※お知らせ。
『あなたにとどけるものがたり3』
発売になりました
↑ 新作の児童文学の短編集です。私も『幸運なあめんぼ』という短編を書いてます。
最寄りの書店でも御注文可能です。
* 「かわいそう」は自己欺瞞なのか * (2008.7.30)
「なんで死ななあかんかったん ゾウ(号泣)」
〜尾玉なみえ『少年エスパー ねじめ』〜
「民主主義は、多くの人々がそれを恐れるがゆえに失敗した。
知的で健康で自由な人々に満ちた世界、そんな世界は、冨と幸福は非常に限られているので不可能だ、と人々は信じている」
〜W=E=B=デュボイス〜
「ロゼッタは仕事を得るための戦いを通してかなり非人間的になっていきます。その非人間的な状態から人間的な部分を再発見すること、それが重要でした。彼女は自分が裏切った男の子のおかげで、最後のところで殺すか自殺するかという二者択一から解放されます」
〜ダルデンヌ兄弟インタビュー『キネマ旬報』〜
「♪教育なんか望んでいない♪
♪思想統制なんか望んでいない♪」
〜ピンク=フロイド『Another Brick in the Wall』〜
「愛は負けても、親切は勝つ」
〜カート=ヴォネガット〜
ちょっと古い話題だが、一時期、ネット上で「大の虫を生かすために小の虫を殺す経済学」、つまり、要約すると
「ゾウの花子さんはかわいそうなのか?経済(経営)編」
という議論がなされていたことがあった。
ここで私が勝手な要約をするよりも、議論そのものを読んでいただいたほうがわかりやすく、また面白いと思う。
主な主張はこちら。
『「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か 』
『あのー、それ、普通にかわいそうなんですが--「トリアージ」という自己欺瞞 』
『他人の犠牲を善行に見せるには 』
正直言って、かなり興味深く、過激で、知的な内容で
こういう議論は、絵本などの教材を使って小学校からどんどんやればいいのにな、と思う。フィンランドみたいに。
思考すること、建設的な議論を展開することを幼少の頃から徹底的に教育されるフィンランドの小学生は、素晴らしいというか、末恐ろしいよね。
(^_^;)
まあ、とにかく、「ゾウの花子さんはかわいそうか?」の話を続ける。
こういう議論の中で、よくあるのは、
左翼の仲間割れ
で、やっぱり今回も仲間割れが起きた。
……というのは、ヒキを作るためのウソで、「本来、思想は人の数だけあるわけで、別の「議論」が起きた、というべきなのだろう。仲間割れ」という表現は適切ではありませんね(←わかってて言うのは罪がさらに重いね)。
まあ、とにかく。
『想像力はベッドルームと路上から』さんから、指摘、つーか批判が。
『「かわいそう」と言った学生の欺瞞 』
以下、引用。
=================================
個人的には、「かわいそう」と言った学生側の欺瞞(というかこの時点は無自覚さかな)を一切問うていない部分で、toledさんとhokusyuさんの批判もフェアじゃないなと思う。
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↓
=================================
そこで「トリアージ」という概念に対して「かわいそう」という個人的な感情を吐露した学生に向けるべきは、「それは感情的である」という切捨てでも「プリミティブな異議申し立て」という評価でもなく、『「かわいそう」と言っている貴方は何処に、何の(誰の)上に立っているのか。』という問い立てではないでしょうか。
「かわいそう」という感情の吐露を「プリミティブな異議申し立て」にできるのは、その社会によって一切の利益を得ていない完全な外部者のみです。「全体から見た効率の恣意性/暴力性」を是とする社会の成員である以上、「かわいそう」という感情の吐露は、単に自身が切り捨ててきた/いくもの、その対象と構造に対する無知と無自覚さの発露以外の何者でもなく、(小学生ならともかく大学生レベルならば)正面から批判されて然るべきではないかと思います。
=================================
なんか、「トリアージ」とか「プリミティブ」とか、むつかしー言葉がいっぱいでチンプンカンプンなんだけど、平たく言えば、
ゾウの花子さんを殺す側に身を置きながら、かわいそうと言うのは欺瞞だ、うそんこだ、醜悪だ、
という主張……でいいよね、まちがってたら、ごめんなさい。
(^_^;)
さて。
みんな、読み終りました?
で、どう思う?
(*'‐'*)
おいらは、「もっともらしい理由のために、社会から見捨てられる人たち」 のことを「かわいそう」と女子学生たちが感じ、感じたままに発言したのは、
人間として自然なことだと思う。
「かわいそう」なものは、「かわいそう」だよ。
彼女たちの気持ちを評価しないのは、それこそアンフェアじゃない?
苦しんで困っている人に出会ったら、ばっと、かわいそうだと思う。
なぜ?と問うようなことじゃない、どう見ても「かわいそう」で、「よくない状態」だから、ぱっとそう思うんだ。
「かわいそうだと感じる私は何様なのか?」と、批判的な目でさらに深く自分を眺めなおすのはとても大切なことだとしても。
自分とは立場が異なる「かわいそう」な人たちに手を差し伸べたい、「かわいそう」だから。私たちはそう感じ、そして行動する、そういう猿なんだ。
共感する能力の有無が、生き死にに直結する、私たちは、そういう生き物なんだ。
「かわいそう」な人たちを切り捨てることで機能する社会に小さな疑問を感じ、それが何かはよくわからないままにでも、異議を唱える。
女学生さんたちは、人間として自然な反応をしたと思うよ 。
それでじゅうぶん素敵なことじゃないかなあ。
ガッコの先生に意義を唱えるという小さなリスクをしょってまで、「かわいそう」って言ったんだし。
小さくても、勇気は勇気さ。
それ以上のことを求めても、人間に対して要求が大きすぎると思う。
お悟りを開く必要はないんじゃないかな?禅寺じゃないんだから
そこまで否定で迫るのは、現実的じゃないよ。
あれもカ〜ツ!これもカ〜ツ! で、精神注入棒--もとい、警策でしばきまくって、すべてが否定された後に残るものがホンモノの真理だ、というのは、科学的かつ仏教的アプローチだけど、これじゃあ、出家する人間しかついていけなくなる。
いいんだよ、出家なんかしなくても。
良心の指し示す方向へ「かわいそう」から歩き始めたらいい。
それが種なら、「これは大木じゃねえ!」なんて言う必要はないと思うんだ。
むしろ、必要なのは水と太陽だろ?
そこにあるのは、まだ姿をあらわしていない巨木だよ。
いつか、周囲に大きな木陰を作る……。
確かに、私たちはゴリラほどの共感力も持ちあわせていない、想像力にかなり乏しい猿だ。
けど、こうやって議論を繰り返しながら、わしら人類もなんとか手を伸ばしてるんだろうね。
*「ゾウの花子さん式経営学」 学習に最適の映画。『AMEN』(邦題『ホロコースト』)
予告編です。
* 最凶映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 * (2008.7.27)
「ぼくは、ミュージカルにもっと危険な機能を与えようとした」
〜ラース=フォン=トリアー〜
「陶酔という言葉は、危険な言葉だ」
〜ラース=フォン=トリアー〜
「物事すべては、ちゃんと理性的に説明できると言われて育ったんだよ。絶対的で極端な「善」や「悪」は存在しない、あるとしたら、間違いか誤解だとね。僕が受けてきた教育に、宗教が介入する余地はなかった」
〜ラース=フォン=トリアー〜
ちょっと前に、ラース=フォン=トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のダンスシーンのyoutube動画を紹介したら、ちょっと反響があった。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』というミュージカル映画は、観ようによっては
デンマーク製『蟹工船』
で、そういう意味では今こそホットな映画とも言える。
「労働争議など物語のどこにも出てこないじゃねーか、なにが『蟹工船』だ!」
とおっしゃる方もいるかもしれないが、それは、今までのどの時代より人々が分断化された現代を描くには、どうしても個人的な物語にスポットが当たるだけのことだ。
そういうあなたは、
労働組合に入ってる?
その前に、
選挙はちゃんと投票してる?
