*本を買う、絵本を買う*(2003.11.23)
また、インターネットで本を買ってしまった。
まずは、子どものころ大好きだった松谷みよ子さんの『ちいさいモモちゃん』ミニブックだ。
『ちいさいモモちゃん』にはさまざまな版が存在するのだが、小さいころの私が愛読していたのは、表紙や挿し絵に、人形によるジオラマが使用されている版。その版のミニブックを購入した。
そして、この『ちいさいモモちゃん』ミニブックには、なつかしいモモちゃんと猫のプーの人形が付属してくる。
モモちゃんと猫のプーのキャラクター商品!
もちろん、絵本のジオラマに使用されているような精巧な人形ではないけれど、モモちゃんやプーの顔立ちなどは、しっかりとオリジナルのおもむきをたたえている。
私はこれでも、キャラクター商品には目がないたちだ。いちもにもなく、購入する。
この、『ちいさいモモちゃん』ミニブックで火がついて、あとはとまらない。どんどんと本を購入。
松本猛氏の『ちひろ美術館の絵本画家たち』、それと、ゴフスタインの新作も買い物かごに。
ネット上の画像の美しさに一目惚れして、荒井良二氏の6年ぶりの新作絵本『はっぴぃさん』も追加で買ってしまう。
漫画『ブラックジャックによろしく』の7巻も、もちろん買う。
その他DVDなど購入して、支払いについては、もう考えたくない。
(;^-^ゞ
買った本たちは、みっつのダンボール箱に梱包されて、昨日届いた。
どれも素晴しい、購入したことを後悔させないできだった。
小さな圧縮画像ひとつで直感的に手に入れた『はっぴぃさん』も、読んでみれば、本当に感心させられる素晴しい絵本だった。
感想などは、また後日に、しっかりと書いてみたい。
今日は今日で、宇治の「ぱふ」さんで本を2冊購入。
「ぱふ」のY=Tさんに教えてもらった『火よう日のごちそうはひきがえる』も手に入れた。
『火よう日のごちそうはひきがえる』とは、なんという見事なタイトルだろうか。
このようなタイトルの本ならば、有無を言わさず私は手にとってしまう。
これから読みますね、Y=Tさん。
(*^▽^*)
*部屋の整頓を完ぺきに*(2003.11.21)
足の踏み場もないほどに、部屋の中がとっ散らかっている。知らない人がこの部屋を見たら、泥棒にでも踏み込まれたのではないかと取り乱してしまうほどの惨状だ。
どうしてこうなってしまったのか。掃除をしたのは三日前だ。
たった三日でよくもまあこんなに散らかるものだと、感心もし、あきれもする。
感心してばかりもいられない。
どうしよう。今日はこれから来客があるというのに。
やはり部屋の整頓というのは毎日の心がけなのだな、と、孤独な正解にたどり着きつつ、ひとりで解決できたじゃない! と、自画自賛したりする。正解にたどり着いても、行動がともなわなければ意味がない。ようは、逃避ですね。さあ、かたづけ、かたづけ!
本を読んだら、ちゃんと本棚に戻す。戻したら、新しい本を取りだす。
服を着たら洗濯し、干して乾かし、また着る。着たらまた洗濯する。
料理を作って食べたら、調理用具および食器類を洗う。洗ったらまた調理し、それを食す。
ごんべが種蒔きゃ、からすがほじくる。
きりがない。
気がつけば、ひたすら地道に耐え忍ぶ、生活そのものが一種のスポコンではないか。おお。まさしく人生だが、体育会系は、大の苦手だ。
本棚に戻したら、二度と本は読まない。
食器類を洗ったら、食事は作らない。
掃除機をかけたら、部屋には入らない。
よし、具体策をひとつ思いついた。
一度思い切って部屋を掃除したら、そのまま外泊してしまうのだ。友だちの部屋に上がり込んだりして、三日間は帰宅しない。ようは、自分の部屋に入らないようにする。部屋を汚す人間がいないのだから、散らかりようがない、という理屈だ。
三日間友だちに厄介になったあと、四日目に帰宅し、ごはんなどを食べて、洗い物をし、きれいなシーツの上で寝る。翌日掃除して、また三日間外泊する。
これを一週間のサイクルにするのだ。
なんだ、ひとりで解決できたじゃない! パート2。
……という具合にならないものだろうか。
あ、洗濯はどうするかな。
そのまえに、一日目でお友だちに叩き出されるのがオチだろうけれど。
朝、昼、晩のお食事をお作りしますよ、だめですか?
