*これよりさき怪物領域*(2010.4.9)
「英国のマイケル・ボイス国防参謀長は「指導者を変えるまで爆撃が続くのだと、アフガニスタンの人々が自ら認識するまで」爆撃を続けると宣言した。
このような政策は、FBIによる国際テロリズムの定義に、まさにそのまま当てはまる。FBIによると、テロリズムは、「政府や一般市民あるいはその一部を脅迫したり強制することにより、政治的あるいは社会的な目的を達成するために」個人や財産に対して武力や暴力を行使することと定義されている」
〜ウィリアム=ブルム『アメリカの国家犯罪全書』〜
「ハリケーンなんていらない
台風なんていらない
台風のしでかす恐ろしいことぐらい 俺たちは自分でやれるんだ」
〜ベルトルト=ブレヒト『マハゴニー市の興亡』〜
これから、中東の民主化の貴重映像をご覧いただきます。
“民主主義”が注入され、教訓が示されマス。
「米軍は、最近発表された、米部隊がイラク市民に向かって無差別に発砲している映像の信ぴょう性を認めました。ウェブサイト、ウィキ・リークス
(WikiLeaks.Org)は4月5日、2007年7月に米軍ヘリコプターが12人を殺害し、2人の子供を負傷させた場面を機内から撮影した映像を掲載しました。死者の中には二人のロイター通信の職員、フォトジャーナリストのナミア・ノーア・エルディーンと運転手のサイード・シマフも含まれていました。」
『DEMOKRACY NOW!』から(番組開始10ほどで問題の映像が流れます)。
『Massacre
Caught on Tape: US Military Confirms Authenticity of Their Own Chilling
Video Showing Killing of Journalists』
「死体が、ごろごろ転がってる」
「やつらの死に様を見ろよ」
「いいね!」
なんじゃあこりゃあああ!
きを〜つけ! 前へすすめ〜!
オープンファイア!
youtubeでは、日本語版もあるけど、妙な編集がされております。
救助しようとした人々も銃撃されたように見えないよ、この編集じゃあ。
--☆---
弟が突然悲鳴を上げた。
「もう人類はおしまいだ! 人類滅亡だ!」
どうしたのだと訊くと、起動中のMacに表示されているインターネットブラウザのページを弟は指さした。
確認して、私も悲鳴をあげた。
【ビル=ゲイツ氏、原子力発電開発に着手!】
『N.TONOSAKI's Personal Station』さんの人気コラム『がんばれ!!ゲイツくん』から……。
☆☆☆☆☆☆☆
原子力発電の制御なんてことになると当然コンピュータ制御となりますから、そのベンチャーでは最新型のWindowsパソコンが大活躍しているに違いないでしょう(:-P。
しかしゲイツ君製の原発となると、やっぱりメルトダウンを起こしそうになったらCtl+Alt+Delで再起動なんでしょうかね(^^;、まぁその前にウィルスにやられて核分裂が暴走なんてことにならないように注意しなければならないと思いますが、しかしここまで来るとゲイツ君のボタン一つでメルトダウンで世界破滅なんてことになりそうで非常に物騒な世の中になったものです。
☆☆☆☆☆☆☆
今ここにある危機!
!Σ( ̄□ ̄;)
*パはパブリックのパ*(2010.4.6)
「アルコール中毒患者更生会に所属するわがすべての友人と親族よ---みなさんが酒に酔いしれたことは正しい。ときおりの陶酔の瞬間がない人生は、あの適切な表現のとおり、“水差しいっぱいの唾”ほどの価値もない。みなさんは陶酔のために、たまたま自分にとって猛毒であるものを選んでしまっただけである」
〜カート=ヴォネガット『死よりも悪い運命』〜
「何か抗議の言葉ぐらいは出てきそうな成り行きとなった。しかし、ちょうどそのとき、まるで合図を受けたみたいに、羊たちが、みんなそろって、いきなり---「四本脚はよい。二本脚はもっとよい! 四本脚はよい。二本脚はもっとよい!」
〜ジョージ=オーウェル『動物農場』〜
「人民に自治を教育しないのはファシスト国家である」
〜ウィルヘルム=ライヒ〜
これには笑った。↓
『bogusnews』さんから、
『長官狙撃時効後の「オウム名指し」に、ついにあの人も抗議』
(^_^;)
このネタ記事は、1995年に起きた国松孝次警察庁長官(当時)銃撃事件の時効記者会見において
警視庁の公安部長が「(長官狙撃犯は)オウム以外にいるとは考えていない」という“感想”を述べたことがモトになっている。
「(犯人は)オウム以外にいるとは考えていない」と、公安部の部長が記者会見の場で発言した。「オウム以外にいるとは考えていない」というのだから、「オウムが犯人だ、
それで決まりだ」と彼らは強く確信している。つまり、実感だ。そして、オウムが犯人に違いないというその実感は警察だけのものではなく、日本国民の多くもまた、程度の差はあれ、オウムが怪しい、と感じている。感じているはずだと、少なくとも警視庁内部では確信している。だから、この記者会見の後日、警察は「公益性を考慮して、この異例の発言となった」と説明を加えた。
この場合の「公益性」とは、日本犯罪史に残る未曾有のテロ行為を繰り返してきた宗教団体に対する市民への注意の喚起、というものも意味合いとして含まれているのだろう。
しかし現実には、その強い実感にも関わらず、(警視庁長官狙撃事件においては)オウムが犯人だと言うには、客観的証拠にどうしようもなく欠けていると判断せざるを得なかった。誰が判断したのかというと検察だが、何が判断したのかというと、抽象的に法治精神と書いておこう。
オウムが犯行に及んだ、という決定的な証拠もなければ、客観的に証明もできなかった。
早い話が、根拠に乏しい。
だから時効になった。客観的証拠がないからしょっぴけない。
夕食のさんまを盗んだのは隣の飼い猫のミケが怪しい。いや、そうに違いない、他には考えられない……と実感を主張するだけでは話にならない。
つまり、オウムを犯人とするには現時点で無理ありすぎる、という法に基づく判断があって、そのいっぽう、その事実に行く手を遮られる側として「(狙撃犯は)オウム以外にいるとは考えていない」という実感を共有する、警察と大衆がいる。
少なくとも、警察はそのように感じている。感じているからこその「公益性を考えて」だ。
オウムの犯行に違いないというありありとした実感。それは警察全体の思いであり、その警察の思いこそが、「なぜこのような凶悪犯をひっとらえることができなかったんだ」という社会の義憤、それから不安に対する、警察からの返答だ。
