*ここがヴォネガットなら*(2010.10.29)
「こんにちは、赤ちゃん。地球へようこそ。この星は夏は暑くて、冬は寒い。この星はまんまるくて、濡れていて、人でいっぱいだ。なあ、赤ちゃん、きみたちがこの星で暮らせるのは、長く見積もっても、せいぜい百年ぐらいさ。ただ、ぼくの知っている規則が一つだけあるんだ、いいかい、なんてったって、親切じゃなきゃいけないよ」
〜カート=ヴォネガット『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』〜
「最近は、きみらの書くものしか読まない。きみらだけだよ、いま現実にどんなものすごい変化が起こっているかを語ってくれるのは。きみらのようなキじるしでなくては、人生は宇宙の旅、それも短い旅じゃなく、何十億年もつづく旅だ、なんてことはわからない。きみらのように度胸のいい連中でなければ、未来をほんとうに気にかけたり、機械が人間をどう変えるか、戦争が人間をどう変えるか、大都市が人間をどう変えるか、でっかく単純な思想が人間をどう変えるか、とてつもない誤解や失敗や事故や災害が人間をどう変えるか、なんてことに注目したりはしない」
〜カート=ヴォネガット『ローズウォーターさんあなたに神のお恵みを』〜
私は今、SFアンソロジーの文庫本を読んでいる。
早川SFマガジン創刊50周年記念のアンソロジー集の第2弾で、「時間SF傑作選」となっている。
タイトルは『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』だ。
軽い気持で読み始めたのだけれども、テッド=チャンの『商人と錬金術師の門』はうならせるし、イアン=ワトソン&ロベルト=クアリアの『彼らの生涯の最愛の時』は、これはびっくりするほど感動的な愛の物語だ。
『彼らの生涯の最愛の時』のような深い感銘を与えてくれる作品に、何の前触れもなくヒョイと出会えてしまう。だから、SFの世界はあなどれない。
ただ、私は最初、ネットの新刊案内でこのタイトルを見たとき、間違えて“ウィネトカ”のところを
『ここが“ヴォネガット”なら、きみはジュディ』
と読んだ。仰天して、有頂天になり、『ここがヴォネガットなら……』というタイトルの本は、何がなんでも購入しなければなならい、と意気込んだ。
もちろん、ヴォネガットであるわけはない。タイトルを再度確認したときには、タイトルは正しく『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』と読めた。
自分の早とちりが生んだ、落胆、失望。
カート=ヴォネガット。
途方もないほどに優しく、純粋で、皮肉屋で、社会主義の小難しい理念をもっとも優しい言葉で語った偉大なSF作家。
---ここがヴォネガットなら? 誰かがそういう小説を書いたのだ、と私は思ったのだ。
誰かが書いたっておかしくはない。
そしてもし、ここがヴォネガットなら、“ここ”は“ここ”ではないだろう。
しかし、SF小説の内部では、“ここ”がヴォネガットであってもなんらおかしくはない。フィクションの世界だからだ。
もしもこの世がヴォネガットだったなら---?
そしてさらに、ここが“ヴォネガット”であり、なおかつ君がジュディであったなら。
私はドストエフスキー的恍惚感に襲われ、地面にひれ伏しくちづけするかもしれない。
--☆
雑誌『世界』11月号で、ノーム=チョムスキーが
「正当な怒りを抱いた人々がなぜ極右に動員されてしまうのか、私の子どもの頃、産業別労働組合(CIO)をはじめ建設的な活動があった時代に人々を集めたような勢力になぜ結集しないのか、その理由を自らに問いかけてみることが大切です」
と、アメリカ国民に呼びかけてている。
この呼びかけは、そのままそっくり、何事も2年遅れでアメリカに追随する日本とその国民にも当てはまるだろう。
ここにきてようやく、コイズミ・タケナカの「小さな政府」革命が批判されるようになった、しかしそれは、☆排外極右思想☆からの批判だった……。
なぜ、草の根・極右運動に市民は結集しようとするのか。
ざっくりと一言でその意図を説明すれば、タケナカ流の“自由”の暴風から、生身の市民を救済するために、「道徳」「倫理」「社会正義」という論点をもって“自由”に規制をかけよう、というのだ。
市民のそうした現状に対する感覚的危機感、反応は、まっとうだと言える。
ただ、問題なのは、
“自由”の場合がそうだったように、現代を生きる市民にとってより相応しい「道徳感」「倫理モデル」とはなにか?という点についての市民レベルでの熟議がまったくない
ままに、市民合意が先行することだ。
では、われわれ市民が合意し、われわれが日常を生きる土台としての社会に求める「道徳」「正義」とは何か。
土着的民族主義、不寛容、排外主義、市民感情上位主義、二項対立、知性の白眼視、市民要求他愛なさ主義、宗教と盲信、ポピュリズム、一日一善的お説教……その他もろもろ。
そのような市民要求の中から、アドルフ=ヒトラーやカール=シュミットを切望する声が、ヨーロッパ、アメリカ、そしてこの日本でも現実に沸き起こり始めている(マジかよ!)。
カール=シュミット!
アドルフ=ヒトラー!
