*空想から科学からSFへ*(2009.7.25)
「異なるのは性かもしれない、年収かもしれない。話し方、着こなし、物腰、肌の色や、頭や脚の数かもしれない。つまり、性のエイリアンがあり、社会の、文化のエイリアンがあり、その究極に種族としてのエイリアンがくるわけです。
SFにおいて、社会的エイリアンはどう扱われているでしょうか。マルクス主義用語で言うところの“プロレタリアート”なる人々。彼らはどこにいるのでしょう」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『アメリカSFと他者』〜
「見た瞬間に思ったよ。これが未来のインターフェイスだって。疑問の余地なんかなかった。未来に向けた一方通行のドアみたいなもので、そこを通ったら戻ってくることなんかありえない。それくらい劇的にコンピューターの使い方が変わると思ったんだ」
〜スティーヴ=ウォズニアック『アップルを創った怪物』〜
「共産主義は、産業革命で分散するまでの部族や拡大家族がやっていたように、産業化された国家でも、人々の世話、とりわけ子どもや老人や障害者の世話がうまくできるようにと、カール・マルクスが考え出した経済体系です。
私は思うのですが、もしかすると共産主義の悪口をあまりいわないほうが賢明かもしれません」
〜カート=ヴォネガット『追憶のハルマゲドン』〜
「恐怖の連続。それが奴隷の一生だ」
〜映画『ブレードランナー』〜
本日のオープニング・ミュージック、スタート(音楽を聴きながら読み進めて下さい、○クス、¥ゲルスふたりはプリキュア)。
『アインシュタイン交点』ならぬ、『マルクス交点』!
ネット書店BK1の予約のコーナーでSF本を探していて吹き出した。いや、歓喜した。
大月書店さん発行の
マルクス&エンゲルス著『共産党宣言』とエンゲルス著『空想から科学へ』がSFに分類されているう!
おんぎゃあ、どんぴしゃ! そうだ! えらい!
どこからどう眺めたって、
『共産党宣言』はSFだわな!
(^_^;)
いやあ、BK1にはもののわかった書店員がいらっしゃるんだなあ!
ものごっつウケたので、予約させていただきました、『共産党宣言』と『空想から科学へ』。
私って結構、ノリのいい人間なのよ。
(^_^;)
--☆---
ピラミッド型の巨大なビルディングに暮す一部の特権階級が世界を見下ろしている、そんな未来世界。
人間以下の下層階級であるアンドロイドが派遣労働先から脱出、反乱を起こして……。
『ブレードランナー』は階級闘争SFとしても観れます(もっとも、私がこの映画を最初に観たときは、階級なんていう言葉すら知らなかった。でも、言葉は知らなくても、言いたがっていることは理解したよ)。
ネクサス6☆アンドロイド、バッティの共産党宣言。
こういうこと書くとまた牽強付会と叱れるかな。
(;^-^ゞ
だけど、原作者のP=K=ディックは、ヴォネガットの処女作『プレイヤーピアノ』を読んで、
「これこそ私がいつも書こうとしていることだ!」
と言ってたよ。
あ、ちなみに、愛について何かを知りたければ、P=K=ディックの『流れよ我が涙と警官は言った』を読みたまえ。
*俺には口が無いそれでも俺は叫ぶ*(2009.7.21)
「人間の文明はその臆病さとその卑屈さと屈辱の上に築かれているから、人間はそれを自己の尊厳だと言っている」
〜ジョージ=バーナード=ショウ『人と超人』〜
「自由は冷たく、うつろで、人をおびえさせる。嘘はしばしば暖かく、美しい」
〜ジョージ=R=R=マーティン『龍と十字架の道』〜
「四十八にもならぬのに世をはかなむ人間は、ものを知りすぎている。
四十八をすぎても楽天家だったら、そいつはものを知らなさすぎる」
〜マーク=トウェイン〜
フラッシュ動画がどういうわけか死んでいるようなので、リアルプレイヤー版でしか観れないが。
『ドキュメンタリーナウ ジャパン』から動画、
『スラヴォイ・ジジェクとの対話』
私は、ジジェク(であろうと誰であろうと)の言うテロ容認論や、過去のNATO軍のユーゴ空爆容認論にはまったく同意しない。
が、私は根っからのペシミストだ。ペシミズムが趣味だと言ってもいいかもしれない。
そうした理論や議論とはまた別の、世界を眺めるときの色調というか、世界と向き合うときの角度の部分で、ジジェクに共感してしまうところは、確かにある。
そして、彼が最後に言う、
「行動よりも理論を大切に」
という臍の曲がった主張は理解できる。
昨日よりもほんの少しだけよくなっていく明日、という理論の道筋を、「なぜ?」「どうして?」とひとつひとつ問いながら、じりじりと前へ進んでいく。
一歩ずつ、だ。一歩以上、前に進んではいけない。それは明日の一歩だ。
お湯を注いで3分まてばできあがり、などというものは、きっとどこかで、体に悪い。
一歩進んで、耳を澄まし、じっと待つ。
少なくとも私はそんなふうにしか生きられない。
生まれてくる場所を間違えた、とも思う。
けれども、この歩みはどこまでも続き、最終目的地というものを持たない。
そして私は、その道を、徹頭徹尾悲観しながら行く。
「次に生まれるならアナレスで」
--☆---
私たちの友人、チャーリー=チャップリンからのメッセージ。
*規制と介入*(2009.7.18)
「地球人はバカだからな。心があるのと心がある様に見えるのは同じことだと思う」
〜長谷川裕一『マップス』〜
「長年にわたり、ワシントンの上層部から発せられてきた見解を見ると、「民主主義」が、「選挙」および「市民的自由」と等値されるのがせいぜいということがはっきりわかる。仕事や食料、住む場所すら、ワシントン式民主主義には含まれていないのである。
