*アルフォンス=ミュシャの女神が届く*(2004.3.3)
まったく身に覚えのない荷物が届いた。なんだろう? ダンボールで丁寧に梱包してある。
大きい。
送り主を確認して、ようやく理解した。
これは、アルフォンス=ミュシャの額絵だ。
缶コーヒーについているシールをハガキに貼りつけて応募したプレゼント企画に、当選したのだ。
発送をもって当選発表とさせていただきます、という形で、応募したことすらすっかり忘れていた私は、気がつくまでにしばらくの時間を要してしまった。
伊藤園の缶コーヒーに、サロンドカフェというシリーズがある。JR難波の自動販売機で偶然見つけたのだが、この缶コーヒーの、円柱形の缶にほどこされたイラストデザインに、アルフォンス=ミュシャの絵が使用してある。
缶の絵柄にアルフォンス=ミュシャが使用されている、という理由だけで、私はこの缶コーヒーを愛飲している。だから、プレゼント企画用のシールが自然とたまってしまった。
そのシールを適切に使って、ミュシャの絵のプレゼント企画に応募したら、見事当選したといういきさつだ。
アルフォンス=ミュシャ。1860〜1939。
アールヌーヴォー全盛の時代にパリで活躍した芸術家……とは、『神戸在住』の主人公、辰木桂ちゃんのお言葉だ。
桂ちゃんが友だちの鈴木タカ美ちゃんと、ミュシャのポストカードを眺めて楽しんでいたのは、あれは単行本の第1巻だった。
念のために確認すると、第3話の冒頭シーンにミュシャが出てくる。
桂ちゃんのお気に入りのミュシャは、『黄昏』だそうだ。胸元を隠した女性の肌がぞくりとするほど色っぽい、のだそうだ。
もちろん私も、ミュシャが好きだ。
「あなた、アルフォンス=ミュシャの絵が好きでしょう?」
と、あるひとから突然言われたことがある。
そのひとによると、アルフォンス=ミュシャの描く女神然とした女性像に、私のような者が夢中でないわけがない、のだそうだ。
私の性癖など、とうにバレバレなのだな、と思うと、少しだけ恥ずかしかったりもする。
ともかく。
ついつい女性を神格化してしまう私のくせ、好みに、アルフォンス=ミュシャの絵は当然のように合致してしまう。
アルフォンス=ミュシャの描く女性は、これこそ女神だ、という絵だ。本物の女神が地上に降りてきて、アルフォンス=ミュシャの絵は間違いだ、と言ったとしても、私は信じない。
*『ぼくドラえもん』という雑誌を見つけた*(2004.2.27)
『ぼくドラえもん』という雑誌を見つけた。新創刊だそうだ。
テレビアニメ『ドラえもん』のまぼろしの第一話がおさめられたDVDや、ドラえもんマウスパッドなどがおまけでついてくる。
これで500円。
もちろん、買いだ。
『ドラえもん』を、子どもが楽しむだけのテレビ娯楽番組、もしくは漫画本だと切り捨てては、いけない。
エピソードによってばらつきはあるけれど、たとえば『ぼくの生まれた日』、『あやうし!ライオン仮面』、『おばあちゃんのおもいで』、そして『ドラえもんだらけ』などは、きわめて読みごたえのある傑作SFだ。
私は、SFが描けるひとたちのことを、心から尊敬している。まったく特殊な能力で、選ばれた者たちの才能だとさえ思ってしまう。
しかも、藤子・F・不二雄センセは、小さな子どもたちを相手に、SFを描いてみせた。
これは、つくづく、すごい。
私たちがこれからもっとも注目しなければならない文学のジャンルは、SFではないかと、私は個人的に思っている。
人類とは何者か? この世界は何か? 我々はどこから来て、どこに向かっていくのか? 私とはいったいなんなのか? というような問いかけに絶えず興味をもっているようなジャンルとつきあうには、こちら側にもそれなりの想像力が要求される。
SF楽しむための、コツのようなものがあるのだ。
しかし、そのコツは、ドラえもんの延長線上にある。
いま私が読んでいるSF小説は、グレッグ=イーガンの『しあわせの理由』という短編小説なのだけれど、タイトルそのまま、しあわせとはいったいなんなのかをこのSF小説は取り扱っている。
しあわせとは、脳が分泌する化学物質の作用のことだ。
おいしい御飯と食べたとか、バレンタインにチョコを渡して告白したらOKをもらえたとか、そのような条件下でスイッチが入り、弁が開き、脳が化学成分をまき散らす。その化学物質の作用によって、私たちは幸福を自覚する。
物語において、主人公の少年が致命的な脳腫瘍にかかる。
その脳腫瘍が、なんらかの複合的原因によって、脳のどこかにあるスイッチを押し、少年の頭の中で幸福の化学成分が理由もなくだだもれになる。
惜しげもなく自らに投入される脳内化学物質によって、彼は物理的に不幸ではおれなくなる。
非の打ちどころのない世界で、恍惚のただなかを生きる少年と、泣き崩れ、苦悩し、なんとしても少年の脳腫瘍を除去しようとする両親の対比。
実は、ある治療をほどこせば、この脳腫瘍は除去できる。
しかし、その治療によって、それまでだだ漏れになっていた幸福の脳内化学成分は、その装置ごと死んでしまうことになる。
と、まあ、このようなプロローグだ。
このプロローグから、どのようなラストにつなげていくかが、物語作家の腕の見せどころだろう。
話をドラえもんに戻そう。
子どもたちのためのSF作品が、もっとたくさんあってもいい。
藤子・F・不二雄センセの得意なパラレルワールドで、『ドラえもん』の登場人物たちは極端世界から別の極端世界へと次々にふりまわされる。
子どもたちは笑い転げ、夢中になる。
もしも世界が○○だったら……。
はじめに言葉ありき、すべてはこの問いかけから始まった。
*『ヤサシイワタシ』をふたたび*(2004.2.26)
ひぐちアサせんせの『ヤサシイワタシ』を、また買ってしまった。
この全2巻のマンガ作品は、私の大のお気に入りだ。
だから、そのお気に入りを、くり返しくり返し何度も買い続ける。
いったい、我が家には何冊の『ヤサシイワタシ』があるのだろう?