その前に、お部屋に泊めてくれるような親友がいないんだった。
……あ、自分の言葉がイタイ。(^_^;)
*フォントのお勉強の復習*(2003.11.20)
『DTPフォント完全理解!』という本を読んで、もう一度、基礎からフォントのお勉強をやりなおしている。
いまさら、ぜんぶ知ってるよ、というようなことしか書いていないように思えるが、それがかえって危ない。
DTPにおけるトラブルの8割方はフォントによるものだと思うし、このさい知ったかぶりはやめて、フォントにおける諸々のことをしっかり頭に入れておこうと思ったのだ。
実際、DTPにかぎらず、フォントのトラブルというやつは日常的に見かけることができる。
企業から送られてくるいわゆる『未承認広告』からして、すでに文字化けしている。
(株)という文字を使ってメールを書いたはいいが、Macユーザーである私んちの環境でメールを開くと、□(俗にトウフという)というような文字に入れ替わって表示されるのだ。
インターネットでこちらから大きな企業のサイトを訪れても、(日)(月)(特)(監)というような文字化けをよく見かける。
ローマ数字などの機種依存文字を、平気で使っているんだな。
それ、機種依存文字ですよ、まさか、知らなかったですか? と、メールに向かって独り言。
Windos環境同士でデーターを交換しているぶんにはこのような文字化け症状はおきないから、圧倒的シェアを持つWindos環境では、そもそも文字化けに気がつく機会がないのだろうな。
ちなみに、MacにはMac特有の機種依存文字があり、Mac同士のデーターのやり取りでは、機種依存文字を使用してなんら問題は発生しない(フォント形式の違いによる文字化けもあるから、なんら、とは言えないけど)。ようは、同一機種でしか通用しない文字が、機種依存文字というやつだ。
まあ、マイノリティーであるMacユーザーはWindos環境を無視して存在できないので、機種依存文字に無頓着ではいられないというのが現実ではある。
とにかく、Windosユーザーは普段、日常的にこのような機種依存文字を使用して、何も困らない。
メールや掲示板等での文字化けは、まただ、と思って、見過ごしてはいるけれど。……けれど、DTP関係の企業ともなれば、たかがメールとはいえ、それなりに気を使ってほしいなあという気もする。
商品を売り込むときには、我々末端ユーザーに「ユーザービリティ、アクセスビリティ」と鼻息荒く吹聴するくせに、ご本人たちは機種依存文字なんて初歩の初歩をすら、ないがしろにしているのね、と、こちらとしてはひどく意気消沈するのだ。
話題を戻して、フォントトラブルの話。
ウエブサイト上ならトラブルに気がついた時点で
「ああ、ごめんなさい、直します」
で終わりだけど、紙に印刷して製本した大量の書籍群となると、もはや直しが利かない。青くなったり赤くなったりして、最後には正誤表を一冊ずつにはさむしか手がなくなる。
ああ。
トラブルに最後まで気がつかないまま大量印刷されてしまった書籍。
考えたくもない。
本の編集から印刷までという仕事は、実は、想像以上に神経をすり減らす。失敗できないというプレッシャーは、作成データーやソフトウェアに対する不信、しいては疑心暗鬼を産みだし、最終的に胃腸をこわすというオチになる。
みなさん、同情してください。
(^_^;)
やだやだ。
書いているうちに、落ち込んできてしまったよ。
フォント関係で、少し楽しい話しもしよう。
個人的に私の好きなフォントは、明朝系ではリュウミンR、ナール体ではじゅん34だ(私の名前だしね)。
あと、Mac日本語環境の、デフォルトのシステムフォントであるOsakaも大好きだ。
デフォルトフォントと馬鹿にしてはいけない、Osakaは傑作だと思う。
Macを起動すれば、いきなりあらゆる作業を、この美しいフォントを使って行うことができる。
そのありがたさに気がついたのは、WIN機に触ってからだ。MS明朝、MSゴシックのあの出来のひどさに仰天したのだ。
なんだこれは! この陰々滅々たるおもむきはどうしたことか! こんなフォントを使わされたのでは、私は仕事どころか、ウェブブラウズもメールひとつも書く気になれない。
後発のシステムであるというのに、よりにもよってこんな汚いフォントをどうして選択する気になったのか、私にはそこのところが理解できないでいる。
我々ユーザーに対する、悪意があるとしか思えない。
*新刊絵本のお話*(2003.11.17)
我が社から新作絵本が発行された。
今回は半透明の文字ボックスを使用したかったので、絵本としてははじめてアドビInDesignでレイアウトした。
ペラものならIllustratorのほうが慣れているんだけれど、ページものは、やはり、レイアウトソフトを使いたい。
というわけで、マニュアルと首っ引きで、がんばってみた(おもに弟が)。
仕上がりのほうは、思ったとおりにきれいに出力されていて、喜んでいる。
印刷所さんのお力があってのことだけれど。
新刊絵本のタイトルは、『どこから来たのしょぼガラス』
B5版32ページのモノクロ絵本だ。
作者は、まるひかるさん。
まるひかるさんにとって、これが最初の絵本だ。
フォント選びから始まって、見返しの色といった細かいところまで、絵本ができ上がる直前まで作者のまるひかるさんと何度も打ちあわせをしてきた。
