*あなたの人生の物語*(2010.12.17)
「人員縮小によってセールスマンの数が増えたわけではなかったが、自分をセールスマンだと「思いこむ」よう奨励される人の数はたしかに増えた。いつ解雇の憂き目にあうかわからない新しい職場環境では、誰もがつねに販売努力を怠らないよう促され、自分をさかんに売り込むよう教えられた。人類学者のチャールズ・N・ダラーのいうように、ホワイトカラー労働者は「技能のかたまりになった……彼らは職場から職場へと自由に移動し、たくさんの技能をたくさんの旅行かばんのようにもちはこぶ」のだった。だが、努力を怠らず、トム・ピーターズのいう「自分というブランド」を磨き続けなければ、「自由に」移動することは望めなかった。自分を「社員」だと思ってはならなかった。「個性、意気込み、熱意を自ら声高にアピールするブランド」だと考えるのだ」
〜バーバラ=エーレンライク『ポジティブシンキング病の国、アメリカ』〜
「心臓の上に手を置いて、こう唱えること……。
「私は金持ちを尊敬する!」
「私は金持ちを賛美する!」
「私は金持ちを愛する!」
「そして、私も金持ちになる!」」
〜T=ハーブ=エッカー『ミリオネア・マインド』〜
『デモクラシーナウ!』から、
『サラ・ペイリンの宗教観と政治』
ティーパーティー、いわゆる「新・草の根市民運動」の報告。
「正しく考える」「正しい位置から物事を眺める」という気持ちなどさらさらない、つまるところ、
「見識」というものを念頭において自分や他者の言動を推し量ることはしない、と胸を張ってみせる
市民たちと、その市民たちに向き合う形でサラ=ペイリンのような政治指導者がいる、という図式に名前をつければ、それがティーパーティーだ。
正しく考えようとしたり、正しく眺めたりすることに利点はあるだろうが、それはいかほどのものなのか。むしろ、何ひとつ正しく考えられないという状態にあぐらをかいたほうが、むき出しの本音を公然と連呼するのには都合がいい。とまあ、このような価値観を共有することで、私たち市民の“本音の要求”は具体的な形で実現していくはずだ、という論法に支えられた市民運動の熱風。
市民が「正しい位置から物事を眺める」、言葉というものを通して「正しく考える」ことに根気強くチャレンジする、つまり「見識」を我が物とするなどという面倒くさいことは、この危機的時代においては、悠長に過ぎる。悠長に過ぎるから、おあずけだ。
それよりも、圧倒的多数の市民の本音というものを、ただひたすら、実現していくことにのみ、私たちは集中すべきだ、というわけだ。
アメリカ、そして日本のような国に暮らす人びとにとって、まったなしに解決すべき「国民的課題」とは、むき出しの本音という部分でストレートに結びつきあった政府と多数派の人民の、ポジティブで創造的な関係の構築の向こう側にある。と、サラ=ペイリンはそう信じているし、私たち市民もそう信じている。
おお、なんだ、解決できたじゃない!
「正しく考える」意欲、正しさへの挑戦の気持ちが、市民のなかに最初からない。あるのは自分の考え、自分の都合、その場その場のノリのようなものだけ、というのだから、市民たちに向き合えるのは、快活で前向きでくじけず独善的で他者に対して冷酷で平気で嘘をつく半知性主義者という特性を備えたサラ=ペイリンや、大阪のハシモトや、名古屋のカワムラといった人びととなる。
私たち市民は「正しく考える」「正しい位置から物事を眺める」ことに固執すべきではない、というのだ。
自分たちの本音を現実のものとしていくに当たって、「正しく考えようとする態度」が足かせとなるなら、何が正しく何が間違っているのかという問いかけを保留して、自分自身に素直に、まっすぐに、問題解決の道筋をたどればいいのではないか、と、考えるべきだというのだ。
「正しく考える」ことが自分たちにとって都合がよいときに、そのときに正しく考えることにしよう、と言うのだ。
正しさなど、この世界でもっともあやふやで、うつろいやすく、不確かなものだと、今では誰もが信じている。または、信じるべきだというのだ。
“曇りなき眼で見定める”など、誰にできるというのか、アシタカくんよ。
我々が我々の未来の方針として信じることのできるのは、「前向きさ」と、「否定されない無垢な本音」だと、誰もがそう考えている。または、そう考えるべきだというのだ。
ぺなぺなとした本音が風に吹かれて、アスファルトの上に落ち、車に踏まれて一巻の終わりとなるまでの期間、自分の本音を抱き続けたあなたは、どこまで快活であったか。
風よ吹け吹け。
風を呼び込まなければあなたはあっというまにアスファルトの上に落下するしかなく、明るい未来への風をあなたの人生に呼ぶ込むものは、あなたの楽観主義、ポジティブシンキング、前向きな思考だ。
でも、も、だけど、も、いっさいなしだ。
言葉というものがこれほどまでに市民に軽視される社会があってはじめて、サラ=ペイリンのような人物が存在しうる。
……てなことを、言葉を使って書き連ねることのむなしさ。
『Afternoon Cafe』さんから、
『大連立=大政翼賛会が確立したら民主主義がまた一歩死にむかう』
うわあ……。
私は今日も茫然自失だ。
悔い改めよハーレクインとチクタクマンは言った。
映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ワンシーン。