(↑投票すればいいってもんじゃないけどね)
(^_^;)
まあ、そうは言いつつ、今回はちょっと牽強付会気味かもしれないが。でも、まったく的外れではないはずだ。
この映画を、「母性についての物語」とだけでしか観ていない人もかなり多いが、そんな簡単な映画じゃない。映画でのアメリカ国旗の使われ方ひとつ観ても、それは明らかだ。
ともかく。
百聞は一見に如かず、このダンスシーンをご覧下さい。
いつもの、退屈きわまりない日常の風景が、整理されなおされて、ずしりとした手ごたえのある、確かな意味を持ち始める。アンドレイ=タルコフスキーの『ストーカー』のラストシーンにせまるほどの強烈なインパクト!
……つくづく思うのだけれど、ラース=フォン=トリアーより良い映画を撮る映画監督はいるだろう(そう多くはない)、だけど、
このひとには、言葉には表しようのない不思議なスター性がある。
同時代の、どの監督よりも
悪意たっぷり
で、容赦なくて、人の目を惹きつける絵が作れる。
多くのクリエイターの度肝を抜くような、不思議な花を咲かせて見せる。
映画監督界(そんな言葉あるのか知らないが)の、空飛ぶスーパー・スターだ。
その悪意とスター性は、宮崎駿御大の遥か斜め上を行く。
(^_^;)
だけど、この映画は、あまりに危険で、お薦めできないんだな〜。
どれだけ危険かというと、
妊娠中の女性がこの映画を観て、流産してしまったという都市伝説
が生まれたくらいの、映画史上最凶の凶悪さなのだ。
(;^-^ゞ
いや、マジで、流産してもおかしくないくらいなんだよ。
というか、私が妊婦だったら間違いなく流産していたよ。
小林多喜二みたいに優しくないんだよ!ラース=フォン=トリアー!
ルーカス=ムーディソンと同じく、加減を知らないんだよラース=フォン=トリアー!
このあと、とんでもないことが!
(;^-^ゞ
映画観て、息が止まる!と恐怖したのは後にも先にもこのときだけだ。
弟はドストエフスキーの登場人物みたいに床の上を転がって泣き叫ぶし(←マジ)、母親は真っ青な顔で歩けなくなるし、わしも映画に殺されるかと思った。
(;^-^ゞ
映画界のビートルズだなこりゃ、と変に感心もした。
命知らずのあなただけが鑑賞することのできる、ものすごい映画だ。
私は恐くて、観れません(笑)。
* どんづまりの革命 * (2008.7.25)
「好むと好まざるにかかわらず、我々人間は世界中の人間と密接に関係しあっている。そればかりではない、すべての植物や動物とも係わり合っているのだ。我々の生命は互いに絡み合っている」
〜カール=セーガン『百億の星と千億の生命』〜
「一千六百十年一月十日
ガリレオ・ガリレイはもう天が存在しないことを知った」
〜ブレヒト『ガリレイの生涯』〜
昆虫たちの卵か孵らなくなるほどのあまりの暑さにへこたれて、他人のキーボードにゲロを吐いてしまったのだが(←まずいよなあ)、そんな私の個人的な危機とは無関係に、今や世界は二極化に向かい、地球全生命体の存亡を賭けた、のるかそるかのどんづまりに立って右にゆらゆら、左にゆらゆらしている。
落ちるか? 奈落の底に、落ちるのか?
なんにせよ、こんな危険きわまりないご時世じゃあ、誰もが敏感にならざるを得ない。
生きるか死ぬかの瀬戸際だし 、
さらに言えば、場合によっては死よりも悪い運命が待ち受けているかもしれないのだから!
目覚まし時計じゃ起きなくても、スリコギでどつきまわされたら、さすがに目が覚めたのだ、ワシのような人間ですら。
うかうかと缶コーヒーを飲んでいるうちに真実に目覚め、キャッチボールを楽しんでいたら革命が起きているかもしれないほどだ!
グローバルとか何とか言ってるけどさ……
オレ、ガツンと言っちゃうよ!
そして、極めて革命的なニュースが、『非国民通信』からネット配信された。
『ゴスロリ愛好者は骨がある?』
=============================
これは珍しいですね。珍しいと言っても、賃金不払いや不当解雇のことではありませんよ。その辺の不法行為はこの国では野放し、当たり前ですから。それが表面化するのは、やや珍しいかも知れませんけれど。あるいは賃金不払いや不当解雇に遭った労働者が雇用主を訴えるケースも、その被害件数に比べれば格段に少ないとはいえ珍しいわけではありません。では何が? この問題を知った顧客が原告である元店員を支援しているところですね
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店員と顧客が手を繋いで、会社を訴える!
わわわ、こりゃ革命が起きるぞ!
♪インターナショナル〜♪
* おしらせ『母べえ』 * (2008.7.23)
「奮闘努力の甲斐もなく 今日も涙の
今日も涙の日が落ちる 日が落ちる」
〜『男はつらいよ』寅さんシリーズ〜
「平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」
〜カント〜
奈良県在住の方に、ちょっとお知らせ。
8月15日(金) に大和郡山市やまと郡山城ホールで山田洋次監督作品、映画『母べえ』を上映します。
15:00 からと 18:30 からの2回上映です。
諸事情で、400人ほど集めなくてはならないわけなのですが、平日なのでかなり大変です。
さて、せっかくなので、映画『母べえ』の鑑賞のポイントを、ひとつだけ言っておきます。
それはズバリ、
「つらい女性」
これです。
いや、
男はつらいよ、じゃなくて。
(;^-^ゞ
けっこう淡々と進んでゆく映画ですが、「つらい女性」というキーワードを心のどこかに置きながら鑑賞すると、色々なものが見えてくると思います。
この映画を、 「美しく凛とした古きよき日本の母の姿」 というような文脈で解釈する人もかなり多いようですが、はっきり言って、「女性のつらさ」に共感する能力のない人間は、映画ひとつまともに観れない、ということがわかります。
(^_^;)
つらいそぶりを見せることすら許されない社会のただ中で、ひっそりと、ほとんど堪え難いまでに
つらくあるしかない女性たち
の象徴として、蒸留されたシンボルとして、吉永小百合はどのように機能しているか。
機会があったら、そういう話もしてみたいと思います。
チケット、買ってね。
ね?