それゆえお腹を空かせ、家を失い、病気で治療も受けられず、読み書きもほとんどできず、仕事がなく、拷問の標的となる人々が大勢いて、その家族や友人たちが国家の黙認の元で失踪し殺害されるような国でも、「民主主義」であるということが可能になる。ちなみにギリシャ語における「民主主義(デモクラシー)」という言葉の原義は「人民の統治」である。つまり、こうした生活を、人々が実際に望んでいるということを含意している。
2年おきか4年おきに投票所を訪れ、人々の悲惨な状況を救済すると約束しながら実際は何もしない候補者の名前にマークをつける権利を人々が持っている限りにおいて、そしてまた、権力や社会の仕組みに関する見解を、それを表明することが現状に何らかの影響を与えうるかどうかにかかわらず、処罰される恐れなしに表明することができるような最低限の自由が少なくとも存在する限りにおいて---その影響力は、おおむね、どれだけのお金を持っているかによって決まるのだが---それを米国は「民主主義」と呼ぶのである」
〜ウィリアム=ブルム『アメリカの国家犯罪全書』〜
8月30日に衆議院選挙だそうだ。
また選挙か。選挙と聞いただけで気持ちが陰鬱になる。
日本をとりまくなにもかもが勝ち負けに集約され、投票日まで戦慄すべき日々を送り、投票日が終われば今度は、結果に愕然となって病気になる、というひとつの流れが、私にとっての選挙だ。
なんとなくわかったつもりになり、しかし、正確な実体や展望というものは誰も何も知らない、という日本の現状はそのままに、「さすがに、これまでと同じではいられない」という程度のことをわかって行う選挙戦。
「今までと同じではいられない」からどうなのか。具体的には
「規制」と「介入」だ。
教育問題から北朝鮮との国交まで、エロゲーから地球温暖化まで、排外主義的言説から社会主義思想まで、問題は多岐にわたり立場もさまざまだが、「規制」と「介入」の問題こそが、今、もっとも語られなければならないはずだ。
排他的民族主義者たちが「歴史教科書に介入しろ」と言えば、
私のようななんちゃって左翼が「民間企業の利潤第一主義を規制すべきだ」と言う。
繰り返すが、さまざまな次元でさまざまなことが語られうる。とことん語り合うべきだ。
こうした「規制」と「介入」にまつわる議論こそが、今もっとも重要だと思う。
しかし、この国の政府機関においてさえ、内容を伴った議論というものが行われた形跡はなく、おそらくこれからも行われることはないだろう。
さらに奇妙なことに、
議論はないのに合意だけはある。
そして、「今までと同じではいられない」という理由で事態だけが推移していく。とってつけたような対立軸というものだけはいやというほど喧伝される。……「自民VS民主」、「霞ヶ関VS知事たち」、「公務員VS民間」、
対立の構図がテレビを通じてわかりやすくお茶の間に届けられ、そして気づけば合意だ。
議論というものがない合意とは、どういうことか。
仮にも民主主義国家を標榜しているにもかかわらず、この国では、一部の特権階級以外は政治にいっさい口出しができない、ということだ。
口出しどころか、議論自体が存在しないのだから、説明責任もまた、ない。
ないないづくしのないづくし。
私たちは、政権交代が果たして現実に起こりうるか、そんなことに一喜一憂していればいい。
または、宮崎県知事がこう発言し、それを受けて、ビートたけしがああ言った、というような、価値も意味もいっさいない話題に注目をしていればいい。
規制するのはあの知事か、介入するのはあの政党か。
そういった難しいことはぜんぶ強烈なキャラクターのあの人たちにおまかせだ、と新聞が語りかける。
ああ、選挙は嫌だ。
茶番の選挙は私を痛めつける。
こんなふうに。
この恐怖。
ホーマー=シンプソンにあるのは“投票する権利”のみだ。
我々の民主主義……。
*デートムービー*(2009.7.15)
「実業家の好きな言葉に、「利益こそが絶対だ」というのがある。言いたがらないのは「勘定は私が持ちます」ってセリフだ。連中が数字といえばそれは利益のことだ。
あんた、資本主義におけるこの教訓を楽しんでるかい?」
〜マイケル=ムーア〜
「労働者の立場から言わせてもらいますわ
労働者を守れない会社にはなんの価値もありません
労働者を守ることができないのなら 会社の経営なんかしないでください!!」
〜東風孝広『特上カバチ!!』17巻〜
「お前を永遠に愛すると言うことは、お前が生きているあいだじゅう蝋燭が燃えつづけると言うに等しい」
〜トルストイ『クロイツェル・ソナタ』〜
フランスの新聞、ル・モンドの戦慄すべき見出し。
『日本では、酷使によって労働者が殺されている』
過労死で人が死んでいく一方、仕事がなくて餓死する人間が出る国。日本。
あ、ハトヤマ弟に言わせると、人が自殺するのは、遺伝子の問題なんだっけ?
「自殺というのには、やはり何らかのDNAが働いているのではないかと言われている」って、すごいな。言われているって、誰が言ってんだよ。
(^_^;)
日本全国津々浦々で多発する自殺を、日本の社会保障制度のせいにするなんてとんでもない!
と、こうおっしゃりたいのはよくわかります。
過労死も何らかのDNAが働いているのかな。
(^_^;)
いえー、痛みに耐えてるか〜い? えぶりぼで。
こんな“構造改革後”のせちがらさのまっただなかで、世界的“抵抗勢力”のマイケル=ムーアの最新作情報。
今度は、なんとデートムービーなんだってさ!
いや、ホラでも何でもなくて、本人が言ってんだわ!
「そろそろ"恋愛映画"を作ろうと思ったんだ。完璧なデートムービーになるよ」
「すべてが入っているんだ---、欲望、情熱、ロマンス、そして毎日解雇されている14,000の人々」
「これは禁じられた愛であり、誰もその名前を口にしようとはしない。もう言ってしまえばいい、それが資本主義"なんだ!」
タイトルも決定。
『Capitalism: A Love Story』
『資本主義:ある愛の物語』
マイケル=ムーア、あんたは、えらい! よくぞ言った!
