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「国際女性の日」
(2005.3.10)

愛媛県警の裏金作り
の実情を内部告発した巡査部長の仙波敏郎さんのインタビュー記事を読む。
私文書偽造であるニセ領収書作りを「組織のため」と主張する警察幹部と、それを拒否し続けることで、立場を失っていく仙波敏郎さんの状況が、生々しく語られております。
警察署長に
「君は組織の敵か味方か。組織の運営にはカネがいる」
と言われても、
「私は犯罪はしません」
ときっぱり断る。
立派なひともいるもんだなあ。
つーか、はっきり言ってさあ、仙波敏郎さんに、警察のいちばん偉いひとになってもらいたいよ。
なあ?
裏金作りのうまいやつが出世する今の日本の警察組織は、間違ってる。
大手新聞もテレビも、こういうことこそ、きっちり報道して欲しいね。
イラクで拉致されたひとを
「自分勝手な行動だ。死んでもいたしかたなし」
と批判するくせに、私文書偽造で税金をパチリまくるという警察官あるまじき所業に及んだ連中について、きっちり批判しないのはなぜよ?
イラクで拉致されたひとたちにむかって、
「国益を損ねた」
「救出に使った必要経費を請求せよ」
などとケチクッサイことをやんやとはやしたてて、弱い者いじめするくせに。
外国で犯罪に巻き込まれたひとたちを救出するのに、金がかかっただのと文句たれる政府なんて、いらねえぜ。
てめえらは、餅代300万円なんて名目で税金をいただいてよ。ほんまに餅300万円ぶんも食うんか!
自国の警察見てみろって。
「私文書偽造でパチッた税金をぜんぶ請求すんぞ!」
「国益をめっちゃくっちゃに損ねたぜ。責任とれや!」
って、言ってもいいじゃん、このケースこそ。
いや、もうね、ちゃんとしてほしいよ、マスコミも警察も。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「国際女性の日」の3月8日から、平和と人権擁護、女性の地位向上を求めて、世界の女性たちが大行進を始めております。
ブラジルから出発して、キューバ、アメリカ、カナダ、フランス、日本、韓国、インドなどを周り、最終目的地は西アフリカのブルキナファソ。
もうね、女性がたよりよ。
がんばって。
ちなみに、アジア太平洋地域13カ国内での日本の女性の「社会進出度」は、11位なんですと。
ビリから3番目。
マレーシアや中国よりも下。
台湾、香港、ベトナムよりも下。
なのに日本の政治家の一部は、
「女は家庭について、子育てと男を立てることに専念するべきだ」
なんて言ったりしてる。それが
女性の幸せ、なんだとよ。
おかげさんで、ビリから3番目。
こういうやつに選挙で投票してるひと、自分がなにしてるか、よっく考えろ。
日本の女性の皆さん。
大行進を始めよう。
背広着て、ネクタイをだらーと首からさげている生き物に、自分たちの存在と、美しさを見せつけてやってください。




♪フランク=ザッパとマザーズ♪
(2005.3.9)

大手各新聞が、今国会の論議低調を指摘しているそうなのだが、その理由として、「2大政党制」をあげているらしい。
「二大政党制」で日本の政治はバラ色などと、やんやと持ち上げていたと思えば、次はこれだ。
無責任だなあ、あんたたちが引き起こした事態だろうに。
「2大政党化時代を迎え、かえってつまらなくなってしまったのはなぜだろう」(某新聞)って、
つまらなくなるにきまってんじゃん!
論理的結末じゃん。
マイノリティーの意見を吸い上げることが実質上不可能になるんだからな。
少数の意見はぜんぶ切り捨て。
効率第一、能率いちばんという生き方にはぴったりの仕組みだけどね。
「2大政党制に近づけば、実のある論争が可能になるという期待はどこへやら」(別の某新聞)って、結果がはっきり出た今になってまだ言うか。
つーか、わざと言ってるだろ? 新聞を読んでいる人間をだまくらかすために、確信犯的に言ってるだろ?
2大政党制というような仕組みでは、実のある論争はほとんど不可能です、ハイ。
少なくとも民主主義を機能させるのは極めて難しくなるわな。どんな小さな意見にも耳を傾ける、というのが、民主主義の本質だから。
民主主義を多数決とイコール
だと思っているひと、間違いです。
アメリカ見たらわかるだろ?
あの国は、民主主義の影も形もなくなっちまって、制度だけが亡霊のように残っているだけ。
ロック界のカリスマ変人フランク=ザッパ
は、むか〜し、こんなことを言ってる。

「民主主義の誕生時に打ち立てられた諸原理は、今日、適用されていない。教育を受けた人々とともに、民主主義は機能する。だから、俺たちに必要なものは、教育のありようを変えてくれる何かなのだ」

おおー。なるほど。
だから、日本の
現政権は教育費を大幅に切り捨てた
んだな。
わかった! わかったぞ、仕組みが!
(^_^;)
2大政党の1番も2番も、財界とアメリカ政府のごきげとり。
間違っても民主主義が機能しはじめないように、新聞は念入りに国民をふりまわし続ける。
小選挙区制が導入されたときも
「選挙にお金がかかりすぎてるから、小選挙区制にしよう」
って新聞やテレビは言い立てたけれど、
小選挙区制のほうがお金がかかってんじゃん!
早い話が、小選挙区制導入で
民意が反映されにくい政治制度にしたかった
んだよな。
ステキだよ、この国は。
ザッパはこうも言っている。

「宇宙は水素でできているって科学者は言うんだ。宇宙には水素がたくさんあるからだとさ。でもオレはちがう意見だ。水素よりも馬鹿のほうがもっと多い。宇宙は馬鹿でできていると思う」

ははははは!
私も馬鹿のひとりだから、納得しちゃったよ。
(;^-^ゞ
イラクでテロリストに拉致されていたイタリア人記者が、解放された途端、
アメリカ軍に銃撃された
というニュース。
イタリア人記者は負傷。彼女を助けようとした同行者は死亡。
アメリカ軍てば、また民間人殺してるんですか。
いったいぜんたい、テロリストの定義って、なんだろう。
しかもさー
「テロリストと間違えて撃っちゃった」
とアメリカ軍は言ってるけど、現場の状況的に見て、アメリカ軍はこのイタリア人記者を消そうとしていたっていう有力説があるんだよね。
この記者は、アメリカにとって都合の悪いルポを準備していたのがその理由とされているけど……。
信じられないよ。
と言っても、アウジャジーラテレビの
記者を狙って戦車砲撃ったり、13ミリ機銃ぶち込んだりした前例がてんこ盛り
だもんな。
アメリカ軍ならやりかねん。
とか言ってたら、ローマの地検が
殺人事件で捜査に乗りだす
という最新ニュースが。
アメリカ政府が捜査に協力するはずはないだろうけど、しかし、どうなってんだか。




テレビと新聞と民主主義
(2005.3.4)

2005年度予算案が衆院を通過した。
所得税・住民税の大幅増税、高齢者への課税強化、国立大学授業料値上げetc.etc.。
うわわわ、すんごい増税だぜ、みんな新聞読んだ?
こんな額、払えねえよ。
「狼は生きろ、豚は死ね」つーことで、お金持ちには減税、中産階級以下はめんたま飛び出るような増税。
「痛みに耐えての構造改革」の集大成。
耐えれるかあ。
(*'へ'*)
でさ〜。
みんな、どうよ? どう思うよ。
テレビや新聞の言い草を真に受けて、選挙でこいつらに投票した結果を、さ。
みんな、仕事が忙しくて、夜10:00すぎに帰宅し、レンジでチンした
夕飯をもそもそと食べながら観るテレビニュースで世界を知って、
選挙に赴くのよね。
これが、まずいのよな。
わしらにとっての世界って、テレビや新聞が言いたてる言い草とまんまイコールなのね。テレビと新聞の主張、あとは職場とささやかな娯楽施設(映画館とか居酒屋とかな)。これで世界のぜんぶ。知っているすべて。他に情報源なし。
これじゃあ、テレビと新聞は、どんなバカげたことにだって、大衆を誘導することが出来る。
ルワンダの100万人大虐殺
なんて、
ラジオがちょろっとけしかけただけ
で、起きた。
「さあ、疑ってください、隣のひとを!!」
って、言っただけで。
『デビルマン』の飛鳥了かよ。
ここ日本でも、
「痛みに耐えて構造改革」
なんて、最初聞いたときはオイラ吹きだしちゃったけど、周囲はマジになってるので仰天したよ。
国民の80パーセントのひとたちが支持したんだぜ!
おいおいおい!
金持ちたちがさらに金持ちになって、途方もない幸せを満喫できるようにするために、
わしらは痛みに耐えて耐えてずっと耐えて、さらに痛めつけられるというような話が、どうしてそんなに嬉しかったのか?
日本の80パーセントのひとたちは、マゾなのか? ちがうね。
テレビと新聞が、「それがいいのだ」と言ったからだよね。
それで、連中に投票したと。
ひどい話だ。
民主主義を正しく機能させるためには、大衆が「24時間働けますか」で、仕事ばっかりしていたら、まずいのよ。
テレビと新聞が全世界になってしまうから。
もう、こうなったら、あれだ。
アイスランドみたいに、仕事は午後4時で終わりにしよう!
カナダみたいに、家の鍵をかけなくても安心して暮らせる地域社会にしよう!
ベルギーみたいに、町中のコンビニほども図書館を建てて、そこでみんながお勉強できるようにもしよう。
大丈夫だよ、アイスランドだって、ベルギーだって、カナダだって、スウェーデンだって、日本人みたいに年中働かなくたってちゃんと生活できてるから。
つーか、彼らは
わしらよりもずいぶん豊かな生活してるぞ。
バカンスもたっぷり、給料もたっぷりさ。恋に遊びに友情に、と、彼らは人生を謳歌しまくっているぞ。
日本みたいに、
勝ち組などとぬかす気違いじみた金持ち
はおらんけどな。
いいんだよ、勝たなくたって。
お金は、恋と遊びと友情とあと生活に必要なだけあったら、それでじゅうぶん。負け組と呼ばれるひとたちの身ぐるみはがしてまで、金持ちになりたがるなんて、どうかしてるぜ。
テレビは
「勝たないと負けになってしまうぞ! あなたの人生は台無しになるぞ!」
と脅かすが、民衆をおびえさせるのがテレビの仕事だからな。
この国では、毎年3万人以上の人間が自殺している。
5年で15万人以上が自殺した勘定だ。
戦争でもやってるのか?
というような数字だ。
年間3万人以上なんて、普通あり得ないよ。
阪神巨人戦にはとどかないかもしれないが、
ロッテ戦の5試合ぶんの観客入場者とほぼ同数
だぜ!
(。-_-。)
まじかよ!
彼らは負けたから、死んでいくのです。
と私たちはうそぶく。
卑劣だよな。
人間とすら呼べないよ。
負け組けっこう。
何が勝ち組じゃ。何がセレブじゃ。
ひとが汗水垂らして稼いだお金をパチリやがって、肥え太って喜んでやがる。
そのうえ恥知らずにも『成功術』だの『経営術』だのといった本を書き散らしおって。
勝ち組なんかになるくらいなら、死んだほうがましだっ!(なりたくたってなれないくせに、という突っ込みはナシね)。
「父よ、彼らを許したまえ。彼らは、その為すことを知らざればなり」じゃよ。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