(;^-^ゞ
* バカと馬鹿馬鹿しい話 * (2008.7.21)
「大使とは、自国の利益のために、外国へ嘘をつきに派遣される誠実な人間である」
〜ウォトン〜
「私を大統領として頭が悪いと思っている人は、その事実をまだ甘く見ている」
〜ジョージ=W=ブッシュ〜
「できの悪いのはしかたないとして、不正だけはするなと教えてきたはずだぞ」
〜藤子不二雄『ドラえもん』ジャイアンの父〜
「ドーナツの穴でも食ってろ」
〜映画『バグダッド・カフェ』〜
映画を観るさい、弟の意見の次に参考にしているのは、ギッチョさんが運営している『破壊屋』というサイトだ。
その『破壊屋』で、上半期ベスト10&ワースト10 が発表されていた。
実は、私とギッチョさんとでは、映画の好みが180度ほど違うので、個人的に大きく首を傾けるベスト10になっている(その違いが楽しい)。だけど、 逆に
ワースト10のメンツがほぼぴったり重なるのは、面白い。
「良い映画」は個人的な好みが出るけれど、ワーストはより客観的になるのかもしれないね。
(^_^;)
ちなみに、激辛口の弟は、『インディー・ジョーンズ4』も『クローバー・フィールド』も『イースタン・プロミス』も
ぜんぶワーストだ。
弟はまだ『母べえ』を観ていない。
『母べえ』は、過去の物語を語りながら、時代の一歩先を語るという、
最近の日本映画では絶滅がささやかれ始めているタイプ
の映画だ。
じゃあ、私たちの暮らしている日本の、時代の一歩先とは、どういうものかというと、こんな感じかな。『暗いニュースリンク』さんから
『新語法(ニュースピーク)時代の日本 』
(^_^;)
ベスト&ワーストの記事の中で、 ギッチョさんは、最後に、
「ここ数年「書いてあるものを読むのが見せ場」的な日本映画が多いけど、演出で感動させる力がないのか?」
と書いてらっしゃるけど、ほんと、そうだな、と思う。
例えば、『フラガール』という映画で、去っていこうとする先生に向かって生徒たちがフラダンスの振り付けを使って思いを伝えようとする見せ場シーンがあるんだけど、せっかくの見せ場なのに、セリフでいちいち説明してしまうのには、仰天してしまった。
伏線もキッチリ張っているんだから、こんな説明セリフは本来いらないんだが、
言葉で説明しないと何もわからない観客に向かって、わざわざ登場人物がセリフで解説するのだ。
『フラガール』は、とても気持ちの良い映画だと思うし、個人的に好きなんだけど、説明されたことしかわからない観客に合わせて映画の質が落ちてゆく。これは、本当に残念だ。
映画に「感動」「涙」などというものを求めるから、脚本が堕落し、演出が妥協だらけになり、泣けるシーンや盛り上がりのラストが用意され、映画がだめになってゆく。
私は、この現象全体をひっくるめて「感動ファシズム」と呼んで揶揄してます。
(;^-^ゞ
最近のハリウッド映画、日本映画は、一部の例外を除いて、観客動員を気にするあまりバカにでもわかる映画を作ろうとして、結果的に映画じたいがバカになってしまった。
予告編からすでに、私の知らないタレントによるナレーションが入って、とうとうとテーマの説明をするからなー、最近。
まあ、ハリウッドはちょっと反省が入ってきたようだ。
これからは、映画も、二極化の時代がくるかもしれない。
--☆---
映画評論家の町山智浩さんのところから。
『アメリカ人はどれだけバカなのか 』
馬鹿というか、自国の外側を知らないというか。
実にデジャヴな話。
町山さんの言う通り、日本には「よそと戦争はしませんよー」という憲法があるから、バカでもよその国に迷惑のかからないバカではあるんだけど。
……今のところは。
ここにひとつの新聞の切り抜きがある。書籍の広告欄だ。
「30分で読める…大学生のための マンガ 蟹工船」
と書いてある。
いや、マンガで読むのはまったくかまわないんだけど(マンガで読むマルクスとか、マンガで読む星座入門とか、うちにもいっぱいある)、「大学生のための」って、ちょっとなあ。
(;^_^ A
大学生なんだから、かっこうだけでも
「原文読みます」
って、言ってもらえないものかと。
(;^_^ A
まー、図書館が本を捨てるような国じゃあ、国民はバカになるのも仕方がないかなとも思う。
「非国民通信」さんから『無料化資本屋』じゃなかった『無料貸本屋 』
げげ〜!
「専門的な教育本などが多く、図書館向きではな」いって、もうそれ
図書館じゃないよ。
すべてがあべこべになっていって……『不思議の国のアリス』ワールド。
「あんた、頭の上に立てるにゃ?」 (自分が狂っていることを自覚している利口なチシャネコ)
そして、日本という国は、外側の世界から遠く遠く乖離してゆく。
「good2ndo」さんから、『グリーンピースのメンバーの勾留について、アムネスティが憂慮 』
自分たちの都合だけで世界が回ってゆく、でも現実にはそうなっていない。だから、深刻な顔つきで時代を語るしかない。
それが、我が国の「困難を乗り越えて」の実態だ。
剥き出しになった本音を、外交上の建前、理想論だと主張するために、メディアは自国の有り様をかなり歪んだ形で自国民に紹介しなければならない。
結果、ひとつひとつがかなり大変な、無理を重ねたいびつなものへと変形していく。
映画もぜんぶナレーションで説明がついて。
(;^-^ゞ
森羅万象が「必要論」もしくは「いたしかたない論」で、染まった世界の、今日も涙の陽が落ちる。
* カーリンが説明する『ザ・コーポレーション』 * (2008.7.18)
「後先も考えずに環境から取れるだけ取って、捨てられるだけ捨てることで、私たちは生物圏を破滅へと押しやっている---
---私は、略奪者の自分を有罪に処すことにしました」
〜『ザ・コーポレーション』より
レイ=アンダーソン(インターフェイス社CEO)〜
「すべてを操ろうとし、世論さえその例外ではなく、われわれが一番だ、われわれがもっとも優れている---」
〜『ザ・コーポレーション』より
ロバート=ヘア(FBIコンサルタント)〜
「企業をケダモノにした法のルーツを探ること」
〜『ザ・コーポレーション』より
エレイン=バーナード(ハーバード大学院)〜
「企業幹部にとって社会的責任とはひとつしかない。株主のために、できるだけ多額の金を儲けることである」
〜『ザ・コーポレーション』より
ミルトン=フリードマン(ノーベル賞受賞者… (^_^;) )〜
「民営化とは公共機関を善良な人に譲ることではない。専制政治へとそれを委ねることです」
〜『ザ・コーポレーション』より
ノーム=チョムスキー(“非”ノーベル賞受賞者)〜
「人間を、強欲な商品の作り手や消費者、競争的で利己的な存在に過ぎないと考えなければならない道理はありません。人間は多かれ少なかれ、そうではない方向で文明と呼ぶものをつくり上げてきたのです」
〜『ザ・コーポレーション』より
マーク=キングウェル(哲学者)〜
「俺は人々がこの映画を観て、立ち上がり、行動すると信じている。世界を我々の手に取り戻すために」
〜『ザ・コーポレーション』より
マイケル=ムーア(映画監督)〜
国土交通相に虚偽報告 をしたとして、三菱ふそうの会長らに有罪判決が言い渡されたのだそうだ。
『三菱自動車大型トラックリコール事件、ふそう元会長ら逆転有罪判決 』
ほほう。
有罪判決、大企業にさらに1点追加。
……いえね、ある時期の私は、暇を持て余したあげく
大企業の有罪判決記事のコレクションをしていたことがあって、
逐次収集されていくそのコレクションを使って、9イニング制の試合を組んでいたのよ(本当にひまだなあ)。
何を言っているかわからないと思うが、とにかく、ルールを説明しよう。
大小関係なく、有罪判決一件につき、大企業が1点獲得。
逆に企業が無罪判決を受けると、いきなり私が10点獲得のビックイニングとなる、という、かなり大企業側が不利なルールだ。
このルールに基づき、スポーツマンシップにのっとって 試合をしたのだが、結局、7イニングくらいで試合を放棄してしまいました、私。
ネバーギブアップ? いやさあ
70点差もつけられちゃあ、もうコールドゲームだよ!
戦意喪失! やめだ!
今回の判決は、東京高裁の控訴審で「逆転有罪」だから、その前は大企業ドリームチーム側が無罪判決を勝ち取っていたわけだ。ということは、いいとこどりすれば、そのイニングでは私が10対1の9点差リードしたわけだけど。
……ごめん、わけわかんないよね。
(;^-^ゞ
ちなみに、判決では、会長だけでなく“法人”三菱自動車も有罪となった。法人様にも罰金20万円を言い渡されたのだ。
しかし、虚偽報告をして人が死んで、罰金20万円かあ。
ウソの報告をして、バレたら罰金を払う。20万円なり。
これじゃあ、法人様が法を守るよりも、運悪くウソがばれて有罪宣告を受けたらその都度罰金を払っているほうが安上がりで、株主のみなさまは喜ぶんじゃないでしょうか?
いや、悪用しようとすればの話だけど……。法人は牢屋に入れる肉体もないしな。
経済学でノーベル賞を受賞したミルトン=フリードマンもそう言ってるし。
企業は道徳など考慮に入れず、金だけ稼げばいいんじゃあ、って。
それをコイズミさんがうのみにし、また国民が信じた、と。
とにかく、私は、70点差という大差をつけられ、歴史的な大敗を喫してしまったのだった。
まじめな話、いわゆる大企業が、世界中の法廷でどれだけ有罪判決を受けているのか、過去5年分くらいをちょろっと調べてみようと思ったことがあったわけなんだ。だけど、いやもう、圧倒的というか、
新聞の見出しを追うだけで2年くらいかかるんじゃないかな。
(^_^;)
わしら自身が作り出し、暮らしているこの世界って、もしかしたら、根本から大きく間違えてしまっているんじゃあ……という思いがふつふつと沸き上がってきたわけです。
(^_^;)
民営化で経済や個人の暮らしが豊かになってゆく、なんて、立証もされていなければ実際にそうなったこともないわけだが、テレビはバラ色の未来だけをまさしく「バラ」まいて……。
まあ、確かに、郵政省が民営化されて、私の日常にもひとつ具体的な変化があった。
通りを渡ったところにあった郵便ポストが消えてなくなった!