時間SF傑作選、ときは1933年なり、か!
……これはフィクションではなく、現実なのだ。
おじゃ、ぞぞ〜。
llllll(-_-;)llllll
私にとって現実とは、
「ここではないどこかへ」だ。
私にとってSFとは、内在的にはいつでも、ここが“ヴォネガット”なら、だ。
おまけ。
『模型かキャラ弁とか歴史とか』さんから
『ナチ党と民族社会主義』
勉強になります。
☆☆☆☆☆☆
実際にナチ党のしたことといえば、障害者の排除に見られるように、弱者救済どころか弱者の排除だったり、(ネオリベやリバタリアンが望むところの)労働組合原理の否定だったりしたわけです。そして、財界はそのようなナチ党の支配のもと、より大きな「経済的自由」を得ることができました。
そのようなヒトラーとナチ党ですが、ヒトラーに関して言えば教育機会の均等を唱えた点においては、公教育の廃止を唱えるようなリバタリアンよりはましと私は思います。その背景にあったのは人権思想ではなく社会ダーウィニズムであったわけですが。
☆☆☆☆☆☆
「自由主義者」がこの社会に持ち込んだ“自由”の暴風に対する市民の反撃としての、(特に下層階級からの)総統待望論。
しかし、すべて、根本のところが間違っているのだ。
さあ、みんな、SFを読みたまえ。
ここがヴォネガットなら、きみはジュディか。
*誰のために、何のために*(2010.10.24)
「それまで公共財だったものを私企業化し、商品化し民営化する。そのことがネオリベラルなプロジェクトを示す特徴となってきた。その主要目的は、これまで利益獲得とは無縁であると見なされてきた領域で資本蓄積のための場を開くことである。あらゆる種類の公共サービス、社会福祉事業、公共施設、さらに戦争までも、こうしたすべてが資本主義世界ではある程度民営化を免れないのだ。WTO内でいわゆるTRIPS協定によって設定された知的所有権が、遺伝子から種の原形質にいたるあらゆる種類の生産物を私的財産と定義し、こうしたものをここまで作り上げるのに決定的な役割をはたしたきた人々から使用料を取る」
〜デヴィッド=ハーヴェイ『ネオリベラリズムとは何か』〜
「このように資本のグローバリゼーションが進むと、市場のほうが民主主義よりも優位にたつ」
〜ジャック=アタリ『反グローバリズム』〜
「自由な契約者」たちの素敵な明日。
『村野瀬玲奈の秘書課広報室』さんから
『借金させていただくために無報酬労働奉仕を強制される国、日本。』
以下引用。
☆☆☆☆☆☆
銀行: 「聞こえませんでしたか?社会貢献活動です。税金からお金を借りるんでしょう?あなたは税金から受益をするのですから、社会還元の意識を持っていただかなければなりません。週xxx時間、社会貢献活動として、無料で働いていただきます。」
☆☆☆☆☆☆
おんぎゃあああ!
税金をあろうことか金貸し業の資本金としながら、借り手に説教し、無償労働を要求するとは。
あわわわわ、エクソシスト。
悔い改めよ、現代のスクルージども!
そして、日本国民に告ぐ。
財産のあるなしで人間を選別することをただちにやめなさい。
ただちに、だ。
なぜならば、これは社会貢献活動と名付けられた「略奪」だからだ。
盗み、いけない! だめでしょ、盗みは!
おまけ。
アイム・スパルタカス! アイム・スパルタカス!
ナオミ=クラインがお送りする、G20サミット。
『デモクラシーナウ・ジャパン』から
『本当の犯罪現場はG20サミット会場の中だった』
賃労働による資本蓄積、 などというものは、すでに過去となりつつあるのか。
つまり「ひとびとの汗水流した労働によって明るい明日がやってくる」というのは、すでに遠い昔の伝説なのか。
今では、あからさまな「略奪」によって、それは達成される。
我々にあるのは、個人的利益の追求、そして「略奪」される自由であり、そうした利潤追求と略奪の過程で、ありとあらゆる権利を失っていく。
人権もまた、そうだ。
民営化、自由化、と書かれた書類にはすべて「市民合意」のハンコがぽちっと押されてあるという素晴らしさだ。
少なくても、日本においてはそうだ。
そして、私は、この「市民合意」と書かれた真っ赤なハンコの文字が、何よりも謎で、そしておそろしい。
なぜ合意したのか。何のために合意するのか。
これらの「略奪」や「不正」を、無理を承知でそれでも正当化したいという衝動が、市民の身の内のどこから湧いてくるのか。
*総統待望論じゃよ吉田君!*(2010.10.21)
「あのころ焼き殺された人びとの大半は黒人でした。私の幼いころに比べて、この国に起きたもっともいちじるしい変化は、人種差別の衰退です。ただ、断っておきますが、それは扇動者の手であっさりぶりかえしかねません。とにかく、現在の我々は、自分や自分の身内に似ているかどうかではなく、人間をその中味で判断することが上手になりました(略)
このりっぱな変化を我々の態度にもたらしたのはだれか? それは抑圧され、侮辱されていた少数民族の人びとです」
〜カート=ヴォネガット『死よりも悪い運命』〜
「あなたがだめなのに、どうしてあたしがいいわけ? そりゃゴミ溜めだってことは知ってるけど、なぜあなたにだけはそれがよくないの? あたしだって、ここで生きてるのよ」
〜ジェームズ=ティプトリー=ジュニア『ビームしておくれ、ふるさとへ』〜
「仕方がない式民主主義」の蔓延じゃよ吉田君!