市民の多くは、(ごく自然な推論の結果として)オウムが怪しいと感じている。その市民感覚というものを出発点にして警察は影にひたなに捜査を行い、結果「怪しい」から1歩進んで、「警察庁長官を狙撃したのはこいつらだ、他には考えられない」と“考え”ている。そしてその考えは事実とイコールで結ばれているのだ、というのが“こちら側”の論だ。
堅苦しいルールや手順に振り回されているうちに覆い隠されてしまった真実があるのだという主張を警察は行い、その主張は、市民の抱いている確信とピッタリ重なるはずだし、ぴったりと重なるなら、今回の時効は警察に問題があるのではなく、法のしゃくし定規な運用や人間味に欠ける社会倫理のゆがみに問題があるのだ、と断定してみせる。
別の角度から言い直すと、この記者会見は、感動主義市民への警察の配慮、いやらしい言い方をすればおもねり、揶揄すれば“顧客サービス”なのではないか。
すなわち、警察が考慮するというところの“公共性”だ。
今回の警察の記者会見、それからそれを受け止める市民は、“実感公共スペース”と呼ぶべきような枠の中で「思い」によってコミットしあう。
「実感」「思い」「確信」は客観ではなく、主観だ。そして、個人の主観、実感を他者が外からああ感じるべきだ、こう感じるべきだ、などと口出ししていいものではないし、また、できないはずだ。……そのときそのときの思いや気分を満たし続けることが何よりも重要だと互いに諭しあう社会に生きる私たちにとって、自分たちの主観、実感をルールや常識や社会的理性などに抑圧されるのはゆゆしき大問題なのだ。
しかし、実感の内部では、「こいつが犯人に違いない」から「あいつなんて死んでしまえばいい」まで、なんでもありだ。そんな何でもありの実感、刻々と移り変わる気分によって公共スペースを維持することは不可能だ。
だから実感としてはなんでもありだけれど、共同体で共有されるべき価値や線引きというのものは必要だろう。そこで、
決め手になるのは公領域における時間をかけた議論などではなくて、市民の思いの深さ、実感の強さの度合いだ、などというような
奇妙な感動優先指向が、よりにもよって「市民要求」「市民意識」という形で、国民の間で啓蒙されている。
法の精神やリテラシー、理性的理解といった概念から“こぼれ落ちてしまう”実感というものを市民自身の手で救い出そう、というわけだ。
オウムが犯人に違いない、他には考えられない、というのは警察内部の揺るぎのない実感なのだから、“公益性”を考え、記者会見を通じて世間に広く表明されるべきだ。だから実際そうした。そうすることで、少なくとも、冷徹な法や理性といったものから、実感だけは救い出すことができた!
しかし、だ。
それが実感や感動である以上、わかりやすさ、心地よさ、気分を満たしてくれるもの、勝ち戦であること、利益が見込めるもの、メディアが大きく取り上げるものが、根気強い議論や対立する者同士の対話よりも優先されていくことになる。
さあ、おたちあい。
公的空間の形成や市民的同意が、対話によってではなく、実は雑多な人びとの実感と感動をまとめ上げることで作りだされる
消費者モデル型民意
の誕生だ。
事態はすでに、かなり深刻なところまできている。
もう手遅れなのではないか、などとも思う。
『エゾ狂人日記』さんから、
『これは、踏絵でしょ?』
☆☆☆☆☆☆☆
大阪府の新規採用職員任命式が1日、大阪市中央区の府庁新別館で開かれた。今年度から式典の開会にあわせて国歌斉唱を導入。橋下徹知事は「声が小さい」と一喝。「みなさんは国家のもとで仕事をするのだから、思想信条の自由とかいっている場合ではない。国歌はきちんと歌うのが義務」と早速、新職員に橋下流の洗礼を浴びせた。
☆☆☆☆☆☆☆
これが我々の“公益”だ!
! ( ̄□ ̄;)
思想信条の自由とか言っている場合でないっ、キリッ!ときたもんだ。
(´▽`;)
すでに、私たちの社会がどれほどのものを喪失したのか……。呆然とするしかない無残さ。
実感を追い求め、最新流行の改革を消費するよう強く動機づけらた市民。
“市民の欲求”。“市民的感動”。
私たちが望むものを、私たちが手に入れる、なるほど、民主的だ! オモチャをねだる幼児のような、実感むき出しの態度で!
歓楽極まって哀切深し!
立て万国の消費者。消費者は勝利した。これからも勝利するべきだ。明日も勝利するだろう!
おまけ……みなさんの実感に対して余計なお世話ですが。
『村野瀬玲奈の秘書課広報室』さんから
『科学と歴史と倫理の進歩にもとづく論理的帰結を認める教育が日本人には必要』
まったくその通りだ、と同意する。
しかし、もはやこの国では、例えば「愛国心で春は来るか?」などとほざくことが「倫理の進歩に基づく」教育、ということに成り下がってしまっている。
戦慄すべき悲惨な現状だ。
*エンターテイメントの時間です*(2010.4.2)
「いつの場合でもぼくのする話は、人びとの機嫌をとることを目的にしているのではなく、最善のことを目的にしているのだから、つまり、一番快いことが目的になっているのではないから、それにまた、君が勧めてくれているところの、「あの気の利いたこと」をするつもりもないから」
〜ソクラテス〜
「後述するように、20世紀の資本主義は道徳的な土台と目的を喪失した。一方、教育機関は住民の啓発という使命を失った。戦後のアメリカの場合、住民はもはや自分に公益を理由づけていないし、公益に関心も抱いていない。そしてエンターテイメントを求める個々の消費者の集合体に成り下がってしまった」
〜エド=デーンジェロ『公立図書館の玄関に怪獣がいる ポストモダンの消費資本主義は、どのようにして民主主義、市民教育、公益を脅かしているのか』〜
「市場で売られるのが情報の場合、市場ポピュリズムはとりわけ問題をはらんでいる。古典的なリベラル資本主義の市場モデルでは、消費者は市場で取引する以前に信念や要求を抱いている。しかし消費者の信念や要求が市場の当人の取引に由来したり取引によって形成されたりするとどのようになるのだろうか。こうした状態にあっては、買い手と売り手はもはや独立した当事者ではなく、もはや両者間の「自発的交換」とはみなしがたい。その代わりに消費者は市場の手先になってしまう」
〜エド=デーンジェロ『公立図書館の玄関に怪獣がいる ポストモダンの消費資本主義は、どのようにして民主主義、市民教育、公益を脅かしているのか』〜
共同体の内部がエンターテイメント化して、そこから思考が一歩も抜け出せなくなった世界!