(^_^;)
狂信的プロパガンダの顛末は、いつもこんな感じ。投機型金融経済の肥大化と私の暮らしをイコールで結びつけて、口を開けてピヨピヨ鳴いても、雨粒ひとつ落ちてこないのにな。
(^_^;)
狂信的だろうが何だろうが、人間は信じたいもの“だけ”を信じ、見たいものだけを見てゆく「自由を信じる」生き物だが、それもいよいよどんづまりだ。
経済産業省が15日、しぶしぶながら 「投機が実態経済に悪影響」 をおよぼしていることを認めましたね。
(^_^;)
そりゃよ、「モノを買い占めて値をつり上げ、高く売りゃあ、すごい儲けになるじゃん!」って、そんなことあたりまえだよ。大発見でも改革でもありゃしない。
「痛みに耐えて構造改革」で、おまえのぽっけはぷっくりふくらむかもしれん。
ただ、社会全体はどうなるんだ?
未来はどうなるんだ?
こんなやりかたは、どう考えたって、
持続不可能だろ。
今、もっとも観る価値のあるドキュメンタリー映画『ザ・コーポレーション』のDVDが、書籍扱いになってお求め安い値段になった。
税込み 2940円だ。
「メイキング オブ ザ・コーポレーション」のテキストつき。
カナダやヨーロッパの子どもらは、この映画を教材に経済のお勉強をしていて、実にえらいのです。
ちなみに日本の学校では、
「水に『ありがとう』と書いた紙を見せて凍らせるときれいな結晶になる 」
てなトンデモ化学&いんちきモラル教育をどうどうと実践中!
( ̄_ ̄|||)
水にありがとうって……。水もエライめいわくだ。
このベチャベチャした人間中心主義は、どうにかならないですかね!
つーか、カナダの子どもたちがチョムスキーやグロスマンの分析に耳を傾けているあいだに、日本の子どもは容器に入った水に「ありがとう」なんて頭を下げてるわけか。
そんで、おとなたちは、子どもたちを好き放題しつけるために、げんこつ法案だ。
日本の未来は暗いなあ。
『ザ・コーポレーション』の話だった。
2940円も払って、どれほどの価値があるかって?
あのなー。
カチコチ保守主主義のミルトン=フリードマンからバリバリ左翼のノーム=チョムスキーまで、その他、マイケル=ムーア、ナオミ=クライン、レイ=アンダーソン、ピーター=ドラッカー、リチャード=グロスマン、企業スパイのマーク=バリーとものすごーく濃ゆいメンツが出演したオールスター・ドキュメンタリーなのだ。
詳しい内容については、
偉大なジョージ=カーリンがご説明します!
ひえええ! クール!
先月、心臓発作で地球を離れてしまったカーリン。
二度と戻ってこないだろうな。
身近な話題を通じての『ザ・コーポレーション』解説なら、こちらのブログを。
『最近「ジャパニーズブランド」がやたら喧伝されてないかい? 』
しかし、ミルトン=フリードマンって、ノーベル賞を受賞してるんだなあ……。 チョムスキーじゃなくて。
地球ってつくづく狂った世界だよ。
--☆---
あ、クストリッツァの新作の情報が入ってきたので、ご紹介。
今度の作品は、マラドーナのドキュメンタリー映画のようだ。
なにげにチャベスが出演しております。
* 映画監督が物語る『映画館』の映画 * (2008.7.14)
「(キアロスタミの映画『桜桃の味』を)観なきゃ死刑!」
〜淀川長治(←えらい!)〜
「人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇」
〜チャーリー=チャップリン〜
「オレの仕事は、人々が見ないでいたものを目の前に突きつけることだ。主流メディアのエリート連中には、恥じ入ってほしいものだ。おまえらが怠けてやらないことを、こんな野球帽をかぶった高卒の男が世界中で映像を掘り起こして、補っているんだからな」
〜マイケル=ムーア〜
例によって体調が悪いので、手短に。
カンヌ映画祭を彩ってきた33人の監督による短編作品集、
『それぞれのシネマ〜カンヌ国際映画祭60回記念製作映画〜』
を、DVDにて鑑賞した。
それぞれの監督に与えられた制約は、「映画館」をテーマにした作品であること、そして、3分間に収めること、のふたつだ。
DVDのパッケージには、各監督への依頼内容をこのように書いてある。
「あなたにとって『映画館』とは何か、自由なイマジネーションで、3分の短編映画を作って下さい」
テオ=アンゲロプロス
オリヴィエ=アサヤス
ビレ=アウグスト
ジェーン=カンピオン
ユーセフ=シャヒーン
チェン=カイコー
マイケル=チミノ
デヴィッド=クローネンバーグ
ジャン=ピエール&リュック=ダルデンヌ
マノエル=デ=オリヴェイラ
レイモン=ドパルドン
アトム=エゴヤン
アモス=ギタイ
ホウ=シャオシェン
アレハンドロ=ゴンサレス=イニャリトゥ
アキ=カウリスマキ
アッバス=キアロスタミ
北野武
アンドレイ=コンチャロフスキー
クロード=ルルーシュ
ケン=ローチ
デヴィッド=リンチ
ナンニ=モレッティ
ロマン=ポランスキー
ラウル=ルイス
ウォルター=サレス
エリア=スレイマン
ツァイ=ミンリャン
ガス=ヴァン=サント
ラース=フォン=トリアー
ヴィム=ヴェンダース
ウォン=カーウァイ
チャン=イーモウ
以上が参加監督の一覧だ。
エミール=クストリッツアがいない!
コスタ=ガブラスもいない!
(T△T)
と叫んだのは私ひとりではないだろうが、それでもなかなかの顔触れだ。
映画全体の出来栄えについて結論から言うと、
キアロスタミ、ダルデンヌ兄弟、ラース=フォン=トリアーの三人の作品が、飛び抜けて素晴らしかった。
DVDをレンタルして、この三作品だけを観て返却しても、惜しくはない。
この三作品から少し落ちて、チェン=カイコー、アキ=カリウスマキ、ビレ=アウグスト、ウォルター=サレス(おひさしぶり!)、ヴィム=ヴェンダース(まったく評価したことがなかったけど、これはよかった)と続く。
しかし、各作品のつぶが綺麗にそろった、とは、いいがたい。
そもそも、ガス=ヴァン=サントやマイケル=チミノ、北●●らの作品を、アトム=エゴヤンやキアロスタミ、ダルデンヌ兄弟と同列に扱うことじたいが、無茶なんだ。
無茶を無茶なまま押し通すから、以前の日記で紹介したダルデンヌ兄弟の『暗闇』、アッバス=キアロスタミの『ロミオはどこ』のような息を飲むような出来栄えの作品の印象まで、薄められてしまう。
適切なインターバルもなにもなく、どんどんと作品を流していくから、
短編映画の闇鍋状態におちいって、長靴味が舌に残ったまま松葉ガニを喰う
はめになってしまう。
これには、少し困った。
例えば息を飲むほどに素晴らしい短編小説の一遍を読み終ったら、私は一度、本を閉じて余韻に浸る。そんなふうに、キアロスタミやダルデンヌ兄弟の作品は独立して扱うほうが、断然、いい。
しかし、闇鍋がそうであるように、これはひとつのゲームでもある。
DVDをオールプレイで頭から鑑賞していくと、監督は個々の作品の最後に示されるので、その作品が誰の手によるものか鑑賞者にはわからない。
わからない、というのは、明示されない、提示されない、ということだ。明示されないなら、それは挑戦だ。映画監督の名前はふせたままで、自分の感受性がどれほどのものか、ちょっとした答え合わせをはじめる。
ケン=ローチとアキ=カリウスマキは観る聞くなしだ。まあ、誰でもわかるだろうけど。
「なんだ、こりゃ。ひでえなあ。ガス=ヴァン=サントか。やはりな」
「どひぇ、マイケル=チミノ」
「勘弁して下さい、許して下さい、●●武」
カンヌ映画祭も、よくわからん作品にパルムドールを与えるので、あんまり信用できないのです。
(^_^;)
そんなふうに評論家気取りで鑑賞していく。
とりは、御大ケン=ローチだ。
これが、
「シネコンって、ろくな映画やってないな。もう映画なんかやめて、サッカーでも観るか!」
と3分間かけて毒づく、そんな作品で、しかもそれに『ハッピーエンド』というタイトルを付ける。
これが不思議と、いい味だしてる。自身の性格をめいいっぱい有効利用して作品を作る、ローチらしさがよく出ている。
(^_^;)
繰り返しになるが、キアロスタミ、ダルデンヌ兄弟、ラース=フォン=トリアーの三人の作品がやはり飛び抜けている。
個人的な驚きは、トリアーの『職業』
私は、『バタリアン』を例外として、スラッシュ・コメディーというジャンルは好きじゃないんだけど、
これは許す!
