*ムーアシャツつくりました*(2004.10.18)
まだ戦争している。
アメリカでも日本でも、みんな仕事なくて、お金なくて、ひーひー言ってるのに。
自衛隊がイラクに行くお金の余裕があるなら、まず、ワシラの暮らしを復興支援してほしいっす。
とにかく、戦争してる場合じゃない。
なんとかしなきゃ。このままじゃ、マズイ。マズすぎる。
でも、どうしたらいいんだ? 映画監督のマイケル=ムーアは言った。
世界の人々がみんなそれぞれの『華氏911』を作ればいいと思います。
おお、そうか。
と言っても、いきなりドキュメンタリー映画は撮れない。かわりに、私は、できることからつーことで、マイケルムーアのシャツを作りました。
ひとりでも多くのひとが、マイケル=ムーアの映画を観てもらえるように、ひたすらハデっちく作ってみました。
こういう感じ↓
これ着て外出するようにします。
みなさんも、いかがですか?
(*'‐'*)
先日、埼玉で、就職先がないのを苦に集団自殺した若い子がいましたね。就職先がないことで、彼らは、自分自身を責めちゃう。周囲の目も、気になる。
死ぬ気になれば、もっと、他のことができたんじゃないか、と他人は言うことができるけれど、当人は、深く絶望してしまってるんだよね。
で、私たちは、自殺者をこれ以上増やさないためにこれからどうするかというと、自殺系サイトの取り締まりって、おいおい、そりゃ話が逆でしょう?
どうして自殺系サイトなどというコンテンツが存在するのか、そこが重要なはずでしょ?
もういっそのこと死んでしまいたい、という気持ちを抱いている人たちが相当数存在して、だからそういうサイトが成り立ってるわけじゃないですか。
“死ぬしかない”という気持ちが先にあるわけだよ。
それくらい、わかるっしょ?
やっぱり、彼らは死ぬべきじゃなかったよ。
私たちは、何にもわかってないんだよ、彼らの追いつめられた気持ち。彼らは「死ぬ気」になって、自分たちの追いつめられた気持ちを、私たちに声にしてぶつけるべきだったんじゃないかなあ。
さて。
アメリカのお笑い芸人のジェイ=レノというひとが面白いこと言ってる。
傑作なんで、引用します。
「新生イラクに新しい憲法が必要なんだって? だったらアメリカのをやっちまえよ。だって、もう使われてないんだから」
わはは!!
反骨精神のあるお笑い、好きです。
ものすご皮肉がきいてるし、なにより、日本人の身にも痛切に響くせりふなんだよなあ。
アメリカの部分を日本に置き換えても、じゅうぶん通用する話だから。
イラクの人たちに日本の憲法をプレゼントするという手もある。
日本の憲法は、自慢じゃないけど、理念としてはなかなか素敵な憲法ですよ? アメリカのものよりいいかもしれない。
いかがでしょう?
「軍隊を持ちません」と国が国民に約束した憲法第九条なんて、めちゃめちゃ前衛的。残念ながら、ぜんぜん実行できてないけど。
憲法というのは、国が国民と交わしたお約束なわけですが、我が国は、その国民とのお約束を破ったり、無視したり。
機能させれば非常に素敵な憲法なのに、もったいない。
素敵だし、過激だし(笑)。
日本のような経済大国が、軍隊を持たずに、やっていけるか?
そりゃ、やってみなきゃわからない。
でも、面白そうだ、と、個人的には思ってる。……個人的には思ってるし、私がどう思うか以前に、これは、守らなくちゃいけない約束なんだけれどね。
とにかく、やってみる価値はありそうじゃない?
映画『華氏911』で、大企業のおえらさんたちが、
「戦争は、お金になるねえ」
なーんてカメラに向かって平気でしゃべってるのを観ると、開いた口がふさがらない。本音をぺらぺらしゃべって、やっぱり、イラクの石油目当てだったな、コノヤロー。
(ー_ーメ)
これじゃあ、イラクの人たちはもちろん、死んでいったアメリカ兵も浮かばれないよ。
日本のある新聞は、イラクでの戦争を「正義」とか「悪」とかではなく、国益という観点で推し量るべきだ、なーんて国民に諭してる。
ふええ、民主主義を守るための戦争という大義名分さえ、もはや、どっかいっちゃったんですか?
まあ、正義とか悪とか、定義のはっきりしないテーマでお話するのは、私も苦手。ブッシュに言わせればフセインが悪だし、フセインに言わせれば、これが逆なわけだもの。
国益というモノサシで計って、戦争は割に合ってないというのが、私の意見。
国益を損ねるンだよ、戦争って。
企業は、そりゃ、がぽがぽ稼ぐかもしれないけど。
だけどそれも、極めて短期的なことでしょ?
膨大な資源を浪費してなにするかつうと、都市を壊し、自然環境を破壊し、人間を何万人と殺すの。
結局、そこで示されるのは、人間は自分自身と周囲の生物を絶滅させるだけの実力があるのだということだけ。
そんなこと、広島と長崎に原爆落ちたときにみんな気がついたよ。
そんな証明は、もう、結構。
そろそろ、もっと建設的なことを、証明してみたいよ。
*歌曲『アヴェ・マリア』とデジタル文化*(2004.10.15)
シューベルトの歌曲を聴きたい、聴きたいと思っていたら、あるひとがサラ=ブライトマンのCDを借してくれた。
1曲目がシューベルトの『アヴェ・マリア』だ。サラ=ブライトマンのCDは持っていたけど、『アヴェ・マリア』を歌っていたとは知らなかった。
「アヴェ〜〜〜、マリィ〜〜〜ア〜〜〜」
ひゃあ〜……。
ごっつ、いいです。
このCDはシューベルトとの歌曲集ではなくて、ショパンのエチュードをアレンジしたものや、カタラーニや、プッチーニなど、いろいろな曲の詰め合わせセットになっている。
5曲目は、『アルハンブラの思い出』という曲だ。弟が子どものころにギターで弾いていた曲だ。
音楽と記憶は結びつきやすい。数十年ぶりに聴いても、一瞬で思いだしてしまう。
フランチェスコ=サルトーリというひとが作曲した『Time
To Say Goodbye』は、ワシの大好きな曲。
運命に正面から向きあって立つ人間の崇高さを、この曲に感じるんだな。
乗り越えること、それがかなわなくても耐えること、受け入れること、学ぶこと、人間としてこれ以上の高みがあるだろうか。
力強く、♪ずんたたた、ずんた、ずんたたた、ずんた、ずんたたた、ずんた♪ ……あか〜ん、泣いちまう(笑)。
「たいむ、つう、せえい、ぐっとばあ〜い」
泣いた(笑)。
このCDはひとからお借りしたものだから、返さなくてはならない。
返す前に、MP3におとしたり、CD-Rに焼いたりしてはいけない。
これは違法行為だ。
著作権法違反なのだそうだ。
デジタル音源は、無限にコピー可能だ。永遠にどこまでも、複製が作られる。その複製が世間に大量に出回ることによって、商品そのものの価値が下落してしまう。
売り手の側は、個人の楽しみ以外の目的でコピーするな、友だちにプレゼントするのも駄目だ、あれも違法、これも違法と言うのだが、じっさい複製可能なのだから、違法行為をものともしなければ、いとも簡単に複製をつくることができる。それを防ぐために、音質劣化やその他のさまざまな問題をかかえつつ、コピーコントロールCDなどというものが、商品として消費者に押しつけられたりする。
音楽の価値とは何か? 貨幣経済社会においては、それは、お金でしかない。お金を生み出す音楽が、よい音楽だ。
自慢じゃないが、私は、他人のCDをMP3におとしたり、CD-Rに焼いたりしたことは一度もない。所有していたい音楽は、お金を払って、CDを購入してきた。
音楽をなりわいにしているひとたちが生活できなくなってしまう、と言われれば、確かにそうだろうと思うからだ。
しかし、これはどういう種類の社会なのだろう?