*目覚めると私は肌寒い丘にいた*(2009.7.13)
「これほど豊かに提供されるものを受け取れるほど彼は強くなかった。(略)
誰かの長ったらしくくだらない夢の話を、微に入り細をうかがってえんえんと聞かされるのに似ている。彼は銀行がどう機能するのかというようなことを、しいて理解する気にはなれなかった」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
「愛は硬くて悲しくて汚いことば、冷たいことば、古いことばです。
色んな意味をいっぱい詰め込みながら、ほとんど何も約束していない」
〜コードウェイナー=スミス『クラウン・タウンの死婦人』〜
「遠くへ、もっと遠くへと、病んだ男はむりやりに視線を伸ばし、見るものすべてを丹念に焼き付ける。まるで、このすべてを再現するのがいつか任務になるかもしれないと思っているみたいに」
〜シオドア=スタージョン『海を失った男』〜
昨日は都議選の投票日だったわけだが、奈良市的には、市議会選挙の投票日だった。
各候補者の街宣車が走り回る一週間も終わりを告げた。
投票日の前日には、排気ガスをまき散らしながら市内で車を走らせているあいだにも、最後のお願いに奔走する街宣車と何度もすれ違った。
スピーカー越しの声で何の脈略もなく唐突に、
「最後のお願いにあがりました!」
と、せっぱ詰まった声でお願いされると、お馴染の「選挙戦のどんづまり」感が街に漂いだす。とにかく、翌日が投票日なのだから、すんなりとはわかりにくい政策などの話はこのさい脇に放り出されて、多くの候補者が、「貴重なあなたの一票を私に」のお願い合戦だ。
明日投票日ともなれば、もはや時間がない、しかしその限られた時間の中で、最後まで頑張り抜く。そういう姿勢を必死な語調に託して、街の人々にうったえ続けていた。こんなに頑張り抜いている私は、候補者です。だから、明日の投票日にはなにとぞ投票所に出向き、投票用紙に私の名前を書いて欲しい、という一点張りのお願い。
妙にへりくだった調子で行う「最後のお願い」を一方的に受け止めることの違和感。いたたまれなさ。何しろこちらには、スピーカーごしにお願いされるいわれもなにもないし、そもそも、お願いされても困るのだ。
奈良市市民じゃないからね。
(;^_^ A
誰かからお願いをされて、ある候補者の名前を投票用紙に書く。冗談にも、そこまでハシタナイ人間なのだと身も知らぬ人間からスピーカーで侮蔑されて、さすがに心穏やかというわけにはいかない。
「奈良市から政権交代を!」
「若さ!若さの○○です!」
そんな、奈良市そして奈良市民が抱える抜き差しならない緒問題と大きくかけ離れた、ぶっちゃけどうでもいいことを熱心にさとし、それをもって投票とお願いの根拠とする、という自分たちのありように、疑問を抱くことはないのか。
私にとっての投票行動とは、考え、わかろうとする行為の先にある。当たり前といえば当たり前なのだが。しかし、考え、わかろうとするためには、考えるための材料を集めることも必要になる。めんどうくさいことは大嫌いだが、仕方がない。「理屈の道筋」をたどるためにどうしても必要な作業というものはある。
とはいえ、日常の暮しの中で、あちらからあの候補への投票のお願いをされ、こちらからこの候補への投票のお願いをされる、というようなことはたびたびだ。
付きあい上、もしくは仕事上、むげには断れない。相手には、お茶を濁したような言葉を発するしかない。閉口するし、自己嫌悪にもなる。なんと面倒なことか。
しかし、誰にどうお願いされたとしても、言葉の上ではどう相手に返答したとしても、私にとっての投票行動とは、「理屈の道筋」をたどった上での、自分自身が導き出した解答としての行動だ。より良い明日は、「理屈の道筋」の積み重ねによって実現されていくものだと信じているから。
夕暮れの奈良市内を、また新たな街宣車が走りすぎた。
「民主党、民主党、民主党、民主党、民主党、民主党の○○○です。民主党、民主党、民主党の○○○です」
民主党候補者の街宣車だ。
誰もが民主党に投票したがっている。
その、誰もが投票したい民主党の候補者は、ここに、この車に乗っていますよ、スピーカーでお知らせいたします、素晴らしい明日が待っていますよ、と、それだけを伝えんがための政党名連呼だ。
民主党に恨みがあるわけではない。日本における、いわゆる選挙戦の典型のようなものを見た、というだけのことだ。
そして、議会制民主主義という制度を曲がりなりにも尊重するなら、市民は投票行動が自分たちの意志を示す大きな機会だということを理解していなくてはならない。
ありきたりだが、テレビ広告が言う「投票行動が大切だ」というクドイ話の再確認だ。
と言っても、「投票」のためにまず必要な現状認識、ざっとした分析、各候補の公約の確認と下調べ、ごく初歩的な勉強、というものが問題として立ちはだかってくる。
難しいことはわからない。わかるために考えたくもない。勉強なんていやだ。この危機的な時代に、有権者の誰もが日常のあれやこれやにかまけるだけでせいいっぱいなのだ。だから、投票にあたって各候補者は「難しいことをわかるための努力をいっそきれいさっぱり放棄し、ただ「○○党」「○○候補」とだけわかっていればいいのですよ」と、街宣車の車内から道行く人々に訴えかけていた。
「○○党」と「○○党の候補者」とさえわかってさえいれば、より良い明日というものがもうすでに半ば以上実現している、そう思ってもらってもけっこうですよ、と。
そして、今や事態ははっきりしてきた。勝馬は民主党だ。……私たちの認識では、政治の分析とは、勝馬を探り当てることにほかならない。どの予想屋も、民主党に太鼓判を押している。このレースは堅い、と。
だからこそ、あの街宣車はどこまでもどこまでもひたすらに「民主党、民主党」と連呼し続けていたのだ。
そうか、今の日本は、そうなのか。
飲み込めないものを無理やりに飲み込むように、私は納得してみせようと努力する。
--☆---
静岡県知事選挙の結果には、正直、驚かされた。
改憲派の、新自由主義者の、土着的かつ排外的民族主義者の、“民主党”の、候補者に社民党が相乗りしたこと。
そして、この候補者に多くの県民が投票し、結果、見事当選したことだ。
「民主党」であるということ以外はすべて不問に付される
という現状が作りだす新しい日本社会とは、果たしてどのようなものなのだろうか。
そんなものわからない、考えてどうするんですか、簡単ではない、みんな頑張っている、とりあえず政権交代、うんたらかんたら。
そんな、街角の“生の声”とやらをテレビごしに聞かされるなど、ごめんこうむる。
ひどい頭痛にバファリンを2錠飲み、車を走らせた。奈良市内から抜け出し、ラジオもつけず、音楽も流さず、私は不吉さにいたたまれず運転席でぶつぶつとつぶやく。
「いずれこうなると思っていた」
*何を観ても何かを思いだす*(2009.7.11)
「「グレッチ! まともに考えろよ!」
「「できない。取り憑かれているから」
「なにに取り憑かれておいでなのですか、ナンさん」
「投影です」」
〜アルフレッド=ベスター『ゴーレム100』〜
「「なぜだか考えてみましたか?」クロムウェルが反問した。
「ううん、まだ」
「ただ質問するのでなく、まずそれを考えてみなければいけません。でないと、しまいには、自分が信用できなくなって、ほかの人に考えてもらわなければならなくなります」
「わあ……そんなのいやだ」」
〜ジェイムズ=P=ホーガン『断絶への航海』〜
「信じる者が懐疑論者よりも幸せな事実は、酔った人間が、しらふの人間より幸せなのと同じくらい的を得ている」
〜バーナード=ショー〜
昔から、邦画を観るのが苦手だった。昔から、というのは、かたっぱしから映画を鑑賞するという時代を経て、作品の良し悪しを自分なりに判断できるようになったあたりのころをさす。いわゆる思春期、と言われる年ごろのことだ。
そのころからどちらかというと邦画が苦手で、年齢をかさねるごとにその度合いは深まっていった。
なぜ邦画が苦手なのか、というと、映画ひとつ観ても、そこに、暗澹たる日本の未来像がそこにすけて見えるからだ、と、本人はそう自己分析をしている。
例外はあるにしても、「暗澹たる日本の未来」という不吉なヴィジョンを、あちらの邦画、こちらの邦画から感じる。
私には、国民全体に深く浸透してしまっている「救いがたいまでの勉強不足」という現状認識がまずある。しかし、その「救いがたいまでの勉強不足」をなんら改善することなしに、むしろ
「救いがたいまでの勉強不足」という状態に気持ちよくあぐらをかいていたい、どうしたらいいか、という国民の要望に応じる
ための娯楽、というひとつの巨大なジャンルとして、邦画というものがあったりする。
「勉強不足という状態にあぐらをかいて気持ちよくいたい」人たちのための、「勉強不足という状態にあぐらをかきつつも、フィクションとして気持ちよい」映画は、それこそ無数にある。
反戦映画、教育映画、人権映画、というふれこみで宣伝がなされていても、ふたを開けてみればたいていこの種の映画だ。
インスタントカップ麺のラベルには「狐うどん」「狸そば」「豚骨ラーメン」と書いていても、それはぜんぶ香料と化学調味料の味でしかない……でも見た目はうどんだし、そばだよ、というようなたぐいの説得力しか持ちえない社会。
うわ、もうだめだ、とてもこれ以上は観ていられない、かんべんしてほしい、と私は思う。だから苦手だ。
暗い、わからない、難しい、不快、そんなものはぜんぶ切り捨てて、明るくて、わかりやすくて、とにかく感動したり癒されたりしていたい、という日本国民のありようの縮図のようなものを、邦画にみることも可能だということだ。
不況と頭打ちの時代、不安と激動の時代、いま、日本の現状を表す言葉として様々な言い方がなされているが、あれやこれやの事象の原因をひとことに要約すれば、結局のところ、日本という国は、「手に負えないほどに積み重なった勉強不足の時代」のまったっだなかなのではないかと思う。
……とうとう、新作『蟹工船』が完成し、上映が始まっているようだ。
出来栄えはどうか、だって?