ラース=フォン=トリアーが本人役で出演しているのだが、この世の人間的価値を貨幣の排泄物としか考えない男が、映画を鑑賞しているトリアーの隣の席に座り、そして……。
げええ!!!!!
(;^ ロ^)
この感動をみんなとわかちあいたくて、ネットで動画をさがしたけどありませんでした。
違法だもんな。
しかたがないので、トリアーの出世作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から、失明していることをセルマが告白するミュージカルシーンを紹介しておきます。
圧倒的。
ラース=フォン=トリアー、最凶でごわす。
(^_^;)
さて。
私が購入したDVDには小冊子がついているのだが、これがひどいので、ちょっと文句を言っておく。
いや、本当にひどいんだよ。
例えば、大監督アトム=エゴヤンの解説で
「アトム・エゴヤンはことさら淫靡度が高い監督である。(略)少女を主人公にエロスとタナトスを見つめた『スウィート ヒアアフター』(以下略)」
って、
シャー!!
エゴヤンをバカにすんな!!
少女を主人公にエロスとタナトスを見つめた『スウィート ヒアアフター』ってどういうことだよ、ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』を痛快ガンアクション映画だと言うよりも、もっとひどいよ。
作品の持つ政治性とか、時代を切る鋭さのようなものを漂白した上で映画や映画監督を語ろうとするから、どうしようもなくなって、エロスとかタナトスとか適当なことを言うしかなくなってしまう。
『スウィート ヒアアフター』でこんなことを言ってるようじゃ、『アララトの聖母』は、どうするんだろう。
あ、シネフィルイマジカで、7月15日にこの映画の放送があるそうです。
興味のある方は、どうぞ。
……ぜんぜん手短にならなかった。
* げんこつの教育で愛を叫ぶけもの * (2008.7.12)
「子どもは「将来の消費者であり、今日の巨大な市場を代表するもの」であり、だからこそ企業にとっての「格好の標的」とルーシー=ヒューズは言う。あるいは、別の広告業界の幹部が言うように、「子どもたちは“発展途上の消費者”と呼ばれ……」
〜ジョエル=ペイガン『ザ・コーポレーション』〜
「それは
恥ずかしいことだ
何も見ず
何も聞かず
何も知ろうと
してないことは
とても
恥ずかしいことだ」
〜西原理恵子『女の子ものがたり』〜
「世界にしがみついていればいっしょに回転していられるが、立ち上がって抗議の声を張りあげたら振り落とされてしまうのがオチなのだ」
〜スティーヴン=キング『グリーンマイル』〜
適切にしつけられるべき当事者にしつけとして、げんこつをふるう。そのさいに、「これは当然なのですよ」「これは彼ら自身のためなのですよ」とテレビを通じて国民に説明を行う。説明を行うにふさわしいのは、少し前ならコイズミさんだったし、最近はどげんとせんといかん知事や、大阪維新知事だったりする。
そして、愛のゲンコツでしつけられるのは子どもだけではないのだった。
『「排除しろ!」と警察官は叫んだ』
ズコー!
↓ズコーの動画的表現。
以上、だめだこりゃ!
(^_^;)
モラル・ゲシュタルト崩壊。
まあ、お巡りさんたちは、自分たちこそがモラルと治安を守っているのだと言うんだろうけれど。
♪くりかえす このポリ ☆リズム♪
♪あの反応が チベット騒動みたいだね♪
♪また くりかえすのー♪
♪ポリ ☆リズム♪ポリ ☆リズム♪
♪ポリ ☆♪ポリ ☆♪ポリ ……♪
ル=グウィンの最新ファンタジー小説『ヴォイス』で、主人公の女の子が、
私の国では女性や子どもも市民で、犬でも奴隷ではありません。
と毅然と言い放っていた。
あれは、胸をうつ素晴らしい宣言だった!
けれど、某宮崎県知事にも、彼の支持者にも、この女の子の発言の意味はきっとわからないだろう。
ちなみに、某コイズミ氏の女性と犬にまつわる名(迷)言もご紹介しておこう。
「戌年にあやかって、女性は犬のように子どもを産むように」
こんなのを支持するおばちゃんたちの気がしれない……。
(^_^;)
なぜ、サミットの現場で警官は「排除しろ!」と叫ばなければならなかったのか。
「どうして現場に血が流れるんだィ!」 (青シマ刑事)
(^_^;)
しかし、血は、いつだって現場で流れているものだ。
公共サービスいっさいがっさいを二束三文で市場に売り渡すという、いわゆる民営化の手続きそのものが、排除する側と排除される側を作りだす。そしてそれは本来、民主主義的な社会とは相いれないものだ。少なくとも「どれほど深刻な社会的犠牲を払っても利潤追求(地球温暖化とか)」「世界を相手に強盗団のようにふるまいグローバル」などと宣言しているうちは、とても民主主義的とは言えないだろう。
え? なぜそれが民主主義的でないかって? 選挙でちゃんと選ばれてるし、企業活動も法の範囲内(実は、あちこちの裁判で有罪判決を受けてる企業が圧倒的多数なんだけど)だって?
なぜかって言うと、もちろん、
「排除すべき」人々がしっかり「排除」されているかぎり、民主主義的ではないからです。
ゲンコツでしつけられる人々がゲンコツでしつけられているかぎり、それは、民主主義的ではないからです。
間違ってますか?
そのように扱われてしかるべき人々がそのように扱われているかぎり、かならずどこかで「不正」や「暴力」という問題が起きる。そのように扱う、ということ自体が、不正で、暴力だからだ。
そのように扱われて然るべき人々は、何らかの方法で、抗議するだろう。抗議によって、「排除すべき」人々は「もっと厳重に排除すべき」人々になる。そうして、へこたれずいつまでも抗議する者を無理矢理に排除するときに、教訓を示すための
げんこつ条例が必要になってくる。
抗議と排除。しつけと反抗。ジェームス=ディーン。
このようにして、私たちの社会は「教訓」をエスカレートさせていく。
どげんとせんといかん宮崎県知事の言動を少し俯瞰した位置で眺めてみる。
某イシハラ氏やハシモト氏の言動でもいい。
すると、なんのことはない、「痛み」や「暴力」、「不平等」に対する人々の猛烈な反発から「市場」を守るための防波堤として、「知事」が大きな機能を果たしているのがいやでもわかってしまう。
防波堤、というような消極的なものではなく、
資本主義の用心棒
とでも言い直したほうがいいか。
用心棒は、私たちをしつけるのも仕事だ。
効率良くしつけるために、一箇所に集めて、しつけていければ。テレビがあれば、なおよい。
ときには力づくでしつける必要もあるだろう。
適切である場合には!