2重3重に張り巡らされたコピープロテクト。
ソフトウェアをインストールしようとすれば、
「このソフトはワンCPUのみ使用許可します。」
などと念を押される。パソコンを2台持っているひとは、ソフトも2パック買えと言うのだ。
しかし、デジタル文化のもっとも革新的な部分は、現在業界でもっとも問題化されている部分、「情報をまったく劣化させることなく、どこまでも複製可能」なところだ。
デジタル世界では、あなたはなにひとつ失わない! 必要としている人たちに、必要としているものを分け与えるのだ! 愛のように。
音楽に限らず、デジタル化の可能なありとあらゆる芸術、ソフトウェア、学問でもいい、それらの情報を、必要としているひとたちの数だけ、簡単にコピーすることができる。
誰もが、誰にでも!
しかし、底なしに与えるという行為は、資本主義の社会では、けっしてゆるされない。それは、犯罪なのだ。
パーソナルコンピュータ登場という革命的事件は、必然として、独占資本と貨幣経済システムを根本から揺るがした。
ジェフ=ラスキン、スティーブ=ウォズニアック、アンディ=ハーツフェルト、ビル=アトキンソン、アラン=ケイ、ブルース=トグナツィーニ……彼らがパーソナルコンピューターに見た夢は、とてつもないものだった!
しかし、みなさんご存知のように、結局、陽は昇らなかったのだ。
陽が昇らなかったということは、ここは夜だということだ。
偉大なパーソナルコンピューターを生みだしたアップル社という土台は、内容という意味においては、もはや、愛について何かを実現しようなどという意識すら持ちあわせてはいない。彼らの理想の影を、衣服のように着飾り、革新、革命といった言葉をもてあそんでいる。
我々はパーソナルコンピューターのパーソナルの意味さえ知らないまま、どういう冗談か、ウインドウズをパーソナルコンピューターと呼んでいるありさまだ。
パーソナルコンピューター!! あれが、パーソナルコンピューターなのか!
彼らの素晴らしい理想が、資本主義の矛盾のなかで見捨てられ、忘れられていくのを、私は見てきた。
無念だが、現実は現実だ。
CDはコピーしない。違法だから。この現実世界では、私も、あなたも、誰でも、お金を稼いで生活しているのだ。
いっぽう、コピーコントロールCDを買うこともしない。
コピーを禁止しなければならない社会というのは、やはりどこかおかしいのだと、私は思っているのだ。
*映画『めぐりあう時間たち』感想文*(2004.10.14)
チェ=ゲバラが映画化されるようだ。
タイトルは『モーターサイクル・ダイアリーズ』だ。
興味があるが、どうもハリウッド映画らしいのが、あやしいんだよなあ。
(^_^;)
2004年現在、ハリウッドがまともな映画を撮れるはずがない、という偏見に満ちた確信は、実体験に基づくものだ。
ハリウッド、イコール、駄作。この黄金のお決まりパターンでばしばし教育され、パブロフの犬のごとく
「あ、ハリウッドか、だめだ」と反射的に判断するようになってしまったのだ。
ハリウッドは、いつからこんなことになってしまったんだろう。
80年代くらいまでか。あのころは、『バタリアン』など、楽しい映画がたくさんあったなあ。
マイケル=ムーア? あのひと、ハリウッドじゃないでしょう。
ともかく、今では、先入観が決定的にこびりついてしまっている。それは私の内部で、ものすごい説得力を持っている。
と言いつつ。
『めぐりあう時間たち』というハリウッド映画を観た。2003年作だ。
言いわけをさせていただくと、私の好きな物語のジャンルとして、“「女性の一生」もの”というのがある。
バーバラ=クーニーの絵本、メイ=サートンの日記、アン=タイラーの小説、とにかくこのジャンルは大注目の名作・傑作がひしめいている。
というわけで、“「女性の一生」もの”というふれこみのこの映画を観る気になった。
「時を越えて企画される3つのパーティーを通し、1932年、1951年、2001年のそれぞれの時間に生きる3人の女性たちの人生を綴る」
という映画の引き文句に、抗しきれなかったのだ。
「それぞれの時間に生きる3人の女性たちの人生を綴る」
こういうようなキーワードに、私はからきし弱い。どうしても……ハリウッド映画にさえ……期待してしまう。
3人の女性たちの人生を綴るわけだから、主人公は3名だ。
まず、1923年、『ダロウェイ夫人』を執筆中の作家ヴァージニア=ウルフ。
次は、1951年、ロサンジェルスで『ダロウェイ夫人』を愛読する妊娠中の主婦ローラ=ブラウン。
最後に2001年、ニューヨークのベテラン編集者クラリッサ=ヴォーン。
ヴァージニア=ウルフ以外は、架空の人物だ。
ちなみに女優陣は、ニコール=キッドマン、ジュリアン=ムーア、メリル=ストリープという豪華な顔触れ。ニコール=キッドマンが、つけ鼻をつけてヴァージニア=ウルフを演じていたのが面白い。
物語は、ヴァージニア=ウルフが残した実在の小説『ダロウェイ夫人』を縦糸に、一見ばらばらな3人の女性たちの物語が語られる。
主人公である3人の女性たちは、それぞれの時代で、各自の奇妙な欲求不満と自己不全感に首までどっぷり浸かっている。
彼女らの欲求不満も自己不全感も、他者と共有できるようなレベルではまったくなくて、だから、各自が各自とも、どうしようもなく孤立してもいる。
彼女たちは、映画の最初から最後まで絶えずめそめそ、めそめそと、不平不満を口にしたり態度にあらわす。しかし、どれだけめそめそしようが、他者と共有できるようなレベルにない不満は、行き場もなく彼女たちの内部でぐるぐると回り続けるだけだ。不満だけがぐるぐると回って、周囲の人たちは誰も理解できず、いつまでも、どこまでも、女性たちはめそめそする。
気に入らないなら、気に入らないでいい。彼女にとってだけ価値のあるなにか、というものも認めるし、尊重すべきだとも思う。自身や自身を支えている生活の土台といったものに、とことん悲観的になったり文句を言ってみたりというような生きかただって、個人の自由といえば自由だ。
自由なのだから、気の済むまで、どうぞご勝手に。
この3人の女性たちには、好きにすれば? としか言ってあげられようがない。
ともかく、三つの時代にまたがるこの壮大な自己憐愍の、物語としてどこに共感すればよいのか、私はそのとっかかりすらつかめなかった。
映画を観賞しているひとの多くは、「彼女たちは何をめそめそしているんだろう?」と違和感を覚えるのではないか?