何冊でもかまわない。
気が済むまで、買うしかない。
愛したのなら、その愛情は、形として示さなければならない。その対象が人間だろうが、漫画本だろうが、大切なものは、大切だ。
だから、我が家は、『ヤサシイワタシ』でいっぱいになる。
つまりどうしようもなく好きなのだ。
私の理想の物語とは、たとえば、ひぐちアサせんせの描く漫画だ。
理解して、理解して、理解すること。
絶えることのない、理解。
理解からはじまって、またつぎの理解へと、『ヤサシイワタシ』を読み進めていくよろこび。
私たちはいつも、私たち自身が抱えている思い込みの内側で生きている。その思い込みは、いつだって、客観的な現実とは乖離している。
私が私であることと、この内側に抱えている思い込みとは、実はイコールで結ばれている。
私が私自身であることの、思い込みという限界の中で、ときに人はトラブルから抜け出すことができない。
がんじがらめだ。
思い込みとはいえ、当人にとっては、これこそが現実なのだから。
私が私であること、あなたがあなたであることによって起こる、様々なトラブル(ときには極めて重い悲劇)について、私は『ヤサシイワタシ』をきっかけにして、しばし考える。
個人個人が抱える思い込みに対する切り口、光を当てるさいの角度が、ひぐちアサせんせは、抜群に、うまい。
ひぐちアサせんせには、新しい生きかたをはじめなければならない、なんらかのせっぱつまった理由がある(あった)のではないか、と、これは読者の印象による勝手な解釈だ。
ジェームズ=ティプトリー=ジュニアの短編小説のタイトルに『たったひとつの冴えたやりかた』というがあるが、私たちが生きていくうえでの、たったひとつの冴えたやりかたは、理解することだ、というのが、ひぐちアサせんせの最終的な主張だ。
私はその主張に、全面的に賛同する。
*映画『追憶』を深夜映画で*(2004.2.25)
夜遅くにテレビをつけたら、映画をやっていた。
ロバート=レッドフォード&バーバラ=ストライザンド主演の『追憶』だ。
私は、『明日に向かって撃て』や『華麗なる飛行機野郎』のレッドフォードが好きで、だからついつい観てしまう。
やはり、ここでもレッドフォードはかっこいい。
そして、ストライザンドは、美しい。
気品があって、気高く、しかもセクシー。
周囲の男たちの誰もが遠まきにしながらも秘かに、なんとかその手に触れ、頬の匂いをかいでみたいと夢想せざるを得ない、そういう美しさだ。
いっぽう今回のレッドフォードは、スポーツ万能、ハンサム、小説も書いたりして、表面的には社交的だけれど、実はナイーブな男を演じる。
そして、レッドフォード演じる彼は、本質的にはどうしようもなく軽薄で、馬鹿な男だ。
私が女だったら、こんな馬鹿な男は、願いさげだ。
ブラウン管の中の、ストライザンド演じる女性に向かって、
「これほどに馬鹿でうすっぺらな男に、身も世もなく惚れるなんて、なんて可哀想なんだ」と、思わず声をかけてしまう。
しかし、馬鹿な男がどこまでいっても馬鹿なのは、これはしかたがない。
馬鹿は馬鹿なりの、かわいらしさ、のようなものがある。
いっぽうのストライザンドは、これはもう、途方もなく映画的に美しいままだ。
映画だから当然だけど。
むろん、馬鹿な男との共同生活のなかで、彼女は彼女なりの欠点、ないしは弱さのようなものもかいまみせる。
理想の女性、もしくは理想の女性との理想の生活を仮に100とすれば、彼女の欠点が明らかになるにつれて、現実は10点・20点とマイナス方向に修正されていく。
むろん、彼女が気がついてなかった彼の馬鹿ぶりもどんどん明らかになっていき、それも10点・20点とマイナス方向に修正されていく。
理想と現実とのギャップに男のほうが疲れはて、彼はストライザンドのもとを去っていく。
それから数年後、ふたりは道端で再会する。
そのラストの再会シーンでの、ストライザンドの美しさときたら!