このまま放置すれば、ぺなっと落下してそれっきりとなってしまうのが明らかな人間に手も差し伸べない、手を差し伸べようと“考えることすら”罪悪なのだ、というたぐいのポジティブさを体現した市民たちから見捨てられるような形で、一度きりの人生を終えてゆく人々はたくさんいるのだ、こんなに身近なところでいるのだ、というある種の覚悟を、ただならぬと言っていいような胸を打つダンスシーンに託した、これはすごい映画だ。
青ざめて、そして覚悟する。
*コミックブック・キラー*(2010.12.14)
「現代において知的自由の理念は二方面からの攻撃にさらされている。一方はその理念的な敵、すなわち全体主義的の弁護者であり、もう一方はその直接的実際的な敵、つまり独占と官僚体制である。誠実を保持したいと望む作家やジャーナリストは、だれかれを問わず積極的な迫害、というよりはむしろ社会の趨勢によってくじかれている」
〜ジョージ=オーウェル『文学の禁圧』〜
「作家は単なる娯楽提供者であるか、あるいは大道のハンド・オルガン奏者が曲を変えるように、ひとつの宣伝路線から別のそれへと簡単に切り替えのきく金目当ての下働きであるときめこんでいる。しかし、結局のところ、本というのはどのようにして書かれるものであろうか。ごく低級なものを除けば、文学は体験の記録によって同時代人の視点に影響を及ぼそうとする試みである」
〜ジョージ=オーウェル『文学の禁圧』〜
あれこれと騒いでいた東京都の青少年健全育成条例ですが、どうやら可決の見通しだとか。
『男の魂に火をつけろ!』さんから。
『燃える瞳は原始の炎』
201Xになって、ジョージ=オーウェルの小説世界をリアルに体験できることになるとは!
来年は、1984年となるだろう。
『CLick for Anti War』さんから、
『■東京都マンガ規制で手塚治虫の永遠の名作『火の鳥』が規制対象になる(@∀@)』
漫画一つまともに読めないひとたちが、漫画一つまともに読めないという事実を出発点にして、果たしてどのような社会を築き得るのか、東京都は、そのような遠大かつ無残な市民改革の実験場と化す。
知性の欠如、思慮の欠如、度外れた無教養というものを土台にするから、どのようなアイデアも行動も見当外れのどっちらけだ。
どうして、知性の欠如、思慮の欠如、度外れた無教養というものを土台にしなければならないのか。
呆然となりながらも、私が心の底から問いたいのは、その点だ。
未来世紀ブラジル。
*ヴァージニア・ウルフなんてこわくない*(2010.12.11)
「W.W.ノートンの編集長ジェラルド=ハワードによると、出版産業は2つの競合する機能で引き裂かれている。すなわち「読者の教育、啓発、引き揚げという声高で高邁な精神の公共の使命と、消費者に金を使わせようとする、それほど声高ではないが物事の性格からして常に説得力のある商業の使命である。出版業界がエンターテイメントの複合企業体に吸収される以前、均衡は公共の使命に傾いていた。例えばヘンリー・ホルトは商業の使命を非難した。その理由は「道徳の放棄、活動の格下げで目的が低水準になる」という点にあった」
〜エド=デーンジェロ『公立図書館の玄関に怪獣がいる』〜
「出版社は、そうなることを早くも1950年代に見抜いていて、この本の広告にこう記していた。「エグゼクティブのみなさま。社員にこの本を配布しましょう。きっと利益になりますよ」」
〜バーバラ=エーレンライク『ポジティブ病の国、アメリカ』〜
私は、いわゆる携帯小説というものを読んだことはないし、一生読むことはないだろう。また、携帯小説を原作とした映画を鑑賞することも、一生ないだろう。
冷やかし気分、または、怖いもの見たさ、という下世話な好奇心のみに支えられて、圧倒的に無残であるとわかっているものに時間を費やす空しさを、自分の身のうちに感じたくない、というのが理由だ。
というわけで、映画評論サイト『破壊屋』さんから、
『ケータイ小説映画全作品リスト』
『破壊屋』さんの鋭い指摘、批判に触れることは、無残であるとわかっているものに時間を費やす空しさとは無縁だ。
私のような、けっして読みもしないし観賞もしないけれどもそのことについて思いを巡らしたりする、という人間にとって、このようなサイトは、貴重だ。
ケータイ小説10大エレメントという項目が、破壊屋さんによって呈示されている。
「自殺」「交通事故」「難病」「いじめ」「援交売春」「妊娠」「中絶・流産」「DV」「レイプ」「ドラッグ」
読者が小説に求める要素を10種類とりだせば、このような項目ができあがる、という指摘だ。
読書を通じて「自殺」「交通事故」「難病」「いじめ」「援交売春」「妊娠」「中絶・流産」「DV」「レイプ」「ドラッグ」を追体験することによって、身のうちに沸き上がる感動というもの。
私は生まれてくる場所を間違えたのだと思う。
おまけ。
最近観た映画。
面白かった! 少なくとも、ざまあみろ、というくらいには。
*ヴィーナス・プラスX*(2010.12.8)
「愚者は、自分が恥ずかしく思うことをすると、それは自分の義務だと言い張るものだ」
〜バーナード=ショウ『シーザーとクレオパトラ』〜
「「おれは帰らない。帰らないぞ」とタウザーはいった。
「おれもだ」ファウラーが答えた。
「帰ったら、おれはまた犬にされてしまう」タウザーが続けた。
「そしておれは、人間にされてしまう」とファウラーはいった」
〜クリフォード=D=シマック『都市』〜
「子供だけじゃなくて、テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。使命感を持ってやります」
東京都知事イシハラ氏の言葉だ。
「子どもだけじゃない」とは、文脈的には「児童を性的対象にする」ことに飽き足らず、というような意味合いだ。