未曾有の大増税というお先真っ暗なニュースにつづいて、さらに恐ろしい記事が目に入ってきた。
アメリカ産の牛肉の輸入再開に向けて、アメリカ合衆国がものすごい圧力をかけているというのだ。
アメリカ産の牛肉の輸入再開? 安くていいじゃん? なんて言っている場合じゃない。
BSE、つまり、
狂牛病問題
があるのだ。
アメリカ政府は
「(輸入再開のために)あらゆる措置をとる」
なんて言っているそうだが、ブッシュ大統領大好きの我が国のコイズミさんは、首を縦に振りそうでマジで怖いよ。
あるステーキレストランでは、
狂牛病で1年間に16人も死者
を出したりしてるんだぜ、アメリカでは!
アメリカ全土で16人が死んだというわけじゃないよ。
たった一件のレストランで牛肉を食った人間が、365日間で16人も死んだんだ。脳みそがスポンジみたいにぼそぼそになった揚げ句にさ。
誰が食うんだ、そんなもん!
……食うんだなあ、これが。
牛丼再開!とかメディアで宣伝をかけたら、みんな列を作るよ、きっと。
おもしろいね。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ウルグアイの左翼系新大統領の就任式に、南米7カ国の元首が駆けつけたとのニュース。アメリカの圧力に屈することなく、南米の国々が連帯を深めているのは、よいことだ。
新大統領は、キューバとの国交復活や、自国の貧困解決にむけて早くも動き出しているとのこと。
地球の裏側のニュースだけど、いい話ではないですか。
民主主義制度をきちっと運用すれば、こんなふうに短期間で社会は変わっていくのだという事実を、報道を通じて目にすることができた。
まあ、この日本も、民主主義制度を通じて、短期間で社会が変わってしまったんだけどね。
ウルグアイとは正反対のベクトルで(苦笑)。
「我は汝のみ名を告げ、人々の中で汝をほめたたえん」
汝とは、雲の上にちょこなんと立っている悪意たっぷりの長ヒゲのおっさんのことじゃない。人間が放つ、あの力強い輝きそのもののことだよ。
……『マタイ受難曲』をCDで聴いてるから、影響を受けてセリフがキリスト教徒になってしまってるね。
キリストはチョー過激な革命家だったからな。追従者は12人という情けなさだったけど(マグダラのマリアさんなど女性を含まずの数字だけど)。
キリストの負けっぷりは、それは見事だった。あの負けっぷりをこそ、聖書から学ぶべきだな。




*日曜洋画劇場*
(2005.3.2)

東京で俳優さんをやっているお友だちがいるのですが、彼が、マクシム=ゴーリキー作の舞台
『どん底』
で、すんばらしい演技を披露し、巷でちょっとした話題になっているのだそうです。
「素晴らしい演技はいつものことだ」
というのが私の認識だけれど、彼の俳優としての高い力量が、その実力のとおりに正しく評価されたのは嬉しいかぎり。
大阪講演が待ち遠しいよ。
来てね。
やってね。
(^人^)おねがい。
しかし、彼のサインをもらっておけばよかったなあ。
(;-_-ゞ
値打ちもんだったのになあ。
いや、とうにサインはもらってたつもりになってたんだけど、よくよく考えれば、つもりで終わっていたんだよね。
「サインして」
って言うの、恥ずかしくてさあ。
ほんと、しまったことをした。
彼のサイトの日記を読むと、今度は日曜洋画劇場の吹き替えの声もやるのだそうだ。
楽しみです。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

京都のお友だちにCDを数枚借りた。
今聴いているのは、お借りしたなかから、バッハの
『マタイ受難曲』
CD三枚組!
指揮者は、
バッハと電波で交信していたとの噂
もある(ホンマかいな)カール=リヒター。

「この曲は魂の不滅をあらわして、おるの、です」

などと、つい重々しく語りたくなるような、
天才作曲家によるタルコフスキーふう犠牲精神のクリスチャン的音楽表現
にみちみちておるの、です。
……冗談抜きに、これはすごい。
まだまだ、私の知らない美しいものがいっぱいあるんだなあ。
お友だちに感謝しなくちゃ。
ありがとう。




ジェフ=ラスキンが亡くなった
(2005.3.1)

ジェフ=ラスキンが亡くなった。
世間では、ジェフ=ラスキンはキャラクターベース思考の人間で、GUI派のスティーヴ=ジョブズと対立していた、ということになっているが、
当たっているのは対立していたという部分だけ
で、事実は正反対だったりする。

世界をほんの少し美しくするという偉大な偉業
をなしとげたのは、ラスキンのほうだった。
そういうものだよな。
ひとの命は、短すぎ。
ジェフ=ラスキンが、ウォズニアックやトグナツィーニらとともに、アップル社に戻ってくることをずっと願ってきたが、それはかなわぬ夢となってしまった。
ご冥福をお祈りいたします。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

絵本の集まりの会で、ソフト○ンクの話が出た。
ソフト○ンクの、****の会員になると、あれこれ素敵というようなお話だ。
しかし、ソフト○ンクは、
「ユーザーの個人情報を目的外のことにつかっちゃいかん」
と総務相に怒られた例の会社である。
「ユーザーの個人情報を目的外のことに使っちゃいけない」と怒られたということは……。
使ったということかな?
(^_^;)ちがうの?

「それにしてもこんな感じであとからあとから事件が沸いてくるとなると、街頭でYahoo!BBの勧誘の人間たちに引っかかってうっかり個人情報を渡してしまった方々はもう一生消えない傷がついてしまったようで大変お気の毒としかいいようがありません。例の個人情報漏洩の裁判も現在係争中ですが、ぜひとも良い結果が得られて欲しいものです。とても500円渡して済むようなものじゃありませんからね。」

とこれは、『N.TONOSAKI's Personal Station』の大人気週間コラム
がんばれ!!ゲイツ君
からの抜粋。
いやね。絵本の集まりに来ているひとたち、一連の出来事を何にも知らないふうだったのさ。続けざまに4度も行政指導を受けてたりしてるのにな。
でさ〜。知ってて黙っているのも、まずいかなあと思って。




スウェーデンブーム(わけあり)
(2005.2.27)

なにやら、出版界にスウェーデンがブームになっている。
スウェーデンの中学教科書の翻訳本
『あなた自身の社会―スウェーデンの中学教科書』
が急に爆発的に売れ出したと思ったら、これまたスウェーデンの傑作絵本、レイフ=クリスチャンソンの
『わたしのせいじゃない―せきにんについて』
までが突然ベストセラー入りしている。
スウェーデンフリークの弟の喜ぶことときたら。
盆と正月が来たような喜びようである。
何が起きたのだろう?
たしかに素晴らしい本たちなのだが、新刊本でもないのに、こんな急に注目されだしたのには、何かわけがあるはずだ。
と思っていたら、判明した。
皇太子さまが、なんか、言ったみたい。
(´・_・`)。(´・_・`)。(´・_・`)。(´・_・`)。(´・_・`)。
(´・_・`)。(´・_・`)。(´・_・`)。(´・_・`)。(´・_・`)。
(´・_・`)。(´・_・`)。(´・_・`)。(´・_・`)。(´・_・`)。
へええ。
それで売れていたわけですか。そうですか。
人生というもの全体がある種の冗談なのだ、というふうに考えれば、まあ、面白く感じられなくもないのかな。
イギリス流のきっつい笑いと、意地の悪い皮肉の人生観を身につけて、ニヤッとでもしておくか。
しっかし。
人間というやつは、本当によお。
本は両方とも、傑作ですよ。
子どもを産んで育てるならスウェーデンしかあり得ない、と思わせるほどに、素晴らしいんですわ。
……。力がはいんないね、どうも。
「そういうものだ」って、ヴォネガットなら達観して言うのかなあ。
この本に感動するとは、どういうことか。
すっかり右傾化してしまった私たちの暮らしを、ヒッピーのそれにしてしまう
ということなんだぞ。
……。
『エヴァとステファンの素敵な家族』を、マジでやるということなんだぞ!
金持ち優遇政策を掲げる政府とも正面切って立ち向かわなくてはならない。
それにだ。
勇気と自立心にあふれた子どもたちとは、大人たちにとってけっして扱いやすい子どもではなくなる
ということなんだぞ!
自分たちの生き方を自分たちで選択する子どもたちの存在を、大人は全面的に受け止めたうえで、
「私たちはあなたたちの味方であり、どのような援助も惜しまない」と宣言する
のだぞ。
「言うことを聞かない子は、うちの子じゃありまセン!」
とは、言えなくなるんですよ、お母さん。
それを理解したうえで、読んで感動するなら、それもよし。
日本国民が、一億総マイケル=ムーアになるだろう。
……なるかいな。
ものすご、大変だもん。
素晴らしい読み物をただ漫然と消費して、それで終わりなんだよね、わかってるよ。
ほんと、人生って、たちの悪い冗談だ。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