時間というものが持つ、不思議な魔法だ。
すったもんだで別れた女性が数年後に、いちだんと美しくなって、目の前に現れたら、男は、ただ息を飲むしかない。
しかし、馬鹿な男はやはり最後まで馬鹿なままだ。
「あいかわらずだね、きみは」
みたいなセリフを彼は口にする。
男には、彼女の美しさにある種のすごみのようなものを感じていただきたかった。
彼には知りようのない奥行きとミステリーが、彼女の美しさのなかから生まれているのだから。
男は、ひざまずいて服従を誓うべきだった。
最初の最初から、そうすべきだったろう。
男は、彼女を女神のように下から見上げるしかないし、そうするのがおそらく正解だ。
しかし、そうはならなかった。
おそらく、男が馬鹿だからだろう。
この映画は、バーバラ=ストライザンドのための映画だ。
くり返すが、本当に、美しい。
恋は悲恋に終わり、名曲『追憶』が流れ、彼女だけがどこまでも美しくなって映画は終わる。
*アナヒタ=テイムリヤンの『ぼくの月わたしの月』という絵本*(2004.2.18)
私がふだん見なれたイメージとは違う、エキゾチックな世界を描いた絵本をさがしてみた。
アナヒタ=テイムリヤンというひとが絵を担当した『ぼくの月わたしの月』という絵本を見つけた。
私は、猫の出てくる絵本と月の出てくる絵本を集めるでもなく集めているから、これは、買いだ。
アナヒタ=テイムリヤンさんは、中東、どうやらイランの絵描きさんだ。
イランには、有能な映画監督が次から次へと生まれてくる国、という印象しか私には持ちえていなかったけれども、もちろん、とうぜん絵本だってあるだろう。
ページデザインの仕方、色の使い方が、西洋社会における絵画的価値観、普遍性のようなものにすっかり慣れきった目には、非常に新鮮だ。
絵本に登場する例えば木々の描かれかたなどには、軽い驚きすら覚える。
カルチャーショック、と言ってしまえば確かにそうなのだが、あくまでも素朴であるところに不思議な愛着のようなものを感じる。
一瞬、クリムトを連想させるような色使い。
私は、エゴン=シーレよりも断然クリムト派だ。
しかし、私の周囲のひとたちには、クリムトが好きなひとがいない。どうしてだろう?
話が脱線した。
絵本のなかで描かれた子どもたちは、おそらくイランの子どもたちだ。
男の子も女の子も登場する。
登場する子どもたちのほとんどが、月を眺めるために夜空を見上げている。
どの子も、大きな目をしてる。中東のひとたちの目って、どうしてあんなに大きいんだろう?
絵本のタイトルは、『ぼくの月わたしの月』だ。しかし子どもたちは、お月さまは誰ものものでもないのだと最終的に結論する。
お月さまは、誰かだけを照らすことはない。誰かの所有物になることも、ない。
可能であったとしても、してはいけない。
最後は素敵なお説教で締めて、これは良い絵本ではないだろうか。
他には、ネットでマリー=ホール=エッツの『ジブベルトとかぜ』、リチャード=アダムスぶん・ニコラ=ベイリーえ『とらくんうみをわたる』も購入。
まだどれも未読だ。
マリー=ホール=エッツのお説教は、すでに『モーモーまきばのおきゃくさま』、『わたしとあそんで』、『もりのなか』で堪能してきた。この絵本は、どうだろう? 期待はふくらむ。
リチャード=アダムスは、『ウォーターシップダウンのうさぎたち』の、あのリチャード=アダムスだ。
*気がつけば、バレンタインデー*(2004.2.14)
今日は、バレンタインデーだったそうです。
ほー。
すっかり忘れてた。
もちろん、何もない日。
(;_;)
アーシュラ=K=ル=グインの短編小説を読んでいるあいだに、過ぎた一日。
ちゃんと、仕事しよ。
*松井直氏の『絵本のよろこび』ヴィデオ観賞*(2004.2.12)
ずいぶん前にNHK教育で放送されていた、松井直氏の『絵本のよろこび』という講座のヴィデオをお友だちにお借りしていた。
長らく借りっ放しになっていて、申し訳なく思う。
今日、ようやく見終わった。
絵本をつうじての、親子のコミュニケーションといったような話題は、私はいつでもポツンとおいてけぼりだ。
だから、名作、傑作を残した絵本作家たちのエピソード等に、私は主な関心をよせてヴィデオを観た。
レオ=レオニについて、相当に詳しい話が聞けたのが、個人的には非常に嬉しかった。
絵本における、もっとも本質的な部分、普遍的な部分に触れたければ、レオ=レオニを避けて通るわけにはいかない。
世界に絵本を三冊だけ残さなければならないとしたら、そのうちの一冊は、レオ=レオニの作品でなければならないと私は勝手に思っている。
彼は、絵本を使って、新しい生き方、新しいものの見方を提案してみせた。
レオ=レオニは、絵本における抽象的なアプローチを、もっともはやくに突き詰めたひとではないか。
絵本を作るにあたってのさまざまな題材、アイデアを、彼は徹底的に抽象化する。
抽象化されるとは、純化されるということでもある。
不純物が取り除かれ、やぼったさは削り落とされ、絵本的にデザイン化される。
そうした過程を経ていくなかで、絵本に書かれた対象は、どこまでもシンボリックになっていく。
個人とは、なにか?
他者とは、なにか?
部分とは、なにか?
全体とは、なにか?
関係とは、なにか?
存在するとは、いったいなにごとなのか?