または、今ここにある危機ですね、総統!
『デモクラシー・ナウ ジャパン』から
『欧州で台頭する反移民と極右の政治家たち』
以下引用。
☆☆☆☆☆☆
欧州では、移民反対の論理や政策の受け入れが広がっていることに多くの人々が懸念しています。極右による表明のみならず、反移民の傾向は一般社会にも浸透してきました。ドイツ首相アンゲラ・メルケルは前週、自らが党首を務める保守系のキリスト教民主同盟
(CDU)の若手党員の集会で、多文化主義は完全に失敗したと語りました。ドイツの最近の世論調査によると、新たな「総統」の誕生を歓迎すると回答した人が13%に上り、3分の1以上が「外国人が多すぎる」と感じていると回答しました。
☆☆☆☆☆☆
ほぎゃあ!
♪伝説の国〜 シャングリラ〜♪
「ドイツ首相アンゲラ・メルケルは前週」「多文化主義は完全に失敗したと語り」
「ドイツの最近の世論調査によると」「新たな「総統」の誕生を歓迎すると回答した人が13%に上り」
総統の誕生を歓迎って、鷹の爪団じゃね〜んだ。
(;^-^ゞ
あからさまな排外主義をこの現実の世界の中で実現するために、「ハシモト」だとか「カワムラ」だとか、果てには「総統」だのといった人々を熱烈に支持していく。
切り捨てられる側については、一顧だにしない。毅然として断固として切り捨てていく、という英断を下しうる人、それが、ドイツの世論調査で「総統」の誕生を歓迎したがっている13パーセントの人々の胸の内だ。
どんな小さな声にも社会全体が耳を傾ける、という民主主義の利点、掲げた理想は影も形もなく、そこにあるのは、大衆迎合主義と、多数決の数字だけだ。
「ドイツ国内の外国人」と位置づけられた人々に対して、または、「仕分け作業の対象者」として位置づけられた人々に対して、私たちは物悲しそうな顔でこう言うのだ。
「民主主義だから、仕方がないよね」
前からは「契約」、後ろからは「民主主義」によって“攻め”つけられ、彼らには生き場所などどこにもない。
派遣村のテントか。
ゲットー行きの列車か。
しかし、不寛容の中にこそ我々の生きる道がある、と大衆自身が実感し、そうすべきだと声に発するのだから、あとはいかに、民主主義の形式にのっとって、それを粛々とおしすすめるかだ。
もしくは、「契約」という枠組みの中で。
「民主主義」の名において、私たちはとことん冷酷になれる。仕方がない民主主義の発動だ。
そしてそれは、人類全体が直面する危機そのものだ。
今ここにある危機。
日本編。
『Apes! Not Monkeys! 本館』さんから、
『死刑廃止論者は裁判員から排除されるのか?』
以下引用。
☆☆☆☆☆☆
今日(19日)の毎日新聞朝刊は、死刑求刑も予想される裁判の裁判員選任手続きにおいて「絶対に死刑を選択しないと決めていますか」という質問を裁判長がしなかったことを報じている。この質問は「不公平な判断をする恐れのある候補者を外す」ための質問例の一つとして、最高裁が各地裁に示していたもの。
☆☆☆☆☆☆
民主主義的手続きというものの形式化、形骸化のグロテスクな到達点。
そして、私たちはここでも言うのだ。
「民主主義だから、仕方がないよね、と。
いまは、こんなところかね、吉田君!