U2のボーカルのボノが、ノーベル平和賞の候補になっているそうだ。
そのこと自体にはなんにも文句はないんだけど、その前にさあ、
ジョン=レノンにあげたの? ノーベル平和賞。
FBIに殺されそうになっても、反戦をつらぬいたひとだで? 安全なところで調子の良いこと言ってる連中(ボノがそうだとは言わないよ)とはわけが違う、ほんもんの平和運動家だよ。
チョムスキーさんも貰ってないんじゃない?
マイケル=ムーア監督は?
ノーベル平和賞の受賞者の名前の中には、
佐藤栄作、
キッシンジャー
というような戦争犯罪者の名前まであるのにな。
つーか、佐藤栄作やキッシンジャーが、どんな種類の平和に貢献したってのよ。
あ、だから、ジョン=レノンが受賞してないのか。
マジで平和になってしまったら、まずいもんな。
はっはっはっは。
英国紳士。英国紳士。
だっはっはっは。
いっそのこと、
ノーベル平和賞を、マリリン=マンソンに
贈ってはどうだろう?
いや、私は本気で言ってるよ。
「♪おれっちは、いもしねえ神様とやらの奴隷じゃねえ!」
って、彼は本物のロックンローラーだよ。(←ノーベル賞を音楽の賞と間違えてる)
英国紳士。英国紳士。
だっはっはっは。
けっこう面白いな。
本当は、大人な英国人よりも、素朴なスウェーデン人になりきりたいわけなんだけどね。
はっはっは。はっはっは。




*『ミッシング』が来ます*
(2005.2.25)

インターネット本屋(と言うか何でも屋さん)の「amazon」のトップセラーリストの第一位が、今この瞬間、スウェーデンの中学教科書の翻訳本になっている。
タイトルは、
『あなた自身の社会―スウェーデンの中学教科書』
になる。
新評論 さんから1997年に発行された本だ。この日記でも、数年ほど前にとりあげたことがあるはずだ。
当時、
「あなたには、あなたが思っている以上に能力がある」
という、短くも力強いセンテンスに、驚愕した覚えがある。
これが社会科の教科書だというのか! 過激な思想書のたぐいのジャンルではないのか。
この教科書は、手にとった子どもたちに「あなた」と問いかける。

・どうして世の中の多くのひとは、自信をもてないのだと思いますか?
・他のひとに自信をもたせるには、どうしたらいいと思いますか?
・自分自身の自信を高めるには、どうしたらいいと思いますか?

そして、ドロシー=ロー=ホルトの素晴らしい詩が引用されている。

「批判ばかりされた 子どもは
 批判することを おぼえる
 殴られて大きくなった 子どもは
 力にたよることを おぼえる

 笑いものにされた 子どもは
 ものを言わずにいることを おぼえる

 皮肉にさらされた 子どもは
 鈍い良心の もちぬしになる

 しかし、激励をうけた 子どもは
 自信を おぼえる

 寛容にであった 子どもは
 忍耐を おぼえる

 称賛をうけた 子どもは
 評価することを おぼえる

 フェアプレイを経験した 子どもは
 公正を おぼえる

 友情を知る 子どもは
 親切を おぼえる

 安心を経験した 子どもは
 信頼を おぼえる

 可愛がられ 抱きしめられた 子どもは
 世界中の愛情を 感じることを おぼえる」

付け加えることなど、何もない。
気に入った本は2冊以上購入するという癖を私は持っていて、だから、当然このスウェーデンの教科書も2冊ある。
このような教科書で社会を学べるスウェーデンの子どもたちが、私はうらやましい。
社会の仕組みや枠組みについての知識を丸暗記するのが、我が国における「社会の勉強をする」行為だ。いわゆる偏差値という評価で振り分けられた子どもたちの、知識量としての社会勉強。
「建設的な生き方がある」と、かの国の教科書はどうどうと宣言している。偏差値で子どもたちを選別していくことが、学問的にも社会的にも建設的であると言えるのかどうか、スウェーデンの子どもたちなら、大人たちに問いかけるのだろうか?
スウェーデンの子どもたちにとっての社会とは、以前からそこに存在した細々したルールや、枠組みなどではない。
社会、それは、スウェーデンの子どもたちが望む未来、彼らが作り出していく明日そのものなのだ。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

コンスタンチン=コスタ=ガヴラスの最高傑作映画
『ミッシング』
がDVDにて発売されることになった。
この映画は、軍事クーデターに巻き込まれたいち青年の、実話を元にした「準」ドキュメンタリーだ。
舞台は1970年、南米、チリ。
歴史上初めて、民主的な選挙によって誕生したアジェンデ社会主義政権。世界各国から知識人や学者が応援に駆けつけたこともあり、アメリカなどの経済封鎖措置などにもめげず、政権は維持されていた。しかし3年後、ピノチェトの軍事クーデターによりアジェンデ社会主義政権は転覆させられてしまう。暗殺、連行、拷問、獄死、行方不明、その他いろいろ。
そして、そのクーデターに巻き込まれ、失踪したひとりのアメリカ市民。
戒厳令下のチリで、行方知れずの青年を必死で捜索する家族。やがて、このクーデターと青年の失踪の背後に、
南米の共産化を危惧するCIAの存在
が浮かび上がってくるのであった。
実話だけに、めっちゃこわい!
つーか、今日の今日まで、どうしてDVD化されておらなんだ!
おそいよ! でも嬉しいぞ!
青年の父親役にジャック=レモン。妻役にシシー=スペイセク。
このふたりは、本当に名演! 私は役者で映画を観ることはほとんどないんだけど、ここまできっちり演じられると、さすがにブラボーというしかない。このふたりを観ているだけで、元は取れる。

 




*南京で起きたこと*
(2005.2.23)

「南京大虐殺はなかった」本が売れているそうだ。
出版されるのはわかるとして、売れるとは、あきれるやら、驚くやら、である。
1937年、旧日本軍が南京で数十万人の中国人を虐殺したとされるのが、いわゆる南京虐殺事件だ。
この南京虐殺事件は、実際に起きたのか? 起きた、いや起きなかった、と、日本の内側だけで議論が続いている。日本の国民が「南京大虐殺はなかった」と信じたとして、そんなものは海外ではいっさい通用しやしないが、とにかく、売れているのだそうだ。
この本によると、
「南京事件の証拠とされている」写真140枚の「撮影者、撮影場所と時期、キャプション、出所・提供者など写真の特性を洗い出しているが、科学的とさえいえる検証作業の結果、南京大虐殺の「証拠写真」として通用するものは1枚もないことがわかった」のだそうだ。
すごいね。
仮に、「南京大虐殺の「証拠写真」として通用するものは1枚もないことがわかった」のだとして、それは「南京虐殺はなかった証拠」とイコールではないのだが、まあ、いいや。
日本の内側だけで通用すれば事足りるのだから、こんなものは証拠にならんとつっぱねておしまいだ。
「日本は神の国」などと言ったりした、あれとおんなじ。
海外の人々は、南京虐殺がなかったとも日本が神の国とも思っちゃいないが、そんなこと最初から気にしてないしね。

私は、このような本が売れているようですよ、と、弟に教えてあげた。
弟は、ふーん、ああ、そう、と涼しい顔である。
この手の本が売れていることについて、何かご感想を、と水を向けると、めんどうくさそうに、
「アンタ(弟は私をアンタ呼ばわりする)何あたふたしてるの。言葉の内容にきっちり反応できる人間なんてごくわずかなんだよ。マイケル=ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』観たろうが。
「死んでも銃を離さない〜!!」
↑(チャールストン=ヘストン)
「ワオオオー!!!」
↑(全米ライフル協会会員の皆さん)
だで? 自分たちが何に同意しているのかすらわかってないっぽかったろ? アメリカ人と比べて日本人がとびぬけてかしこいというわけじゃあるまいし、こんなもんなんだって」
とのたもうた。
す、すみませんでした。
(;^-^ゞ
この本では、旧日本軍の殺戮、強姦、放火、略奪が南京で行われたと主張しているジャーナリストや学者たちを、ひとくくりに
「虐殺派」
と呼んでいる。
その点について、弟は言う。
「こちら側が、「虐殺派」とひとくくりに陰謀論者呼ばわりされるなら、これから私はそちら側をこう呼ぼう。
「パックレ派」
と」
ははは。
うまいこと言うね。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

外崎氏のサイト
N.TONOSAKI's Personal Station
の大人気週間コラム
がんばれゲイツ君!!
を毎週楽しみにしている私。
Windowsユーザーでもその他のマイク○ソフト社ソフトのユーザーでもない私は、ひたすら楽しんで読めるサイトであります。
最新号がアップされておりましたが……
「MS社が、海賊版のユーザ限定でWindowsXPを半額で売る」
というニュースに仰天。
(;゚ ロ ゚)だあ〜
違法コピーユーザーは、正規ユーザーの半分の値で、最新OSを手に入れられるというわけらしい。
違法コピーやりどくどころの話じゃ、もはやないね。
やりどくの上に、さらに
サービス割引チケット付き。
(´▽`;)
違法コピーユーザーは大喜びしてるんだろうなあ。
つーか、マイク○ソフト社さん、正規ユーザーに対するねじれた悪意があるんすかね?