彼の絵本における、極めて本質的なテーマ展開において、その強力なシンボリズムは有効に働く。
絵本に描かれた色や形、一字一句が、意味でパンパンにふくらんで、ずしりとした重いシンボルと化す。
だから、レオ=レオニの作品は抽象的でありながら、なおかつ奇妙にあけっぴろげだ。
それに、どこかしら、教育的な匂いもする。
このお説教くささが、どうにも好きになれないというひとも多い。
ヴィデオを観て納得したのだが、レオ=レオニにとって芸術家とは、お説教をするひとのことなのだ。
もちろん、彼は正しい。
ミロのヴィーナスからベートーベンの交響曲まで、世の芸術作品をつきつめれば、すべからくお説教だ。
別の角度から世界を見る(聴く、触れる)、その私たちが知らないやりかた、アイデアを提示して見せることが出来ないのならば、それは芸術とは呼べないはずだ。
だから確かに、芸術はお説教だ。
そして、レオ=レオニにおける芸術家とは、その本性がアウトサイダーでなければならないようだ。
アウトサイダーであることは、芸術家の重要な要素だ、と、彼は考えているフシがある。
確かに、彼の絵本に出てくるお魚もねずみも、文化的落伍者と呼んでもさしつかえないほどに、見事にアウトサイダーだ。
レオ=レオニは、あらゆることを自覚して絵本を制作している。
全面的な確信犯。
だからこそ、立派なお説教ができる。
彼が残した作品は子どもが楽しむ絵本でありながら、一皮むけばその内容はどれも極めて硬質で、生真面目に教育的だ。
絵本としての機能を、存分に果たしているということなのだろう。
以上が、ヴィデオを観た感想文だ。
印象を印象のままに書き連ねただけになってしまったが、もちろん、いち視聴者としては、他にどうしようもない。
お友だちに感謝。
この日記をプリントアウトして、感想文ということでおわたししよう。
今度は、チェコアニメの傑作短編集のDVDを貸していただけることになっている。
私も何か、お貸ししなければ。
*『耳をすませば』サウンドトラックを聴く*(2004.2.7)
ウイルスらしきメールが一日に5通も6通も届く。
それと、アダルト関係のスパムメール。やな感じ。
うちはMacなので、実害についての心配があまりないのだが、100パーセント安全とは限らない。読まずに、全部ポイだ。
ニュースによると、全国各地でいま、さまざまな種類のウイルスメールが大繁殖中とのことだ。
ウイルスを作っているひとたちのあいだで、周期的に克己心が高まる季節というものがあるのだろうか?
「きっと、自衛隊派遣記念なんだよ」
と、弟はさらりと言っていた。
そのときは笑ったが、しかし、ウイルス配布を一種のテロと見立てれば、ありえない話ではないかもしれない。
さて。
アニメ映画『耳をすませば』のサウンドトラックCDを購入した。
スタジオジブリ作品といえば、久石譲さんが音楽を担当されることが多いのだが、この映画では担当なされていないようだ。購入してから気がついた。
音楽は、野見祐二さんだ。
とにかく、リスニング。
……1曲目の「丘の町」から、ぶわっと、涙があふれ出す。
なんだ、これは。
『耳をすませば』って、こんなに音楽が良かったっけ?
もちろん、音楽を聴いて記憶が呼び覚まされたということは、確かにあるだろう。
しかし、それをさしひいても、素晴しい。
もっとはやく、手にしておくべきだった。
監督をつとめられた、故・近藤喜文さんは『耳をすませば』について、
「トトロのでてこない『トトロ』を描きたかった」という意味のことをどこかでおっしゃっていた。
トトロのでてこない『トトロ』、魔女のでてこない『魔女の宅急便』を、観てみたいと私はずっと思っていた。
逆説的だけれど、妖精や魔法使いがいっさいでてこないからこそ、ありきたりの日常に材をとるからこそ、ファンタジーの純度は高まるのではないか、と、そんなことを思っていた。
『耳をすませば』は、まさしく、そんな作品だ。
人の心が、この世界と、今日も向きあう。それが、日常生活というものの、本来の姿だ。
『耳をすませば』という架空の物語の中で、その日常というものと個人との関係を極限まで蒸留することに成功したなら、それはファンタジーになる。
どこまでも具体的でありながら、この世のどの場所でもありえない、理想世界だ。
この映画を東京の映画館で観たあとしばらく、私は主題歌の『カントリーロード』をいつも口ずさんでいた。
どうして、『カントリーロード』なのか。
映画が終わり、エンドロールとともに主題歌の『カントリーロード』が流れ、映画は終わる。
映画が終了したならば、観客である私たちは、ここでこの物語世界とお別れしなければならない。
具体的であるがゆえに、なかなか夢から覚めることが出来ない。
手触り、空気感のようなものが、確かに残っている。
あの街角、あの曲がり道、あの急な階段は、映画の中の架空の場所だったのか、それとも私の記憶の中に実在した場所なのか……。
リアルで素晴しい世界を、映画が終わったなどという納得しがたい理由で、あとにする。
しかし、去りがたい。
その心情を、主題歌の『カントリーロード』が、これ以上ないほどに高揚させてしまう。
これがすべて計算なのだとしたら、近藤監督、おそるべし、だ。
*ウェブサイト作りに便利な本たちの紹介*(2004.2.6)
今日もまた、ウェブサイト作りに精を出す。