「児童を性的対象にする」腐敗した社会、という認識が彼の中でまずある。では「児童を性的対象に」しているのは、いったい誰か。
誰なのかと問われてそれを言葉にすれば、「不道徳な連中」程度の、他愛なくも不確かな、実にあやふやな仮想の人々のことだ。
異常な性的要求をもつ連中、イコール性的犯罪者予備軍が、市民の、子どもたちの日常を脅かしている。しかも!……同性愛者がテレビに平気で出ている。世も末だ、という子どもじみたばかげた発言だ。
そんな彼が使命感をもって何をやるのかというと、東京都青少年健全育成条例改正案の成立を使命感を持ってやるのだそうだ。
都知事のおそらく実感においては、この国は政治も経済も市民の内面も腐りきっており、その腐敗のもっともわかりやすい例として「児童を性的対象にする一部市民」という事態があり、その腐敗を押しとどめ、一掃するために「使命感を持ってやります」ということなのだろう。
そして、そうした“国家的腐敗”についての都知事の実感を、まさしく自分の実感と重ね合わせることのできる市民が相当数いる、ということでもあるのだろう。
私はほとんどまったくテレビを観ない人間だから、同性愛者がテレビに平気で出演しているのかどうか、正直言って、知らない。
知らないけれども、日本という国の現状をふまえつつ推測すれば、同性愛者が平気でテレビに出る、という状況を現実に支える力となる市民の人権意識の高まりというものが、社会の隅々にいきわたっているとはお世辞にも言えないし、
実際には他者を理解する意欲も、性愛についての真面目な議論というものすら始まってもいない。
真面目な議論すら始まらずに、何が始まったかというと、それは無制限の商品化だ。
子どもが魅力ある商品となりえる。性的な消耗品として。
他愛ないほどに画一的な、したがって大量消費が可能な、つまり市場にとって魅力ある商品足りえる、と、誰かが考えた。その誰かとは、市場のマーケッターだったろう。その思いつきは現実の商品となった。
子どもたちの性もまた、他のものとわけへだてなく、貨幣がひりだす金色の排泄物となった。
大量消費社会を支える大量生産システムの、企画製品となったのだ。
道徳的にどうであろうが倫理的にどうしようが、製品であることや商品であることを私たちは否定することはできない。「何かを見たら商品を思い出す」、資本主義システム維持のこれは絶対条件だからだ。
しかし。自由な市場が求める製品化の暴風に、生身の人間は耐えられない。特に子どもは! そこで私たちは「他に仕方なし」という風情で、モラルを持ちだすのだ。
性愛にまつわる個人的趣向だの、マンガにおける描写だの表現だの、同性愛者がテレビに“平気”で出ているか出ていないかだのが問題視される。
“野放図”な人間的価値の商品化を規制できないというのなら、せめて、道徳を前面に押し出すことによって、倫理的な規制を人間に課していく、という判断だ。
……不道徳な行為にふける不道徳な輩を除外すれば、少年少女の健全な性を守り抜くことができるのではないか。不道徳な人間を社会から一掃することが出来れば、この社会の辞書から、不道徳という言葉を黒のマジックペンで真っ黒に塗りつぶすことが可能なのではないか。可能なのだとすれば、そうしてしまえ、という論法だ。
しかし、例えば、この世の馬鹿をすべて抹殺すれば、この世に馬鹿はいなくなるのか? 「もちろん馬鹿はいなくなる」と答えるような人が都知事のイスに鎮座している。そしてその知事を支持する人たちがこれほどの数にのぼる、という事実にこそ、日本国民は戦慄すべきだし、深刻さを正面から受け止めるべきだ。
しかし、正面から受け止めるどころか、ここから論理はいきなり大きくスリップして、社会から除外すべき不道徳な輩の例として「テレビに平気で出ている同性愛者」がいきなりピックアップされた。
いや、もう、ことここにいたっては、笑えばいいのか、がっかりすればいいのか。
(^_^;)
基本的な人権感覚の身のある教育も啓蒙もいっさい受けてこずに大人となってしまった市民たちは、自らの限界の前に、右往左往、または立ち往生するばかりとなった。
ともかく、ここで話は一周し、スタートからやり直しだ。
「同性愛者がテレビに平気で出てている」というイシハラ氏の発言は、ごく自然な、常識的判断に照らせば、端的にでたらめか、誇大妄想のたぐいだろう。
そしてそのでたらめや誇大妄想の上に、さらなるでたらめや個人的嫌悪や盲信のたぐいをどこまでも積み重ねて、都庁のあのビルは今日も不気味に空虚だ。
ここでいきなり映画紹介。
ルーカス=ムーディソンのデビュー作『ショーミーラヴ』。
スウェーデン映画。素晴らしい青春映画だが、日本映画でこういうのを観ることはまずできない。
つーか、イシハラ氏やそれに続く人々は、この映画を観てもなにひとつ意味がわからないだろう。
テーブルの真ん中にドンと置くような形で結論を書くとすれば、公的な場で性愛について議論するには、彼らは、態度と思考の両面があまりにも粗雑すぎ、そして、傲慢にすぎる。
この世には「正しい性愛」と「正しくない性愛」があり、我々が正しいのだから、君たちは正しくないのだ、という基本姿勢それ自体が、どうしようもこうしようもなく粗雑だ。
自分の気質にどこまでも忠実にまっすぐ人を愛そうとする試み、または冒険、その貴重さ等々に値段はつけられず、しかし、値段がついていないものに価値はいっさい見いだせない、という市場主義の考え方をネガのように反転させたものが、なんのことはない彼らの「モラル」の正体なのだが、その粗雑さゆえに、彼らは自分自身の正体に無自覚なままだ。
スウェーデン市民から遅れること100万光年。
おまけ。
『Apes!