「利己的であればあるほど、利潤追求にシビアであればあるほど、社会は発展し成長する」
そしてその先に、私とあなたと子どもたちの幸福がある、と……。
おぞましいほどの利己主義に支えられたビジネススタイルが、強力で攻撃的で「実利を生みだす」という理由により、バラ色の処方せんとして人々の支持を集める。ありとあらゆる場面で「民営化に期待できる」ということになってゆく。
「あらゆる企業は業績によってのみ評価される」、その現実があるがゆえに、期待できるというのだ。
昨日よりも今日、今日よりも明日、というように、社会全体が“業績”を伸ばしてゆく。内容を充実させてゆく。その他のことは、すべて
改革に必要な「犠牲」
だ。コイズミ改革に疑問の声が出始める前だったなら、もっと冷たく突き放されて、犠牲どころか、「負け組の遠ぼえ」と切り捨ててそれっきりだった。
「負け組の遠ぼえ」と切り捨てて、その先に自分たちの夢の幸福がある、と、多くの人々が信じた。ちょっとレッテルを張り替えてはあるが、私たちは今も信じてる。
利潤を追求してゆくことによって結果的に“発展する”明るい社会。その内部では、民主主義的プロセスを敵視したり、その場その場の都合で、法も“柔軟に”運用しなければいけなくなる。しかしそれも改革に必要な犠牲だ。
メディアによる法治主義へのヒステリックな攻撃の真意はここにあって、つまり、企業が法を犯したというなら、それは法が間違っているのだ。
……私たちはすでに、どのような手を使ってでも、
何を失ってでも成功し続けなければならないシステムのど真ん中
で、無理を極めたような日常を青息吐息で生きている。
期待して、痛みを覚えて、行き場さえ失い、右肩上がりの成長を自分たち自身に強要し、そして、私たちは成功の何万倍もの失敗を生みだしていく。もちろん、それだって必要な犠牲だ。
喪失も失敗もシステムの外側のどこか遠い問題として処理されあなたの涙も苦しみも「負け組の自己責任」でしかない。
あなたは今、健全に運用されている社会に淘汰されたのだ。
おめでとう、友だちがまたひとり増えた。
(^_^;)
必要なのは、この犠牲、あの犠牲、黙って耐えること、信じること、勝利すること、決して失敗しないこと、チャンスを逃さないこと、アグレッシブであること、業績をあげつづけること、夢を失わないこと!その他いろいろ。
永遠に走り続けられるマラソンランナーはいない。抜いて、抜かれて、倒れて、動けなくなって、新しい走者がうしろから迫ってくる。デットヒート! 「市場の活性化」だ。
……えー。
……馬鹿じゃないの。
「これ」のいっさいが完全に不必要だと、私は勝手に宣言しよう!
不必要だし、あらゆる意味で無駄だし、人間共同体にとって危険だ。
……グウィンみたいに、かっこいい宣言ができないな。
(^_^;)
命がけのマラソンレースでふと思い出したんだけど、というか話は突然あさってにとぶんだけど、ホラーの帝王、スティーヴン=キングの初期の長編作品『死のロングウォーク』 が映画化されるという噂を聞いた。
「「死のロングウォーク」映画化か?」
キングの映画化作品は『スタンド・バイ・ミー』など一部の例外を除いて、ひどい目に遭わされ続けてきたが、これはちょっと興味がある。
かなり古い作品だが、偉大な作家は時代の先を見通しているもので、そういう意味ではいま映画化の話が出てくるのは、なかなかタイムリーじゃなかろうか。
ちなみに、この古い物語の内容を現代におきかえて説明すると、まあ、こういう感じ。
『グローバル貧困ビジネスのターゲットにされる日本人ワーキングプア』
(^_^;)
中高生の皆さんは、一度原作を読むことを、かなり強く、お薦めしときます。
とくに宮崎県の子どもたちは。
(^_^;)
あなたたちの未来の、ひとつの可能性が、そこにはある。
絶望的な未来だ。
* げんこつでさらに何が可能か * (2008.7.8)
「人は外国語をマスターするほど自国語をマスターする能力がない」
〜バーナード=ショー『革命主義者のための格言』〜
「人生に必要なのは、無知と自信だ。
そのふたつがあれば、成功は確実である」
〜マーク=トウェイン〜
「なんて貧しいの。なんて情けない“ちまちま”した自由なの」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『ゲド戦記・帰還』〜
「イスラム教原理主義社会の抑圧と、子どものしつけのためのげんこつは違う」とお考えのひとはかなり多いようで、いろいろとお叱りとご意見をいただきました。
貴重なご意見、ありがとうございます。
なるほどたしかに、あそこが違うし、ここも違う。
支配形態にはうんざりするほどのレパートリーがあって、
領域があって、多様な意味を含んでいて、それを「帝国主義」のひとことに要約するのは、乱暴すぎるのかもしれませんね。
しかしそれをなんと呼ぼうが、愛と呼ぼうが教育と呼ぼうが、結局のところは、私たちは彼らを統制せねばならんというわけです。彼らの意見は完ぺきに無視して。人権制度も粉砕して。なぜなら、私たちが人道主義者で、モラリストだからです。
ですよね?
(^_^;)
こういうことを申し上げると驚かれてしまうかもしれませんが、タリバンも某宮崎県知事もそして私も、
三者ともが道徳的行動を呼びかけた
わけです。いや、実際のところ。
具体的には、子どもや女性や男性やお年寄りや病人や外国人を適切に待遇するべきだ、と、こんなことを申しているのであります。
口先だけとはいえ、私も、実にだいそれたやつです。
(^_^;)
「失うものがあっても?」
大それた私は、そんなふうに自身に問いかけたりもするのです。
しかし、失うも何も、もともとそれは、ヨソから奪った盗品なんじゃないか。
どうです?
あ、メールは送っていただかなくてけっこうですからね。
f ^ ^ *)
さてここで、示唆に富みまくっていると評判の某宮崎県知事に対抗して、私も、よそのブログから興味深い記事をご紹介したいと思います。
『個性は本当に獲得するものなのか?』
示唆に富む、とは、こういうことを言うのではないでしょうか?
あ、メールは本当にいらないですからね。
f ^ ^ *)
--☆---
気まぐれに、英語のお勉強。
『I'll
be watching you.』
オチがフルメタル・ジャケット(笑)
汚い言葉ばっかりで、さっぱりなので、アルファベットからお勉強のし直し。
『The All-American Alphabet』
ああ!こりゃ英語じゃなくてアメリカ語だ!
「USAが少なくとも少なくとも700000人のiraqi子供たちの死亡に対して責任がある」
のだそうです。
(^_^;)
その他、ここ一ヶ月ほどで購入した本。
☆お勉強の本
・『百億の星と千億の生命』カール=セーガン
☆児童書、絵本
・『コオロギ少年大ぼうけん』
・『タンタンタンゴはパパふたり』
・『魔女の子どもたち』
・『The Blue Stone』(洋書版)
☆まんが
・『ハルコイ』
・『新・ブラックジャックによろしく』4巻
☆その他
・『オシムの言葉』(文庫版)
☆雑誌
・『将棋世界』
・『月刊プレイボーイ7月号』
・『月刊アフタヌーン8月号』
・『MacFan』
あくまでも買った本で、読んだ本じゃないんだよなあ。
* げんこつで何が可能か * (2008.7.5)
「ただもう公平さがあたしのなかでものを言っているような気がしますの」
〜チェーホフ『三人姉妹』〜
「男は争いあうのが生きがいでしょうけど、私たちは戦場の一部なのよ」
〜ジェイムズ=ティプトリー=ジュニア『男達の知らない女』〜
「殺したり、殺されたりするための用に人をあてるのは、人間をたんなる機械、あるいは道具として他人(国家)の手にゆだねることであって、人格にもとづく人間性の権利と一致しない」
〜カント『永遠平和のために』〜
意図は「愛」、
目的は「教育」、
結果は「どつく」、
つまり「ゲンコツ条例」なのだそうです。
『東国原知事「げんこつ条例できないか」』
===========================
宮崎県の東国原英夫知事は18日、子どもの教育に関連し「(体罰が問題視されない)げんこつ条例というものが宮崎県ではできないか」と述べ、一定の体罰は認められるべきだとの考えを示した。県庁で記者団の質問に答えた。
東国原知事は「最近は体罰ができなくなっている中で教師の位置付けをどうするか。愛のむちという範囲ならば殴っても罰せられない、愛のむち条例とかができないか」とも述べた。
===========================
ああ、タリバンね。
「教訓を示す」ために「愛のムチ」とやらを振るうだけではなく、弱い立場に立たされているひとびとを法的な保護下から引きずり出し、愛を振りまきながら「彼らのためなのです」と言う権利まで主張できる、と心から信じているところが、タリバンとくりそつ。
(^_^;)
彼らが無力であるとか、潔白であるとかはまったく関係がない。これらは刑罰ではなく教育だからだ。教育的指導に、抑制のない力の行使に、「愛の領域」に、宮崎県は踏み込んでいく、いくべきではないか、と、“公平無私”な知事が自ら、喜々としてヴィジョンを語ったのだ。
しつけを受けるべき、ひとびとがいる。
なるほど。
チベットのひとびとにある教訓をたたき込んで国際世論にブーイングあびせかけられまくった中国政府も、
げんこつ条例を作っておけば
聖火リレーを妨害されなかったのかもな。
(^_^;)
宮崎県知事が夢中で語る教育ヴィジョン。極東の島国のさらに地方で、まるでネズミの巣ような、ばかばかしくもちっぽけな「帝国主義」がそっと花開き、支配関係につきものの「愛」を周囲に撒き散らしていく。
うんざりするくらいよくある話です。
===========================
これに先立つ県議会では、自民党議員が「昔はみんな、げんこつで教えられた」などと教育現場にはある程度の厳しさが必要と指摘。東国原知事は「大変示唆に富んでいる」と述べた。
===========================
宮崎県の知事も自民党議員も「示唆に富み」すぎ。
(^_^;)
愛、愛、愛。
この危機的時代において、日本、そして宮崎県の経済を、治安を、教育を、「どげんかする」ためには何をやってもいい、といったような、改革のための新しい枠組みや組織を維持していくための、虚構としての「愛」だ。
愛、愛、愛。アイランド。
そして、まるでタリバン政権下の女性や子どもたちのように、日本、宮崎県の子どもたちには、
新しくも特別な立場が与えられるのだろう。
おめでとう!