PhotoshopだのIllustratorだのDreamweaverだの、高機能だが奇っ怪きわまりないアプリケーションを、曲りなりにも操作している自分にふと気がつく。
つい数年前までは、パソコンなぞ一生触ることはないと思っていたのにな。
我ながら、すごいことになったもんだ。
話がそれるけれど、ウェブサイト作りの世界には、強力な“手打ち信仰”がある。
DreamweaverやGoLive、ホームページビルダーなどのツールを使わずに、手作業でサイトを作るのが最良との考えだ。
確かにそれも一理あるけれど、それは、パソコン上で絵を描くさいにポチポチとコマンド打っているようなもので、ソフトの力を借りて出来ることはやっちゃったほうが効率的だ。
まあ、手打ちで作ったほうがHTMLの理解度がグンと高まるというのはわかるし、この手のソフトって、どれも挙動がおかしいというか、信用できないというのもいっぽうで事実なんだよね。
まあ、とにかく。
「ホームページを作りたいんですけど、作りかたを、どうか教えてください」
という質問をときどき受ける。
いや、言っちゃなんだが、私のほうこそ教わりたい。
(;^-^ゞ
むしろ、誰かに泣きついて、すがりたいような気分だ。
(´▽`;)
そういうわけで、せっかくのご質問にもまったくお役にたてないのだが、ハウツー本のなかから、これは! と思うものをご紹介しよう。
まずは、ウェブサイトデザインのお勉強本の定番、
『ノンデザイナーズ・ウェブブック』
Robin Williams さんとJohn Tollettさんの共著だ。
私が持っているのは毎日コミニュケーション版だけれども、エムディエヌコーポレーションというところから再販されています。
Steve Krugという人の
『ウェブユーザービリティの法則』
という本も、おすすめ。これはいい本だ。極めて実践的で具体的。なまじっかニールセンなどを読むよりも、こっちのほうが役にたつ気がする。
あと、雑誌……しかも、不定期刊行なんだけれど(苦笑)、それでよければ
『Web Site design』というのがある。発行は技術評論社。
難しいことも書いてあるけれど、そんなの読み飛ばして(笑)、参考になる記事を熟読しよう。
この雑誌は、中村亘氏の『閑話休題』というコラムがとにかく面白くて、ためになって、おすすめ。
ソシオメディアさんの
『標準ウェブ・ユーザビリティ辞典』も、忘れずに書いておこう。
しかし、これらの本に書かれた内容をどこまで信じていいのか、という気持も、実はあったりする。
パソコン雑誌『MacPeople』2月1日号に掲載されていたドン=ノーマン博士のインタビューを読む。
彼は、ユーザービリティーの守護神と呼ばれるひとだ。
記事によると最近の博士は
「使い勝手からエモーショナルデザインへ」
なんて言っているそうだ。
「何よりもまず、使いやすさを優先すべきだ」
と、ずっと言い続けてきたくせに、な。
いままでの主張と180度違うじゃないか、これまでの話は、なんだったんだ。
ひとはエモーショナルな製品でありさえすれば、多少の使いづらさには目をつぶってくれる、と、宗旨替えした論をここにきて博士は唱えだしたらしい。
言っちゃなんだけれど、彼は間違っていると思う。
ひとは、多少の使いづらさに目をつぶったりは、けっしてしない。
けっして、ね。
ひとは、彼等の言うエモーショナルな製品に、なかば無理やりに購買意欲をかりたてられているに過ぎず、使いやすさなるものは大量消費の糧になどならないという理由により、意識的に無視されているのだ。
雑誌の記事は、
「アップルは、もしかしたら使い勝手とエモーショナルデザインを両立出来ている数少ないメーカーのひとつかもしれない」
と結んでいる。
両立なんて出来ていないし、そもそも、どうして両立させなければならないのか、それも私にはわからない。
エモーショナルである必要など、まったくない。
使いやすさを優先する、とは、別の言いかたをすれば、新しい生きかた、新しいやりかたを探しだし、それを提案するということだ。
エモーショナルなどという子どもだましなものとは、まるっきり次元が違う。
それを、目先小手先の目新しさで、ひとびとを丸め込まなければならないところに、資本主義の限界がある。
あらゆる素晴しいことが、最終的には貨幣の排泄物へと変質していく。
話が脱線した。
さて。ここでついでに、星の数ほど出版されているPhotoshopのハウツー本の中から、とっておきをご紹介。
『フォトショップ講座6.0(上・下巻)』
ベン=ウィルモアの、Photoshopハウツー本の決定版だ。
Photoshopをはじめて触る人からベテランさんまで、すべてのフォトショッパーのバイブルになりうる名著だと思う。
この本を読んで学んだことは、すべてに応用が利くようになっている。ここが、すばらしい。
解説書に書かれているとおりの素晴しいロゴを作成したり、写真が補正できても、出来上がったそれは単なる出来合品でしかない。
それでは、ツールを理解したことには、実はならない。
応用編になると相変わらず手も足も出ないまま、という本が実はけっこう多い。
ベン=ウィルモアの『フォトショップ講座6.0(上・下巻)』を出発点にして、あらゆる応用を、読者はきっとこなせるようになるはずだ。
この本があればPhotoshopの理解は、とりあえずじゅうぶんですよ、ハイ。