Not Monkeys! 本館』さんが、
「マンガ・アニメにおけるジェンダーやセクシュアリティの描き方を見ていると「とても石原慎太郎を嗤えないじゃん」と言わざるを得ないケースが少なからずある。石原たちが規制しようとしている作品の全てとはもちろん言わないし、広くサーヴェイしているわけでもないから「多くが」とも言わないけれども、そのいくらかは規制派(ももちろん一枚岩ではないから、そのうちのあるクラスタ)と大して違わないジェンダー観、セクシュアリティー観を背景としていると言ってよいだろう。」
とおっしゃるのは、まったくそのとおりで、これこそ、公共空間においての、市民の熟議が絶対に欠かせないだろう。
*人間以上*(2010.12.5)
「自分の富も持たずに、労働市場で生き残れない者は「一片の食料たりとも要求する権利はないのであり、そして事実かれらがどこに行こうが知ったことではない」マルサスは彼の有名な著作の中でこう言い放った。貧民にはなお権利があるという信念を説くのは「重大な悪徳」であり、「自然な自由」に反するとリカードは考え……」
〜『チョムスキーの「アナキズム論」』〜
「魯鈍は好ましくない人々の間では最も上位に位置し、もし特定されないなら、子孫を増やすこともありうるので、民族の繁栄を脅かすことになる。我々は全員が白痴と痴愚を認識しており、どうすべきかも理解している。ということは、魯鈍のレベルのすぐ上で尺度は切断されなくてはならない(略)優生学はこのばかげた考え方を積極的に利用した」
〜スティーヴン=J=グールド『人間の測り間違い』〜
『Afternoon Cafe』さんから、
『障害者自立支援法延命〜ある意味自民党より卑怯な民主党政権』
障害者がどうなってもかまわない、病人がどうなってもかまわない、お年寄りがどうなってもかまわない。なぜなら、彼らの人生の苦難はすべて彼ら自身の弱さゆえであり、彼らの弱さなど、市場はなんの価値も認めていないからだ。
さらに付け加えると、労働市場が求める人材足りえているかが問われているわけですらなく、
市場が求める製品足りえているのか
が問われている。
「私は人間である、人間として扱って欲しい」とあなたは言うかも知れないが、あなたが人間であるということそれ自体が、市場にとっては、ただひたすら面倒くさいことでしかない。
労働者の権利だの、憲法によって保障されている人権だの、人としての喜びだの、悲しみだの、苦痛だの、屈辱などなんだの……。
そんなものはぜんぶ、市場にとっては単なるやっかいごとだというのだ。
あなたが人間であるというのは残念だが仕方がない、しかし、“あなたが人間であるという欠点”はあなたの責任なのだから、あなた個人が全面的に背負うべきことだろう、というのだ。
障害を持っている、性別が女性であるまたは男性である、快活である、引っ込み思案である、あなたが大切に思っているもの、嫌いなもの、その他もろもろのすべてがあなたの弱さゆえであり、あなたが人間であるゆえだ。
そして、あなたが人間であるということ、あなたが人間であるという限界は、あなたのプライベートな問題だ。
……と、これまた、誰かがそう言ったわけではない、しかし、市場はそれを求め、人々はそのように考えている。
あなたは、市場が求める製品となるよう、個人として最大限の努力をすべきだ。そして、自立を達成すべきだ。
あなたが市場の求める製品としての役割を果たすなら、ここは自由の国だ、個人の自己責任において、人間であることの自由を満喫してください。
なぜ? どうして?と、疑問を感じたり不平を言う自由はもちろんあるけれども、市場がそれを求めているのだから、結局はそうあるしかない。
ポジティブに、自分を変えていかなければ!
気まぐれな市場がその場その場で求める課題に、あなたはあなた自身を改造しつつ、応え続けなければならない。
それはこの世の決まりなのだと、誰もがそう考えている。
社会的に有用であり続けなければならないあなたが堪えなければならない人間としての苦悩は、これは、あなたが個人的に乗り越えるべき課題だ。
あなたがあなたというひとりの人間である、という事実を、あなたは乗り越えるしかない。
その乗り越えた先に、あなたの未来がある。
越えろ。
超えよ。
それが、この社会であなたが生きていくための、現状ではもっとも基本的な命題だ。
仮にあなたが肉体的もしくは精神的な障害を抱えていて、その障害はひとりではとても乗り越えられないようなたぐいのものだ、というなら、それは実にかわいそうに、だけど、
人間なんだから仕方がないよね
というのだ。
現実には不可能であるけれども、あなたは、可能な限り、人間であることを乗り越えるべきだ。それだけではなく、労働市場において魅力のある製品である必要がある。
我々はそのように考えている。
おまけ。
ロシアアニメの傑作『Shooting Range』前編。以前にも紹介したことがあると思うけど。
1979年にこれほどの傑作が作られていたのだ。
ロシアアニメの傑作『Shooting Range』後編。
*犬は病んでいるの?*(2010.12.2)
「犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
「犬は病んでいるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢えているのですよ」」
〜萩原朔太郎『遺伝』〜
「人間には共通の基盤があり、あらゆる人間に共通する特徴をみつけることは可能であり重要だと主張するのは何のためなのか?