*最近買った本・マンガ・DVD*(2010.10.18)
「本屋は古い墓場たちの駐車場だった。何千という墓場が自動車のように列をなして並んでいる。たいがいの本はすでに絶版になっていた。もう誰も読もうとしないもの、あるいは昔の読者はすでにこの世を去ってしまったか、それらの本のことなどすっかり忘れてしまったというようなものばかりだった。けれども、ここでは、古い書物は音楽のもつ有機作用を与えられて、ふたたび処女になるのだった」
〜リチャード=ブローティガン『アメリカの鱒釣り』〜
「わたしがじぶんの本にもどると、本のページに加速度がついて、どんどん猛烈な早さでめくれて行った。そしてとうとう海上の舵輪みたいにスピンしたのだった」
〜リチャード=ブローティガン『アメリカの鱒釣り』〜
吉本直志郎氏の日本児童文学の傑作、『青葉学園物語』シリーズが、すでに絶版になっていると知った。
! ( ̄□ ̄;)
このシリーズは、広島の原爆被災孤児(原爆以外の孤児もいるが)たちの物語で、全5巻のタイトルは、『右向け、左!』、『さよならは、半分だけ』、『とぶんだったら、いま!』、『空色の空の下で』、『まっちくれ、涙』だった。
『右向け、左!』、『さよならは、半分だけ』というタイトルがまず素晴らしい。
タイトルが素晴らしいので、ついつい手に取ってしまう、という次元の素晴らしさだ。
いかに人間が矛盾した立体的な存在であるか、という点に留まらず、ふとした物悲しさ、美しい夕暮れの中で帰宅するときに感じた言葉にならない淋しさ、とでもいうような微妙なニュアンスすら感じさせる。
『右向け、左!』という子どもの本が、本屋さんの本棚にささっていて、興味を持った子どもが、少しつま先立ちになってその本に手を伸ばす。
すでにその瞬間から、その子の想像力がアイドリングをはじめている。
そうしたことが、またひとつ、失われた。
ある一定以上のレベルの文章表現(絵画でも音楽でも同じことが言えると思うが)によって可能となる快感性、というものを読者に提供できる、という点をクリアしている日本の児童文学の金字塔が、いつのまにか消えて、日本の子どもたちはまたひとつ不幸になった。
--☆-
マンガ『ブラックジャックによろしく』の最終巻が出た。
主人公は、赤城さんへの腎臓移植をごり押しした時点で、「医者とはなんなのか?」と問う資格を失っていると思っているが、いっぽう、そのドはずれた(自分勝手さの裏返しとしての)真摯な態度、というものは貫き通した、ともいえる。
結局、皆川さんも赤城さんも、主人公に振り回されて疲弊して、やがてついていけなくなり、最後は脱落するしかなく、物語は主人公がひとりで走るレースとなり、最終巻となって終わる。
最後の最後まで自分自身であり続ける、という価値観をほぼ絶対視して生き抜いた主人公の後ろ姿を、半ばあっけにとられながら、読者の私は見おくった。
私は、このシリーズを、「赤城さんや皆川さんの視点から眺めたならば」という意識を絶えず持って読んできた。その結果「女性たちの『ブラックジャックによろしく』」なる世界が、私の中にできあがった。
主人公はひとりでどんどん行ってしまったが、皆川さんと赤城さんの再会は、私の中では、じゅうぶんにあり得る。じゅうぶんにあり得ると思うから、ひとりで勝手に想像する。
最近購入した本リスト。
==================
・『これからの「正義」の話をしよう』
・『ヘッテルとフエーテル 本当に残酷なマネー版グリム童話』
・『ネオリベラリズムとは何か』
・『免疫学がわかる』
・『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』(SF)
・雑誌『MacFan』
・雑誌『将棋世界』
・雑誌『ナンバープラス』(オシムインタビュー)
・雑誌『SFマガジン』
・漫画『ブラックジャックによろしく最終巻』
・漫画『ちはやふる10』
・漫画『鈴木先生9』
・漫画『勇午』
・漫画『特上カバチ21』
・漫画『臨死!!江古田ちゃん5』
・漫画『大奥6』
・DVD『マイマイ新子と千年の魔法』
・DVD『サクリファイス』
*誕生日でない日のお茶会*(2010.10.14)
「「教えていただきたいのですが、ここからどの道を行けばいいのですか」
「それは、君がどこへ行きたいかに大いによるな」とその猫は言った。
「どこだって構わないの、ただ---」アリスが言う。
「それなら君がどの道を行こうと問題じゃない」猫は答える。
「---『どこか』へ辿り着きさえすれば。」とアリスは言葉を補った。
「それはそうなるだろうさ」と猫、「ただ辿り着くまで歩きさえすればいい」」
〜ルイス=キャロル『不思議の国のアリス』〜
「それが真実なのかどうかたしかめてくれとだれかに頼むつもりはないし、もちろん、大多数の人間は、この出来事に気づきもしないまま生きていくだろう」
〜バリトン=J=ベイリー『神銃』〜
戦場でワルツを、独裁者とお茶会を。