アメリカ人はハウツー本を書かせると、とにかくうまい。
最初に挙げた『ノンデザイナーズ・ウェブブック』なんかも、そうだ。
「ノンデザイナーズ……」というタイトルからして、もうすでに、素晴しい。
「デザイナーではないひとたちのために、ちょっとしたコツ、法則をお教えしましょう、それだけで、あなたのウェブサイトは見違えるほどカッコ良くなりますよ!」
と本のタイトルが語りかけている。
この本はけっして、デザイナー養成のための本ではない。
デザイナー養成は、この本の“受け持ち”を超えている。
それでいい。一の数がなければ二の数もない。
ノンデザイナーズのための優しい本が必要だ。
デザイナーの創造力、才能を、すべてのひとが共有することは出来ないかもしれないが、デザインの基本的な考えかたを共有することは可能なはずだ、というアメリカ的な発想によってこの本は成立している。
教育に対するアメリカ人の怖いほどの生真面目さ、硬質な底力のようなものを、これらのハウツー本から感じる。
*ウェブサイトデザインもやらせていただきます*(2004.2.5)
いま、ウェブサイト制作のお仕事をしている。
本を作ったり、絵本を売ったり、遊絲社っていったいなんの会社なのか、とつっこまれるかもしれないが、遊絲社は出来ることならなんでもやります。
(;^-^ゞ
仕事、ください。
(。-_-。)
まあ、とにかく。
いまは資料を集めながら、ボタンアイコンを作ったり、ロゴを作ったりという、ちまちました作業に明け暮れている。
HTMLとか、カスケードスタイルシートとか、エクスプローラーのバグだとか、ネスケ4.7を見捨てないだとか、ほじゃほじゃした蛇の生殺し的なことは弟が詳しいので、私はおもに、デザインのほうで頑張らさせていただいている。
やってみると痛感するのだが、ホームページ作成は、本作りとは似て非なる作業だ。
つうか、本作りとはまったく違う考えかた、頭の働かせかたをしないといけない。
おかげでこの3日間ほど、脳がすっかり当惑してしまっている。
脳のパニックぶりが、手にとるようにわかる。
最近すっかりDTP頭になってしまっていたから、これをなんとかWEB頭に切り替えなければならない。
失敗できないというストレスは本作りのほうが強いが、どうでも良いようなところでどうでも良いような制約にしばられたり、これまたどうでも良いようなところで裏技に頼らなければならないのは、ウェブサイト制作のほうが多い。
手足を縛られて、池にぽちゃんと投げ落とされたような気分になるのだ。
DTPが不安神経症と疑心暗鬼との闘いならば、ウェブサイト制作はまさしく、蛇の生殺し的(言うの今日二度目)鬱屈との闘いだ。
つまり、どういうことかというと、こちらを立てればあちらがへこみ、うまい具合にいかないんですよっ!!
*養殖のマリモと少年時代*(2004.1.30)
養殖のマリモを購入した。
帰宅して箱を開けると、小さなガラス瓶と水の入った袋が出てくる。その袋の中に、緑色した毛玉のようなものがふたつ。これがマリモだ。
大きさは、小指の先ほど。
部屋の隅で固まった綿ぼこりにも似て、文字どおり水の藻くずのようにしか見えない。
だが、ちゃんと生きている。
マリモの飼育は、実はこれが2度目だ。
6歳から9歳までのあいだ、私は病院のベッドの上で暮らしていた。
腎臓病という病気のせいだ。
その入院先の病院の院内学級で、担任の杉本先生が育てていたのが、このマリモだった。
先生の机の上の、小さな金魚鉢のような容器の中で、マリモは生息していた。
だから2度目というのは間違いで、厳密には先生のマリモだった。
私の記憶の中のマリモは、もっと深い緑色だった。
生きているのか? と当時の私は先生に訊ねた。
生きている、と先生は答えた。
天然のマリモは北海道のどこかの湖の底で大きく育っているが、いま机の上にあるこれは、養殖されたマリモなのだ、と、加えて教えてくれたこともちゃんと覚えている。
こんなものが生きていると、どうして先生にはわかるのだろう? と私は思った。
目も口も手足もない。
花も咲かないし、茎や根すらない。
でも、マリモは生きている。
では、マリモは、死んだらどうなるのか?
私はそれも、先生に訊ねてみたかった。
きっと、訊ねたんだと思う。しかし、そのときの先生の返答は、残念ながらまったく覚えていない。
マリモが生きている、と先生は言う。
だから、手も足も茎も根もなくても、マリモは生き物だ。
いかに私が不思議がろうがそれは厳然たる事実で、その事実に私は安堵したし、またいっぽうで、不安でもあった。
当時の私にとって、生きることは誰かを失望させることだった……などと言えば、驚かれてしまうだろうか。
病気の性質上、私はこの病院のベッドから2度と出ることは出来ないと、なかば観念していた。
お父さんもお母さんも、顔にこそ出さないけれど、私のような子をもってずいぶんがっかりしているだろう、とも思っていた。
もちろん、すべて、当時の私の想像だ。
妄想と言ってもいい。
客観的に見ても、両親が私という子を足手まといと考えたことなどおそらく一度もないはずで、むしろ溺愛と過保護をもって、私に接していたというのが事実だと思う。
しかし、私は私自身に失望していたし、誰もが私に失望していると思っていた。
両親だって、私が別の子どもだったらどんなによかったことだろうかと、そう思うのが自然ではないか?