ここでは、『まどぎわ通信』さんの評を紹介しておく。
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結論として本作は反則ギリギリのパロディ的な笑いを取る方向に打って出た.身も蓋もない書き方をすれば,格差社会の最底辺層がわざわざ1800円の金を出して映画館まで足を運ぶのかと言われればそれまでだ.非常に現実的な判断であるものの,では逆にどんな層を狙ったのかが見えてこない.「物語を咀嚼して間口を広げる」という言葉は響きがいい.しかし本作の描き方は格差社会に対する問題意識がないことを反映しているとも言える.主要な台詞やシチュエーションだけはきちんとつまみ食いしているところが皮肉だ.いずれにせよ小林多喜二が糾弾しようとした側に物語が囚われていく悲喜劇に苦笑するしかない.敢えてそういうスタンスを貫いたのなら凄いが,映画の描き方は極めて表層的だ.個人的には現代に「蟹工船」を甦らせるなら,ソ連崩壊後の社会をどう組み込むかに興味があったが,本作はこの点も華麗にスルーする.そういう意味でも「現実的」な作品だ.
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もはや、言葉もない。
これを観てあれを思う。
『非国民通信』さんから、ずばりのタイトル
『自民は破れて極右が台頭する』
『気まぐれな日々』さんから、やはりのタイトル
『橋下に秋波を送る民主党は「首長ペンタゴン」と野合するのか』
難しいもの、勉強が必要なもの、面倒なものは切り捨てていくという態度の元に消え去っていくものの例として、例えば映画におけるディティールの豊かさというものがあり、また、いっぽうで、切り捨てられてそれっきりになる労働者たち、というものもある。停滞する邦画の質、広がる貧富の格差、さまざまなことが切実さをともなって語られてはいるが、核心はひとつだ。
*レドラム病2*(2009.7.5)
「人類の圧倒的多数が、「二たす二は四になる可能性があると思います」といわれるよりは、「二たす二は五だ。夢うたがうことなかれ」といわれる方を好むということは、われわれ合理主義者にとって悲しい事実である」
〜アイザック=アシモフ『わが惑星、そは汝のもの』〜
「つまりぼくたちはいま、大和小学校国に住む 大和小学校国民なのです。
だからいっこくもはやく、総理大臣をみんなの投票で決めるのです。
そうしないと、とうぜん こんどみたいに 分裂さわぎがおきます。 」
「でもあの人は、あまりに き、き、き、きけんすぎます。思いやりが欠けるからです。きっとこれから、今よりもっと はげしい 恐こうが おきると思います。」
〜楳図かずお『漂流教室』〜
「社会がより自由で多様になるとともに、服従を促す作業はますます複雑になり、そして教化のメカニズムが解体することで、ますますその手腕が問われるようになった。学術的な関心はさておこう。自由社会の場合には、自分たちのことについて語り合い、学んだことに従って決定できるのだから、より偉大な人間的優位性がある。そうであるからこそ、〈社会において〉支配的な文化は、常に人間の関心を形式的に扱うよう務め、自分以外の人間をののしるように仕向けるのである」
〜『チョムスキーの「アナキズム論』〜
東国原さんが自分の権力欲をむき出しにして、語っておられます。
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宮崎県の東国原英夫知事は1日、高千穂町で開いた県民との対話集会で、自民党から立候補を要請されている次期衆院選に関し「僕が行けば自民党は負けない。負けさせない。負けたら地方分権ができない」と述べ、立候補した場合は政権交代阻止に全力を挙げる考えを示した。
自民党を選択した理由として「民主党は次期代表選で私を選ばないだろう。自民党総裁になる方が可能性、確率は高い」と説明。次期党総裁候補にすることなど、自らが提示した条件を自民党が受け入れた場合について「(国民は)党が変わった、変革したと思うだろう」と指摘した。
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ひえー。すごいね……。
度し難い思い上がりと、臆面のなさと、無知と、無知を恥と思わぬ傲慢さと、建設的な内容というものをまったく伴っていないことから来る脆弱さといったものが渾然一体となった彼の発言は、実は、まさに日本の現状そのものだ。……と私は思う。
内容というものはいっさい伴わないままに、とにかく言い張る、乱暴な言葉を放り出す。
物事を過度に単純化し、不利を感じたら手当たり次第に攻撃する。
そうした
「下世話さと無残さ」を唯一のよりどころ
として、改革だの維新だのという「ごっこ」が今日も繰り広げられる。
理論も反省もなにもないのだから、あるのはかけ声だけだ。もしくは、「後は野となれ山となれ」という姿勢を、理論と言い張っているだけだ。
そして、失敗がいつまでも続いていく。
失敗の連続の結果として、ありとあらゆる物事が、ありとあらゆる次元において、とめどなく失墜していく。この、何もかもが失墜していくという前代未聞の苦境の中で、その苦境と格闘する、強烈なキャラクターを持つヒーローが必要なのだ、と、哀れにも私たちは信じたくて、だからテレビ新聞の報道を丸ごと受け止める。
あっちの知事がずけずけと発言した、こっちの知事がその場のノリでああ言った。当の発言者とその信奉者だけが何とか共有し、しかし、日本から一歩でも外に出ればまったく通用しないような発言やふるまいだけが積み重なっていく。
とことんすさみきったありさまを前に、
これがまた、どこから降ってわいてくるのか、こともあろうに「品格」などという言葉を振りかざす。
(^_^;)
「僕が行けば自民党は負けない」というこの言葉に、日本のより良い未来も、国民の幸福も、政策も、方針も、実はハナから組み込まれていない。組み込まれているのは、空疎な希望だけだ。
私もあなたも希望だけを抱いていればいい。
(^_^;)
つーか、
ハダカの王様を実写化したら、あまりの生々しい醜悪さと無残さに、声もでなかったという。
(^_^;)
おまけ。
「国旗・国歌が嫌いな教員は辞めるしかない」知事発言にメール殺到 支持が9割」
=====================
埼玉県の上田清司知事が「日本の国旗や国歌が嫌いな教員は辞めるしかない」と県議会で発言したことを受け、県庁にメールが殺到していることが2日、分かった。このうち9割以上が「知事に同感」という意見という。
県によると、メールは2日午後5時現在で477通。このうち457通が「知事に同感する」という意見。電話での意見も13件あり、11件が知事に同感するとの意見だった。
=====================
うわあ!