私は違和感を感じた。
女性の一生という言葉から感じられる肯定的な響きを、作品の内容からはまったく感じることができなかった。
これは、男が描いた“女性の一生もの”と考えれば、一番納得がいくのではないかと、映画を観終わってからひらめいた。
調べれば案の定、原作も脚本も男だ。
ハハン。なるほどね。
ことさらに男、女と、いちいち言いたてるのも馬鹿げているけど、とりあえず、納得はできた。
“女性の一生もの”でこんな作品を撮ってしまうのも、映画というものにからきし無知ハリウッドならではなのかもしれない。
*慇懃無礼に発言いたします*(2004.10.8)
憲法改正、郵政省の民営化、消費税率アップ、水道事業の全面民営化etc.etc。
ろくでもない政策方針を次から次へと湯水のように立案する我が国の連立与党に敬意を表し、今日の日記は慇懃無礼に“ですます”調で参ります。
しかし、長期的展望と市民の暮らしという視点に立てば、自殺行為とも言えるこれらの政策方針ですが、財界には見事、オール5をいただいたようです。
財界にとっては成績優秀政府なのですね。けっこう知られていないようですが、財界の「政党通信簿」は実在しまして、財界から高い評価を得ようと、多くの政治家さんたちは、マニフェスト作りに目を血走らせてはりきっているのです。
おかげさまで、憲法改正から年金制度、自衛隊派兵から老人福祉まで、同時にあちこち火の手が上がるので、こちらとしては、もう根負けしそうです。
もちろん、財界からのマル印は、そのたびごとにふえていくわけですが。
ちなみに私は、選挙のさい、この財界「政党通信簿」の、もっとも成績の悪かった政党に投票することにしています。
これが調べてみると、ほとんどの政党が悲しいことにみな成績優秀で、これじゃあ戦前・戦中の大政翼賛会と変わらないじゃないか、と、暗たんたる気持ちになります。しかし、ものは考えよう。数少ない赤点政党に票を入れればよいわけで、あれこれ迷わずに済むという利点もあったりします(笑)。
理想を言えば、投票に迷うくらいに、成績の悪い政党が増えてくれれば一番なのですが……。
さて、日本の未来のベクトルはせき込むくらいにきな臭いわけですが、中東はきな臭いどころか、大量殺戮と欺瞞の炎がごうごうと燃えさかり、すべてが瓦礫と化そうとしております。
イスラエル軍によるガザへの攻撃は、終わるどころか激しさを増しているようです。
カタールの衛生テレビ、アルジャジーラによると、侵攻による死者約80人、そのうち24人が子どもだとのこと。
たまったものじゃないパレスチナは、いちるの望みをかけ、侵攻中止の決議をしてくれと国連に必死で頼みました。しかし、その小さな希望も、予想どおりアメリカによってひねりつぶされてしまいました。
『ガザ進行中止決議案・米拒否権で否決』
アメリカと日本は、国連の平和的解決案をことごとく潰してしまうので、めためたに嫌われているのですが、ここでもその本領発揮となったわけです。
まあ、アメリカも、自分たちがイラクでやっていることを考えれば、イスラエルにあれこれ言えないというのも、わかります。
ラムズフェルドさんは、
「虐殺と拷問はどっちが合法的なんだ?」
と、まったく意味不明のことを申しております。
あの〜“どっち”とかいう問題じゃないんですけど……。
「イラク人はそのうち殺されるのに飽きるだろう」
などという発言にいたっては、もはや、何度読み返してもまるきり意味がわからないです。
道端や瓦礫の下で死んでいた死体が、突然に伸びをして起き上がり
「あ〜。殺されるのにもそろそろ飽きたな〜」
とか、おちゃめなことを言いだすとでもおっしゃるのでしょうか。
さっぱり意味不明ながら、不愉快なまでにとことん傲慢な姿勢だけは、ひしひしと伝わってきます。さすがアメリカの国防長官です。
私が購読している新聞の一面は、血まみれの子どもたちのカラー写真でありました。
夜であるにもかかわらず、大型ストロボのまぶしい光で、ディールもしっかりと写し出されております。まず、救助隊の医者に抱かれている右端の赤ちゃんは口の周りが血だらけ。その赤ちゃんによりそっているピンクのアニメシャツを着た女の子の右腕もまた、血で真っ赤。そのとなりには、顔面を真っ赤に染めたポニーテールの女の子。左端には、後頭部をべっとりと血で濡らした幼児の後ろ姿……というお写真でございました。
*ディカプリオのファンは『華氏911』を観にいこう*(2004.10.5)
人気歌手のマドンナが、自身のコンサートに来場していたファンに『華氏911』を観にいこうと呼びかけているというニュースを聞きました。
ええニュースや(感動に、ぽろり関西弁)。
ハリウッド俳優のレオナルド=ディカプリオも負けてない。映画『華氏911』を大絶賛し、本人のウェブサイトでも反ブッシュを公言しているのだとか。
さあ、マドンナのファンも、ディカプリオのファンも、その他
ケビン=コスナー、
ロバート=デニーロ、
バーバラ=ストライザンド、
メグ=ライアン、
ウーピー=ゴールドバーグ、
ショーン=ペン、
マーチン=シーン、
ジェニファー=アニストンのファンも、みなして『華氏911』を観にいこう!
明日行こう、とにかく行こう、どういう映画か、とりあえず観ておこう。
百聞は一見に如かず。ぜひぜひ、映画館に足を運んでみてくださりませ。
さて。話は変わって。
マイケル=ムーア推薦図書の『金で買えるアメリカ民主主義』という文庫本を読んだ。
著者はグレッグ=パラストというジャーナリスト。
『金で買えるアメリカ民主主義』か、見事なタイトルだ。
ありとあらゆる人間的価値が貨幣の排泄物になりさがってしまったという薄ら寒い感じが、ここ4・5年私にはずっとあって、この本のタイトル・内容は、まさしく我が意を得たりであった。
『金で買えるアメリカ民主主義』
はっきり言われて、むしろすがすがしいくらい。
民主主義とは理念であり、そもそも本来、アメリカに限らず日本でもどこでも、お金でやり取りなどできないはずなのだが、金“だけ”がものを言う世界では、民主主義にすら価格表がついているのだ。
たとえば、選挙の票などは、もっともお金で買いやすいものだ。
しかし、この本で書かれているのは、それよりももっと大規模な政治的腐敗、腰が抜けるほどの陰謀についてだ。
とにかく、このままでいいわけがない。
グレッグ=パラストはこの本で、私たちに語りかけてる。民主主義をお金で売り買いするなんて、けっしてゆるしてはいけないぞ、と。
マイケル=ムーア監督もそうなんだけれど、グレッグ=パラストも、決してペシミズムやニヒリズムに陥らない。
我々市民に知らされてこなかったさまざまな驚愕すべき事実について、わかりやすく、ユーモアさえまじえながら、説得力たっぷりに語ってくれるの。
基本的にペシミストな私は、感心しっぱなしだ。
そんじょそこらのミステリー小説よりも面白いので、ぜひ、皆さまにもお奨めです。
最後に、不正とあらばアメリカ政府を相手にしても一歩も引かずに物申す、グレッグ=パラストのお言葉をひとことだけ引用しよう。
“自分のクビを危険にさらしてもいけない。それでも、この悲しい地球のために、真実を語ろう。”
重い。ずしりと重い言葉です。
*マイケル=ムーア『華氏911』をみんな観にいこう*(2004.10.3)
『華氏911』もう一度、観にいってきた。
こういう映画は、一度観るよりも二度観たほうが、二度観るよりも三度観たほうが、理解と感動が深まるものだ。
他のぜいたくをちょっとがまんして、出かけてきた。
マイケル=ムーア監督の映画は、真実と、笑いと、勇気を、私の心に与えてくれる。
本当に素晴らしい映画監督だ。
マイケル=ムーア、マイケル=ムーア、マイケル=ムーア、この名前に、感謝の拍手を送りたい。ぱちぱち。
世界は、人類は、いよいよ夜のどんづまり、と呼べるところまで来てしまった。
今日の新聞を見た?