あれはどうだ、これではいけないか、と、根気よく打ちあわせていくのは、実はこの仕事のもっとも楽しい部分だ。
ちなみに、ファイルの互換性だ、歯送りだ、ウイドーだ、文字送りor文字詰めだ、CIDかはたまたニューCIDか、などと言っているときが、もっともせつない時間。……と、これは愚痴。
とにかく、まるひかるさん、お疲れさまでした。
(*'‐'*)
遊絲社のサイトに新刊本をアップしてあるので、よかったら、のぞいてみて下さい。
7月に発行された絵本『ココロのカケラ』もいっしょにのぞいていただけたら、さらに嬉しかったりします。
遊絲社のサイト
さて。
絵本じゃないけれど、来年早々にもいくつか新刊を発行する予定。
ただいま鋭意製作中。
ここ数日は、モニター画面と朝から晩までにらめっこで、眼が焼けるように痛い。
珍しく仕事しているので、眼がびっくりしているようだ。
ひー、本当に痛い。
*ビル=アトキンソンのインタビュー記事から*(2003.11.13)
先月の18日に発売の雑誌『Mac
Power11月号』を今ごろになって読んでいる。
初代Mac開発者のひとり、HyperCard、QuickDrawの生みの親、ビル=アトキンソンのインタビューが掲載されているのを知って、買っておいた雑誌だ。
ビル=アトキンソンとは、一体何者か? 彼は、伝説のプログラマーだ。
もっとも有名なHyperCardは、プログラム言語のことを知らない私たちのようなものでも、簡単なプログラムを作れるソフトだ。
当時それはまるで、車で空を飛べる、といったたぐいの衝撃だった。
伝説のモンスターソフトだ。
小学生から可能なプログラミングという奇跡。
しかも昔は、HyperCardには日本語版もあった! 日本語によるコンピューターのプログラミング!
こうした点では、パソコン業界はむしろ後退しつつある。日本語によるプログラミングなんて、信じられますか?
「ワンクリックで簡単操作」「一発ボタンでらっくらく」
そんな言い草をただ吹き込まれて、我々は気づかぬうちに何かを失ってゆく、それが最近のこの業界の現状だ。
エンドユーザーが曲がりなりにもプログラミングをはじめるということは、少しだけ大げさに言うと、コンピューターメーカーやソフトウェアメーカ、プログラマーたちが特権的な存在ではありえなくなるということだ。
むろん、HyperCardでできることは単純なプログラミングに限られているわけだし、先の主張は幻想でしかないかもしれない。
だが、ビル=アトキンソンたちの最終的な目的は、そういうところにあった。
歴史上初めて、人間が人間であることをはじめる、そんな時代がやってくる。
子どもっぽいユートピアを信じていたわけだ。
しかし、案の定、HyperCardは多くのソフトウェア会社から袋だたきにあい、現在では開発は中止されている。
アップル社の会社のロゴは、一口かじった形で欠けている林檎のマークだ。
この林檎は、知恵の実の象徴だ。
知恵の実は、がぶりと一口、かじられている。言うまでもなく、神の命令に背いて、人間がかじったのだ。
知恵の実をかじって神の怒りを買い、楽園を追放された最初の人間のガッツをこそ、当時の彼等は愛した。
かじられた林檎のロゴは、反逆者たちの集う旗印である。
アップルというコンピューターメーカー自体には、なんの思い入れもありはしないが、このロゴだけは本当に素晴しい。
*『ながいおはなのハンス』という傑作絵本*(2003.11.11)
古本屋さんからインターネット経由で、『ながいおはなのハンス』というタイトルの絶版絵本を手に入れた。
ずっとさがしていた絵本だ。
定価の倍の価格の2800円という値段に怖じ気づいていたが、とうとう、思い切って購入した。
WEB上の画像でたまたまこの絵本の表紙画像を見、その素晴しさに驚愕したのが、私がこの絵本をさがしはじめたきっかけだ。
いまは、その実物が机の上にある。
そして、やはり素晴しい。なんという見事な絵だろう。この表紙だけでも、支払う金額の価値はじゅうぶんにあると言える。
絵を描いたのは、リトアニアのスタシス=エイドリゲビシウスというひとだ。
物語は、ジェームス=クリュスというドイツの作家が担当している。
絵本を開くと、異様に鋭い鼻を持っているハンス坊やが、自分の長い鼻を気に病んで悲しんでいる。
たしかに彼の鼻は、鋭く鋭利で、ややもすれば物騒ですらある。こんな鼻は、自分には必要ない、可能なら取り換えてしまいたい、と彼が思ったとしても、それは無理からぬことだろう。
しかし、ハンスの鼻が異常に長いというのは事実だけれども、ただ嘆き悲しむだけでは、何も生まれてこない。
だから、ひとよりも長い鼻であるというその事実を踏まえたうえで、ではこの長い鼻を使って、自分自身に対してや周囲に向かってどれほどの貢献が可能なのか、という建設的な空想力が悲嘆にとってかわり、さまざまなアイデアを産み出してゆく。
驚くべき話だが、極めて多くのことが、ハンスの長い鼻によって可能であることが判明してくる。
あれもできる、これも可能だ。
中でも私が気に入ったのは、深い谷を渡りたい女の子のために、ハンス坊やの鼻が橋渡しをするというアイデアだ。
スタシス=エイドリゲビシウスの描く、ハンスの鼻をわたっている女の子のようすが素晴しい!