レドラム病・実写版。しゃれにならない日本の現状は今ココ。
redrum(レドラム)を鏡に映して読むとmurder(殺人)になります。
んで、日本のあちこちで、こういう事態が巻き起こっております。
本当にしゃれになりません。
しかし、これを日本のメディアが報道するとこうなったりします。
*パンと植木鉢*(2009.7.3)
「抑圧的な環境の下で民主主義を確立することはできない。規則に基づいて話さねばならないところで、議論したり投票したりすることは不可能だ。このプレッシャーの下で、多くの抵抗運動が自ら崩壊していった」
〜『闇からの光芒』マフマルバフ、半生を語る〜
「「ひとりひとりの個人の運命を改善することなくしては、よりよき社会の建設は不可能です。
ですから、各人が自分の運命を切り開いていこうと努力しながら、しかも同時に全人類にたいして責任をわけ持たねばならないのです。
なぜなら、自分が一番役にたってあげられる人々を助けることは、私たちひとりひとりの義務だからです」
〜キューリー夫人〜
SF翻訳でもお馴染の柳下毅一郎さんのブログ『映画評論家緊張日記』から
『モフセン・マフマルバフ「“明日”では遅すぎる」』
=====================
イラン人民は核兵器など求めていません。イラン人民は平和と民主主義を求めています。みなさん、イラン人民の声に耳を傾けてください。選挙の前には誰もが訊ねました。「イラン人民に民主主義は可能なのか?」答えはイエスです。ええ、わたしたちには民主主義の準備ができています。
=====================
マフマルバフは、ドストエフスキーやベートーベンやゴッホらと同列に扱うべき偉大な芸術家で、ここで言う芸術家とはむろん、売れる商品の作り手、などという小さい存在ではありません。
『パンと植木鉢』予告編。
『カンダハール』予告編。
*レドラム病*(2009.6.27)
「これは最終戦争でもなければ、戦争をなくすための戦争でもなかった。彼らはこれを〈アメリカの夢〉を守る戦争と読んだ。カーペンター将軍がこの音調を見つけ、ことあるごとにかき鳴らした」
〜アルフレッド=ベスター『消失トリック』〜
「アルコール中毒患者更生会に所属するわがすべての友人と親族よ---みなさんが酒に酔いしれたことは正しい。ときおりの陶酔の瞬間がない人生は、あの適切な表現のとおり、“水差しいっぱいの唾”ほどの価値もない。みなさんは陶酔のために、たまたま自分にとって猛毒であるものを選んでしまっただけである」
〜カート=ヴォネガット『死よりも悪い運命』〜
「選挙にあたり、広報やメディアは、政治の「課題」ではなく政治家の「資質」に焦点をあてる。たとえば候補者の外見や性格など、どうでもいいことに、だ。そして政党は、もはや候補者を商品とした流通システムに成り下がっている」
〜ノーム=チョムスキーの『お節介なアメリカ』〜
ここにきてようやく、ニブチンの私にもピンと来たわけ。
日本のこの現状……混乱や衰退や敗北や腐敗や冷酷さやなんやかやは、こりゃきっと
病気のせいなんだろうな、って。
インフルエンザとか狂牛病とか、なんか、そんな感じのさ。
ホラーの大家ジョージ=A=ロメロの『クレイジーズ』みたいな。
病気のせいなんだと考えたら、ぜんぶ説明がつくわな。
病気なら仕方ないわ。
東国原さんにやってもらえばいいんじゃない? 自民党の総裁。
その結果について真摯に考えるつもりもなければ、シビアにもなりきれない、ほんでもって、結果を受け止めることすら拒否し続け、パンドラの箱の底から「希望」だけをあさっている状態に気がつかない病なんだから、だ。。
コイズミ、アベ、フクダ、アソウ……。
イシハラ、ヒガシコクバル、ハシモト、モリタケンサク……。
果たされない約束は、果たされないからこそ、いつまでも私たちの希望であり続ける、おめでとう。
いっそ、非が市国バル、じゃない東国原さんには、アメリカ大統領やってもらってもいいよ。
少なくても本気度じゃあオバマに負けてないと思うんだ。
(^_^;)
某大阪府知事ハシモトが、「地方分権」グループを立ち上げるんだとかなんとか。
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橋下らの言う「地方分権」の主張はたいしたものではなく、自民党にも民主党にものめる程度のものだとテレビのコメンテーターは言う。そして、大阪で橋下が行っていることは福祉の切り捨てであり、職員とサービスを削って府の資産を売却した結果達成した「黒字化」など、橋下自身が認めるとおり「ほめられた話ではない」。だが、この件で橋下には「ろくでもないことをやっている自覚がある」とブログで叩いたところ、橋下信者たちから猛烈なバッシングを受けた。橋下信者いわく、論理のすり替えだと言うのだが、「職員とサービスの削減」が「ろくでもないこと」でなくて何なのか
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なんなんすかねえ。
(^_^;)
「「職員とサービスの削減」が「ろくでもないこと」でなくて何なのか」、それは
“改革”!
改革、それは、どこにでもぺたりと貼れる便利なレッテル。
イメージ言葉。
私たちが抱える、病気の栄養源。
議会制民主主義の利点(そして限界)について思いをはせることもなければ、過去の歴史から学ぶ姿勢もない、でも、これは流行り病なんだから仕方がない。そうあきらめることに決めた。
しかし、あきらめたと言っても、肝心なのは、この手の流行り病の行き着く先だ。
他のことはわからんが、行き着く先だけははっきりとしている。
なるべく生々しくない形で、ご説明しよう。
ハリウッドの名作を30秒のウサギアニメで紹介するサイト『angry
alien』さんから。
……『シャイニング』
レドラム!