 



ガリー=バルディン東京上陸&『ショー・ミー・ラヴ』
(2005.2.22)

ガリーバルディンの映画を探して20年。
毎日かかさずGoogleで「ガリー・バルディン アニメ」を検索しているわけだが、本日、ヒットしました。
東京のシネカノンという映画館で、
ガリー=バルディンのアニメを上映
するそうだ。
あ、なんだよ、大阪でもやってよ。
東京在住のひとは、ぜひ、観てみてください。
すんごいです。



映画『ショー・ミー・ラブ』を再度DVDにて観賞。
仕事から逃避……じゃない、アイデアのヒントを得ようと思ってさ。
(;^-^ゞ
以前の日記でお奨めしたことのある映画なのだが、また観たくなったのだ。
(;^-^ゞ 仕事の肥やしとしてですよ、いや、ほんと。
14歳と16歳の女の子同士の恋愛を描くことによって、“現実”に小気味よく風穴をあけてくれる、めちゃくちゃクールな青春映画(イヤ〜、参考になるなあ)。
主役であるふたりの少女の演技が、素晴らしい。
同性のあの子と、私は恋愛関係に入っていくのか、そもそも私とは誰なのか、あの子とは本当はどういうひとなのか。
彼女たちはそれぞれ、自分自身と向き合い、気になる相手と向き合おうとする。
「私らしく」などと言うと、この日本では、大衆を消費に駆り立てるための薄っぺらいフレーズにしかすぎないけれども、本来は、あるがままの自分をまるごと肯定する行為を指すはずだ。(「あるがまま」や、「カミングアウト」ですら、ひとびとを消費へと駆り立てるキャッチコピーでしかなくなっているのがまた悲しい)。
そうやって、彼女たちは関係を深めあうなかで、自分自身を発見し認めてゆく。そして、関係を深めていくということは、昨日までの自分自身ではいられなくなることでもある。
矛盾しているようだが、恋愛関係のまっただなかで、あなたがあなたのままでいつづけようと言うのなら、恋愛を続ける意味がない。
……というような屁理屈を、手持ちカメラでリアルに撮りきってしまう、ルーカス=ムーディソン監督はすんごい監督さんだ。
ちなみに、『ショー・ミー・ラブ』はムーディソン監督のデビュー作で、ルーカス=ムーディソン監督はこのあと、1970年代ヒッピー文化を描いた傑作映画
『エヴァとステファンとすてきな家族』
を撮ってしまう。
『エヴァとステファンとすてきな家族』は2作目だ。
いよいよすごい監督さんだ。
この映画を「過去を扱った映画」だと言うひともいる。これは当時のヒッピーたちやその文化などに興味がある人たちだけに向けられた物語で、それ以外の人たちには退屈でしかない作品だ、というご指摘だ。
いわゆる評論家をなりわいにしているかたがたですら、「フラワーチルドレンだの、コミューンだのという極めて風変わりな生きかたを試していたひとたちがいたのだよ」という過去のお話なのだ、と言いきっていらっしゃることも多い。
……さておたちあい。
この作品は実はSFなのである、……って言ったら、どうする?
……いや、本気の本気ですよワタシ。
(^_^;)
確かに1970年代といえば、2005年現在から30年以上遡ることになるのだから、物語の舞台は過去だ。
でもそれは、物語を支えている単なる設定上の土台にすぎないのであって、この映画が本当に語りたがっているのは、第一作に続いて
カミングアウトする
ことの意義であり、
人類の未来
なのである。
本質的には立派なSF……。
いや、本当なんだってば! (;^-^ゞ
『グッバイレーニン!!』と並んで、ここ4、5年で観たなかでは最高のSF映画だと、私は思っているよ。
ああ、仕事の参考になりまくりだなあ!
(^_^;) 仕事もがんばってますからね……。




故・ナンシー関さん
(2005.2.19)

消しゴムを彫ったハンコで絵を描いた、故・ナンシー関さんが、著書の中でこのようにおっしゃってる。
「今の世の中『得しないと損である』が常識となっている」
私が、日記でくどくど長々と書いていることを、ひとことのもとにずばりと言い切ってしまって、すごいひとだったんだなあ、と思う。
気づいているひとは、とうに気づいていたということか。
私などは、いよいよどうしようもなくなった今になって、わーわー騒いでいるくちだ。
しかし、この気づきを、どうして共有できないのか?
やっぱり、得したいもんねえ。
つーか、損したくないもんねえ。
やな常識だ。

ここ日本とはまったく違う常識に出会うため、スウェーデンの絵本『たいせつなあなた』を読む。
最初の1行目が、

「たくさんの人が 待っている」

で始まる。
何を待っているのか?

「だまっている人は 話あいてを」
「悲しみに沈む人は なぐさめを
「はずかしがりの人は はげましを」
「ひとりぼっちの人は ともだちを」
「こわがりの人は 手だすけを」

ここで絵本をいったん閉じる。
素晴らしすぎる。
感動に浸って、この続きは、楽しみにとっておこう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

仕事がいよいよ煮詰まって参りました。
しばらく更新が滞るかもしれませんが、そのような事情ですので、よろしくです。
では!

 



そして
(2005.2.16)

またもや、学校で殺人事件が起きた。
犯人は、17歳の少年だということだ。この事件について、私はそれ以上のことは何も知らない。
フジテレビは、犯行に及んだ未成年者の名前を公表した。公表の理由として、社会正義を彼らはきっと口にしているだろう。
好奇心と怒りと恐怖刺激に突き動かされた大衆は、公表された少年の名前を、ものすごい勢いで消費し尽くそうとするはずだ。恐怖がまだ新鮮なうちに、この事件にまつわるありとあらゆるディティールをむさぼりつくそうというわけだ。そうした自覚すら、ほとんどのひとが持ちあわせていない。犯罪者への激しい怒りに身を震わせつつ、結局やることは、恐怖の怒りの大量消費だ。
もちろん、この事件を起こしたのは17歳の具体的な名前のある少年であり、私は彼を擁護も弁護もしないし、できるわけがないし、彼の行為はつぐなってもつぐないきれないとも個人的には思っている。
しかし、これでは被害者は浮かばれまい、とも思う。被害者と被害者の家族も、これからさんざん我々に消費されるだろうからだ。独占手記なる契約をとるために、すでに多くの人間が駆けずり回っているはずだ。
このやり方ではうまくいかないことは、続発する同種の事件をくいとめられないことからも、明白なはずなのに。
だが、恐怖ほど売れる商品はない。テレビの視聴率はあがり、雑誌や新聞、防犯グッズの売り上げはアップし、いっぽう、精神病歴があるひとたちや、犯罪歴のあるひとたち、他国のとくにアジア人たち、市民運動家、ビラ配り、恥ずかしがり屋、おこりんぼ、無職、ださい、髪形がヘン、センスが古いというひとたちに対する風当たりは、さらに強くなっていくのだろう。
友だちもできず、就職もできず、という事態がさらに続出し、彼らは負け組と呼ばれ、そして友だちも職もないということが、さらに彼らを孤立化させる。
私たちは恐怖を消費し続けなくてはならず、正義感や不快感や怒りの矛先がどうしても必要であり、彼らはそのためのスケープゴートだ。
こちら側から見れば、彼らが「変だから」、となるのかもしれない。しかし、あちら側から見ればそれは、絶望的なまでに「根深い悪意」以外の何ものでもないだろう。
彼とは誰なのか? なにが怪しいというのか? 話し相手もおらず、就職もできず、共同体から完全につまはじきになるという絶望そのものが、犯罪の温床になりはしないのか。
ひとりぼっちのまま収入もなく、では、生活するのはほとんど不可能だ。それもでも自暴自棄にならずに、前を向いて生きているひとがいれば、それだけでそのひとは偉大である。
私たちは、一部の人間に、とてつもない忍耐と、気高さを求めている。
と書いても、同意してくれるひとがどれだけいるものか、私は自信がない。
私たちは恐怖が大好きで、怒るのも大好きなのだ。正義の怒りをインスタントに消費するためには、政府や経済システムなどという巨大な権力を相手にするよりも、精神病歴のあるひとたちや、市民運動家、ビラ配り、恥ずかしがり屋、おこりんぼ、無職、ださいひとたちに、その怒りをぶつけたほうが、ラクだ。
だから、実際そうする。
そんなことでは、問題を解決するどころか、悪くなるいっぽうだ。現状は日に日に悪化し、小学校が周期的に襲われるようになった。
……そろそろ、いいかげんに
消費と利用という考えかたから離れなさい!
ひとが死ぬ。悲しい。その悲しみを利用する! 犯罪が起きる。怒りを感じる。その怒りを消費する!
やめろ!やめろ!