彼の鼻はまた、弓につがえる矢にもなりえるのではないか。そんなアイデアも出てくる。
自分自身のとがった鼻を引き絞った弓につがえ、その矢を放つことで、ハンスはどこか遠い場所まで、飛んでいくことも可能なのだ。
素晴しい……。と、これは何度目の「素晴しい」だろうか。
これほどの傑作絵本が私の知らないところで出版され、しかも、私が知らないままに版切れを起こしていたとは。
絵本の奥付を確認すると、この絵本の日本語版は、1991年に初版が出版され、1997年に5刷となっている。
*『螢の墓』をもう一度*(2003.11.10)
今度の総選挙の結果に血も凍りついたが、しかし、開票前からじゅうぶん予想されていたことだ。
また同じ歴史を繰り返すのか、と思うと、つくづくうんざりもするし、自分のこれからの人生を思うと暗い気持にもなるが、どうしようもない。
日独伊三国同盟のころの世間というものを知りたければ、周囲を見渡せばそれでいい。
私はというと、もはや、しゃっくりが止まらない。
ひっく。
ダーウィンの進化論を本質的な部分で勘違いしたまま、弱肉強食という非常にわかりやすい物語をその都度の都合によって振りかざしているかぎり、何も変わらないだろう。
そもそも、こんな冷酷残酷な物語に異議を唱えるひとが出てこないのは何故だ?
ひっく。
いよいよ、死よりも悪い運命の足音が聞こえてきたこのところではあるが、個人的には、慰めもないではない。
「国を挙げて、中東でドンパチやらかそう!」
などと主張したり、それに類する発言をするあのかたがた、政党群に、私は投票しなかった。選挙権を得てから今日まで、一度たりとも、その手のやからには投票しなかった。
ほかの有権者の考えは知らん。
おかげさまで私は将来、のたれ死にか、それと似たりよったりの死に方をするだろう。
ひでえな。ひっく。
でも、鉄砲かついてドンパチやるよりは、まだましだ。
そう思って、少しは元気を出してみよう。
とはいえ、みっともないし、つらい人生だなあ。
やになっちゃうよ。
*マニフェスト選挙*(2003.11.5)
今度の総選挙は、政権交代が焦点なのだそうだ。
アメリカのように日本も二大政党化して、政権交代を可能にすべきである、と、マスコミが盛んに唱えている。
その二大政党の片翼ずつを分担すべく、さっそうと名乗り出たのが自民党と民主党、という図式だ。
自民党と民主党のどちらが政権をとるのか、今度の選挙の焦点はほとんどその一点に絞られているのだと、毎日のように報道されている。
その政権交代を可能にするという二大政党化の、基盤をなすのがいわゆる、マニフェスト論議。
ちなみにマニフェストとは、政権公約のことだ。
「私んとこが政権をとったらならば、これこれしかじかの公約を実現することを約束します」
と、ふたつの政党が選挙戦の時点ではっきりと公約するのが、マニフェスト選挙なのだそうだ。
では、かんじんのその公約の中身は、一体どうなっているのか?