『非国民通信』さんから、
『議員だって市民の代表なんですよ』
☆☆☆☆☆☆☆
ちなみに会社員女性(26)は「議員の給料や市民税が減るのは自分のためになるのでぜひ署名したい」とのこと。この人、自分が支払った市民税の額を把握した上で回答しているのでしょうか? 高額所得者で何百万円も市民税を納めている人が市民税減税を歓迎するならわかるのですが、たいした額を納税しているわけでもない人が減税を無邪気に喜んでいるとしたら、まぁ結構なお笑いですね。
☆☆☆☆☆☆☆
ぎゃああああああ! 納めている市民税の金額のことは脇に置こう!
26歳の大人が「議員の給料や市民税が減るのは自分のためになるのでぜひ署名したい」なんて、信じられますかっ?!
「自分のために」!!!!!!!!
最新流行の改革案にどっぷりと浸って、リテラシーや理性的理解の入り込む余地もなく、他でもない私自身が「自分のために」と実感しているのだからそれでいいじゃない!というわけだ。 なるほど! そういうことなのか!
♪ソ、ソ、ソ〜クラテスもプラントンも〜♪み〜んな悩んで大っきくなった〜♪ というのは、いまは流行らない。「ためになる」という実感、思いだけでじゅうぶんだ。
エンターテイメント社会の悲劇、その2。
『七詩さんのHP』さんから、
『休日分散化で観光振興のアホらしさ』
☆☆☆☆☆☆☆
この頃ニュースをみるのもいやになっちゃうほどに政府の施策というのはくだらないのが多いのだが、「休日分散化」というのもまたくだらない。
そんなものが観光の振興に役立つかどうかという以前に、なぜくだらないかといえば、それは日本人が日本国内や海外にゆく観光を振興するための施策だからだ。
日本人が行う観光を振興をするためにわざわざ庁を作り、税金を使って役所が施策を行う必要がどこにある。自治体行政で他からの観光を呼び込もうと知恵を絞るのならまだわかる。
でも日本人が行う観光を国全体で後押しするなんてなんか変…。
※
なぜ変かといえば、国全体で日本人がどれくらい観光旅行ができるかなんてことは基本的には雇用対策であり景気対策であって、それだけのために役所が旗を振る必要なんてないからである。庶民にとって観光はレストランで食事をするようなもの。いくら国がレストランで食事をしましょうなんていっても、言われた方は安定した職場があって金もあれば、そんなのは薦められなくったってやりますよというだろう。
☆☆☆☆☆☆☆
気分、気分、気分! 感動、感動、感動!
「何か良いことが起きる」「悪党連中があぶり出されている」「よりよい明日のイメージを周囲と共有できている」「少なくとも必死に取り組んでいるところだ」という社会の“実感”に重なるように自らも“実感”し、これは実感なんだから何がいけないの?という底なしの感動ディストピア。
(^_^;)
この日本では、あろうことか左翼運動家(“一部の”とつけ加えるべきか“多くの”とつけ加えるべきか)のあいだですら「感動によって人々が共同と団結に目覚める」なんて信じられておるんですわ。
いや〜マジなんですよ。
団結のためにあろうことか感動を必要とする消費者、ぶっちゃけ迎合主義者たちに、いったいどのような種類の市民社会が期待できうるというのでありましょうか?
これって端的に、全体主義社会じゃないの?
まあ、こういうことを書くと、「大衆蔑視」「エリート主義」「冷笑主義」とか叱られるんですが、もう、好きなように言ってください。
「大衆を信じる」ことと「無批判であること」とはイコールではない、などというようなことすら、周囲に説得的に語ることが私にはできない。
ましてや「感動主義は、思想の進歩と人間の能力の開花を妨げる」という主張を理解してもらうなど、とてもとても!
もう一度書きますよ〜。
「感動主義は、思想の進歩と人間の能力の開花を妨げる」とか、「感動主義は民主主義の理念に対する脅威である」などというかなり明白な社会倫理すら、私は周囲に説得的に語ることができない。
あっちょんぶりけ!
我がことながら、信じられん!
おまけっ!
体調を崩し、体調を崩すことによって職を失った『Under the Sun』さんのブログ、久しぶりの更新。
『理想ということについてマジメに考える』
☆☆☆☆☆☆☆
2000年代も早10年が経ち、2010年になった。「ミレニアム」と浮かれていたあの日からもう10年が経ったのである。「理想の在り方」はどうか。子供の頃に夢見ていた21世紀の暮らしはどうか。
テレビをつければまず「エコ、エコ」の大合唱が聞こえる。新しい家電や車を買うことが何故エコで、政府が補助金まで出すのか、私の頭では皆目理解出来ないが、要は資本主義の主な運動である「大量生産・大量消費」を大前提として、21世紀の今も社会は駆動しているということだ。ここにあるのは、「売上を上げたい欲」と「安く手に入れたい欲」だけで、理想はない。確かにハイブリットなど小さな理想の具象化はなされているかもしれないが、社会変革に繋がるような「理想」は、かけらもない。
☆☆☆☆☆☆☆
なぜ「理想」のかけらもないのか。
なぜ? なぜ? なぜなのか?