昔、ヴァレリー=ロバノフスキーというサッカーチームの監督が、こう述べた。

「我々が怪しいと思うのは我々が理解しないすべてである」
「しかしながら我々は多くの個人的解釈によりこの誤解を扱う 」

このときのロバノフスキーは、自身のサッカーの戦術を理解しないまま批判をおこなうマスコミに反論しているのだが、これは単なるサッカー論を超えて、なかなか深い言葉だと思う。
私たちは、この世界を理解したいようにしか理解しない。人間が人間をモノとして消費する、という問題の根本から目をそらしておきたいがために。
学校教諭が、勤め先の学校の卒業生に殺された。そのようなショッキングで悲しすぎる事件に対して、本当に真摯に向き合うなら、貨幣制度そのものを問い直さなくてはならない。
途方もないことを言っているのはわかってる。価値をいったん数値化することで交換可能にし、世界中のありとあらゆる場所で流通させることに成功した貨幣という発明品は、文明の発展に大きく寄与した。
神様からパンツのしみまで、ありとあらゆる価値を共有化することが、貨幣によって可能になった。りんごが380円だと言えば、誰が何と言おうとそれがりんごの価値であり、あなたがちょうど380円持っていれば、それはあなたに380円のりんごを買う能力があるということである。3億8千万持っていれば、庭付きの家を買う能力があるということだ。
社会全体が価値と能力を共有できる世界を、私たちは作り出すことに成功した。
労働の価値などは、貨幣を介在させることによって、より複雑化、専門化させることができた。
しかし、貨幣制度というものは、結局は単なる便利な約束事だ。
本当は、お金なんて、紙きれにしか過ぎない。
そんな紙きれに、人間的価値のすべてをムリムリ押し込んで、しかもそれが単なる約束事に過ぎないということを、みな忘れてしまっている。
サラ金苦で自殺。強盗殺人で盗んだ金額が3万円。
いつものベタ記事。
やめろ!やめろ! パート2。
真実、なんとかしたいなら、マイケル=ムーア監督のドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』くらいは観ておいてもいいはずだ。




バレンタインデー
(2005.2.14)

今日はバレンタインデーだ。チョコレートを食べる日だ(←違う)。
日記なのだから、時節ネタもたまには書いておかないとね。
私の両親の結婚記念日でもある。
面とむかっては言いずらいので、日記に「おめでとう」と書いておこう。
(↑ちゃんと言ってあげましょう)。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

先日の私の日記を読んだあるかたから
「幼児萌えは、児童ポルノとイコールではない!」
という内容のお叱りのメールをいただいてしまった。
読み返してみると、確かにそのようにとれてしまうような書きかたになっているようだ。
(;^-^ゞ 文章力がなくて……。
おっしゃるとおりで、その点については、訂正したい。
いわゆる『萌え』という新しい言葉を私たちが必要とした、その社会的背景について、あのとき私は語ってみたかったのだ。
『萌え』とは何か? それは、ある種の気分のことだ。
ある条件下で、あなたは『萌え』る。
限定的かつ人工的な状況下でかいま見ることのできる、あなたのある種の気分を巧妙に価値化し、商品化させることに成功した一例として、『萌え』がある。
例えば、
「仲の良かった妹のちょっとしたしぐさにふと目を奪われたり、何気ない表情にドキッとしてしまう、というような、危なっかしくも甘酸っぱい物語のシチュエーションを楽しむ」
などと長々と述べるより、ひとことのものに『妹萌え』と一般化してしまえば、それは商品として共有化され、流通させやすくなる。
そうした共有化をふまえた上で、自分自身の執着や欲求を押さえつけず、外側に向かってむき出しにしていきますよ、というギトギトとしたカミングアウト宣言としても、この『萌え』という言葉は機能しているようだ。
一部のひとたちから反社会的だとうしろ指をさされようが、私は私自身を認めるし、受け入れるのだ、という、良い意味で非常に肯定的な宣言だ。
他には、その場その場のノリのようなものに身をまかせるような生きかたを自らに許したり、
むさぼるように消費するために必要な気分としての、けたたましいまでの躁状態
というようなニュアンスも、『萌え』には込められている。
そしてさらに面白いことに、いくばくかの自嘲的な気分、というようなものも、この『萌え』にはひとたらし含ませてあるようだ。
気分、気分、気分。
気分を表すためにのみ機能する言葉というもの。
自分の気分というものに絶えず注意を払っていなくてはいけない、と、これらの言葉はあなたに語りかける。
あなたはいま満たされているか? 満たされる方向へと動いているか? この瞬間、あなたは幸福な消費者か?
社会全体が消費者に求める「限度いっぱいにまで楽しみ、満たされるべきだ」というプロパガンダを、気分として端的に表している一例が、この『萌え』という言葉だ。
『萌え』る側と『萌え』られる対象者とのあいだには、関係というものは存在しないに等しい。
むしろ他者が介在しないほうが都合が良い。『妹萌え』の「妹」は、単なる記号だ。他者ではない。むき出しになった欲望の、欲望そのものにつけられた名前だ。『萌え』という造語を私たちが必要としたその理由は、ひとびとの細分化された欲望を大量生産品としてある程度規格化するためだった。
例えば
「妹との日常の関係において、性的に際どいバランスを保ちつづける緊張」
なる架空のシチュエーションの、考えうるバリエーションは無限にある。
細分化され専門化された嗜好を、あくまでも嗜好の基本的なツボは押さえたままに、さまざまな欲望に応える形で、物語は生みだされ続ける。
「妹」が「幼児」でも「眼鏡っこ」でも、基本的な構造は変わらない。
架空の物語を、次から次へとむさぼり尽くす、もしくは、むさぼり尽くせていない自分を不安視する。
そのような消費のシステムの内側では、どこまで行ってもあなたはひとりぼっちだ。妹だろうが、眼鏡っこだろうが、サッカー部のキャプテンだろうが、結局はすべて記号であり、鏡に映ったあなた自身の欲望の反映だ。
私としては、オタクを攻撃しているわけでも『萌え』という言葉をやり玉に上げているわけでもないつもりだ。言葉じりをとらえて、ああだこうだとつついてみたところで何も始まらない。これも繰り返しになるが、オタクと呼ばれるひとたちが「異常」なわけでも、『萌え』という言葉が「異様」なわけでもない。
私たち全員が共同体の内部で使用するありとあらゆる言葉が、ある方向を指し示している。つまり、
世界の中心で消費を叫ぶ。
(;^-^ゞ
そのほうが都合がいい、という考えかたもあるだろう。
欲望は、際限なく消費できるからだ。
完全に満たされた欲望、などというものは存在しない。満たされた心は、必要以上の何かを求めたりいらずらに消費したりはしないからだ。満たされた心は、満たされることを必要としない。
うん?
ニワトリが先か卵が先か、みたいな話だな……。
(;^-^ゞ
あなたは消費し、消費し尽くすことで、心(厳密には気分)を満たそうとするが、「満たされたい」という想いそのものが、あなたの飢餓感を白日の下にさらしている。
気分はどんどん移ろうものだから、消費する片っ端からあなたの心はからっぽだ。
欲望はあなたを裏切り続け、傷ついたあなたは、どこから来たのかわからないような残酷さと、ぶつける相手のいない憎悪を抱くようになってゆく。
快楽と苦痛はワンセットだ。誰もが気づいている。
けっして満たされないことが自明であるがゆえに、『萌え』という言葉には、どこかしら自嘲の気分がただよっているのだ。
『萌え』であろうがなかろうが、私たちにとっての言葉とは、何をとりだしてみても結局は消費を促すメッセージ以外のなにものでもない。
例えば、禅思想などから
「今を生きる」
「あるがまま」
などというような標語を抽出し、いわゆるニューエイジブーム、瞑想ブームなる現象を我々は作りだしたことがある。
禅思想のゴツゴツとして不健康(西洋精神医学の側から眺めれば、そう見えても仕方がない部分はあるだろう)な側面は注意深く無視され、または遠く置き去りにされた。そのうえで、小奇麗にファッション化された、耳ざわりの良い消費をうながすためのイメージとして、これらの言葉は使用された。
フタを開けてみれば、これらの標語には禅思想としての内容はカケラもない。そのときの気分や欲望に忠実である生きかたを、流行に合わせた言葉づかいで語ってみせたにすぎなかった。
言葉を受け止める側の各々のこだわりや好みを、効率良く徹底的に消費しつくすという目的のために、言葉もまた消費されていく。
人間的価値を単なる貨幣の排泄物としてしか眺めようとしないありかたそのものに批判の目を向けないかぎりは、児童ポルノの根本的な解決はありえない、というのが、私の主張の核心部分のつもりだ。
して、もう一点補足を。
その欲望がどれほどむき出しになっていようとも、いわゆるオタクと呼ばれているひとたちが楽しんでいるのは、あくまでも架空の物語の世界である。これは、はっきり認識しておきたいと思う。
オタクとは本来、自分自身を認め、自身のありようを丸ごと受けいれ、それがどのようなものであろうとも、自分の気質に正直に生きることを選択したひとびとを指す言葉なのだ。
指す言葉なのだ、と言うと、これはこれで決めつけすぎかもしれないが、少なくともオタクという現象の内部を想像してみたとき、そのような自己像がおぼろげながらでも見えてくるはずだ。
そして、幼児に対する性犯罪について、オタクと呼ばれているひとたちを攻撃する一部のひとたちが、往々にして誤解しているのは、実はここだ。
そのひとがオタクと呼ばれていようがいまいが、戦争映画を観ればさっそく現実世界で銃をぶっ放し、カンフー映画を観ればぬんちゃくを振り回し、レイプシーンがあれば自分もそれを実行する、などということは、常識的に見てあり得ない。
誰もが架空のお話を楽しんで、それで満足している。
「潜在的な暴力性や性的欲望のゆがみが、彼らの内面に確実に巣くっているからこそ、『幼児萌え』などいう現象が起こりうるのだ」
という意見もある。
異常か異常でないか、という側面にだけマトを絞れば、私はその説をとらない。
ただ、異常ではなくても、
子どもの虐待は間違っている