それは支配者を抑制するために重要であるからだ。相手を怪物とみなし、普通の人間とは違う者とみなしたら、同じ人間として相手とどのように関わっていくかについての基本的ルールを無視することが可能になる。怪物がいるという考えは誰にとっても危険であるが、他人の行動を法的に取り締まることを職務にしている人間がそのような考えをもつことはとりわけ危険である」
〜ニルス=クリスティ『人が人を裁くとき』〜
映画『第9地区』予告編。
未成年者に死刑判決が下ったのだそうだ。
『Apes! Not Monkeys! 本館』さんのところから、
『むしろ「更生」を放棄しているのでは?』
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「少年だから厳罰に、というのは私の理解を超えた発想なのだが、そう考える人間が4分の1もいるのだというのは理解不能の2乗だ。被告人の更生可能性を問う以前に、この社会はそもそも更生させるということに関心など持っておらず、それがこの調査結果に現れているのではないか、とすら思えてくる。」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
このような不寛容さ、どこからやってきたのかわからない不気味な残酷さは、全世界的な傾向のようだ。
スイスでは「外国人犯罪者を一律追放」するべきかどうかの是非を問う“国民投票”が行われ、結果、「外国人犯罪者を一律追放」することが、スイス国民によって承認されたのだそうだ。
……。
これがどういうことかわかるかね?未来少年。
我々の社会は、自分たちがどんな時代に生きていて、どんな敵と闘っているかがまったく理解できていない市民を確保することに成功したのだ。
外国人を排斥せよと独裁者が叫んでいるわけではない、しかし、
そう考えられている。
犯罪者は年齢が若ければ若いほど凶悪で更生の見込みもない、と専門家が叫んでいるわけではない、しかし、
そう考えられている。
私たちの幸福、自由、生活を浸食する敵に対抗する手段として、排外主義を日々の営みの中に導入すべきだと、誰かが啓蒙しているわけではない、しかし、
そう考えられている。
我々の自由を破壊する危険性のある他国、その国家とイコールで結ばれている民族、犯罪者、外国人、若者、異教徒、お年寄り、貧乏人、病人、子ども、教師、組合員、なまけもの、ださいやつ、暗いやつ、その他もろもろの人たちを監視し、制御し、場合によっては排除する、といったことを可能にしていく力として機能する民主主義というものを、誰かが声高に主張しているわけではない、しかし、
そう考えられている。
私たちは「そう考えられている」世界に生き、可能なかぎり「わけがわかっていない」状態を維持しながら、ごく自然に「そう考える」人々となった。
おまけ。
映画『ドッグヴィル』予告編。
誰かがそう言ったわけではない、しかし、そう考えられている。
*戦争の悲しみ*(2010.11.29)
「ピアノから離れたら、フォンの持っているような心は、すぐに世間に踏み潰されちゃう。私はよく知っているの。余り険しくない世間にいてもそうなちゃうのよ。フォンが飛び込もうとしている世間は、ちゃんとした秩序のない世界なんだから、ますます危険だわ。そういう世間にいると、100パーセントの純粋さとか完全な美しさって、予想もできないほ不幸の原因にしかならないのよ。わかってくれる?」
〜バオ=ニン『戦争の悲しみ』〜
「ナイフを奴の迷彩服の胸に二回も突き刺しました。腹も、それから首も、一回ずつ刺しました。奴は喉の奥で呻き声を出し、白目を剥いて全身を痙攣させました。そのときになって、俺はやっと気がつきました。奴は穴に落ちてくる前にひどい怪我をしていたんです。爆弾の破片で片方の脚の下のほうが切断されてた。全身血まみれで、口からも血が出てた。俺に刺された腹の傷口からは腸がはみ出して、湯気を立ててました。ええ、見るからに無残で気の毒でした。で、俺はとりあえず奴の腸を腹に押し込み、包帯代わりにシャツを引き裂いて傷口をふさいでやったんですが、放っとくと命取りになる傷ばかりで、血を止めることなんてできやしなかった。でも奴は象みたいに頑丈な男でした。並の人間ならもう欠伸もでないはずなのに、奴は涙を流しながら大声で唸ってましたよ。俺は怖くなった。それ以上に可哀相に思った。ちょうど爆撃がおさまり、ライフルの音も聞こえなくなった。音はといえば雨の音だけで、それもだんだん大きくなってきた。俺は奴の肩をゆさぶって『おまえ、ちょっと待ってろ』と言った。『俺はこの穴から出て、薬と包帯、それからガーゼとか脱脂綿とかを探してくる。すぐに戻るからな』とね。奴は唸るのをやめて、瞼を上げたり下げたりしながら俺の顔を見ました。その顔は雨水と涙と血でぐしゃぐしゃでした」
〜バオ=ニン『戦争の悲しみ』〜
「「望み通り始末してやる。その前に聞く。お前ら、俺たちの主力部隊の動きをさぐるために、この土地までやってきたんだろう。それなのに、なぜ部隊と関係のない娘たちを襲ったんだ。また、なぜ残酷にも娘たちを殺したんだ。(略)
「まず貴様らの仲間三人の死体をその穴に投げ込め。貴様ら以外に、誰もそんな死体を片づけてはくれやしない。三人の死体をここに放っといたら、森全体が汚れて臭くなる。貴様らもそんなことはしたくなかろう」(略)
傀儡兵はキエンの足元に土下座して涙ながらに訴え始めた。
「どうか僕に慈悲をかけて下さい。お願いです。僕はまだ若くて、年とった母がいます。もうすぐ結婚することになってます。……彼女とはとても愛し合っているんです」