イチローの安打新記録じゃないよ。
「ファルージャ米軍爆撃、一週間で死者30人・女性、子ども含む」
「パレスチナ非常事態宣言、イスラエル戦車200両投入・死者50人、負傷200人」
うわあ、日本でこういうことが起きたと考えてみ? どこかの国が日本を解放するために爆撃して、数十人の死者と、数百人の負傷者の悲鳴……。
おおお。
日本のお偉いさんは何してるの? たとえば、某東京都知事さんなどは、こんな発言を。
「イラク兵を殲滅しろ」
……。
もう、あえてコメントしません。
ただ、どうしてこういうことになったのか、私を含めた有権者の皆さんは、とくと自分の胸に問うてみるように。
こんな世の中、どうすればいい? そこが問題だよね。
みんな、これじゃいけない、何とかしなくちゃと思っているんだけれど、どうしていいかわかんない。
そこで、ムーアだ。
「笑い」だけが世界を変容する力を持つ、と、その昔マーク=トウェインは言った。
マイケル=ムーア監督も、同じことを言う。「笑い」は、知性のひらめきだ。知性を持つものだけが、笑うことができる。
猫と暮らしたことのあるひとは知っているよね、猫だって笑うんだよ。
犬だって、笑う。
人間は、本当に、たくさん、笑う。極めて高度な理解力を持つがゆえに、ひとは、笑うのだ。
笑いと真実。これは、劇薬だ。眠りこけたひとびとを、いっぱつで目覚ませてしまう効果がある。イヤミな上司や、高圧的な教師が、部下や生徒を絶えずミジメにしておこうとするのも、眠りこけた人間のほうが支配しやすいからだよね。
ばっちり目を覚まして、勇気りんりんのひとは、支配するのは難しいんだよね。
「真実を知る」ことと「笑い」を同時に服用すると、それは心の内部で科学反応を起こし、ひとの心に、世界を変えていく勇気を沸き立たせる。
理解・笑い・勇気。それは、光だ。
そのもの自体が悦びだ。
映画を観ているあいだじゅう、私の内部から沸き上がる(テロや戦争というものに対する)悲しみと怒りで、映画館が破裂するんじゃないかとずっと心配だった。
だけど、それは、盲目的な、そのときそのときの気分のようなものに押し流されたような悲しみや怒りではない。
この怒りと悲しみは、現状を変えていかなくちゃいけないという勇気と力の証明であり、私の暗い心に差し込んだ理解の光だ。
映画館は、心斎橋という場所柄からか、若い女の子たちと男の子たちでいっぱいだった。若いひとたちが、こういう名作映画にたくさん足を運んでくれるのは、見ていてなんとも素晴らしい光景だ。
聞いたら、ムーア監督も喜ぶだろうな。
日本中の高校・大学で、この映画を上映すればいい。これから社会を背負っていく若者たちに、最適の映画のはずだ。もう、時間はない。さっそく、実践してはどうだろう。
結局、人類は、夜のどんづまりから転落して、破滅するしかないのかもしれない。
しかし、もしも、新しい生き方が始まって、この瀬戸際をなんとかやり過ごすことができて……、みんながもっと仲良く暮らしていけるようになったら、なんと素晴らしいことだろう。
それは、マイケル=ムーア監督のようなひとたちが、勇気をもって、
「元気だせよ。顔を上げよう。笑おうぜ。私たちの世界を、私たちが変えられないはずないだろ?」
と私たちに声をかけてくれたからだ。
人間とは、かくも偉大な存在になりえるのか。
とにかく、みんなで観にいこう。
行こう、行っとけ、行かなくちゃ、三段活用で、くどいほどお奨めしておく。
ラブ&ピースを実現したら、そのときはムーアさんも呼んで、みんなでお祭りしようよ! そのときは私も飲めない酒をがぶ飲みして、とことんハシャギしたいよ!
*クラッシック音楽なぞ聴いてみたりして*(2004.9.28)
クラッシック音楽CDを購入。
『92ニューイヤー・コンサート』、『シューベルト交響曲8番・未完成』、とどめが『ベートーベン交響曲9番・合唱』の以上3枚である。
ニューイヤー・コンサートは、ウイーンフィルが毎年行なう、年初めの人気コンサートで、一種の縁起物だ。このCDは、その録音盤というわけ。毎年ごとにCDが発売されているのだと思うが、目にとまった“92年もの”を購入。
たくさんの名曲がいっぱいつまっていて、私のような素人も存分に楽しめる、お得なアルバムである。
ワルツがたくさん演奏されるのも嬉しい。
ワルツは、いつ聴いても、どう聴いても、良いものなのだ(笑)。
というわけで、気楽に聴きはじめたのだが、これがすごかった。
これが、ウイーンフィルの底力なのかと、ひたすら感心した。
とりわけ、アンコール演奏の『美しく青きドナウ』は、二の腕鳥肌の、涙ぼろぼろ。
いや、ワルツで泣いた私も私(笑)だが、この演奏はすごいと思う。指揮は、カルロス=クライバーというひとだ。
ちなみに、『美しく青きドナウ』は、実は体制批判・貴族社会批判の曲で、おおっぴらには言えない皮肉や風刺を、作曲者のJ=シュトラウス2世さんが、美しい曲の中にたっぷりとこめているのだそうな。
NHKの教育番組で昔言ってたんだけれど、本当かな?
感動さめやらぬまま、今度はベートーベンだ。
ベートーベンの交響曲は昔、LPレコードでひとそろえ持っていたのだが、世はすっかりCD時代。
ちまちまとCDで買いなおしているところだ。
昔持っていたLPレコード版のベートーベンは、ほとんどカラヤン指揮のものだった。当時住んでいた家の近所の松井楽器店というレコード屋さんに行って、
「ベートーベンで一番いいのください」
と正面から店長にお願いしたところ、カラヤン指揮のものを紹介してくれたのだ。
カラヤンのベートーベンを最初に聴いたときの喜びは、やっぱり、忘れられない。
いやもう、学校の音楽室で聴いた『運命』や『合唱』のレコードとぜんぜん違うのだ!
音楽のこともベートーベンのことも何もわかっていなかったけれど、ともかく、違う、というだけで嬉しかった。子どもながらに、より良いものに触れたという実感があったのね。
流麗で、力強く、全体がひきしまってる。聴いていて思わず手に汗を握る演奏。これがベートーベンか! なるほど、天才だっ! ……まあ、音楽については、本当に、なにひとつわかって言っているわけじゃないんだけれども、そういう印象を受けたわけです。
じゃあ、今回のCDもカラヤンのものを購入すればいいわけだが、カラヤンって、ナチス党員だったんだよね。
そういう政治的理由を音楽に持ち込むのはどうか、という意見もあるだろうが、音楽だって作曲するのは人間だし、演奏だって指揮だって人間がするものだ。
音楽で社会に貢献したから、他は関係ない、というふうに割り切れない私である。
よって、反戦活動家だったバーンスタイン指揮のものを購入。
聴いて、まず、分厚い演奏だなあという印象を受ける。当然のことながら、むかし聴いたカラヤン版ともベーム版とも、学校の音楽室版ともおもむきがちと違う。いえ、わかって言ってるわけじゃないけれど。ずしんずしんと、ハラにきます、ハラに。
地の底から沸き上がってくるかのような演奏、荒々しい力、それと、悦びの光。おお、おおお、これがバーンスタインか。
つーか、これ、すごくいいんじゃないですか。どうですか。音楽は素人なので、もうひとつ自信がなかったりするんですけれども。
聴いて本人が気に入りゃ、それでいいはず、と、ここで開き直ってみる。
ともかく、反戦活動家うんぬんは抜きにして、バーンスタインの『第9』は、聴きごたえたっぷりのCDであった。
ベートーベンらしいマッチョなパワーと、緻密に計算されたスリリングな展開に、襟首つかまれて、ぐりんぐりん振り回されて、ああ、快感(笑)。
圧倒的な力に、もみくちゃにされる快感というのも、あるんだよね。
最後は、シューベルトの『未完成交響曲』。
とてもロマンチックな美しい曲で、輸入版で値段的にお求めやすくなっていたので、購入。
指揮はカルロス=クライバー。
LPレコード時代は、かならずと言っていいほどベートーベンの『交響曲第5番』とカップリングされていた曲だ。あれは、どういうわけだったのだろう?
ちなみに、音楽とは関係ないのだが、未開封・開封の見分けのためか、最近の輸入版のCDは、おそろしくはがしにくいシールがつくようになった。知ってる? アドビのソフトウェア製品などにもついているシールだ。
誰があんなシールを考えたんだろう?