『きまぐれな日々』さんから、
『「日本版ティーパーティー」に入れ込む片山さつきと副島一派』
アメリカ、そして日本で展開される、
草の根運動のどんづまり
の姿。それが、この「ティーパーティー」ブームだ。
「連帯した社会で暮す価値を信じている」という信念を表明するときですら、経済に従属しつづける以外の生き方を選べない、産業界を支持するというあり方の代替案を持ちえない、という自己の世界観やその世界観ゆえの限界をそっくり内面化したまま、草の根運動を組織し、または展開し、さしあたってはお茶を飲む。
民衆搾取の手口の巧妙化という問題よりもさらに深刻なのは、民衆搾取があまりにも常態化し、日常生活のすみずみにまで蔓延してしまったがゆえに、いっさいの疑問を抱くこともなく、その状態を自明としたうえで、あろうことか草の根運動を展開するというその無残さだ。
……私は今、「民衆搾取」という業界用語(笑)を使った。
この種の言葉は、私の周囲には非常に不評だ。
日本の現状なり、国際情勢なり、様々な問題を抱えているのは事実だが、「民衆搾取」などという言葉は使うべきではない、搾取の蔓延など実際には起きていないし、そもそも私たちは民衆などと呼ばれたくはない、あなたはヘンな本ばかり読んでいるので、現実と向き合えなくなっているのではないか、という意味の反論を、よく受ける。
「民衆搾取」という言葉を使用するのをやめて、現実と向き合う人々として、言い直すとどうなるのか。
それは、「契約」だ。
「契約」によって結びつく、または、より洗練された市民契約形態を模索する人々のお茶会運動。
それを、私たちは、市民意識の「目覚め」と呼ぶことに決めたのだ。
鬼畜系ブログ『坑外のカナリアもさっき死にました』さんから
『【これからの『悪』の話をしよう】第一回〜『行動』と『正義』について』
以下引用。
「「なぜこんなトンチンカンなことが起るのか、といえば、『行動』が正義をつくる、という思い込みがあるからだ。いや、バカほどこんなふうに考える……『行動しないとはじまらない』とか、『正しいか間違ってるかは別として、今必要なのは“行動”することだ!』とか(嘲)」
「あ、『正義』がどっかに行っちゃった(笑)」
「そう、そこが問題だ。別に、『行動』することと『正義』には本質的には何の関係もない。
『行動』は行動であって個人の自己満足を満たすだろうけど、どいつも『行動』の衝動に飢えてるだけで、その『行動』を裏付けてくれる理由としての『正義』が欲しいだけなんだよ!!(嘲)
だから、バカはなにもしないで家で寝てるのが一番だってことだ(嘲)」」
鬼畜な件は脇において、これは極めて重要な発言だ、メモしなさい。
(;^-^ゞ
*祇園精舎の鐘の声か*(2010.10.10)
「今日、思想についての批判的な図書でさえも、対処的になることが期待されている。いかなる危機を議論しようとも、単純にして段階的な解決で結論に至ることが期待されている。読書自体が思考を停止するものになりつつある」
〜ウェンディ=カミナー〜
「ある日ヘッテルは、とある流行本を読んで俄然やる気になりました。
その本は、カネヘルン=ミセス=インディという、女手ひとりで子どもを育てながら、転職&キャリアアップで年収は10倍、給料を何千万円ももらい、何冊も本を書く肉食獣のような生活をしている女性が書いた本でした。
彼女は言います。
〈断る力をもって、自分の人生を進めば、起きていることはすべて正しい〉」
〜マネー=ヘッタ=チャン『ヘッテルとフエーテル』〜
映画評でいつもお世話になっている『破壊屋』さんから、しこたま笑える、そして考えさせられる映画評。
『ウケる要素を集めすぎて珍作となった映画『恋するナポリタン』』
この種の映画にお金をかける、というよりも、時間をかけることのもったいなさのために、私は自分自身の目で『恋するナポリタン』を鑑賞することはないけれど、ブログ主ギッチョさんがこの映画をどう観たのか、は、関心があったし、読み終わった後で、深く同意もした。
以下、ブログ主ギッチョさん解説抜粋。
☆☆☆☆☆☆
最近の日本映画には共通する決めセリフがある。「自分に素直に」とか「正直な気持ちを」といったセリフだ。日常会話ではまず使われないセリフが映画の中ではバンバンと使われている。破壊屋オフ会でこの不自然さを指摘したところ、de4staelさんから「そういう言葉を耳にしたい女性がいるから」と言われてなるほどと思った。そういった女性たちは自分の心の中にあることをなかなか表に出せないから、自分を一押ししてくれる言葉に憧れる。
恋も仕事も腹八分目フィルムパートナーズが製作した『恋するナポリタン 〜世界で一番おいしい愛され方〜』は疲れている女性の耳に心地よいであろうセリフだけで構成されている映画だ。「がんばらなくてもいいんだよ」「悲しいときこそ笑顔で」「前向きになろうよ」といったセリフがバンバンと出てくる。まるで疲れた女性のリハビリのような映画だ。リハビリというよりも、優しい言葉で近づく怪しい商売のような気配が強いが。