許してはならない
というふうに私は主張する。
私の言わんとするところが、ご理解いただけるだろうか?
文章力がないので非常に心配だ。
(;^-^ゞ
同じことを何度も繰り返すようで申し訳ないが、子どもを商品として扱う、という態度そのものが問題なのだと思う。
人間が人間をモノとして扱うかぎり、どれだけ取り締まろうが、幼児ポルノはなくならないはずだ。
ネット上での
幼児ポルノの9割以上は、アメリカのFBIのおとり捜査がまき散らし
ているという報告がある。(バリー=グラスナー著『アメリカは恐怖に踊る』)
その報告をふまえて、幼児虐待の全貌をもう一度眺めなおしたとき、それまでとはぜんぜんちがった光景が見えてくるはずだ。
そもそも、異常性愛などというものをうんぬんしだしたら、どこまでも歯止めがきかなくなる。
アメリカでは、自分の子どもの入浴中の写真を撮っただけで、しょっぴかれた大人たちも数知れないという。自分の子どもの写真を撮影したとき、あなたの内部に性的な欲望があったかなかったかなど、誰にもわからない。
あっただろう! と言われれば、違います! の一点張りで通すしかない。実際違っているわけだが、心を開いてはいどうぞと見せるわけにはいかない。
自分の子どものすっぽんぽんの写真を撮影するという行動を起こした時点で、何かしら異常な心理が働いたのだ、と言おうと思えばどこまでも言えてしまうのだ。
また、保育所の保父や保母の、子どもに接するときの目つきや手つきというようなものが問題視され、幼児虐待として告訴される例が相次ぎ、保育のレベルが極端に悪化してしまったという事態も報告されている。
私について言えば、女性の後ろ姿に魅かれやすい傾向があるのをはっきり自覚しているが、それだって、なにがしの性的異常が認められると主張しようとすればできる。
恋人のにおいに興味を持つひと、くるぶしや手の指先という細部に興味を持つひと、同性に興味を持つひと、どれも素敵なことだと思う。
……と、こういうことを書くと、
「こいつは、幼児を対象にした性愛を、個人の好みの問題などと言って擁護している」
と言うひとがまたでてくるんだよなあ。
(;^-^ゞ
このあたりの私の意見は、したの日記を読んでみて下され。
異常でなければ何をしても許される、犯罪でなければ欲望の赴くままに行動しても許される、という発想に対するはっきりとした嫌悪感、……と、これだけは表明しておこうか。
書けば書くほど、どうどうめぐりして、主張がかえってぼやけるので、とりあえず今はここまで。
さて、と。
ふと思ったのだけれど、この日記を読んだ私の知人の女性たちが、以後、私に後ろ姿を見せまいとするのではいかと、少しだけ心配になった。
(;^-^ゞ
基本的に、女性のみなさまは男性よりも思慮深いので、私の思慮のかけらもない発言には、なにかと警戒なさるかもしれない。
大丈夫、安心して。四六時中さかっているわけじゃないからね。……などと書くと、これは本格的なバカだと思われ、さらに警戒されるのは確実だが、書いてしまったから、もういいや。
(;^-^ゞ 自嘲のキブン。
どうでもいいけど、私の日記は、つくづく絵本販売のサイトにそぐわない内容だなあ。
困ったなあ。自主規制すべきだろうか?




子どもたちの幸福・私たちの幸福
(2005.2.12)

中古CD屋さんで、TATUというロシアの女の子ふたり組のCDを買ってくる。
私の好きな映画監督ルーカス=ムーディソンの『LILJA 4-EVER』という未見の映画で、TATUの曲が効果的に使われていると小耳にはさんだからだ。
『LILJA 4-EVER』はネット上などで、ものごっつい傑作だと噂されている映画だが、どういうわけか、いつまでたっても日本公開される気配がない。
我慢できないので、映画の代わりにロシアのアイドルグループの曲を聴くことにしたのだ。
お値段は、250円。
二束三文のような扱い。
(´▽`;) アイドルってせつないなあ。
ここ日本では、一時のブームもすっかり熱が冷めてしまった感じで、なんともせつない……と語れるほど、実はくわしくない。
(;^_^ A
ビデオクリップでは同性愛を連想させるようなきわどい映像があったりして、物議をかもしたりもしたそうなのだが、これもよく知らない。
彼女たちが本当に同性愛者なのだったら、ガンガン応援するんだけど、商品としての同性愛なら、みえすいているのひとことで終わりになってしまう。
映画『LILJA 4-EVER』は、児童売春、人身売買、旧東側諸国から西側への人間の輸入を扱った、ずしりと重たい映画なのだそうだ。
日本でも児童ポルノや幼児虐待が社会問題化している。
なぜ、児童ポルノなどというものが存在しうるのか?
その問いに対して、「いわゆる、オタクと呼ばれるひとたちとそのコミュニティーが、幼児ポルノなどの児童犯罪の温床だ」という考えかたが、もっとも強力な答えとして世間に支持されている。幼児ポルノの購入者(オタクと呼ばれているひとたちがその購入者だというわけだ)がいるから、商品として製造され流通もされるのだ、という発想だ。
したがって、オタクを一掃すれば、児童ポルノや幼児虐待はなくなる、というような三段論法が、少なくてもここ日本では、かなりの説得力をもって語られているようだ。
もっとも、オタクと言っても実際はひとりひとり別個の人格を持つ個人であり、オタクだとかオタクでないとか、そういうレッテルは本当は無意味なのだが、ともかく、一部ではそういう議論が行われている。
世間でのいわゆるオタクというレッテルを、とりあえずこの場ではそのまま受け入れるとして、オタクが児童の性的虐待の根源だというような意見についての、今のところの私のスタンスは、「じゅうぶんな証明も根拠の提示もなされないままに、単なる印象だけで語られているにすぎないのが現状だ」というものだ。
そもそも、オタクとそのコミュニティーを一部のひとびとが敵視したり、毛嫌いするのは、児童に対する性犯罪の彼らは予備軍なのだというような根拠のない主張から来るものよりも、彼らのむき出しの欲望に対する嫌悪感が大きいのではないか、と私は感じている。
ひとむかし前なら、人目を避けるように、こそこそと地下に潜伏していたような商品が、欲望を全面的に肯定することによって、わがもの顔で大通りを闊歩している。
そのような現象を支えているのが、オタクと呼ばれるひとたちと、そのコミュニティーだ。
性的趣向をはじめとする、細分化され専門化されたさまざまな個人的好みを、コミュニティーの内部や外部で平然と語り、そうした欲望をどこまでも肯定し追求していく。そうした現象に対する戸惑いと反発の気持ちが、実はもっとも大きいのではないか。
ともかく、そのようなありさまに、眉をしかめるひとたちがいるのは、事実だ。
コミュニティーの外部のひとたちが、むき出しになった欲望をさして「無残きわまりない」と言うのなら、それもひとつの意見として、立派に成立している。
しかし、私はここでも疑問なのだ。
「我々は限界いっぱいまで楽しまなくてはならない」
「あなたは幸福を手に入れなくてはならない」
という資本主義のプロパガンダを、現実の生活の中で実現させていくことにおいて、世間がうんぬんする定義としての「オタク」たちは、じつに正しく機能しているからだ。
「限度いっぱいまで楽しむ」、「貨幣化された価値を可能なかぎりむさぼる」という生きかたを、社会全体が一丸となって押し進めてゆくというのが、私たちの現在のありようだ。そうした社会の進行方向の、鋭角に鋭くとがった頂点部分に、一般にオタクと呼ばれるひとたちの作るコミュニティーがある。
マラソンで言うなら、彼らは先頭集団だ。
そして、私の欲望も、あなたの欲望も、やはり同じ欲望だ。基本的には何にも違わない。あなたがオタクと呼ばれていようが、それとも、彼らを外側から毛嫌いする立場にいようが、限度いっぱいまで楽しまなくてはならないなら、進む道は一緒だ。まっすぐにのびた一本道。
う〜ん、欲望という名の電車は単線?
(;^_^ A
彼らの欲望を否定することは、私たちの言う「幸福」を求める行為そのものをも否定することに当然なるはずだ。
あなたは、目につくものをかたっぱしから消費していくしかない。
大量生産を支えるための大量消費社会を維持していくために、私たちは欲望を徹底的に肯定する。そうでないと、経済システムが停滞してしまう。立ち止まることはけっして許されないというシステム側の事情から、私たちは人間的価値のすべてを貨幣の下に置き、その価値を商品化する。
嫌悪の対象という側面から見たオタクとは、実は消費者の別名のようなものでしかない。過度に誇張された消費者、もしくは、細分化され個々の欲望に向かって特化された、洗練された消費者を指すレッテル、と言い換えてもいい。
私たちは、オタクというレッテルの内側でも外側でも、人間、空間、その他ありとあらゆるものを骨までしゃぶるように利用しつくし、モノ化してゆく。
過剰な価値化
が、共同体をたえず前進させてゆく、と私たちは信じているからだ。
そうやって、未知の何かをどこまでも価値化し、商品化させて行く過程で、その飢えきった視線が、幼児の前で立ち止まる瞬間はほとんど不可避だった。
幼児は商品たりえるか?
たりえる、と、システムのどこかか判断した。
オタクであるとか、ないとかは、まったく関係がないのだ。
それでも私たちは、今とは別の社会のありようなど考えたこともないし、見聞きしたこともないから、幼児を含むなにもかもを商品としてしか眺めていないことにすら、まったく気づかない。
気づきたくもない。
私たちは、私たち自身の作り出した悲劇のなかで、のたうち傷つけあっている。
自分だけは満たされたいと誰もがひそかに感じているから、問題にするのはいつだって他者の欲望だ。
人間を商品化するという根本的な問題については、多くのひとたちが口をつぐむ。
さらに悪いことに、我々の所属する共同体の物語には、勝ち組と負け組という二種類の人生しか存在しないことになっている。
利用する側と利用される側の関係によって成立している世界だ。
今は利用される側のあなたも、努力や運次第では、他者を利用する側になれますよ、と物語はささやく。
勝ち組と呼ばれるひとびとに市民の尊敬は集中的にそそがれる。いつの日か利用する側に立つことを夢見るがゆえに、私たちはいつの時代でも人間を利用する側の人間を称賛し、あがめ、羨望し、セレブなどと言って持ち上げる。
そのような状況では、結果だけがすべてである。
誰かを利用する側に立ち、そういう自分自身を勝利者だと宣言すればよい。
必ずいっぽうが勝利に終わるゲームは、どこかでインチキがあったということだが、私たちの道徳観によれば、過程なんてものはいっさい関係なくなる。モラルは、むしろ足かせだ。
人間をモノとして利用し尽くせば、私たちはそれを勝利者と呼ぶのだから!
「狂気の物語だ!」周囲を見回し私は絶句する。
“これ”のすべてが、まったく狂ってる。それとも、私の目が狂ってる?
そして、ここがいちばん根深い問題なのだが、普段は利用される側の人間も、
消費者である瞬間だけは小さな権力者
であるという、極めてたちの悪い事実がある。
タイムカードを押して、退社したあとのあなたは、「喫茶店でのウエイトレスの態度が悪い」だの、「病院の待合室で1時間も待たされた」だのと言って、消費者のちっぽけな権力をふりかざす。
消費者のあなたは、利用する側の人間だ。
あなたは、そのかけがえのない消費者としての権力を、けっして手放したくないと思う。
現実には、資本家と労働者階級の闘争など存在しない。
誰もが、自分を労働者などとは思いたくないし、実際に思っていない。
あなたは、労働者ではなく、消費者なのだ。
“私らしく”とは、消費者として存在するときのあなたのことだ。
9時から5時までのあなたは、満たされない、利用されるだけの存在だ。
あなたは、24時間ずっと消費者でいることを夢見る。
そして、そのとき、どこか奥深いところですべての歯車ががっちりとかみ合い、ごうごうと音を立てて、資本主義の経済システムが動き出す。
ぎちぎちとかみ合う巨大な歯車の動きの中で、既知のものも、未知のものも、すべてが利用する側にとっての商品だ。
子どもだけ例外なのだ、と主張することはできない。
子どもたちもまた我々自身の欲望の対象であり、欲望の対象であるべきだと経済システムは主張する。
私たちは子どもを商品として見ることを、絶えず強要されてすらいる。
ここでは、児童ポルノというものにどれほどの価値があるかすら、問題ではない。存在しない価値は、無理矢理にでも作られていく。
気づいていますか?
妹萌え、
幼児萌え、
おばあちゃん萌え、
などという言葉が、ありとあらゆる宣伝媒体を通して、何度も何度も私たちの脳にすり込まれていく。
唖然とするような徹底的な刷り込みののちに、あくまでも我々は
自分自身の判断
によって、例えば「幼児萌え」などというような現象に、自己責任でもって身を投じてゆく。
私やあなたの「自分の考え」というものですら、システム化され自動化されているわけだ。
現状は、真っ暗だ。
私たちは私たち自身に向かって、子どもたちを商品として扱うべきだと言っているのだから、どうしようもない。