……答えよりも大切なのは、深く問うこと、……だと私は思うわけです。
ハイ。
*去年を待ちながら*(2010.3.30)
「だが、ここで想定されているようなたぐいの「自由」については、ずっと以前に文化評論家のマシュー=アーノルドが思慮深い言葉を残している---「自由はとても乗り心地のいい馬だが、それに乗ってどこに向かうのかが問題だ」」
〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜
「眠っているものは覚醒するべきだ」
〜フランク=ハーバート(SF作家)〜
「歴史の一ページを開く」のイメージ言葉で踊りに踊った政権交代劇場から半年。
「騙された」、「私の一票を返せ」と『vanacoralの日記』さんが叫んでおります。
『都議会民主党に告ぐ。私の一票を返せ!!』
☆☆☆☆☆☆☆
去年の衆院選で小選挙区・比例ともに民主党に一票を投じましたが、それに先んずる東京都議選でも民主党の候補に一票を投じたのは読者の皆様もご存知でしょう。
そして国政の場において民主党政権が有権者の期待を裏切り続けると同時に、都政においても都議会民主党は有権者の期待を裏切るという愚を犯しております。
☆☆☆☆☆☆☆
裏切られた、という前に、なぜ信じたのか。私には、それがわからない。
政権交代前、連中がテレビ画面ごしにこちらを見据え、「まずは政権交代」などと連呼した時点で、すでに、うさんくささの極地だ。
「まず」などと、ずうずうしくも言い放つ連中に、懐疑の一瞥をむけることすらなかったというのは、いったいどういうわけか。
ネクタイをだらしなく首からぶら下げながら居酒屋に入って、おしぼりに顔を埋めつつ「まずはビール!」というのと、連中の「まずは政権交代」とは、質的には何も変わらない。
つまり、あの場合の「まず」とは、「とりあえず」という程度の意味でしかない。
山となった課題、対立する意見、さまざまな立場、山道を一歩一歩登るようにして再建していく経済、というような、時間のかかるスカッとしない話題は脇において、とりあえずは政権交代をしようよ、腐り果てている自公政権に国民の厳しい審判を下そうよ、と言われて「そうか、とりあえずそうするか」と信じた。
とりあえずのビールと同じように、政権交代をプハーッと一気に飲み干して、味も何もわからず、ジョッキと口元に泡だけが残った。
毎度、毎度、毎度、毎度、毎度、毎度、毎度、同じ手口に裏切られ、また裏切られ、今度も裏切られ、やっぱり裏切られ、それでも裏切られる。
そして、地べたにつっぷして、今日も涙の陽が落ちる。
一方、アメリカの「チェンジ劇場」はどうなったのか。
『デモクラシーナウ』から
『我々が投票したコミュニティ活動家はどこに?』。
☆☆☆☆☆☆☆
経済破綻から1年を経て、米国では衝撃的な現実が生まれています。金融業界は過去最高益に湧き巨額のボーナスを支給していますが、飢えに苦しむ人々の数は政府予想を大幅に上回っています。食事に事欠いたことのある米国人は、2008年に5000万人に達しています。
☆☆☆☆☆☆☆
(^_^;)
ざっくりと基本的なことを押さえるなら、顔ぶれや名前が変わろうと、掲げるイメージ言葉やスローガンが何度すげ替えられようと「相手は詐欺師でこちらカモ」という関係には変化がない。
関係性に変化がないから、結論はいつも同じだ。
「裏切られた」「騙された」「失望した」「一票を返せ」
私たちがカモであることをやめないかぎり、何も変わらない。
私たちを騙さない詐欺師の登場を待ち続けることなど、無意味だ。ニセおでんくんだ。
(^_^;)
……ほんとうにくどいようだけど、SFを読まないとは、こういうことなんですよ。
おまけ。
『Aftenoon Cafe』さんから
『与党安定多数、単独過半数」は誰のためのもの?』
誰のためのものなのか。
即答はしないでいい。
じっくり、あり得ないと思うほどに時間をかけてじっくりと熟考してみることが大切だ。
*SFを読まないとはこういうこと*(2010.3.27)
「願わくは、あなたがたの探検の動機が、たんに貯蔵槽として使える他の宇宙を探すことだけではなく、知識への要求、宇宙の息吹からなにが生まれるかを知りたいという切望であってほしい。なぜなら、たとえ宇宙の寿命が有限であっても、その中で育まれる生命の多様性には限りがないからだ。われわれが建てた建築物、われわれが送った人生---どれひとつとして、前もって予測することはできなかったはずだ。なぜなら、そのどれひとつとして、必然の結果ではないからだ。われわれの宇宙は、静かなしゅっという音だけを残して平衡状態に達したかもしれない。しかし、この宇宙がこれだけ豊富なものを生み出したという事実こそが奇蹟だ。それに匹敵するものがあるとしたら、あなたがたの宇宙があなたがたを生み出したという奇蹟くらいのものだろう。
探検家よ、あなたがこれを読んでいるいま、わたしはとうの昔に死んでいるが、それでもわたしは、あなたに別れの言葉を贈ろう。存在するという奇蹟についてじっくりと考え、自分がそうできることを喜びたまえ」
〜テッド=チャン『息吹』〜
「こうした物語は深い意味に満ちていますし、利用価値も高い---実用的とさえ言えるのです。倫理という点で、洞察という点で、人間的成長という点で」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『夜の言葉』〜
ひどい頭痛がする。きっとSF欠乏症だろうと思う。
SFなしには、刻々と荒廃していく自分を抑制することができない。
SFを読まないとは、例えばこういうこと。
『非国民通信』さんから、
『ディストピアから現実へ』。
☆☆☆☆☆☆☆
位置だけでなく、行動まで追跡できる携帯電話が日本で開発された、「この技術は、社員らの業務能力を最大値まで引き上げるのに使えると期待される。
☆☆☆☆☆☆☆
(^_^;)
人間が必要としているものから人間自身が後退していく……これがSFを読まないということだ。それを別の言葉で言うなら「SFを読む」とは、立ち向かう、ということだ。
なにと立ち向かうのか。
我々が我々自身の肉体を、もしくは内面を根こそぎ破壊できうるという事態と立ち向かう。
ところが私たちときたら、希望にうつつを抜かすことに手がいっぱいで、SFを読むほどにもシビアになりきれない。
SFを読まないとは、こういうこと。
『kojitakenの日記』さんから、
『「権利」より「思いやり」浜松市の子ども育成条例』。
☆☆☆☆☆☆☆
条例推進派の議員は「子供の権利ばかりを主張するのは好ましくない。義務があるから権利がある。国連の『子どもの権利条約』と自治体の条例とは対象も環境も違うので、一緒にしてはならない」と市条例を評価した。
浜松市は鈴木康友市長がマニフェスト(政権公約)の筆頭に「子育て第一主義」を掲げるなど、先進的な子育て政策を打ち出す地域として知られている。
☆☆☆☆☆☆☆
これがどういう意味かわかるかね、未来少年。
SFを読まないとは、こういうこと……。
もっとSFをくれ〜。
*青ひげ*(2010.3.19)
「はじめて広い海原を渡ってきたとき、彼はちっぽけな、本当にちっぽけな男にすぎなかった。長いあいだ船中に座っていたせいで、脚が縮まっていたのだ。彼がほしがったのは、たき火をおこせるほどの狭い土地だった。だがその白い男は、われらインディアンのたき火で暖まり、われらのひきわりトウモロコシで腹を満たすや、すごぶる大きくなった。そして山脈をひとまたぎでこえ、その足で平原や谷を踏みつけ、両手で東と西の海をつかみ、頭を月にもたせかけて眠るようになった。こうして彼は、われらの偉大なる父となったのだ。自分の赤き子どもたちをいとおしんで、彼はこう言った。「おまえたちをふみつぶすといけないから、そこから立ち退け!」」
〜クリーク族・スぺクルド=スネークの説話〜
「問題は、権力が腐敗し非人間化するというだけの話ではない。
また、アメリカの指導者たちが残酷だから、米国の対外政策が残酷だというのでもない。
むしろ、異様に残酷で無慈悲になる意志をもち、そうなれる人物しか、外交政策部門で指導的立場を得ることができないがために、われわれの指導者は残酷なのである。このことは「職務規程」に書き込んでおくべきだろう」
〜ウィリアム=ブルム『アメリカの国家犯罪全書』〜
発展途上国を借金漬けにしたり、場合によっては国家転覆、要人暗殺の手引きをする、というお仕事“元”エコノミックヒットマン、ジョン=パーキンスが『デモクラシーナウ!』にひさかたぶりの出演。
『エコノミックヒットマンが明かす世界金融市場崩壊の理由とやり直しの道』
これは必見だと思います。
ちなみに、2007年の初出演時の動画。
『エコノミック・ヒットマンが語るアメリカ帝国の秘史 --経済刺客、暗殺者、グローバルな腐敗の真相』前編の1
これは実話です、信じられますか?