☆☆☆☆☆☆
「優しい言葉で近づく怪しい商売のような気配」とは、ことの無残さに対して、的確かつなんと詩的な表現だろう。
(^_^;)
「自分に素直に」「正直な気持で」「がんばらなくてもいいんだよ」「悲しい時こそ笑顔で」「前向きになろうよ」などなどというセリフが体現するポジティブさ、他愛なさ、なによりも、
この国では絶対善とされる価値観を羅列しているのだから誰からも否定されるはずがないというという安心感を
求めて、あなたは映画館に行く。
映画館のスクリーンには、悲しい時こそ笑顔なあの人々が、前向きになって突き進む明るい明日というもの“だけ”を共有しあっている。
そして、この私がペシミズムを個人的趣味とするのみならず、ごくごく控え目な
ペシミズム・エバンジェリスト
として活動し、その結果、あちらこちらでひたすら孤立を深めているのは、この種の無残さに対する危機感ゆえであります。
(^_^;)
「がんばらなくてもいいんだよ」
「悲しいときこそ笑顔で」
「前向きになろうよ」
これらの言葉を支持することで、私たちは悲観主義を乗り越えることができる。
なぜ悲観主義を乗り越えるのか。
いきなり結論から入ると、
この国では上は政治から下は映画鑑賞までが、すっぽりと経済に従属しているからだ。
態度としては一貫して産業界を支持する、気分としては楽観的でいるしかない、という状態が日常化した生活基盤という名の土壌をほんの少しだけ掘ってみれば、国の方針から映画鑑賞までがじゃがいものように一本のツルでつらなっていることが、すぐに確認できる。
『恋するナポリタン』から、すべてはまさしく芋づる式にあらわになる。
(^_^;)
ともかく。
悲観主義を乗り越えるとは、すべては流転し、変化し、生まれては消え行く、という事実を土台にして世界を眺めることをやめるということだ。あれほど愛したものもあれほど憎んだものも、重要なものもどうでもいいものも、貴重なものもそのあたりに転がっている石も、やがてはすべて消え行くという事実に向き合うことをやめるということだ。
喜びも、悲しみも、幸福も、不幸も、お金も、家も、この命も、私が生きていたという記憶さえも、やがては土に帰っていく、という認識を破棄するということだ。
とまあ、そのような生き様を選択し、悲観主義を乗り越えてはじめて、限度いっぱいに幸福になろうとする自分たちの姿を正当化することができる。
そのような態度は、大量生産を支えるための大量消費社会にイエスと言うことにつながっていく。
しかし、悲観主義を社会全体が乗り越えた結果、どうなったか。
「今日よりも素晴らしい明日」のみを推進し、悲観主義を乗り越えねばならないものとして規定してしまえば、当然の帰結として、自分でも気がつかないほどゆっくりと、少しずつ、だが確実に、他者の苦悩に鈍感になっていく。
これは確かに微妙な事態だけれど、原理的に、そうならざるを得ない。
♪毎日、毎日、ぼくらは鉄板の〜♪
などと歌うひとは、新しく出てこない。
♪信じれば願いはきっと叶う♪
だの
♪立ち止まらず走る君の後ろ姿がラララ〜♪
だの……。
毎日鉄板で焼かれるだけの、砂を噛むような鯛焼君の日常、というものに共感すべきではないというのだ。
なぜなら、そこに「明るい明日」が描かれていないから、というのだ。
そして、その結果、自己責任論を内面化して疑問にも感じない「前向き」な若者が、派遣村で寒さをしのぎつつ、自己矛盾の果てに、自分自身を切り捨てる……。
もはや私たちは、未来志向の私たち自身によって、「笑顔で建設すべき明るい未来」の排泄物とみなされている……。
(^_^;)
悲観主義を社会全体が乗り越えた結果、私たちは道徳的に腐敗した。と言って悪ければ、少なくとも
下品になった。
「悲観主義! けしからん!」
理由を問うまでもない“正しいこと”が、2.26事件の青年将校がふりまわす日本刀のように、キラキラときらめく社会だ。
無限の快楽、無限の成長、無限の消費が可能なのだと、すくなくとも挑戦すべきだと、信じられている、もしくは、信じないまでも、他に代替案がないのでそうせざるを得ない、という状態だ。
(^_^;)
しかし、私たちは「明るい明日」を共有するんではなくて、むしろ、本来はひとりひとりが孤独に味わうしかない「苦悩」をこそ、社会全体で共有すべきなのではないか。
それこそが「普遍」に参加するということであり、我々が社会性と呼ぶものの意味であり、さらには意義ではないか。
『平家物語』
ペシミズム。
*アメリカの『アメリカの鱒釣り』*(2010.10.7)
「外国人がわれわれを憎むのは、われわれがいわゆる自由と正義を押しつけようとしているからではない。われわれが憎まれているのは、われわれの傲慢さゆえなのだ」
〜カート=ヴォネガット『国のない男』〜
「彼らには相手の立場でものを考える能力が全く欠けている」
〜 藤子=F=不二雄『ミノタウロスの皿』〜