改革の指導者が写真の中央で笑ってるね。
(^_^;)
最後に、マイケル=ムーアによるトニー=ベンのインタビュー動画を。
日本語字幕がないので、きっついが、民主主義とはそもそもなんぞや・という話。
*バルディンの現実*(2009.6.24)
それを利用し、決して悪用するな。
いつの日かそれが火の玉となって降り注ぎ、われわれを抹殺することのないように、そうだ、根こそぎにしないように」
〜ベルトルト=ブレヒト『ガリレイの生涯』〜
「これ読むのはやめとけよ。本気で言ってるんだ。「これはもしかするとあなたにも起こるかもしれません」っていう、よくある話じゃない。それよりももっと恐ろしい話だ。たった今、きみに起こっている可能性も充分にある。おまけに、終わってしまうまで気がつかないときている。それもそのはず、もともとそういうものだから」
〜シオドア=スタージョン『シジジイじゃない』〜
「少し以前に、わたしは一世紀も前の言葉に行き当たったことがあります。「考うべからざることを考える」これこそ、まさに、いまわたしたちがやらねばならないことなのです。われわれは、ひるむことなく事実を直視せねばなりません」
〜アーサー=C=クラーク『あの宇宙を愛せ』〜
私がガリー=バルディンの短編アニメ『conflict』に出会ったのは、かろうじて子どもと呼べる年齢のころで、私の弟はもしかしたらまだ小学生だったかもしれない。
マッチ箱から出てきた擬人化されたマッチ棒たちの物語だ。
マッチ箱から生まれたばかりのマッチ棒たちは、いさかいを始める。口論と小さな混乱の後に、マッチ棒たちはふたつの陣営に別れる。陣営同士の敵対的な対話がマッチ棒語で交わされた後、お互いのテリトリーが決定する。互いのテリトリーが接触する部分は、互いの合意の元に一本の境界線が引かれる。
合意の元で引かれた境界線は、血なまぐさい抗争や、暴力や、敵意や、相手を出し抜こうとする狡猾さといったものの発生地点だ。
合意の元で引かれた境界線をめぐるほんの少しだけ強引な押し引きは簡単に武器の使用へとつながり、それは戦争への引きがねとなる。ちょっとした押し引きが戦争へとエスカレートしても、境界線は膠着状態だ。境界線自体は膠着状態のまま、互いのマッチ棒たちは、決定的な勝利を模索する。
決定的な勝利に必要なのは、相手のそれを上回る暴力装置とその運用法だ。
戦争の圧倒的な暴力を相手陣営からまざまざとみせつけられたマッチ棒たちは、さらなる暴力装置を発明し、もしくは集団戦術を考案し、それを前線に送りだす。
こうして物語は、あっというまに、ある本質的な帰結へとなだれこんでゆく。
想像することすら難しいような圧倒的な暴力が、悪魔のハンマーとなってふり降ろされる。
そして……。
これ以上はあり得ないほどにシンプルな物語が、これほどまでに強力で強烈な作品となりうるというひとつの典型を、私と私の弟は『conflict』のなかに見た。
寓意、風刺、倫理、洞察、ファンタジー、そんなこんなを徹底的に蒸留し純化するというアプローチで現実に迫る。もしくは、世界と関わっていく。物語の作り手のそうした意志、世界を見る目の確かさ、才能の豊かさというものを、かろうじて子どもの私とまだまだ子どもの弟は全面的な正しさとして---その強烈な印象とともに---、直感的に理解した。太陽が昇れば朝であるのと同じように、この作品は有無を言わさず正しい。そしてそれは、リアリズムとリアリティーはまったく別の質を持ちうるという当たり前の事実の、とてつもなく高次元なレベルでの再発見でもあった。
擬人化されたマッチ棒たちの世界は高度に整理された、現実を超えたスーパー現実であり、だから
短編アニメ『conflict』は、私と私の弟にとって、現実以上の現実となった。
私の心の一部は、今もまだ、『conflict』という作品のなかで彷徨っている。
しかし、
ロシアの子どもたちは、九九を覚える前から、こんなものを観ているのか。
なのだとしたら、私たちはロシアの子どもたちにはとてもかなわない。
これは、子どもたちが大人へと成長するプロセスにおいて、決定的な差となってあらわれるはずだ……というような話を、当時の私は、5歳はなれた弟と真剣に話しあった記憶がある。
ガリー=バルディンの作品に触れた衝撃の行き着く先は、それらの良質な作品に日常のなかで触れることのできる人間の質、そして、その人間が作り維持し運営していく社会の質、といった話題だった。
もちろん、当時の私たちは知らなかったのだ。
「現実」を生きていく大人たちは、市場と市場が動かす経済が人々の幸不幸を決定すると信じており、だから世界はそのように運用され、どうやら地元ロシアですら、芸術が社会を前進させるなどとは本気で信じていなかったらしい。……というようなことを、「現実」を通して、今の私はきっちりと理解している。
日常の生活にべったりとはりつくようにしてやり過ごす「現実」というものの存在を、苦笑も出ないようなきわめてたちの悪い冗談の一種として、大人の私は受け止めている。
おまけ。
ガリー=バルディン、
マッチ棒の次は、折り紙アニメだ。
『アダージョ』
私と私の弟にとって、「現実と関わる」とは、こういうことだ。
*世にも奇妙な物語*(2009.6.22)
「「科学の流行がどのように変わろうとも、人が物事を行う様子を体系的に観察する技術は、インターフェイス設計という使命において常に中心に位置づけられるだろう。これは単なる技術ではない。これは世界をどう見るかの問題だ」
〜『人間のためのコンピューター』よりドン=ノーマン〜
「気分さえよければ真実かどうかなど気にしないというのは、金さえ手に入れば汚い金でもかまわないというのと同じくらい倫理的にたちが悪い」
〜エドマンド=ウェイ=ティール『季節のめぐり』〜
「石鹸と教育は大量殺人ほど急激な変化はないが、長い目でみればそれ以上に殺傷力がある」
〜マーク=トウェイン〜
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〈ブラジル人ブロガーのカルロス・カルドソは「いかに人々が懐疑心を持たず、“自分が信じたいと思ったことをただ信じようとするか”、またその際“コメント欄などは一切読まず、センセーショナルなヘッドラインと画像だけで脊髄反射的にコメントするか”」を実証しようと考えた〉
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何の前知識もなく、読んでみてほしい。
『Let Jesus Fuck her!』さんの
『[画像]墜落の瞬間に撮られた「信じがたい写真」』
……。
世にも奇妙な物語。
( ^∇^)σ)゜ー゜)プニッ
この世界のありようを知れば知るほど、自分の中にある気質としての「懐疑の精神」をさらに鍛えていくことの必要性を、一種の危機感のようなものとともに、私は再確認する。
もう一度くりかえす。
自分の中にある気質としての「懐疑の精神」をさらに鍛えていくことの必要性を、一種の危機感のようなものとともに、私は再確認する。
おまけ。
ジェイムズ=クラベルの『23分間の奇蹟』が、日本の短編ドラマとしてずいぶん昔に放映されたものが、ネット上にアップされておりました。