前編の2。
前編の3。
後編は自分で探してね。
☆☆☆☆☆☆☆☆
そこであなたはあなた自身に問いかけてみなければならない。
……もしそれがひとつの帝国なら、それでは誰が皇帝なのだろう?
☆☆☆☆☆☆☆☆
ジョン=パーキンス
世の中にはいろんな職業があるもんだ。
*自己点検と市民要求*(2010.3.16)
「「どうしてみんな、大きな声を出すと、あんなふうに歩くのかなあ。なぜだかわかる、クロムウェル?」
「なぜだか考えてみましたか?」クロムウェルが反問した。
「ううん、まだ」
「ただ質問するのでなく、まずそれを考えてみなければいけません。でないと、しまいには、自分が信用できなくなって、ほかの人に考えてもらわなければならなくなります」
「わあ……そんなのいやだ」」
〜ジェイムズ=P=ホーガン『断絶への航海』〜
「人々は、あまりにも力の助けを借りて秩序を維持するのになれているので、圧制のない社会組織を考えることはできない」
〜トルストイ『読書の輪』〜
毎日新聞ニュース記事から。
☆☆☆☆☆☆☆☆
鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(51)主催の「市民懇談会」が14日、同市の市民会館であり、市長に参加を命じられた市職員労働組合役員ら8人全員が出席した。市長支持派の市民が「市長の改革に協力するか」と8人を追及する場面も。会場には定員を大幅に上回る1000人近くが詰めかけたが「まるで人民裁判」との反発も出た。
☆☆☆☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆☆☆☆
懇談会では、航空自衛隊OBの竹原市長は「自衛隊では、上司の思いを忠実に感じ取り成果を上げるよう教わった」と自説をぶった。
☆☆☆☆☆☆☆☆
これはいったいぜんたい、なんなのか。
「常軌を逸している」という評価が妥当だと思うが、しかし、これではオーウェルどころじゃない、まるでP=K=ディックの悪夢世界だ。
(^_^;)
「民意」「市民要求」という言葉だけが盛んに飛び交い、あの人もこの人もそして自分もその言葉を口にし、だからわかったつもりになり、しかし、その言葉によって現実に何が実現されようとしているのか基本的なところが理解できていない、としか思えない。
そもそも理解するつもりなどなく、未来への不安感や現状への不満を、溜飲を下げるという形で解消させてくれる何かを求めているにすぎないということなのだろう。
他愛なさの極致。
私たちの期待を一身に背負っているあの人が、目にとらえたものを片っ端に、
手当たりしだい一刀両断にしていさえすれば、少なくとも溜飲は下がる。
溜飲が下がると、不安が和らぐ。だから、指示する。
手当たり次第に一刀両断にしていくということは、意にそわないものや関心のないものを文字通り問答無用で切り捨てていくということであり、簡潔なまでに極端な差別構造を社会の内部に打ち立てるということになるのだが……。
「この危機的状況のただ中で、この国、もしくは町を変えてくれるのはあの人だけだ」
と確信すれば、あとは「燃え盛る情熱」以外のすべてを不問にして、私たち市民は
「上司の思いを忠実に感じ取り成果をあげる」べきだそうだ。
「民意」でさえあれば、全体主義もレイシズムも「多数派の正義」であり、日本式民主主義となる。……などとひとまず書くことはできるけれど、それにしたって、あんまりだ。こんなことは正気の沙汰ではない。
しつこいようだが、どうしてこんなことが起こりえるのか。
モノゴトの核心も実態も何も知らない、知るための勉強もやらない。
……ほんのちょっとでも物事を考える、吟味する、せめて疑問を疑問のままおいておくことすら面倒くさがる、ということを市民レベルで長年積み重ねてこないと、このような事態は起こりえない。とまあ、
この記事読んで驚愕のあまりわなわなと震えながら私は結論づける。
こんなふうにわなわなと。
いや、笑い事じゃなくて。
(;´д` )
膝に力が入らない。茫然自失とはこのことだ。
これが日本の現状だ。
悪いけど、私にはついていけない。
*ウォッチメン*(2010.3.14)
「あなたは研究室で強大な力を創造したあとで、人類にこの力が悪用されるのを平然とながめ、このようにいう、《わたしは政治から離れている》」
〜アリアドーナ=グロモワ『自己との決闘』〜
「たいていの電子頭脳は固い。だが、連続した休みもない労働、入り組んだ計算、それにつきものの悪態やタチの悪い冗談、こういったことに生まれつき過度に神経の細い機械は耐え忍ばなければならないのだ」
〜スタニスワフ=レム『泰平ヨンの航星日記』〜
もっとSFからの警告通信。
☆☆☆☆☆☆☆☆
「性犯罪の量刑が軽すぎた」、確かに今回の裁判長はそう思っている、居合わせた裁判員もそう思っている、そして国民の多数もそう思っているのかも知れません。しかし、誰もが「太陽が地球の周りを回っている」と思っていた時代にも、地球が太陽の周りを回っていたわけです。いったい何を根拠に「性犯罪の量刑が軽すぎた」と言うのでしょうか。周りが皆そう思っているから、「性犯罪の量刑が軽すぎた」と言えば何の疑問もなく受け入れられる、異論は出てこない、しかしこれが裁判官に相応しい態度であるとは考えられません。
そして「一般市民の健全な処罰感覚」とも言いますが、何を持って健全と呼ぶのでしょうか? それは不健全であるかも知れないはずです。市民の多数派の意見であれば、すなわち健全であると断定して良いのでしょうか? 「一般市民の感覚」が健全と言うからには、その対照的な立場におかれているであろう「専門家の感覚」や従来の法律は不健全なのでしょうか?