「法人税引き下げ、企業の税・社会保障の抑制、消費税の引き上げ、学校の株式会社の参入、派遣労働、裁量労働の推進……」
……。
自民党と民衆党という二大政党の、それぞれのマニフェストのこれが中身だ。
早い話が、自民党に票を入れたら消費税がアップし、これではダメだと民主党に入れたら、さらに税率がアップするという仕組み。
赤い箱にも、青い箱にも、実は、まったく同じものが入っている。
子供騙しのやり方だが、アメリカ人はこれですっかりだまされ続けているんだから、日本でもそれなりに機能はするのだろう。
今度の総選挙におけるマニフェストの中身を評価するのは、実は財界であり、実際に、日本経団連は各党公約の採点などをなさっている。
その採点表によると、自民党「非常に良い」、民主党「良い」、だそうだ(笑)。
政党はふたつでも、財界の目的と要求は実はひとつきりであり、二本の道は同じ目的地において合流する。我々には選択の余地など始めから用意されていない。
二大政党という方法論によって、実質上民主主義のシステムを骨抜きにすることに成功したアメリカのやり方を日本経団連は参考にし、日本にもそのシステムを導入したがっている、と、そういうことらしい。
「少数派の意見にも耳を傾けることによって、最終的には全体をもより良く機能させる」という民主主義の大前提、理念すら遠く置き去りすることによってはじめて、二大政党などという現象が起こりうる。
*恐るべき子どもたち*(2003.10.31)
今週末にお客さまが来る予定なので、家の掃除などをしていると、母親の部屋から、『週刊文春』7月31日号が出てきた。手を休めてページをめくってみる。
この号には“総力特集・暴走する子供たち”という特集が組まれていて、個々のタイトルに思わず笑ってしまった。
『子供をペット化する母親が犯罪を育てる』
『警視庁極秘資料「あなたの町の少年犯罪データ」』
うわあ……。
いまや日本全国、つつうらうら、恐るべき子供たちにひとびとは戦々恐々だ。
いまどきの彼らは冷酷非道、凶悪最悪、ささいなことでキレて、いきなりグサッとくる! 罪の意識もありゃしない! いまや、子どもたちは、犯罪予備軍だ。
「あなたの町の少年犯罪データ」特集では、犯行場所、時間帯、家庭環境別に犯罪データの集計がなされていたりする。
この集計は、ぜひとも頭にたたき込んでおかなければ。でないと、とんでもないトラブルに巻き込まれてしまうぞ。
ある時間帯に、特定の場所で、とある条件を満たした家庭環境のもとで育った子どもに鉢合わせしたら! もはや、あなたの命は風前のともしびだ……、というわけ。
小学生にブランド品を持たせたり、化粧をすることを認める母親のもとで育った子どもたちは将来、非常に高い確率で犯罪に走るという理屈にも私は笑いに笑ったけれど、私の母親なんかは、記事を半分以上真に受けている。
そりゃ、真に受けるだろうな。
新聞テレビでも、連日、新しい少年凶悪犯罪の報告がなされる。
しかし、不思議なことだが、連日のニュース報道とはうらはらに、殺人で検挙された少年の数は昭和40年後半から減少傾向にあることなどは、ほとんど知られていない。
検挙数から割り出してみると、昭和20年代から40年代の少年たちは、平成時代の少年たちに比べて、約4倍もの殺人事件を起こしている。
ぐはあ。4倍もの殺人事件!
なんつー凶悪な。
このデーターに出会ったとき、私は驚嘆した。私のイメージにある昭和20年代の日本社会とは、あまりにもかけ離れたデータだったからだ。
子どもたちは品行方正、大人たちのいいつけをよく訊き、しつけがなされ、殺人事件とは無縁の生活、という昭和20年代のイメージだ。
しかし、実際は、いまどきの子どもたちがホームランを30本打つあいだに、当時の子どもたちは120本ものホームランを打ちまくっていたらしい。
「いまどきの子どもたちは簡単に人を殺す」と批判する大人たちに、子どもたちはこう言い返すことが可能だ。
「あんたたちが子どもだったときのほうが、いまどきの子どもたちよりはるかに多くの人を殺していたんだぜ!」
って。
しかし、今日を生きる私たちは、いまどきの子どもたちに絶えず恐怖していなければならないらしい。さまざまな情報を突きつけあいながら、いまどきの子どもたちがいかに凶悪で、犯罪的であるかを頭にたたき込まなければならない。
5、6人でたむろする少年たちに出くわしただけで、気持が落ちつかなくなるように、私たちは私たち自身を教育し続ける。
凶悪犯罪の減少、という事実が重要なのではなくて、子どもに恐怖しているという状態をたもつことが重要なのだ。
なぜなら、私たちは、いまこそ、子どもたちを制御しなければならないからだ。
私たちは、私たちが制御できる子どもだけを愛する。
私たちに制御できる子どもたちと、制御できる親たちのみを認める社会だ。
ブランド品に身を包んだ小学生を犯罪者予備軍呼ばわりする前に、私たちは本物の犯罪について語り合うべきではないだろうか。
欠陥が指摘されながらそれを放置し続けたために、数々の事故が起きた三○自動車の事件は?
『欠陥を放置する三○自動車が犯罪を育てる』
と誰も言わないのは、なぜだろう。
遅刻したアルバイトの子をボコボコにして病院送りにしたり、掃除がなってないと便器をなめさせたりしていたヨド○シカメラの一件は?
大人たちのそういうやり口を若者たちは学んで、それで暴力に走っているのではないのか?