彼は震える手で胸のポケットからカラー写真を一枚取り出し、キエンに渡した。キエンは写真を見つめた。それは青い海を背にした若い女性のポートレートで、黒っぽい水着を着たその女性は長い髪を肩に波打たせ、片手にアイスキャンデーのバーを持ち、他方の手を優しく振りながら明るく笑っていた」
〜バオ=ニン『戦争の悲しみ』〜
河出書房で刊行中の世界文学全集から、バオ=ニンの『戦争の悲しみ』を読む。
単行本には表紙の半分ほどにもなる大きな帯がついていて、そこに、監修者の池澤夏樹氏の「ぼくがこの作品を選んだ理由」という短い文章が載っている。
「戦争は文学を生む。大岡昇平が『野火』を書いたのでもわかるように、兵士の中から作家が生まれる。ヴェトナム戦争が生んだいちばんいい作家がバオ・ニンである。この話では登場する女性たちの運命が哀切で、自分の国が戦場になることの底の見えない恐ろしさが伝わる」
とのことだ。
私がこの本を読み終わったうえで、感じたことをひとことに要約すればそれは、
「人間はこれほどまでに失うことができるのか」
という心の底からの戦慄だ。
死に神ですら、これほど奪うことはできないだろう。
それほどに失う。奪われる以上に失い、砕け散り、変質し、影も形もなくなり、独りぼっちで血を流しつづけるなどとは、現実にありうるのか。
人はそれに耐えうるのか。
ありうるも何もない。耐えうるも何もない。
戦争という挽肉機械に放り込まれた生身の人間の、時空を越えたこれこそが戦争の普遍的姿だ、という異様なほどの説得力は、作家自身が、ベトナム戦争の激戦の生き残りだからだろう。
生き残るなどとうてい不可能だ、と信じられていた戦争をそれでも生き延びた兵士たちに残されたものは、戦争の、または戦争以前の幸福だったころの心象風景のみだ。
少なくとも「生きるよすべ」と呼べるようなものは、心象風景だけとなる。
戦争によってすべてが決定づけられた彼らの内面の心象風景のみが、彼らの人生の道先案内人だ。
いつの日にか帰ってきたいと切望していた世界は、もはや心象風景の中にしかない。それを粉々にした戦争も、すでに心象風景の中にしかない。
彼らがこの世のすべてと引換にしても帰還したいと望む世界は、彼らの心象風景だ。
彼らが必死に脱出を試みる世界もまた、今では心象風景としか呼びようのない何かだ。
だから、戦争によって粉々に砕け散った彼らは、心の導くままに心象風景の中に何度も立ち返るしかなく、そのたびことに、もう一度、引き裂かれなおすのだった。
戦争以前の自分の人生は粉々に砕け散った。彼らの人生を粉々にした戦争もまた終わった。
これほどまでに失うことが人間には可能だ、という事実を描いた一冊のフィクションを読み終わり、私はまだ、その強烈な衝撃から完全には立ち直れないままだ。
一冊の本を読んで「立ち直れない」と言えるほどに衝撃を受けるのは、少なくとも私にとっては、悪い経験ではない。
これほどの衝撃を受けて、ほいほいとすぐに立ち直ってしまうのは、おしい。それに、そういう人間は、個人的に信用が置けない。
*内向きの算数*(2010.11.26)
「言葉づかいもきちんとしているし、教養も好奇心もある。宇宙の不思議に触れたいというごく自然な欲求ももっているし、科学のことだって知りたがってはいる。それなのに、現代科学のことはほとんど何も知らない。彼らのところに届く前に、どこかで「科学」が抜け落ちてしまうからだ。文化も教育も情報メディアも、こうした人びとの役に立ってはいない。社会がかろうじて与えるのは、上っ面な情報と混乱だけだ。彼らは、真の科学と安っぽいまがいものとの見分け方を教えられたこともないし、科学の方法のことをこれっぽっちも知らされていないのだ」
〜『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』〜
「たいていの電子頭脳は固い。だが、連続した休みもない労働、入り組んだ計算、それにつきものの悪態やタチの悪い冗談、こういったことに生まれつき過度に神経の細い機械は耐え忍ばなければならないのだ」
〜スタニスワフ=レム『泰平ヨンの航星日記』〜
映画評論ブログ『破壊屋』さんのところで、小学生向けの算数にまつわる、このような問題提起がなされていた。
なかなかに深い問題だ。
『5×3≠3×5でいいの?』
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さらが5まいあります。
1さらにりんごが3こずつのっています。
りんごはぜんぶで何こあるでしょう。
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という算数の問題を小学生の子どもたちが解くに当たって、「3×5=15」と書くと正解だが、「5×3=15」では不正解となる、というような指導が小学校の教室内でなされている。しかし、実は、その指導こそが間違っているのではないか、という指摘だ。
ちなみに数学的には、3×5=15という数式を5×3=15に置き換えても何の問題もない。何の問題もないどころか、正解も正解、こんなことは数学の基本的ルールのひとつのはずだ。
そして、こうした数字の入れ替えが 数学的に正解だというなら、それ以上は求むべき何物もなく、議論の余地も疑問の余地もないはずだ。
しかし、数学的には正解でも日本の小学校の内側においては不正解なのだ、という意見があるようだ。