♪私たちは支配者な〜のぉかあああ♪
♪目指すは西〜の大陸だ ハイ!♪
『デモクラシーナウ!』から
『発覚:1940年代に米医師がグアテマラ人数百人に密かに梅毒感染実験』と『人体実験の暗黒の歴史
ナチからタスキギー、プエルトリコまで』の二本立て。
このニュースを受け止めた上で、広島市在住、中岡ゲンさんの体験談をどうぞ。
梅毒感染実験にも、原爆投下にも、きちんとした理由がある。
しかし、理由があれば、これらのことは正当化できるのか。
おまけ。
アメリカ人であることの苦しみ。支配者の被害妄想。疑心暗鬼。
24時間『アメリカの鱒釣り』
南極の『アメリカの鱒釣り』
濃霧の『アメリカの鱒釣り』(動画)
岸辺の『アメリカの鱒釣り』(動画)
何を見ても、どこかで、何かが、何らかの形で『アメリカの鱒釣り』
それでも『アメリカの鱒釣り』は満足しないので、誰もが苦しむことになるのだ。
*市民なぜ鳴く*(2010.10.3)
「この戦争が明らかにしたことは、私有財産制度---つまり、土地、工場、鉱山、輸送機関などが私有され、もっぱら利潤追求のためにのみ運営される経済体制---は用をなさないということである。この事実には、何百万という人々がすでに何年も前から気づいていた、にもかかわらず、それに対してなんらの手も打たれなかった、というのも、そのような体制を変革しようという下からの真剣な突き上げがまったくなく、しかも上に立っている連中ときては、まさにこの点で度しがたいまでの愚鈍さを発揮するように、かねて自らを訓練してきていたからである」
〜ジョージ=オーウェル『戦う商人国民』〜
「彼らが議論をするのは、議論を好むがゆえであり、自由奔放な精神を可能性の道に疾駆させることを好むがゆえであり、また、疑問にされない事柄に対して疑問を抱くことを好むゆえであった。聡明な少年たち。十六歳ですでに彼らの精神は科学の有する明快さに順応すべく訓練されていたのだ」
〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜
政治的パフォーマンスの消費者たちが、快楽消費主義者たる自分たちの姿を鏡に映して確認することもなく、「税金はすべて悪」などという他愛なくも無残なスローガンに踊り狂う。
『気まぐれな日々』さんから、
『最悪!河村たかし主導で名古屋市議会リコールへ』
ズバリ言って彼らは、経済学はもちろん、エイン=ランドの小説を真に受けたとか、ハインラインに気分が高揚して、というほどもなくて、実際のところは、
「そこにシビレる、あこがれるぅ!」
という……まあ、『ジョジョの奇妙な冒険』的ノリのようなものに、突き動かされているに過ぎない。
そのようなノリを共有する者どうしが集まって、互いに刺激しあい、ノリを増幅させながら、
「この危機的状況において、我ら市民のこれらの要求は待ったなしである」
という切迫感だけは旺盛に、「他者」というものを何の躊躇も罪悪感もなく敵視できる、軽視できる、無視できる、切り捨てることができる、踏みつけることができる、仕分けすることができる、排除することができる人物をありったけの情熱をもって支持する。献身する。
これが、この国における「市民が主役の市政」というものの定義だ。
おまけ1
いつ削除されるのかわからないけれど、貼っておきます。
『ハーバード白熱教室@東京大学 3/7』
自由で平等な風土が確保された公共空間内での、時間をかけた議論。
まず、それを取り戻さなくてはならない。
おまけ2
美徳という観点から、朝鮮学校排除の問題を考えてみよう。
『vanacoralの日記』さんから
『産経が朝鮮学校生徒を危険に晒す』
*プレイヤーピアノ*(2010.10.1)
「マイクロソフトは完璧な「社員不在の企業」になろうとしているのだ。部門の外部委託、契約工場、フリー労働者のジグソーパズルである。ゲイツはすでに正社員の3分の1を派遣社員に切り替え、CD-ROMやインターネット商品が開発されるインタラクティブ・メディア部門では、労働者の半数は外部の「給与支払い業者」に雇われている。この業者は、プリンターのカートリッジを補充するように、税金のかからない労働者を補給してくれる」
〜ナオミ=クライン『ブランドなんかいらない』〜
「彼らは、これが正義の問題だとは思っていません。(中略)企業に出かけて行ってはこう言うのです。「ひとびとにこれをさせると、もっと金儲けができますよ」」
〜リチャード=ストールマン『フリーウェアと自由な社会』〜
『非国民通信』さんから、
『どの口がそれを言うか』
うわあ……傲慢さをとおりこして、こりゃ、倒錯してる。
(´▽`;)
しかし、あれだねえ、
「急ごう、さもないと
会社も 地球も滅びてしまう
5m3.6秒」
って、未曾有の恥知らずだよねえ。
社員の拘束時間を1秒でも多くかすめ取る、という思惑を正当化するために、あろうことか地球をダシにするとは。
急ごう、さもないと、……ドッカーン!