『23分間の奇蹟』1
『23分間の奇蹟』2
知事さま助けて〜。
(;^_^ A
おまけのおまけ。
正気とは何か。
正気の『フルメタルジャケット』
*スタージョンから100万光年*(2009.6.19)
「殴られることのなにが苦痛だと言って、殴られながら嘲られることだった」
〜V=E=フランクル『夜と霧』〜
「「きみってすてきな人だ」とおれは言った。「おれのもの」
「違うわよ!」幻想をしりぞけて現実に戻る、あの独特のやり方で彼女は答えた。
「あなたのものは、〈わたしたち〉の大きな部分にすぎないのよ」彼女は念入りに説明した。「他の点じゃ、あなたはあなたのもので、わたしはわたしのものなの。わかる?」」
〜シオドア=スタージョン『ジジジイじゃない』〜
「何年も何年も小銭を数えて、スケを買う金が貯まるまで待つ必要はなかった。実際、そんな風に金を盗めるのなら、女すら必要ないだろう。盗みは十分に罪だ。“よおしその市場債券をもらおうか。”債券というのがなんなのかもわからなかった。それに銃も持っていなかった。
突然手が止まり、ルウェリンは目を落として、皮むきナイフから伸びている長いポテトの皮を見つめ、そして大声で言った。「債券なら見たことあるし、銃なんか必要ない」」
〜シオドア=スタージョン『ルウェリンの犯罪』〜
「「ジョイス」
「ジョイスとそんなこと、したことあるの?」
「いや、まだ」
「できると思う?」
「きっとできる」」
〜シオドア=スタージョン『そして私のおそれはつのる』〜
絵本を売っているサイトで、今日はエロゲーの話。実に節操がない。つーか、アブノーマル。
(;^-^ゞ
私は、性別でいうと男性だが、いわゆる「エロゲー」にはまったく関心がない人間だ。ここで言う関心とは、なにかしら性的な関係性を題材にしたゲームをプレイして楽しむ、という気がまったくないという意味だ。
もちろん、現実の恋愛、当事者同士の性的関係だって、「恋愛ゲーム」という言われ方があるくらいだから、そのような関係性、到達点、“おとす”、“こます”、“結ばれる”、その他もろもろを題材としたゲームのバリエーションは、無数にあるだろう。
とはいえ、ずいぶん過去のことにはなるが、
目もくらむ官能。えもいえぬエロティックな遊び、イコール、エロゲー
というような位置づけが、いつの間にやら私の頭の内部でできあがっており、「えもいえぬ、なんともエロティックな遊び」に対する好奇心から、周囲の友人たち(すべて男性)の多くの助言を受けつつ、2本だけプレイしたことがある。
エロゲーを。
(^_^;)
そのゲームの概要はというと、ゲームのプレイヤーである私が複数いる若い女性たちの弱みを握り、その弱みを使って、いわば「ゆする」ような形でそれぞれの女性たちに性関係を強要し、配置されたすべての女性たちと見事性関係を結ぶことができたら、ゲームオーバーだ……という内容だった。
ある種の合意、というものはかろうじて成立していたから、かろうじてレイプとは言えないのかもしれないが、私、腕力に勝る側が嫌がる相手に性行為を無理強いするのは生理的にダメなので、私の個人的な趣味として、まったく不快だった。
もう一つのほうは、恋愛ゲームに性行為がくっついたような代物だった。こちらのほうも、一応エンディングまでプレイしたわけだが。
……で、なんなの?という感想。
ある種の達成感、というものは確かに存在するかもしれない。しかし、まったくエロティックじゃない!
現実の性行為にかなわない、ましてや、
頭の中でやっていることには遠く及ばない
これでは話にならない。
ね、キアロスタミ先生?
アッバス=キアロスタミ『3分間のロミオ』
(^_^;)
と、突然なぜ興味のないエロゲーの話をはじめたのかというと、「表現の自由」と「人権侵害」が「陵辱系エロゲー」を間に鋏んで抵触しあい、火花を散らしているような事態が起きているからだ。
私が巡回したブログを一覧としてご紹介しておく。
私もかなり考えた。
『過ぎ去ろうとしない過去』さん。
『非国民通信』さん。
『Apes!
Not Monkeys! はてな本館』さん。
『郊外のカナリアもさっき死にました』さん。
『Gazing
at the Celestial Blue』さん。
『地下生活者の手遊び』さん。
『地を這う難破船』さん。
以下、直接エロゲーではないかもしれんが。
『Gazing
at the Celestial Blue』さん。
『郊外のカナリアもさっき死にました』さん。
こんなに読んだら、頭イテエ。
で、どう思う?
「変態が悪い」という意見もあるが、実際のところ、心の状態を保証することはできないよ。ま、だからこそ、規制という話になるわけだけど。
と、ここから私の結論は、一気に大気圏の外に飛躍する。
一度、実験的に、
貨幣制度を撤廃してみたらどうだろう?
(;^-^ゞ
いっぺん、出発点に戻って、この世のすべての人間的価値をお金で計る、もしくは、お金が人間的価値を作り出す、という考え方そのものを検証してみる必要があるんじゃないかなあ。
まあ、あれだ。それが商品であるかぎり、誰も幸福にはならんつーことではないでしょうか?極論ですが。
んで、「疎外」の問題な。
シオドア=スタージョンのSF小説に、タイトルも『コズミック・レイプ』というのがある。
すげえな、王様で言うところの宇宙強姦だぜ! (;^-^ゞ
実に示唆的な、驚くべき内容の小説だが、もし古書店などで見つけたら、ぜひ読んでみてください。
……問題点も解決策もこの薄っぺらいSF文庫に収まっているというすごさ。
『コズミック・レイプ』
しかし、SFなんか真剣に読めるか!というむきもあるだろ。
そういう救いがたいまでに軟弱な連中のために、まったく別のベクトルの解決策だが、
すべての女性、子どもたちが、成人男性よりも腕力で勝るようになる薬を開発する
という手もあるかもな。その薬を飲むと、どんなかよわい女性のパンチも、金づちを振り回したような破壊力になってるの。
こええ。
SF読むよりかなり面倒だが、具体的かつ身体的なわかりやすい方法かもしれんね。
口答えした夫を妻がチョイとどついたら、肋骨が折れたりな!
ええど、ええど。
救急車で病院に担ぎ込まれながら、わしら男どもはこう言うのだ。
「これは確かに教訓になるぞ!」
「男もしつけの時代です」
夜道を一人で歩いているかわいい男性が、女性にレイプされる事件が起きるようになるだろうか?
他の女の子と夜遅くまで遊んでいたと怒って、恋人、もしくは配偶者から暴力を受ける男性、というひとたちも出てくるだろうか?
なんでも実験だ。
異性の腕力によって威圧され、ときにはねじ伏せられる恐怖を、嫌悪を、不快感を、薬品によって、私たち男性は獲得できるのだ。
……ほんとかよ。 (;^-^ゞ
*最近買った本・マンガ・DVD*(2009.6.17)
「ある世代が、知識は処罰の対象になり、安全は無知の中にあることを学ぶとします。次の世代は自分たちが無知であることを知りません。知識とは何なのかを知らないのですから」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『ヴォイス』〜
「みなさんは、なにが最終的にこの星を滅ぼすか知っていますか?