数学の世界はどうあろうと、日本の小学校的には不正解なのだ、という実に内向きな意見は、内側に向けて権威的な強い力を発揮し、数学の論理や説得力を度外視し、5×3=15と答えた生徒がバッテンをくらうことの理由となる。
数学的には正解でも、日本の小学校的には不正解
とはどういうことか。
日本語の文法の形式にのっとれば、〈「3個組の林檎」が「5皿」ある、いったい林檎の総数はいくつになるのか、という質問がなされているわけなのだから、数式は「(林檎)3×(お皿)5=(林檎の総数)15」でなければならず、けっして「5×3=15」であってはならない〉、ということなのではないか。
しかしそれでは、例えば英語圏ではどうなるのか。
英語圏では今度は「5×3=15」だけが正解となるべきなのか。
数学的には正しい解を、数学とは無関係の文脈を持ち込んで不正解とすることに、どのような利点があるのか。
そもそも公教育の役割とは、数学ならその数学の論理との出会い、失敗を恐れず自身のアイデアを言葉や行動で示すこと、新しい何かへのチャレンジ、もしくは創意工夫、などなどを子どもたちが自力で発見し生みだしていく手助けをすることであるはずだ。
「5×3=15」という答案用紙を返した子どもがいたとしたら、それは、人間が潜在的に持つ想像力や創造力の確かな証だ。
何が創造力なものか、子どもなのだから、「3×5=15」と書くべきところを、混乱して「5×3=15」としてしまったにすぎない、単なるハプニング以上の何物でもない、と言うかもしれないけれど、ハプニングであったとしても、立派な発見だ。
ニュートンだって林檎が落ちるのを見て、万有引力についてのひらめきを得たのだ。
答案用紙に鉛筆で「5×3=15」と数式を書いた、その子が、21世紀のニュートンなのだ。
かもしれないではなくて、可能性の話をしているのではなくて、真剣に、真面目な話として。
なぜなら、彼は自分だけの、胸が躍るような発見をしたのだから。
*時計仕掛けのオレンジ*(2010.11.23)
「ようするにクリントンは、従前の大統領とまったく同じだったのだ。民主党出身であれ共和党出身であれ大統領はみな、権力の座にとどまる手段として、国民一般の怒りの矛先を、自分の主張を口に出せないグループへと向けさせてきた。そのグループとは、犯罪者、移民、社会福祉を受けている人たち、あるいはイラクや共産主義のキューバのような、アメリカ合衆国に敵対的な外国だ」
〜ハワード=ジン『学校では教えてくれないアメリカの歴史』〜
「しかも左翼インテリがこうした「戦争は地獄」から「戦争は栄光」への切り換えをするに当たって、なんら矛盾を意識しなかったばかりか、中間過程といったものさえほとんどなかったのである。(略)
こうした種類のことに私は慄然たらざるを得ない。それは、客観的真実という概念そのものがこの世からなくなりかけているという感じをしばしば与えるからである」
〜ジョージ=オーウェル『スペイン戦争回顧』〜
「自衛隊を“暴力装置”呼ばわりするとはけしからん!」などというような批判が、いま、この国では 巻き起こっているのだそうだ。
何がどうけしからんのかというと、「誰それはマルクス主義を未だ乗り越えていない」から、「件の発言は自衛官のみなさまの感情を傷つけた」まで、実に様々な「けしからん」があって、そのすべてが、途方もない無残さの集合写真のような様相を帯びている。
「けしからん」と批判された側は、「発言は失言でありました、すみません」と謝罪し、その謝罪によって一連の無残さは、次の段階、つまり、
国家的零落と混乱と呼ぶべき何かに見事格上げとなった。
結局のところ、言葉を使って守るべき自由というものがいったいなんなのか、誰から守るのか、言葉を使って自由を守っていくという日々がどういうものなのか、私たちは何にもわかっていないのではないか。
わかっていないだろうし、わかろうという意欲もない。そのような必要性も感じない。
結果、使用する言葉に土台というものがない、という異様な状況が現出した。
『非国民通信』さんから、
『武装した公務員』
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かかる健忘症の世論の元では、改革が足りないと小泉カイカクを右から批判し、何でも民営化、自由化すれば良くなると脳天気に掲げてきた反省なき規制緩和論者が左翼と「設定」されて諸方面からの非難を浴びていたりもします。経済誌で語られていることの多くは目の前で起こっている現実には当てはまらないもので、いうなれば現実の経済問題ではなく経済誌の「お約束」に則って議論されているわけですが、政治も似たようなものです。実際にどういう政治家であるかよりも、世論の中でどういう政治家として「設定」されているか、それに基づいてバッシングしたり支持や不支持を決めたりすることが多いのではないでしょうか。
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武器を持たない公務員に対する世間の反応は憎悪に満ちています。武器を持たない公務員を公衆の面前でこれ見よがしに罵ってみせれば、それこそ拍手喝采が送られる始末です。いかに「武器を持たない公務員」を痛めつけられるかが、国民にとって最も重要な政治家の資質となっているといっても今や過言ではありません。しかるに「武装した公務員」に対してはどうでしょうか。「武器を持たない公務員」への攻撃を競って躍進した党の政治家であっても、「武装した公務員」への賛辞は惜しまないように見えます。あまつさえそれが曲解に基づくものであっても「武装した公務員」を非難する言動と受け止められようものなら、直ちに撤回や陳謝を与野党双方から求められる有様です。