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20XX年の“1984年”
さらにSFからの警告。
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時は20××年。場所はトーキョー。東京と言ってもかつての繁栄していた経済大国日本の首都東京ではない。いたるところにぺんぺん草のはえた駐車場とさび付いたシャッターの旧小売店や割れたガラス窓の空き室ビルばかりがめだつうらぶれた街だ。今はすっかり見慣れた光景となったホームレスが便臭をまきちらしながらよたよたと歩いているのにまじって、その何倍かの数の老人達がまけずによたよたと歩いている。
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20XX年ブレードランナー
おまけ。
おまけのSFからの警告。
『プリンプリン物語 アクタ共和国編』
♪お金さえあれば〜 なんでも手に入るう〜♪
*こちらSF応答せよ*(2010.3.10)
「最近、テレビを見てると、波の表現は非常にむつかしいのに、海戦の大海原や波浪とかをCGでやっている。波だけではない。森や木々の自然も、動物やときには人間まで。そしてニュースや対談その他、人の座っている部屋を立体画像で作って合成する。書き割りとかキャラクターではなく、ホンモノであるべきものをリアルめかしたCGでやる。そしてついでに言えば、電機メーカーの陰謀で、横長テレビの大型画面はひしゃげた顔や風景を当たり前のような顔をして映しだす。
人間の視覚はどこまで堕落しうるものなのか。みんなこのまがいものだらけの不愉快さに耐えているのだろうか。それとも、もう馴れたのだろうか。もっとCGの技術が向上し、見るに値するものになるまでの訓練を本番でやっているのだと観念して、寛容に見守っているのか。ひょっとすると、これは、虚構に生きなければならぬ宇宙ステーション暮らしの予行演習をさせられているのではないか」
〜高畑勲『一枚の絵から 海外編』〜
SFからの通信傍受。
どうやらなにかの警告らしい……。
ロシア語で囁いてます、映画『ストーカー』
今度は日本語でわかりやすいです。
やっぱり何かの警告だったようです。ロックンロールしてます。
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迷った末に、『2010年度版SFが読みたい!』という本を購入する。
2009年度のペストSF作品が発表されていたが、1冊たりとも読んでいない。
モグリSFファンだなあ。
ゼロ年代ベスト、も発表されていた。
「ゼロ年代ベスト」とは、2000年から2009年のあいだに日本で出版されたSF小説のベスト、という意味だ。
一位がテッド=チャンの『あなたの人生の物語』、二位がグレッグ=イーガンの『万物理論』、三位が同じくイーガンの『しあわせの理由』、八位に『20世紀SF(全6巻)』が入っていた。
『20世紀SF(全6巻)』は確かに素晴らしかったが、この10年間のベストオブベストがテッド=チャンの『あなたの人生の物語』というのでは、あまりに小粒だ。
最近のプチSFブームも、内容的にはややお寒くなっているのが現状だ……などと書けばまた各方面から怒られるかなあ。
(^_^;)
ちなみに、この10年の間で、私にとってもっとも嬉しかったSF業界的できごとは、シオドア=スタージョンの再評価だ。
それと、もちろん、アーシュラ=K=ル=グウィンの『所有せざる人々』の再刊!
もっとも悲しいできごとは、カート=ヴォネガットが地球を去ったことだ。
*月は無慈悲な夜の女教師*(2010.3.7)
「社会科で鎖国について学習させる場合、教師がねらうのは、子どもたちが「鎖国は、するべきではなかった」(あるいは、「鎖国」したのはよいことだった。)という特定の評価的結論を持つようになることではないでしょう。もし子どもに「鎖国は、するべきではなかった」と思わせるのが目的ならば、それは容易なことです。そう信じるために都合のよい事実のみを与えればいいのですし、また、それが目的だというなら、だれでもそのような事実の与えかたをするでしょう。しかし、子どもが自ら考える主体として尊重されるなら、鎖国について子どもが十分に広く事実を知り、論理的に正当な推論をするということがめざされるべきでしょう。そしてその目的がめざされるかぎり、十分な事実の認識があれば、鎖国について子どもがどんな評価をしようと、それはどうでもいいのです。学問であるかぎり、これは当然のことです」
〜宇佐美寛『「道徳」授業に何が出来るか』〜
「私が「ナショナリズム」と言う場合に真っ先に考えるものは、人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神的習慣である。しかし第二には---そしてこのほうがずっと重要なのだが---自己をひとつの国家その他の単位と一体化して、それを善悪を超越したものと考え、その利益を推進すること以外の義務はいっさい認めないような習慣をさす」
〜ジョージ=オーウェル『ナショナリズム覚え書き』〜
『虚構の皇国blog』さんから、「子どもたちの「体罰を受ける権利」を不当に奪うことは、子どもたちへの人権侵害だ!」という体罰の会の紹介。
2010年某ヨットスクールの旅!
