどれだけ大人がいるってんだ?
中学生くらいになると、周り大人の欠点が急に見えてきただろ?
大人って言っても、たいしたことねーなと思ったよな?

つまり、日本人の精神年齢は中学生くらいでストップしてしまってるつーことだよ。

携帯小説がバカ売れするはずだよ。
私たちの問題は、赤ちゃん人間であるかどうかよりも、自分自身を「ダメ人間」だと思い込むことなんだと思う。
すでに赤ちゃん人間は多数派なのだ!
……まあ、大槻ケンヂ氏はぜんぶわかっていて、それでもホギャーと泣き叫ぶ。いつまでたってもウブなひとだ。
大槻ケンヂ氏のような、ウブな赤ちゃん人間は、かわいらしい。かわいらしい人を、かわいらしいと言って、かわいがるのは、正しい行為だ。それが赤ちゃんだというなら、それもよし、だ。
しかし、このままいけば、自己不信のあまり、大槻氏は失血死してしまうだろう。本当に心配だ。
えー、何が言いたいかというと(長い前フリ)。
結局、大槻氏は、論点を笑わせた過激でデタラメなことを吹聴しまくっている自分をかなり自覚していて、だから苦しんでもいるんだけど、自分でちゃんとわかってるなら問題解決なんてまあどうでもいいじゃない、と、私は思うのだ。

「わかっている」なら、膨大な情報の海の中から、偶然の積み重ねでしかない日常の中から、価値のあるものを拾い出せるはずだから。

私みたいにね。
そうさ、実は、自画自賛がしたかったのさ。
(;^-^ゞ
まあ、私はあまり自覚的ではないのかもしれないけれど、それでも、価値のある情報を拾い出すセンスだけは、あふれるほど持ちあわせてるみたいなんだよなあ(謙遜しているように見せて実に尊大。酒も飲んでないのに)。
と言ったシリから。
毎日新聞どころか、いわゆる一般紙はまったくと言っていいほど読まないので、こちらの騒動を今ごろになって知った私。

毎日新聞の問題について自分なりに整理してみる。

煽り煽られ

しかし、たいしたニュースじゃないよね、ぶっちゃけた話。
日本の報道のゆがみっぷりは今に始まったことじゃないし、個人的には何も驚くことはなかった。
というか、そんなに騒ぐことかなあ。
こんなので騒いでたら、こっちなんかどーすんの?

「日本人はスカトロ・ペド」─世界に発信“ヘンタイ物語”に非難集中

(^_^;)

======================
問題になっているのは、“ミナモト”という性格異常者の男の生涯を綴った物語。内容のハレンチぶりは、もはや目を覆いたくなるばかり。
======================

平安時代かあ……。

これこそ、日本の古きよき伝統という感じ?

(^_^;)
まじめな話をすると、今の日本のジャーナリズムって、年中こんなもんですよ。
中の人が、こんなもんなんだもん。
↓こんなもんな人↓

経済ばか者

うわあ〜。中学生脳だよ(苦笑)

無惨かつ無自覚な赤ちゃん人間がご丁寧にもアホをさらす。
正直言って、

かなりひどい。

そして、日本のメディアが日本の国民に対して、どのような「質」の報道を日々行っているかは、日本の外側ではとうにバレバレなのだ。
そうなると、日本人が報道機関を通じて手にする事実なんてものは、外側に一歩踏み出した途端に、

サイババのネタばれ奇跡みたいなものでしかなくなってしまい、

まさしく「ネタ」としか扱ってもらえなくなってしまっている。
向こう側では、ね。
(^_^;)
だから、あちら側にむかって毎日新聞が、どんな「いかがわしい」報道を垂れ流したかとか、その結果、あちら側が「間違った歪んだ理解の仕方」をしてしまうのじゃないかとか、そんなふうに危惧することはないんじゃないかな。

毎日が毎日新聞(英字版)! 決まった!

そもそも、よりによって“日本”の英字新聞で、なにかしらでも事実に関することを知ろうなんて、思わないでしょうよフツーは。
(^_^;)
私が心配なのは、あちら側のことじゃないんですよ。
むしろ、

こちら側には、自分の顔を見ようにも、まともな鏡がほとんど存在しないということなんだよね。

この国では、誰もが、自分の顔つきに責任が持てない。
私みたいにセンスにあふれた人は、そんな心配はないわけだが。
(^_^;)
さあ、結論が出たところで、こちらのブログ記事にまとめてもらって、きっちりオトしてもらいましょう。

事実は小説より奇なり、日本政府の手にかかればさらに無惨!