苦労してなんとかはがしても、シールのあとがベトベトしてしまって、もう、音楽を聴くような気分じゃなくなってしまう。
こんな無残の極みのようなシールをわざわざ使用するメリットについてなど、消費者のこちら側としては、推測することすら不可能だ。
無性に腹立たしい。
とにかく、このシールは即刻、地球上から絶滅させて欲しい。
ぜひとも根絶やしに。
輸入版CDのこの悪魔シールをはがしたことが1度でもあるひとなら、私の主張に全面的に同意してくれるはずだ。
あ、シールにすっかり頭にきましたが、肝心の音楽は、やっぱり、素晴らしかったです。
結果として、購入したCDはどれも、以後、大のお気に入りになりそうで、満足、大満足であった。
*愛、それはひぐちアサせんせ作品への愛*(2004.9.27)
『月刊アフタヌーン』を購入。
いい歳こいで、漫画雑誌だ。人気連載『ああっ女神さまっ』の女神フィギアがおまけでついてきた。スクルドという名前の女神さんだ。うちの母がこのフィギアを楽しみにしている。はい、プレゼント。
私のお目当ては、ひぐちアサせんせの連載。
ひぐちアサせんせの漫画が読めて、ああ、今月も何とか生き延びて良かったなあ、と思えるこの瞬間。これぞ、「生きるためのなけなしの理由」というやつか。……かっこよさそうで実はずっこけたコピーもビシリと決まった。
ともかく、ひぐちセンセ、過去作品を含め、ただいま人気爆発中だそうで、嬉しいかぎりです。
『おおきく振りかぶって』、『家族のそれから』、『ヤサシイワタシ』の単行本は、どれも増刷が追いつかず、あちこちの書店で品切れ状態だそうだ。
絵本大学のお友だちからも、『おおきく振りかぶって』の2巻を書店で探したが見つからず、しょんぼりして帰宅することになったとのメールをいただいた。
本物の人気爆発のようですね。
たくさん売れたんだなあ。
そのうちの数十冊は、私がひとりで購入したのである(自称熱烈ファンのささやかな自己顕示欲)。
あー、ひぐちアサせんせの秋葉原でのサイン会も行けばよかったかなあ。
モー、あとさき考えず。
ひぐちアサせんせ(の作品)に対する私の愛を告白する、数少ないチャンスだったんだな、今から考えると。
「好きです、大好きです」
言えりゃあ、本望だ。
しかし、サインもらうために東京に行くっていうのも、お財布的にどうにも厳しいものがある。遠い。やっぱり、東京、ちと遠い。
奈良に来てくれとは言わないけれど、そめて、大阪とか、京都あたりに来てくれたらなあ。
いや、人気爆発でおいそがしいひぐちアサせんせを関西まで呼びつけるなんて、許されることではないのか。あわわわわ。前言撤回。
ひとりで興奮して、なにしゃべってるか、もう、自分でもわからない。
(^-^; )( ;^-^) あわわ
しばし、休憩。
スー、ハー、スー、ハー。
ヽ(≧▽≦)ノ ヽ(。-_-。)ノ
深呼吸。ふう。
『月刊アフタヌーン』には、カラスヤサトシせんせの連載もひっそりと続いている。
雑誌内の、読者コーナーでの不定期連載という扱いだが、これがものすご面白いんだ。単行本化はされるのだろうか?
私は、『遅れてきた癒し系』を読んで以来、カラスヤサトシせんせのファンだ。
作風を分類すると、ギャグマンガということになるんだろうけれど、なんとも、微妙に、せつない感じがいい。
そこはかとない、生きる悲しみ。それが、笑いの根源だっ。
でも、私、最近までカラスヤせんせのことをカラスマだと思ってました。
……ぐはっ。
(;゚; ‐;゚;) あせ、ドプドプ
ファンとして、遺憾の限りです。
*ボローニャ国際絵本原画展2004*(2004.9.25)
西宮市大谷記念美術館の『ボローニャ国際絵本原画展』に行ってきた。
毎年、この原画展を楽しみにしている。駅を降りると、とぎれとぎれの行列ができていて、そのあとをついていくと、ちゃんと大谷記念美術館にたどり着く。
厳しい審査をくぐり抜けた約100名のアーティストたちの描く絵本の原画が、会場には大量に展示してある。
絵本の原画を、いちまいちまい、つぶさに鑑賞していく。
と、ある瞬間から私の心は、この世のどの場所でもない、絵本の時空間へと迷いこむ。スイッチが入るのだ。この、スイッチの入る瞬間が、快感だ。私は鳥のくちばしのべったりとした赤色の中に、世界を凍えさせてしまうような吹雪の風の中に、擬人化された蛙の押す乳母車の中に、とけこんでゆく。
才能のかたまりのようなアーティストたちが、それぞれにあたえられた物語の場面をどのように形にしているか。物語の要所となるべき場面場面が、いわゆる絵本の原画だ。
絵本の原画展を鑑賞する楽しみは、場面から場面を渡り歩く楽しさだ。
どの場面も、渡り歩いて楽しくなるように、徹底的に、創意工夫と時間をたっぷりとかけて作ってある。
展示作品の脇には、それぞれのアーティストのポートレート写真が展示されている。モノクロ写真だ。
毎年のことながら、この写真が、いい。
絵本の絵を描くという不思議な物語の、素晴らしい、主役たちの顔だ。
*マイケル=ムーア監督に広島・長崎の映画を撮ってもらおう*(2004.9.24)
ハル=クレメントの『重力の挑戦』というハードSF小説を読んだ。
地球の700倍もの重力を持つメスクリンという架空の星が舞台だ。
700G!
銃をぶっ放したら、弾が足元にポトッて落ちるんじゃないだろうか……。
その星では、ふたつのハサミを持つムカデのような外観をした、小さな宇宙人たちが暮らしている。身長15インチ。
うわあ、ふんづけそう。
(;^_^ A
この小説は、そのメスクリン人と地球人とのコンタクトものだ。仰天するようなSF的設定にたえず想像力を刺激されながら、非常に楽しい読書の時間を過ごした。
ハードSF小説というだけあり、重力だの、重量だの、光の性質だの、難しい科学の話がちらほら出てくる。小説じたいは読みやすく、科学の解説は読みとばしてもかまわないのだが、それじゃあんまりという気もしたので、弟に優しく解説してもらった。
しかし、とっても優しくわかりやすく教えてくれたのだが、結局わかったような、わからなかったような……。
(^_^;)
弟によると、光って、粒と波の両方の性質を持っていたりするんだって。
ホー。
無重力と自由落下って、オンナジナンダッテ。
へー。
人間は、えらく難しいことを知っているものだと、ひたすら感心した。
人間は、すごい。
本当に、ものしりだ。
イルカも、チンパンジーも、象さんも、ホーキングの宇宙論なんて、絶対知らないはずだ。
地球上では、飛び抜けて頭の良い生き物、それが人間だろう。
……こんなに頭が良いのに、どうしてバカばっかりするのかな。
ここが、なんとも不思議なところだ。
相対性理論とか量子力学なんてものすら、理解することができるんですよ、人間。
なのに……。
21世紀にもなって、資本主義だの自由経済だのと言って、飢え死にしたり、戦争したり。
頭の良いバカ。それが人間なのか。
いや、そういう結論に落ち着けるのが日本人の悪いところだな。
SF小説をもっとたくさん読まんといかんのかもな。
そうそう。バカと言えば。
アメリカのパウエル長官は、
「(大量破壊兵器は)いかなる備蓄も見つかっておらず、将来も見つかりそうもない」
と、とうとうおっしゃいましたね。
はああ?
じゃあなんですか、この戦争は、イラクへのアメリカからのテロだったというわけですか?
え、だって、そういうことになるでしょう。
なりませんか?
フセインは確かに悪いやつかもしれないけれど、アメリカと戦争するつもりもそぶりもなかったわけだし、大量破壊兵器も持ってなかったわけだし、砂漠でフツーに暮らしてただけなのに、ミサイルをばんばん撃ちこんだわけですから。今もって、ひとの土地を軍事力で占領してるんですから。
いや、イラクのひとたちがフツーに暮らしているだけだって言っても、なんやかやとアメリカの気に入らないことはあったんでしょう。もう、一秒たりとも我慢ならないくらい、アメリカとしては気に入らなかったんでしょう。
しかし、それを言うなら、ビン=ラディンひきいるアルカイダだって、アメリカに対して気に入らないことがあったから、旅客機ハイジャックして、センタービルに突っ込んだんですからね。
これ、テロでしょ?