あと、ついでに。
幼児への性的な犯罪行為を、単なる性的異常者の取り締まりの問題だととらえるのは危険だ、とも付け加えておきたい。
そもそも性的であろうが、なかろうが、
幼児虐待は犯罪
なのである。
言わんとするところがおわかりになるだろうか?
あなたが子どもを殴ったり、ごはん抜きにしたりしたら、それが性的満足感を得るためだろうが、
しつけのためだろうがそれは虐待
だということだ。
子どもを売買する行為も、もちろん犯罪だ。性的なものであろうが、なかろうが。
だが、我々は、この社会の経済システム自身を否定するわけにはいかないから、幼児虐待の問題をすべて、性的異常者の狂気という話題にすりかえてしまう。
正直なところ私たちは、子どもたちの安寧よりも、自分たちの楽しみ、消費者としての欲望を満足させることのほうがより大切らしいのだ。
都合の悪い事件が起きれば、それは負け組に属する誰かさんの異常な欲望ということに決めつけて、欲望をとことん追求べきだという自分たちの態度には目を背ける。
子どもたちにとっては、いよいよ、生きにくい世の中だ。
まあ、私が日記ごときでいくら吠えても何も変わらないし、いつまでたっても、日本中の子どもたちが潜在的な商品だ。

過激な話ついでに、性的な好みの問題についても。
世の中には例えば、小さいおっぱいが好きな男のひともいるし、逆の男のひともいる。背の低いぽっちゃりした体格の男性が好きな女性もいるし、マッチョマンが好きな女性もいる。同性が好きなひともいる。なかには、人形に性的興奮を覚えるひともいるかもしれない。
なんら問題はない。と私は考える。
もちろん、無理強いしたり他人に迷惑をかけない、というのが大前提だが、そんなの、大人同士の異性間の関係だって、同じことだ。
「人形に興奮するなんて、異常だ!」というひとも確実にいるだろうけど、でも、どうして?
人形に恋するなんて、ものすごく文学的じゃないか! 極めて人間的だよ。
日本では昔から、物には心があると信じられてきたし。
人間をモノ視する現代人と正反対で、つくづくうらやましい価値観だ。
……ここで再度くどく言っておくけど、「幼児虐待は趣味ですから」ではすまされないからね! 犯罪だからね!
しつこく書いておかないと、「こいつ、幼児ポルノを擁護している」って早合点するひとが必ず出てくるからな。
(;^_^ A
小さな子どもたちは、性的な関係を結ぶことについてまったく判断力がないし、それ以前に、肉体的にも精神的にもなんら用意がない。それを、趣味だからとか、欲望を肯定すべきだなどと主張してみたところで、ひとりよがりで勝手な言いぶん以外のなにものでもない。
もし仮に、誰かが、ある幼児に性的欲望を覚えたとしても、相手の側にはそれを受け入れる用意が物理的になされていないのははっきりしているのだから、それはそれきりのこととして、終わりにしてしまえるはずだ。
私は、道ですれ違った成人女性にハートがズキュンときても、いきなり襲いかかったりしない。当たり前だけどな。
そんなことすればお巡りさんにしょっぴかれるから……ではなくて、考えただけで、とことん不快だから。
私の言ってること、わかるよね!
お友だちとピクニックしたいからって、無理強いしても楽しくないよね?
それとまったくおんなじこと。
お友だちとピクニックに行きたいなあ、という気持ちは大切にして、お友だちの都合のいい日を待てばいいのだ(あんたとなんか未来永劫ピクニックに行ってあげないよ〜、と言われれば、悲しんでそれまでさ)。
つまり、
「あなたは限度いっぱいまで楽しまなくてはならない」
なんて、ビョーキなんだよ。
異常なのは、“楽しまなくてはならない”という考えかただ。
結局私たちの手に残るのは、いつだって誰かに与えた何かなのだから。
与えたものだけが残る。
まったく不思議な話だが、奇妙なことに、明白な事実だ。
したがって、他者を商品としてしか見ることができないなら、私たちは永遠に満たされることはない。
周囲のなにもかもを消費すればするほど、欲求不満だけが高まっていき、やがて、何者かを憎悪せずにはおれなくなる。
目に見えぬ、何かを。
……。うん?
あれ?
映画の話をしていたはずなんだけどなあ。
(;^-^ゞ
ふと気づけば、いわゆるオタクと呼ばれるひとたちにも、オタクを毛嫌いしているようなひとたちにも両方けんかを売ったような形になって、私もつくづくソンな人間だ。
(;^-^ゞ
それとも、バカ、と言うべきかな。
(;^-^ゞ




ゴーリキーの『どん底』
(2005.2.11)

東京で劇団員をやってらっしゃるお友だちがいるのですが、彼のサイトの日記コーナーなど読みふけっておりますと、なんでもこのたび、マクシム=ゴーリキー作の舞台『どん底』に出演するのだそうです。
『どん底』!それ、知ってる! 手塚治虫センセの『七色いんこ』読んでっから(笑)。
(;^-^ゞ
えーと、どっちがゴーゴリで、どっちがゴーリキーだったっけ。
(;^-^ゞ ロシア人の名前なんて、覚えられないよ。
『どん底』を書いたほうがゴーリキーなんですね。覚えておきましょ。
ある期間(と言ってもけっこう長い期間)のロシア文学界は、神の領域とも呼べるようなとんでもない高みに達しまして、チェーホフとか、ドストエフスキーとか、トルストイとか、とてつもない文豪を次から次へと輩出しました。
世界文学史上の最強軍団。
文学界のターミネーター!
どの時代に送り込んでも、シュワちゃんなみの圧倒的パワーで完全勝利すること間違いなしの無敵文学軍団なのであります。
……、って、そんな話じゃないって。
(;^-^ゞ
そんな天才文学者のひとり、ゴーリキーの代表作が、『どん底』なのであります。
観たいよ、観たい。
大阪公演やってくれないのかな。
ちなみに、ゴーリキーというひとは、スターリンによる粛清によって自宅に軟禁されたまま、1936年にモスクワでひっそりと死んだそうです。
一部では、毒殺説もあるんだとか。
毒殺説については噂の域を出ないけど、どっちにしてもひどい話。ゴーリキーを軟禁してどうする!
人間国宝として、上を下へのおもてなしをこそ、すべきであろう。スターリン、おまえが代わりに自分を軟禁しなさい。
(*'へ'*)さいっ
冗談めかして書いたけど、とにかく、東京在住のかたは観に行ってはいかがでありましょう?
お友だちの名前は、残念ながらここでは公表はできません。彼の演技を皆さんに観ていただきたいから、公表したいのは山々なんだけど。……いやね、私とお友だちということがバレたら、彼の世間の評価がガタ落ちになるかなと、それが心配で。
(;^-^ゞ
草葉の陰(←日本語まちがい)から、応援しておこうと思います。
お友だちの私が言うのもなんだけど、ものすご知的な俳優さんなの。
って、インテリの役が似合うという意味じゃないよ。
頭のいい俳優さんなのです。
東京に住んでいたころは、彼の演劇論を聞くのが本当に楽しみだったなあ。演技というもの、これから彼がこなす役柄というものを、言葉にして表現できるというのが何よりも素晴らしいと思った。
言葉にできるということは、共有できるということだから。表現者として、すごく大切なことだと思う。
演技というものについてはまったくの素人なりに、そういう感想を私は抱いております。
そうそう、劇団名は、言わないとな。
劇団昴さんです。
『どん底』も彼の演技も、お奨めでありますよ。