『バイトいじめするヨド○シカメラが犯罪を育てる』
と言ってもよさそうなものじゃないか。
しかし、制御する側が自らの犯罪を告発したことなど、ただの一度もない。
*マイケル=ムーア来日か?*(2003.10.29)
11月8日、土曜日に、労働スクエア東京ホールというところで『レイバーフェスタ2003』という催し物があるそうだ。
チラシを読むと、レイバーフェスタとは、身近な「労働」「生活」を見つめ直すための働くひとのお祭りだそうだ。
「リストラ・失業・過労死、こんな言葉が当たり前になっている日本で、あなたはこれからどのように生きていきますか?」という、チラシに書かれたひき文句が、すざまじい。
(;^_^ A
参加費は当日2000円、前売り1500円。
しかし学生、障害者、高齢者、そして失業者は200円引きだ。
この『レイバーフェスタ2003』では、マイケル=ムーアの映画『ザ・ビッグ・ワン』も上映される。
マイケル=ムーアの映画は、このフェスタの目玉ということらしい。
私はこの映画をDVDで観賞したが、非常に面白かった。いや、素晴しかった! 空前絶後のヒット作となった、『ボウリング・フォー・コロンバイン』と比較しても、けっして落ちる内容ではなかった。そうか、彼はずっと前から、良いものを作り続けていたのだな。以来私は、この人の作品は、手に入るものは片っ端から手に入れている。
この映画を観るためだけに、この『レイバーフェスタ2003』というお祭りに参加したって、高くはないだろう。
レイバーフェスタ2003実行委員会は現在マイケル=ムーアにフェスタへの出演依頼の交渉をおこなっていると、チラシの隅に書いてあるのに、いま気がついた。
マイケル=ムーアの返事は
「We would LOVE
to work with you」
というものだったそうだ。
問題は、スケジュールらしいが、都合がつけば、11月8日、マイケル=ムーアがナマで見れるかもしれないぞ。
場所は、東京都中央区新富だ。
ちいと、遠いなあ……。
*ダイエーホークス、日本一だそうです*(2003.10.28)
プロ野球日本シリーズが終わったそうだ。
結果は、ダイエーホークスの優勝とのことである。
関西に住んでいながら阪神タイガースファンではない私は、
「ああ、そうですか、終わったのですか」
というだけで、かくべつ何も感じない。悔しいも良かったも、なにもない。
人気のないパリーグが勝って、良かったなあ、という程度のことを思うだけだ。
パリーグで数年間をかけ、そこでそれなりの実績を作った選手が、セリーグの人気球団に流出する、もしくはメジャーリーグに流出するといった現象がここ数年続き、いまではセ、パの力関係は大きく差がついてしまった。
テレビをつければ、毎日が読売巨人軍のゲームだ。
私は関西に住んでいるので、阪神タイガースのゲームも観れる。そのほかのチームは、巨人軍、もしくはタイガースの対戦相手としてだけ、姿を現す。
リーグの違うパリーグのチームに至っては、ほとんど知られることがない。これでは、パリーグの選手は、毎日が悲しいだろう。
スター選手は数少ないけれど内容のある素晴しい野球をしているチームから、櫛の歯が欠けるようにどんどん主力選手が抜けていく。いまは、勝ちまくるチームと負け続けるチームの二種類が存在するだけになってしまった。
私はいつも、スター選手は数少なくてもいいから、内容のある素晴しい野球をしているチームが観てみたい。
高いお金を出し、よそのチームからスター選手を引っこ抜いてきて勝利するのではなく、若い選手をじっくり育成して勝っていくチームが観てみたい。
最近は私は、プロ野球を観るならばサッカーのほうをより多く観戦している。
いま、おすすめのチームは、ジェフユナイテッド市原だ。
ここのサッカーは、面白い。
スター選手はいないけれど、全員で攻撃し、全員で守る。90分間、とにかく休まず走る。試合終了間際には、足がつって倒れ込む選手も出てくる始末。でも、あきらめない。
その頑張りが胸をうつ。勝っても負けても、ああ、素晴しいゲームだったと、満足できる。
もちろん、勝ってもらえたら、なお嬉しいけれど。
*病人やらけが人やらの秋*(2003.10.18)
キッチリ一週間寝込んでしまった。キーボードに触るのは、7日ぶりだ。
よれよれとトイレに行き、モソモソとご飯を食べる。トイレに行けるようになったのは、うれしい。今日こそ、お風呂に入りたいものだ。
……などと言ってみる。とほほ。
何があったか、どのような病状であったか、何ひとつ語る気になれない。
うんざりとげっそりをこき混ぜて、自己不全感の炎でこってりと焼き上げたような、今はそんな気分。
悪いことは重なるもので、我が家のトト様が自転車で転んで、股関節を骨折しなすった。しかも、ご丁寧に三箇所も!