気に入らないから、なんてのは戦争の理由にならないし、理由にしてもいけないんですよ。
テロですよ、これ。
私、間違ったこと言ってますかね。
恐ろしい話ですが、今この瞬間、イラクがアメリカのワシントンに報復ミサイルを撃ち込んだら、これは正当な戦争行為なんですよ。
テロの侵略から自国を守る行為なんですね。
それ、わかってる日本人、どれだけいるかなあ……。
対テロ戦争って、意味わかって言ってる?
こんなこと、はじめるべきじゃなかった。
戦争が戦争を産み、テロがテロを呼ぶ。
私たちは、どえらいことをやらかしてしまったのだ〜。
この期に及んで、日本の某小泉首相は、イラクへの自衛隊派兵延長を表明しましたね。
うわあ。
アメリカの軍事行動にここまでつきあいの良いのは、もう、日本ぐらいだ。
イギリスのブレアさんだって、国民にぶったたかれまくって、しおしお状態だってのに。
二の句がつげません。
国連のアナン事務総長は、自国に有利な“場合にだけ”安保理を利用するアメリカのやりかたに今日も異を唱えております。
「(イラク戦争は)国連憲章に照らして違法だ」と、アナン総長に言われるまでもなく、これくらいは、私にでもわかります。
ハイ。
無重量とか知らなくても、これくらいは、わかるんですよ。
さて。
新聞読むと、不愉快でうんざりなニュースばかり目に飛び込んできますが、たまには、よい話も。
『ボウリング・フォ・コロンバイン』『華氏911』のあのマイケル=ムーア監督に、広島・長崎の原爆の映画を撮ってもらおうという運動があるらしいです。
おおー。
ええ話じゃないですか。
ムーアのベストセラー本『アホの壁inUSA』で、ムーアさんは
“俺はな、君ら(日本人)が世界でただ一国、実際に核攻撃を受け、多数の犠牲者を出した国の国民として、君ら日本人こそが、世界を核のない未来へ導いて行ってくれるのを期待しているんだ”
なーんておっしゃってます。
実際には、あのアポなし取材のスタイルを日本でやるのは難しいだろうなあ、とは思うけれども、でも、運動そのものは、本当に素晴らしいです。
素敵な夢です。
ワシも、署名しよ。
*劇団昴『怒りの葡萄』と『九条の会』大阪講演*(2004.9.19)
昨日は、大阪の中之島中央公会堂で『九条の会』の地方講演があり、劇団昴の『怒りの葡萄』の演劇公演とブッキングしておったんですな。
『九条の会』とは、“日本国憲法の第九条を守っていこう”という趣旨で活動しているあつまりで、井上ひさし氏、小田実氏、澤地久枝氏の三氏がいらしたそうです。
中央公会堂にひとひとひとが集まり、二千二百人のひとたちが会場からあふれ出してしまったそうです。
私は、『怒りの葡萄』の鑑賞のほうに出向いたので、聞いた話ですが。
みんな、平和を願っているんですよね。
しかし、こういうブッキングは、なんとも残念で、口惜しいかぎりです。
私が出向いた『怒りの葡萄』のほうですが、ラスト1時間半は、泣いて泣いて泣きどおし。
あー、いいもん観せてもらった。
隣の席では、弟が、おうおうと嗚咽しながら、ひたすら感涙しておった。
(ρД;)オウオウ
こういう素晴らしい芸術作品は、もっともっと多くのひとに観てもらいたいですね。
日本全国の高校生に観てもらうとか。いいアイデアだと思う。
教育委員会のみなさま、いかがでしょう?
帰りの駅のホームで、行列に並んで電車を待ちながら、
「ここに並んでるひとみんな、『怒りの葡萄』観てないんだなあ」
と思うと、なんつーか、すごくもったいない気がしたんだよね。
*劇団昴『怒りの葡萄』大阪公演*(2004.9.17)
演劇はほとんど観ない私だが、劇団昴公演の『怒りの葡萄』となると、話しは別だ。大阪公演の実現は、あきらめていただけに、心から嬉しい。
私は、東京で一度、この『怒りの葡萄』を観劇している。だからこそ、躊躇することなく、
「この機会を見逃すな」
と言うことができる。
つまり、東京で観たそれは、とんでもない傑作だったのだ。
『怒りの葡萄』が大阪に来る。観れる。
私は、この日が来るのを何年待ったことだろう。
公演は9月17日と18日の2日きりだ。18日のほうに、私は行く。
この演劇を東京で観たのは、あれは4年前だったか。
劇団昴にお友だちがいて、当時、彼に安いチケットを回してもらったのだ(持つべきものはお友だち)。
そして仰天した。
「演劇ってこんなに面白いものだったの!」
観賞し終わってすぐに、昴のお友だちに、私は興奮して尋ねた。
「いや、ぼくも、こんなに素晴らしいのは初めてです」
お友だちはそう答えた。
ふええ。
当の劇団員がこう言うんだもん、私がシビれるのも当然だわな。
問題は、料金のほうだ。一般で7200円。
う〜む。
7200円は、けっして安いとは言えないが、それでも観ておく価値は絶対にある、とだけ申しておこう。
いや、本当に凄いんだって。
ヨドバシカメラで映画『セプテンバー11』のDVDを購入し、観た。
この映画はオムニバスだ。世界各地の有能な監督たち11人が、それぞれ1作品ずつを『セプテンバー11』の企画のために制作し、提供した。小説で言うと短編作品集のようなものだ。
サミラ=マフマルバフ、ケン=ローチ、クロード=ルルージュ、ダニス=タノヴィッチ、ユーセフ=シャヒーン……世界中の映画監督たちが撮るのは、彼らにとっての9月11日だ。
このオムニバス映画は、日本の監督も参加している。
全体としては1作品のみを例外とし(具体的な監督名は記述せずにおきますね)、どれも本当に見事な出来ばえの傑作ぞろいだった。
イギリス代表のケン=ローチ、イラン代表のサミラ=マフマルバフは、やはり素晴らしい。
ボスニア・ヘルツェゴビナ代表のダニス=タノヴィッチ、まったくの初見だが、ものすごい映像美だ。タルコフスキーの再来ではないか、と、そんな大それた考えが頭をよぎった。まるで宗教画を見るような美しさであった。
エジプト代表のユーセフ=シャヒーンも、世界という巨大で複雑なものを正面からしっかりと受け止める、感心するばかりの力作を作っていた。エジプト政府はかなりの親米で、こんなに過激な内容の映画を撮って大丈夫かいな、と心配するくらいだ。
そして、何よりも私が感動したのは、世界の監督たちがみな、ニューヨークでのあの9月11日が何だったのかを、深く勉強し、考えうるもっともグローバルな視点から眺めなおし、きっちり理解していたという事実だ。
一部作品を除いては(笑)。
この1作品においては、自国の外側から9月11日を見つめるという姿勢も感じられず、狭い主観の中で自己完結し、自分自身についてだけを世界に向かって一方的に語りかけ、それですべてが終わってしまった印象だ。
狭い主観にひきこもったまま、その外側の世界に関心を持たないことからおきる現状認識のずれは、世界の見事な10作品の中に放り込まれたとき、ある種のこっけいさ、トンチンカンさのようなものだけを印象として残した。
それは、なんとも異様な光景で、これほどまでに異様であれば、この異様さも、この映画のひとつの見どころだと言えるくらいだ。
世界を代表する傑作短編映画10作品と、世界とはなんら関係のない短編映画1作という、そんなDVDであった。
*映画『華氏911』観てきました*(2004.9.12)
映画を観てきた。
マイケル=ムーア監督作品『華氏911』だ。
すべての現代人が、観ておくべき映画だと思った。
だから、観た。
「現実」が大好きな日本人は、特に観ておくべき映画だと思う。非常に、お勧めだ。この映画は、現実がいっぱいだ。
いわゆる“9.11”の現実、そして、イラクの戦争の現実。
“のれる”音楽をCDプレイヤーでがんがん鳴らしながら、病院や学校に戦車砲をぶっ放すとどういうことになるか、それがどういうことなのか、私たちは、現実のほんの一端にだけでも、触れるべきだ。
この映画を、度を越したプロパガンダ映画だと非難するメディアは多い。
しかし、ありとあらゆることが実はプロパガンダだ。イラクの住宅街が月面みたいにボコボコになるまで爆撃することを、正義の戦争、自由と民主主義の戦争、と主張することも、同じようにプロパガンダだ。この映画だけがプロパガンダ的だと非難されるのは、極めて不当だろう。
けっきょく、ときの権力機構の都合の悪いことを赤裸々に語っているというにすぎないのだ。
プロパガンダとプロパガンダのぶつかり合い?