赤羽末吉・絵の『ももたろう』みたいに、ご飯を1杯食べたら1杯ぶん、ご飯を2杯食べたら2杯ぶん、すくすくと育つ子どものほうがいいに決まっている。
私が親の立場なら、私のような子どもはいらない、足手まといだ。
私という赤ちゃんが産まれたときは、お父さんもお母さんもさぞかし嬉しかったことだろう。
しかし、赤ちゃんが大きく育つうちに、少しずつしかし確実に、喜びは失望へとすり替わっていったのではないか。
子どもはときに、突拍子もないことを考えるものだ。
そして、なんという恐ろしい考えだろう。
杉本先生との交換日記に、私は、「まりも」という詩を書いて渡したことがあるはずだ。
私の子ども時代の詩集『ドウガネブイブイ』をひっぱりだして確認すると、やはり、あった。
まりも
ぼくが
まりもだったら
じっとなんてしていられない。
走って
走って
走りまくるんだ。
だそうだ。
私は、私自身に許しを乞うような気持で、この詩を書いた。
一種の言いわけだ。
あなたたちと同じように私もまた、私自身に失望しているのだ、だから、許してほしいと。
両親に見捨てられたら、私の入院費は誰が払うのだろうか、などというようなことを日々思い悩んでいた。
ぼくが/まりもだったら/じっとなんてしていられない。
……“まりも”だったら?
では、“まりも”でなかったら?
“ぼく”が、“ぼく”でなかったら、他の子だったら、じっとなんてしていなかっただろう……。
要は、そういうことなのだ。いつだって私は、他の子でいたかった。
「んー? 純クーン、ほら生きてるよ?」
先生は私に言った。
私はまだほんの子どもだったから、マリモが生きているというただそれだけで、強い興味を抱いた。
マリモは私を失望させることができるか?
もちろん。
マリモが死んだら、先生も私も、きっと悲しむだろう。
その悲しみは、失望ではないのか?
うまく言えないけれど、もしマリモが死んだらそれは、私がマリモに見捨てられたことになるのではないかと、ふと、そんなふうにも考えた。
例えば、お父さんとお母さんが急に死んでしまったら、当時の私は、見捨てたれたと強く感じたはずだ。
生きることが誰かを失望させることだったなら、死ぬことは誰かを見捨てることに似ているように思えたのだ。
あのころはとにかく、1から10まで、ひたすら思いつめていた。
先生の机の上で、マリモは生き続けた。
移動するとか、成長するとか、そういう兆候は、少なくても私の観察では何ひとつ見受けられなかった。
マリモは私に似ているような気がして、だから大好きになった。
いま、新しいマリモが、私の机の上にある。
私の関心が、机の上で生きているマリモに注がれている。
在るということの不思議さに、小さな感動を覚えた次第だ。
*『偶然の旅行者』とアン=タイラー&『耳をすませば』*(2004.1.29)
NHKがアカデミー賞受賞作映画を数十本いっきょ放映するということらしいのだが、そのラインナップの中に『偶然の旅行者』というタイトルを見つけた。
あれ? と思って調べてみたら、案の定、アン=タイラーの『アクシデンタル・ツーリスト』の映画化作品だった。
アン=タイラーの小説を映画化できるとは思っていなかったし、それがなんとアカデミー賞を受賞していたとは想像もしていなかった。
これは、アン=タイラーのファンである私ですら、ちょっとした驚きだ。
どういう映画になっているのだろう?
小説のほうは、当時住んでいた、世田谷の図書館から借り出して読んだ。
買おう買おうと思っているあいだに、いまは絶版だ。
やはり本は、思い立ったときに買っておくべき。
少しだけ、後悔している。
日常の細かいディティールから小説の題材をいくつでも拾い上げてくる、そういう私ごのみの作家たちのなかでも、アン=タイラーはピカイチの実力者だ。
はたして、タイラーの小説の持つクオリティーを保ったまま、映画化がなされているだろうか?
疑わしく感じつつも、観てみようと思っている。
……ところで話は変わるのだが、「偶然の旅行者」と聞いて、原作のタイトルの「アクシデンタル・ツーリスト」とイコールで結ばれる私の脳の回路に、ほんの少しだけ感心したりもする。
「偶然の旅行者」というひびきに、人生というもの全体に対するタイラーの視線、ユーモアを感じることが出来れば、むかし読んだ『アクシデンタル・ツーリスト』という小説に、私の直感はたどり着く。
そう、私たちは、みな、『アクシデンタル・ツーリスト』だ。
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とうとう『耳をすませば』のDVDを買った。
『耳をすませば』は、スタジオジブリ作品の中で、私がもっとも好きな映画かも知れない。
本当に大好きだから、いきなり観賞するのはもったいない。
今日は特典映像の劇場予告編集だけを観て、本編は大事にとっておく。
主人公、雫のうたうカントリーロード。
多摩独特の風景。
アン=タイラーの小説とは、またぜんぜん違う作品だけれども、日常のディティールに冴えを見せる、うっとりするほどの傑作です。
*猫作品を特集した雑誌*(2004.1.28)
近所の本屋さんで面白い雑誌を見つけた。
面白い、というのは、この場合素晴しい、という意味だ。
雑誌を手に、お友だちの家を一件ずつ訪問してまわりたいくらいに、嬉しい気持になっている。だから、みなさまにもこの本をご紹介したい。
『ネコまる』という雑誌だ。
「猫の切手と文房具」という特集がおこなわれている。
『猫びより』という月刊誌の増刊号らしい。
「冬号」と記されているので、季刊誌なのだろう。
とにかく、この特集記事が、素晴しい。
世界中の猫の切手、世界中の猫のレターセット、世界中の猫のカード、世界中の猫の小物、つぎからつぎへと、世界中の猫の逸品が誌面で紹介されている。
ねこねこねこねこ!