私たちが私たちの子どもたちを完ぺきにコントロールするという目的を達成するためになされる「愛」と「教育」。
タリバン、中国政府、宮崎県には、果たすべき務め、公的な責任があるというわけだ。
侮辱、屈辱、残虐、暴力!
以上の言葉の具体的な内容について、何事か知りたければ、子どもたちに尋ねればいい。
「げんこつ条例」などという言葉の醜悪さ、内容のくだらなさ、ばかばかしさ、幼稚さ、子どもたちを上から見下す傲慢さ。
「腕力で指導して差し上げます」だと?
こんな人権を蹂躙することを公言するような発言が、誰の注意も引かないのはどういうわけだろう?
それは、私たちが子どもじゃないからだ。
♪我々は 支配者な〜の〜か〜♪
♪船を 漕いだ〜♪
♪オールを 漕いだ〜♪
♪目指すは西〜の 大陸だ♪
♪ハイッ!!♪
アパルトヘイト政策が南アフリカの黒人の皆さんをどのように抑圧してきたのかは、白人に訊ねてもけっしてわからないのとおんなじ。
♪我々は 支配者な〜の〜か〜♪
♪ハイッ!!♪
労働者、少数民族、女性……最後に解放されるのは子どもになる、と看破したのは誰だっけ?
いつの日にか、子どもたちの中から、
子どもガンジー
が現れる日が来る。
マジだ。
予言しちょいちゃる。
もしかしたら子どもジャンヌ=ダルクかもしれん。
なんにせよ、子どもたちが立ち上がる日が、やってくるだろう。
比喩でもなんでもなく、子どもたちは今、占領下にある。
しかし、子どもたちはいつか奪還するだろう。
--☆---
ここまで話してきて、いきなりですが、小林ヨシリンの今日の傲慢発言をどうぞ。
======================
「『命どぅ宝』とかいう思想で本土を飲み込んでほしくないんだよね(笑)。わしは、沖縄戦当時の一途に国家意識の強烈さで突っ走った『沖縄の心』のほうが好きだな」(『誇りある沖縄へ』)
======================
うわあ。
タリバンよりひどい。
ヨシリンの発言を受けて、沖縄大学の宮城能彦も傲慢をかましております。
======================
「『命どぅ宝』みたいな浅はかな思想は、決して沖縄の思想じゃない」(『誇りある沖縄へ』)
======================
なんか、こう、日本における「国家意識」も日本という国家そのものも、
昔も今も「国民を抑圧するための道具」、「残忍さの強制機関」でしかないということが、わかりたくなくてもわかってしまう
素晴らしいご発言ですね。
なにが浅はかな思想、だよ、何様だ。
結局、彼らはこう言ってるんだよ。
「“私たち”はけっして、沖縄を支配しているのではありません、
所有しているのです」
ぺっ!
「先生、こいつも、おかしいです」(←by『パッチギ!』)
しかし、集団ヒステリーというか、日本という国はどんどん残酷になっていくなあ。
イタリアの大聖堂の日本人落書き騒動における、日本社会の残忍さとヒステリー反応に、落書き被害者のイタリア人が恐れおののいているという話。
『非国民通信』さんから『イタリア人もびっくり』
「げんこつ条例」にはしれっとしていて、落書きした人間は何としてでも見つけ出して処罰する、容赦ないところには、徹底的に容赦ないねえ。
つーかこれも、「社会の空気」から個人へ示される「教訓」なんだろうな。
高尚な道徳観を振りかざしつつ、奇妙に全体主義的な不寛容さ
は、日本文化に根づいた、美しい伝統なのかもしれん。
オウム真理教の「ポア」、連合赤軍の「総括」、その他もろもろ。
イタリア人は、びっくりだ。
さすが、
「間違いを犯しましたね、処罰される前に自発的にハラキリしなさい」
の国だぜ。
ドヒイ!
イタリア人にしてみれば、ことの次第が、
浮気した妻を間男と一緒に海に沈めて処罰してしまうリチャードの所業を彷彿とさせるのだろう。
(↑ホラー映画『クリープ・ショウ』)
リチャード! 後生だから聞いてくれ!
見逃して下さい、見逃して下さい、見逃して下さい、見逃し……ぎゃあああ!
テレビ!ショー!
おらあ、生まれてくる場所を間違えた。
* コンピューターシティ * (2008.7.3)
「 ぱそこん【Personal
Communism】個人向け小型共産主義。ソビエト・ロシアや中国が主導する国家向け大型共産主義に対する反発から、1977年にスティーブ=ウォズニアックとスティーブ=ジョブスがAPPLE
II を発表。これが、最初の個人向け小型共産主義であるとされている 」
〜『2ちゃんねる』より〜
「 ふぇっぷ【FEP=Front
End Party】 前衛党。個人向け小型共産主義者に搭載されている。例えば、キーボードから「マイクロソフト」と入力すると、「独占資本」と変換する 」
〜『2ちゃんねる』より〜
「 もし自由に生きたければ、自由ではないソフトは所有すべきではない 」
〜リチャード=ストールマン〜〜
TONOZAKIさんのところの『がんばれ!!ゲイツ君』の最新号がアップされております。
『MS凋落の日』
こんなになっても運動図と縁を切ることができない、ビジネスユーザーは大変だなあ。
(^_^;)
しかし、黒い魔ソフトの凋落と言っても、
==============================
「 ゲイツの後は一時代が終わり、OSはほとんど意味をなさなくなる。ネットワークサービスが主流を占めるようになる、といった、よくある話がまとめられていますが、確かに彼がいたおかげでコンピュータの世界もここ数年ずっと停滞していたのが、そのトドメとしてWindows
VISTAなんてものを出したお陰で、皮肉にもコンシューマーOSの世界もようやく大きく動き出したという見方もあるでしょうね。」
==============================
と手放しでヨロコんでいるわけにはいかないんじゃないかとも思う。
「ネットワークサービスが主流を占める」と言えば、よくわからんままにバラ色の世界がやってくるようだけど、
メーカーや業界の許可がないとなんにもできなくなる構造改革
がその本質なんじゃないかなあ。
WEB2.0とか、景気のいいこと言う割には、中身がはっきりしないとこが、すっげえうさんくさいぜ。
コイズミなんちゃら革命とか、ハシモトなんちゃら維新とか、悲しい記憶が甦りまくり。
(^_^;)
「次世代ネットワークサービスなんて、実態は、責任だけあって権利がまったくない借り物の田んぼで腰折り曲げてコメ作ってるようなもんだ。
え、なに?ぜんぜん違うって? いや、地べたを這いつくばるように作業する物作り環境の例えとしては、ぴったりだろ。
次世代ネットワークサービスと物作り環境はイコールでないと言うなら、いたいけなチワワを衝動買いしたくて消費者金融に駆け込むおやじをドラマチックに描いたテレビコマーシャルと、それを観ている視聴者の関係ということにしておいてもいい。
あ、そっちのがあたってるかもしれん。
(;^_^ A
ともかく、借り物なんだ。田んぼだけじゃない。トラクターもレンタル、タネモミも借り物、手軽で簡単というけれど、いいか、よく考えろ、
コメ作っているおいらも借りモンになっちまっているんだ。
気づけばなんにも残らない。
種籾さえも。
新しいデジタルテレビとハードディスクレコーダーを購入したあなたは、テレビドラマをダビングするのにもいちいちドロウボウ扱いされるようになる。
何十万も支払った家電製品にだ。
ハッ!