しかし、言うにことかいて、5メートルを3“てん”6秒だと。
いち会社の社員が廊下を5メートル3.6秒で歩かないと地球が滅びるって、そりゃあ端的に言って誇大妄想だよ、病院に行ったほうがいい。
そして会社の方だが、社員に廊下を5メートル3.6秒で歩かせないと滅びてしまうような会社は、とうに破綻しているんだから、滅びたほうがいい。
滅びなさい。
社員に廊下を5メートル3.6秒で歩かせる、という事態の出現、それは、ズバリ、社会悪だ。
どっかーん。
死者のたそがれ。
*今日の「モラル」の話をしよう*(2010.9.27)
「こんにち、正義をめぐる議論のほとんどは、繁栄の果実や難局における負担をどう分け合うか、市民の基本的権利をどう定義するかといった問題を扱っている。こうした領域においては、幸福と自由に関する考察が主流となる。だが、ある経済学的な取り決めが正しいのか間違っているのかという話題になると、われわれは往々にしてアリストテレスの問題に連れ戻される。つまり、どんな人が道徳的と言えるのか、またそれはなぜかという問題に」
〜マイケル=サンデル『これからの「正義」の話をしよう』〜
「これは「正義」に関わる問題なのだ。これに答えるためには、正義の意味を探求しなければならない。実は、われわれはすでにその探求を始めている。便乗値上げをめぐる論争を詳しく見てみれば、便乗値上げ禁止法への賛成論と反対論が三つの理念を中心に展開されていることがわかるだろう。つまり、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進である。これらの三つの理念はそれぞれ、正義に関して異なる考え方を呈示している」
〜マイケル=サンデル『これからの「正義」の話をしよう』〜
『マイケル・サンデル教授 来日インタビュー』
「原爆投下そのものは正当化できますか?」
とのインタビュアーからの問いに、「NO」と明快に答えられないという限界を持つ人間が「正義」を語ることのおかしさ、滑稽さを感じずにはおれない。
おれないが、だが、道徳と倫理という観点から社会を積極的に眺めなおす、という論点は、私の基本的姿勢とぴったりと重なるので、ここにご紹介した。
「自由、平等、民主主義の風土を守る、もしくは作り上げていく必要性はどこにあるのですか?」
「人はなぜ誠実でなければならないのですか?」
もちろんそれは、それが正しいから、だ。
ただ、くどくどと繰り返しておくが、
「原爆投下が正当化できるかどうかは難しい問題」じゃないよ、マイケル。
マイケル=サンデルの言葉を借りれば、これは「正義」に関わる問題で、しかも、答えは明白ではなかろうか。
……と、体調が悪いんで、起きたばかりですが、もう寝ます。
おまけ。
バフマン=ゴバティの映画から、美。
モフセン=マフマルバフの映画から、悪。
*虐殺器官ポピュリズム*(2010.9.24)
「富める者と貧しい者が両極端に分化した不平等な私たちの社会は、いとも不思議な眼鏡を生み出し、経済的に上位にある者の目には、貧しい人々の姿はほとんど映らない仕組みになっている。貧困層の方から富裕層を、たとえばテレビとか雑誌の表紙とかで見ることができるのに、富裕層が貧困層を見ることは滅多にない。たとえどこかの公共の場所で見かけたとしても、自分が何を見ているのか自覚することはほとんどない」
〜湯浅誠『反貧困』〜
「それは苦痛を与える組織でありながら、苦痛を与える道具を作っている者たちの金で、飲み食い踊っているのである」
〜ニルス=クリスティ『人が人を裁くとき』〜
『非国民通信』さんから、毎日新聞記事。
“まじめに社会保険料を払っていたら、会社がもたないよ”
まじめに社会保険料を払っていたら、会社が持たないから、払わない。そうした現状を打破するために、毎日新聞が出した結論は、
「医療・介護・年金の社会保険料の引き上げか、増税を国民が受け入れるしかない」
というものだ。
いっぽう、たとえば名古屋市民などは、減税の究極の形として、
税金の撤廃、廃止、
という他愛なくも過激な名古屋市長の主張に共感し、そのような政策を推進すべく市民草の根運動を展開している。
この国が直面している危機的状況のさなかにあって、医療・介護・年金の社会保険料の引き揚げ、消費税の税率アップ、というアイデアが片方にあり、もういっぽうの極に、「税金の廃止」などという、“市民要求”がある。
真っ正面から対立しているかのように見える解決のためのそれぞれのアイデアは、しかし、
負け組、怠け者、貧乏人、無職、お年寄り、恵まれない子ども、病人、飲んだくれ、ツキのない人たちがどうなってもかまわない、
という価値感を出発点にしているという点において、同一視されてしかるべき代物だ。
減税するに当たって、負け組、怠け者、貧乏人、無職、お年寄り、恵まれない子ども、病人、飲んだくれ、ツキのない人たちがどうなってもかまわない、すべては自己責任なのだと言う。
または、増税するに当たって、負け組、怠け者、貧乏人、無職、お年寄り、恵まれない子ども、病人、飲んだくれ、ツキのない人たちがどうなってもかまわない、共同体を維持するために必要な措置なのだという。
結局は、負け組、怠け者、貧乏人、無職、お年寄り、恵まれない子ども、病人、飲んだくれ、ツキのない人たちの身ぐるみをはぐ、という自分たちの行為を正当化しているにすぎない。
今回毎日新聞が主張したようなの増税論、または、名古屋市民が市長とともに展開する減税論は、端的に言ってどちらも
盗みである。
仮の話としてだが、B29が日本の上空にふたたび侵入してくるという事態に私たちが直面したとして、そのとき、「かわいそうな象」は、もう「かわいそう」ではなくなるのか?
「かわいそう」ではなくなる、もしくは、「かわいそう」だけど緊急事態なのだからしかたがないのだ、というのが、この国では支配的らしい。
私たちの国で今、ひっきりなしに語られている物語、さらに、その物語の説明としての物語のタイトルは、
「仕方がなかった象」
というものらしい……。
かわいそう“だった”象は、もはや、かわいそうではなくなったのだから、問答無用で切り捨てていかなければならない。
そうした役目を高揚感たっぷりに演じきっているのが大阪のハシモト、名古屋のカワムラ、宮崎のヒガシコクバル、与党のレンポウといった、いわゆる、花形と呼ばれる人たちだ。
そして私たちは、自分たちの仲間に、どこまでも残酷になれるのであった。
『亀も空を飛ぶ』
おまけ。
アニメ人権宣言。
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