真剣さがまったくないことです。実際になにが起こりつつあるか、つぎになにが起ころうとしているか、そもそもわれわれはどうしてこんな泥沼にのめりこんだのか、そういうことにだれもまったく無関心なのです」
〜カート=ヴォネガット『ジェイルバード』〜
「僕が自分で書く小説のなかの会話で、絶対にやりたくないことを列挙すると、およそ次のようになる。主観のニュアンス。心の揺れ動き。気持ちの綾。ふとした言葉による関係のもつれ、いき違い。解釈の相違。一方的な押しつけ。解説。お説教。馴れ合い。引きずり下ろし合い。では小説のなかの会話をとおして、登場人物たちになにをさせたいのかというと、それは彼らが置かれている状況の核心、進展させていく物語の質、おたがいに守るべき距離、新たなアイディアの提示とそれに対する反応、そこから生まれるそれまではなかった価値といったことにかかわる、可能なかぎり正確な認識の照合や確認だ」
〜片岡義男『自分と自分以外』〜
最近購入した本リスト。
あいかわらずマンガばっかり読んでいる。
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・『マルクスは生きている』
・『太陽からの風』(SF)
・『名曲三〇〇選』
・雑誌『月刊アフタヌーン』
・雑誌『ミステリマガジン』
・雑誌『ナンバー』(オシム監督のインタビュー)
・雑誌『MacFan』
・雑誌『将棋世界』
・絵本『栄光への大飛行』
・漫画『今日のハヤカワさん2』
・漫画『勇午(洞爺糊サミット編2)』
・漫画『この世界の片隅に(下巻)』
・漫画『ムショ医1』
・漫画『ムショ医2』
・漫画『チーズスイートホーム6』
・漫画『カラスヤサトシ4』
・漫画『理論劇画マルクス資本論』
最近購入したDVD。
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・『スローターハウス5』
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マルクス主義者マンガ評論家の紙屋氏が監修した『理論劇画マルクス資本論』というマンガを読んだ。
『紙屋研究所』の紙屋氏だ。
私は、『紙屋研究所』のマンガ評論のすべて……とは言わないけれど、その多くに同意できないし、ときには、いきどおりに近い感情を覚えることもある。
例えば、『村上かつら短編集』のこの評はなに?
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村上の描く女性が、ヤヴァイ。
「天使の噛み傷」の牛島聡美にしろ、2巻短編の「いごこちのいい場所」の堀川夕子にしろ、少し上目遣いに、淋し気な内実をかかえて、ぼくたちを見ている。
それだけでもうズキューンとくるだろ。ふつう。
そして、そこには、ズキズキするような欲望的シチュエーションと、文学的な感傷があればヨイ。村上の短編には、そんなものが溢れている。
(略)
「ピュア」な内面をからませあうことが、ある場合には、もっとも性的な行為であるということを、村上は知悉しているのだ。コンプレックスやトラウマは、ピュアに関係しあうための、いわば材料でしかない。
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村上作品をこんなふうにしか読んでいないひとって、実は多いんだろうなあ。
村上かつら、という漫画家さんの最大の特徴、魅力は、「女性の辛さ」への共感力、これだ。おそらく、本人さんも気がついていないけれど。
本人も気がついていないし、周囲も気がついていない。
ほんで、「「ピュア」な内面をからませあうことが、ある場合には、もっとも性的な行為である」マンガを周囲は描かそうとして、『サユリ1号』みたいなことになってしまう。
(^_^;)
村上かつら先生は、
日本のアン=タイラーになるかもしれんとワシは思ってる。
……。
(^_^;)
まあ、その話はまた今度しよう。
『理論劇画マルクス資本論』はいい本でした。
私のような頭の悪い人間でも、なんとなくわかった気がしました、資本論。
(;^_^ A
*漫談の時間です*(2009.6.14)
「「母さん? ヒットラーについて、なんか知ってる?」
お母さんが目をぱちくりさせ、車はまた水たまりにつっこんだ。
「やんなっちゃう……ヒットラーですって? どうしてそんな話が出てくるの?」
「べつに」マークは答えた。
お母さんは肩をすくめて言った。
「あんたは、いつも最悪のときを選んで質問するわね。何が知りたいの?」
「どんなやつだった?」」
〜ジャッキー=フレンチ『ヒットラーのむすめ』〜
「多数派は常に間違っている。自分が多数派にまわったと知ったら、それは必ず行いを改めるか、一息入れて反省する時だ」
〜マーク=トウェイン〜
「冗談の目的はその人の品質を落とすことにあるのではなく、すでに品質を落としていることに気づかせることである」
〜ジョージ=オーウェル〜
漫談の時間です。
『ゲシュタポ芸能ニュース』
そして、『デビルマン』化する日本。
『土曜の夜、牛と吠える。青瓢箪』さんから。
『帰化しても許してくれない産経新聞』
……。ごめん。端的に言って、この新聞記事書いた人、頭おかしいんじゃないの?
(^_^;)
北原白秋大先生、出番ですよ!
あわわわわ! 白秋大先生!
白秋先生、こわれちゃった!
続けて、『非国民通信』さんから引用。
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民主党大阪府連は橋下をシンポジウムに招くそうです。曰く「知事が民主党の政策を支持するという意思表示をしてくれれば」とのことですが、それはつまり、民主党の政策も橋下の政策も同じ様なもの、あるいは同じものにするつもり、ということでしょうか。確かに鳩山の言動――自民党政治そのものではなく「官僚政治」を敵に見立てて非難し、自民党がダメな理由は自民党そのものではなく「自民党では官僚政治を打破できないから」と語る――を鑑みると、むしろ麻生より鳩山の方が橋下との距離は近そうにも見えます。
たぶん、「勝利」のため、ひいては「政権交代」のためには、それが最適なのでしょう。小泉、橋下、河村の路線が勝利への近道、それは各種世論調査や選挙結果が証明するところです。しかるに民主党が勝利を求めて政策面でも橋下に擦り寄り、一方で自民党側も政権を失うまいと、カイカクの見直しを中止して再び小泉路線に回帰する(まさに橋下が訴えるとおりに!)、そうなると再び「改革を競う」時代が到来するのかも知れません。国民が新しい小泉を待ち望む中、どちらが「新しい小泉」に近づけるか、それを自民と民主で競い合う悪夢の到来です。
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まあ、なんだ、新しいコイズミを探し求める日々が続くわけだ。未来は実に暗い。
(^_^;)
『村野瀬玲奈の秘書課広報室』さんが言うところの、「人はある環境のもとではとんでもない行動をとる」という事態が、ここ日本では、国レベルでおきちまってるんだなあ、と、またまた実感。
『人に権力を持たせる時に気をつけなければいけないこと (スタンフォード大学の社会心理学実験から)』
いや〜、教訓ですわな。
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