そんなことには関心はない。私たちが受け入れようとする現実は、いったいどういう種類の現実なのか? それだけが重要だ。
イラクは世界第2位の石油産出国だ。そして、私たちの生活は石油を膨大に消費することで成り立っている。石油が欲しい。あの、石油が何としても欲しい。しかし、フセインが邪魔だ。だから、難癖をつけて戦争を仕掛けて、石油をいただいちまおうぜ。
私たちがイラクでやっていることをひとことで要約すれば、こういうことになる。
正義も自由も、民主主義もなんの関係もない。あるのは、石油、だ。
うそっぱちの、汚いやり方だ、と、そういうふうに、私個人は思っている。
国連の職員の中には、
「イラクで行われているこれは、民族虐殺だ」
と言っている人もいる。
でも、もう、何も言うまい。
映画を観て、何を感じるかは、人それぞれだろう。とにかく、喫茶店に入るのを3度ほど我慢して、浮いたお金でこの映画を観て欲しいと、この映画に感銘を受けたひとりとして、この日記を読んでいるかたがたに申し上げておきたい。
*マンガ『ヤサシイワタシ』さらに購入*(2004.9.11)
ひぐちアサせんせのマンガ作品『ヤサシイワタシ』をまた買ってしまった。
うちにはいったい、何冊の『ヤサシイワタシ』があるのだろう……。
(;^-^ゞ
すきすき、愛してる。だから、何度でも購入してしまう。
耐えきれないほどの絶望の底をのたうちながら、それでも、最後の最後まで自分自身の喪失感と苦悩から目をそらさなかった主人公・芹生(セリウ)くんが大好きだ。
主人公・芹生くんは、本当に頭のいい、優しい男の子。相手の立場を理解し、世界観を積極的に共有し、建設的であろうといつも努力している。
他人にお説教するときだって、
「あんたは あんたの方法で 勝ってきたんだろうけど」
などという素晴らしい枕詞がつく子だ。
そんな彼が、
「死んでもよかった」
と言うときは、これは、本当に非常事態だ。
明日を生きる意欲さえ失った彼の
「もう やめてもいいのか まだ 耐えられるのか」
という声にならない慟哭。
「やりすごしてよ それは ナシなんだよ」
という、中学生・澄緒ちゃんの必死の願い。
複雑な家庭に生まれた澄緒ちゃんの個人的な怒りと悲しみが、芹生くんの空虚感をともなう深い絶望と共鳴しあったとき、願うその声は、ほとんど悲鳴に近いものだ。
「オレは なんで 耐えてるんだ」
誰も、この芹生くんの問いに答えることはできない。少なくとも、肯定的な答えを用意することは誰にもできない。(エセ宗教家や、偽物政治家だけが、この問いに答える)。
だから、芹生くんは声には出さず、むせび泣きながら、ひたすら自らに問う。
「オレは なんで 耐えてるんだ」
という問いかけだけがいつも残る。答えはない。いつだって、誰だって、生きているかぎりは、そうなのだ。生きるとは、なんと容赦のない事象なのだろう。それを考えたとき、私は足がすくむ。決定されたものなど、なにひとつない。重い重い問いかけだけが、宙ぶらりんなまま、いつもそこにある。
耐える理由は、本当には、ない。
生きる理由など、私の前に用意されてなどいない。
あるのは、芹生くんの日常であり、生きているということの不思議さであり、作者のひぐちアサせんせがマンガ作品の中で語りたがっているある種の実感だ。
……。
とと。
興奮して、ネタバラシしそうだ。
(;^-^ゞ
生きていることの不思議さ、今日ここにいることの輝き……。世界がそうやって存在することの鮮烈さ……。消えていくこと……。
「やりすごしてよ それは ナシなんだよ」
という、澄緒ちゃんの言葉の、切ないまでの重さ。
「私は光を見た〜!!(感動のあまり、突然発作)」
(;^-^ゞ
理由というものを越えて、人生をまるごと肯定しようとするひぐちアサせんせの姿勢に、私はひたすらコウベをたれる。
……ひぐちアサせんせによれば、生きるとは、理由を越えた何かなのだ。
うおお。
一日3回、ひぐちアサせんせを思い出すことを日課とし、私は今日もひとりご満悦だ。
物置にある段ボール箱をあさっていると、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』というCDが出てきた。
我が家における整理整頓の有無とは、段ボールにとりあえず詰め込んであるか、それとも、部屋じゅうのあちこちに放り投げてあるかのいずれかをさす。
本来の意味での“整理”でも“整頓”でもない。
ドビュッシーのこの曲は、ロマンチックで、かっこよくて、大好きな一枚だ。大好きと言いながら、段ボールに詰め込んで何年も忘れていた。
本当に、いい加減なやつですね。
*映画の好み*(2004.9.2)
「DVDコレクションの中から面白い映画を見せて」
と母親に言われたので『エヴァとステファンとすてきな家族』を紹介したら、これが予想どおり、どえらく不評であった。
退屈だわ、肩がこるわ、目がチカチカするわ、頭にくるわ、許せないわ、信じられないわ、血圧上がるわ、その他、胃のもたれ、倦怠、くしゃみ、鼻水、鼻詰まりというような諸症状が発症して、いやあ、怒る、怒る。
確かに私が悪かった。
“なんじゃ、こりゃ”と感じるだろうと予測できていたわけだから。そういう映画を紹介するとはひどい話で、本当にすまなかった。
言いわけさせていただくと、私はこの映画を素晴らしい傑作だと感じてて、傑作は何と言おうと傑作なのだから、胸を張って紹介してもいいだろう、という理屈だったのだ。
観てみれば
「こいつう〜、意外とわかるじゃないか」
という結末になるんじゃないかと。
カアチャン、信じられないかもしれないけれど、実際に傑作なんだよ。しかし、まあ、感動を共有できないのは仕方がない。
『エヴァとステファンとすてきな家族』は、結果としてはやっぱり過激すぎました。正直なところ、チャレンジャーすぎました。
アッバス=キアロスタミの『クローズアップ』、サミラ=マフマルバフ『りんご』、マイケル=ムーア『ビッグ・ワン』を緊急上映。
これらの作品には非常に満足していただけて、ほっと一安心。
『クローズアップ』を鑑賞しながら「おう、おう」と泣く母の姿に、私の罪悪感も少しだけ解消された。
『エヴァとステファンとすてきな家族』は、私の理想がつまっていると言ってもいい作品だ。私が人間というものに抱いている希望のすべてがここにある。
私たちは、これから新しい時代を作り出さなくてはいけない。もうまったなしだ。「新しい」とは、これまでに存在したことのない理性的な生き方をはじめるということだ。全世界が真剣に取り組もうとしていること、もしくは取り組むべきこと、それをひとことで言いあらわすとすれば、ラブ&ピース。……もう少しだけ具体的な言葉に言い直すと、協調と依存、となるのだと思う。
そうした新しいやり方に積極的に適合していこうという姿勢を、私たち地球市民のひとりひとりが、はっきり行動で示すときがきたのだと、『エヴァとステファンとすてきな家族』のような映画を観ると、痛烈に感じるのだ。
しかし、地元スウェーデンの3人にひとりが鑑賞したこの映画も、日本人的感覚で観ると、「仰天至極の変人大集合・たこ部屋物語」つー感じになってしまうのかもなあ。
注目すべきはそこじゃないと思うけれども、まあ、どっちにしても、あまり肯定的な反応はなかなか返ってきそうにない気がする。
ラブ&ピース。協調と依存。アメリカも日本も、国家として、そうした生き方にまったく興味を示さない。私たちは、いつまでも、ナンバーワンとその腰ぎんちゃくでいたいのだ。
それは、とてつもなく気持ちのいいものだから。
ラブ&ピースは、実践するにはあまりにも面倒くさい生き方だ。だから、私たちの言うラブも平和も、現実とはなんの接点も持たない、消費生活に貼り付ける便利なレッテルでしかない。
スウェーデンのひとたち、……少なくともこの映画を撮った関係者やそれを肯定的に鑑賞したひとたち……は、ラブ&ピース、もしくは協調と依存という生き方の、当事者なのだ。
*ノートに書きとったメモから*(2004.9.1)
本を読んでいて、ハッとするような言葉やせりふ、カッコイイ言い回しに出会ったりすると、私は、気に入ったその一節を手じかにあるノートに書きつけておいたりすることがある。
なんとまあ、まめまめしい几帳面な性格だろうと感心してくれなくても結構。いつも、というわけではなくて、ある種の克己心のようなものが盛り上がっているときに、発作的に書きつけているだけなのである。
問題は……、書きつけたノートを紛失してしまうことだ。
2、3ページ書き込んではノートごと紛失し、また新しいノートを取りだして、また紛失し……。幼児の遊びみたいなもので、その場かぎり夢中になって、それっきりなのである。
そんなノートは、積み重ねた紙の束のなかからときおりひょこっり出てきて、私を驚かす。
おー、こんな本を読んでいたかと、なつかしく読んで、2、3日後にはまたどこかへ紛失してしまう。
歓喜よ! 美しい天上の火花よ! 歓喜の楽園の娘よ!