コピーだめ、インストールの数はいくらまで、仕事中に友だちにメールしてないか、著作権法に触れる動画を見ていないか、
ソフトウェアのアップデートをしたくない? だめだめ、ネットワーク・システムなんだから、あなたに選ぶ権利はありません、
ほじゃほじゃ。
(^_^;)
あなたの手元に残るのは、新しい技術を体感し、より素晴らしいサービスを享受するために、うつろうように消費し続ける自由だ。
快適に消費し続けられるように、足下は動く歩道に、しかし服やズボンのポケットは禁止、厳重な手荷物検査を実施させていただきま〜す!
WEB2.0!
WEB2.0!
なんでこうなったん?
わしらは、もう一度、ウォズニアックが APPLE II を作ったときのココロザシを振り返る必要があると思うよ。何を作るにしても、何を始めるにしても。
人間、介抱!じゃない解放!
どれだけ広大な敷地であったとしても、監獄は監獄だよ。
見えない鎖につながれて、「可能性が開かれた」「便利になった」「新技術」とはしゃぐむなしさ。
幻想の自由ほど、始末に悪いものはないな。
(^_^;)
しかし、いっぽう、そんな幻想がわしらの“ある種”の繁栄を支えているのも事実だ。ともかく、便利になってよかったですね!
きっとうまくいく。
いつか慣れる。
痛みに耐えたら、いつかバラ色。
しかるに、「ねえ、コンピューター、どうしてこんなに苦しいの?」
それは、あなたたちの場合、禅寺成分が足りないのです、Perfumeさん。
P=K=ディックの成分も足りません。
「ひとつだけウソじゃない愛してる」
なんて言ってるようじゃあ、じぇんじぇんです。
* SFと人間 * (2008.7.1)
「 懐疑する精神も、不思議さに驚嘆する感性も、鍛え上げなくては使えない技術である。このふたつが児童生徒の心の中で仲良く結婚することこそ、公教育の主要な目標とされるべきだろう 」
〜カール=セーガン『カール・セーガン科学と悪霊を語る』〜
「彼等は君を裏切るのが関の山だ」
〜ヤセンスキー『無関心な人びとの共謀』〜
「 1940年代の前半、わたしたち子どもたちはサイエンス・フィクションを読んだものだ---(略)たいていわたしたちが待ち受けてきたのは、三流の雑誌だった。わたしたちは、三流の作品が好きだったからだ。『はじめに鳥ありき』で始まる話をわたしは覚えている。わたしたちは本当にその鳥を探したものだった 」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『夜の言葉』〜
「 自然発生的な遊びではない芸術としてみた場合、ファンタジーは白昼夢よりも夢そのものに接近すると言えましょう。これは現実への質をことにしたアプローチであり、存在とかかわりあい、理解するための代替的なテクニックです。理性的な対立物ではなく理性の異性体、リアリスティックではないがシュルレアリスティックな、スーパーリアリスティックな現実の高次化 」
〜アーシュラ=K= ル=グウィン 『夜の言葉』〜
いきなりですが、ルーカス=ムーディソンの処女作品『ショー☆ミー☆ラブ』から、こちらの映像をどうぞ。
忙しくて映画を観る時間もないあなたに4分間のダイジェストだ。
スウェーデンでの元タイトルは『Fucking Amal』(くそったれな街)
私がムーディソン先生の作品から教えられたことは、
愛について学ぶつもりがないなら、どんな思想も行動も有害だっ
といううざったくも気高いお説教で、あとは、SFではないのにかなり挑発的な態度も影響を受けた。
初期のムーディソン先生は、かなり挑発的でありながら、ハートフルで、こういうのは、作り手の人柄なんだろう。
カート=ヴォネガットの未発表の文章、『阿鼻叫喚の街』を読むために月刊『プレイボーイ』7月号を購入したら(もう8月号が出ているけど)チェ=ゲバラの特集で埋め尽くされていた。
資本主義の「自由化」が人々の暮らしに悲惨な結果をもたらすようになってきて
『蟹工船』とか、ゲバラのような人物がメディアで取り上げられるようになってきた。
ただ、『蟹工船』はいいとして、右傾化の反動で過去の暴力極左がメディアで面白おかしくとりあげられるようになってきのは、やな感じだなあ。
市民運動をおかしな方向にねじ曲げる、メディアの陰謀じゃねえの?などとトンデモ陰謀論を持ちだす私だ。
(^_^;)
まあ、死んだゲバラは商品化できる良いゲバラというわけなのだろう。雑誌は売れるし、Tシャツは売れるし、フラッグにしてサッカー競技場で振り回すこともできる。
しかし、「みんなが仲良く手を取りあって暮らす」手段として武力闘争を選ぶなんて、やっぱ、どう考えても根っこが矛盾してる。
目的は手段を正当化するとは私は思わない。
しかも、ゲバラはまだしも、なんか最近、連合赤軍のような内ゲバ革命武闘派が一部でもてはやされているみたいだ。
げげ。
「革命精神は自分自身に問え!」と他者に強要する
珍妙さと、最後は「総括」してしまう残忍さが売りの連合赤軍……。
あ、「総括」というのは連合赤軍の内ゲバ業界用語で、某宗教団体の「ポア」みたいなもんです。
(^_^;)
……ウンコもカレーも一緒くたというか、なんなんだろうね、この流れ。本当に陰謀なんじゃねえの?
(^_^;)
『紙屋研究所』でも、なんかカッコつきながら肯定的にとりあげてるけど。
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『 山本直樹『レッド』1巻『ビリーバーズ』で果たせなかったもの 』
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/red.html
おえっ。
連合赤軍なんて政治的立場や思想以前の問題だろ……。
あのなー。
ファッションかなんかのつもりで『連合赤軍』扱って、あーだこーだ語ってみせる、よくないよ、こういうの。
こんなもんに群がるとは。「痛みに耐えて☆コイズミ革命」にワッと飛びついたときと、右左が違うだけで、質的にいっしょ。
わからないことがあったら、SF小説に訊ねりゃあいいのに。
SF小説は、真実は語らんかも知れないけれど、
可能性については語ってくれる。
しかも、その答えはかなりチャーミングなので、くすっと笑えてありがたいのです。
例えば、明日の運勢を占ってもらっても、SF小説は一味もふた味も違う。
連合赤軍を否定するにもムーディソン先生は1時間30分だが、良い出来栄えのSF小説は、たった一行だ。
こうだ。
よく聞いてほしい。
「ローズウォーター財団です。なにかお力になれることは?」
さよならブルーマンデー。
もう、泣く必要はない。
「おじさん、わたしがいちばん頭にくるのは、この人たちがどんなに物知らずかということでもなく、どんなに大酒飲みかということでもないんです。それよりも、この世の中のすてきなものはぜんぶ、自分たちか自分たちの先祖が貧乏人にくれてやったものだとする、この人たちの考え方が気にくわないんです」
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ナオミ=クラインが「恐怖を利用した経済支配」について語っていらっしゃる。
日本語字幕がついてる!
早くしゃべろうとして、ときどきどもる。彼女のチャームポイントだ。
「ショ、ショ、ショショジ」
という調子で、シカゴ学派やフリードマンについて語っている。ここでも、チャーミングであること、SFであることが高ポイントだ。
「ショ、ショ……」
ちなみに、シカゴ学派つうのは、
コイズミさんが日本経済をガタガタにしたあれです。
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アンユートピア小説を一冊読んでから投票したほうがいいよ。
わしら。