☆☆☆☆☆☆
少年は動物に近いから仕つけなければならない。子供が正しくない行為を働いた時には、体罰を与えることが必要となる。
いい替えれば、子供には体罰を受ける権利がある。いっさいの体罰を禁じることは、日本の教育を荒廃させるだけではなく、子供の人権と将来を奪うものである。
体罰の会 会長
☆☆☆☆☆☆
えーと。
「どぉ〜して現場に血が流れるんだ!」
(by青島刑事)
(^_^;)
昔は良かった、今は良くない。何が良くないか。人間というよりは動物に近い少年、少女たちをきっちりしつけていないので今は良くない。少年少女たちは教育を受ける権利を有しているのであり、つまり、日本国籍を持つ子どもたちは、大人社会の構成員たちから体罰を受ける権利があるはずだ。
そして、体罰が子どもの権利なら、大人たちには、子どもたちをしつける義務があるということにもなる。
子どもたちが牛やブタなどの家畜と同じだ、とはけっして言わないけれど、相手は動物に近い小さな人々なのは“事実”なのだから、体に言って聞かせなければ教育にならない。日本の子どもたちの未来のために、彼らの権利のために、大人たちは正しい導き手としての責任を自覚し、社会全般に共同の輪をひろげ、正しい教育を推し進める「統一戦線」を形成しよう、というご主張だ。
「 体罰の目的は進歩なのですから、その事を頭の中において体罰を行います。
「進歩、進歩」と頭の中で言いながらやって下さい。
実に上手く出来ますから。口に出してもいいですよ。」
なのだそうだ。
「進歩、進歩」と唱えてさえいれば、信念も思い込みも弁証法に格上げだ。
--☆---
長崎県では、18歳未満の男女の「成長段階」の内面と性のモラルを守るために、コンドームなどの避妊具の店頭販売が禁じられているんだそうだ。
『非国民通信』さんから
『噛み合わない議論』
☆☆☆☆☆☆
しかるべく知識を持たせるべきとする人もいれば、徹底して遠ざけたがる人もいる、その論拠も同じようなものですね、前者は「性感染症や望まない妊娠を防ぐ」ためには早期の性教育が必要と主張し、後者は「性のモラルの低下を懸念」と称して性教育に否定的、まぁリベラルな立場からすれば前者を推したいところですが、ただ学校で教えられるような「正しい性」なんぞ糞食らえ、という気持ちもないでもありません。
それはさておき、長崎県内では子供はコンドームを買えないそうです。隣の県まで出かけて買い込んでおけばいいのかも知れませんが、取り敢えず18歳未満の長崎県民は近場でコンドームが買えないことになっています。
☆☆☆☆☆☆
なぜ、18歳以下の少年少女たちだけが、避妊具を購入できないのか。
「性のモラル」にまつわるらしいこの種の制限は、18歳以上の人間には課せられないのはなぜなのか。
これが本当の本当にモラルの問題だというなら、
もういっそ、日本国籍を持つ男性たちのオ○ンチン、みんな切り落としちゃえば?
(^_^;)
「性のモラル」という観点から見ても、「美的」観点から見ても、股の間にあんなものぶら下げている必要ないはずだ。
(^_^;)
18歳以下という制限は、つまり、彼らがまだ「人間よりは動物に近い」生物だから、という“事実”が根拠となっている。
動物に近い彼らは、“妊娠のリスク”というタガをがっちりとはめておくべきだ、という大人社会の配慮だ。
今度は何が禁止されるのか。あなたたちの愛はどこへ行くのか。
例えば明日、宇宙人が地球にやって来て、動物に近い人間の男どものオ○ンチンを本当にチョッキンしてしまったら、どうなるのか。
より人間に近くなるのか。
いっぺん、様子を見るのも悪くない。
なんでも実験だ。
*野麦峠の品格*(2010.3.4)
「成功しさえすれば、いろいろどうにでもなってしまうっていうのが、僕はいやだった。ほら、金持ちなら、悪い人でもそれなりになんとかなっちゃうじゃないか。悪い人でも、陰に隠れる……お金の陰に隠れて、悪いことが続けられるじゃないか」
〜スティーヴ=ウォズニアック『アップルを創った怪物』〜
「信じられないくらい巨大な地上の富を人類のために使うことをこそ話題にしようではないか。民衆に必要なものを与えよう。食料、医療、清浄な空気、澄んだ水、木々や草、快適な住まい、数時間の労働、それよりも多いレジャーのための時間、それに値する者がいるかどうかなど問うてはならない。人類はだれでもそういうものを受ける権利を持っているのだ」
〜ハワード=ジン『ソーホーのマルクス』〜
中国に進出した日本企業の嘆き。
『「土日は、しっかり休む!」という中国の体質はちょっと困りもの』
http://www.chinadtp.jp/magazine/994/
どひぇー!
経営者が社員に「労働者の鏡かくあれ」とご指導する、
日本の品格!
「中国の長期休暇の存在は、極めて迷惑で頭の痛い」問題だったので、今はベトナムに進出してるんだそうな。よって、万事解決!
(’〆’) ……。
☆☆☆☆☆☆
ベトナムの法律に則って、土曜日はもちろん営業しますし、年間休日60日の夜勤有りの体制で・・、
「働くことはいいことだ!」
「早く!1日100点突破してみんなで100万VNDプレーヤーに!」
「働きに働いてまずは豊かに!」
と、行け行けドンドン!の気分で驀進していきたいと思ってます。
☆☆☆☆☆☆
うわあ。
しかし、こりゃあマジで日本の若者たちは中国に亡命したほうがいいな!
少なくとも仕事と土日の休みはあるからな。日本企業に就職しない、という条件付きだけど。
(^_^;)
何が最悪って、日本企業で働く労働者は、休日抜きで働くというだけじゃあない、「やらなくちゃいけないからだらだらやらかす」という内面の問題すら克服しなくちゃいけないんだ。
「働くことはいいことだ!」
「働きに働いてまずは豊かに!」
仕事にやりがいを感じることを求められ、いっぽうで、「最近の若者は仕事を選びすぎる」と叩かれる。
なんなの? 奴隷だって「やりがい」まで求められることはないっつうのに!
しかし、「働きに働いてまずは豊かに」って、「欲しがりません勝つまでは」と言っているのと同じことだ。
こういう精神風土は、脈々と受けつがれてるんだなあ。
おまけ。
鬼畜ブログ『郊外のカナリアもさっき死にました』さんから
『いやあ、数が頼り、ってのはほんとーーーーに心細いことだよな。2ちゃんねるの皆さんよ』
2ちゃんねるが2ちゃんねられた。
*就職バタリアン*(2010.3.1)
「新自由主義国家は、世界市場における競争主体になることを強いられ、また、できるかぎり最高のビジネス環境を確立しようとして、ナショナリズムを動員する。有利な地位をめざすグローバルな闘争の中で、競争はつかの間の勝者と敗者をつくり出すが、このこと自体が国民的誇りやナショナル・アイデンティティ追求の源泉となりうる。国際スポーツ競技でのナショナリズムはその表れである」
〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜
「私たちには例の選択肢があります。つまりトマス=ジェファーソンのいう民主的政体論を取るか、貴族的政体論を取るかという選択肢です。後者の道は安易な道です。それは体制が報酬を与えるために設計された道だからです。冨と特権と権力がどこにあるのかを知り、彼らが求めている目的を理解するなら、当然にも豪華な報酬を私たちに与えてくれる道です。
もう一つの道ジェファーソン流の民主的政体論の道は、闘争の道であり、しばしば敗北の道です。しかし、それはまったく違った種類の報酬を与えてくれる道です。それは、「自分以外のことはすべて忘れ、冨を獲得せよ」という「新しい時代精神」の屈服した者には想像することすらできない種類の報酬を私たちに与えてくれます。その道は現在でも150年前と同じものなのです。ローエルの女工たちやローレンスの職人たちが、心を駆り立てて初めて挑戦しようとした道です」
〜ノーム=チョムスキー『教育論』〜
「もっと仕事をくれ〜」なんて、まるでバタリアンのように職を求めてさまよう日本の若人たち。
『mahounofuefukiのメモ』さんから。
『就職内定率の現況』
大学で職業訓練を義務づけるとかで、この国が大学それから就職というものをどのようにとらえているか、よくわかる話だわな。
多くは言わんよ。あきれ果てた。失笑するのみ。知性の地盤沈下が、さらなる知性の地盤沈下を生み、大学でこともあろうに手に職をつける訓練をすることになったわけだ。
おめでとう!