これは、ベートーベンの交響曲9番『合唱』の一節。
毎年、年の暮れに1万人の合唱隊がドイツ語で朗々と歌っていたあれだ(今もやっているのかな)。
私にはドイツ語がさっぱりわからない。しかし、それでも音楽はすごいもので、ベートーベンが何を言いたがっているのかは、聴いていてちゃんとわかる。
歓喜よ! 美しい天上の火花よ! と……わかるんだな、これが。
ちなみにベートーベンは、この交響曲の中で“人類よ、さあ、みなして手をつなごうや(ウソ訳)”とも言っている。
もちろんドイツ語で。
それと、音楽を使ってだ。
人類はまた抑制する才能ももたなければならない
ノートには肝心の引用元が書いてない。えーと。なんだこれは。
うーん。アシモフの短編小説だったかなあ……。まあ、SF小説だったことだけは確かだ。
“人類はまた抑制する才能ももたなければならない”
いいせりふだ。
あくなき前進とつきることのない成長。しかし、人類はいまこそ、自らを抑制する能力を持たなくてはいけないんだよね、いや、ごもっとも。
いまの私たちは地球の癌細胞だ。白血病だ。人間以外のすべての生命にとって、非常に危険で厄介な存在だ。
地球の癌細胞……そんなのヤダ。
地球の鼻毛とか、地球の毛細血管とか、そういう役どころにおちつきたい。なんでもいい、癌細胞は、だめだ。周囲の正常な細胞を食い尽くして、とうとう自分までおっちんじまうような、間抜けな細胞はいやだ。
私たちは一秒でも早く、新しい生き方をはじめなくてはならない、その事実を、私は多くのSF小説から学ぶ。
「わたしたちは解放されたんだ。完全に解き放たれたんだ。テナー、あんたも感じるだろ?」
これは、アーシュラ=K=ル=グウィンのファンタジー連作『ゲド戦記』のうち、2巻目の『こわれた腕環』からの引用。
まだ読んでない人に申し訳ないと感じつつ、ネタばらしを少しだけすると、『ゲド戦記』の2巻は、人間の解放、“自由への脱出”がテーマになっている。
偉大な魔法使いである主人公ゲドは、2巻では登場していきなり、洞窟に閉じこめられてしまっている。洞窟は、それ自体が、入り組んだ巨大迷路となっている。
暗やみの洞窟内の行く手はいくつにも枝分かれし、そこからさらに分岐し、位置感覚をマヒさせるために複雑に蛇行する。懸命なゲドの出口を探す努力も、ここでは体力をひたすらに消耗させるだけだ。しかも、洞窟に潜む得体のしれない悪意のようなものにがんじがらめにされてしまい、まったく身動きができなくなってしまう。
絶体絶命。
魔法の力をもってしても、彼を閉じこめている洞窟から脱出することは不可能なのだ。
……テナーというひとりの少女の力を借りなければ。
ゲドとテナーが力を合わせ、一歩ずつ進んでいく自由への足取り。それは、男と女が、お互いの強いパートナーシップに支えられつつたちむかう、長く苦しく、もっともエキサイティングな冒険だ。
危険な洞窟内の迷路をはいつくばりながら、自由への光を求めるひとくみの男と女が、手をとりあって見いだす自由と解放への道程は、そのストーリー自体がきわめてシンボリックで、感動的なまでに象徴的だ。
ちなみに、アメリカではゲド戦記をドラマ化する計画が進行しているようなのだが、なんと主役の俳優が白人男性なのだそうだ!
原作をどう読んでも、ゲドは白人ではないんだが。
肌の黒い魔法使いがいたら、そんなにまずいのでスカ。
『時計じかけのオレンジ』
『タクシードライバー』
『アメリカン・ドリーム』
『フープ・ドリームズ』
『ソフィーの選択』
『ラメリカ』
『ドゥ・ザ・ライト・シング』
『ジョニーは戦場へ行った』
『サルバドル』
『アメリカン・ショブ』
『ゆきゆきて、神軍』
なんだこりゃ、映画のタイトルじゃん(笑)。
これは、マイケル=ムーアの『アホの壁 in USA』から、マイケル=ムーアのお勧め映画一覧だ。おー、お勧め映画に『サルバドル』が入ってるんだなあ、また観たくなってきた。
一緒に競技場をビクトリー・ランしながら、大いなる矛盾の解消にとりかかろうじゃないか。左翼の国でありながら、右翼がすべてを支配しているという矛盾の解消に。
マイケル=ムーアの『おい、ブッシュ、世界を返せ!』から。
“左翼の国でありながら、右翼がすべてを支配している”国とは、もちろんアメリカ合衆国のことだ。
日本もアメリカも不思議な国。戦争嫌いで、弱い者いじめを否定し、平和と自由を愛する変わり者がうじゃうじゃいる国なのに、どういうわけか一部の右翼保守連合が牛耳っちゃってる。
「アカ」というレッテルをはられるのが怖いんだ、みんな。
戦争反対、環境保全、子どもたちに教育を! なんておおっぴらに言っちゃたら、立派な「アカ」だもん。
会社に出勤できなくなってしまう。
というわけで大多数であるはずの私たちは、肩身狭く、自分の考えが他人に知られないようにこそこそと暮してる。
けったいな話だ。
気も滅入ってくる。
しかしながら、ムーアのビクトリー・ランというアイデアは、非常に気に入った。
おいらたちは戦争・汚職・金権政治・貧困・病気・環境破壊・エトセトラエトセトラが大嫌いなんだ。もう一度、そこにたちかえろう。
ビクトリー・ランしたいよ、私は。
歓喜よ! 美しい天上の火花よ! オーオー
湾岸戦争はほんとうの戦争だったのだろうか、と僕は思う。生きた敵兵とその国を相手におこなった実弾演習のような、きわめて変則的な戦争ではなかったのか。
片岡義男氏の『日本語の外へ』から。
劣化ウラン弾で、敵どころか味方も甲状腺ガン。実戦ならではの貴重なデーターがとれました。
イラクは将来、子どもたちのほとんどを癌で失うだろうと言われているそうな。
やんや、やんや。
神様がわしらを塩の柱にするのはいつのことでしょうか? 北海道の雪祭りみたいにみえるだろうな。
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