裸の王様とおちゃめくん その1

裸の王様とおちゃめくん その2

======================
情報統制などで誤魔化しても冷静に状況が読める人間は何処かしらにはいる。裸の王様の場合は打算や虚飾の塊である「王」という権威が「純真な子供」に打ち崩されると言う図式だが、こっちは「大東亜共栄圏」とかいう妄言や旧軍の暴虐行為、中国蔑視も絡んでいる為それよりはややこしいのだがこの学生の発言は、当時の限られた資料の中で判断したものであるのだろうが、明らかに的を射ている。その後、この学生は行方不明になったという話だが…
======================

うわあ……。

(^_^;)

「日本民族の誇り」ほど恥ずかしいものはないな。

さて、センスあふれる私がクリックを5回ほど繰り返して見つけた、価値ある論説。

果たして民主党は「使える道具」だろうか


======================
同じく「反自由主義・護憲」という立場をふだん主張しておられる方々が少なからずおられます。当然そのふだんの主張は非常に重要なファクターであろうと思っていたのですが何故か民主党を「支持」される。「反自由主義・護憲」という立場から言えば甚だ逸脱した選択と言わざるを得ません。それとも「反自由主義・護憲」という立場は「枝葉末節」「小異」なことだったのでしょうか。だとすれば「反自由主義・護憲」などという看板は下される方がよろしいでしょう。いや「反自由主義・護憲」という立場は重要であると言われるのであれば一体政党を支持するとはどういうことなのかと思うわけです。
======================


こんなに堂々とした態度表明&クリアーな意見表明に出くわしてしまった。
もう、一般紙の社説は価値が下がる一方だな。

 



ライ麦畑のつかまえ役(世界編)(2008.8.1)




「幸いにして、すべての生徒が大きな嘘の教育学をよろこんで無批判に受け入れているわけではない。そして教師がつく嘘を鋭く見抜く生徒もいる」
 〜ノーム=チョムスキー『チョムスキーの「教育論」』〜


「知識に飢えているわれわれ、
彼も私も含めたわれわれは取り残された」
 〜ブレヒト『ガリレイの生涯』〜


「まもなく気がついたのは、常に権威を警戒していなければならないこと、そして、私の発言を封じたり本当の私であることから逸脱させようとする試みと考えられるものに屈することがないよう、何らかのメカニズムを作り上げ、進んでいく必要があるということだった」
  〜エドワード=サイード〜



ケン=ローチの新作情報が来てます。
「この自由な世界で」情報

公式サイトは、うちのMacの古いブラウザーじゃ見れなかった……。
こういうユーザー側の不自由を「レガシーフリー」と業界は言う。
この自由な世界で……。
(^_^;)



--☆---



日本の新聞を丁寧に読めば読むほど、テレビニュースを見れば見るほど、「モノの本質が見えなくなってくる現象」から抜け出すには、「見えなくなっている自分を見る」しかないんだよなあ、根気強く。
「見えない自分を視覚化」するための、こーんな素敵な記事を見つけた。
こちら。

自民党の政策的混迷

=============
記事の核心は、「後期高齢者医療制度で、保険料の支払いを本人の年金天引きから世帯主の口座振替に変更することで、所得税や住民税の負担が軽くなる場合がある」ということのみです。
=============

という他愛ないニュース記事から、以下のことを読み取らなくては

どのような真実にもたどりつけないのが日本の報道。

↓以下のこと↓
=============
保険料天引きを厚労省が強制したことを忘れてはなりません。ですから、二重、三重の意味で、厚労省の説明は欺瞞に満ちていると思います。
=============


=============
・本来、どのような支払い方であってもよいはずなのに、あえて天引きを強制することによって、税軽減の道を閉ざそうとしたと考えられること。
・この事態は、天引き強制に対する反発の大きさを前に、自動振替も可としたことによって、「徴税」のあり方に差別が生じることが露わになったこと。
・それを、厚労省は、税の軽減方法があると啓蒙するかのようにふるまっていること。
=============


=============
殊に、保険料の支払い方法によって税額の上で差異が生じるというのは、聞いたことがありません。しかも、支払う側にとって結果的に税が重くなるのが、政府・厚労省が制度的に強制しようとした天引き(という保険料の支払い方法)だとすれば、ある意味で税負担を隠蔽しようとしたといってよいでしょう。
=============

さらに、加えて↓
=============
自民党ではだめだという意識が広まりつつあります。
とくに、規制緩和をうたい文句に新自由主義が謳歌を極め、その結果、貧困と格差は従前にない規模に広がって、いまや日本は後がないような貧困社会と化しているのではないか。
=============

というところまで読めれば、合格点、って、

めんどうだよ! なぞなぞじゃないんだから!

まずは、かたっぱしから疑ってみる。
ニュースというものを、な。
私はそうしている。

テレビ陰謀論者の面目躍如だが、

それで今まで何も困ったことはないし、むしろ世界がクリアーになった。


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