お医者さんによると、手術が必要だそうだ。
が、トト様は、手術だけはいやだとごねているところ。
そんなこと言っていると、寝たきり老人になるぞ。
*松尾芭蕉のアニメーション化だそうだ*(2003.10.8)
インターネット書店のAmazon.comからメールが届いた。
面白そうなDVDが11月に発売になるから、あんた買わないか、というダイレクトメールだ。
今回のAmazon.comおすすめは、『連句アニメーション 冬の日』というタイトルのアニメーション映画。
松尾芭蕉七部集『冬の日』の連句を、アニメ作家35名が、3年をかけて制作した作品だそうだ。
どうしよう。はやくも興味をひきたてられてしまった。
Amazon.comにしてもbk1にしても、利用者である私が過去に購入した商品の傾向をきっちり調べていて、薄気味悪いくらいにこちらの好みをピタリと当ててくる。いかにも私が食いつきそうな作品を選んでは、これはどうだ、あれを買わないかと購買意欲をそそってくる。私が喜んで財布のヒモを緩める作品がどういうものかを、ちゃんとわかっているらしい。
見透かされているのが、ちょっと、くやしいし、少しだけ気持ち悪くもある。
「川本喜八郎の構想のもと、ユーリ=ノルシュティンら世界屈指のアニメ作家たちのコラボレーションが実現」との売り口上を、つぶさに読んでいく。
そして、アニメーション作家のお歴々の名前に思わずのけぞる。
ユーリ=ノルシュテイン、川本喜八郎、ラウルセルベ、王柏栄、高畑勲、山村浩二……。
なんだ! なんだ! なんだ!
ものすごいメンバーだ。
いったい誰が、こんな企画をたてたのだろう?
このメンバーが手がける、松尾芭蕉の連句のアニメ化作品。
お値段は、定価¥36,000のところをお安くしていただいて、¥30,600だそうだ。
うわあ……。
*『ガンダムSEED』のあらすじを読む*(2003.10.6)
私が子どものころ、『機動戦士ガンダム』というアニメが大流行していた。
ガンダムというのは、未来のロボット兵器だ。いや、人間が乗り込んで操縦するのだから、ロボットじゃないな。人間型をした装甲兵器という感じのものだ。作品の中では、モビルスーツと表記されていた。
このモビルスーツを操る敵味方が、ドンパチ宇宙戦争を繰り広げるといった内容のSF作品だったと思う。
思う、と言うのは、私はこのアニメをちゃんと観たことが一度もない。だから、モビルスーツは、モビラスーツだったかも知れないし、モブルスーツだったかも知れない。極めて記憶がおぼろげだ。
当時の私は、このガンダムのプラモデルに強く興味を持ったけれど、本編のアニメ作品の方には、とんと、興味を引かれなかった。
インターネットで調べたら、ガンダムはシリーズになっているそうだ。ウルトラマンシリーズや仮面ライダーシリーズのようなものだろうか?
いちばん新しいシリーズは、『ガンダムSEED』というそうだ。それも、知らなかった。
最近、最終回を迎え、テレビ放送が終わったとのことだ。
インターネットで詳しいあらすじを見つけたので、読んでみる。
……。
あらすじを読んだかぎりの感想では、思わせぶりなだけのプロットと、矛盾だらけの主要人物たちの言動、という印象を強く受けた。しかし、思いがけず楽しめるプロットだったので驚いた。おそらく、製作者の意図とはまったく別のところでではあろうが。……登場人物たちの言動に、大笑いできたのである。
ちなみに、このアニメには、主人公の男の子が、女の子にたらし込まれるというシーンがあるそうだ。
女の子はどうして彼をたらし込まねばならないかというと、彼女は、父親を殺した憎い敵に復讐したい。だから、軍に入隊する。しかし、それだけでは、復讐にならない。主人公の彼はとっても有能なガンダムのパイロットなので、彼に敵をどんどん殺してもらおう、と彼女は思い立つ。
が、主人公は民間人なので、ドンパチやる必要がない。
復讐のためには、主人公の彼に軍人になってもらわなければならない。だから、身体で彼をとりこにし、彼が彼女のために積極的に敵を倒すことで、復讐を遂げようとする。
私を抱けるのは、兵隊さん、だけよ。うっふん……。うぶな主人公は、いとも簡単に罠にかかり、彼女のとりこになる。こうなれば、あとは彼女の思惑どおり。
男っていうのは、女の子の前でいいカッコしたがるもんだ。女の子にいい顔するためにガンダムを乗り回して、セッセと人殺しに励む主人公。
弟にもあらすじを読ませてみると、弟はこの部分に引っ掛かった。
「う〜ん、おれなら、こういう展開にはしないなあ」
と弟は言う。
ほう。では、どうすると?
「まったく逆の展開のほうが、面白いでしょ」
具体的には?
「主人公の男の子が、まんまとたらし込まれるところまではおんなじなの。で、彼はベッドの上で、女の子といちゃいちゃする味を覚えると。なんて楽しいんだ! 好きなひとといちゃいちゃするのって、なんて素晴しいんだ! と彼は思う。朝から晩まで、ずっとずっといちゃいちゃしていたい。つまり、戦争なんて馬鹿らしくなるんだな。女の子は戦争に行けって言うんだけれど、彼は、しあわせすぎて、ガンダムの操縦などという殺伐としたことをする気なんて、これっぽっちもない人間になる。彼女は歯ぎしりする!」
がはは!
それ、おもしろい!