多様でありながら、どれも傑作だ。
ピカソの猫、どいかやさんの猫、マザーグースの猫、チシャ猫、陶器の猫、壁掛けの猫。ほれぼれとするくらいに、どの作品も絶妙に猫だ。
そう、絶妙という表現がいちばんぴったりと来る。
夢中になって紙面をめくっていくと、いつか見た猫たちがいることに気がついた。
猫との再会は、ことのほか嬉しい出来事だ。
図書館で見たことのあるこの猫は、たしかアンディー=ウォーホルの若いころの絵だ。
ボローニャ絵本原画展で出会った製密画のシャム猫もいる。
猫はすごい。
猫は、見事だ。
毎日眺めていても、ぜんぜんあきない。
この雑誌には読者の投稿欄もあって、小さいひとたち(子どもたち)のイラストが何点か掲載されている。
この、小さいひとたちの作品も、驚くべきことに、傑作だったりする。
小さい猫が、正面を向いて天真らんまんに笑っている。
猫のまわりには、大好きのお魚が泳いで(?)いたりする。
人間の持っている善良さというものが痛切に感じられるような絵なのだ、と、気がつく。
ふと、胸がつまった。
*お友だちの帰還と本の出版*(2004.1.26)
アメリカに心理学のお勉強に行ったまま音信不通になっていたお友だちが、いつのまにか日本に帰っていた。
メールをいただいて知ったのだ。
テロとか戦争とかあって、非常に心配していたのだが、まずはご無事で何より。
日本に帰ってからの彼は、アメリカで学んだことを活かして、モノスゴ、活躍されているようだ。
すごいなあ。
ことのなりゆきに、ちょっとついていけない。
もちろん、彼の成功を喜んでいるのだが、彼の身の上をもんもんと心配していた私としては、拍子抜けというか、キツネにつままれたというか、そういう気持も少しだけある。
でも、私の心配がよい方向に裏切られて、ほっとしている。
彼は、このたび本も出版なされた。
宣伝しておこう。
平本相武著『恋愛コーチング』、イーストプレスだ。
bk1で注文していたものが、今日ようやく届いた。
どちらかというと、女性の読者層を対象とした本のようで、「あなたとカレがどうしたら、よりよいコミュニケーションがとれ、……」というようなことが書かれている。
しかし、応用して読めば、男である私にも色々学ぶ点があるかも知れない。
さっそく勉強させていただきます。ハイ。
がんばらさせていただきます。ハイ。
*マグカップの引退*(2004.1.22)
愛用のマグカップがお釈迦になった。
いつものようにマグカップの上に熱湯を注ぐと、ピシッといういやな音がした。なんと言えばいいのか……はっと息を飲むというか、ヒヤッとして一瞬動きがとまるというのか。人生の悪いことのほとんどがそうであるように、なんの前触れもなく、突然日常に訪れる何かが、私をどきりとさせる。
次の瞬間。
机の上に置かれたマグカップを中心にして、染み出したコーヒーがだらしなく広がり、円模様を形成する。
一見マグカップにはなんの異常もないように見える。しかし、顔を近づけてみると、細くとも決定的な亀裂が側面に走っていて、そこからぽろ、ぽろとコーヒーが染み出しているのだ。
もちろん私はあわてた。
しかし、どうしようもない。
マグカップにはもはや、内容物の流出を押しとどめることは不可能になってしまったのは明らかだった。
やんわりと湯気をたてながら漏れ出ていくコーヒー。
神戸在住マグカップもこれで引退だ。
いまは、『となりのトトロ』カップを暫定的に使っている。
神戸在住マグカップのほうは、引退したといえども捨てるのには忍びないので、洗って食器棚に保管した。
お役御免。マグカップとしての実用性は完全に失われた。
致命傷となったクモの巣状の亀裂は、物悲しくもコーヒー色だ。
コーヒー色の小さな亀裂。
“フリーズドライ製品におけるコーヒー色の事故死”などというフレーズを、少し落ちついてから思い浮かべてみた。
くどくどと、亀裂の入ったマグカップを一定の距離から眺める。
一連の出来事は、「私の身に起きたこと」だ。
それがあまりにも主観的かつ個人的な視点であるために、何と言うか、不可解なおももちから抜け出せなくなってしまっている。
うまく言えないな。
非現実的な事柄を好むゆえに、か、ある種の出来事が抽象的なアイデアとなって私を立ち止まらせる。
私は映像作家のような気分にひたりながら、一連の映像を脳内でフラッシュバックする。
映像として興味深いと、そう感じているのだろう(ひとごとみたいだな)。
「私という存在がいなければ、この世界はどういう意味があるのだろう?」なんて、そんなふざけたことを考える。
さらにうまく言えない。
ほんと、暇人だ。
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