とんこつ音楽でチャンポン
(2005.2.10)

二ノ宮知子センセの漫画『のだめカンタービレ』の影響で、再びクラッシック音楽に目覚めてしまったワタクシ。根が単純なんだろう。
最近は、あんなに嫌いだったマーラーにはまっていて、ワシもそういう歳かなあ、なんて思ったりもする。
バーンスタイン指揮のマーラーに出会ったのも大きいかもしれん。
とんこつ味のマーラーな。
(;^-^ゞ
交響曲9番の最終楽章。……ああ、マーラーがさよならを言っている。さよならを言っている。……さよなら、さよなら、さよなら……。さよなら……。さよなら、さよなら、えーと、
まだ言ってるよ!
(;^-^ゞ
ひとによっては、「つきあいきれねえや!」とおっしゃるかたもおられるとは思うが、私は、ラーメンはとんこつ味が好きなのである(←だから?)。
今日は、ジョージ=セル指揮の『交響曲ドヴォルザーク8番』を聴きながら日記などぼちぼち書いていたりする。
バーンスタインを聴きながら、なんとセルも聴くのである。節操ないのもほどがある。
チャンポン麺だ。
(;^-^ゞ
バーンスタインの「精も根もなにもかもを音楽にそそぎこみましたー!!」という演奏も大好きだけど、セルの「秘めた情熱」もなかなか良いなあと思ったりもするのだ。精密なんだけど、機械的なのとは違うという。なんか東洋的な美学を感じたりするのね。ぜんぶ私の主観だけど。
まあ結局、難しいことはわかんないので、好きな音楽を好きなように聴いているだけなのである。
ちなみに、『のだめ』の主人公の天才指揮者の卵(←変な日本語)、千秋くんの作る音楽って、もしかしたらセルみたいなのじゃなかろうか? と私はひそかに思っているのだが、たぶん、作者さまの想定するものとはぜんぜん違うのだろう。
セルのような演奏では、千秋くんのようなアイドル路線(←問題発言)は歩めないだろうしね。
漫画のなかで音は鳴らないから、あれこれ想像するしかない。
それもまた楽し。
まさか、苦虫つぶしたクレンペラー(顔が)みたいな?
(;^-^ゞ
クラッシックにのめり込むと、指揮者別や録音年別でおんなじ曲を集めだしたりして、オカネかかるから、ほんと、やめよう……。
などと書いているうちにセルのドヴォルザークが終わった。
セルのドヴォルザークで9番も欲しいな。下校の時間に流れる新世界のあれ。
ああ物欲。
夜も更けたので、今はバーンスタイン指揮の『マーラー交響曲2番』を聴いております。
がはは、本当の本気でチャンポンさ。
「生きるってなんなんじゃあ〜!! 死ぬってなんなんじゃあ〜!!」とマーラーさん、叫んでる、叫んでる。
ええど、ええど。
大槻ケンヂさんの持ち歌に『スラッシュ禅問答』『バラード禅問答』という名曲が2曲あるけれど、マーラーはさしずめ『クラッシック禅問答』と言ったところか。
「卵からプロテインが生まれるように、悩みの闇から真理は生まれるんじゃ!」(BYオーケン)。
マーラーの叫びが聞こえる……。
(;^-^ゞ
しかし、それでも、マーラーの音楽は美しい。そこが不思議と言えば、じつに不思議な気がするのだ。

 



*チケットのもぎりで『草の乱』
(2005.2.8)

奈良県下であればどこへでも、本格機材一式とともに出張して映画上映してくれる奈良県映画センター
その『奈良県映画センター』の映画上映のお手伝いをしてきた。映画をタダで観れるという特典つきの、夢のようなお手伝いだ。
いそいそと出かけた場所は
奈良県文化会館国際ホール。
がべっし!!
国際ホールつーだけあって、収容人数が千人を超える大ホールだ。
劇団無名塾が『森は生きている』ヤッテイタとこだよ。
私の役目はチケットのもぎり。なんと、もぎり人員だけで4名も動員されていることが現場到着後判明。そりゃ来場者千名を予定しているんだからな。
こりゃ本格的な映画上映だぞと、青ざめる約1名。
良い席をとろうと、上映の1時間30分前に並んでいるお客さんのお姿に、ちょっと、びびりました。
(;^-^ゞ
フィルムは、『草の乱』。秩父事件を史実に忠実にドラマ化した映画である。
秩父事件とはいったいどういう事件なのか? 今で言う“勝ち組・負け組論”の、いわゆる負け組と呼ばれる弱者の困窮を見かねたひとびとが起こした一揆、という言いかたが、私にできるもっとも簡単な説明だ。
この映画は、全国上映中なので、あらすじを語るのは控えるが、田代栄助、加藤織平、菊池貫平、井上伝蔵、事件の首謀者はみな実在の人物であり、物語におけるその行動も、知りうるかぎりの史実に基づいている。
史実に基づいている、というのが、何よりもすごい。サムライだねえ。
自分自身の欲得や、たったひとつきりの生命すらも投げうって、と言うのは簡単だろうけれども、実際に行動するとなると話は別だ。
もっとはっきり言うなら、秩父事件は単なる一揆というような近視眼的な暴動事件ではなく、規模は小さくても、その目的は専制政府打倒と民主主義国家の樹立という極めて大それたものだったのである。
まあ、お題目は大風呂敷でも、現実にはしょぼいと言っていいほど統制もとれておらず、計画もどうしようもなくずさんだったわけだが、彼らの志の高さとは、それはまた別の話だ。
とにかく、映画の時代背景が、社会情勢的に現在ともののみごとにクロスオーバーしていて、なにかと深く考えてしまう映画である。
だってさあ。
明治17年、富国強兵と中央集権化を急ぐ明治政府は、強引なデフレ政策と税収増大策をとり、そのため国民生活は窮乏していた……って、ものすご身に覚えがあるシチュエーションだべ?
年数万人の自殺者、失業者の増大、急速に拡大する貧富の格差。
これまた、やんなるくらい身に覚えがあるシチュエーションだべ?
それでも我々には自由がある。
勝ち組という特権階級にのしあがる自由が。
他に自由などは存在しない。資本主義システムにおいて、たったひとつきり許された自由だ。
負け組のひとびと、人間の尊厳を奪い去られたひとびとを一定の割合で共同体の中から産みだしつづけることで、我々の言う自由社会は維持される。
一山当てれば、あんたの勝ちだ。金が金を呼び、そんなあなたを人々は尊敬のまなざしで眺めるだろう。わかりやすくて魅力的な自由が、我々の行動を正当化する。
古い話になるけれど、私が東京で暮らしていたころ、朝6時の新宿駅の地下道で、段ボールにくるまって眠っているひとたちが、警備員に冷たく追い立てられているシーンを何度も見た。
それでも私は、彼らの窮状をこの目で見つつ、外出するさいにはいつも部屋に鍵をかけていたのだ!
ドアに鍵をかけるような人間は、もちろん愛の敵である(←ワシ)。
愛を知る者は、比喩でも何でもなく、ドアに鍵をかけたりはしない。けっしてな。
秩父事件は、ドアに鍵をかけないひとびとの物語だ。
もちろん、なんでもかんでも美化することは出来ない。
彼らは武力革命(というほどの規模ではなかったが)を起こそうとしたわけだが、もちろん、何時いかなる場合においても、暴力と愛は両立しない。
革命の精神と武装蜂起はけっして両立しないのだ。
「悪を滅ぼすために暴力を振るう者は、その者もまた悪となる」
P=K=ディックのお言葉だ。
それでも、苦しんでいるひとを見捨ててはおけないという彼らの心意気は、感じるもの大であった。
だって、確実に自分たちは死ぬんだぜ? 残された家族だって、政府に刃向かった極悪人を出した一族扱いさ。すごいよホント。
この映画の制作に秩父の多くのひとびとが、とてつもない金額の寄付をし(総額ウン億円)、エキストラも手弁当だったと、奈良県映画センターの役員のかたにあとから聞いた。
みんな、明治17年のあの時のことが、今もって悔しくてならなかったんだよ、きっと。
弱きを助けるために命すら投げうって立ち上がった自分たちの英雄を、正しい姿で残したかったんだよ。

「自分は生来強きをくじき弱きを助くるを好み、貧者の者頼り来るときは附籍為致その他、人の困難にさいし中間に立ち、仲裁等をなすことじつに18ヶ年、子分と称する者二百有余人、今般、井上伝蔵らの目論見たる4カ条は貧民を救うの要所なるを信じ同意を表したる……」

『草の乱』パンフレットから、首謀者・田代栄助裁判記録より抜粋。
くどいようだけど、我々に許されているのは勝ち組になる自由であり、弱者に手を差し伸べる自由ではない。
したがって、彼は死刑に処せられた。
苦しみもがいている者に手を差し伸べるだけで、ものごっつい勇気と根性が必要なんだなあ。


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