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「かかる健忘症の世論の元では、改革が足りないと小泉カイカクを右から批判し、何でも民営化、自由化すれば良くなると脳天気に掲げてきた反省なき規制緩和論者が左翼と「設定」されて諸方面からの非難を浴びていたりもします。」
という事態に名前とつけるとしたら、感傷抜きでこれはもはや、「反知性主義」しかありえないだろう。
言葉の極度の軽視、という状態の、年月の長い積み重ねの果てに、「反知性主義」というひとつの方針に身をゆだねるしか打つ手のない、我々という存在が残った。
「ただならぬ」と戦慄すべきか、「馬鹿じゃねえの」とあきれ返るべきか。
「もう、どうとでも行くところまで堕ちていくしかない」と腹をくくるべきか。
『Apes! Not Monkeys! はてな別館』さんから、
『ベルーフへの自覚』
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例えば「教育は国家のイデオロギー装置」と言われて腹を立てるような教師は100%ろくな教師ではないのであって、どうやって辞めてもらうかを早速検討すべきです。警察が「暴力装置」であるという自覚のない警察官は例えば任意取調べの参考人に対して「警察をなめとったらあかんぞ。殴るぞ」「一生を台無しにするぞ」「家族までいったる」などと口走ってしまうわけです。その意味で、今回の件は自衛隊および国民にとって格好の教材にできたはずです。
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「何を言っているか意味わからん」という人は、かなりの数にのぼるのではないか、と私は推測する。
*断絶への航海*(2010.11.20)
「車、広い家、テレビ、携帯電話などのモノを欲しがる気持ち---をかき立てられた人びとはポジティブ・シンキングに飛びつき、自分はもっと多くを得るにふさわしいとか、心から欲しいと思って獲得の努力をする意欲をもてばかならずそれを所有できる、などと思いこむ。一方、自由競争がくりひろげられるビジネス界では、人びとの欲しがるモノを製造する企業、その購入にあてる金を給料として社員に支払う企業の選べる道は成長だけである。市場占有率を上げつづけ、利益を増やし続けなければ、競争の場からはじきだされるか、もっと大きい企業にのみこまれてしまう。一企業であれ、経済全体であれ、際限のない成長などあり得ない。だが、ポジティブ・シンキングは、かならず実現するとまではいかなくても、それが可能であると思わせてくれるのだ」
〜バーバラ=エーレンライク『ポジティブ病の国、アメリカ』〜
「個性や自分らしさなどは、自分にはこれではなくあれを買ったという軽度の、あるかないかの微小な差違にもとづく、形而下の出来事でしかない。そんな自分をはるかに越えた価値、つまり普遍性という形而上の出来事への加担こそ最大の生き甲斐であるはずなのに、そこから思いっきり遠いところにいるひとりの自分という種類の人が持つ最大の特徴は、自分の頭で考えられることしか考えない現状、すなわち、なにひとつ正しくは考えられないというありかただ。
そうした正しくない人たちの日々が作りだしたすべての景色の本質は、我勝ちに主張される自分とその都合、というディティールの集積だ」
〜片岡義男『自分と自分以外』〜
「映画監督論」という特集を読むために、『BRUTUS』という雑誌を購入した。
まあ、正直に言うと、アッバス=キアロスタミのインタビュー記事を読むためだ。
キアロスタミというひとりの映画監督が我々に提供した映画作品は、映画という芸術表現ジャンルにおける、現時点での最終到達地点だ。
『ディア・ドクター』の監督の西川さんが、
「キアロスタミの『クローズアップ』を先に観ていたら、『ディア・ドクター』はとても撮れなかったろう」
という意味のことを語っていたが、
キアロスタミの前を行く映画人などだれ一人いないのだから、
そういう自分自身を受け入れて、そして映画を撮ればいいのではないか。
まあ、それは私には関係のないことだった。
『BRUTUS』という雑誌のけつっぺたに限りなく近い位置に掲載されているキアロスタミの1ページの記事から、キアロスタミ自身の言葉を引用する。
「今や世界中で、価値のないものを価値があるように見せるために大金を投入し力を入れている。しかも、そのパワーは半端ではない」
「今や世界中で、価値のないものを価値があるように見せるために大金を投入し力を入れている。しかも、そのパワーは半端ではない」というキアロスタミの言葉を、確かな手触りのある現実として受けとめた私は、彼の温和な、用心深い語りかたと口調を思い浮かべる。
彼の周囲を埋め尽くすようにして存在している、人々、つまり「“今や世界中で、価値のないものを価値があるように見せるために大金を投入し力を入れている。しかも、そのパワーは半端ではない”などという世界観をお持ちなのは、実に不幸なことですね」と言う人たちに対して、生身の彼は用心深くなるのだ、と、私はそのように思っている。
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youtubeで見つけた、アメリカの長寿アニメ番組『シンプソンズ』の一場面。
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