気に入った。
一日は24時間こっきりしかない。戦争なんてネクラなことをやっているまに、恋人といちゃいちゃする時間はなくなってしまう。気づけ、主人公。
「恋をしながら戦場を放棄できないような人間に、いちゃいちゃの何がわかる!」
とか、主人公が叫んだりするシーンがあったりすると、いい。
「モビルスーツなど笑止! 君の香りのかすかに残る白いシーツに比べれば!」
と、決め文句をはなてば、敵も
「愛? 平和? 愛は知らずとも、親切はできる。……ワシのような者でもな」
と切り返す。
ううむ。どんどんイメージがわいてくる。
これは、良いストーリーになりそうだ。こういうガンダムは、ぜひとも観てみたい。
*W=E=サイードとアントニオ=ネグリの本*(2003.10.4)
W=E=サイードが死んだ。
アメリカとアラブ諸国との力関係について、独自の視点で鋭く批判的な意見を発してきたサイードの死。
長く闘病を続けていらっしゃるとは聞いていたのだが、まったく残念だ。
というわけで、彼の最近の著書『戦争とプロパガンダ』を購入する。
この本は、日本独自の編集で「9.11」前後の発言八篇を集めたものだ。
サイードは、今のアメリカ国民、そして日本国民の状況を「危険な無自覚」という短い言葉で、見事に言い表している。
政治的なお勉強の本だが、やはり、こういう本もちゃんと読んでおかなければならない。
というわけで、同傾向の本をもう一冊。
アントニオ=ネグリの『マルクスを超えるマルクス』も購入する。
思わずのけ反る、すんごいタイトルだ。ページを開くと、文字がびっちりと詰まっている。用語も難解だ。読みこなすことができるだろうか?
この本の中で、ネグリは、資本家と労働者の社会的関係を考察するだけでなく、貨幣経済そのものを鋭く批判している。
「我々は価値に先行して存在しているわけではない。我々は価値の中で存在している。我々がいるのは、貨幣によって作られた世界の中である」
と論破している。
む、難しいな。
(;^-^ゞ
つまり、搾取されながらあくせく働く労働者も、稼いだお金で商品を買うさいには、消費者としての権利を行使する立場であり、貨幣制度は資本主義社会の矛盾の中で深く根を張っている。と、そういうことをおっしゃっているようだ。
過激〜!
(;^_^ A
「(資本主義社会においては)価値は、貨幣の排泄物に過ぎない。(略)貨幣はひとつの顔しか持たない。支配者の顔である」
とまでおっしゃっている。市場特有の自由と平等は、結局のところ、二重の仕方による権力の行使でしかなく、つまりは自由でも平等でもない、とのことらしい。
ドヒー!!
SFだよね、まったく。
マルクスが一般市民に受けない理由というのも、このあたりにあるような気がしてきた。
自分をふんじばっている連中の権力を攻撃することには夢中になれても、自分が大事に大事に抱えているちっぽけな権力は、やっぱり手放したくないという心理は、あると思う。
自由と平等も、マジになって突き詰めれば、個人の勇気がやはり必要になってくる。というか、何を断念し、何を得るかについて、ちゃんと理解していなければ、正しい行動は生まれないだろう。
私は、例のイラク戦争開始以後、自分自身に対してSF的な発想法を強く望んできた。
つまり、未来の人類がどうなってしまうかについて、本気で考えなければならないときが来たと感じたのだ。
日記を読み返すと、開戦直後から、文体まで変化してしまっている。
結構、劇的に変化しているものだな。
もう猶予はない。明日のばしにはできない。今、この瞬間から、SFを読み出さなくてはと私は思ったのだ。
私たちは私たちの言う「現実」というフィクションのまっただ中にいる。「現実」というフィクションの中を日々さまよいながら、貨幣の排泄物を価値と称して世界を規定している。この「現実」という名のフィクションに対抗できるのは、もちろん、SFだ。
サイエンス・フィクションだ。
人間とは、何か?
価値とは、貨幣の排泄物のことなのか?
われわれは、どこへゆくのか?
もっとSFを!
マルクスは、人々が労働から解放される世界を夢見ていたそうだ。
労働者の、労働からの解放!
マルクスのその世界では、ひとは、自分の労働への欲求を満足させるためにだけ働くそうだ。
なんつー、夢想! すんごい、過激!
SFのなかのSFだ。
馬鹿なことだ、あり得っこない、おとぎ話にすぎん、と我々は言うだろうか?
しかし、私たちの「現実」を見てみなよ。
過労死で死ぬ若者があとを絶たず、ノイローゼになって登社できなくなる会社員がぞくぞくと出るいっぽう、働きたくても就職できずにいるひとたちがあちこちで列を作っている。
これが、うまくいっている社会ですか?
アホみたいだ。宇宙人がこれを見たら、なんと思うだろう。
働き過ぎで死ぬ、仕事がなくて死ぬ。このふたつのことが、同時に起きている。
どうしろと言うんだ。
こんな仕組みは、我々に死ねと言っているのと同じことだ。
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