しかし残念。もうな、日本で職探ししてもどうにもならんと思うよ。思うだろ? 緊縮財政とリストラでこの不況を乗り切ろう、なんつーような国だからな。
こうなったら、あれだ。
中国あたりに亡命して、そこで職探しするしかないかもな。
あの国の労働環境は、産業革命んときのイギリスも顔負けの劣悪さなんだそうで、しかも、ちょっとでも文句を言っただけでムチでしばかれたり、場合によっては檻の中にぶち込まれてしまうそうだが、まあ、仕事だけはあるみたいだぞ。
それに
労働環境の劣悪さでは、日本も五十歩百歩だしな。
『ニートの海外就職日記』さんから、
『仕事=人生」以外の価値観は認めないw』
(^_^;)
向こうに亡命したら、中国人として税金を納めるわけだ。……選挙権はどうなんのかな?
向こうで子供が産まれたら、「日本人学校」に通わせることになるとして、
高校の学費は無料なんだろうか?
首相が「友愛」を振りかざす日本では、どうも無理みたいだけど。
中国は、腐っても社会主義を標榜する国なんだから、「日本人学校」の学費だって当然無料であるべきだけど。しかし期待できんよ。実際問題、あそこは、中国共産党一党支配の新自由主義国家だからな。
でも、仕事だけはあるみたいだ。やっぱ、亡命かな。
(;^-^ゞ
おまけ。
ごめん。ウソこいでました。すみません。
亡命するならマジ、ノルウェーだわ。
*最近買った本・マンガ・DVD*(2010.2.26)
「美---美という奴は恐ろしいおっかないもんだよ! つまり、杓子定規に決める事が出来ないから、それで恐ろしいのだ。なぜって、神様は人間に謎ばかりかけていらっしゃるもんなあ」
〜ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』〜
「一方、ジダーノフ一味が、「ソ連邦は文学なしでも存在できる」と言うのも道理にかなっていよう。だが、まさしくそれは彼らが言ってはならないことなのだ。なぜなら彼らは、文学とは何であるかを知らないが、それが重要なものであること、威信宣揚の価値を持つこと、そしてプロパガンダのために必要なものであることは知っており、方法さえわかれば文学を奨励したいと考えているのだから。それゆえ彼らは粛正や指導を続けていくのである。ちょうど養魚鉢のなかの魚が、愚かにもガラスと水とが同じものでないことを理解できず、何度もくり返して鉢の壁面に鼻先をぶつけるように」
〜ジョージ=オーウェル『ソヴィエト文学』〜
アニメ作家、高畑勲氏の『一枚の絵から 海外編』という本を買う。
「漫画映画監督・高畑勲が出会った「この1枚」。レンブラント、フェルメール、ゴーギャン、ゴッホ、ピカソなど、数々の海外の名画を、カラー図版とともに縦横無尽に語る。月刊『熱風』連載をまとめて単行本化。」
というふれこみだ。
高畑勲氏がレンブラントやフェルメールの絵を観賞する。彼は一枚ごとに面白がったり、驚嘆したりするのだが、わたしには何がそんなに面白いのか、さっぱりわからない、とする。すると高畑勲氏は
「ほら、この角度から、こう眺めてごらんなさい」
などと言って、それでもこちらがピンと来ない場合は、両手で顔を挟んで、正しい位置に調整する。
「さあ、どうです?」
「こりゃあ、たまげたな」
私にとって、高畑勲氏の本を読むとは、そういうこと。
「教養とは何か」と問われて、四の五のと言葉を並べる必要はない。高畑勲氏の著作を何か1冊、読めばいい。
--☆---
教養を身に付ける、とはいったいどういうことか。
分厚い古典文学を読んだり、絵画展に足を運んだり、ピアノ曲に耳を傾けたり、理屈っぽい映画を鑑賞したりするのは、なんのためか。
「他の何を差し置いてもいいというくらい、楽しいから」というのが、まあ、答えだけれども、もう少し格好をつけて、啓蒙主義的な角度から返答をするとすれば、それは結局のところ
「常識を身に付けるため」
ということになるのではないか。
↓こういう話に触れるにつけ、つくづくそう思う。
『「言霊」は遠くなり』
☆☆☆☆☆
ミカンに「ありがとう」「死ね」と話し掛け、変化の有無を観察する「言霊(ことだま)大実験」が昨秋、県南地域の中学校であった。言葉の大切さを考える道徳学習だという。
対象はビンに入れた3個のミカン。約2カ月後、生徒から悪い意味の言葉を掛けられた方が腐り始めた。良い言葉の方は変化なし。発案した教諭、そして多くの生徒が「言葉が伝わったのでは」と思ったという。
☆☆☆☆☆
あろうことか、自分たちの気分を満たすことを道徳学習と呼び、タップリと感動し、あとは言霊大実験とやらでリアリティーの補強をする。
モノの本質に迫ろうという真摯な姿勢が決定的に欠けている、としか言い様もない。しかし、いくらなんでもこれはひどい。実感というご都合主義から一歩も踏み出さないから、こんな非常識がまかりとおる。
最近購入した本リスト。
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・『「道徳」授業に何が出来るか』
・『アーサー王宮廷のヤンキー』
・『シュレディンガーの猫は元気か』
・『生きる技術は名作に学べ』
・『ダンドリ・整理術モノグサ私の方法』
・『一枚の絵から 海外編』
・『オーウェル評論集4』
・『SFが読みたい2010年度版』
・雑誌『月刊アフタヌーン』
・雑誌『MacFan』
・漫画『特上カバチ20』
・漫画『シュレディンガーの妻は元気か1』
・漫画『シュレディンガーの妻は元気か2』
・漫画『チャンネルはそのまま2』
トウェインの『アーサー王宮殿のヤンキー』が、いくつかの出版社から発行、もしくは再販をされた。
いいことです。
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